死に様データベース
《病死》 《1350年》 《3月》 《2日》 《享年不明》
法印権大僧都。
独清軒。
玄恵とも。
漢学や詩歌に通じ、
公家社会などで重用された。
また、
足利直義とも親しく、
室町幕府の基本法令『建武式目』の起草にも関与している。
足利尊氏とその庶長子直冬の間をとりもつよう、
直義に進言したのも、
玄慧であったという。
貞和5年(1349)閏6月、
直義は、対立する高師直の排除に、いったんは成功するものの、
その2ヶ月後、巻き返しにあって、
政務より引退。
京都三条坊門高倉の屋敷も、尊氏の嫡子義詮に譲って、
12月、42歳にして剃髪し、
錦小路堀川の細川顕氏亭に籠居した。
その直義の無聊を慰めたのが、
玄慧であった、と『太平記』は伝えている。
師直の許可を得て、度々直義のもとを訪れ、
様々な物語を聞かせたという。
その玄慧も、やがて老病に冒される。
直義は、薬1包を玄慧に贈り、
その包み紙に、
ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世に (『太平記』)
と、詠んだ。
玄慧は、これを読んで涙し、
君が一日の恩を感じ
我が百年の魂を招く
病を扶けて床下に坐す
書を披いて泪痕を拭ふ (『太平記』)
と、詠んだ。
平癒を祈る直義と、それに感じ入る玄慧。
なんとも、友と呼ぶにふさわしい交流である。
観応元年(1350)3月2日、円寂。
直義は深く悲しみ、
上の漢詩に紙を貼り継ぎ、経典の一句を書き入れて、
玄慧の菩提を弔った。
嘆いたのは、直義ばかりではない。
洞院公賢は、
「文道の衰微か。
天下頗る不問文王没落か。
不便々々。」(『園太暦』)
と、記し、
頓阿は、直義の弔歌を読んで、
なき跡をとはるゝまでものこりけり窓にあつめしゆきの光は (『草庵和歌集』)
と、詠み、
そのほか、多くの禅僧やときの文化人たちが、
玄慧の死を惜しんだ。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
『太平記 三 日本古典文学大系36』 (岩波書店 1962)
『国史大辞典 5 (け-こほ)』 (吉川弘文館 1985)
法印権大僧都。
独清軒。
玄恵とも。
漢学や詩歌に通じ、
公家社会などで重用された。
また、
足利直義とも親しく、
室町幕府の基本法令『建武式目』の起草にも関与している。
足利尊氏とその庶長子直冬の間をとりもつよう、
直義に進言したのも、
玄慧であったという。
貞和5年(1349)閏6月、
直義は、対立する高師直の排除に、いったんは成功するものの、
その2ヶ月後、巻き返しにあって、
政務より引退。
京都三条坊門高倉の屋敷も、尊氏の嫡子義詮に譲って、
12月、42歳にして剃髪し、
錦小路堀川の細川顕氏亭に籠居した。
その直義の無聊を慰めたのが、
玄慧であった、と『太平記』は伝えている。
師直の許可を得て、度々直義のもとを訪れ、
様々な物語を聞かせたという。
その玄慧も、やがて老病に冒される。
直義は、薬1包を玄慧に贈り、
その包み紙に、
ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世に (『太平記』)
と、詠んだ。
玄慧は、これを読んで涙し、
君が一日の恩を感じ
我が百年の魂を招く
病を扶けて床下に坐す
書を披いて泪痕を拭ふ (『太平記』)
と、詠んだ。
平癒を祈る直義と、それに感じ入る玄慧。
なんとも、友と呼ぶにふさわしい交流である。
観応元年(1350)3月2日、円寂。
直義は深く悲しみ、
上の漢詩に紙を貼り継ぎ、経典の一句を書き入れて、
玄慧の菩提を弔った。
嘆いたのは、直義ばかりではない。
洞院公賢は、
「文道の衰微か。
天下頗る不問文王没落か。
不便々々。」(『園太暦』)
と、記し、
頓阿は、直義の弔歌を読んで、
なき跡をとはるゝまでものこりけり窓にあつめしゆきの光は (『草庵和歌集』)
と、詠み、
そのほか、多くの禅僧やときの文化人たちが、
玄慧の死を惜しんだ。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
『太平記 三 日本古典文学大系36』 (岩波書店 1962)
『国史大辞典 5 (け-こほ)』 (吉川弘文館 1985)
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《病死》 《1350年》 《2月》 《22日》 《享年74歳》
正三位、権中納言。
後醍醐天皇の重臣吉田定房の弟。
吉田隆長は、鎌倉末期には、
比叡山に訴えられて、阿波に流されたこともあった。
南北朝分立後は、
兄定房と異なり、京都に残って北朝に仕えた。
定房の子宗房と、吉田家の家督を争ったこともあったらしい。
高齢のゆえか、体調を崩しがちであったらしい隆長は、
貞和5年(1349)6月、
