死に様データベース
《誅殺》 《1435年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
山城舟津の下女。
永享6年(1434)9月頃、
伏見永松庵の僧超俊は、
舟津の下女某と密会した。
ところが、
翌年3月頃、
彼女の懐妊を知った超俊は、
永松庵門前の麦畠の中で、彼女を殺害。
遺体を莚に包んで、淀川に遺棄した。
寺の門前における多量の血痕は、
当然ながら問題となり、
捜査が開始されて、
超俊が周囲に、犯行を自白。
捜索の結果、
3月24日、山城山崎で、
刃物により数ヶ所傷付けられた遺体が発見される。
自白を裏付ける物証の出現により、超俊の犯行は確定したが、
時すでに遅く、
超俊は逐電した後であった。
現代にもありそうな、殺人事件。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
山城舟津の下女。
永享6年(1434)9月頃、
伏見永松庵の僧超俊は、
舟津の下女某と密会した。
ところが、
翌年3月頃、
彼女の懐妊を知った超俊は、
永松庵門前の麦畠の中で、彼女を殺害。
遺体を莚に包んで、淀川に遺棄した。
寺の門前における多量の血痕は、
当然ながら問題となり、
捜査が開始されて、
超俊が周囲に、犯行を自白。
捜索の結果、
3月24日、山城山崎で、
刃物により数ヶ所傷付けられた遺体が発見される。
自白を裏付ける物証の出現により、超俊の犯行は確定したが、
時すでに遅く、
超俊は逐電した後であった。
現代にもありそうな、殺人事件。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
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《病死》 《1433年》 《12月》 《13日》 《享年不明》
伏見御香宮神社の巫女。
永享5年(1433)12月13日、
この巫女は、
仙洞御所(上皇の御所)の右衛門督局のところで、
酒を飲んだ。
そして、
その日のうちに急死。
この年の10月20日、
御所の主後小松上皇が崩御したばかりで、
その中陰も明けていなかったのである。
伏見宮貞成親王は、
「神慮恐るべし恐るべし」(『看聞日記』)
と慄いている。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
伏見御香宮神社の巫女。
永享5年(1433)12月13日、
この巫女は、
仙洞御所(上皇の御所)の右衛門督局のところで、
酒を飲んだ。
そして、
その日のうちに急死。
この年の10月20日、
御所の主後小松上皇が崩御したばかりで、
その中陰も明けていなかったのである。
伏見宮貞成親王は、
「神慮恐るべし恐るべし」(『看聞日記』)
と慄いている。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
《誅殺》 《1434年》 《12月》 《20日》 《享年不明》
左近中将。
永享6年(1434)12月20日、
関白二条持基亭において、
坊門信守は御所侍某と喧嘩になった。
何が原因かわからないが、
両者とも「沈酔」(『看聞日記』)していた。
先に信守が抜刀して斬りかかり、
逆に御所侍に突き殺された。
即死。
御所侍は、その場を逃亡したが、
その後、身柄を拘束されて、切腹。
「酔狂の至り、不可説也、」(『看聞日記』)とは、
まさしくそのとおりである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 五』 (宮内庁書陵部、2010)
左近中将。
永享6年(1434)12月20日、
関白二条持基亭において、
坊門信守は御所侍某と喧嘩になった。
何が原因かわからないが、
両者とも「沈酔」(『看聞日記』)していた。
先に信守が抜刀して斬りかかり、
逆に御所侍に突き殺された。
即死。
御所侍は、その場を逃亡したが、
その後、身柄を拘束されて、切腹。
「酔狂の至り、不可説也、」(『看聞日記』)とは、
まさしくそのとおりである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 五』 (宮内庁書陵部、2010)
《誅殺》 《1441年》 《2月》 《19日》 《享年不明》
地下楽人、右舞人。
嘉吉元年(1441)のとある日、
多忠右は、
「借物大法」のことで、室町幕府政所執事伊勢貞国と対立した。
その際、悪口を吐いた廉で、
将軍足利義教の命により、
2月19日、首を刎ねられた。
悪口(あっこう)は、中世においては大罪であった。
「御成敗式目」にも、
ひどい場合には流罪に処すと、記されている。
忠右の場合、
相手が悪かったのだろう。
地下楽人と幕府高官とでは、
流罪では済まされなかったのかもしれない。
なお、
忠右は、胡飲酒舞曲の相伝者であり、
その死により、天王寺の舞曲の断絶が懸念されたらしい。
話は、これだけでは収まらない。
忠右の刑死から2日後の2月21日、
忠右の妻が、自宅に火を放ち、自害した。
幸い、火はすぐに鎮火され、
周囲に広がることはなかったという。
夫の跡を追った凄絶な妻の死には違いないが、
果たして、壮絶なる夫婦愛と捉えてよいものかどうか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 六』 (宮内庁書陵部、2012)
地下楽人、右舞人。
嘉吉元年(1441)のとある日、
多忠右は、
「借物大法」のことで、室町幕府政所執事伊勢貞国と対立した。
その際、悪口を吐いた廉で、
将軍足利義教の命により、
2月19日、首を刎ねられた。
悪口(あっこう)は、中世においては大罪であった。
「御成敗式目」にも、
