死に様データベース
《病死》 《1366年》 《12月》 《27日》 《享年20歳》
従二位、権大納言。
貞治5年(1366)12月14日、
一条房経は、病に罹った。
その後、やや快方に向かったが、
25日、
医師和気繁成に「大補湯」を処方してもらったところ、
再発。
房経に子はなく、
しかも、その病が篤く、急を要するため、
一条家の跡目として、
田舎にいる房経の幼い弟が探し出され、
相続させることとなった。
房経の病は、その後も癒えることなく、
27日亥の刻(夜10時頃)、逝去。
一条家に仕えた吉田兼煕は、
「無常の習い、無力といえども、
哀傷を増しおわんぬ。
予年少より奉公、他に異なる。
大略御一流の断絶か。
珍事々々。」(『吉田家日次記』)
と、その若すぎる死を悼んでいる。
ところが、
房経弟への相続について、
朝廷への申請や、室町幕府への申し入れが、ひと通りすんだ後、
この若君が、
実は房経の実弟ではなく、二条良基の末子であることが、
周囲に知らされた。
房経の急病により、
慌てて、関白二条良基の末子を、一条房経の弟として、
田舎に待機させておいたものであった。
これを知った吉田兼煕は、
「よろしく神慮あるべきものなり。」(『吉田家日次記』)
と、憤っている。
この若君が、
のちの関白一条経嗣である。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
従二位、権大納言。
貞治5年(1366)12月14日、
一条房経は、病に罹った。
その後、やや快方に向かったが、
25日、
医師和気繁成に「大補湯」を処方してもらったところ、
再発。
房経に子はなく、
しかも、その病が篤く、急を要するため、
一条家の跡目として、
田舎にいる房経の幼い弟が探し出され、
相続させることとなった。
房経の病は、その後も癒えることなく、
27日亥の刻(夜10時頃)、逝去。
一条家に仕えた吉田兼煕は、
「無常の習い、無力といえども、
哀傷を増しおわんぬ。
予年少より奉公、他に異なる。
大略御一流の断絶か。
珍事々々。」(『吉田家日次記』)
と、その若すぎる死を悼んでいる。
ところが、
房経弟への相続について、
朝廷への申請や、室町幕府への申し入れが、ひと通りすんだ後、
この若君が、
実は房経の実弟ではなく、二条良基の末子であることが、
周囲に知らされた。
房経の急病により、
慌てて、関白二条良基の末子を、一条房経の弟として、
田舎に待機させておいたものであった。
これを知った吉田兼煕は、
「よろしく神慮あるべきものなり。」(『吉田家日次記』)
と、憤っている。
この若君が、
のちの関白一条経嗣である。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
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《病死》 《1363年》 《7月》 《3日》 《享年95歳》
鎌倉幕府下で、薩摩守護、
室町幕府下で、薩摩・大隅・日向守護。
島津貞久は、
元弘の乱では、足利高氏(のち尊氏)の誘いに応じ、
少弐貞経・大友貞宗とともに、鎮西探題赤橋英時を討った。
つづく南北朝内乱でも、
基本的には尊氏に味方したが、
観応の擾乱(足利方の内訌)勃発にともなっては、
観応2年(1351)正月には、尊氏と対立する足利直冬に属し、
同年11月には、南朝の懐良親王にしたがうなど、
一時的に尊氏から離れている。
文和3年(1354)8月には、再び尊氏方に復す。
こうして、巧みに乱世を生き抜いた貞久は、
勢力を保持して、薩摩・大隅2ヶ国の守護職を手にし、
以後の島津家の礎を築いた。
貞治2年(1363)、
薩摩守護を三男師久へ、
大隅守護を四男氏久へ譲り、
7月3日、
薩摩木牟礼城にて没。
鹿児島五道院に葬られたという。
95歳。
年齢には異説があるというが、
またしても、
「中世人今際図巻」最高齢更新。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 7 (しな-しん)』 (吉川弘文館 1986)
鎌倉幕府下で、薩摩守護、
室町幕府下で、薩摩・大隅・日向守護。
島津貞久は、
元弘の乱では、足利高氏(のち尊氏)の誘いに応じ、
