死に様データベース
《誅殺》 《1422年》 《3月》 《8日》 《享年不明》
正四位下、左近衛中将。
応永29年(1422)3月8日夜、
楊梅兼英は、
洛中の路上において、何者かに襲われ、命を奪われた。
同行していた子兼興も、負傷。
当時、兼英は弟兼豊と対立しており、
その差し金ではないかと、人々は噂した。
6月30日、
噂どおり、弟兼豊の犯行が明らかとなり、
流罪となった。
なお、
襲撃を受けながらも、一命をとりとめた兼興(のち兼重)は、
永享3年(1431)2月、内裏女官との密通を犯し、
所領没収の憂き目に遭った。
ぐだぐだで先細りの楊梅家は、
その後廃絶。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
正四位下、左近衛中将。
応永29年(1422)3月8日夜、
楊梅兼英は、
洛中の路上において、何者かに襲われ、命を奪われた。
同行していた子兼興も、負傷。
当時、兼英は弟兼豊と対立しており、
その差し金ではないかと、人々は噂した。
6月30日、
噂どおり、弟兼豊の犯行が明らかとなり、
流罪となった。
なお、
襲撃を受けながらも、一命をとりとめた兼興(のち兼重)は、
永享3年(1431)2月、内裏女官との密通を犯し、
所領没収の憂き目に遭った。
ぐだぐだで先細りの楊梅家は、
その後廃絶。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
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《病死》 《1421年》 《6月》 《14日》 《享年不明》
従一位、前左大臣。
応永28年(1421)4月、
京都は疫病の大流行に襲われた。
上旬に、
内大臣の大炊御門宗氏、大内記の東坊城元長が死去。
17日、三条公忠の子で妙法院の執事の日権院、
19日、その弟の報恩院も死去した。
下旬には、
大納言の木造俊康と中山満親も、疫病で死んでいる。
特権階級だけでも、これだけの死者を出している。
昨年来の大飢饉も相俟って、
京都の街衢も農村も、死臭漂う惨憺たるものであった。
そして、この疫病の流行は、
公家今出川家に、最も酷いかたちで悲劇をもたらした。
4月26日、
今出川家の政所をつとめる三善興衡とその娘が死去。
当主今出川公行は、茫然自失のありさまであった。
30日、
公行の次男で跡取りの公富が罹患。
5月19日、
今出川家に仕える青侍の宗親が死去。
22日、
公富の5歳の娘、死去。
また、一度は快復していた公富も、再発。
公行の狼狽えぶりは、相当なものであったという。
6月6日、
公行本人とその妻・娘が罹患。
さらに、4月に死んだ三善興衡の嫡子藤衡とその兄弟たちが死去。
11日、
公富の妻(東坊城長頼の娘)、死去。
そして、
罹患から7日目の6月13日寅の刻(午前4時頃)、
自家が崩壊していく様を目の前にしつつ、
当主公行も、疫病のために、ついに世を去った。
その不安と恐怖は、想像を絶するものであったろう。
こうして、
今出川家は、家僕も含めて計28人が死去し、
ほとんど家が絶えんばかりの状態となってしまった。
特に、政所三善氏は、
興衡の幼い末子幸光丸を残して、計17人が疫病のために命を落としたという。
今出川家の危機的状況は、
単に一公家の断絶を示すだけでなく、
同家が伝える琵琶道の廃絶をも、予感させるものであった。
後小松上皇も伏見宮貞成親王も、
同情を寄せるとともに、そのことを案じている。
後継者の公富を中心に、
今出川家の再興が進められつつあった矢先の8月9日、
その公富も、
26歳にして病死。
もはや、哀れというほかない。
今出川家の断絶により、
本家西園寺家からの養子取りも考えられたようだが、
公行の長男で、
後小松上皇や足利義持らから嫌われて、
家督継承からも外されていた実富と、
幼いその次男の教季によって、
今出川家の再興が進められていくこととなる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)
』 (講談社 2002)
従一位、前左大臣。
応永28年(1421)4月、
京都は疫病の大流行に襲われた。
上旬に、
内大臣の大炊御門宗氏、大内記の東坊城元長が死去。
17日、三条公忠の子で妙法院の執事の日権院、
19日、その弟の報恩院も死去した。
下旬には、
大納言の木造俊康と中山満親も、疫病で死んでいる。
特権階級だけでも、これだけの死者を出している。
昨年来の大飢饉も相俟って、
京都の街衢も農村も、死臭漂う惨憺たるものであった。
そして、この疫病の流行は、
公家今出川家に、最も酷いかたちで悲劇をもたらした。
