死に様データベース
《誅殺》 《1574年》 《8月》 《某日》 《享年不明》
薩摩川辺の盗人。
天正2年(1574)8月、
薩摩鹿篭のとある夫婦の家に忍び込み、
馬や下人、その他諸々の物品を盗んだが、
その後、薩摩川辺で捕えられ、処刑された。
問題はそのあと。
犯行の現場となった鹿篭の城主島津忠長は、
孫左衛門の居住地であった川辺の城主平田宗張に、
孫左衛門の盗んだ物の引き渡しを要求。
この争いは、大名島津義久のもとに持ち込まれた。
平田宗張は、「そんなことは知らない」とつっぱねるが、
島津忠長はしつこく、「馬と下人を返せ」と迫り、
結局、島津義久の調停により、
「盗人を討ち取ったならば、
盗んだ物は返さなくてもよい」
ということになった。
島津忠長は、自分の言い分が聞き届けられず、
鹿篭に帰ってしまい、
義久も仕方なく、平田宗張を川辺に帰すことにした。
戦国大名は、
こうしたような訴えや争いの調停におわれて、
苦悩していたらしい。
と、
孫左衛門本人の所業とは関係ない話になってしまったが、
物品ばかりでなく、馬や人といった盗んだものの規模や、
その後の話の拡がりから考えれば、
孫左衛門は、それなりの盗賊団の頭目だったということだろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 岩波書店 1954
薩摩川辺の盗人。
天正2年(1574)8月、
薩摩鹿篭のとある夫婦の家に忍び込み、
馬や下人、その他諸々の物品を盗んだが、
その後、薩摩川辺で捕えられ、処刑された。
問題はそのあと。
犯行の現場となった鹿篭の城主島津忠長は、
孫左衛門の居住地であった川辺の城主平田宗張に、
孫左衛門の盗んだ物の引き渡しを要求。
この争いは、大名島津義久のもとに持ち込まれた。
平田宗張は、「そんなことは知らない」とつっぱねるが、
島津忠長はしつこく、「馬と下人を返せ」と迫り、
結局、島津義久の調停により、
「盗人を討ち取ったならば、
盗んだ物は返さなくてもよい」
ということになった。
島津忠長は、自分の言い分が聞き届けられず、
鹿篭に帰ってしまい、
義久も仕方なく、平田宗張を川辺に帰すことにした。
戦国大名は、
こうしたような訴えや争いの調停におわれて、
苦悩していたらしい。
と、
孫左衛門本人の所業とは関係ない話になってしまったが、
物品ばかりでなく、馬や人といった盗んだものの規模や、
その後の話の拡がりから考えれば、
孫左衛門は、それなりの盗賊団の頭目だったということだろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 上井覚兼日記 上』 岩波書店 1954
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《病死》 《1372年》 《3月》 《29日》 《享年不明》
室町幕府問注所執事・引付方・評定衆、
鎌倉府問注所執事。
太田顕之は、鎌倉時代以来の法曹官僚の家に生まれ、
自らもその職能をもって、
南北朝内乱期の足利氏に仕えた。
貞和2年(1346)・同5年(1349)正月の将軍足利尊氏の評定始には、
高師直・佐々木導誉らとともに、参列している。
観応の擾乱では、
直義方につき、直義の北国落ちにも随ったが、
擾乱後、幕府に復帰し、
文和3年(1354)5月の足利義詮の評定始に、
仁木頼章・佐々木導誉らと参列している。
その後、京都から鎌倉に移り、
鎌倉公方足利基氏に、問注所執事として仕えたらしい。
「隼人正入道沙弥善照」・「雪林善照居士」・「問注所雪林居士」の名で、
記録等に散見されるが、
その活動はあまり明らかでない。
応安5年(1372)3月29日、
急死。
火葬の際の火付け役を頼まれたが、
病気を理由に断った義堂周信は、
「嗚呼哀しい哉。
天下安危は、彼一人にかかっていた。
今後世の中はどうなるだろう。
思えば、こんにち世の人で言動に慎み深いのは、
彼だけであった。
いまや、姦佞の者どものどこに、慎み深い者がいるだろうか。
ましてや、我が宗門に頼むべき人などいるはずもない。」(『空華日用工夫略集』)
と、その死を嘆き悼んだ。
この周信の記より、
顕行が能吏であったことが、うかがえる。
そして、周信の恐れどおり、
「天下安危」を支えた顕行の死後、
鎌倉では、円覚寺と建長寺の僧侶の衝突が激化したり、
下総香取社の社人たちが、千葉氏の横暴を訴えて、神輿を担いで乗り込んだりと、
きな臭い、物騒なさわぎが続いた。
官僚の重みというものか。
〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
新田一郎「「問注所氏」小考」 (『遥かなる中世』8 1987)
