死に様データベース
《誅殺》 《1461年》 《5月》 《23日》 《享年不明》
室町幕府問注所執事・評定衆・神宮方頭人。
町野淳康の家は、
もと鎌倉府の吏僚として活躍していた一族であったが、
永享年間に室町幕府問注所が欠員となったため、
淳康の父増悦が、鎌倉から京都に呼ばれた、とされている。
父の跡を継いで、
室町幕府の吏僚として活躍していた淳康であったが、
寛正2年(1461)5月23日、
部下にあたる神宮奉行でもあった幕府奉行人飯尾之清の屋敷で、
例日の会合があり、
その酒の席で、亭主の之清と口論になって、
次第に双方熱くなったか、喧嘩に発展して、負傷した。
よほどの重傷であったらしく、
帰宅後、死去。
将軍足利義教は、
相手の飯尾之清に切腹を命じ、
翌24日、執行。
2人とも神宮方頭人・奉行として、
大神宮造営などに尽力し、
将軍義教のおぼえも悪くなかったというが、
たった一度の喧嘩で、
文字通り人生を失った。
この例といい、坊門信守の例といい、
何にせよ、酔った上での喧嘩というのは、危ない。
〔参考〕
『続史料大成 増補普及版 大乗院寺社雑事記 2』 (臨川書店 2001)
『蔭涼軒日録 巻1』 (史籍刊行会 1953)
榎原雅治ほか「宮内庁書陵部所蔵三条西本『宗賢卿記』」
(榎原雅治編『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』 2012)
木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」
(佐藤博信編『関東足利氏と東国社会』 岩田書院 2012)
室町幕府問注所執事・評定衆・神宮方頭人。
町野淳康の家は、
もと鎌倉府の吏僚として活躍していた一族であったが、
永享年間に室町幕府問注所が欠員となったため、
淳康の父増悦が、鎌倉から京都に呼ばれた、とされている。
父の跡を継いで、
室町幕府の吏僚として活躍していた淳康であったが、
寛正2年(1461)5月23日、
部下にあたる神宮奉行でもあった幕府奉行人飯尾之清の屋敷で、
例日の会合があり、
その酒の席で、亭主の之清と口論になって、
次第に双方熱くなったか、喧嘩に発展して、負傷した。
よほどの重傷であったらしく、
帰宅後、死去。
将軍足利義教は、
相手の飯尾之清に切腹を命じ、
翌24日、執行。
2人とも神宮方頭人・奉行として、
大神宮造営などに尽力し、
将軍義教のおぼえも悪くなかったというが、
たった一度の喧嘩で、
文字通り人生を失った。
この例といい、坊門信守の例といい、
何にせよ、酔った上での喧嘩というのは、危ない。
〔参考〕
『続史料大成 増補普及版 大乗院寺社雑事記 2』 (臨川書店 2001)
『蔭涼軒日録 巻1』 (史籍刊行会 1953)
榎原雅治ほか「宮内庁書陵部所蔵三条西本『宗賢卿記』」
(榎原雅治編『古記録の史料学的な研究にもとづく室町文化の基層の解明』 2012)
木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」
(佐藤博信編『関東足利氏と東国社会』 岩田書院 2012)
PR
《誅殺》 《1423年》 《2月》 《20日》 《享年不明》
前円満院宮。
後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。
応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。
どちらも20歳前後と推定されている。
「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。
「円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。
〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)
』 (角川書店、1997)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
前円満院宮。
後南朝、
護正院宮惟成親王の子、
後醍醐天皇の曾孫。
応永30年(1423)2月20日、
兄弟の護正院宮(世明宮)と輿に同乗していた前円満院宮円悟は、
何がきっかけであったか、
輿の中で、殺意の湧くほどに彼と対立し、
これを葬らんとしたところ、
却って自分が殺されてしまった。
護正院宮(世明宮)も負傷。
どちらも20歳前後と推定されている。
「詳しいことはよくわからないが、妙なことだ」(『看聞日記』)
という伏見宮貞成親王の感想がもっともな事件である。