少弐貞経・大友貞宗とともに、鎮西探題赤橋英時を討った。
つづく南北朝内乱でも、
基本的には尊氏に味方したが、
観応の擾乱(足利方の内訌)勃発にともなっては、
観応2年(1351)正月には、尊氏と対立する足利直冬に属し、
同年11月には、南朝の懐良親王にしたがうなど、
一時的に尊氏から離れている。
文和3年(1354)8月には、再び尊氏方に復す。
こうして、巧みに乱世を生き抜いた貞久は、
勢力を保持して、薩摩・大隅2ヶ国の守護職を手にし、
以後の島津家の礎を築いた。
貞治2年(1363)、
薩摩守護を三男師久へ、
大隅守護を四男氏久へ譲り、
7月3日、
薩摩木牟礼城にて没。
鹿児島五道院に葬られたという。
95歳。
年齢には異説があるというが、
またしても、
「中世人今際図巻」最高齢更新。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 7 (しな-しん)』 (吉川弘文館 1986)
《戦死》 《1340年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
武蔵国人。
多西郡土淵郷の地頭。
現東京都日野市の高幡不動(高幡山金剛寺)の不動堂本尊不動明王坐像胎内から、
古文書の束が発見されたのは、1920年代半ば。
その後、ながらく放置されていたが、
1985年に最初の調査がなされ、
1990年代に入り、本格的な精密調査がされるに至った。
その文書群は、
地元多西郡土淵郷の地頭山内経之が、
戦場から妻や子に宛てた手紙の束であった。
そこから、
これまであまり知られていなかった、南北朝期の武士の姿や、戦場の光景が、
まざまざと映し出されることとなるのである。
文書自体、痛みがはげしく、欠損が多いが、
ここで、その一端を紹介したい。
暦応元年(1338)9月、
南朝の北畠親房が、常陸東条浦に来着。
12月には、小田治久に迎えられて常陸小田城に入り、
常総地域や南奥に、南朝支持勢力を拡げていった。
対する足利尊氏は、
翌暦応2年(1339)4月、
対親房戦の大将として、高師冬を関東に派遣。
6月、鎌倉に到着した師冬は、
しばらくここにとどまり、出陣の準備を行った。
山内経之も、鎌倉に馳せ参じ、
出陣を待つ。
7月か 子息又けさ宛てか
…従者の五郎を、先日そちらに帰しました。
それでも、こちらには人が多いと思っていましたが、
最近になって、身辺に遣える者が乏しく、
今更ながら、帰したことを心許なく思っています。
来月11日には、必ず常陸へ出陣します。…
月日不明 妻宛てか
…従者の彦三郎を、常陸出陣までの間、そちらに帰そうとしましたが、
五郎が帰りたいと望むので、五郎を帰しました。
以前から言っているとおり、
所領のことは、親しい新井殿に万事相談して、
他人には、心を許すことのないようにしてください。
8月 宛先不明
…常陸出陣が、このように延期になっており、
みな長期の鎌倉滞在を嘆いています。
13日には出発かと思っていましたが、
今日になって、まだ出発しません。
高幡殿も出陣するようです。…
月日不明 関戸観音堂住職宛て
…常陸出陣にあたり、兵糧米を1・2駄欲しいので、
万事お頼み申します。…
8月か 関戸観音堂住職宛て
出陣も、今日明日かと言っていましたが、
いつものことで、
まるで出陣する気配がありません。
恐縮ですが、
新井殿の方にも、こちらからお願いしておりますけれど、
銭を送っていただけるよう、お取り計らいいただけませんでしょうか。
出陣は、16日と承っています。
8月か 子息又けさ宛てか
…出発が近いなどと言われており、
この7・8日ではないにせよ、幾日もないかと思われます。
三河殿(高師冬)の武蔵下向も、20日頃のことでしょう。
大変でしょうが、それまでに銭を2貫ばかり用意しておいてください。
どのようにでも取り計らって、在家を売るなどして…
8月か 妻宛てか
…近日出発と言っておりましたが、
8月15日の鶴岡社放生会との調整がつきません。
まずは出発しないことには、と、
三河殿(高師冬)の出発も、20日と決定しました。
まず、武蔵国府までお供します。
…在家を1軒売ってください。
それで小袖を送ってくれたら、すぐに常陸へ向かいます。
以前言ったように、