ひどい場合には流罪に処すと、記されている。
忠右の場合、
相手が悪かったのだろう。
地下楽人と幕府高官とでは、
流罪では済まされなかったのかもしれない。
なお、
忠右は、胡飲酒舞曲の相伝者であり、
その死により、天王寺の舞曲の断絶が懸念されたらしい。
話は、これだけでは収まらない。
忠右の刑死から2日後の2月21日、
忠右の妻が、自宅に火を放ち、自害した。
幸い、火はすぐに鎮火され、
周囲に広がることはなかったという。
夫の跡を追った凄絶な妻の死には違いないが、
果たして、壮絶なる夫婦愛と捉えてよいものかどうか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 六』 (宮内庁書陵部、2012)
《病死》 《1337年》 《3月》 《27日》 《享年不明》
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
下総神崎荘多賀郷・常陸南郡大枝郷栗俣村の領主。
14世紀前半、全国的に展開した南北朝の動乱は、
あらゆる人々を、戦乱の渦に巻き込んでいった。
その渦中の最も中心に近いところに、
戦闘を職能とする集団である武士がいたことは、
いうまでもない。
建武2年(1335)、
足利尊氏が鎌倉にて、後醍醐天皇に叛旗を翻すと、
東国武士野本朝行も、これに随った。
12月11日、
後醍醐方と衝突した伊豆愛沢原合戦で先駆けを果たし、
同日の中山合戦では、
味方劣勢ながら、若党10余騎を率いて、
結城朝祐勢とともに敵陣に駆け入り、
敵1騎を斬り倒した。
首を取ろうとしたが、
大将山名時氏に、
「首を取らずに、先へ進め」
と命じられ、
討った敵を川端へ追い落として、進んだ。
箱根・竹ノ下の戦いとしても有名な、この一連の合戦で、
足利尊氏は、後醍醐方の新田義貞を追い散らし、
京都を目指して東海道をひた走ってゆく。
12月12日、
伊豆国府合戦で、
中間平五郎を喪う。
翌建武3年(1336)正月3日、
近江伊幾寿宮合戦で、
朝行の若党岩瀬信経は、敵城に攻め入ったが、
左右の頬を射抜かれてしまった。
他の若党丸山為時・片切成義も、負傷。
正月8日、
若党岩瀬信経らは、結城朝祐の手勢とともに、
山城石清水八幡の敵を追い落とし、
木津川の橋を渡る敵に対して、
橋上の櫓を打ち破り、橋桁を踏み落とすという活躍を見せた。
ただ、若党の一人岩瀬胤経は、負傷。
正月16日、
若党岩瀬信経・光家らは、
京都法勝寺脇に、残敵を追い詰め、
纐纈の直垂を着る、身分の高そうな武士を1騎、討ち取った。
正月27日、
この日も、若党信経・光家らが、
中賀茂の西にて、敵方の鞍馬法師3人を生け捕りにする。
だが、
その後の戦闘で、信経は乗馬を射られてしまった。
正月30日、
京都法成寺西門前の戦闘で、
朝行の郎等杉本吉弘が、
敵方結城親光の家人関孫五郎を組み伏せ、
首を取った。
これらの合戦で、
尊氏方は、いったんは京都を奪うも、
後醍醐方の来援が相次いだことで、これを放棄し、
瀬戸内を西走する。
2月1日、
朝行は、足利尊氏に随って、
丹波篠村経由で、摂津兵庫に至る。
2月10日、
摂津西宮合戦では、
尊氏の弟直義の勢に属した。
2月11日、
摂津豊島河原合戦では、河原に陣を取るも、
直義がにわかに兵庫へ帰ったことで、
朝行もこれに随った。
2月12日、
窮地の足利方は、皆決戦での討死を覚悟したが、
直義は、夜陰に船に乗って出港してしまった。
それを知らず、供奉できなかった失意の朝行は、
敵が近いこともあって、
密かに京都に入り、その人波に身を隠す。
2月30日、
その京都も脱出し、本国関東を目指す。
その途次、三河などで、
野臥の襲撃に遭うことは何度もあった。
また、
後醍醐方の遠江井伊城攻めに加わったりもしたらしい。
その後は、関東の戦乱に活動場所を移す。
後醍醐方の北畠顕家の南進の際には、
一族とともに、下野小山城に籠城し、これと戦った。
11月3日、
下野横田・毛原合戦で、敵の首1つをとる。
また、郎等大淵彦九郎入道が、負傷している。
建武4年(1337)3月10日、
後醍醐方の小田治久・益戸虎法師丸が、
常陸府中に攻めてきたときには、
若党岩瀬信経が、朝行の代官として出陣。
敵1人を討った。
それからわずか17日後、
3月27日、朝行他界。
おそらくは、戦死ではなく、病死と思われる。
「合戦の静謐を待っていた折」(「熊谷家文書」)であった。
最期の数年間、戦場に身を置いて、
ときに、仲間が傷付き、死んでゆくのを見る朝行の苦悩は、
いかほどのものであったろう。
上記の軍功のほとんどが、
朝行本人のものではなく、若党の活躍ばかりなのも、
そんな思いを反映しているのかもしれない。
戦場で落命しなかった分、
まだ幸せだったと見るべきだろうか。
朝行の死後、
子の鶴寿丸が、幼少ながら若党らを率いて戦場に出た。
建武4年(1337)7月8日、
常陸関城合戦では、
鶴寿丸の代官の1人として出陣した新妻胤重や、
一族の野本高宣以下、若党4人が、討死。
また、
野本家の所領である下総神崎荘多賀郷には、
後醍醐方の千葉貞胤が乱入し、
野本家の代官と連日合戦を行った。
常陸の所領大枝郷栗俣村にも、
後醍醐方の小田治久らが攻め入って、
代官らが焼け出され、
その家族は、山林に逃げ込んだという。
「合戦静謐」(「熊谷家文書」)を待つ、
平和を待ち望む思いは、
時代を問わない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 第1巻』 (東京堂出版 2007年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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