湯山学「鎌倉府と問注所執事三善氏」 (『鎌倉府の研究』 岩田書院 2011)
室町幕府問注所執事・引付方・評定衆、
鎌倉府問注所執事。
太田顕之は、鎌倉時代以来の法曹官僚の家に生まれ、
自らもその職能をもって、
南北朝内乱期の足利氏に仕えた。
貞和2年(1346)・同5年(1349)正月の将軍足利尊氏の評定始には、
高師直・佐々木導誉らとともに、参列している。
観応の擾乱では、
直義方につき、直義の北国落ちにも随ったが、
擾乱後、幕府に復帰し、
文和3年(1354)5月の足利義詮の評定始に、
仁木頼章・佐々木導誉らと参列している。
その後、京都から鎌倉に移り、
鎌倉公方足利基氏に、問注所執事として仕えたらしい。
「隼人正入道沙弥善照」・「雪林善照居士」・「問注所雪林居士」の名で、
記録等に散見されるが、
その活動はあまり明らかでない。
応安5年(1372)3月29日、
急死。
火葬の際の火付け役を頼まれたが、
病気を理由に断った義堂周信は、
「嗚呼哀しい哉。
天下安危は、彼一人にかかっていた。
今後世の中はどうなるだろう。
思えば、こんにち世の人で言動に慎み深いのは、
彼だけであった。
いまや、姦佞の者どものどこに、慎み深い者がいるだろうか。
ましてや、我が宗門に頼むべき人などいるはずもない。」(『空華日用工夫略集』)
と、その死を嘆き悼んだ。
この周信の記より、
顕行が能吏であったことが、うかがえる。
そして、周信の恐れどおり、
「天下安危」を支えた顕行の死後、
鎌倉では、円覚寺と建長寺の僧侶の衝突が激化したり、
下総香取社の社人たちが、千葉氏の横暴を訴えて、神輿を担いで乗り込んだりと、
きな臭い、物騒なさわぎが続いた。
官僚の重みというものか。
〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
新田一郎「「問注所氏」小考」 (『遥かなる中世』8 1987)
湯山学「鎌倉府と問注所執事三善氏」 (『鎌倉府の研究』 岩田書院 2011)
《病死》 《1525年》 《2月》 《2日》 《享年68歳》
本願寺第9世。
兄順如が早世したため、
父蓮如の法嗣となって、
延徳8年(1489)、本願寺を継承した。
室町幕府管領細川政元との関係を、良好に保ち、
急成長した本願寺教団を、何とか統制しつつ、
大名間の抗争にも介入するなどしたが、
政元の横死後は、その統制に苦慮し、
政治介入もやめて、
教団の再編・強化に努めた。
実如はまた、教団の地位の上昇にも貢献し、
大永元年(1521)には、
後柏原天皇より、准門跡とされている。
圧倒的な存在感を放つ父蓮如の陰に隠れて、やや目立たないが、
実如が本願寺教団に果たした役割は、大きい。
大永5年(1525)正月中旬、
山科本願寺にて病臥した実如は、
2月2日暁七つ時(午前4時頃)、
呼吸が荒くなり、
六つ時(朝6時頃)、昏睡。
辰の刻(朝8時頃)、永眠。
68歳。
7日未の刻(午後2時頃)、葬儀。
各地より門徒たちが上洛して参列し、
その数は、数十万にものぼったという。
なかには、実如に殉じて、
切腹する者もあったというが、定かではない。
偉大な宗主の盛大な葬儀であったことには、違いない。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅶ』 (石川県 2009)
『国史大辞典 第6巻(こま-しと)』 (吉川弘文館 1985)
本願寺第9世。
兄順如が早世したため、
父蓮如の法嗣となって、
延徳8年(1489)、本願寺を継承した。
室町幕府管領細川政元との関係を、良好に保ち、
急成長した本願寺教団を、何とか統制しつつ、
大名間の抗争にも介入するなどしたが、
政元の横死後は、その統制に苦慮し、
政治介入もやめて、
教団の再編・強化に努めた。
実如はまた、教団の地位の上昇にも貢献し、
大永元年(1521)には、
後柏原天皇より、准門跡とされている。
圧倒的な存在感を放つ父蓮如の陰に隠れて、やや目立たないが、
実如が本願寺教団に果たした役割は、大きい。
大永5年(1525)正月中旬、
山科本願寺にて病臥した実如は、
2月2日暁七つ時(午前4時頃)、
呼吸が荒くなり、
六つ時(朝6時頃)、昏睡。
辰の刻(朝8時頃)、永眠。
68歳。
7日未の刻(午後2時頃)、葬儀。
各地より門徒たちが上洛して参列し、
その数は、数十万にものぼったという。
なかには、実如に殉じて、
切腹する者もあったというが、定かではない。
偉大な宗主の盛大な葬儀であったことには、違いない。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅶ』 (石川県 2009)
『国史大辞典 第6巻(こま-しと)』 (吉川弘文館 1985)