2・3着は用意しなければなりません。
茶染めの地のものが欲しいです。
もし、そちらで小袖を染めたいのであれば…
8月16日 子息又けさ宛てか
…三河殿(高師冬)の出陣も近くなり、
私もお供して、武蔵まで下る予定です。
又けさには鎌倉へ来てほしかったのですが、
あまり見苦しいまねもできないので、呼びませんでした。
田舎で留守を守るのも、耐え難いことかと思います。
五郎も、疲れているとは思うけれど、こちらに随行させます。
…訴訟で獲得した在家を、送ります。
もし費用が残ったら、受け取って、
弓を買って、送ってください。
この旨、母御にも伝えてください。…
8月下旬、
山内経之らを率いた高師冬軍は、
ようやく鎌倉を出発する。
鎌倉街道を北上して、
9月、武蔵村岡に着陣。
ここで、軍勢を整え、
北東へ向かって進軍する。
月日不明 子息又けさ宛てか
…滞納していた宿賃1貫あまりを、
新井殿に肩替わりして支払ってもらいました。…
…早くもそちらの生活費が、残り少なくなってきたようですが、
留守の間のことは、いつものこととはいえ、痛ましく思っています。
ですが、
こちらにも、何とかやりくりして銭を送ってください。
…柿・浅黄は100文、二重ものは100余文、染めるのにかかります。
送った帷子も染めたかったのですが、
費用がなかったので…
9月上旬 宛先不明
方々からの早馬の知らせでは、
下総下河辺へ出陣して、すぐに合戦がありそうです。
今はまだ決まってませんが、
下河辺に14・15日には出陣せよとの命令があり…
…16・17日頃には下河辺に…
月日不明 某僧・一族山内六郎治清宛てか
…下総下河辺荘の対岸に着きました。
出陣しない人は皆、所領を没収されると聞きました。
そのほか、噂によれば、
訴状を提出して異議を唱える人は、
本領を没収されるそうです。
武蔵高麗郡笠幡北方の渋江殿も、この処置に遭い、
その闕所を、皆に配分するとのことです。
忠節を尽くす者の行く末は、決まりました。
どうにかしてでも、費用2・3貫が欲しいです。
大進房に言って、費用5貫を借りてください。…
10月12日か 妻宛てか
…便りが絶えてしまっても、返事は早々に、
何事も詳しく書いてくれねば、心許なく思います。
こちらは10日に“なかへ”に着き、
今日12日の状況に応じて、下河辺に向かいます。
いずれにせよ、明日はしっかりやらねばなりません。
…今日は昼にも出立するかもしれません。
もし延期になっても、明日は必ず発つでしょう。
早くも恋しい思いをしています。
10月13日 子息又けさ宛てか
…容器を2つ送りました。
1つには、古葉の茶の苦くないものを、
寺へ言ってもらって、送ってください。
もう1つにも、茶などを入れて、送ってください。
干柿・搗栗を少し買って、送ってください。
10月初旬には、早くも、
足利方先鋒部隊と南朝方との間で、戦闘が開始されていたが、
師冬軍は、
10月中旬に至って、ようやく太日川を渡河。
下総下河辺荘に入り、
敵の前線基地常陸駒城を目の前にする、
下総山川に着陣した。
10月16日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…百姓らに何とでも命じて、鞍・具足を借りて、
馬に乗せて送ってください。
鞍・具足がないならば、
徒歩ででも、馬を牽いて連れてきてください。
何事も、母御の言うことを聞き、
もう幼くないのだから、がんばってください。
10月28日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…合戦のことといい、留守のことといい、
心苦しさは、言い様もありません。
逃亡した陪臣の人数を、書き送ります。
この者たちを、一人残らず捕まえて、
こちらに送り返してください。
少しでもこれを違えるならば、
今後親子とは思いません。
越中八郎の家人、谷の家人、紀平次の家人、
彼らを捕らえてください。
…もし、この者たちが来ないならば、
その親を遣わしてください。
大久保の弥三郎や、まだ参陣していない者は、
しばらくしたら来るように言ってください。
10月下旬、
師冬軍は、敵の前線基地である常陸駒城を包囲。
敵の防御は堅く、苦戦を強いられる。
長陣により、厭戦気分が漂い、
