死に様データベース
《自害》 《1443年》 《9月》 《22日》 《享年不明》
石見守護山名教清の若党。
嘉吉3年(1443)9月22日、
山名教清は、鞍馬参詣に行く。
家人たちは、市原野坂で主人を迎える準備をして、待っていたところ、
地元の郷民たちが、鹿狩りをしており、
手負いの鹿が、家人たちのもとへ走り込んできた。
家人たちは、これ幸いと鹿を自分たちのものにしようとしたが、
一矢射かけた郷民たちが、許すはずもない。
口論はたちまちに過熱して、射合いの喧嘩になった。
その戦闘で、
教清の一の若党村田某が、射られ、
その場で切腹。
息子も、射殺された。
死者は5人、怪我人は数十人にのぼったという。
怒った山名方は、惣領持豊を中心に一族数百騎が馳せ向かい、
さらには、あろうことか、
細川勝元・土岐持益・赤松貞村・大河内満政・有馬満弘・六角持綱や、
幕府奉行人たちが、これに加担し、
市原野に攻め込んで、家々を焼き払い、
日暮れまで郷民たちと合戦した。
その様は、
「大名大勢馳せ集まり、希代の見物と云々。」(『看聞日記』)
この、幕閣や将軍近習など権力者の手による所業に、
「併しながら天魔の所為か。」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想も、無理はない。
将軍の相次ぐ死、
頻発する徳政一揆、
そして、この2日後に禁闕の変。
混乱した時代を象徴する事件のひとつ。
なお、
当の山名教清は、
鞍馬の人々のおかげで、無事に帰京したとか。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞日記 下』(続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
石見守護山名教清の若党。
嘉吉3年(1443)9月22日、
山名教清は、鞍馬参詣に行く。
家人たちは、市原野坂で主人を迎える準備をして、待っていたところ、
地元の郷民たちが、鹿狩りをしており、
手負いの鹿が、家人たちのもとへ走り込んできた。
家人たちは、これ幸いと鹿を自分たちのものにしようとしたが、
一矢射かけた郷民たちが、許すはずもない。
口論はたちまちに過熱して、射合いの喧嘩になった。
その戦闘で、
教清の一の若党村田某が、射られ、
その場で切腹。
息子も、射殺された。
死者は5人、怪我人は数十人にのぼったという。
怒った山名方は、惣領持豊を中心に一族数百騎が馳せ向かい、
さらには、あろうことか、
細川勝元・土岐持益・赤松貞村・大河内満政・有馬満弘・六角持綱や、
幕府奉行人たちが、これに加担し、
市原野に攻め込んで、家々を焼き払い、
日暮れまで郷民たちと合戦した。
その様は、
「大名大勢馳せ集まり、希代の見物と云々。」(『看聞日記』)
この、幕閣や将軍近習など権力者の手による所業に、
「併しながら天魔の所為か。」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想も、無理はない。
将軍の相次ぐ死、
頻発する徳政一揆、
そして、この2日後に禁闕の変。
混乱した時代を象徴する事件のひとつ。
なお、
当の山名教清は、
鞍馬の人々のおかげで、無事に帰京したとか。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞日記 下』(続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
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《自害》 《1333年》 《5月》 《9日》 《享年28歳》
六波羅探題北方、
信濃守護。
元徳2年(1330)末、
北条仲時は、上洛して六波羅探題北方に就任。
