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死に様データベース
《病死》 《1349年》 《7月》 《6日》 《享年35歳》


前関白、
従一位左大臣。


九条道教は、北朝に仕え、
南北朝動乱の世にあって、なんとか家と家領を保った。


貞和2・3年(1346・47)頃より、体を壊しがちで、
出家を遂げていた。
貞和5年(1349)6月下旬のころより、
その「累年所労」(『園太暦』)が悪化。
24日には、「御持病危急」(『師守記』)に陥り、
いちどは薨去の報すら流れた。

7月6日未の刻(午後2時頃)、薨去。
35歳。
「心気御所労」(『師守記』)というから、
循環器系の病であろう。

その日の朝、
道教の妻は、夢うつつに不思議なものを見た。
蓮台に乗った観音菩薩が、道教の枕もとに現れ、
庭木の辺りには、紫雲が立ち込めたという。


7月8日、
一音院にて火葬。


数年前からの仏門への帰依と、
臨終の際における、観音菩薩の出現。
死への周到な準備と、その結実を、
中原師守は、
「臨終正念」(『師守記』)
と、記している。


北朝は、3日間奏事を停止。


乱世の対応に苦慮した上の、若死にであろうか。
おりしも、
室町幕府内部における足利直義高師直の対立が惹起し、
動乱がより混迷の色を深めていくさなかであった。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
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《誅殺》 《1574年》 《8月》 《某日》 《享年不明》


薩摩川辺の盗人。

天正2年(1574)8月、
薩摩鹿篭のとある夫婦の家に忍び込み、
馬や下人、その他諸々の物品を盗んだが、
その後、薩摩川辺で捕えられ、処刑された。


問題はそのあと。
犯行の現場となった鹿篭の城主島津忠長は、
孫左衛門の居住地であった川辺の城主平田宗張に、
孫左衛門の盗んだ物の引き渡しを要求。
この争いは、大名島津義久のもとに持ち込まれた。
平田宗張は、「そんなことは知らない」とつっぱねるが、
島津忠長はしつこく、「馬と下人を返せ」と迫り、
結局、島津義久の調停により、
「盗人を討ち取ったならば、
 盗んだ物は返さなくてもよい」
ということになった。
島津忠長は、自分の言い分が聞き届けられず、
鹿篭に帰ってしまい、
義久も仕方なく、平田宗張を川辺に帰すことにした。


戦国大名は、
こうしたような訴えや争いの調停におわれて、
苦悩していたらしい。


と、
孫左衛門本人の所業とは関係ない話になってしまったが、
物品ばかりでなく、馬や人といった盗んだものの規模や、
その後の話の拡がりから考えれば、
孫左衛門は、それなりの盗賊団の頭目だったということだろうか。



〔参考〕
『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 岩波書店 1954
《病死》 《1372年》 《3月》 《29日》 《享年不明》


室町幕府問注所執事・引付方・評定衆、
鎌倉府問注所執事。


太田顕之は、鎌倉時代以来の法曹官僚の家に生まれ、
自らもその職能をもって、
南北朝内乱期の足利氏に仕えた。

貞和2年(1346)・同5年(1349)正月の将軍足利尊氏の評定始には、
高師直・佐々木導誉らとともに、参列している。


観応の擾乱では、
直義方につき、直義の北国落ちにも随ったが、
擾乱後、幕府に復帰し、
文和3年(1354)5月の足利義詮の評定始に、
仁木頼章・佐々木導誉らと参列している。


その後、京都から鎌倉に移り、
鎌倉公方足利基氏に、問注所執事として仕えたらしい。
隼人正入道沙弥善照」・「雪林善照居士」・「問注所雪林居士」の名で、
記録等に散見されるが、
その活動はあまり明らかでない。


応安5年(1372)3月29日、
急死。

火葬の際の火付け役を頼まれたが、
病気を理由に断った義堂周信は、
「嗚呼哀しい哉。
 天下安危は、一人にかかっていた。
 今後世の中はどうなるだろう。
 思えば、こんにち世の人で言動に慎み深いのは、
 だけであった。
 いまや、姦佞の者どものどこに、慎み深い者がいるだろうか。
 ましてや、我が宗門に頼むべき人などいるはずもない。」(『空華日用工夫略集』)
と、その死を嘆き悼んだ。


この周信の記より、
顕行が能吏であったことが、うかがえる。

そして、周信の恐れどおり、
「天下安危」を支えた顕行の死後、
鎌倉では、円覚寺と建長寺の僧侶の衝突が激化したり、
下総香取社の社人たちが、千葉氏の横暴を訴えて、神輿を担いで乗り込んだりと、
きな臭い、物騒なさわぎが続いた。

官僚の重みというものか。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
新田一郎「「問注所氏」小考」 (『遥かなる中世』8 1987)
湯山学「鎌倉府と問注所執事三善氏」 (『鎌倉府の研究』 岩田書院 2011)
《病死》 《1525年》 《2月》 《2日》 《享年68歳》


本願寺第9世。

兄順如が早世したため、
父蓮如の法嗣となって、
延徳8年(1489)、本願寺を継承した。

室町幕府管領細川政元との関係を、良好に保ち、
急成長した本願寺教団を、何とか統制しつつ、
大名間の抗争にも介入するなどしたが、
政元の横死後は、その統制に苦慮し、
政治介入もやめて、
教団の再編・強化に努めた。


実如はまた、教団の地位の上昇にも貢献し、
大永元年(1521)には、
後柏原天皇より、准門跡とされている。
圧倒的な存在感を放つ父蓮如の陰に隠れて、やや目立たないが、
実如が本願寺教団に果たした役割は、大きい。


大永5年(1525)正月中旬、
山科本願寺にて病臥した実如は、
2月2日暁七つ時(午前4時頃)、
呼吸が荒くなり、
六つ時(朝6時頃)、昏睡。
辰の刻(朝8時頃)、永眠。
68歳。


7日未の刻(午後2時頃)、葬儀。
各地より門徒たちが上洛して参列し、
その数は、数十万にものぼったという。
なかには、実如に殉じて、
切腹する者もあったというが、定かではない。
偉大な宗主の盛大な葬儀であったことには、違いない。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅶ』 (石川県 2009)
『国史大辞典 第6巻(こま-しと)』 (吉川弘文館 1985)
《病死》 《1365年》 《9月》 《13日》 《享年41歳》


下総守護。


南北朝内乱において、千葉氏胤は足利方に属し、
京都や関東を転戦。
観応の擾乱(足利方の内訌)でも、
はじめは直義方に属したが、
やがて尊氏方に転じた。
その功により、
累代の下総守護職に加えて、
伊賀守護職も与えられ、のち上総守護に転じている。

観応の擾乱後、
尊氏より東国支配の一端を任されたようだが、
寺社領等を押領したために、上総守護を解任されており、
尊氏の期待には応えていない。


貞治4年(1365)、
氏胤は京都にて病となり、
帰国することとなった。
その途次、9月13日、
美濃において客死。

南北朝内乱の序盤・中盤でこそ、
全国の武士の、文字通りの“東奔西走”があったが、
延文4年(1359)の東国勢の上洛を最後に、
軍勢の東西間の往来は、ほぼなくなる。
氏胤が、何しに京都に行っていたのかよくわからないが、
京都生まれであったというから、
何か特別なつながりを、ずっと持っていたのかもしれない。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
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