死に様データベース
《誅殺》 《1444年》 《閏6月》 《19日》 《享年不明》
美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
「豊島」「戸島」などとも表記される。
当時、
富島一族は、主家土岐氏と係争中で、
室町幕府に訴えるなどしていたが、
一向に解決しなかったという。
また、
主人土岐持益が精神異常をきたしていたため、
富島氏が出仕を怠っていたともいう。
根幹にはどうやら、富島氏と斎藤氏という、
土岐氏被官内部の対立があったらしい。
文安元年(1444)閏6月19日午の刻(正午0時頃)、
美濃守護土岐持益は、
自邸にて守護代の富島高景を誅殺した。
下手人は同僚の斎藤筑前入道。
報復として、親類の富島八郎左衛門尉は、
土岐氏家臣の掴・石河・久富3人を、自宅に拉致して、刺し殺し、
火を放って本国美濃へ落ちていった。
7月10日、
富島一族は、近江勢を味方につけて、
美濃へ討ち入り、土岐方と合戦。
土岐勢36人、一族4人を討ち取った。
対する土岐方もだまっておらず、
8月7日、
土岐持益は軍勢を率いて美濃に下向。
美濃・近江国境付近は、富島方が封鎖していたため、
伊賀・伊勢経由で美濃に入った。
なお、持益は病気による心神耗弱の状態にあったらしい。
9月になっても争いはやまず、
6日と10日には、
富島勢が土岐方の斎藤氏の居館に攻め寄せた。
暴走する家臣と、それを制御できない主家。
ぐずぐずと応仁・文明の乱に突入していくのの一端。
〔参考〕
『増補史料大成 38 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
「豊島」「戸島」などとも表記される。
当時、
富島一族は、主家土岐氏と係争中で、
室町幕府に訴えるなどしていたが、
一向に解決しなかったという。
また、
主人土岐持益が精神異常をきたしていたため、
富島氏が出仕を怠っていたともいう。
根幹にはどうやら、富島氏と斎藤氏という、
土岐氏被官内部の対立があったらしい。
文安元年(1444)閏6月19日午の刻(正午0時頃)、
美濃守護土岐持益は、
自邸にて守護代の富島高景を誅殺した。
下手人は同僚の斎藤筑前入道。
報復として、親類の富島八郎左衛門尉は、
土岐氏家臣の掴・石河・久富3人を、自宅に拉致して、刺し殺し、
火を放って本国美濃へ落ちていった。
7月10日、
富島一族は、近江勢を味方につけて、
美濃へ討ち入り、土岐方と合戦。
土岐勢36人、一族4人を討ち取った。
対する土岐方もだまっておらず、
8月7日、
土岐持益は軍勢を率いて美濃に下向。
美濃・近江国境付近は、富島方が封鎖していたため、
伊賀・伊勢経由で美濃に入った。
なお、持益は病気による心神耗弱の状態にあったらしい。
9月になっても争いはやまず、
6日と10日には、
富島勢が土岐方の斎藤氏の居館に攻め寄せた。
暴走する家臣と、それを制御できない主家。
ぐずぐずと応仁・文明の乱に突入していくのの一端。
〔参考〕
『増補史料大成 38 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
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《戦死》 《1380年》 《5月》 《16日》 《享年31歳》
北関東の雄族宇都宮氏の当主。
父氏綱は、将軍足利尊氏に重用されて、
越後・上野守護を務めたが、
のち、鎌倉公方足利基氏に叛して両職を罷免され、
本領下野宇都宮に逼塞した。
だが、
この本領下野国内では、それなりの勢力を保っており、
所領を接する守護小山義政との競合は、避けえなかった。
康暦2年(1380)、
宇都宮基綱と小山義政は、ついに武力衝突するに至る。
5月16日、
下野裳原にて、両軍は激突。
相当な激戦であったらしく、
小山方では、
一族の大内入道父子、
家臣の幸嶋・志筑・秦内氏ら、200余人が討死。
一方の宇都宮方では、
戦死者80余人と数の上では少なかったが、
その中には、当主基綱が含まれていた。
その他、
有力家臣の芳賀・岡本・船生氏らが討死。
この事態は、京都でも、
「以てのほかの大儀なり。」(『迎陽記』)
と受け止められた。
辛くも勝利を収めた小山義政であったが、
これを私戦と見て怒った鎌倉公方足利氏満は、
6月1日、
東国中に義政追討を命令。
