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死に様データベース
《誅殺》 《1429年》 《9月》 《24日》 《享年不明》



永享元年(1429)9月18日、
奈良にて潜伏中の楠木光正が捕縛され、
京都に連行された。
捕縛の手柄は、興福寺衆徒の有力者筒井覚順。
22日に奈良に下向する将軍足利義教を狙ったものとして、
捕えられたのであった。


楠木光正は、
その名字と「正」の通字からしてもわかるとおり、
南北朝期に南朝方として活躍した楠木正成の末裔と思われるが、
詳らかでない。
本当に将軍義教の命を狙っていたのかどうかも、
定かではないのである。

ただ、
応永22年(1415)7月に、
河内で楠木一族が蜂起し、守護畠山氏に鎮圧されているので、
光正もその関係者、あるいは張本人として、
身柄を捜索されていたのかもしれない。


18日に逮捕・連行された光正は、
4日後の24日、
京都六条河原にて、幕府侍所によって斬首された。
侍所の者たち6、700人が取り囲んだ上での処刑であったといい、
誇張にしても、随分ものものしい。
斬り手は、魚住某。

執行日当日に、奈良に滞在中であった将軍義教は、
「はやく首を斬れ」と急かしている。
捜査が長く深く及ぶと、
何か不都合なことでもあったのだろうか。


斬られる前日、
光正は硯と紙を取り寄せ、
辞世の頌歌をしたためた。


 幸いなるかな、小人の虚詐により大謀の高誉を成す。珍重々々。

 不来不去真空を摂る
 万物乾坤皆一同
 即ち是甚だ深し無二の法
 秋霜三尺西風を斬る

 なが月やすゑ野の原の草のうへに 身のよそならできゆる露かな
 我のみかたが秋の世のすゑの露 もとのしづくのかゝるためしを
 夢のうちに宮この秋のはてはみつ こゝろは西にあり明の月

   永享元     楠木五郎左衛門尉光正
     九月廿三日       常泉


光正の処刑に際し、
河原にあふれるほどの見物人が集まった。
首は、京都四塚にかけられた。


伏見宮貞成王は、
「頌歌等、天下の美談なり。」
と讃えている。
光正への同情の集まりは、
将軍・幕府にとっては、確かに都合が悪い。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
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《誅殺》 《1421年》 《2月》 《17日》 《享年不明》


京都三条堀河千手堂の老僧。


応永28年(1421)2月17日、
京都三条堀河の千手堂に盗人が入り、
主の老僧を刺し殺して、堂に放火した。
堂の下に埋めておいたという、
大般若経新写のために勧進した料足3,000疋を狙った犯行という。

さっそく、
堂に寄宿していた龍山和尚に、嫌疑がかかり、
幕府の役人は、捕縛・糾問の末、犯行を白状させた。
重罪により、死刑は確実だろうとされた。


この龍山和尚、
あちこちを巡りながら、人々に法華経を講釈していた僧で、
その語りぶりが、なかなか見事であったらしく、
講釈のたびに、人々が群れ集まったという。
事件前年10月には伏見にも訪れ、
好奇心旺盛な伏見宮貞成親王も、こっそり聞きに行くほどであった。
そのためか、事件を聞いた貞成親王は、
「いくら末法の世とはいえ、
 これほどの重罪や破戒は聞いたことがない。」(『看聞日記』)
と、驚いている。


ところが、
一度は犯行を認め、投獄された龍山であったが、
翌18日になると、一転して犯行を否認、無罪を主張した。
どういった取り調べがあったか不明だが、
犯行は、弟子たちの所行ということになって、
龍山は処刑を免れ、追放と相成った。


自白の強要による冤罪か、
はたまた、
弟子へのなすりつけによる命乞いか。
どちらにしても、後味の悪い事件である。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
《誅殺》 《1422年》 《3月》 《8日》 《享年不明》


正四位下、左近衛中将。


応永29年(1422)3月8日夜、
楊梅兼英は、
洛中の路上において、何者かに襲われ、命を奪われた。
同行していた子兼興も、負傷。

当時、兼英は弟兼豊と対立しており、
その差し金ではないかと、人々は噂した。


6月30日、
噂どおり、弟兼豊の犯行が明らかとなり、
流罪となった。


なお、
襲撃を受けながらも、一命をとりとめた兼興(のち兼重)は、
永享3年(1431)2月、内裏女官との密通を犯し、
所領没収の憂き目に遭った。

ぐだぐだで先細りの楊梅家は、
その後廃絶。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
《病死》 《1421年》 《6月》 《14日》 《享年不明》


