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死に様データベース
《自害》 《1364年》 《7月》 《27日》 《享年不明》


上野新田氏の一族。

南北朝内乱では、
新田氏の惣領義貞から離れて、足利方として戦った。
それゆえか、
貞治3年(1364)4月頃には、
上総守護となっている。


それからわずか数ヶ月後の7月27日、
世良田義政は突如、鎌倉公方足利基氏の勘気を蒙った。
翌28日、
基氏より討手を差し向けられ、
鎌倉如来堂にて自害。


義政がなぜ勘気を蒙ったのか、
はっきりしたことはわからないが、
弟岩松直国との、新田氏惣領職や新田荘の領有をめぐる争いや、
鎌倉公方足利基氏と関東管領上杉憲顕による、
鎌倉府権力の確立のうえでの、何かしらの意図があったのかもしれない。



〔参考〕
小国浩寿「上総守護と世良田義政事件」(『鎌倉府体制と東国』 吉川弘文館 2001)
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《病死》 《1363年》 《2月》 《8日》 《享年37歳》


京都三条坊門油小路の念仏僧か。


貞治3年(1363)2月8日亥の刻(夜10時頃)、
三条坊門油小路の念仏堂にて、
端座合掌したまま、弘阿弥入滅。
昨冬より、体を壊していたという。


〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
《病死》 《1364年》 《2月》 《13日》 《享年87歳》


室町幕府2代将軍足利義詮に、召仕として仕えていた。
出自等は未詳。


貞治3年(1364)2月13日酉の刻(夕方6時頃)、
矢部尼、他界。

すこし前から、急に体調を崩して、
将軍邸を退いていたという。


中原師守は日記に、
「老病か」(『師守記』)
と記しているから、
老衰だろうか。


「中世人今際図巻」、長寿記録更新。



〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
明けましておめでとうございます。
本年も、当ブログ「中世人今際図巻」を、
どうぞよろしくお願いいたします。

12月より、更新速度がダウンしましたが、
今後も気ままなペースで、
ぽちぽちと進めていきたいと思います。
“中世人の今際のきわのデータベース化”という壮大な構想の実現は、
いったいいつになりますことやら・・・。
なお、
拍手やコメントなどいただければ、
作者が喜びます。


おめでたい元日くらいは、
物騒だったりするような記事の更新は止めて、
新年のご挨拶のみとさせていただきます。
ご了承ください。
《不詳》 《1352年》 《2月》 《26日》 《享年45歳》


初代室町幕府将軍足利尊氏の弟。
室町幕府の執政。


足利直義は、
1歳上の兄尊氏を支え、室町幕府を樹立。
軍事系統を掌握する尊氏と、
裁判などの政務を担当する直義とで、
草創期の室町幕府は、兄弟の二頭政治に成り立っていた。

篤実で磊落な兄尊氏に対して、
直義は、理知的、保守的で、きっちりした性格であったとされ、
その政治方針も、前代以来の秩序の回復・維持に、
重きが置かれている。

しかし、
そうした方針はやがて、
既存の権威を打ち破ろうとする、尊氏の執事高師直との間に、
深刻な対立を生んだ。


貞治5年(1349)閏6月、
直義は、尊氏に迫って、高師直の執事職を罷免させた。
が、8月、
師直の巻き返しにより、直義は政務から逐われて、出家。
尊氏の調停によって、
両者の対立はひとまず収まる形になったが、
何ら根本的な解決には至っていない。


観応元年(1350)10月、
西国で勢力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏が出京すると、
その隙をついて、直義は京都を脱出。
大和に逃れて、南朝と講和し、
ついで河内石川城の畠山国清に迎えられ、
諸国に、高師直ら誅伐の兵を募って挙兵。
北陸・畿南・四国の直義派が、続々と兵を挙げた。

かくして、
師直直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争に発展したのである。


観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から東上する尊氏・師直を、
摂津打出浜で破った。
2月20日、
尊氏は、直義に和を請い、和睦。
師直は、直義上杉能憲に殺されてしまった。


再び、直義主導の幕政に戻ったが、
政情は不安定なままだった。
3月末には、
直義の側近が暗殺されたり、襲撃されたりする事件が起きて、
さまざまな浮言がとびかい、
両派の対立は、一触即発の状態だった。

7月19日、
直義は、政務を辞す。
しかし、
それで事態が収拾するはずもなく、
7月末、
尊氏方が、京都に直義を挟撃する計画があらわれると、
8月1日丑の刻(深夜2時頃)、
直義は京都を脱出。
若狭を経て、越前金ヶ崎城の斯波高経に迎えられ、
勢威盛んになり、京都の尊氏を脅かした。
だが、
9月12日、
近江湯次・八相山で直義方が敗れて、形勢が変わると、
直義は、越前敦賀を発ち、北陸を経由して、
11月15日、
信頼する上杉憲顕の待つ鎌倉に入った。

直義はここで、再び形勢を立て直し、
東海道で、尊氏との再決戦に備える。


観応2年(1351)12月13日、
東国勢を率いた直義上杉憲顕らは、
伊豆国府や駿河東部に布陣し、
駿河薩タ山の尊氏と対峙。
数でこれを圧倒した。
しかし、12月27日、
背後の相模より、宇都宮氏綱らが尊氏方に来援。
直義方は、
伊豆、相模で連敗と後退を続け、
直義は、尊氏に降服。
正月6日、
直義は、尊氏に連れられて鎌倉に入った。

正平7年(1352)2月26日卯の刻(朝6時頃)、
鎌倉にて急死。
45歳。
『太平記』は黄疸とする。
奇しくも、
宿敵高師直らが殺された、ちょうど1年の後であった。


京都でこれを聞いた洞院公賢は、
「もし天下静謐の基となるならば、神妙なことだろう。
 ただし、何事も凡慮では測りがたいものである。」(『園太暦』)
と記している。
それほどに、
室町幕府史における直義の死は大きい。


あまりに急な死であったため、
当時から、尊氏による毒殺がささやかれた。
今日の学界においても、
その定説はない。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十六』 (1918)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)』 (吉川弘文館 2009)
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