死に様データベース
《病死》 《1363年》 《2月》 《8日》 《享年37歳》
京都三条坊門油小路の念仏僧か。
貞治3年(1363)2月8日亥の刻(夜10時頃)、
三条坊門油小路の念仏堂にて、
端座合掌したまま、弘阿弥入滅。
昨冬より、体を壊していたという。
〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
京都三条坊門油小路の念仏僧か。
貞治3年(1363)2月8日亥の刻(夜10時頃)、
三条坊門油小路の念仏堂にて、
端座合掌したまま、弘阿弥入滅。
昨冬より、体を壊していたという。
〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
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《病死》 《1364年》 《2月》 《13日》 《享年87歳》
室町幕府2代将軍足利義詮に、召仕として仕えていた。
出自等は未詳。
貞治3年(1364)2月13日酉の刻(夕方6時頃)、
矢部尼、他界。
すこし前から、急に体調を崩して、
将軍邸を退いていたという。
中原師守は日記に、
「老病か」(『師守記』)
と記しているから、
老衰だろうか。
「中世人今際図巻」、長寿記録更新。
〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
室町幕府2代将軍足利義詮に、召仕として仕えていた。
出自等は未詳。
貞治3年(1364)2月13日酉の刻(夕方6時頃)、
矢部尼、他界。
すこし前から、急に体調を崩して、
将軍邸を退いていたという。
中原師守は日記に、
「老病か」(『師守記』)
と記しているから、
老衰だろうか。
「中世人今際図巻」、長寿記録更新。
〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
明けましておめでとうございます。
本年も、当ブログ「中世人今際図巻」を、
どうぞよろしくお願いいたします。
12月より、更新速度がダウンしましたが、
今後も気ままなペースで、
ぽちぽちと進めていきたいと思います。
“中世人の今際のきわのデータベース化”という壮大な構想の実現は、
いったいいつになりますことやら・・・。
なお、
拍手やコメントなどいただければ、
作者が喜びます。
おめでたい元日くらいは、
物騒だったりするような記事の更新は止めて、
新年のご挨拶のみとさせていただきます。
ご了承ください。
本年も、当ブログ「中世人今際図巻」を、
どうぞよろしくお願いいたします。
12月より、更新速度がダウンしましたが、
今後も気ままなペースで、
ぽちぽちと進めていきたいと思います。
“中世人の今際のきわのデータベース化”という壮大な構想の実現は、
いったいいつになりますことやら・・・。
なお、
拍手やコメントなどいただければ、
作者が喜びます。
おめでたい元日くらいは、
物騒だったりするような記事の更新は止めて、
新年のご挨拶のみとさせていただきます。
ご了承ください。
《不詳》 《1352年》 《2月》 《26日》 《享年45歳》
初代室町幕府将軍足利尊氏の弟。
室町幕府の執政。
足利直義は、
1歳上の兄尊氏を支え、室町幕府を樹立。
軍事系統を掌握する尊氏と、
裁判などの政務を担当する直義とで、
草創期の室町幕府は、兄弟の二頭政治に成り立っていた。
篤実で磊落な兄尊氏に対して、
直義は、理知的、保守的で、きっちりした性格であったとされ、
その政治方針も、前代以来の秩序の回復・維持に、
重きが置かれている。
しかし、
そうした方針はやがて、
既存の権威を打ち破ろうとする、尊氏の執事高師直との間に、
深刻な対立を生んだ。
貞治5年(1349)閏6月、
直義は、尊氏に迫って、高師直の執事職を罷免させた。
が、8月、
師直の巻き返しにより、直義は政務から逐われて、出家。
尊氏の調停によって、
両者の対立はひとまず収まる形になったが、
何ら根本的な解決には至っていない。
観応元年(1350)10月、
西国で勢力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏が出京すると、
その隙をついて、直義は京都を脱出。
大和に逃れて、南朝と講和し、
ついで河内石川城の畠山国清に迎えられ、
諸国に、高師直ら誅伐の兵を募って挙兵。
北陸・畿南・四国の直義派が、続々と兵を挙げた。
かくして、
師直・直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争に発展したのである。