逃亡する者もあったようだ。
11月2日 子息又けさ宛て
…佐藤三郎の童を参陣させる旨を、
奥にも伝えてください。
先日述べた、逃亡した陪臣どもを、
早く、一人残らず捕まえて、送ってください。
留守の間のことを思うにつけ、心配です。…
11月某日 子息又けさ宛てか
…馬が欲しく、戦死者の遺物であった馬を、
ゑひ殿に言って、いただきました。
兜も、最近は他人が貸してくれるので、
それを着用して、合戦に行っています。
人がこれほど討ち死にしたり、負傷したりしているのに、
私は今まで何事もありませんので、
合戦がどのようなものかなどと、心許なく思わないでください。…
12月下旬か 子息又けさ宛て
使者小三郎が持ってきた手紙を読みました。
おっしゃるとおり、今まで変わったことはありません。
この城(常陸駒城)は、今年中に落ちそうにないので、
暇をもらって、帰郷しようと思っています。
…今後はだんだん肌寒くなってきます。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
留守の間、頼りになる者が一人もいないことは、
心許なく思います。
…先日、この合戦での働きを、
三河殿(高師冬)も大いに褒めてくださいました。
…もし私が死んでも、
大将や一揆の人々がいるので、安心です。
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
こちらの辛苦は言い様もありませんが、
ただ、こちらのことは以前より覚悟していたことです。
それよりも、
留守に頼りになる者がいないことこそ、
心配に思います。
何事も、しっかりと大人として、
母御と相談し、
百姓らにも、あまり無沙汰にせぬよう、
がんばってください。…
月日不明 宛先不明
…先日、常陸塩本に向かいました。
いずれも戦場であることには変わりませんが、
塩本は苦戦を強いられているところであり、
味方も小勢ですので、
覚悟はしています。
今のところは、異常はありません。
新井殿の方へも、手紙を送りたいのですが、
たいしたこともありませんし、
昨夜、こちらの城へ敵襲があるということで、
用心しています。
…何事も、ご心配なさらず。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…合戦が延びているので、
暇をもらって帰郷したいけれども、
敵城も近く、なかなか難しそうです。
今度の合戦では、生きて帰れるとも思えず、
留守宅に、頼もしい者が一人もないことが、
かえすがえすも、心許なく思います。…
留守宅の心配、
身のまわりの困窮、
妻への恋情、
家臣たちの逃亡、
厳しい戦場の様子。
紹介したのは、ごく一部であるが、
山内経之の手紙には、
これらが、連々と綴られている。
そこには、
勇壮なイメージとはかけ離れた、武士の姿がある。
それは、山内経之に限ったものではなく、
当時の武士の、普遍的な姿だっただろう。
これらを残して、
経之の手紙は、ふつりと途絶える。
手紙の消滅は、すなわち、
書き手の死を意味している。
駒城攻めの激戦の中で、
暦応3年(1340)2・3月頃、
経之は、討ち死にしたものと思われる。
留守にした家を案じつつ、
経済的にも不自由な中で、戦場に立った経之は、
死の瞬間、いかほどの思いであったろうか。
なお、高師冬の足利方は、
暦応3年(1340)5月末、
7ヶ月にわたる攻防戦の末に、
ようやく常陸駒城を陥したが、
すぐに、南朝方の猛反撃により、奪回された。
師冬軍は、
下野宇都宮を迂回して、常陸瓜連城に入り、
暦応4年(1341)5月、
態勢を整えて、小田城に迫った。
激戦の末、
11月、小田治久が足利方に投降。
北畠親房は、関宗祐の関城に移り、
関・大宝の2城を拠点に、戦闘を継続する。
暦応4年(1341)12月、
師冬軍は、関・大宝城の攻撃を開始し、
康永2年(1343)11月、
ついに両城を陥して、親房を大和吉野へ潰走させた。
こうして、
4年以上に及ぶ常陸合戦は、ようやく幕を下ろす。
〔参考〕
『日野市史 史料編 高幡不動胎内文書編』 (日野市史編さん委員会 1993)
峰岸純夫「高幡不動胎内文書」 (『中世東国の荘園公領と宗教』 吉川弘文館 2006)
武蔵国人。