鹿肉を食して、やや体力を取り戻した。
だが、数日後にはまた悪くなり、
食欲も減退。
息子の甘露寺藤長は、
父の容態を思って、「歎息」(『園太暦』)している。
翌貞和6年(1350)2月6日、
さらに容態が悪化し、
何も食べることができず、
どうにもならないような状況に陥った。
そうして、
22日、他界。
74歳。
翌23日、
隆長の娘婿坊城俊実も、相次いで没した。
人々は、世の無常を嘆いた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
正三位、権中納言。
後醍醐天皇の重臣吉田定房の弟。
吉田隆長は、鎌倉末期には、
比叡山に訴えられて、阿波に流されたこともあった。
南北朝分立後は、
兄定房と異なり、京都に残って北朝に仕えた。
定房の子宗房と、吉田家の家督を争ったこともあったらしい。
高齢のゆえか、体調を崩しがちであったらしい隆長は、
貞和5年(1349)6月、
鹿肉を食して、やや体力を取り戻した。
だが、数日後にはまた悪くなり、
食欲も減退。
息子の甘露寺藤長は、
父の容態を思って、「歎息」(『園太暦』)している。
翌貞和6年(1350)2月6日、
さらに容態が悪化し、
何も食べることができず、
どうにもならないような状況に陥った。
そうして、
22日、他界。
74歳。
翌23日、
隆長の娘婿坊城俊実も、相次いで没した。
人々は、世の無常を嘆いた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
《誅殺》 《1349年》 《12月》 《21日》 《享年不明》
鎌倉将軍府関東廂番、
室町幕府引付頭人・内談方頭人。
伊豆守護。
足利尊氏・直義兄弟の従兄弟にして、
直義の近臣。
将軍足利尊氏とその弟直義の、
二頭政治によって成り立っていた、草創期の室町幕府であったが、
貞治5年(1349)頃より、
政権構想の違いなどに基づく、尊氏の執事高師直と直義の深刻な対立によって、
樹立早々、危機を迎えることとなる。
貞治5年(1349)閏6月15日、
直義派は尊氏に迫り、高師直の執事職を罷免させた。
これを主導したのは、
直義の近臣上杉重能と畠山直宗だったという。
しかし、
師直も負けてはおらず、
8月13日、
一族や自派の武士を集めて、直義を討とうとした。
危機を察した直義は、
兄尊氏の屋敷に逃避するが、
翌14日、
師直は、その屋敷を取り囲んで、
主人尊氏に迫った。
師直には、千葉氏胤や宇都宮氏綱をはじめ、「天下武士」が味方し、
対する尊氏邸の直義派は、その半分にも満たなかった。
師直が迫ったのは、
「讒臣」上杉重能・畠山直宗・僧妙吉の配流、
直義の政務停止、および尊氏の嫡子義詮との交代であった。
15日、
しかたなく、尊氏・直義は、これを飲んだ。
僧妙吉は、逐電してしまったため、
その住房を毀ち、
捕えられた上杉重能・畠山直宗は、
越前に配流されることとなった。
8月17日、
近江と越前の国堺、黒川周辺で、
重能が討たれて、梟首されたとの報が、
京都で流れた。
これは結局誤報であったが、
結局、重能・直宗ともに、
この年のうちに、配所で誅殺されてしまう。
8月とも、10月とも伝わる。
出し抜き、出し抜かれるは、
戦乱の世の常か。
以下、『太平記』の記述。
師直の命を受けた八木光勝が、一行を追いかけて、
越前足羽で取り囲むくだり。
ただつかれの鳥の、犬と鷹とに攻めらるらんも、
かくやと思いしられたり。
これまでも、主の専途を見果てんと、
付き従いたりける若党十三人、主の自害を勧めんため、
おし肌脱いで、一度に腹をぞ斬りたりける。
畠山大蔵少輔(直宗)、続いて腹を掻き斬る。
その刀を引き抜いて、
上杉伊豆守(重能)の前に投げやり、
「お腰の刀はちと寸延びて見え候、
これにて御自害候え」
と言うも果てず、
うつ伏しになりて倒れにけり。
伊豆守、その刀を手に取りながら、
幾程ならぬ浮世の名残を惜しみて、
女房の方を、つくづくと見て、
顔に袖を押し当て、たださめざめと泣きいたるばかりにて、
そぞろに時をぞ移されける。
さんぬるほどに、八木光勝が中間どもに生け捕られて、
刺し殺されけるこそうたてけれ。
武士たる人は、平生のふるまいはよしや、
ともかくもあれ、あながちに見るところに非ず。
ただ最期の死に様をこそ、執することなるに、
汚くも見え給いつる死に場かなと、爪弾きせぬ人もなかりけり。
なんとも人間くさい。
重能が、最期の未練に視線を送った女房は、
その後、往生院にて剃髪。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
鎌倉将軍府関東廂番、
室町幕府引付頭人・内談方頭人。
伊豆守護。
足利尊氏・直義兄弟の従兄弟にして、
直義の近臣。
将軍足利尊氏とその弟直義の、
二頭政治によって成り立っていた、草創期の室町幕府であったが、