最初の討幕計画に失敗した後醍醐天皇が、
再び討幕の意を強くしている頃であった。
翌元徳3・元弘元年(1331)、
後醍醐天皇が2度目の討幕計画を起こすに及び、
笠置山に籠った後醍醐天皇を捕えて、鎌倉幕府の命により隠岐に流した。
その後、
畿内山岳部でゲリラを続ける楠木正成・護良親王らの討伐に当たった。
だが、
時代の趨勢は倒幕に傾き、
翌年には、山陰・山陽・四国・九州で反幕府勢力の挙兵が相次ぐ。
元弘3・正慶2年(1333)、
彼らに迎えられて、後醍醐天皇、隠岐脱出。
こうした危機的状況に、
鎌倉幕府は、足利高氏(のち尊氏)らに大軍をつけて、
関東から西へ遣わす。
しかし、
その高氏も、丹波篠村にて幕府より離反、
踵を返して、
播磨の赤松則村らとともに、京都への進軍を開始する。
元弘3年(1333)5月7日、
仲時と六波羅探題南方の北条時益は、洛中で反幕府軍と合戦し、敗北。
ここに、六波羅探題は崩壊する。
反幕府軍の入京を許した仲時と時益は、
持明院統の光厳天皇・後伏見・花園両上皇を奉じて、
鎌倉を目指すこととした。
しかし、
その日の夜、時益戦死。
仲時らが目指した関東であったが、
おりしもその8日、
新田義貞・足利千寿丸(尊氏の子、のちの義詮)らが上野新田荘で挙兵。
軍勢を増やしながら、鎌倉に向けて南下を始めているところであった。
京都脱出に成功した仲時は、
関東の状況など知る由もなく、鎌倉を目指して東山道を東へ急いだ。
だが、9日、
近江番場宿に来たところで、
再び、行く手を反幕府勢力に阻まれる。
しかも、
後陣の佐々木時信は、敵軍に投降してしまう。
前後の敵に進退窮まった仲時は、
番場蓮華寺にて、一族・家臣・同僚ら432人とともに自害。
仲時、28歳。
越後守仲時、暫し時信を遅しと待ち給いけるが、
待つ期過ぎて時移りければ、
さては時信も早敵に成りにけり。
今はいづくへか引き返し、いづくまでか落つべきなれば、
爽やかに腹を切らんずるものをと、
中々一途に心を取り定めて、
気色涼しくぞ見えける。
その時軍勢どもに向かって宣いけるは、
「武運漸く傾いて、当家の滅亡近きにあるべしと見給いながら、
弓矢の名を重んじ、日頃の好を忘れずして、
これまでつきまとい給える志、
中々申すことばはなかるべし。
その報謝の思い深しといえども、一家の運すでに尽きぬれば、
何をもってかこれを報ずべき。
今は我かたがたのために自害をして、
生前の報恩を死後に報ぜんと存ずるなり。
仲時不肖なりといえども、平氏一類の名を揚ぐる身なれば、
敵ども定めて我が首をもって、千戸侯にも募りぬらん。
早く仲時が首をとって源氏の手に渡し、
咎を補うて忠に備え給え。」
と、いいはてざることばの下に、
鎧脱いでおしはだ脱ぎ、腹かき切って伏し給う。
糟谷三郎宗秋これを見て、
泪の鎧の袖にかかりけるをおさえて、
「宗秋こそまず自害して、
冥途の御先をも仕らんと存じ候いつるに、
先立たせ給いぬることこそ口惜しけれ。
今生にては命を際の御先途を見はてまいらせつ。
冥途なればとて見放し奉るべきにあらず。
暫く御待ち候え。
死出の山の御伴申候わん。」
とて、越後守の、つか口まで腹に突き立ておかれたる刀を取って、
己が腹に突き立て、仲時の膝に抱きつき、
うつぶしにこそ伏したりけれ。
これをはじめて、
佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・
(この間151名略)・愛多義中務丞・子息弥次郎、これら宗徒の者として、
都合四百三十二人、同時に腹をぞ切ったりける。
血はその身を浸して、あたかも黄河の流れのごとくなり。
死骸は庭に充満して、屠所の肉に異ならず。 (『太平記』)
「蓮華寺過去帳」には、
彼らの名前が記されている。
一部、年齢の記されている者のなかでは、
