死に様データベース
《病死》 《1365年》 《9月》 《13日》 《享年41歳》
下総守護。
南北朝内乱において、千葉氏胤は足利方に属し、
京都や関東を転戦。
観応の擾乱(足利方の内訌)でも、
はじめは直義方に属したが、
やがて尊氏方に転じた。
その功により、
累代の下総守護職に加えて、
伊賀守護職も与えられ、のち上総守護に転じている。
観応の擾乱後、
尊氏より東国支配の一端を任されたようだが、
寺社領等を押領したために、上総守護を解任されており、
尊氏の期待には応えていない。
貞治4年(1365)、
氏胤は京都にて病となり、
帰国することとなった。
その途次、9月13日、
美濃において客死。
南北朝内乱の序盤・中盤でこそ、
全国の武士の、文字通りの“東奔西走”があったが、
延文4年(1359)の東国勢の上洛を最後に、
軍勢の東西間の往来は、ほぼなくなる。
氏胤が、何しに京都に行っていたのかよくわからないが、
京都生まれであったというから、
何か特別なつながりを、ずっと持っていたのかもしれない。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
下総守護。
南北朝内乱において、千葉氏胤は足利方に属し、
京都や関東を転戦。
観応の擾乱(足利方の内訌)でも、
はじめは直義方に属したが、
やがて尊氏方に転じた。
その功により、
累代の下総守護職に加えて、
伊賀守護職も与えられ、のち上総守護に転じている。
観応の擾乱後、
尊氏より東国支配の一端を任されたようだが、
寺社領等を押領したために、上総守護を解任されており、
尊氏の期待には応えていない。
貞治4年(1365)、
氏胤は京都にて病となり、
帰国することとなった。
その途次、9月13日、
美濃において客死。
南北朝内乱の序盤・中盤でこそ、
全国の武士の、文字通りの“東奔西走”があったが、
延文4年(1359)の東国勢の上洛を最後に、
軍勢の東西間の往来は、ほぼなくなる。
氏胤が、何しに京都に行っていたのかよくわからないが、
京都生まれであったというから、
何か特別なつながりを、ずっと持っていたのかもしれない。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
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《病死》 《1514年》 《8月》 《24日》 《享年72歳》
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2010)
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2010)
《誅殺》 《1486年》 《7月》 《26日》 《享年55歳》
扇谷上杉氏家宰。
扇谷上杉氏家宰であった父太田道真は、
山内上杉氏家宰長尾景仲とともに、上杉方の中心的な存在であり、
鎌倉公方足利成氏と対立した。
その対立は、
鎌倉府の崩壊を招き、
15世紀最大の東国内乱、享徳の大乱へ発展する。
北関東の豪族たちを従え、
下総古河を拠点に、布陣をかためた足利成氏に対して、
上杉方は、武蔵五十子に本陣をすえ、
武蔵河越・江戸に城を築いて、
河越城に、扇谷上杉持朝とその家宰太田道真、
江戸城に、太田道灌を入れた。
道灌が江戸城を築城した、とされる所以である。
寛正2年(1461)、
父道真が隠居し、
文明5年(1473)、
扇谷上杉政真の戦死により、
その叔父定正が新たな当主として迎えられると、
その擁立劇をリードした家宰道灌が、
名実ともに、扇谷上杉氏の主導的立場となり、
上杉方の中心的存在となった。
文明8年(1476)3~10月、
扇谷上杉氏の姻戚である駿河守護今川氏の内紛に際し、
武蔵江戸より駿河府中へ出陣。
また同じ頃、
長尾景春が、主人山内上杉顕定に謀叛を起こすと、
帰国したばかりの道灌は、
同じ上杉方として、その鎮火に奔走する。
文明9年(1477)3月、
