死に様データベース
《誅殺》 《1430年》 《2月》 《17日》 《享年不明》
室町幕府政所執事伊勢貞経の家臣。
永享2年(1430)2月17日、
主人伊勢貞経の屋敷にて、
突如討たれた。
「女の事」(『満済准后日記』)が理由にあったというが、
当初の予定では、捕縛するはずであったところ、
抵抗したためか、討たれてしまった。
このとき、
同族の高橋彦左衛門も、召し捕えられている。
しかも、後々わかったことには、
高橋四郎には特に罪はなく、
完全に濡れ衣であったらしい。
主人伊勢貞経の「楚忽の沙汰」(『満済准后日記』)であり、
「不便々々(ふびんふびん)」(『満済准后日記』)というほかない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
室町幕府政所執事伊勢貞経の家臣。
永享2年(1430)2月17日、
主人伊勢貞経の屋敷にて、
突如討たれた。
「女の事」(『満済准后日記』)が理由にあったというが、
当初の予定では、捕縛するはずであったところ、
抵抗したためか、討たれてしまった。
このとき、
同族の高橋彦左衛門も、召し捕えられている。
しかも、後々わかったことには、
高橋四郎には特に罪はなく、
完全に濡れ衣であったらしい。
主人伊勢貞経の「楚忽の沙汰」(『満済准后日記』)であり、
「不便々々(ふびんふびん)」(『満済准后日記』)というほかない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(下)』 (続群書類従完成会 1928)
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《誅殺》 《1245年》 《12月》 《7日》 《享年不明》
山城禅定寺の寄人。
寛元3年(1245)12月7日、
山城宇治の禅定寺の寄人6人が、
用あって上京した。
その途次、法性寺の辺りで、
山城木幡の住人8人と行き会い、
七条河原辺で、馬の走り競いをすることになった。
その際、禅定寺寄人方が、
跳ねて暴れる木幡住人方の馬を、牽き抑えた。
この行動が、木幡住人の怒りに触れたらしい。
寄人の尻を蹴り上げ、
首をつかんで散々に打ちつけた。
この仕打ちに、
寄人たちも野次馬も驚いたが、
衆寡敵せず、寄人たちは引き下がった。
まだ腹の虫がおさまらない木幡住人たちは、
木幡周辺で待ち伏せし、
帰路にあった寄人たちを襲撃。
乱闘の末、
深夜子の刻(8日深夜0時頃)、
寄人の美乃という名の男が、一坂にて死亡。
いま一人も、瀕死の重傷を負った。
木幡住人たちは、あろうことか、
寄人たちの金銭を奪い取って、山中へ逃亡した。
禅定寺は、憤慨して猛抗議。
本寺の宇治平等院も、摂関家に訴え出た。
犯人の身柄引き渡しを要求した禅定寺方は、
「木幡山において頸を切り懸くるべく候、」(『禅定寺文書』)
と、息巻いたが、
木幡住人の中六・藤三郎という男2人が、
検非違使庁に差し出され、禁獄、
というほかは、よくわからない。
中世人の沸点は低く、恐ろしい。
〔参考〕
古代学協会『禅定寺文書』 (吉川弘文館 1979年)
朝比奈新「摂関家領荘園の領域形成と地域」(歴史学研究会中世史部会報告レジュメ 2012年2月)
山城禅定寺の寄人。
寛元3年(1245)12月7日、
山城宇治の禅定寺の寄人6人が、
用あって上京した。
その途次、法性寺の辺りで、
山城木幡の住人8人と行き会い、
七条河原辺で、馬の走り競いをすることになった。
その際、禅定寺寄人方が、
跳ねて暴れる木幡住人方の馬を、牽き抑えた。
この行動が、木幡住人の怒りに触れたらしい。
寄人の尻を蹴り上げ、
首をつかんで散々に打ちつけた。
この仕打ちに、
寄人たちも野次馬も驚いたが、
衆寡敵せず、寄人たちは引き下がった。
まだ腹の虫がおさまらない木幡住人たちは、
木幡周辺で待ち伏せし、
帰路にあった寄人たちを襲撃。
乱闘の末、
深夜子の刻(8日深夜0時頃)、
寄人の美乃という名の男が、一坂にて死亡。
いま一人も、瀕死の重傷を負った。
木幡住人たちは、あろうことか、
寄人たちの金銭を奪い取って、山中へ逃亡した。
禅定寺は、憤慨して猛抗議。
本寺の宇治平等院も、摂関家に訴え出た。
犯人の身柄引き渡しを要求した禅定寺方は、
「木幡山において頸を切り懸くるべく候、」(『禅定寺文書』)