貞治5年(1349)頃より、
政権構想の違いなどに基づく、尊氏の執事高師直と直義の深刻な対立によって、
樹立早々、危機を迎えることとなる。
貞治5年(1349)閏6月15日、
直義派は尊氏に迫り、高師直の執事職を罷免させた。
これを主導したのは、
直義の近臣上杉重能と畠山直宗だったという。
しかし、
師直も負けてはおらず、
8月13日、
一族や自派の武士を集めて、直義を討とうとした。
危機を察した直義は、
兄尊氏の屋敷に逃避するが、
翌14日、
師直は、その屋敷を取り囲んで、
主人尊氏に迫った。
師直には、千葉氏胤や宇都宮氏綱をはじめ、「天下武士」が味方し、
対する尊氏邸の直義派は、その半分にも満たなかった。
師直が迫ったのは、
「讒臣」上杉重能・畠山直宗・僧妙吉の配流、
直義の政務停止、および尊氏の嫡子義詮との交代であった。
15日、
しかたなく、尊氏・直義は、これを飲んだ。
僧妙吉は、逐電してしまったため、
その住房を毀ち、
捕えられた上杉重能・畠山直宗は、
越前に配流されることとなった。
8月17日、
近江と越前の国堺、黒川周辺で、
重能が討たれて、梟首されたとの報が、
京都で流れた。
これは結局誤報であったが、
結局、重能・直宗ともに、
この年のうちに、配所で誅殺されてしまう。
8月とも、10月とも伝わる。
出し抜き、出し抜かれるは、
戦乱の世の常か。
以下、『太平記』の記述。
師直の命を受けた八木光勝が、一行を追いかけて、
越前足羽で取り囲むくだり。
ただつかれの鳥の、犬と鷹とに攻めらるらんも、
かくやと思いしられたり。
これまでも、主の専途を見果てんと、
付き従いたりける若党十三人、主の自害を勧めんため、
おし肌脱いで、一度に腹をぞ斬りたりける。
畠山大蔵少輔(直宗)、続いて腹を掻き斬る。
その刀を引き抜いて、
上杉伊豆守(重能)の前に投げやり、
「お腰の刀はちと寸延びて見え候、
これにて御自害候え」
と言うも果てず、
うつ伏しになりて倒れにけり。
伊豆守、その刀を手に取りながら、
幾程ならぬ浮世の名残を惜しみて、
女房の方を、つくづくと見て、
顔に袖を押し当て、たださめざめと泣きいたるばかりにて、
そぞろに時をぞ移されける。
さんぬるほどに、八木光勝が中間どもに生け捕られて、
刺し殺されけるこそうたてけれ。
武士たる人は、平生のふるまいはよしや、
ともかくもあれ、あながちに見るところに非ず。
ただ最期の死に様をこそ、執することなるに、
汚くも見え給いつる死に場かなと、爪弾きせぬ人もなかりけり。
なんとも人間くさい。
重能が、最期の未練に視線を送った女房は、
その後、往生院にて剃髪。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
《病死》 《1349年》 《7月》 《6日》 《享年35歳》
前関白、
従一位左大臣。
九条道教は、北朝に仕え、
南北朝動乱の世にあって、なんとか家と家領を保った。
貞和2・3年(1346・47)頃より、体を壊しがちで、
出家を遂げていた。
貞和5年(1349)6月下旬のころより、
その「累年所労」(『園太暦』)が悪化。
24日には、「御持病危急」(『師守記』)に陥り、
いちどは薨去の報すら流れた。
7月6日未の刻(午後2時頃)、薨去。
35歳。
「心気御所労」(『師守記』)というから、
循環器系の病であろう。
その日の朝、
道教の妻は、夢うつつに不思議なものを見た。
蓮台に乗った観音菩薩が、道教の枕もとに現れ、
庭木の辺りには、紫雲が立ち込めたという。
7月8日、
一音院にて火葬。
数年前からの仏門への帰依と、
臨終の際における、観音菩薩の出現。
死への周到な準備と、その結実を、
中原師守は、
「臨終正念」(『師守記』)
と、記している。
北朝は、3日間奏事を停止。
乱世の対応に苦慮した上の、若死にであろうか。
おりしも、
室町幕府内部における足利直義と高師直の対立が惹起し、
動乱がより混迷の色を深めていくさなかであった。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
前関白、
従一位左大臣。
九条道教は、北朝に仕え、
南北朝動乱の世にあって、なんとか家と家領を保った。
貞和2・3年(1346・47)頃より、体を壊しがちで、
出家を遂げていた。
貞和5年(1349)6月下旬のころより、
その「累年所労」(『園太暦』)が悪化。
24日には、「御持病危急」(『師守記』)に陥り、
いちどは薨去の報すら流れた。
7月6日未の刻(午後2時頃)、薨去。
35歳。
「心気御所労」(『師守記』)というから、
循環器系の病であろう。
その日の朝、
道教の妻は、夢うつつに不思議なものを見た。
蓮台に乗った観音菩薩が、道教の枕もとに現れ、
庭木の辺りには、紫雲が立ち込めたという。
7月8日、
一音院にて火葬。