《病死》 《1365年》 《9月》 《13日》 《享年41歳》
下総守護。
南北朝内乱において、千葉氏胤は足利方に属し、
京都や関東を転戦。
観応の擾乱(足利方の内訌)でも、
はじめは直義方に属したが、
やがて尊氏方に転じた。
その功により、
累代の下総守護職に加えて、
伊賀守護職も与えられ、のち上総守護に転じている。
観応の擾乱後、
尊氏より東国支配の一端を任されたようだが、
寺社領等を押領したために、上総守護を解任されており、
尊氏の期待には応えていない。
貞治4年(1365)、
氏胤は京都にて病となり、
帰国することとなった。
その途次、9月13日、
美濃において客死。
南北朝内乱の序盤・中盤でこそ、
全国の武士の、文字通りの“東奔西走”があったが、
延文4年(1359)の東国勢の上洛を最後に、
軍勢の東西間の往来は、ほぼなくなる。
氏胤が、何しに京都に行っていたのかよくわからないが、
京都生まれであったというから、
何か特別なつながりを、ずっと持っていたのかもしれない。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
下総守護。
南北朝内乱において、千葉氏胤は足利方に属し、
京都や関東を転戦。
観応の擾乱(足利方の内訌)でも、
はじめは直義方に属したが、
やがて尊氏方に転じた。
その功により、
累代の下総守護職に加えて、
伊賀守護職も与えられ、のち上総守護に転じている。
観応の擾乱後、
尊氏より東国支配の一端を任されたようだが、
寺社領等を押領したために、上総守護を解任されており、
尊氏の期待には応えていない。
貞治4年(1365)、
氏胤は京都にて病となり、
帰国することとなった。
その途次、9月13日、
美濃において客死。
南北朝内乱の序盤・中盤でこそ、
全国の武士の、文字通りの“東奔西走”があったが、
延文4年(1359)の東国勢の上洛を最後に、
軍勢の東西間の往来は、ほぼなくなる。
氏胤が、何しに京都に行っていたのかよくわからないが、
京都生まれであったというから、
何か特別なつながりを、ずっと持っていたのかもしれない。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1514年》 《8月》 《24日》 《享年72歳》
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)
』 (戎光祥出版 2010)
白井長尾氏。
武蔵鉢形・日野城主。
長尾景春の祖父、長尾景仲は、
関東管領山内上杉氏の家宰をつとめた人物で、
上杉氏勢力の中核として、
鎌倉公方足利成氏(のち古河公方)と対立し、
享徳の大乱を原因をつくったひとりであった。
景仲ののち、鎌倉長尾実景を経て、
山内上杉氏の家宰職は、
景仲の嫡子景信が継承した。
景信は、父と同じく、
古河公方足利成氏と戦い続けた。
文明5年(1473)6月、
景信が死ぬと、
山内上杉氏の家宰職は、
景信の嫡子景春が継ぐはずだった。
ところが、
若き主人山内上杉顕定や、宿老寺尾憲明・海野佐渡守の談合によって、
家宰職は、
景信の弟(景春の叔父)惣社長尾忠景が継ぐこととなってしまった。
この恨みが、
景春を飽くなき闘争へと駆り立てることとなる。
文明6年(1474)頃、
景春は、上杉氏の本拠武蔵五十子陣の糧道を塞いで、
上杉方を困窮させた。
翌文明7年(1475)、
この、上杉方内部分裂の危機に、
扇谷上杉氏の家宰太田道灌が仲介に入るが、
その甲斐なく、不穏な状況が続く。
そして、文明8年(1476)、
景春は、ついに五十子陣を退去し、
武蔵鉢形城を築いて、立て籠もった。
山内上杉氏内部には、
当主顕定や家宰惣社長尾忠景らに不満を抱く者が、少なからずいたようで、
景春与党は、2、3000人に上った。
文明9年(1477)正月18日、
景春は、鉢形城より、眼下の五十子陣を急襲。
五十子陣は崩壊し、
主人山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景・太田道灌らは、
北方の上野へ退いた。
下剋上である。
景春は、鉢形城を拠点に、
与党を武蔵・相模全土に募り、
さらに、古河公方足利成氏の支援も得て、
上杉方を窮地に追い込んだ。
だが、
太田道灌の東奔西走、
および、上杉方と足利成氏の停戦協定によって、
徐々に掃討されていった。
景春は、反上杉の強硬派千葉孝胤と結び、
なおも反抗を続けたが、
文明10年(1478)7月には、
足利成氏も、景春討伐に協力するに至った。
武蔵秩父で、細々とゲリラ戦を展開していた景春は、
文明12年(1480)1月、
武蔵児玉で、ふたたび蜂起。