ここに、17年続く小山氏の乱が始まる。
〔参考〕
杉山一弥「小山義政の乱にみる室町幕府と鎌倉府」 (『栃木県立文書館研究紀要』14 2010年)
江田郁夫編『下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2011年)
北関東の雄族宇都宮氏の当主。
父氏綱は、将軍足利尊氏に重用されて、
越後・上野守護を務めたが、
のち、鎌倉公方足利基氏に叛して両職を罷免され、
本領下野宇都宮に逼塞した。
だが、
この本領下野国内では、それなりの勢力を保っており、
所領を接する守護小山義政との競合は、避けえなかった。
康暦2年(1380)、
宇都宮基綱と小山義政は、ついに武力衝突するに至る。
5月16日、
下野裳原にて、両軍は激突。
相当な激戦であったらしく、
小山方では、
一族の大内入道父子、
家臣の幸嶋・志筑・秦内氏ら、200余人が討死。
一方の宇都宮方では、
戦死者80余人と数の上では少なかったが、
その中には、当主基綱が含まれていた。
その他、
有力家臣の芳賀・岡本・船生氏らが討死。
この事態は、京都でも、
「以てのほかの大儀なり。」(『迎陽記』)
と受け止められた。
辛くも勝利を収めた小山義政であったが、
これを私戦と見て怒った鎌倉公方足利氏満は、
6月1日、
東国中に義政追討を命令。
ここに、17年続く小山氏の乱が始まる。
〔参考〕
杉山一弥「小山義政の乱にみる室町幕府と鎌倉府」 (『栃木県立文書館研究紀要』14 2010年)
江田郁夫編『下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2011年)
当ブログでは、
たびたび、歴史資料や古典文学作品を引用しております。
引用にあたっては、
資料の放つ歴史的な雰囲気を感じていただきたいため、
原資料のままとしたいところですが、
原文のままでは、
特殊な表現や難解な読み方、聞きなれない言葉が多くて、
なかなか読みづらい。
そこで、
当ブログでは、基本的に、
原文を、字の返りを読み様に正し、送り仮名を補った、
読み下し文を掲げております。
さらに、
読み下し文でも難解なものは、
現代語訳で掲げております。
これら、読み下し文と現代語訳は、
作者本人の解釈によるものです。
ご了承ください。
誤りなどありましたら、
コメント等でご指摘いただければ幸いです。
また、
参考にした刊本は、参考文献とともに末尾〔参考〕欄に掲げております。
原文の気になる方は、どうぞご参照ください。
たびたび、歴史資料や古典文学作品を引用しております。
引用にあたっては、
資料の放つ歴史的な雰囲気を感じていただきたいため、
原資料のままとしたいところですが、
原文のままでは、
特殊な表現や難解な読み方、聞きなれない言葉が多くて、
なかなか読みづらい。
そこで、
当ブログでは、基本的に、
原文を、字の返りを読み様に正し、送り仮名を補った、
読み下し文を掲げております。
さらに、
読み下し文でも難解なものは、
現代語訳で掲げております。
これら、読み下し文と現代語訳は、
作者本人の解釈によるものです。
ご了承ください。
誤りなどありましたら、
コメント等でご指摘いただければ幸いです。
また、
参考にした刊本は、参考文献とともに末尾〔参考〕欄に掲げております。
原文の気になる方は、どうぞご参照ください。
《病死》 《1443年》 《7月》 《21日》 《享年10歳》
第7代室町幕府将軍。
足利義勝は、
嘉吉元年(1441)6月の父義教の横死により、
管領細川持之らに擁されて、8歳で将軍となった。
嘉吉3年(1443)7月12日、
義勝、赤痢発病。
16日には、食事のできぬほどに悪化したが、
翌17日、医師和気茂成の献じた秘薬によって、やや回復。
医師茂成の見立てによれば、
腹の痢病自体は治まりつつあるが、
「邪気」がひどく、回復を妨げているという。
その「邪気」の正体というのが、
父義教によって殺された人々の怨霊であり、
一色義貫や足利持氏、赤松満祐らの怨霊が、義教から7代後までとり殺す、
ということであった。
19日は、容態は比較的安定していたが、
20日、危篤に陥り、下血。
21日明け方、没。
わずか10歳。
雷が激しく鳴り、雨がひどく降る日であったという。
23日、
遺骸は足利家の菩提寺等持院に移され、
29日晩、荼毘。
称号は慶雲院、道号栄山、法名道春。
利発な性格であり、将来を嘱望されていただけに、