4月26日、
今出川家の政所をつとめる三善興衡とその娘が死去。
当主今出川公行は、茫然自失のありさまであった。
30日、
公行の次男で跡取りの公富が罹患。
5月19日、
今出川家に仕える青侍の宗親が死去。
22日、
公富の5歳の娘、死去。
また、一度は快復していた公富も、再発。
公行の狼狽えぶりは、相当なものであったという。
6月6日、
公行本人とその妻・娘が罹患。
さらに、4月に死んだ三善興衡の嫡子藤衡とその兄弟たちが死去。
11日、
公富の妻(東坊城長頼の娘)、死去。
そして、
罹患から7日目の6月13日寅の刻(午前4時頃)、
自家が崩壊していく様を目の前にしつつ、
当主公行も、疫病のために、ついに世を去った。
その不安と恐怖は、想像を絶するものであったろう。
こうして、
今出川家は、家僕も含めて計28人が死去し、
ほとんど家が絶えんばかりの状態となってしまった。
特に、政所三善氏は、
興衡の幼い末子幸光丸を残して、計17人が疫病のために命を落としたという。
今出川家の危機的状況は、
単に一公家の断絶を示すだけでなく、
同家が伝える琵琶道の廃絶をも、予感させるものであった。
後小松上皇も伏見宮貞成親王も、
同情を寄せるとともに、そのことを案じている。
後継者の公富を中心に、
今出川家の再興が進められつつあった矢先の8月9日、
その公富も、
26歳にして病死。
もはや、哀れというほかない。
今出川家の断絶により、
本家西園寺家からの養子取りも考えられたようだが、
公行の長男で、
後小松上皇や足利義持らから嫌われて、
家督継承からも外されていた実富と、
幼いその次男の教季によって、
今出川家の再興が進められていくこととなる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)
《誅殺》 《1432年》 《5月》 《20日》 《享年不明》
京都北野天満宮の社僧。
永享4年(1432)5月20日、酉の終り頃(夜7時頃)、
北野天満宮の社僧7、8人が、稚児1、2人を連れて、
下京に勧進くせ舞を見物しに行った。
物見遊山に、みな気持ちよく酔い、
帰りに、北山の鹿苑寺(金閣)を見に行こうということになった。
鹿苑寺に行ってみたところ、
不届き者の寺僧が、自分の寺の門に立ち小便をしていた。
これを見た北野の一行は、
「牛のようだ」と囃し立てて笑った。
怒った鹿苑寺の僧は、笑った稚児1人を掴まえて、投げ飛ばす。
喧嘩に発展したのは、言うまでもない。
多勢に無勢の鹿苑寺僧は、
寺内に逃げ込み、門を閉ざしたが、
酔った北野社僧たちは、門を打ち破りにかかった。
彼らは、制止しようと出てきた鹿苑寺の老僧にも、
抜刀して斬りかかろうとした。
境内に籠る鹿苑寺側は、
急を告げる鐘を打ち鳴らし、
門前町などに住む鹿苑寺側の人々を呼び集めたため、
騒乱はたちまちに膨れ上がったらしい。
その結果、
北野社僧の主だった3人のうち、
1人は、その場で落命、
1人は、負傷して逃走、
1人は、鹿苑寺側に拘束された。
北野社僧2人と鹿苑寺僧1人が落命した、と記す記録もある。
そうなったところで、室町幕府のお裁きがあり、
事情聴取の上、北野社僧を獄につないだ。
「不思儀、天魔の所為か」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成親王の感想。
中世は、何かと喧嘩で人が死ぬ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺1 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)
』 (講談社 2006)
京都北野天満宮の社僧。
永享4年(1432)5月20日、酉の終り頃(夜7時頃)、
北野天満宮の社僧7、8人が、稚児1、2人を連れて、
下京に勧進くせ舞を見物しに行った。
物見遊山に、みな気持ちよく酔い、
帰りに、北山の鹿苑寺(金閣)を見に行こうということになった。
鹿苑寺に行ってみたところ、
不届き者の寺僧が、自分の寺の門に立ち小便をしていた。
これを見た北野の一行は、
「牛のようだ」と囃し立てて笑った。
怒った鹿苑寺の僧は、笑った稚児1人を掴まえて、投げ飛ばす。
喧嘩に発展したのは、言うまでもない。
多勢に無勢の鹿苑寺僧は、
寺内に逃げ込み、門を閉ざしたが、
酔った北野社僧たちは、門を打ち破りにかかった。
彼らは、制止しようと出てきた鹿苑寺の老僧にも、
抜刀して斬りかかろうとした。
境内に籠る鹿苑寺側は、
急を告げる鐘を打ち鳴らし、
門前町などに住む鹿苑寺側の人々を呼び集めたため、
騒乱はたちまちに膨れ上がったらしい。