最も若くして、問注所阿子光丸、14歳、
年長の者で、糟屋弥次郎入道明翁、64歳。
老若430余名の同時自害。
中世を代表する、最も印象的な死のひとつ。
〔参考〕
竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 41』 (東京堂出版 1990年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
小林一岳『元寇と南北朝の動乱 (日本中世の歴史4)
』 (吉川弘文館 2009年)
六波羅探題北方、
信濃守護。
元徳2年(1330)末、
北条仲時は、上洛して六波羅探題北方に就任。
最初の討幕計画に失敗した後醍醐天皇が、
再び討幕の意を強くしている頃であった。
翌元徳3・元弘元年(1331)、
後醍醐天皇が2度目の討幕計画を起こすに及び、
笠置山に籠った後醍醐天皇を捕えて、鎌倉幕府の命により隠岐に流した。
その後、
畿内山岳部でゲリラを続ける楠木正成・護良親王らの討伐に当たった。
だが、
時代の趨勢は倒幕に傾き、
翌年には、山陰・山陽・四国・九州で反幕府勢力の挙兵が相次ぐ。
元弘3・正慶2年(1333)、
彼らに迎えられて、後醍醐天皇、隠岐脱出。
こうした危機的状況に、
鎌倉幕府は、足利高氏(のち尊氏)らに大軍をつけて、
関東から西へ遣わす。
しかし、
その高氏も、丹波篠村にて幕府より離反、
踵を返して、
播磨の赤松則村らとともに、京都への進軍を開始する。
元弘3年(1333)5月7日、
仲時と六波羅探題南方の北条時益は、洛中で反幕府軍と合戦し、敗北。
ここに、六波羅探題は崩壊する。
反幕府軍の入京を許した仲時と時益は、
持明院統の光厳天皇・後伏見・花園両上皇を奉じて、
鎌倉を目指すこととした。
しかし、
その日の夜、時益戦死。
仲時らが目指した関東であったが、
おりしもその8日、
新田義貞・足利千寿丸(尊氏の子、のちの義詮)らが上野新田荘で挙兵。
軍勢を増やしながら、鎌倉に向けて南下を始めているところであった。
京都脱出に成功した仲時は、
関東の状況など知る由もなく、鎌倉を目指して東山道を東へ急いだ。
だが、9日、
近江番場宿に来たところで、
再び、行く手を反幕府勢力に阻まれる。
しかも、
後陣の佐々木時信は、敵軍に投降してしまう。
前後の敵に進退窮まった仲時は、
番場蓮華寺にて、一族・家臣・同僚ら432人とともに自害。
仲時、28歳。
越後守仲時、暫し時信を遅しと待ち給いけるが、
待つ期過ぎて時移りければ、
さては時信も早敵に成りにけり。
今はいづくへか引き返し、いづくまでか落つべきなれば、
爽やかに腹を切らんずるものをと、
中々一途に心を取り定めて、
気色涼しくぞ見えける。
その時軍勢どもに向かって宣いけるは、
「武運漸く傾いて、当家の滅亡近きにあるべしと見給いながら、
弓矢の名を重んじ、日頃の好を忘れずして、
これまでつきまとい給える志、
中々申すことばはなかるべし。
その報謝の思い深しといえども、一家の運すでに尽きぬれば、
何をもってかこれを報ずべき。
今は我かたがたのために自害をして、
生前の報恩を死後に報ぜんと存ずるなり。
仲時不肖なりといえども、平氏一類の名を揚ぐる身なれば、
敵ども定めて我が首をもって、千戸侯にも募りぬらん。
早く仲時が首をとって源氏の手に渡し、
咎を補うて忠に備え給え。」
と、いいはてざることばの下に、
鎧脱いでおしはだ脱ぎ、腹かき切って伏し給う。
糟谷三郎宗秋これを見て、
泪の鎧の袖にかかりけるをおさえて、
「宗秋こそまず自害して、
冥途の御先をも仕らんと存じ候いつるに、
先立たせ給いぬることこそ口惜しけれ。
今生にては命を際の御先途を見はてまいらせつ。
冥途なればとて見放し奉るべきにあらず。
暫く御待ち候え。
死出の山の御伴申候わん。」
