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死に様データベース
《病死》 《1321年》 《6月》 《23日》 《享年不明》


正二位、前参議・式部大輔。


菅原在兼は、学者として、
伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐天皇の5代にわたって、
侍読をつとめた。


元亨元年(1321)、6月23日、没。
70歳前後であったらしい。


人物と、その死の衝撃については、
『花園天皇宸記』に詳しい。

 文の衰微、道の陵夷、歎いて余りあり。
 ああ命なる哉命なる哉。
 但し齢七旬に及び、官八座に至る。
 一門の長者、五代の帝師なり。
 栄分満足、恨むところなきものか。
 
 諸人いわく、高才の人なり。
 尤も神慮に叶うべきのところ、
 長者以後三年に及ばず。
 未だ先例なし。
 第二、忠長卿無才無能を説くべからず。
 ただ飲酒を以って業をなすものなり。
 しかるに在兼逝去。
 忠長長者たり。
 神慮疑いあり。
 天道不審と云々。
 予もって然らず。
 死生命あり。
 神道奈命何、
 陰陽不測のものなり。
 凡慮をもって神道を察し難し。 (『花園天皇宸記』)
 ・・・

優秀な人物であり、
栄達も恵まれたようだが、
後継者にはめぐまれなかったらしい。


花園天皇の悲嘆は、翌日もやまない。

 なお在兼卿のこと悲歎無極。
 風月文遊の席、誰をもって師たるか。
 思慕止むなし。
 よって興遊を止め、遊逸に臨まず。
 慟哭余りあるものなり。 (『花園天皇宸記』)


やや大げさな気がしなくもない。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
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《病死》 《1322年》 《11月》 《8日》 《享年不明》



正親町実明の娘。
のち、祖父洞院公守の養女となる。
伏見・後伏見両天皇の侍女。
従三位。


洞院宗子は、幼少より伏見天皇に侍女として仕えて、その寵愛を受け、
同天皇出家後には、後伏見上皇の寵愛をも受けて、
文保元年(1317)の伏見上皇崩御後、
後伏見上皇の侍女となった。

伏見天皇との間には、
寛胤法親王・道煕法親王らをもうけている。


元亨2年(1322)11月8日朝、
宗子は産気付き、
後伏見上皇の御所を退出し、某所に移った
だが、
亥の刻(夜10時頃)、流産。
母体も危うく、
子の刻の終り(深夜1時頃)、逝去。

「眼前の無常、もっとも悲歎に足る。
 上皇(後伏見)殊に哀慟せしめ給う。」(『花園天皇宸記』)


佳人薄命。


翌元亨3年(1323)11月、
一周忌にあわせて、
後伏見上皇の命により、宗子の肖像画が作成された。
彩色もほどこされたその出来栄えは、
あたかも対面しているようであり、
上皇も大いに喜んだという。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
《自害》 《1418年》 《2月》 《10日》 《享年42歳》


正二位、権大納言。


応永25年(1418)2月、
中院通守は、朝廷より春日祭の上卿を命じられた。

しかし、
経済的な困窮状態にあった通守は、務められないとこれを辞退。
朝廷はなおも厳命を下すが、
通守は、再三辞退した。

かくして、通守は、
 とても窮困の身には、朝廷にお仕えすることはできない。
 かくなる上は、ただもう自害したい。
と、常日頃からこぼしていた。
よほど追い詰められていたものと見える。

10日、酒宴の後、
通守は持仏堂にこもって、
小刀でのどを掻き切った。


この「狂気」(『看聞日記』)の沙汰を、
人々はみな噂し合った。
公卿すら貧窮により自殺する時代。


27日の春日祭では、
代わって今出川公富が上卿を務めた。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
《誅殺》 《1332年》 《6月》 《2日》 《享年43歳》


従三位、権中納言。


後醍醐天皇の側近として、日野資朝は同族の俊基とともに、
天皇の討幕計画に参画した。
旧来の価値観にとらわれない、豪胆な人物であったと伝えられる。


元亨4年(1324)9月19日、
京都四条の辺りで、合戦があった。
後醍醐天皇の討幕計画の一員で土岐頼員が、
恐れをなしたか、計画を六波羅探題に密告。
六波羅探題は、関係者の土岐頼有と多治見国長を召喚したところ、
応じずに反抗の意を露わにしたため、
軍勢を差し向けて、自害させた。
その騒動であった。