観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から東上する尊氏・師直を、
摂津打出浜で破った。
2月20日、
尊氏は、直義に和を請い、和睦。
師直は、直義派上杉能憲に殺されてしまった。
再び、直義主導の幕政に戻ったが、
政情は不安定なままだった。
3月末には、
直義の側近が暗殺されたり、襲撃されたりする事件が起きて、
さまざまな浮言がとびかい、
両派の対立は、一触即発の状態だった。
7月19日、
直義は、政務を辞す。
しかし、
それで事態が収拾するはずもなく、
7月末、
尊氏方が、京都に直義を挟撃する計画があらわれると、
8月1日丑の刻(深夜2時頃)、
直義は京都を脱出。
若狭を経て、越前金ヶ崎城の斯波高経に迎えられ、
勢威盛んになり、京都の尊氏を脅かした。
だが、
9月12日、
近江湯次・八相山で直義方が敗れて、形勢が変わると、
直義は、越前敦賀を発ち、北陸を経由して、
11月15日、
信頼する上杉憲顕の待つ鎌倉に入った。
直義はここで、再び形勢を立て直し、
東海道で、尊氏との再決戦に備える。
観応2年(1351)12月13日、
東国勢を率いた直義・上杉憲顕らは、
伊豆国府や駿河東部に布陣し、
駿河薩タ山の尊氏と対峙。
数でこれを圧倒した。
しかし、12月27日、
背後の相模より、宇都宮氏綱らが尊氏方に来援。
直義方は、
伊豆、相模で連敗と後退を続け、
直義は、尊氏に降服。
正月6日、
直義は、尊氏に連れられて鎌倉に入った。
正平7年(1352)2月26日卯の刻(朝6時頃)、
鎌倉にて急死。
45歳。
『太平記』は黄疸とする。
奇しくも、
宿敵高師直らが殺された、ちょうど1年の後であった。
京都でこれを聞いた洞院公賢は、
「もし天下静謐の基となるならば、神妙なことだろう。
ただし、何事も凡慮では測りがたいものである。」(『園太暦』)
と記している。
それほどに、
室町幕府史における直義の死は大きい。
あまりに急な死であったため、
当時から、尊氏による毒殺がささやかれた。
今日の学界においても、
その定説はない。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十六』 (1918)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)
』 (吉川弘文館 2009)
初代室町幕府将軍足利尊氏の弟。
室町幕府の執政。
足利直義は、
1歳上の兄尊氏を支え、室町幕府を樹立。
軍事系統を掌握する尊氏と、
裁判などの政務を担当する直義とで、
草創期の室町幕府は、兄弟の二頭政治に成り立っていた。
篤実で磊落な兄尊氏に対して、
直義は、理知的、保守的で、きっちりした性格であったとされ、
その政治方針も、前代以来の秩序の回復・維持に、
重きが置かれている。
しかし、
そうした方針はやがて、
既存の権威を打ち破ろうとする、尊氏の執事高師直との間に、
深刻な対立を生んだ。
貞治5年(1349)閏6月、
直義は、尊氏に迫って、高師直の執事職を罷免させた。
が、8月、
師直の巻き返しにより、直義は政務から逐われて、出家。
尊氏の調停によって、
両者の対立はひとまず収まる形になったが、
何ら根本的な解決には至っていない。
観応元年(1350)10月、
西国で勢力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏が出京すると、
その隙をついて、直義は京都を脱出。
大和に逃れて、南朝と講和し、
ついで河内石川城の畠山国清に迎えられ、
諸国に、高師直ら誅伐の兵を募って挙兵。
北陸・畿南・四国の直義派が、続々と兵を挙げた。
かくして、
師直・直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争に発展したのである。
観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から東上する尊氏・師直を、
摂津打出浜で破った。
2月20日、
尊氏は、直義に和を請い、和睦。
師直は、直義派上杉能憲に殺されてしまった。
再び、直義主導の幕政に戻ったが、
政情は不安定なままだった。
3月末には、
直義の側近が暗殺されたり、襲撃されたりする事件が起きて、
さまざまな浮言がとびかい、
両派の対立は、一触即発の状態だった。
7月19日、
直義は、政務を辞す。
しかし、
それで事態が収拾するはずもなく、
7月末、
尊氏方が、京都に直義を挟撃する計画があらわれると、
8月1日丑の刻(深夜2時頃)、
直義は京都を脱出。
若狭を経て、越前金ヶ崎城の斯波高経に迎えられ、
