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死に様データベース
《病死》 《1351年》 《9月》 《6日》 《享年49歳》


一品、式部卿。
亀山法皇と昭訓門院瑛子の皇子。


大覚寺統の祖亀山院の末子として、
乾元2年(1303)5月9日に生まれた恒明親王は、
父の寵愛を一身に受けた。
おりしも、
持明院統と大覚寺統の対立が、
鎌倉幕府も巻き込んで、激化していく時期であった。

嘉元3年(1305)9月、
死に臨んで亀山院は、
恒明の立太子を、後宇多院と持明院統の伏見院に了承させ、
後見に、伯父(瑛子の兄)で関東申次の西園寺公衡を立てた。


こうして、大覚寺統の継嗣に立てられた恒明であったが、
しかし、
恒明の異母兄後宇多院は、立太子の約束を履行しようとせず、
後二条天皇の父として、政権を握り続けた。
皇統と政権の移動をねらう持明院統は、
対抗上、恒明を立てて、後宇多院を非難。
恒明の後見西園寺公衡も、後宇多院と対立し、
その所領を没収されて、籠居を余儀なくされた。
皇統のさらなる分裂を危ぶむ幕府は、
明瞭な対応をすることもなかった。

利用される恒明は、
わずか5歳。


ところが、
徳治3年(1308)8月、
後宇多院の息後二条天皇が皇位についたまま若くして没すると、
持明院統の東宮富仁親王が践祚(花園天皇)、
政権は、大覚寺統から持明院統に移った。

こうして、
意外にも早く目標が達成された持明院統にとって、
もはや恒明を推す必要はなく、
新たな東宮には、後宇多院の次男尊治親王が立てられた。
恒明は、皇位継承候補から外されてしまったのである。


文保2年(1318)2月、
持明院統の花園天皇は譲位し、
大覚寺統の尊治が践祚(後醍醐天皇)、
後醍醐の父後宇多院が院政を開始し、
東宮に、大覚寺統の邦良親王(後二条天皇の皇子)が立てられた。
この交代劇は、
一般に「文保の和談」として知られるが、
「和談」とは言い様、実際は後宇多院のゴリ押しであった。


この年の末、
悲運の恒明は、元服。
16歳。

異母兄後宇多院に、立太子を阻まれた恒明は、
持明院統の仏事に参列したり、
持明院統の後伏見院や花園院のもとに、度々参仕して、
和歌や蹴鞠に興じている。



ところがところが、
嘉暦元年(1326)、
今度は、東宮邦良が早世したことで、
恒明が、再び歴史の表舞台に登場する。
というのも、
邦良に代わる新たな東宮として、
 ①尊良親王(大覚寺統、後醍醐天皇の皇子)
 ②邦省親王(大覚寺統、故後二条院の皇子、故邦良の同母弟)
 ③恒明親王(大覚寺統、故亀山院の皇子)
 ④量仁親王(持明院統、後伏見院の皇子)
の4名が、候補に立てられたのである。
恒明はすでに、24歳に達していた。

4名には、それぞれ擁立する勢力がつき、
いずれも、しきりに幕府に働きかけたが、
最終的に幕府が選んだのは、
持明院統の④量仁であった。
両統迭立の原則が、守られたのである。


不運に対する慰めなのか、
翌嘉暦2年(1327)、恒明は二品に叙されている。



やがて、時代は、
加速する後醍醐天皇の討幕計画とともに、
きな臭さを増してゆくが、
政治の世界から遠ざけられた恒明が、
どのように過ごしていたのかは、知り難い。

ただ、
甥の後醍醐天皇とも、仲は悪くなかったようで、
建武政権のなった翌年の建武元年(1334)正月、
恒明は一品に叙されている。

その後は、戦場に出ることもあったようで、
延元元年(1336)6月には、
南朝方の大将として、足利尊氏と戦い、
その攻撃を防いだとされる、
が、詳しいことは定かではない。


間もなく、戦場からは身を引いて、
大覚寺統でありながら、吉野へは赴かず、
京都に留まり、内裏の近くに住した。


年来、食が細くなっていた恒明は、
観応2年(1351)4月頃より、その病が悪化していた。
9月3日、危篤に陥り、
4日、出家、
6日巳の刻(午前10時頃)、逝去。
49歳。


その出自ゆえ、
たびたび政争に巻き込まれながらも、
本人はどこか、いたって飄々と過ごしてきたように思われる。

恒明の歌として、次のものがあるが、
長じても冷めやらぬ皇位への夢を、読み取るべきだろうか。

 はかなくも猶さめやらでしたふかなみはてざりつる夢の名残を (『新千載和歌集』)


なお、子孫は常盤井宮家として、
室町期まで存続。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十五』 (1917)
『太平記 3 日本古典文学大系 36』 (岩波書店 1962)
森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))』 (講談社 2005年)
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《誅殺》 《1177年》 《7月》 《9日》 《享年40歳》