同日、計画の首謀者として、
日野俊基が、戌の刻(夜8時頃)、
資朝が、丑の刻(深夜2時頃)、
六波羅探題に連行された。


資朝は、
「関東の執政、然るべからず。
 また、運すでに衰うに似たり。
 朝威はなはだ盛ん。
 あに敵うべけんや。
 よって、誅せらるべきの由、綸言を承る。」(『花園天皇宸記』)
と言って、同志を募り、
23日の北野祭の喧騒に乗じて、
六波羅探題を倒す計画だったという。

また、彼らは、

 結衆の会合、
 乱遊、あるいは衣冠を着さず、
 ほとんど裸形、
 飲茶の会これ有り。(『花園天皇宸記』)

 献盃の次第、上下を云わず、
 男は烏帽子を脱いで髻を放ち、
 法師は衣を着ずして白衣になり、
 年十七八なる女の、みめ形優に、
 はだえ殊に清らかなるを二十余人、すずしの単ばかりを着せて、
 酌を取らせければ、
 雪のはだえ透き通りて、大液の芙蓉、新たに水を出でたるに異ならず。
 山海の珍物を尽くし、旨酒泉のごとくに湛えて、
 遊び戯れ舞い歌う。
 その間には、ただ東夷を亡ぼすべき企てのほかは他事なし。(『太平記』)

といった、「無礼講」「破仏講」と呼ばれるような乱チキ騒ぎを繰り返したといい、
花園上皇は、これを、
「これ学達士の風か。」(『花園天皇宸記』)などと批判している。


10月5日、
資朝に使える青侍2人を、
六波羅探題が、尋問のため召喚しようとしたところ、
逐電。


六波羅探題で取調べを受けた資朝・俊基は、
10月22日、
さらなる糾明のため、鎌倉に護送された。

正中2年(1325)閏正月、
鎌倉での糾明により、
資朝と俊基は、ほとんど無実とされたが、
なにゆえか、資朝のみは佐渡へ配流されることになった。

その訳は、2月7日に幕府が朝廷に伝えたところによると、
資朝は、計画への関与がきわめて濃厚なため、配流。
俊基は、関与の風聞があるが、証拠がないため、無罪放免。
幕府は、
資朝ひとりを罰することで、
後醍醐天皇とその周囲に、釘を刺し、
事件を処理したのである。


そうして、8月、
資朝は佐渡に配流される。


だが、元弘元年(1331)、
後醍醐天皇は飽き足らずに、再び討幕計画を起こし、
再び幕府の知るところとなった。
六波羅探題の追手を逃れて、御所を脱出した天皇は、
山城笠置山で挙兵するも、
幕府軍の攻撃により、あえなく陥落、捕えられた。


翌正慶元年(1332)4月、
幕府はこの一件の処断を下す。
2度目だけあって、幕府の処分は苛烈であった。
後醍醐天皇、隠岐へ配流。
天皇の皇子たちのうち、10歳以上は京都追放、10歳以下は然るべき人に預ける。
二条道平、叔父師忠預かり、家流廃絶。
洞院実世、父公賢預かり。
御子左為定、出仕停止、祖父為世預かり。
北畠具行・日野資朝・平成輔・日野俊基、斬罪。
聖尋・俊雅・文観、遠島。
洞院公敏・花山院師賢・万里小路藤房・同季房・円観・仲円、遠流。


かくして、
佐渡にいる資朝の斬刑は、
幕府より佐渡守護代本間山城入道へ伝えられた。

資朝の斬罪を聞いた子阿新丸(のちの日野国光)は、
最後に一目父に逢おうと、京都より越前敦賀を経て、佐渡に渡った。
しかし、
本間山城入道は、父子の対面を許さず、
6月2日、刑を執り行う。


 五月廿九日(ママ)の暮れ程に、
 資朝卿を牢より出だし奉りて、
 「遥かに御湯も召され候わぬに、御行水候え」と申せば、
 早斬らるべき時になりけりと思い給いて、
 「嗚呼うたてしきことかな、
  我が最後の様を見んために、
  遥々と尋ね下ったる幼き者を、一目も見ずして、
  果てぬる事よ」
 とばかり宣いて、
 そののちは、かつて諸事につけて、言葉をも出だし給わず。
 今朝までは、気色しおれて、常には涙を押し拭い給いけるが、
 人間の事においては、頭燃を払うごとくになりぬと覚って、
 ただ綿密の工夫のほかは、余念ありとも見え給わず。
 夜に入れば、輿さしよせて乗せ奉り、
 ここより十町ばかりある河原へ出だし奉り、輿かき据えたれば、
 少しも臆したる気色もなく、
 敷皮の上に居直って、辞世の頌を書き給う。