勢威盛んになり、京都の尊氏を脅かした。
だが、
9月12日、
近江湯次・八相山で直義方が敗れて、形勢が変わると、
直義は、越前敦賀を発ち、北陸を経由して、
11月15日、
信頼する上杉憲顕の待つ鎌倉に入った。
直義はここで、再び形勢を立て直し、
東海道で、尊氏との再決戦に備える。
観応2年(1351)12月13日、
東国勢を率いた直義・上杉憲顕らは、
伊豆国府や駿河東部に布陣し、
駿河薩タ山の尊氏と対峙。
数でこれを圧倒した。
しかし、12月27日、
背後の相模より、宇都宮氏綱らが尊氏方に来援。
直義方は、
伊豆、相模で連敗と後退を続け、
直義は、尊氏に降服。
正月6日、
直義は、尊氏に連れられて鎌倉に入った。
正平7年(1352)2月26日卯の刻(朝6時頃)、
鎌倉にて急死。
45歳。
『太平記』は黄疸とする。
奇しくも、
宿敵高師直らが殺された、ちょうど1年の後であった。
京都でこれを聞いた洞院公賢は、
「もし天下静謐の基となるならば、神妙なことだろう。
ただし、何事も凡慮では測りがたいものである。」(『園太暦』)
と記している。
それほどに、
室町幕府史における直義の死は大きい。
あまりに急な死であったため、
当時から、尊氏による毒殺がささやかれた。
今日の学界においても、
その定説はない。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十六』 (1918)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)
《誅殺》 《1351年》 《2月》 《26日》 《享年不明》
初代室町幕府足利尊氏の執事。
高家は、代々足利家執事を務める家柄で、
高師直も父祖同様に、当主尊氏の執事となった。
南北朝内乱においては、
戦場での活躍にも、目を瞠るものがある。
建武3年(1336)5月、
北九州で勢力を挽回して、東上する尊氏に随い、
摂津兵庫において、尊氏の弟直義とともに、
南朝方新田義貞・楠木正成を破る。
暦応元年(1338)5月、
奥羽勢を率いて西上した南朝方北畠顕家を、
和泉堺浦で敗死させ、
貞和3年(1347)、
弟師泰とともに、河内の南朝軍を叩き、
翌4年(1348)正月、
楠木正行を、河内四条畷で討ち取り、
同月末には、
南朝の本拠大和吉野に攻め入って、
後村上天皇を、大和賀名生に逐った。
越前金ヶ崎で、新田義貞を破った弟師泰といい、
常陸で北畠親房らを征圧した養子師冬といい、
師直の一族は、“武闘派”と呼ぶに相応しい活躍を見せている。
こうした師直らの軍事力は、
畿内近国の新興武士団を組織化した成果であり、
また、
「もし王なくて叶うまじき道理あらば、
木をもって造るか、金をもって鋳るかして、
生きたる院・国王をば、何方へも皆流し捨て奉らばや」(『太平記』)
と、言い放ったというような、
師直の強い個性に支えられたものであった。
しかし、
この師直らの旧来の秩序を無視するやり方は、
室町幕府の政務担当者足利直義の政権構想に反し、
両者の反目は、やがて鋭い対立へと変わっていく
貞治5年(1349)閏6月、
この足利方の内訌が、
あわや武力衝突へと発展しそうになったが、
尊氏の調停によって、合意が成立。
その結果、
師直は、尊氏の執事を罷免させられた。
だが、
師直は負けてはおらず、
尊氏邸を囲んで、直義の引退を強請し、
これを成功させて、直義の寵臣上杉重能・畠山直宗を誅殺。
自身は執事に復帰した。
観応元年(1350)10月、
西国で力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏自ら、西征することとなった。
が、その出陣直前、
直義が、京都を出奔。
南朝と講和して、大和に逃れ、
ついで、
河内で、師直・師泰誅伐の兵を募って挙兵するに及び、
師直・直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争へと発展する。
翌観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から西上した尊氏・師直と、摂津打出浜で激突。
師直自身が股を負傷するほど、
尊氏方は大敗を喫した。
尊氏は直義に、
師直・師泰らを出家させ、彼らの政治生命を絶つことを条件に、
講和を申し入れた。
直義はこれを了承し、
尊氏を京都に入れることとなった。
2月25日、
尊氏は京都をめざし、湊川を出発。
将軍尊氏の3里ばかり後陣を、
僧体となった師直・師泰らが、とぼとぼと随っている様は、
それは見苦しいものであったという。
ところが、
2月26日、
武庫川の鷲林寺前まで来たところで、
