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死に様データベース
《事故死》 《1421年》 《9月》 《24日》 《享年不明》


伏見大光明寺(現京都市伏見区)の僧。

応永28年(1421)9月18日夜、
酒を飲み、したたかに酔った僧某は、
縁で足を踏み外し、その際に陰嚢を強く打った。
それ以来、健康を崩し、
24日暁、円寂。


酒には気をつけられたい。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
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昨年10月末の開設以来、1年と数ヶ月、
ようやく、当ブログは中世人100人の死を看取るに至りました。
区切りとして、
これまでの感想などをとどめておきたいと思います。


権力者など、名のある人の死は、
足利義持同義勝西園寺実兼などのように、
病死でも、病状の一進一退が克明に描かれています。
これらの情報が、その人の周辺で流布され、
人々に注目されていたのです。
同時代の人々が、これらを日記に逐一記していることは、
現代と同じく、
中世人が、情報を価値ある重要なものと認識していたことを教えてくれます。


しかし、
そこは中世、
軋轢や相克による死、暗殺・謀殺の類も多くあります。
当ブログでは、区別が難しいため、「誅殺

」の項に含めましたが、
岩松満純のような、敗れた末の刑死、
あるいは、
山川八郎のような、見せしめとしての刑死のほか、
本折主計允楊梅兼英斎藤筑前入道のような暗殺、
太田道灌高橋四郎唐橋在数などの主人によるお手打ちも、数多くあります。
軋轢や対立が、殺人でしか解決できないほど、
のっぴきならないものになっていたことが、うかがえます。
そして、
それらを、殺人という方法で自力で解決する選択が、
中世人によって度々とられていたことも、うかがえます。
“自力救済の時代”といわれる中世の一面を示しています。


また、
美乃北野社僧某らの、闘諍の死、
酒の席での喧嘩の末という、坊門信守町野淳康の例もあります。
現代と異なり、武器が身近にあった中世ならでは、と言えましょうか。
ことに、酔って喧嘩して死ぬなど、
もはや、無駄死にというほかないような死に様です。
彼らも、刀剣類を携行していなければ、
死なずに済んだかもしれません。

一方で、
公家という支配者層でありながら、困窮の上の死という、
裏辻実秀中院通守のような例もあります。
受け皿も救済措置もない時代、
一度つまづけば、あとは死に至るしかない、
そんな時代像を映す死といえます。


死を、他人があからさまな形で様々に利用するのも、
中世の特色かもしれません。
三条尹子のような、政治的に利用される死や、
斯波義教五井兵庫頭玄任のように、
宗教的に語られたり、利用されたりする死も多くあります。
渋川伊予守のように、「~だから死んだのだ」というような、
現代からみれば非科学的な因果関係が、
死の周辺には、常にまとわりついていたのです。

赤松政則葉室光忠のように、
死んでまで批判を受ける人も多々。
「不謹慎」を楯に人々の言動を封じる、現代的な死をめぐる過剰な“自粛”
とは、また違った、
ドライな中世人の生死観がうかがえます。


そして、
中世人、特に武士のイメージとして何ともリアルなのは、
山内経之野本朝行の姿でしょう。
戦場を騎馬で駆けめぐるような、勇壮な武士のイメージとはほど遠い、
他者の死に苦悩し、自己の死に対して諦観するという、
人間としてのリアルな姿が、そこにはあります。
いつの時代とて、戦争が人々に忌避されるものであったことを、
吾々に教えてくれます。


というわけで、
100死の総括ともならない話でしたが、
今後も、中世人の死に際データベースの構築を目指して、
ぽちぽちと更新してゆきますので、
何卒ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。


なお、
時代が南北朝・室町期に偏っているのは、
当ブログが筆者の史料めくりの副産物である、
という位置付けによります。
ご了承ください。
《自害》 《1424年》 《8月》 《4日》 《享年不明》


内裏の御湯殿に仕えていた


この内裏に仕えていた某男は、
応永31年(1424)のある日、
同じ内裏の典侍局に仕える某女に艶書を送った。
ところが、
これが称光天皇の目に触れ、天皇は激怒。
は逐電した。

怒り収まらぬ天皇は、
「本人がいないのならば父が腹を切れ」と厳命。

父に自分の身代わりになることは、さすがにいたたまれなかったか、
8月4日、は内裏に帰り、切腹。

女は出家させられた。


中世は恋も命がけ。



〔参考〕
『史料纂集 兼宣公記 第2』 (八木書店 2012年)
《誅殺》 《1450年》 《9月》 《1日》 《享年62歳》


美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
(文安期の越前守利藤=越前入道宗円と同一人物か。)


文安元年(1444)閏6月、
斎藤筑前入道は、
同僚でライバルの美濃守護代富島高景を殺害し、
自ら後釜の守護代職におさまった。

その後も、病気の主土岐持益を担いで、富島方を圧倒し、
威勢を振るっていた。


宝徳2年(1450)9月1日、
朔日の礼に、山名持豊のもとに出向いた帰路、
京都の近衛油小路にて「横死」(『康富記』)
暗殺と見て間違いなかろう。
62歳であったという。

中原康富は、
『孟子』より「出於己者、帰於己者、」と引いて、
その報いを、冷ややかに見ている。


背景には、
惣領山名持豊と伯耆守護山名教之の不仲という、
別の大名家の一族抗争もからんでいたらしい。
政治史的に見れば、
こうした家々をまたいだ複雑な連携と対立の所産が、
応仁・文明の乱の勃発であったのである。



〔参考〕
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 8』 (岩波書店 1978年)
『大日本古記録 建内記 9』 (岩波書店 1982年)
《自害》 《1444年》 《閏6月》 《20日》 《享年不明》


文安元年(1444)閏6月19日、
備中守護細川氏久の家臣葉室某が、
能登守護畠山義忠の家臣伊葉某に殺害されるという事件がおきた。

怒った細川側は、伊葉相応の人物の身柄の引渡しを要求。
応じない畠山側に対して、
細川家人らは、畠山家人宅に押し寄せ、
夜、京都の中御門京極辺で喧嘩に発展した。

管領畠山持国は、
騒乱の張本人伊葉本人の切腹をもって、事態を収めることとし、
細川側も納得して、退散。

翌20日、
伊葉切腹。


スピード解決。



〔参考〕
『増補史料大成 38 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』(講談社 2006年)
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