数年前からの仏門への帰依と、
臨終の際における、観音菩薩の出現。
死への周到な準備と、その結実を、
中原師守は、
「臨終正念」(『師守記』)
と、記している。
北朝は、3日間奏事を停止。
乱世の対応に苦慮した上の、若死にであろうか。
おりしも、
室町幕府内部における足利直義と高師直の対立が惹起し、
動乱がより混迷の色を深めていくさなかであった。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
《誅殺》 《1574年》 《8月》 《某日》 《享年不明》
薩摩川辺の盗人。
天正2年(1574)8月、
薩摩鹿篭のとある夫婦の家に忍び込み、
馬や下人、その他諸々の物品を盗んだが、
その後、薩摩川辺で捕えられ、処刑された。
問題はそのあと。
犯行の現場となった鹿篭の城主島津忠長は、
孫左衛門の居住地であった川辺の城主平田宗張に、
孫左衛門の盗んだ物の引き渡しを要求。
この争いは、大名島津義久のもとに持ち込まれた。
平田宗張は、「そんなことは知らない」とつっぱねるが、
島津忠長はしつこく、「馬と下人を返せ」と迫り、
結局、島津義久の調停により、
「盗人を討ち取ったならば、
盗んだ物は返さなくてもよい」
ということになった。
島津忠長は、自分の言い分が聞き届けられず、
鹿篭に帰ってしまい、
義久も仕方なく、平田宗張を川辺に帰すことにした。
戦国大名は、
こうしたような訴えや争いの調停におわれて、
苦悩していたらしい。
と、
孫左衛門本人の所業とは関係ない話になってしまったが、
物品ばかりでなく、馬や人といった盗んだものの規模や、
その後の話の拡がりから考えれば、
孫左衛門は、それなりの盗賊団の頭目だったということだろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 岩波書店 1954
薩摩川辺の盗人。
天正2年(1574)8月、
薩摩鹿篭のとある夫婦の家に忍び込み、
馬や下人、その他諸々の物品を盗んだが、
その後、薩摩川辺で捕えられ、処刑された。
問題はそのあと。
犯行の現場となった鹿篭の城主島津忠長は、
孫左衛門の居住地であった川辺の城主平田宗張に、
孫左衛門の盗んだ物の引き渡しを要求。
この争いは、大名島津義久のもとに持ち込まれた。
平田宗張は、「そんなことは知らない」とつっぱねるが、
島津忠長はしつこく、「馬と下人を返せ」と迫り、
結局、島津義久の調停により、
「盗人を討ち取ったならば、
盗んだ物は返さなくてもよい」
ということになった。
島津忠長は、自分の言い分が聞き届けられず、
鹿篭に帰ってしまい、
義久も仕方なく、平田宗張を川辺に帰すことにした。
戦国大名は、
こうしたような訴えや争いの調停におわれて、
苦悩していたらしい。
と、
孫左衛門本人の所業とは関係ない話になってしまったが、
物品ばかりでなく、馬や人といった盗んだものの規模や、
その後の話の拡がりから考えれば、
孫左衛門は、それなりの盗賊団の頭目だったということだろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 岩波書店 1954
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
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1371 | 1372 | |
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1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
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1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
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1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
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1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
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22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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