直義方の上杉能憲が、500騎ほどの軍勢で待ち構え、
講和条件に反して、
師直・師泰ら親類・家人数十人を、殺してしまった。
上杉能憲は、師直に殺された上杉重能の養子であった。
つまりは、親の仇。
尊氏はこの所業を怒り、
直義に能憲の処刑を迫ったが、容れられることはなかった。
洞院公賢は、
「盛衰耳目を遮る。
哀しむべし哀しむべし。」(『園太暦』)
と日記に記す。
軍記物『太平記』は、これまた見事。
同(2月)二十六日に、
将軍(尊氏)すでに御合体(和睦)にて上洛し給えば、
執事兄弟(師直・師泰)も、同じく遁世者にうち紛れて、
無常の岐にむちをうつ。
折節春雨しめやかに降りて、
数万の敵、ここかしこにひかえたる中をうち通れば、
「それよ」と人に見知られじと、
蓮の葉笠をうち傾け、袖にて顔をひき隠せども、
なかなか紛れぬ天が下、
身のせばき程こそあわれなれ。
将軍に離れ奉りては、
道にても、いかなる事かあらんずらんと、危ぶみて少しもさがらず、
馬を早めてうちけるを、
上杉・畠山の兵ども、かねて議したることなれば、
路の両方に、百騎、二百騎、五十騎、三十騎、
ところどころにひかえて待ちける者ども、
「すわや執事よ」と見てければ、
将軍と執事とのあわいを、次第に隔てんと、
鷹角一揆七十余騎、会釈色代もなく、
馬を中へうちこみうちこみしける程に、心ならず押し隔てられて、
武庫川の辺りを過ぎける時は、
将軍と執事とのあわい、河を隔て山をへだてて、
五十町ばかりになりにけり。
(中略)
執事兄弟、武庫川をうち渡りて、小堤の上を過ぎける時、
三浦八郎左衛門が中間二人、走り寄りて、
「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠ぬげ。」
とて、執事の着られたる蓮の葉笠を、引っ切って捨つるに、
ほうかぶりはずれて片顔の少し見えたるを、
三浦八郎左衛門、
「あわれ敵や、願うところの幸いかな。」と悦びて、
長刀の柄をとり延べて、胴中を切って落とさんと、
右の肩先より左の小脇まで、きっさきさがりに切り付けられて、
あっと云うところを、重ねて二打ちうつ。
打たれて馬よりどうと落ちければ、
三浦、馬より飛んで下り、頸を掻き落として、
長刀のきっさきに貫いて、差し上げたり。
越後入道(師泰)は、半町ばかり隔たりてうちけるが、
これを見て、馬を懸けのけんとしけるを、
あとにうちける吉江小四郎、
鑓をもって背骨より左の乳の下へ突きとおす。
突かれて鑓に取り付き、懐に指したる打刀を抜かんとしけるところに、
吉江が中間走り寄り、
鐙の鼻を返して、引き落とす。
落つれば首を掻き切って、あぎとを喉へ貫き、
とっつけ(鞍の下げ紐)に着けて、馳せて行く。
・・・
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
初代室町幕府足利尊氏の執事。
高家は、代々足利家執事を務める家柄で、
高師直も父祖同様に、当主尊氏の執事となった。
南北朝内乱においては、
戦場での活躍にも、目を瞠るものがある。
建武3年(1336)5月、
北九州で勢力を挽回して、東上する尊氏に随い、
摂津兵庫において、尊氏の弟直義とともに、
南朝方新田義貞・楠木正成を破る。
暦応元年(1338)5月、
奥羽勢を率いて西上した南朝方北畠顕家を、
和泉堺浦で敗死させ、
貞和3年(1347)、
弟師泰とともに、河内の南朝軍を叩き、
翌4年(1348)正月、
楠木正行を、河内四条畷で討ち取り、
同月末には、
南朝の本拠大和吉野に攻め入って、
後村上天皇を、大和賀名生に逐った。
越前金ヶ崎で、新田義貞を破った弟師泰といい、
常陸で北畠親房らを征圧した養子師冬といい、
師直の一族は、“武闘派”と呼ぶに相応しい活躍を見せている。
こうした師直らの軍事力は、
畿内近国の新興武士団を組織化した成果であり、
また、
「もし王なくて叶うまじき道理あらば、
木をもって造るか、金をもって鋳るかして、
生きたる院・国王をば、何方へも皆流し捨て奉らばや」(『太平記』)
と、言い放ったというような、
師直の強い個性に支えられたものであった。
しかし、
この師直らの旧来の秩序を無視するやり方は、
室町幕府の政務担当者足利直義の政権構想に反し、
両者の反目は、やがて鋭い対立へと変わっていく
貞治5年(1349)閏6月、
この足利方の内訌が、
あわや武力衝突へと発展しそうになったが、
尊氏の調停によって、合意が成立。
その結果、
師直は、尊氏の執事を罷免させられた。
だが、
師直は負けてはおらず、
尊氏邸を囲んで、直義の引退を強請し、
これを成功させて、直義の寵臣上杉重能・畠山直宗を誅殺。
自身は執事に復帰した。