長尾景春方の相模溝呂木・小磯城を陥し、
4月、
武蔵江古田原で、景春方の豊島氏を破り、
ついで、武蔵石神井城を攻めて、同氏を降服させた。
5月、
武蔵用土原で、景春自身を破って退かせ、
7月、
景春を支援する足利成氏の来襲に備えて、
上野白井城に入城。
9月、
上野塩売原で、再び出陣してきた景春と対陣、
11月、
これを逐った。
翌文明10年(1478)2月、
豊島氏を討つため、武蔵南部に出陣、
4月、
豊島氏の籠る武蔵小机城を陥し、
相模奥三保・甲斐の景春方を追撃、
7月、
武蔵中・北部を転戦して、景春方を叩き、
12月、
下総境根原で、景春方の千葉孝胤を破った。
文明11年(1479)1月、
孝胤の籠る下総臼井城に攻め、
この戦いで、弟資忠を喪うが、
7月には、
下総・上総の景春方を降し、
文明12年(1480)1月、
武蔵長井城を陥し、
6月、
景春の籠る武蔵秩父の日野城を陥落させた。
とんで文明15年(1483)10月、
上総長南城攻略、
文明16年(1484)5月、
下総馬橋城を築城、
文明18年(1486)6月には、
下総に出陣した。
叩かれても何度も立ち上がる景春も景春だが、
モグラたたきのように、それを潰していった道灌の活躍も、
すさまじい。
めざましいのは、戦だけではない。
江戸城内に、筑波山や隅田川、富士山、武蔵野を望む亭を築き、
禅僧万里集九らを招いて、歌会を開くなどして、
東国に一大文化サロンをなした。
文武両道に秀でた武将だったのである。
こうした道灌の、八面六臂の活躍は、
扇谷上杉氏の勢力を拡大させたが、
同時に、山内上杉顕定の不興を買うこととなった。
ともに活動していたとはいえ、
両上杉氏は、一枚岩ではなかったのである。
さらに、扇谷上杉氏のなかにも、
道灌の活躍を喜ばない者たちがいた。
彼らは、
扇谷上杉定正と道灌の仲を引き離そうと企てた。
こうした推移のなかで、
徐々に家宰道灌に不信を抱きはじめた当主定正は、
ついに道灌の排除を決意する。
文明18年(1486)7月26日、
主人定正の相模糟屋館において、
入浴を終えて、風呂から出てきたところ、
同僚の曽我兵庫助に、斬りつけられた。
倒れざまに道灌は、
「当方滅亡」(『太田資武状』)
と、叫んだという。
文武両道の名将は、
図らずも主人の兇刃に斃れた。
活躍に比して、
その死はあまりにあっけない。
遺骸は、洞昌院に運ばれ、
荼毘にふされたという。
現神奈川県伊勢原市の洞昌院には、道灌の胴塚、
大慈寺には、道灌の首塚と呼ばれる塚が、築かれている。
友人の万里集九は、
祭文を捧げるなどして、たびたび道灌の菩提を弔った。
有能さゆえに招いた死。
しかし、その有能さは、
ときに剛腕・横暴として人の目に映った。
出すぎた杭も殺される。
なお、その後、
道灌の嫡子資康は、
扇谷上杉氏のもとを離れて、山内上杉氏のもとに奔り、
長享元年(1487)、
両上杉氏は、ついに軍事衝突するに至る。
この抗争のうちに、勢力を伸ばした伊勢宗瑞により、
扇谷上杉氏は、道灌の予言どおり、
「滅亡」へと進んでいく。
〔参考〕
黒田基樹『図説 太田道潅―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』 (戎光祥出版 2009)
扇谷上杉氏家宰。
扇谷上杉氏家宰であった父太田道真は、
山内上杉氏家宰長尾景仲とともに、上杉方の中心的な存在であり、
鎌倉公方足利成氏と対立した。
その対立は、
鎌倉府の崩壊を招き、
15世紀最大の東国内乱、享徳の大乱へ発展する。
北関東の豪族たちを従え、
下総古河を拠点に、布陣をかためた足利成氏に対して、
上杉方は、武蔵五十子に本陣をすえ、
武蔵河越・江戸に城を築いて、
河越城に、扇谷上杉持朝とその家宰太田道真、
江戸城に、太田道灌を入れた。
道灌が江戸城を築城した、とされる所以である。
寛正2年(1461)、
父道真が隠居し、
文明5年(1473)、
扇谷上杉政真の戦死により、
その叔父定正が新たな当主として迎えられると、
その擁立劇をリードした家宰道灌が、