その結果、
北野社僧の主だった3人のうち、
1人は、その場で落命、
1人は、負傷して逃走、
1人は、鹿苑寺側に拘束された。
北野社僧2人と鹿苑寺僧1人が落命した、と記す記録もある。
そうなったところで、室町幕府のお裁きがあり、
事情聴取の上、北野社僧を獄につないだ。
「不思儀、天魔の所為か」(『看聞日記』)
とは、伏見宮貞成親王の感想。
中世は、何かと喧嘩で人が死ぬ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺1 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)
《病死》 《1432年》 《6月》 《7日》 《享年44歳》
従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。
永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。
応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。
従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。
永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。
応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。
従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
《誅殺》 《1420年》 《11月》 《12日》 《享年不明》
応永27年(1420)11月12日朝、
京都四条富小路の土蔵(金融業者)宝泉類蔵に強盗が入り、
立て籠もった。
犯人の男(入道1人)は、
「土蔵の主人と話がしたいから、連れてこい」と主張。
だが、当の主人は怖がっていかず、
間に使いを立てて、
「財宝など100貫文でも200貫文でも呉れてやるから、
まずは出てきてくれ。」
と訴えた。
これに対して盗人は、
「もし無事に出られたとしても、
その後ただで済むはずがない。
蔵に火をつけて、焼身自殺してやる。」
と、頑なに拒み、
ついに、土蔵内の小袖や帷子に放火した。
騒動を聞いて、
室町幕府侍所(≒京都市中警察)の武士たちが駆けつけ、
所司代三方範忠の配下の者たちが、
土蔵の戸を打ち破って、突入した。
盗人は、
刀でバリケードを築いて、これを阻むが、
所司代の若党渋木という者が、
飛び越えて、一番に中に入った。
渋木はこめかみを斬られながらも、
盗人と取っ組み合いになり、
それを見て、同輩たちも後に続き、
手傷を負いつつ、
ついに盗人を討ち取った。
小袖等300点ばかりが焼失し、
辺りは大変な騒動になったという。
格差社会が引き起こした事件といえようか。
なお、
先陣の手柄を立てた若党渋木は、
翌16日、深手がもとで死去。
殉職。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
応永27年(1420)11月12日朝、
京都四条富小路の土蔵(金融業者)宝泉類蔵に強盗が入り、
立て籠もった。
犯人の男(入道1人)は、
「土蔵の主人と話がしたいから、連れてこい」と主張。
だが、当の主人は怖がっていかず、
間に使いを立てて、
「財宝など100貫文でも200貫文でも呉れてやるから、
まずは出てきてくれ。」
と訴えた。
これに対して盗人は、
「もし無事に出られたとしても、
その後ただで済むはずがない。
蔵に火をつけて、焼身自殺してやる。」
と、頑なに拒み、
ついに、土蔵内の小袖や帷子に放火した。
騒動を聞いて、
室町幕府侍所(≒京都市中警察)の武士たちが駆けつけ、
所司代三方範忠の配下の者たちが、
土蔵の戸を打ち破って、突入した。
盗人は、
刀でバリケードを築いて、これを阻むが、
所司代の若党渋木という者が、
飛び越えて、一番に中に入った。
渋木はこめかみを斬られながらも、
盗人と取っ組み合いになり、
それを見て、同輩たちも後に続き、
手傷を負いつつ、
ついに盗人を討ち取った。
小袖等300点ばかりが焼失し、
辺りは大変な騒動になったという。
格差社会が引き起こした事件といえようか。
なお、
先陣の手柄を立てた若党渋木は、
翌16日、深手がもとで死去。
殉職。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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