と、息巻いたが、
木幡住人の中六・藤三郎という男2人が、
検非違使庁に差し出され、禁獄、
というほかは、よくわからない。
中世人の沸点は低く、恐ろしい。
〔参考〕
古代学協会『禅定寺文書』 (吉川弘文館 1979年)
朝比奈新「摂関家領荘園の領域形成と地域」(歴史学研究会中世史部会報告レジュメ 2012年2月)
《戦死》 《1336年》 《8月》 《20日》 《享年不明》
鎌倉鶴岡八幡宮に仕える侍。
横地某の養子となっていた。
建武3年(1336)8月20日亥の刻(夜10時頃)、
悪党50人余が、鶴岡八幡宮の境内に乱入した。
神宝を強盗しようとしたらしい。
宿直の番をしていた小栗十郎は、
下宮まで出て防戦し、悪党を追い帰したが、
自身も重傷を負った。
運ばれたか、
それとも自力でたどりついたか、
上宮廻廊妻まで来たところで、絶命。
鶴岡八幡宮の史料には、
「無双高名」(『鶴岡社務記録』)
と、ある。
ひと月後の9月28日、
再び悪党が宝蔵に押し寄せ、
小栗十郎の養父横地らが、防戦して追い帰した。
悪党らは、手負いの仲間や仲間の死体を抱えて、
帰って行った。
列島各地で北朝と南朝が相争う、混乱した時代の、
都市鎌倉の様相が、窺い知れる。
〔参考〕
豊田武・岡田荘司校注『神道大系 神社編20 鶴岡』 (神道大系編纂会 1979)
鎌倉鶴岡八幡宮に仕える侍。
横地某の養子となっていた。
建武3年(1336)8月20日亥の刻(夜10時頃)、
悪党50人余が、鶴岡八幡宮の境内に乱入した。
神宝を強盗しようとしたらしい。
宿直の番をしていた小栗十郎は、
下宮まで出て防戦し、悪党を追い帰したが、
自身も重傷を負った。
運ばれたか、
それとも自力でたどりついたか、
上宮廻廊妻まで来たところで、絶命。
鶴岡八幡宮の史料には、
「無双高名」(『鶴岡社務記録』)
と、ある。
ひと月後の9月28日、
再び悪党が宝蔵に押し寄せ、
小栗十郎の養父横地らが、防戦して追い帰した。
悪党らは、手負いの仲間や仲間の死体を抱えて、
帰って行った。
列島各地で北朝と南朝が相争う、混乱した時代の、
都市鎌倉の様相が、窺い知れる。
〔参考〕
豊田武・岡田荘司校注『神道大系 神社編20 鶴岡』 (神道大系編纂会 1979)
《病死》 《1350年》 《3月》 《2日》 《享年不明》
法印権大僧都。
独清軒。
玄恵とも。
漢学や詩歌に通じ、
公家社会などで重用された。
また、
足利直義とも親しく、
室町幕府の基本法令『建武式目』の起草にも関与している。
足利尊氏とその庶長子直冬の間をとりもつよう、
直義に進言したのも、
玄慧であったという。
貞和5年(1349)閏6月、
直義は、対立する高師直の排除に、いったんは成功するものの、
その2ヶ月後、巻き返しにあって、
政務より引退。
京都三条坊門高倉の屋敷も、尊氏の嫡子義詮に譲って、
12月、42歳にして剃髪し、
錦小路堀川の細川顕氏亭に籠居した。
その直義の無聊を慰めたのが、
玄慧であった、と『太平記』は伝えている。
師直の許可を得て、度々直義のもとを訪れ、
様々な物語を聞かせたという。
その玄慧も、やがて老病に冒される。
直義は、薬1包を玄慧に贈り、
その包み紙に、
ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世に (『太平記』)
と、詠んだ。
玄慧は、これを読んで涙し、
君が一日の恩を感じ
我が百年の魂を招く
病を扶けて床下に坐す
書を披いて泪痕を拭ふ (『太平記』)
と、詠んだ。
平癒を祈る直義と、それに感じ入る玄慧。
なんとも、友と呼ぶにふさわしい交流である。
観応元年(1350)3月2日、円寂。
直義は深く悲しみ、
上の漢詩に紙を貼り継ぎ、経典の一句を書き入れて、
玄慧の菩提を弔った。
嘆いたのは、直義ばかりではない。
洞院公賢は、
「文道の衰微か。
天下頗る不問文王没落か。
不便々々。」(『園太暦』)
と、記し、
頓阿は、直義の弔歌を読んで、
なき跡をとはるゝまでものこりけり窓にあつめしゆきの光は (『草庵和歌集』)
と、詠み、
そのほか、多くの禅僧やときの文化人たちが、
玄慧の死を惜しんだ。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
『太平記 三 日本古典文学大系36』 (岩波書店 1962)