名実ともに、扇谷上杉氏の主導的立場となり、
上杉方の中心的存在となった。
文明8年(1476)3~10月、
扇谷上杉氏の姻戚である駿河守護今川氏の内紛に際し、
武蔵江戸より駿河府中へ出陣。
また同じ頃、
長尾景春が、主人山内上杉顕定に謀叛を起こすと、
帰国したばかりの道灌は、
同じ上杉方として、その鎮火に奔走する。
文明9年(1477)3月、
長尾景春方の相模溝呂木・小磯城を陥し、
4月、
武蔵江古田原で、景春方の豊島氏を破り、
ついで、武蔵石神井城を攻めて、同氏を降服させた。
5月、
武蔵用土原で、景春自身を破って退かせ、
7月、
景春を支援する足利成氏の来襲に備えて、
上野白井城に入城。
9月、
上野塩売原で、再び出陣してきた景春と対陣、
11月、
これを逐った。
翌文明10年(1478)2月、
豊島氏を討つため、武蔵南部に出陣、
4月、
豊島氏の籠る武蔵小机城を陥し、
相模奥三保・甲斐の景春方を追撃、
7月、
武蔵中・北部を転戦して、景春方を叩き、
12月、
下総境根原で、景春方の千葉孝胤を破った。
文明11年(1479)1月、
孝胤の籠る下総臼井城に攻め、
この戦いで、弟資忠を喪うが、
7月には、
下総・上総の景春方を降し、
文明12年(1480)1月、
武蔵長井城を陥し、
6月、
景春の籠る武蔵秩父の日野城を陥落させた。
とんで文明15年(1483)10月、
上総長南城攻略、
文明16年(1484)5月、
下総馬橋城を築城、
文明18年(1486)6月には、
下総に出陣した。
叩かれても何度も立ち上がる景春も景春だが、
モグラたたきのように、それを潰していった道灌の活躍も、
すさまじい。
めざましいのは、戦だけではない。
江戸城内に、筑波山や隅田川、富士山、武蔵野を望む亭を築き、
禅僧万里集九らを招いて、歌会を開くなどして、
東国に一大文化サロンをなした。
文武両道に秀でた武将だったのである。
こうした道灌の、八面六臂の活躍は、
扇谷上杉氏の勢力を拡大させたが、
同時に、山内上杉顕定の不興を買うこととなった。
ともに活動していたとはいえ、
両上杉氏は、一枚岩ではなかったのである。
さらに、扇谷上杉氏のなかにも、
道灌の活躍を喜ばない者たちがいた。
彼らは、
扇谷上杉定正と道灌の仲を引き離そうと企てた。
こうした推移のなかで、
徐々に家宰道灌に不信を抱きはじめた当主定正は、
ついに道灌の排除を決意する。
文明18年(1486)7月26日、
主人定正の相模糟屋館において、
入浴を終えて、風呂から出てきたところ、
同僚の曽我兵庫助に、斬りつけられた。
倒れざまに道灌は、
「当方滅亡」(『太田資武状』)
と、叫んだという。
文武両道の名将は、
図らずも主人の兇刃に斃れた。
活躍に比して、
その死はあまりにあっけない。
遺骸は、洞昌院に運ばれ、
荼毘にふされたという。
現神奈川県伊勢原市の洞昌院には、道灌の胴塚、
大慈寺には、道灌の首塚と呼ばれる塚が、築かれている。
友人の万里集九は、
祭文を捧げるなどして、たびたび道灌の菩提を弔った。
有能さゆえに招いた死。
しかし、その有能さは、
ときに剛腕・横暴として人の目に映った。
出すぎた杭も殺される。
なお、その後、
道灌の嫡子資康は、
扇谷上杉氏のもとを離れて、山内上杉氏のもとに奔り、
長享元年(1487)、
両上杉氏は、ついに軍事衝突するに至る。
この抗争のうちに、勢力を伸ばした伊勢宗瑞により、
扇谷上杉氏は、道灌の予言どおり、
「滅亡」へと進んでいく。
〔参考〕
黒田基樹『図説 太田道潅―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』 (戎光祥出版 2009)
《病死》 《1367年》 《4月》 《3日》 《享年30歳》
正三位、権中納言。
貞治6年(1367)4月2日深夜、
四条隆家は、中風により倒れた。
3日卯の刻(朝6時頃)、危篤、
午の刻(昼12時頃)、こときれた。
何かと隆家を頼っていた中原師守は、
「殊に悲嘆」(『師守記』)している。
子がなかったため、
弟顕保の3歳の子を養子として、跡目を継がせた。
