忍者ブログ
死に様データベース
《誅殺》 《1432年》 《5月》 《20日》 《享年不明》


京都北野天満宮の社僧。


永享4年(1432)5月20日、酉の終り頃(夜7時頃)、
北野天満宮の社僧7、8人が、稚児1、2人を連れて、
下京に勧進くせ舞を見物しに行った。
物見遊山に、みな気持ちよく酔い、
帰りに、北山の鹿苑寺(金閣)を見に行こうということになった。

鹿苑寺に行ってみたところ、
不届き者の寺僧が、自分の寺の門に立ち小便をしていた。
これを見た北野の一行は、
「牛のようだ」と囃し立てて笑った。
怒った鹿苑寺の僧は、笑った稚児1人を掴まえて、投げ飛ばす。
喧嘩に発展したのは、言うまでもない。

多勢に無勢の鹿苑寺僧は、
寺内に逃げ込み、門を閉ざしたが、
酔った北野社僧たちは、門を打ち破りにかかった。
彼らは、制止しようと出てきた鹿苑寺の老僧にも、
抜刀して斬りかかろうとした。

境内に籠る鹿苑寺側は、
急を告げる鐘を打ち鳴らし、
門前町などに住む鹿苑寺側の人々を呼び集めたため、
騒乱はたちまちに膨れ上がったらしい。
その結果、
北野社僧の主だった3人のうち、
1人は、その場で落命、
1人は、負傷して逃走、
1人は、鹿苑寺側に拘束された。
北野社僧2人と鹿苑寺僧1人が落命した、と記す記録もある。


そうなったところで、室町幕府のお裁きがあり、
事情聴取の上、北野社僧を獄につないだ。


「不思儀、天魔の所為か」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成親王の感想。

中世は、何かと喧嘩で人が死ぬ。



〔参考〕
『続群書類従 補遺1 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』 (講談社 2006)
PR
《病死》 《1432年》 《6月》 《7日》 《享年44歳》


従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。


永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。

応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。


従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
《誅殺》 《1420年》 《11月》 《12日》 《享年不明》


応永27年(1420)11月12日朝、
京都四条富小路の土蔵(金融業者)宝泉類蔵に強盗が入り、
立て籠もった。
犯人の(入道1人)は、
「土蔵の主人と話がしたいから、連れてこい」と主張。
だが、当の主人は怖がっていかず、
間に使いを立てて、
「財宝など100貫文でも200貫文でも呉れてやるから、
 まずは出てきてくれ。」
と訴えた。

これに対して盗人は、
「もし無事に出られたとしても、
 その後ただで済むはずがない。
 蔵に火をつけて、焼身自殺してやる。」
と、頑なに拒み、
ついに、土蔵内の小袖や帷子に放火した。


騒動を聞いて、
室町幕府侍所(≒京都市中警察)の武士たちが駆けつけ、
所司代三方範忠の配下の者たちが、
土蔵の戸を打ち破って、突入した。
盗人は、
刀でバリケードを築いて、これを阻むが、
所司代の若党渋木という者が、
飛び越えて、一番に中に入った。
渋木はこめかみを斬られながらも、
盗人と取っ組み合いになり、
それを見て、同輩たちも後に続き、
手傷を負いつつ、
ついに盗人を討ち取った。

小袖等300点ばかりが焼失し、
辺りは大変な騒動になったという。


格差社会が引き起こした事件といえようか。


なお、
先陣の手柄を立てた若党渋木は、
翌16日、深手がもとで死去。
殉職。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
《誅殺》 《1461年》 《5月》 《23日》 《享年不明》


室町幕府問注所執事・評定衆・神宮方頭人。


町野淳康の家は、
もと鎌倉府の吏僚として活躍していた一族であったが、
永享年間に室町幕府問注所が欠員となったため、
淳康の父増悦が、鎌倉から京都に呼ばれた、とされている。

父の跡を継いで、
室町幕府の吏僚として活躍していた淳康であったが、
寛正2年(1461)5月23日、
部下にあたる神宮奉行でもあった幕府奉行人飯尾之清の屋敷で、
例日の会合があり、
その酒の席で、亭主の之清と口論になって、
次第に双方熱くなったか、喧嘩に発展して、負傷した。
よほどの重傷であったらしく、
帰宅後、死去。

将軍足利義教は、
相手の飯尾之清に切腹を命じ、
翌24日、執行。


2人とも神宮方頭人・奉行として、
大神宮造営などに尽力し、
将軍義教のおぼえも悪くなかったというが、
たった一度の喧嘩で、
文字通り人生を失った。


この例といい、坊門信守の例といい、
何にせよ、酔った上での喧嘩というのは、危ない。



〔参考〕
『続史料大成 増補普及版 大乗院寺社雑事記 2』 (臨川書店 2001)
『蔭涼軒日録 巻1』 (史籍刊行会 1953)
榎原雅治ほか「宮内庁書陵部所蔵三条西本『宗賢卿記』」
  (榎原雅治編『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』 2012)
木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」
  (佐藤博信編『関東足利氏と東国社会』 岩田書院 2012)
《誅殺》 《1423年》 《2月》 《20日》 《享年不明》


前円満院宮。

後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。


応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。

どちらも20歳前後と推定されている。

「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。


円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。



〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)』 (角川書店、1997)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
24  25  26  27  28  29  30  31  32  33  34 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
[07/19 記主]
[06/13 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]