「円満院、狂気の人と云々」(『看聞日記』)というから、
日頃から行動が常軌を逸していたのかもしれない。
〔参考〕
森茂暁『闇の歴史、後南朝―後醍醐流の抵抗と終焉 (角川選書)
田代圭一「南朝皇胤についての一考察」 (『古典遺産』54、2004)
《誅殺》 《1435年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
山城舟津の下女。
永享6年(1434)9月頃、
伏見永松庵の僧超俊は、
舟津の下女某と密会した。
ところが、
翌年3月頃、
彼女の懐妊を知った超俊は、
永松庵門前の麦畠の中で、彼女を殺害。
遺体を莚に包んで、淀川に遺棄した。
寺の門前における多量の血痕は、
当然ながら問題となり、
捜査が開始されて、
超俊が周囲に、犯行を自白。
捜索の結果、
3月24日、山城山崎で、
刃物により数ヶ所傷付けられた遺体が発見される。
自白を裏付ける物証の出現により、超俊の犯行は確定したが、
時すでに遅く、
超俊は逐電した後であった。
現代にもありそうな、殺人事件。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
山城舟津の下女。
永享6年(1434)9月頃、
伏見永松庵の僧超俊は、
舟津の下女某と密会した。
ところが、
翌年3月頃、
彼女の懐妊を知った超俊は、
永松庵門前の麦畠の中で、彼女を殺害。
遺体を莚に包んで、淀川に遺棄した。
寺の門前における多量の血痕は、
当然ながら問題となり、
捜査が開始されて、
超俊が周囲に、犯行を自白。
捜索の結果、
3月24日、山城山崎で、
刃物により数ヶ所傷付けられた遺体が発見される。
自白を裏付ける物証の出現により、超俊の犯行は確定したが、
時すでに遅く、
超俊は逐電した後であった。
現代にもありそうな、殺人事件。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
《病死》 《1433年》 《12月》 《13日》 《享年不明》
伏見御香宮神社の巫女。
永享5年(1433)12月13日、
この巫女は、
仙洞御所(上皇の御所)の右衛門督局のところで、
酒を飲んだ。
そして、
その日のうちに急死。
この年の10月20日、
御所の主後小松上皇が崩御したばかりで、
その中陰も明けていなかったのである。
伏見宮貞成親王は、
「神慮恐るべし恐るべし」(『看聞日記』)
と慄いている。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
伏見御香宮神社の巫女。
永享5年(1433)12月13日、
この巫女は、
仙洞御所(上皇の御所)の右衛門督局のところで、
酒を飲んだ。
そして、
その日のうちに急死。
この年の10月20日、
御所の主後小松上皇が崩御したばかりで、
その中陰も明けていなかったのである。
伏見宮貞成親王は、
「神慮恐るべし恐るべし」(『看聞日記』)
と慄いている。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 四』 (宮内庁書陵部 2008)
《誅殺》 《1434年》 《12月》 《20日》 《享年不明》
左近中将。
永享6年(1434)12月20日、
関白二条持基亭において、
坊門信守は御所侍某と喧嘩になった。
何が原因かわからないが、
両者とも「沈酔」(『看聞日記』)していた。
先に信守が抜刀して斬りかかり、
逆に御所侍に突き殺された。
即死。
御所侍は、その場を逃亡したが、
その後、身柄を拘束されて、切腹。
「酔狂の至り、不可説也、」(『看聞日記』)とは、
まさしくそのとおりである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 五』 (宮内庁書陵部、2010)
左近中将。
永享6年(1434)12月20日、
関白二条持基亭において、
坊門信守は御所侍某と喧嘩になった。
何が原因かわからないが、
両者とも「沈酔」(『看聞日記』)していた。
先に信守が抜刀して斬りかかり、
逆に御所侍に突き殺された。
即死。
御所侍は、その場を逃亡したが、
その後、身柄を拘束されて、切腹。
「酔狂の至り、不可説也、」(『看聞日記』)とは、
まさしくそのとおりである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 五』 (宮内庁書陵部、2010)
ブログ内検索
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R