前月23日、
同じ権中納言の坊城俊冬が、没したばかりであった。
10日の間に、2人も現任の公卿が死んだことについて、
前関白近衛道嗣は、
「惜しむべし惜しむべし、哀しむべし哀しむべし」(『愚管記』)
と記し、
中原師守は、「朝家衰微」(『師守記』)としている。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
正三位、権中納言。
貞治6年(1367)4月2日深夜、
四条隆家は、中風により倒れた。
3日卯の刻(朝6時頃)、危篤、
午の刻(昼12時頃)、こときれた。
何かと隆家を頼っていた中原師守は、
「殊に悲嘆」(『師守記』)している。
子がなかったため、
弟顕保の3歳の子を養子として、跡目を継がせた。
前月23日、
同じ権中納言の坊城俊冬が、没したばかりであった。
10日の間に、2人も現任の公卿が死んだことについて、
前関白近衛道嗣は、
「惜しむべし惜しむべし、哀しむべし哀しむべし」(『愚管記』)
と記し、
中原師守は、「朝家衰微」(『師守記』)としている。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1367年》 《3月》 《23日》 《享年48歳》
従二位、権中納言。
北朝に仕えた坊城俊冬は、
足利尊氏の護持僧賢俊と所領を争って、官を辞めたり、
貞治改元に際して、日野時光と争ったり、
なかなか血気盛んだったよう。
貞治6年(1367)3月17日、
俊冬は病臥する。
この日、前関白近衛道嗣の嫡男(兼嗣)元服の上卿をつとめるはずだったが、
欠席した。
医師丹波篤直は、
病原が不明だが、回復の望みはない、と診断した。
一方で、医師但馬道仙は、
「傷寒」(『後愚昧記』)(腸チフスの類か)と診断し、
22日に発汗したならば、まもなく回復するだろう、と見立てた。
だが、
23日亥の刻(夜10時頃)、死去。
正確に診断し、早々にさじを投げた医師と、
誤診して、気休めを言った医師。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
従二位、権中納言。
北朝に仕えた坊城俊冬は、
足利尊氏の護持僧賢俊と所領を争って、官を辞めたり、
貞治改元に際して、日野時光と争ったり、
なかなか血気盛んだったよう。
貞治6年(1367)3月17日、
俊冬は病臥する。
この日、前関白近衛道嗣の嫡男(兼嗣)元服の上卿をつとめるはずだったが、
欠席した。
医師丹波篤直は、
病原が不明だが、回復の望みはない、と診断した。
一方で、医師但馬道仙は、
「傷寒」(『後愚昧記』)(腸チフスの類か)と診断し、
22日に発汗したならば、まもなく回復するだろう、と見立てた。
だが、
23日亥の刻(夜10時頃)、死去。
正確に診断し、早々にさじを投げた医師と、
誤診して、気休めを言った医師。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
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28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
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18歳 | 19歳 | |
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31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
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41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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