みな悲歎に暮れた。
烏丸資任が養育していた弟三春(のちの義政)が、
早々に後継者に定められた。
この後、将軍邸や大名家、寺社で奇怪なことが相次ぐ。
石清水八幡宮の大木が、風もないのに倒れた。
山名持豊の厩の馬がものを言った。
京極持清邸の畳の上に蔬が生えた。
常在光院に一色義貫の亡霊が現れた。
管領畠山持国の厩の馬がものを言い、烏に食いついた。
特に、将軍邸には、
身長7尺ばかり(約210cm)の女房や大入道、人食い妖怪が徘徊し、
女中も番衆も、とても暮らしておれず、
別の地に新たに御所を造営することになった。
頻発する火事や、慢性的な飢饉、悪党の跋扈等、
洛中には終末感が漂っている。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
第7代室町幕府将軍。
足利義勝は、
嘉吉元年(1441)6月の父義教の横死により、
管領細川持之らに擁されて、8歳で将軍となった。
嘉吉3年(1443)7月12日、
義勝、赤痢発病。
16日には、食事のできぬほどに悪化したが、
翌17日、医師和気茂成の献じた秘薬によって、やや回復。
医師茂成の見立てによれば、
腹の痢病自体は治まりつつあるが、
「邪気」がひどく、回復を妨げているという。
その「邪気」の正体というのが、
父義教によって殺された人々の怨霊であり、
一色義貫や足利持氏、赤松満祐らの怨霊が、義教から7代後までとり殺す、
ということであった。
19日は、容態は比較的安定していたが、
20日、危篤に陥り、下血。
21日明け方、没。
わずか10歳。
雷が激しく鳴り、雨がひどく降る日であったという。
23日、
遺骸は足利家の菩提寺等持院に移され、
29日晩、荼毘。
称号は慶雲院、道号栄山、法名道春。
利発な性格であり、将来を嘱望されていただけに、
みな悲歎に暮れた。
烏丸資任が養育していた弟三春(のちの義政)が、
早々に後継者に定められた。
この後、将軍邸や大名家、寺社で奇怪なことが相次ぐ。
石清水八幡宮の大木が、風もないのに倒れた。
山名持豊の厩の馬がものを言った。
京極持清邸の畳の上に蔬が生えた。
常在光院に一色義貫の亡霊が現れた。
管領畠山持国の厩の馬がものを言い、烏に食いついた。
特に、将軍邸には、
身長7尺ばかり(約210cm)の女房や大入道、人食い妖怪が徘徊し、
女中も番衆も、とても暮らしておれず、
別の地に新たに御所を造営することになった。
頻発する火事や、慢性的な飢饉、悪党の跋扈等、
洛中には終末感が漂っている。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
《誅殺》 《1441年》 《6月》 《24日》 《享年48歳》
第6代室町幕府将軍。
3代将軍義満の庶子として、はじめ僧籍に入れられたが、
後継者を決めぬまま室町殿足利義持が世を去った後、
神前でのくじ引きによって決められた、希代の将軍である。
その自負、あるいは負い目からか、
政治へ意欲的に取り組んだが、
徐々に、気に食わぬ者は罰するという、「万人恐怖」の政治へ傾いていった。
公家・武家・僧を問わず、
この将軍足利義教によって、
討たれた者、所領を召し上げられた者、放逐された者、籠居を余儀なくされた者は、
数知れない。
嘉吉元年(1441)6月24日、
雨の降るこの日の未の斜め(午後3時頃)、
義教は、播磨・美作・備前守護赤松満祐の子教康に、
結城合戦の戦勝祝いとして招かれ、その屋形に赴いた。
管領細川持之をはじめ、諸大名がこれに相伴した。
前日の23日
義教の腰刀が鞘走った。
他のものに取り替えさせたが、
またこれも鞘走った。
このことに、義教はたいそう腹を立てたというが、
これが不吉の兆しであったらしい。
一献ニ献と盃を重ね、猿楽が始まろうという時分、
にわかに屋敷内に騒ぎが起こった。
義教が、
「何事ぞ」
と周囲に尋ねると、
そばにいた正親町三条実雅が、
「雷鳴でしょうか」
と答えた。
その途端、
義教の背後の障子が、がらりと開いて、
武装した武士が数十人飛び出し、
たちまちに義教を討ち取ってしまった。
公家の三条実雅は、
引き出物として御前にあった金覆輪の太刀を引き抜き、防戦したが、
転倒して斬り伏せられた。
山名煕貴は、防戦のすえ、討死。
細川持春も、腰刀で防戦したが、
片腕を斬り落とされ、赤松邸を脱出。
同じく抜刀、防戦し、負傷した大内持世・京極高数・遠山某は、