多西郡土淵郷の地頭。
現東京都日野市の高幡不動(高幡山金剛寺)の不動堂本尊不動明王坐像胎内から、
古文書の束が発見されたのは、1920年代半ば。
その後、ながらく放置されていたが、
1985年に最初の調査がなされ、
1990年代に入り、本格的な精密調査がされるに至った。
その文書群は、
地元多西郡土淵郷の地頭山内経之が、
戦場から妻や子に宛てた手紙の束であった。
そこから、
これまであまり知られていなかった、南北朝期の武士の姿や、戦場の光景が、
まざまざと映し出されることとなるのである。
文書自体、痛みがはげしく、欠損が多いが、
ここで、その一端を紹介したい。
暦応元年(1338)9月、
南朝の北畠親房が、常陸東条浦に来着。
12月には、小田治久に迎えられて常陸小田城に入り、
常総地域や南奥に、南朝支持勢力を拡げていった。
対する足利尊氏は、
翌暦応2年(1339)4月、
対親房戦の大将として、高師冬を関東に派遣。
6月、鎌倉に到着した師冬は、
しばらくここにとどまり、出陣の準備を行った。
山内経之も、鎌倉に馳せ参じ、
出陣を待つ。
7月か 子息又けさ宛てか
…従者の五郎を、先日そちらに帰しました。
それでも、こちらには人が多いと思っていましたが、
最近になって、身辺に遣える者が乏しく、
今更ながら、帰したことを心許なく思っています。
来月11日には、必ず常陸へ出陣します。…
月日不明 妻宛てか
…従者の彦三郎を、常陸出陣までの間、そちらに帰そうとしましたが、
五郎が帰りたいと望むので、五郎を帰しました。
以前から言っているとおり、
所領のことは、親しい新井殿に万事相談して、
他人には、心を許すことのないようにしてください。
8月 宛先不明
…常陸出陣が、このように延期になっており、
みな長期の鎌倉滞在を嘆いています。
13日には出発かと思っていましたが、
今日になって、まだ出発しません。
高幡殿も出陣するようです。…
月日不明 関戸観音堂住職宛て
…常陸出陣にあたり、兵糧米を1・2駄欲しいので、
万事お頼み申します。…
8月か 関戸観音堂住職宛て
出陣も、今日明日かと言っていましたが、
いつものことで、
まるで出陣する気配がありません。
恐縮ですが、
新井殿の方にも、こちらからお願いしておりますけれど、
銭を送っていただけるよう、お取り計らいいただけませんでしょうか。
出陣は、16日と承っています。
8月か 子息又けさ宛てか
…出発が近いなどと言われており、
この7・8日ではないにせよ、幾日もないかと思われます。
三河殿(高師冬)の武蔵下向も、20日頃のことでしょう。
大変でしょうが、それまでに銭を2貫ばかり用意しておいてください。
どのようにでも取り計らって、在家を売るなどして…
8月か 妻宛てか
…近日出発と言っておりましたが、
8月15日の鶴岡社放生会との調整がつきません。
まずは出発しないことには、と、
三河殿(高師冬)の出発も、20日と決定しました。
まず、武蔵国府までお供します。
…在家を1軒売ってください。
それで小袖を送ってくれたら、すぐに常陸へ向かいます。
以前言ったように、
2・3着は用意しなければなりません。
茶染めの地のものが欲しいです。
もし、そちらで小袖を染めたいのであれば…
8月16日 子息又けさ宛てか
…三河殿(高師冬)の出陣も近くなり、
私もお供して、武蔵まで下る予定です。
又けさには鎌倉へ来てほしかったのですが、
あまり見苦しいまねもできないので、呼びませんでした。
田舎で留守を守るのも、耐え難いことかと思います。
五郎も、疲れているとは思うけれど、こちらに随行させます。
…訴訟で獲得した在家を、送ります。
もし費用が残ったら、受け取って、
弓を買って、送ってください。
この旨、母御にも伝えてください。…
8月下旬、
山内経之らを率いた高師冬軍は、
ようやく鎌倉を出発する。
鎌倉街道を北上して、
9月、武蔵村岡に着陣。
ここで、軍勢を整え、
北東へ向かって進軍する。
月日不明 子息又けさ宛てか
…滞納していた宿賃1貫あまりを、
新井殿に肩替わりして支払ってもらいました。…
…早くもそちらの生活費が、残り少なくなってきたようですが、
留守の間のことは、いつものこととはいえ、痛ましく思っています。
ですが、
こちらにも、何とかやりくりして銭を送ってください。