観応元年(1350)10月、
西国で力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏自ら、西征することとなった。
が、その出陣直前、
直義が、京都を出奔。
南朝と講和して、大和に逃れ、
ついで、
河内で、師直・師泰誅伐の兵を募って挙兵するに及び、
師直・直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争へと発展する。
翌観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から西上した尊氏・師直と、摂津打出浜で激突。
師直自身が股を負傷するほど、
尊氏方は大敗を喫した。
尊氏は直義に、
師直・師泰らを出家させ、彼らの政治生命を絶つことを条件に、
講和を申し入れた。
直義はこれを了承し、
尊氏を京都に入れることとなった。
2月25日、
尊氏は京都をめざし、湊川を出発。
将軍尊氏の3里ばかり後陣を、
僧体となった師直・師泰らが、とぼとぼと随っている様は、
それは見苦しいものであったという。
ところが、
2月26日、
武庫川の鷲林寺前まで来たところで、
直義方の上杉能憲が、500騎ほどの軍勢で待ち構え、
講和条件に反して、
師直・師泰ら親類・家人数十人を、殺してしまった。
上杉能憲は、師直に殺された上杉重能の養子であった。
つまりは、親の仇。
尊氏はこの所業を怒り、
直義に能憲の処刑を迫ったが、容れられることはなかった。
洞院公賢は、
「盛衰耳目を遮る。
哀しむべし哀しむべし。」(『園太暦』)
と日記に記す。
軍記物『太平記』は、これまた見事。
同(2月)二十六日に、
将軍(尊氏)すでに御合体(和睦)にて上洛し給えば、
執事兄弟(師直・師泰)も、同じく遁世者にうち紛れて、
無常の岐にむちをうつ。
折節春雨しめやかに降りて、
数万の敵、ここかしこにひかえたる中をうち通れば、
「それよ」と人に見知られじと、
蓮の葉笠をうち傾け、袖にて顔をひき隠せども、
なかなか紛れぬ天が下、
身のせばき程こそあわれなれ。
将軍に離れ奉りては、
道にても、いかなる事かあらんずらんと、危ぶみて少しもさがらず、
馬を早めてうちけるを、
上杉・畠山の兵ども、かねて議したることなれば、
路の両方に、百騎、二百騎、五十騎、三十騎、
ところどころにひかえて待ちける者ども、
「すわや執事よ」と見てければ、
将軍と執事とのあわいを、次第に隔てんと、
鷹角一揆七十余騎、会釈色代もなく、
馬を中へうちこみうちこみしける程に、心ならず押し隔てられて、
武庫川の辺りを過ぎける時は、
将軍と執事とのあわい、河を隔て山をへだてて、
五十町ばかりになりにけり。
(中略)
執事兄弟、武庫川をうち渡りて、小堤の上を過ぎける時、
三浦八郎左衛門が中間二人、走り寄りて、
「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠ぬげ。」
とて、執事の着られたる蓮の葉笠を、引っ切って捨つるに、
ほうかぶりはずれて片顔の少し見えたるを、
三浦八郎左衛門、
「あわれ敵や、願うところの幸いかな。」と悦びて、
長刀の柄をとり延べて、胴中を切って落とさんと、
右の肩先より左の小脇まで、きっさきさがりに切り付けられて、
あっと云うところを、重ねて二打ちうつ。
打たれて馬よりどうと落ちければ、
三浦、馬より飛んで下り、頸を掻き落として、
長刀のきっさきに貫いて、差し上げたり。
越後入道(師泰)は、半町ばかり隔たりてうちけるが、
これを見て、馬を懸けのけんとしけるを、
あとにうちける吉江小四郎、
鑓をもって背骨より左の乳の下へ突きとおす。
突かれて鑓に取り付き、懐に指したる打刀を抜かんとしけるところに、
吉江が中間走り寄り、
鐙の鼻を返して、引き落とす。
落つれば首を掻き切って、あぎとを喉へ貫き、
とっつけ(鞍の下げ紐)に着けて、馳せて行く。
・・・
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
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1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
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1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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