従一位、前左大臣。


応永28年(1421)4月、
京都は疫病の大流行に襲われた。
上旬に、
内大臣の大炊御門宗氏、大内記の東坊城元長が死去。
17日、三条公忠の子で妙法院の執事の日権院、
19日、その弟の報恩院も死去した。
下旬には、
大納言の木造俊康と中山満親も、疫病で死んでいる。

特権階級だけでも、これだけの死者を出している。
昨年来の大飢饉も相俟って、
京都の街衢も農村も、死臭漂う惨憺たるものであった。


そして、この疫病の流行は、
公家今出川家に、最も酷いかたちで悲劇をもたらした。

4月26日、
今出川家の政所をつとめる三善興衡とその娘が死去。
当主今出川公行は、茫然自失のありさまであった。
30日、
公行の次男で跡取りの公富が罹患。
5月19日、
今出川家に仕える青侍の宗親が死去。
22日、
公富の5歳の娘、死去。
また、一度は快復していた公富も、再発。
公行の狼狽えぶりは、相当なものであったという。
6月6日、
公行本人とその妻・娘が罹患。
さらに、4月に死んだ三善興衡の嫡子藤衡とその兄弟たちが死去。
11日、
公富の妻(東坊城長頼の娘)、死去。

そして、
罹患から7日目の6月13日寅の刻(午前4時頃)、
自家が崩壊していく様を目の前にしつつ、
当主公行も、疫病のために、ついに世を去った。
その不安と恐怖は、想像を絶するものであったろう。


こうして、
今出川家は、家僕も含めて計28人が死去し、
ほとんど家が絶えんばかりの状態となってしまった。
特に、政所三善氏は、
興衡の幼い末子幸光丸を残して、計17人が疫病のために命を落としたという。
今出川家の危機的状況は、
単に一公家の断絶を示すだけでなく、
同家が伝える琵琶道の廃絶をも、予感させるものであった。
後小松上皇も伏見宮貞成親王も、
同情を寄せるとともに、そのことを案じている。


後継者の公富を中心に、
今出川家の再興が進められつつあった矢先の8月9日、
その公富も、
26歳にして病死。

もはや、哀れというほかない。


今出川家の断絶により、
本家西園寺家からの養子取りも考えられたようだが、
公行の長男で、
後小松上皇や足利義持らから嫌われて、
家督継承からも外されていた実富と、
幼いその次男の教季によって、
今出川家の再興が進められていくこととなる。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)』 (講談社 2002)
《誅殺》 《1432年》 《5月》 《20日》 《享年不明》


京都北野天満宮の社僧。


永享4年(1432)5月20日、酉の終り頃(夜7時頃)、
北野天満宮の社僧7、8人が、稚児1、2人を連れて、
下京に勧進くせ舞を見物しに行った。
物見遊山に、みな気持ちよく酔い、
帰りに、北山の鹿苑寺(金閣)を見に行こうということになった。

鹿苑寺に行ってみたところ、
不届き者の寺僧が、自分の寺の門に立ち小便をしていた。
これを見た北野の一行は、
「牛のようだ」と囃し立てて笑った。
怒った鹿苑寺の僧は、笑った稚児1人を掴まえて、投げ飛ばす。
喧嘩に発展したのは、言うまでもない。

多勢に無勢の鹿苑寺僧は、
寺内に逃げ込み、門を閉ざしたが、
酔った北野社僧たちは、門を打ち破りにかかった。
彼らは、制止しようと出てきた鹿苑寺の老僧にも、
抜刀して斬りかかろうとした。

境内に籠る鹿苑寺側は、
急を告げる鐘を打ち鳴らし、
門前町などに住む鹿苑寺側の人々を呼び集めたため、
騒乱はたちまちに膨れ上がったらしい。
その結果、
北野社僧の主だった3人のうち、
1人は、その場で落命、
1人は、負傷して逃走、
1人は、鹿苑寺側に拘束された。
北野社僧2人と鹿苑寺僧1人が落命した、と記す記録もある。


そうなったところで、室町幕府のお裁きがあり、
事情聴取の上、北野社僧を獄につないだ。


「不思儀、天魔の所為か」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成親王の感想。

中世は、何かと喧嘩で人が死ぬ。



〔参考〕
『続群書類従 補遺1 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』 (講談社 2006)
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