忍者ブログ
死に様データベース
《誅殺》 《1486年》 《7月》 《26日》 《享年55歳》


扇谷上杉氏家宰。


扇谷上杉氏家宰であった父太田道真は、
山内上杉氏家宰長尾景仲とともに、上杉方の中心的な存在であり、
鎌倉公方足利成氏と対立した。
その対立は、
鎌倉府の崩壊を招き、
15世紀最大の東国内乱、享徳の大乱へ発展する。


北関東の豪族たちを従え、
下総古河を拠点に、布陣をかためた足利成氏に対して、
上杉方は、武蔵五十子に本陣をすえ、
武蔵河越・江戸に城を築いて、
河越城に、扇谷上杉持朝とその家宰太田道真、
江戸城に、太田道灌を入れた。
道灌が江戸城を築城した、とされる所以である。


寛正2年(1461)、
父道真が隠居し、
文明5年(1473)、
扇谷上杉政真の戦死により、
その叔父定正が新たな当主として迎えられると、
その擁立劇をリードした家宰道灌が、
名実ともに、扇谷上杉氏の主導的立場となり、
上杉方の中心的存在となった。


文明8年(1476)3~10月、
扇谷上杉氏の姻戚である駿河守護今川氏の内紛に際し、
武蔵江戸より駿河府中へ出陣。
また同じ頃、
長尾景春が、主人山内上杉顕定に謀叛を起こすと、
帰国したばかりの道灌は、
同じ上杉方として、その鎮火に奔走する。
文明9年(1477)3月、
長尾景春方の相模溝呂木・小磯城を陥し、
4月、
武蔵江古田原で、景春方の豊島氏を破り、
ついで、武蔵石神井城を攻めて、同氏を降服させた。
5月、
武蔵用土原で、景春自身を破って退かせ、
7月、
景春を支援する足利成氏の来襲に備えて、
上野白井城に入城。
9月、
上野塩売原で、再び出陣してきた景春と対陣、
11月、
これを逐った。
翌文明10年(1478)2月、
豊島氏を討つため、武蔵南部に出陣、
4月、
豊島氏の籠る武蔵小机城を陥し、
相模奥三保・甲斐の景春方を追撃、
7月、
武蔵中・北部を転戦して、景春方を叩き、
12月、
下総境根原で、景春方の千葉孝胤を破った。
文明11年(1479)1月、
孝胤の籠る下総臼井城に攻め、
この戦いで、弟資忠を喪うが、
7月には、
下総・上総の景春方を降し、
文明12年(1480)1月、
武蔵長井城を陥し、
6月、
景春の籠る武蔵秩父の日野城を陥落させた。
とんで文明15年(1483)10月、
上総長南城攻略、
文明16年(1484)5月、
下総馬橋城を築城、
文明18年(1486)6月には、
下総に出陣した。

叩かれても何度も立ち上がる景春景春だが、
モグラたたきのように、それを潰していった道灌の活躍も、
すさまじい。


めざましいのは、戦だけではない。
江戸城内に、筑波山や隅田川、富士山、武蔵野を望む亭を築き、
禅僧万里集九らを招いて、歌会を開くなどして、
東国に一大文化サロンをなした。
文武両道に秀でた武将だったのである。


こうした道灌の、八面六臂の活躍は、
扇谷上杉氏の勢力を拡大させたが、
同時に、山内上杉顕定の不興を買うこととなった。
ともに活動していたとはいえ、
両上杉氏は、一枚岩ではなかったのである。

さらに、扇谷上杉氏のなかにも、
道灌の活躍を喜ばない者たちがいた。

彼らは、
扇谷上杉定正と道灌の仲を引き離そうと企てた。


こうした推移のなかで、
徐々に家宰道灌に不信を抱きはじめた当主定正は、
ついに道灌の排除を決意する。

文明18年(1486)7月26日、
主人定正の相模糟屋館において、
入浴を終えて、風呂から出てきたところ、
同僚の曽我兵庫助に、斬りつけられた。
倒れざまに道灌は、
「当方滅亡」(『太田資武状』)
と、叫んだという。

文武両道の名将は、
図らずも主人の兇刃に斃れた。
活躍に比して、
その死はあまりにあっけない。


遺骸は、洞昌院に運ばれ、
荼毘にふされたという。
現神奈川県伊勢原市の洞昌院には、道灌の胴塚、
大慈寺には、道灌の首塚と呼ばれる塚が、築かれている。

友人の万里集九は、
祭文を捧げるなどして、たびたび道灌の菩提を弔った。


有能さゆえに招いた死。
しかし、その有能さは、
ときに剛腕・横暴として人の目に映った。
出すぎた杭も殺される。


なお、その後、
道灌の嫡子資康は、
扇谷上杉氏のもとを離れて、山内上杉氏のもとに奔り、
長享元年(1487)、
両上杉氏は、ついに軍事衝突するに至る。
この抗争のうちに、勢力を伸ばした伊勢宗瑞により、
扇谷上杉氏は、道灌の予言どおり、
「滅亡」へと進んでいく。