帰邸したところで、絶命。
細川持之・持常・一色教親・赤松貞村らは、闘わずして逃走。
そのほか、人々は右往左往して逃げ惑い、
義教の御前で殉じる者はいなかったという。
「将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かざることなり。」(『看聞日記』)
「次討たれるのは自分だ」という危惧から、この所業に及んだらしい赤松一族は、
屋敷での一戦を覚悟したが、
諸大名のうちで、これを討とうというものはなかった。
それゆえ、
彼らは自邸に火を放ち、
義教の首を抱えて、悠々と洛中を抜け、
本国播磨へ下っていった。
義教の死骸は、翌25日、焼け跡より探し出され、
等持院へ移されたのち、
7月1日、荼毘。
首は、摂津中嶋に置き捨てられたものを、拾ってきたらしい。
6月26日、
義教に嫌われて罰せられていた人々の赦免があり、
ようやく幕府軍が、赤松討伐の途につくのは、
7月11日のこと。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
今谷明『籤引き将軍足利義教』 (講談社 2003年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
第6代室町幕府将軍。
3代将軍義満の庶子として、はじめ僧籍に入れられたが、
後継者を決めぬまま室町殿足利義持が世を去った後、
神前でのくじ引きによって決められた、希代の将軍である。
その自負、あるいは負い目からか、
政治へ意欲的に取り組んだが、
徐々に、気に食わぬ者は罰するという、「万人恐怖」の政治へ傾いていった。
公家・武家・僧を問わず、
この将軍足利義教によって、
討たれた者、所領を召し上げられた者、放逐された者、籠居を余儀なくされた者は、
数知れない。
嘉吉元年(1441)6月24日、
雨の降るこの日の未の斜め(午後3時頃)、
義教は、播磨・美作・備前守護赤松満祐の子教康に、
結城合戦の戦勝祝いとして招かれ、その屋形に赴いた。
管領細川持之をはじめ、諸大名がこれに相伴した。
前日の23日
義教の腰刀が鞘走った。
他のものに取り替えさせたが、
またこれも鞘走った。
このことに、義教はたいそう腹を立てたというが、
これが不吉の兆しであったらしい。
一献ニ献と盃を重ね、猿楽が始まろうという時分、
にわかに屋敷内に騒ぎが起こった。
義教が、
「何事ぞ」
と周囲に尋ねると、
そばにいた正親町三条実雅が、
「雷鳴でしょうか」
と答えた。
その途端、
義教の背後の障子が、がらりと開いて、
武装した武士が数十人飛び出し、
たちまちに義教を討ち取ってしまった。
公家の三条実雅は、
引き出物として御前にあった金覆輪の太刀を引き抜き、防戦したが、
転倒して斬り伏せられた。
山名煕貴は、防戦のすえ、討死。
細川持春も、腰刀で防戦したが、
片腕を斬り落とされ、赤松邸を脱出。
同じく抜刀、防戦し、負傷した大内持世・京極高数・遠山某は、
帰邸したところで、絶命。
細川持之・持常・一色教親・赤松貞村らは、闘わずして逃走。
そのほか、人々は右往左往して逃げ惑い、
義教の御前で殉じる者はいなかったという。
「将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かざることなり。」(『看聞日記』)
「次討たれるのは自分だ」という危惧から、この所業に及んだらしい赤松一族は、
屋敷での一戦を覚悟したが、
諸大名のうちで、これを討とうというものはなかった。
それゆえ、
彼らは自邸に火を放ち、
義教の首を抱えて、悠々と洛中を抜け、
本国播磨へ下っていった。
義教の死骸は、翌25日、焼け跡より探し出され、
等持院へ移されたのち、
7月1日、荼毘。
首は、摂津中嶋に置き捨てられたものを、拾ってきたらしい。
6月26日、
義教に嫌われて罰せられていた人々の赦免があり、
ようやく幕府軍が、赤松討伐の途につくのは、
7月11日のこと。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
今谷明『籤引き将軍足利義教』 (講談社 2003年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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