…柿・浅黄は100文、二重ものは100余文、染めるのにかかります。
送った帷子も染めたかったのですが、
費用がなかったので…
9月上旬 宛先不明
方々からの早馬の知らせでは、
下総下河辺へ出陣して、すぐに合戦がありそうです。
今はまだ決まってませんが、
下河辺に14・15日には出陣せよとの命令があり…
…16・17日頃には下河辺に…
月日不明 某僧・一族山内六郎治清宛てか
…下総下河辺荘の対岸に着きました。
出陣しない人は皆、所領を没収されると聞きました。
そのほか、噂によれば、
訴状を提出して異議を唱える人は、
本領を没収されるそうです。
武蔵高麗郡笠幡北方の渋江殿も、この処置に遭い、
その闕所を、皆に配分するとのことです。
忠節を尽くす者の行く末は、決まりました。
どうにかしてでも、費用2・3貫が欲しいです。
大進房に言って、費用5貫を借りてください。…
10月12日か 妻宛てか
…便りが絶えてしまっても、返事は早々に、
何事も詳しく書いてくれねば、心許なく思います。
こちらは10日に“なかへ”に着き、
今日12日の状況に応じて、下河辺に向かいます。
いずれにせよ、明日はしっかりやらねばなりません。
…今日は昼にも出立するかもしれません。
もし延期になっても、明日は必ず発つでしょう。
早くも恋しい思いをしています。
10月13日 子息又けさ宛てか
…容器を2つ送りました。
1つには、古葉の茶の苦くないものを、
寺へ言ってもらって、送ってください。
もう1つにも、茶などを入れて、送ってください。
干柿・搗栗を少し買って、送ってください。
10月初旬には、早くも、
足利方先鋒部隊と南朝方との間で、戦闘が開始されていたが、
師冬軍は、
10月中旬に至って、ようやく太日川を渡河。
下総下河辺荘に入り、
敵の前線基地常陸駒城を目の前にする、
下総山川に着陣した。
10月16日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…百姓らに何とでも命じて、鞍・具足を借りて、
馬に乗せて送ってください。
鞍・具足がないならば、
徒歩ででも、馬を牽いて連れてきてください。
何事も、母御の言うことを聞き、
もう幼くないのだから、がんばってください。
10月28日 子息又けさ宛て 下総山川の陣より
…合戦のことといい、留守のことといい、
心苦しさは、言い様もありません。
逃亡した陪臣の人数を、書き送ります。
この者たちを、一人残らず捕まえて、
こちらに送り返してください。
少しでもこれを違えるならば、
今後親子とは思いません。
越中八郎の家人、谷の家人、紀平次の家人、
彼らを捕らえてください。
…もし、この者たちが来ないならば、
その親を遣わしてください。
大久保の弥三郎や、まだ参陣していない者は、
しばらくしたら来るように言ってください。
10月下旬、
師冬軍は、敵の前線基地である常陸駒城を包囲。
敵の防御は堅く、苦戦を強いられる。
長陣により、厭戦気分が漂い、
逃亡する者もあったようだ。
11月2日 子息又けさ宛て
…佐藤三郎の童を参陣させる旨を、
奥にも伝えてください。
先日述べた、逃亡した陪臣どもを、
早く、一人残らず捕まえて、送ってください。
留守の間のことを思うにつけ、心配です。…
11月某日 子息又けさ宛てか
…馬が欲しく、戦死者の遺物であった馬を、
ゑひ殿に言って、いただきました。
兜も、最近は他人が貸してくれるので、
それを着用して、合戦に行っています。
人がこれほど討ち死にしたり、負傷したりしているのに、
私は今まで何事もありませんので、
合戦がどのようなものかなどと、心許なく思わないでください。…
12月下旬か 子息又けさ宛て
使者小三郎が持ってきた手紙を読みました。
おっしゃるとおり、今まで変わったことはありません。
この城(常陸駒城)は、今年中に落ちそうにないので、
暇をもらって、帰郷しようと思っています。
…今後はだんだん肌寒くなってきます。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
留守の間、頼りになる者が一人もいないことは、
心許なく思います。
…先日、この合戦での働きを、
三河殿(高師冬)も大いに褒めてくださいました。
…もし私が死んでも、