ここにきて、足利成氏がふたたび景春を支援に動く。
成氏は、景春を交渉役として、
対立していた室町幕府との和睦を模索しつつ、
景春を軍事的に支援したが、
6月24日、
景春の本拠秩父日野城を、太田道灌に陥され、
景春は没落した。
ここに、景春の最初の反抗が終息する。
没落した景春は、
しばらく古河公方足利成氏のもとにあったとされる。
その間、
成氏と幕府の和睦による、享徳の大乱の終結、
太田道灌の憤死を経て、
関東は、山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立(長享の乱)という、
新たな戦乱に突入した。
古河公方足利氏が、この対立に定見なく介入したため、
戦乱はより複雑・長期化していく。
長享2年(1488)、
景春は、扇谷上杉氏・古河公方方として、長享の乱に参加。
6月7日の武蔵須賀谷原合戦、
11月15日の武蔵高見原合戦で、
景春は、古河公方足利政氏(成氏の子)の部将として、
扇谷上杉定正とともに、旧主山内上杉顕定と戦い、活躍した。
ところが、
明応3年(1494)、
古河公方足利政氏が、山内上杉氏支援に転じると、
景春は、政氏から離れて、扇谷方に留まった。
あくまで山内上杉氏には与さない、
という、頑なな姿勢である。
景春の嫡子景英は、山内方に従ったため、
父子は相争うこととなった。
上野・武蔵・相模で繰り広げられた長享の乱は、
永正2年(1505)3月、
扇谷方の敗北によって終結。
これにより、
景春は、およそ30年ぶりに山内上杉顕定に帰参。
2度目の反抗、終わり。
永正3年(1506)、
今度は、古河公方足利政氏・高基父子の対立(永正の乱)が、
関東を戦乱の渦に巻き込んだ。
山内・扇谷上杉氏は、足利政氏に味方したが、
永正4年(1507)、
越後で、長尾為景が、
山内上杉顕定の弟越後上杉房能を、下剋上で討ち、
永正6年(1509)
伊豆の伊勢宗瑞が、長尾為景と結んで、
扇谷上杉氏より離叛、相模・武蔵へ侵攻。
そして、永正7年(1510)、
長尾景春は、
長尾為景・伊勢宗瑞と組んで、山内上杉氏から離叛した。
景春、3度目の反抗。
為景や宗瑞と連携しつつ、
景春は、相模や武蔵、上野で、山内・扇谷上杉氏と戦った。
永正8年(1511)、
敗走先の甲斐都留より、武蔵に進攻するも、
また敗れて、駿河の伊勢宗瑞のもとにに退去した。
永正11年(1514)8月24日、
執念の鬼、不死鳥のごとき景春も、ついに死す。
72歳。
場所は伝わらないが、退去先の何処かとされている。
3度も主家に反抗して、
関東を戦乱にひきずりこみながら、
景春は、畳の上で死んだ。
かつての宿敵、太田道灌とは、ずいぶん対照的である。
死に様が、必ずしも生き様を映すとは限らない。
しかし、世が戦国の世へと進んでいくなかで、
景春は、下剋上を成功させながら、
長尾為景(上杉謙信の父)や、伊勢宗瑞(後北条氏の祖)と異なり、
戦国大名へと脱皮することはできなかった。
独立的な権力、まとまった“領国”を、持つことができなかったのである。
景春が、そのことをどう考えていたのか、
今日知るすべはない。
〔参考〕
黒田基樹編『長尾景春 (シリーズ・中世関東武士の研究)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1095 | ||
| 1105 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
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| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~40代
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10歳 | ||
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20歳 | ||
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30歳 | ||
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
| 40歳 | ||
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
享年 50代~
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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