   五蘊仮に形を成し
   四大今空に帰す
   首をもって白刃に当つ
   截断一陣の風

 年号月日の下に名字を書き付けて、筆を擱き給えば、
 斬り手後ろへ回るとぞ見えし。
 御首は敷皮の上に落ち、骸はなお坐せるがごとし。(『太平記』)


その後、父の遺骨を拾った阿新丸は、
仇討ちとして、本間山城入道は取り逃したものの、
斬り手本間三郎を討ち果たすが、
それはまた別の話。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
『史料纂集 花園天皇宸記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
《病死》 《1322年》 《9月》 《10日》 《享年74歳》


従一位、前太政大臣。
関東申次。


西園寺実兼は、
朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役たる関東申次として、朝幕間に重きをなし、
また、天皇家の外戚としても権勢を誇った。
おりしも、時代は、
持明院・大覚寺両皇統の対立、
蒙古襲来、
寺社権門の訴訟多発、
といった難局を迎えていたが、
巧みにこれらを処理して、
その地位と権勢を保ち続けた。


嘉元2年(1304)、
56歳の実兼は、関東申次の職を嫡子公衡に代わり、
自身は北山の別邸に隠居。
ところが、
正和4年(1315)9月25日、
公衡が父に先立って没したため、
67歳の実兼が、再び関東申次に就いた。
このとき、
孫の実衡は、すでに26歳に達していたが、
時局難しいときであり、
老齢の実兼の再登板となったのである。


元亨元年(1321)12月28日、
実兼は病に倒れた。
心配した花園上皇は、
たびたび使者を遣わして、これを見舞ったが、
病状は一進一退を繰り返しつつ、徐々に進行し、
翌元亨2年(1322)5月7日頃には、
食事も進まぬ状態であった。

5月27日、
後醍醐天皇が、北山の西園寺邸を訪れ、
琵琶秘曲の伝授を受けようとしたが、
病床の実兼にはできず、
その子今出川兼季が、代わってこれを伝えた。

6月初旬、
量仁親王(のちの光厳天皇)が、百日連句を始めようとしたが、
実兼の病のため、中止。

7月末から8月初旬にかけて、
病状はさらに進行し、
8月7日、
後伏見上皇・同妃広義門院が、
直々に北山の西園寺邸まで見舞いに訪れている。

この頃、
実兼は関東申次の職を、孫実衡へ交替することに決めたらしい。
この旨は、鎌倉幕府の承認も得られ、
33歳の実衡が、同職に就いた。


8月15日、
花園上皇は、菅原公時や四条隆有らと、ひそかに詩会を催した。
実兼の病のため、長らく自粛していたのである。
公家社会における実兼の存在が、どれほどであったか知れよう。


8月18日朝、危篤。
昼より、やや持ち直したが、
脈が悪く、3日はもたないだろうと診断された。
実兼の病状は、日に日に悪化の一途をたどったが、
意識が混濁することはなかった。

9月4日、
再び、後伏見・花園両上皇の見舞いを受ける。
9日、
吉辰の日であったが、
実兼のために、興遊は差し控えられた。


9月10日酉の初め(夕方5時頃)、逝去。
74歳。
阿弥陀仏の名号を唱えながら、
安らかに逝ったという。


花園上皇は、悼んで記す。

 この相国(西園寺実兼)は、
 朝の元老、国の良弼なり。
 後嵯峨の朝より仕え、数代の重臣たり。
 頃年以来、跡を桑門(仏門)に遁るると雖も、
 なお、関東執奏不変。
 また、重事においては顧問に預かり、
 上皇(後伏見)は誠に外祖の義あり、
 身(花園上皇)においては、また曾祖の義たり。
 かたがたもって歎かざるべからず。
 何ぞいわんや国の柱石なり。
 文才少なしと雖も、
 久しく数代の朝に仕え、
 天下の義理に閲すること多し。
 朝のため身のため、悲歎もっとも深きものなり。(『花園天皇宸記』)


この後、
持明院統と大覚寺統の対立は激化し、
正中の変(後醍醐天皇の第1次討幕計画)も勃発して、
時代は徐々に混乱の度合いを深めてゆく。
それとともに、
西園寺家の威光にも翳りが見え始めてゆく。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984)
森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』 (思文閣出版 1991年)
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