大将や一揆の人々がいるので、安心です。
月日不明 子息又けさ宛てか
…おっしゃるとおり、
こちらの辛苦は言い様もありませんが、
ただ、こちらのことは以前より覚悟していたことです。
それよりも、
留守に頼りになる者がいないことこそ、
心配に思います。
何事も、しっかりと大人として、
母御と相談し、
百姓らにも、あまり無沙汰にせぬよう、
がんばってください。…
月日不明 宛先不明
…先日、常陸塩本に向かいました。
いずれも戦場であることには変わりませんが、
塩本は苦戦を強いられているところであり、
味方も小勢ですので、
覚悟はしています。
今のところは、異常はありません。
新井殿の方へも、手紙を送りたいのですが、
たいしたこともありませんし、
昨夜、こちらの城へ敵襲があるということで、
用心しています。
…何事も、ご心配なさらず。…
月日不明 子息又けさ宛てか
…合戦が延びているので、
暇をもらって帰郷したいけれども、
敵城も近く、なかなか難しそうです。
今度の合戦では、生きて帰れるとも思えず、
留守宅に、頼もしい者が一人もないことが、
かえすがえすも、心許なく思います。…
留守宅の心配、
身のまわりの困窮、
妻への恋情、
家臣たちの逃亡、
厳しい戦場の様子。
紹介したのは、ごく一部であるが、
山内経之の手紙には、
これらが、連々と綴られている。
そこには、
勇壮なイメージとはかけ離れた、武士の姿がある。
それは、山内経之に限ったものではなく、
当時の武士の、普遍的な姿だっただろう。
これらを残して、
経之の手紙は、ふつりと途絶える。
手紙の消滅は、すなわち、
書き手の死を意味している。
駒城攻めの激戦の中で、
暦応3年(1340)2・3月頃、
経之は、討ち死にしたものと思われる。
留守にした家を案じつつ、
経済的にも不自由な中で、戦場に立った経之は、
死の瞬間、いかほどの思いであったろうか。
なお、高師冬の足利方は、
暦応3年(1340)5月末、
7ヶ月にわたる攻防戦の末に、
ようやく常陸駒城を陥したが、
すぐに、南朝方の猛反撃により、奪回された。
師冬軍は、
下野宇都宮を迂回して、常陸瓜連城に入り、
暦応4年(1341)5月、
態勢を整えて、小田城に迫った。
激戦の末、
11月、小田治久が足利方に投降。
北畠親房は、関宗祐の関城に移り、
関・大宝の2城を拠点に、戦闘を継続する。
暦応4年(1341)12月、
師冬軍は、関・大宝城の攻撃を開始し、
康永2年(1343)11月、
ついに両城を陥して、親房を大和吉野へ潰走させた。
こうして、
4年以上に及ぶ常陸合戦は、ようやく幕を下ろす。
〔参考〕
『日野市史 史料編 高幡不動胎内文書編』 (日野市史編さん委員会 1993)
峰岸純夫「高幡不動胎内文書」 (『中世東国の荘園公領と宗教』 吉川弘文館 2006)
《誅殺》 《1363年》 《7月》 《19日》 《享年不明》
佐々木導誉(京極高氏)の筆頭家臣。
出雲守護代。
貞治2年(1363)7月19日戌の刻(夜8時頃)、
導誉邸から自宅に帰る途中、
京都四条京極の常阿弥堂前にて、暗殺された。
下手人は、侍所所司代若宮左衛門尉。
吉田秀仲が、
導誉の嗣子高秀の廃嫡、導誉の幼い曾孫秀頼の擁立を画策していたため、
侍所所司であった高秀が、その誅殺を命じたのであった。
これにより、
高秀は父導誉の譴責を受けた。
父子の間は、その後怪しいものとなっている。
とはいえ、
下手人の所司代若宮は、
それまで将軍義詮邸におり、
事件後、ふたたび義詮のもとへ行って、
事件を報告したというから、
義詮も了承済みのことだったのだろう。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 6 (こま-しと)』 (1985)
佐々木導誉(京極高氏)の筆頭家臣。
出雲守護代。
貞治2年(1363)7月19日戌の刻(夜8時頃)、
導誉邸から自宅に帰る途中、
京都四条京極の常阿弥堂前にて、暗殺された。
下手人は、侍所所司代若宮左衛門尉。
吉田秀仲が、
導誉の嗣子高秀の廃嫡、導誉の幼い曾孫秀頼の擁立を画策していたため、
侍所所司であった高秀が、その誅殺を命じたのであった。
これにより、
高秀は父導誉の譴責を受けた。
父子の間は、その後怪しいものとなっている。