とて、越後守の、つか口まで腹に突き立ておかれたる刀を取って、
己が腹に突き立て、仲時の膝に抱きつき、
うつぶしにこそ伏したりけれ。
これをはじめて、
佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・
(この間151名略)・愛多義中務丞・子息弥次郎、これら宗徒の者として、
都合四百三十二人、同時に腹をぞ切ったりける。
血はその身を浸して、あたかも黄河の流れのごとくなり。
死骸は庭に充満して、屠所の肉に異ならず。 (『太平記』)
「蓮華寺過去帳」には、
彼らの名前が記されている。
一部、年齢の記されている者のなかでは、
最も若くして、問注所阿子光丸、14歳、
年長の者で、糟屋弥次郎入道明翁、64歳。
老若430余名の同時自害。
中世を代表する、最も印象的な死のひとつ。
〔参考〕
竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 41』 (東京堂出版 1990年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
小林一岳『元寇と南北朝の動乱 (日本中世の歴史4)
《病死》 《1442年》 《8月》 《4日》 《享年43歳》
前管領。
摂津・丹波・讃岐・土佐守護。
兄持元の早世により、
永享元年(1429)7月、細川持之は30歳にして家督を継ぐ。
同年10月、管領斯波義淳の辞職を受けて、
同職に就任。
将軍足利義教を支えた。
しかし、
畠山満家・斯波義淳・満済・山名時煕ら宿老たちの相次ぐ死に、
持之ら若い幕閣は、義教を抑えることができず、
その暴走を許すこととなった。
そのため、
義教による公家・武家の粛清が度重なり、
また、懸案の鎌倉公方足利持氏との武力衝突を回避できず、
最終的に、
嘉吉元年(1441)の義教自身の横死へとつながった。
管領持之は、
将軍不在の紛糾する幕府をまとめ上げ、
義教の子義勝の擁立、
義教を弑した赤松満祐の討伐まで、どうにかこぎつけた。
そうした心労からか、
翌嘉吉2年(1442)6月24日、
「風瘧の病悩」(『康富記』)により出家し、
管領職の辞表を提出。
この日は、前将軍足利義教の一周忌でもあった。
29日、管領辞職が認められ、
畠山持国が新たな管領となる。
それからわずかひと月余りのちの8月4日、
逝去。
43歳。
13歳の子勝元が跡を継いだ。
難しい時局を切り抜けた管領だが、
“名宰相”の評価は、いまのところ、ない。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
前管領。
摂津・丹波・讃岐・土佐守護。
兄持元の早世により、
永享元年(1429)7月、細川持之は30歳にして家督を継ぐ。
同年10月、管領斯波義淳の辞職を受けて、
同職に就任。
将軍足利義教を支えた。
しかし、
畠山満家・斯波義淳・満済・山名時煕ら宿老たちの相次ぐ死に、
持之ら若い幕閣は、義教を抑えることができず、
その暴走を許すこととなった。
そのため、
義教による公家・武家の粛清が度重なり、
また、懸案の鎌倉公方足利持氏との武力衝突を回避できず、
最終的に、
嘉吉元年(1441)の義教自身の横死へとつながった。
管領持之は、
将軍不在の紛糾する幕府をまとめ上げ、
義教の子義勝の擁立、
義教を弑した赤松満祐の討伐まで、どうにかこぎつけた。
そうした心労からか、
翌嘉吉2年(1442)6月24日、
「風瘧の病悩」(『康富記』)により出家し、
管領職の辞表を提出。
この日は、前将軍足利義教の一周忌でもあった。
29日、管領辞職が認められ、
畠山持国が新たな管領となる。
それからわずかひと月余りのちの8月4日、
逝去。
43歳。
13歳の子勝元が跡を継いだ。
難しい時局を切り抜けた管領だが、
