死に様データベース
《病死》 《1432年》 《6月》 《7日》 《享年44歳》
従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。
永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。
応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。
従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
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従一位、前権大納言。
正親町実秀とも。
箏の名手。
永享4年(1432)6月7日頃、
裏辻実秀は、40代半ばにして逝去。
応永末年(1427)頃より、
将軍足利義教の勘気を蒙って、所領を没収され、
困窮のきわみにあった。
「大略、餓死か。不便々々(ふびんふびん)。」(『看聞日記』)
と言われているから、
貧窮具合は、相当なものだったのだろう。
従一位(存命者の最上位)にして、餓死とは、
これ如何に。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008)
《誅殺》 《1420年》 《11月》 《12日》 《享年不明》
応永27年(1420)11月12日朝、
京都四条富小路の土蔵(金融業者)宝泉類蔵に強盗が入り、
立て籠もった。
犯人の男(入道1人)は、
「土蔵の主人と話がしたいから、連れてこい」と主張。
だが、当の主人は怖がっていかず、
間に使いを立てて、
「財宝など100貫文でも200貫文でも呉れてやるから、
まずは出てきてくれ。」
と訴えた。
これに対して盗人は、
「もし無事に出られたとしても、
その後ただで済むはずがない。
蔵に火をつけて、焼身自殺してやる。」
と、頑なに拒み、
ついに、土蔵内の小袖や帷子に放火した。
騒動を聞いて、
室町幕府侍所(≒京都市中警察)の武士たちが駆けつけ、
所司代三方範忠の配下の者たちが、
土蔵の戸を打ち破って、突入した。
盗人は、
刀でバリケードを築いて、これを阻むが、
所司代の若党渋木という者が、
飛び越えて、一番に中に入った。
渋木はこめかみを斬られながらも、
盗人と取っ組み合いになり、
それを見て、同輩たちも後に続き、
手傷を負いつつ、
ついに盗人を討ち取った。
小袖等300点ばかりが焼失し、
辺りは大変な騒動になったという。
格差社会が引き起こした事件といえようか。
なお、
先陣の手柄を立てた若党渋木は、
翌16日、深手がもとで死去。
殉職。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
応永27年(1420)11月12日朝、
京都四条富小路の土蔵(金融業者)宝泉類蔵に強盗が入り、
立て籠もった。
犯人の男(入道1人)は、
「土蔵の主人と話がしたいから、連れてこい」と主張。
だが、当の主人は怖がっていかず、
間に使いを立てて、
「財宝など100貫文でも200貫文でも呉れてやるから、
まずは出てきてくれ。」
と訴えた。
これに対して盗人は、
「もし無事に出られたとしても、
その後ただで済むはずがない。
蔵に火をつけて、焼身自殺してやる。」
と、頑なに拒み、
ついに、土蔵内の小袖や帷子に放火した。
騒動を聞いて、
室町幕府侍所(≒京都市中警察)の武士たちが駆けつけ、
所司代三方範忠の配下の者たちが、
土蔵の戸を打ち破って、突入した。
盗人は、
刀でバリケードを築いて、これを阻むが、
所司代の若党渋木という者が、
飛び越えて、一番に中に入った。
渋木はこめかみを斬られながらも、
盗人と取っ組み合いになり、
それを見て、同輩たちも後に続き、
手傷を負いつつ、
ついに盗人を討ち取った。
小袖等300点ばかりが焼失し、
辺りは大変な騒動になったという。
格差社会が引き起こした事件といえようか。
なお、
先陣の手柄を立てた若党渋木は、
翌16日、深手がもとで死去。
殉職。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
《誅殺》 《1461年》 《5月》 《23日》 《享年不明》
室町幕府問注所執事・評定衆・神宮方頭人。
町野淳康の家は、
もと鎌倉府の吏僚として活躍していた一族であったが、
永享年間に室町幕府問注所が欠員となったため、
淳康の父増悦が、鎌倉から京都に呼ばれた、とされている。
父の跡を継いで、
室町幕府の吏僚として活躍していた淳康であったが、
寛正2年(1461)5月23日、
部下にあたる神宮奉行でもあった幕府奉行人飯尾之清の屋敷で、
例日の会合があり、
その酒の席で、亭主の之清と口論になって、
次第に双方熱くなったか、喧嘩に発展して、負傷した。
よほどの重傷であったらしく、
帰宅後、死去。
将軍足利義教は、
相手の飯尾之清に切腹を命じ、
翌24日、執行。
2人とも神宮方頭人・奉行として、
大神宮造営などに尽力し、
将軍義教のおぼえも悪くなかったというが、
たった一度の喧嘩で、
文字通り人生を失った。
この例といい、坊門信守の例といい、
何にせよ、酔った上での喧嘩というのは、危ない。
〔参考〕
『続史料大成 増補普及版 大乗院寺社雑事記 2』 (臨川書店 2001)
『蔭涼軒日録 巻1』 (史籍刊行会 1953)