『国史大辞典 5 (け-こほ)』 (吉川弘文館 1985)
法印権大僧都。
独清軒。
玄恵とも。
漢学や詩歌に通じ、
公家社会などで重用された。
また、
足利直義とも親しく、
室町幕府の基本法令『建武式目』の起草にも関与している。
足利尊氏とその庶長子直冬の間をとりもつよう、
直義に進言したのも、
玄慧であったという。
貞和5年(1349)閏6月、
直義は、対立する高師直の排除に、いったんは成功するものの、
その2ヶ月後、巻き返しにあって、
政務より引退。
京都三条坊門高倉の屋敷も、尊氏の嫡子義詮に譲って、
12月、42歳にして剃髪し、
錦小路堀川の細川顕氏亭に籠居した。
その直義の無聊を慰めたのが、
玄慧であった、と『太平記』は伝えている。
師直の許可を得て、度々直義のもとを訪れ、
様々な物語を聞かせたという。
その玄慧も、やがて老病に冒される。
直義は、薬1包を玄慧に贈り、
その包み紙に、
ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世に (『太平記』)
と、詠んだ。
玄慧は、これを読んで涙し、
君が一日の恩を感じ
我が百年の魂を招く
病を扶けて床下に坐す
書を披いて泪痕を拭ふ (『太平記』)
と、詠んだ。
平癒を祈る直義と、それに感じ入る玄慧。
なんとも、友と呼ぶにふさわしい交流である。
観応元年(1350)3月2日、円寂。
直義は深く悲しみ、
上の漢詩に紙を貼り継ぎ、経典の一句を書き入れて、
玄慧の菩提を弔った。
嘆いたのは、直義ばかりではない。
洞院公賢は、
「文道の衰微か。
天下頗る不問文王没落か。
不便々々。」(『園太暦』)
と、記し、
頓阿は、直義の弔歌を読んで、
なき跡をとはるゝまでものこりけり窓にあつめしゆきの光は (『草庵和歌集』)
と、詠み、
そのほか、多くの禅僧やときの文化人たちが、
玄慧の死を惜しんだ。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
『太平記 三 日本古典文学大系36』 (岩波書店 1962)
『国史大辞典 5 (け-こほ)』 (吉川弘文館 1985)
《病死》 《1350年》 《2月》 《22日》 《享年74歳》
正三位、権中納言。
後醍醐天皇の重臣吉田定房の弟。
吉田隆長は、鎌倉末期には、
比叡山に訴えられて、阿波に流されたこともあった。
南北朝分立後は、
兄定房と異なり、京都に残って北朝に仕えた。
定房の子宗房と、吉田家の家督を争ったこともあったらしい。
高齢のゆえか、体調を崩しがちであったらしい隆長は、
貞和5年(1349)6月、
鹿肉を食して、やや体力を取り戻した。
だが、数日後にはまた悪くなり、
食欲も減退。
息子の甘露寺藤長は、
父の容態を思って、「歎息」(『園太暦』)している。
翌貞和6年(1350)2月6日、
さらに容態が悪化し、
何も食べることができず、
どうにもならないような状況に陥った。
そうして、
22日、他界。
74歳。
翌23日、
隆長の娘婿坊城俊実も、相次いで没した。
人々は、世の無常を嘆いた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
正三位、権中納言。
後醍醐天皇の重臣吉田定房の弟。
吉田隆長は、鎌倉末期には、
比叡山に訴えられて、阿波に流されたこともあった。
南北朝分立後は、
兄定房と異なり、京都に残って北朝に仕えた。
定房の子宗房と、吉田家の家督を争ったこともあったらしい。
高齢のゆえか、体調を崩しがちであったらしい隆長は、
貞和5年(1349)6月、
鹿肉を食して、やや体力を取り戻した。
だが、数日後にはまた悪くなり、
食欲も減退。
息子の甘露寺藤長は、
父の容態を思って、「歎息」(『園太暦』)している。
翌貞和6年(1350)2月6日、
さらに容態が悪化し、
何も食べることができず、
どうにもならないような状況に陥った。
そうして、
22日、他界。
74歳。
翌23日、
隆長の娘婿坊城俊実も、相次いで没した。
人々は、世の無常を嘆いた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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