“名宰相”の評価は、いまのところ、ない。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
《誅殺》 《1417年》 《8月》 《20日》 《享年不明》
京都五条坊門大宮に住む法華衆。
応永24年(1417)8月20日辰の刻(朝8時頃)、
法師体の男とその下部の2人組に追われ、
大宮大路を北へ逃げていた法華僧は、
綾小路大宮と四条大宮の間の人家に逃げ込んだところ、
追いつかれて、
大刀で斬り殺された。
討ち手の2人は、すぐさま野次馬に取り押さえられ、
侍所に引き渡された。
下部の方は、手傷を負っていたという。
親の仇、あるいは妻の仇であったというが、
これを日記に記した中原康富は、
「親の仇ということならば、神妙の至りであるけれども、
こういうことはよくあるので、信じるには及ばない。」(『康富記』)
と書いている。
また、
追いつめられた法華僧が慈心を起こすと、
刀の刃が徐々に毀れていったというが、如何に。
この日寅の刻(午前4時頃)には、
綾小路西洞院の家に強盗が入り、家主が殺された。
市井はいつの世も物騒である。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
京都五条坊門大宮に住む法華衆。
応永24年(1417)8月20日辰の刻(朝8時頃)、
法師体の男とその下部の2人組に追われ、
大宮大路を北へ逃げていた法華僧は、
綾小路大宮と四条大宮の間の人家に逃げ込んだところ、
追いつかれて、
大刀で斬り殺された。
討ち手の2人は、すぐさま野次馬に取り押さえられ、
侍所に引き渡された。
下部の方は、手傷を負っていたという。
親の仇、あるいは妻の仇であったというが、
これを日記に記した中原康富は、
「親の仇ということならば、神妙の至りであるけれども、
こういうことはよくあるので、信じるには及ばない。」(『康富記』)
と書いている。
また、
追いつめられた法華僧が慈心を起こすと、
刀の刃が徐々に毀れていったというが、如何に。
この日寅の刻(午前4時頃)には、
綾小路西洞院の家に強盗が入り、家主が殺された。
市井はいつの世も物騒である。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
《病死》 《1351年》 《9月》 《6日》 《享年49歳》
一品、式部卿。
亀山法皇と昭訓門院瑛子の皇子。
大覚寺統の祖亀山院の末子として、
乾元2年(1303)5月9日に生まれた恒明親王は、
父の寵愛を一身に受けた。
おりしも、
持明院統と大覚寺統の対立が、
鎌倉幕府も巻き込んで、激化していく時期であった。
嘉元3年(1305)9月、
死に臨んで亀山院は、
恒明の立太子を、後宇多院と持明院統の伏見院に了承させ、
後見に、伯父(瑛子の兄)で関東申次の西園寺公衡を立てた。
こうして、大覚寺統の継嗣に立てられた恒明であったが、
しかし、
恒明の異母兄後宇多院は、立太子の約束を履行しようとせず、
後二条天皇の父として、政権を握り続けた。
皇統と政権の移動をねらう持明院統は、
対抗上、恒明を立てて、後宇多院を非難。
恒明の後見西園寺公衡も、後宇多院と対立し、
その所領を没収されて、籠居を余儀なくされた。
皇統のさらなる分裂を危ぶむ幕府は、
明瞭な対応をすることもなかった。
利用される恒明は、
わずか5歳。
ところが、
徳治3年(1308)8月、
後宇多院の息後二条天皇が皇位についたまま若くして没すると、
持明院統の東宮富仁親王が践祚(花園天皇)、
政権は、大覚寺統から持明院統に移った。
こうして、
意外にも早く目標が達成された持明院統にとって、
もはや恒明を推す必要はなく、
新たな東宮には、後宇多院の次男尊治親王が立てられた。
恒明は、皇位継承候補から外されてしまったのである。