正二位、権大納言。

父は、鳥羽院の寵臣藤原家成。
自身も後白河院の寵臣として権勢をふるった。
男色関係にあったともされる。


平治の乱では、
藤原信頼に加担して、平氏と敵対したが、
妹が平重盛(清盛の嫡男)の妻であったこともあって、
死罪は免れ、解官のみで赦された。

その後も、
延暦寺衆徒の訴えなどにより、たびたび解官・配流されたが、
そのつど、後白河院の保護により、復任。

しかし、
平氏一族に昇進を阻まれるなど、
急速に伸張する平氏の圧迫に堪えかね、
安元3年(1177)、
ついに、後白河院の近臣西光や俊寛らと、平氏打倒の密謀をなした。
宴席で、倒れた瓶子を平氏に見たてて、
その首を折り割るなどしたらしい。


だが、
その一見は、たちまちのうちに清盛の耳に入ってしまった。

6月1日、
藤原成親は、清盛に呼び出されて、
露顕したとも知らずに赴いた。
公卿の座にいた平重盛・頼盛に対し、
「何事でしょうか、
 お召しがあったので、参りました。」
と言って、奥に入っていったところ、
待ち構えていた平氏の郎党平盛俊に組み伏せられ、縛り上げられて、
部屋に押し込められたのである。

驚いた重盛は、部屋越しに、
「お命ばかりは、私重盛が申し受けます」
と、義兄成親を励ましたという。


西光も同日、清盛に捕えられ、
拷問のすえ、梟首。


翌2日、
成親は、備前国へ流罪。
18日、解官。
重盛は、配流先の成親へ、衣類を送るなど援助していたが、
7月9日、死去。
食事を与えられずに、殺害されたという。



〔参考〕
『日本古典文学大系 86 愚管抄』 (岩波書店 1967年)
『新訂増補国史大系 11 日本紀略後編・百錬抄』 (吉川弘文館 1929年)
五味文彦『平清盛 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2009年)
『国史大辞典 12 ふ-ほ』 (吉川弘文館 1991年)
《病死》 《1321年》 《6月》 《23日》 《享年不明》


正二位、前参議・式部大輔。


菅原在兼は、学者として、
伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐天皇の5代にわたって、
侍読をつとめた。


元亨元年(1321)、6月23日、没。
70歳前後であったらしい。


人物と、その死の衝撃については、
『花園天皇宸記』に詳しい。

 文の衰微、道の陵夷、歎いて余りあり。
 ああ命なる哉命なる哉。
 但し齢七旬に及び、官八座に至る。
 一門の長者、五代の帝師なり。
 栄分満足、恨むところなきものか。
 
 諸人いわく、高才の人なり。
 尤も神慮に叶うべきのところ、
 長者以後三年に及ばず。
 未だ先例なし。
 第二、忠長卿無才無能を説くべからず。
 ただ飲酒を以って業をなすものなり。
 しかるに在兼逝去。
 忠長長者たり。
 神慮疑いあり。
 天道不審と云々。
 予もって然らず。
 死生命あり。
 神道奈命何、
 陰陽不測のものなり。
 凡慮をもって神道を察し難し。 (『花園天皇宸記』)
 ・・・

優秀な人物であり、
栄達も恵まれたようだが、
後継者にはめぐまれなかったらしい。


花園天皇の悲嘆は、翌日もやまない。

 なお在兼卿のこと悲歎無極。
 風月文遊の席、誰をもって師たるか。
 思慕止むなし。
 よって興遊を止め、遊逸に臨まず。
 慟哭余りあるものなり。 (『花園天皇宸記』)


やや大げさな気がしなくもない。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
《病死》 《1322年》 《11月》 《8日》 《享年不明》



正親町実明の娘。
のち、祖父洞院公守の養女となる。
伏見・後伏見両天皇の侍女。
従三位。


洞院宗子は、幼少より伏見天皇に侍女として仕えて、その寵愛を受け、
同天皇出家後には、後伏見上皇の寵愛をも受けて、
文保元年(1317)の伏見上皇崩御後、
後伏見上皇の侍女となった。

伏見天皇との間には、
寛胤法親王・道煕法親王らをもうけている。


元亨2年(1322)11月8日朝、
宗子は産気付き、
後伏見上皇の御所を退出し、某所に移った
だが、
亥の刻(夜10時頃)、流産。
母体も危うく、
子の刻の終り(深夜1時頃)、逝去。

「眼前の無常、もっとも悲歎に足る。
 上皇(後伏見)殊に哀慟せしめ給う。」(『花園天皇宸記』)


佳人薄命。


翌元亨3年(1323)11月、
一周忌にあわせて、
後伏見上皇の命により、宗子の肖像画が作成された。
彩色もほどこされたその出来栄えは、
あたかも対面しているようであり、
上皇も大いに喜んだという。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
《自害》 《1418年》 《2月》 《10日》 《享年42歳》


正二位、権大納言。


応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。

しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。

かくして、通守は、
 とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
 かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。

10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。


この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。


27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
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