榎原雅治ほか「宮内庁書陵部所蔵三条西本『宗賢卿記』」
(榎原雅治編『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』 2012)
木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」
(佐藤博信編『関東足利氏と東国社会』 岩田書院 2012)
室町幕府問注所執事・評定衆・神宮方頭人。
町野淳康の家は、
もと鎌倉府の吏僚として活躍していた一族であったが、
永享年間に室町幕府問注所が欠員となったため、
淳康の父増悦が、鎌倉から京都に呼ばれた、とされている。
父の跡を継いで、
室町幕府の吏僚として活躍していた淳康であったが、
寛正2年(1461)5月23日、
部下にあたる神宮奉行でもあった幕府奉行人飯尾之清の屋敷で、
例日の会合があり、
その酒の席で、亭主の之清と口論になって、
次第に双方熱くなったか、喧嘩に発展して、負傷した。
よほどの重傷であったらしく、
帰宅後、死去。
将軍足利義教は、
相手の飯尾之清に切腹を命じ、
翌24日、執行。
2人とも神宮方頭人・奉行として、
大神宮造営などに尽力し、
将軍義教のおぼえも悪くなかったというが、
たった一度の喧嘩で、
文字通り人生を失った。
この例といい、坊門信守の例といい、
何にせよ、酔った上での喧嘩というのは、危ない。
〔参考〕
『続史料大成 増補普及版 大乗院寺社雑事記 2』 (臨川書店 2001)
『蔭涼軒日録 巻1』 (史籍刊行会 1953)
榎原雅治ほか「宮内庁書陵部所蔵三条西本『宗賢卿記』」
(榎原雅治編『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』 2012)
木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」
(佐藤博信編『関東足利氏と東国社会』 岩田書院 2012)
《誅殺》 《1423年》 《2月》 《20日》 《享年不明》
前円満院宮。
後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。
応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。
どちらも20歳前後と推定されている。
「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。
「円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。
〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)
』 (角川書店、1997)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
前円満院宮。
後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。
応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。
どちらも20歳前後と推定されている。
「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。
「円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。
〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
《誅殺》 《1435年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
山城舟津の下女。
永享6年(1434)9月頃、
伏見永松庵の僧超俊は、
舟津の下女某と密会した。
ところが、
翌年3月頃、
彼女の懐妊を知った超俊は、
永松庵門前の麦畠の中で、彼女を殺害。
遺体を莚に包んで、淀川に遺棄した。
寺の門前における多量の血痕は、
当然ながら問題となり、
捜査が開始されて、
超俊が周囲に、犯行を自白。
捜索の結果、
3月24日、山城山崎で、
刃物により数ヶ所傷付けられた遺体が発見される。
自白を裏付ける物証の出現により、超俊の犯行は確定したが、
時すでに遅く、
超俊は逐電した後であった。
現代にもありそうな、殺人事件。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
山城舟津の下女。
永享6年(1434)9月頃、
伏見永松庵の僧超俊は、
舟津の下女某と密会した。
ところが、
翌年3月頃、
彼女の懐妊を知った超俊は、
永松庵門前の麦畠の中で、彼女を殺害。
遺体を莚に包んで、淀川に遺棄した。
寺の門前における多量の血痕は、
当然ながら問題となり、
捜査が開始されて、
超俊が周囲に、犯行を自白。
捜索の結果、
3月24日、山城山崎で、
刃物により数ヶ所傷付けられた遺体が発見される。
自白を裏付ける物証の出現により、超俊の犯行は確定したが、
時すでに遅く、
超俊は逐電した後であった。
現代にもありそうな、殺人事件。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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