文保2年(1318)2月、
持明院統の花園天皇は譲位し、
大覚寺統の尊治が践祚(後醍醐天皇)、
後醍醐の父後宇多院が院政を開始し、
東宮に、大覚寺統の邦良親王(後二条天皇の皇子)が立てられた。
この交代劇は、
一般に「文保の和談」として知られるが、
「和談」とは言い様、実際は後宇多院のゴリ押しであった。
この年の末、
悲運の恒明は、元服。
16歳。
異母兄後宇多院に、立太子を阻まれた恒明は、
持明院統の仏事に参列したり、
持明院統の後伏見院や花園院のもとに、度々参仕して、
和歌や蹴鞠に興じている。
ところがところが、
嘉暦元年(1326)、
今度は、東宮邦良が早世したことで、
恒明が、再び歴史の表舞台に登場する。
というのも、
邦良に代わる新たな東宮として、
①尊良親王(大覚寺統、後醍醐天皇の皇子)
②邦省親王(大覚寺統、故後二条院の皇子、故邦良の同母弟)
③恒明親王(大覚寺統、故亀山院の皇子)
④量仁親王(持明院統、後伏見院の皇子)
の4名が、候補に立てられたのである。
恒明はすでに、24歳に達していた。
4名には、それぞれ擁立する勢力がつき、
いずれも、しきりに幕府に働きかけたが、
最終的に幕府が選んだのは、
持明院統の④量仁であった。
両統迭立の原則が、守られたのである。
不運に対する慰めなのか、
翌嘉暦2年(1327)、恒明は二品に叙されている。
やがて、時代は、
加速する後醍醐天皇の討幕計画とともに、
きな臭さを増してゆくが、
政治の世界から遠ざけられた恒明が、
どのように過ごしていたのかは、知り難い。
ただ、
甥の後醍醐天皇とも、仲は悪くなかったようで、
建武政権のなった翌年の建武元年(1334)正月、
恒明は一品に叙されている。
その後は、戦場に出ることもあったようで、
延元元年(1336)6月には、
南朝方の大将として、足利尊氏と戦い、
その攻撃を防いだとされる、
が、詳しいことは定かではない。
間もなく、戦場からは身を引いて、
大覚寺統でありながら、吉野へは赴かず、
京都に留まり、内裏の近くに住した。
年来、食が細くなっていた恒明は、
観応2年(1351)4月頃より、その病が悪化していた。
9月3日、危篤に陥り、
4日、出家、
6日巳の刻(午前10時頃)、逝去。
49歳。
その出自ゆえ、
たびたび政争に巻き込まれながらも、
本人はどこか、いたって飄々と過ごしてきたように思われる。
恒明の歌として、次のものがあるが、
長じても冷めやらぬ皇位への夢を、読み取るべきだろうか。
はかなくも猶さめやらでしたふかなみはてざりつる夢の名残を (『新千載和歌集』)
なお、子孫は常盤井宮家として、
室町期まで存続。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十五』 (1917)
『太平記 3 日本古典文学大系 36』 (岩波書店 1962)
森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))
』 (講談社 2005年)
一品、式部卿。
亀山法皇と昭訓門院瑛子の皇子。
大覚寺統の祖亀山院の末子として、
乾元2年(1303)5月9日に生まれた恒明親王は、
父の寵愛を一身に受けた。
おりしも、
持明院統と大覚寺統の対立が、
鎌倉幕府も巻き込んで、激化していく時期であった。
嘉元3年(1305)9月、
死に臨んで亀山院は、
恒明の立太子を、後宇多院と持明院統の伏見院に了承させ、
後見に、伯父(瑛子の兄)で関東申次の西園寺公衡を立てた。
こうして、大覚寺統の継嗣に立てられた恒明であったが、
しかし、
恒明の異母兄後宇多院は、立太子の約束を履行しようとせず、
後二条天皇の父として、政権を握り続けた。
皇統と政権の移動をねらう持明院統は、
対抗上、恒明を立てて、後宇多院を非難。