とはいえ、
下手人の所司代若宮は、
それまで将軍義詮邸におり、
事件後、ふたたび義詮のもとへ行って、
事件を報告したというから、
義詮も了承済みのことだったのだろう。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 6 (こま-しと)』 (1985)
《病死》 《1365年》 《5月》 《4日》 《享年60歳》
北条氏一門赤橋久時の娘。
室町幕府初代将軍足利尊氏の妻で、
2代将軍義詮・初代鎌倉公方基氏の母。
正慶2年(1333)5月、
夫尊氏が、後醍醐天皇の倒幕軍に投じた際には、
子の千寿王(のちの義詮)とともに、鎌倉にあったが、脱出し、
新田義貞らの倒幕軍と北条氏一門の、鎌倉市街戦には、
巻き込まれずには済んだ。
ただ、
鎌倉幕府最後の執権をつとめた兄守時は、
同年5月18日、
鎌倉巨福呂坂で、新田勢と戦ったのち、自刃。
鎮西探題であったもう一人の兄英時も、
同年5月25日に、
九州の少弐貞経・大友貞宗らに敗れて、
筑前博多で自害した。
赤橋登子にとって、
夫尊氏は、親兄弟の仇の筋に当たらなくもない。
その夫尊氏が、
延文3年(1358)4月30日、没すると、
出家して、尼となったらしい。
貞治3年(1364)頃より、
悪瘡により、病気がちであったが、
翌貞治4年(1365)に入ってからは、
やや快方に向かっていた。
ところが、
その年の5月4日酉の斜(夜7時頃)、
危篤に陥る。
事態を聞いた諸大名が、将軍義詮邸に参集した。
子の刻(深夜0時頃)、
他界。
6日申の刻(夕方4時頃)、
夫尊氏の墓所である仁和寺等持院にて、葬儀。
子の刻(深夜0時頃)、火葬。
8日、納骨。
登子に仕えていた清原教氏が、
この日、出家した。
葬儀いっさいは、
将軍である嫡子義詮が執り行ったが、
次男基氏も、関東にあって、
喪に服した。
6月4日までの30日間、
天下触穢とされた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十六』 (1933)
谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』 文献出版 1997)
北条氏一門赤橋久時の娘。
室町幕府初代将軍足利尊氏の妻で、
2代将軍義詮・初代鎌倉公方基氏の母。
正慶2年(1333)5月、
夫尊氏が、後醍醐天皇の倒幕軍に投じた際には、
子の千寿王(のちの義詮)とともに、鎌倉にあったが、脱出し、
新田義貞らの倒幕軍と北条氏一門の、鎌倉市街戦には、
巻き込まれずには済んだ。
ただ、
鎌倉幕府最後の執権をつとめた兄守時は、
同年5月18日、
鎌倉巨福呂坂で、新田勢と戦ったのち、自刃。
鎮西探題であったもう一人の兄英時も、
同年5月25日に、
九州の少弐貞経・大友貞宗らに敗れて、
筑前博多で自害した。
赤橋登子にとって、
夫尊氏は、親兄弟の仇の筋に当たらなくもない。
その夫尊氏が、
延文3年(1358)4月30日、没すると、
出家して、尼となったらしい。
貞治3年(1364)頃より、
悪瘡により、病気がちであったが、
翌貞治4年(1365)に入ってからは、
やや快方に向かっていた。
ところが、
その年の5月4日酉の斜(夜7時頃)、
危篤に陥る。
事態を聞いた諸大名が、将軍義詮邸に参集した。
子の刻(深夜0時頃)、
他界。
6日申の刻(夕方4時頃)、
夫尊氏の墓所である仁和寺等持院にて、葬儀。
子の刻(深夜0時頃)、火葬。
8日、納骨。
登子に仕えていた清原教氏が、
この日、出家した。
葬儀いっさいは、
将軍である嫡子義詮が執り行ったが、
次男基氏も、関東にあって、
喪に服した。
6月4日までの30日間、
天下触穢とされた。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十六』 (1933)
谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』 文献出版 1997)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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