〔参考〕
黒田基樹『図説 太田道潅―江戸東京を切り開いた悲劇の名将』 (戎光祥出版 2009)
PR
《病死》 《1367年》 《4月》 《3日》 《享年30歳》


正三位、権中納言。


貞治6年(1367)4月2日深夜、
四条隆家は、中風により倒れた。
3日卯の刻(朝6時頃)、危篤、
午の刻(昼12時頃)、こときれた。

何かと隆家を頼っていた中原師守は、
「殊に悲嘆」(『師守記』)している。


子がなかったため、
弟顕保の3歳の子を養子として、跡目を継がせた。


前月23日、
同じ権中納言の坊城俊冬が、没したばかりであった。
10日の間に、2人も現任の公卿が死んだことについて、
前関白近衛道嗣は、
「惜しむべし惜しむべし、哀しむべし哀しむべし」(『愚管記』)
と記し、
中原師守は、「朝家衰微」(『師守記』)としている。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1367年》 《3月》 《23日》 《享年48歳》


従二位、権中納言。


北朝に仕えた坊城俊冬は、
足利尊氏の護持僧賢俊と所領を争って、官を辞めたり、
貞治改元に際して、日野時光と争ったり、
なかなか血気盛んだったよう。


貞治6年(1367)3月17日、
俊冬は病臥する。
この日、前関白近衛道嗣の嫡男(兼嗣)元服の上卿をつとめるはずだったが、
欠席した。
医師丹波篤直は、
病原が不明だが、回復の望みはない、と診断した。
一方で、医師但馬道仙は、
「傷寒」(『後愚昧記』)(腸チフスの類か)と診断し、
22日に発汗したならば、まもなく回復するだろう、と見立てた。
だが、
23日亥の刻(夜10時頃)、死去。


正確に診断し、早々にさじを投げた医師と、
誤診して、気休めを言った医師。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1366年》 《12月》 《27日》 《享年20歳》


従二位、権大納言。


貞治5年(1366)12月14日、
一条房経は、病に罹った。
その後、やや快方に向かったが、
25日、
医師和気繁成に「大補湯」を処方してもらったところ、
再発。

房経に子はなく、
しかも、その病が篤く、急を要するため、
一条家の跡目として、
田舎にいる房経の幼い弟が探し出され、
相続させることとなった。

房経の病は、その後も癒えることなく、
27日亥の刻(夜10時頃)、逝去。


一条家に仕えた吉田兼煕は、
「無常の習い、無力といえども、
 哀傷を増しおわんぬ。
 予年少より奉公、他に異なる。
 大略御一流の断絶か。
 珍事々々。」(『吉田家日次記』)
と、その若すぎる死を悼んでいる。


ところが、
房経弟への相続について、
朝廷への申請や、室町幕府への申し入れが、ひと通りすんだ後、
この若君が、
実は房経の実弟ではなく、二条良基の末子であることが、
周囲に知らされた。
房経の急病により、
慌てて、関白二条良基の末子を、一条房経の弟として、
田舎に待機させておいたものであった。
これを知った吉田兼煕は、
「よろしく神慮あるべきものなり。」(『吉田家日次記』)
と、憤っている。

この若君が、
のちの関白一条経嗣である。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1363年》 《7月》 《3日》 《享年95歳》


鎌倉幕府下で、薩摩守護、
室町幕府下で、薩摩・大隅・日向守護。

島津貞久は、
元弘の乱では、足利高氏(のち尊氏)の誘いに応じ、
少弐貞経・大友貞宗とともに、鎮西探題赤橋英時を討った。
つづく南北朝内乱でも、
基本的には尊氏に味方したが、
観応の擾乱(足利方の内訌)勃発にともなっては、
観応2年(1351)正月には、尊氏と対立する足利直冬に属し、
同年11月には、南朝の懐良親王にしたがうなど、
一時的に尊氏から離れている。
文和3年(1354)8月には、再び尊氏方に復す。

こうして、巧みに乱世を生き抜いた貞久は、
勢力を保持して、薩摩・大隅2ヶ国の守護職を手にし、
以後の島津家の礎を築いた。


貞治2年(1363)、
薩摩守護を三男師久へ、
大隅守護を四男氏久へ譲り、
7月3日、
薩摩木牟礼城にて没。
鹿児島五道院に葬られたという。
95歳。


年齢には異説があるというが、
またしても、
「中世人今際図巻」最高齢更新。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 7 (しな-しん)』 (吉川弘文館 1986)
31  32  33  34  35  36  37  38  39  40  41 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[11/12 Dwaynejat]
[11/10 Dwaynejat]
[11/07 パタゴニアの渓谷]
[08/26 記主]
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]