恒明の後見西園寺公衡も、後宇多院と対立し、
その所領を没収されて、籠居を余儀なくされた。
皇統のさらなる分裂を危ぶむ幕府は、
明瞭な対応をすることもなかった。
利用される恒明は、
わずか5歳。
ところが、
徳治3年(1308)8月、
後宇多院の息後二条天皇が皇位についたまま若くして没すると、
持明院統の東宮富仁親王が践祚(花園天皇)、
政権は、大覚寺統から持明院統に移った。
こうして、
意外にも早く目標が達成された持明院統にとって、
もはや恒明を推す必要はなく、
新たな東宮には、後宇多院の次男尊治親王が立てられた。
恒明は、皇位継承候補から外されてしまったのである。
文保2年(1318)2月、
持明院統の花園天皇は譲位し、
大覚寺統の尊治が践祚(後醍醐天皇)、
後醍醐の父後宇多院が院政を開始し、
東宮に、大覚寺統の邦良親王(後二条天皇の皇子)が立てられた。
この交代劇は、
一般に「文保の和談」として知られるが、
「和談」とは言い様、実際は後宇多院のゴリ押しであった。
この年の末、
悲運の恒明は、元服。
16歳。
異母兄後宇多院に、立太子を阻まれた恒明は、
持明院統の仏事に参列したり、
持明院統の後伏見院や花園院のもとに、度々参仕して、
和歌や蹴鞠に興じている。
ところがところが、
嘉暦元年(1326)、
今度は、東宮邦良が早世したことで、
恒明が、再び歴史の表舞台に登場する。
というのも、
邦良に代わる新たな東宮として、
①尊良親王(大覚寺統、後醍醐天皇の皇子)
②邦省親王(大覚寺統、故後二条院の皇子、故邦良の同母弟)
③恒明親王(大覚寺統、故亀山院の皇子)
④量仁親王(持明院統、後伏見院の皇子)
の4名が、候補に立てられたのである。
恒明はすでに、24歳に達していた。
4名には、それぞれ擁立する勢力がつき、
いずれも、しきりに幕府に働きかけたが、
最終的に幕府が選んだのは、
持明院統の④量仁であった。
両統迭立の原則が、守られたのである。
不運に対する慰めなのか、
翌嘉暦2年(1327)、恒明は二品に叙されている。
やがて、時代は、
加速する後醍醐天皇の討幕計画とともに、
きな臭さを増してゆくが、
政治の世界から遠ざけられた恒明が、
どのように過ごしていたのかは、知り難い。
ただ、
甥の後醍醐天皇とも、仲は悪くなかったようで、
建武政権のなった翌年の建武元年(1334)正月、
恒明は一品に叙されている。
その後は、戦場に出ることもあったようで、
延元元年(1336)6月には、
南朝方の大将として、足利尊氏と戦い、
その攻撃を防いだとされる、
が、詳しいことは定かではない。
間もなく、戦場からは身を引いて、
大覚寺統でありながら、吉野へは赴かず、
京都に留まり、内裏の近くに住した。
年来、食が細くなっていた恒明は、
観応2年(1351)4月頃より、その病が悪化していた。
9月3日、危篤に陥り、
4日、出家、
6日巳の刻(午前10時頃)、逝去。
49歳。
その出自ゆえ、
たびたび政争に巻き込まれながらも、
本人はどこか、いたって飄々と過ごしてきたように思われる。
恒明の歌として、次のものがあるが、
長じても冷めやらぬ皇位への夢を、読み取るべきだろうか。
はかなくも猶さめやらでしたふかなみはてざりつる夢の名残を (『新千載和歌集』)
なお、子孫は常盤井宮家として、
室町期まで存続。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十五』 (1917)
『太平記 3 日本古典文学大系 36』 (岩波書店 1962)
森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
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