死に様データベース
《誅殺》 《1351年》 《2月》 《26日》 《享年不明》
初代室町幕府足利尊氏の執事。
高家は、代々足利家執事を務める家柄で、
高師直も父祖同様に、当主尊氏の執事となった。
南北朝内乱においては、
戦場での活躍にも、目を瞠るものがある。
建武3年(1336)5月、
北九州で勢力を挽回して、東上する尊氏に随い、
摂津兵庫において、尊氏の弟直義とともに、
南朝方新田義貞・楠木正成を破る。
暦応元年(1338)5月、
奥羽勢を率いて西上した南朝方北畠顕家を、
和泉堺浦で敗死させ、
貞和3年(1347)、
弟師泰とともに、河内の南朝軍を叩き、
翌4年(1348)正月、
楠木正行を、河内四条畷で討ち取り、
同月末には、
南朝の本拠大和吉野に攻め入って、
後村上天皇を、大和賀名生に逐った。
越前金ヶ崎で、新田義貞を破った弟師泰といい、
常陸で北畠親房らを征圧した養子師冬といい、
師直の一族は、“武闘派”と呼ぶに相応しい活躍を見せている。
こうした師直らの軍事力は、
畿内近国の新興武士団を組織化した成果であり、
また、
「もし王なくて叶うまじき道理あらば、
木をもって造るか、金をもって鋳るかして、
生きたる院・国王をば、何方へも皆流し捨て奉らばや」(『太平記』)
と、言い放ったというような、
師直の強い個性に支えられたものであった。
しかし、
この師直らの旧来の秩序を無視するやり方は、
室町幕府の政務担当者足利直義の政権構想に反し、
両者の反目は、やがて鋭い対立へと変わっていく
貞治5年(1349)閏6月、
この足利方の内訌が、
あわや武力衝突へと発展しそうになったが、
尊氏の調停によって、合意が成立。
その結果、
師直は、尊氏の執事を罷免させられた。
だが、
師直は負けてはおらず、
尊氏邸を囲んで、直義の引退を強請し、
これを成功させて、直義の寵臣上杉重能・畠山直宗を誅殺。
自身は執事に復帰した。
観応元年(1350)10月、
西国で力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏自ら、西征することとなった。
が、その出陣直前、
直義が、京都を出奔。
南朝と講和して、大和に逃れ、
ついで、
河内で、師直・師泰誅伐の兵を募って挙兵するに及び、
師直・直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争へと発展する。
翌観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から西上した尊氏・師直と、摂津打出浜で激突。
師直自身が股を負傷するほど、
尊氏方は大敗を喫した。
尊氏は直義に、
師直・師泰らを出家させ、彼らの政治生命を絶つことを条件に、
講和を申し入れた。
直義はこれを了承し、
尊氏を京都に入れることとなった。
2月25日、
尊氏は京都をめざし、湊川を出発。
将軍尊氏の3里ばかり後陣を、
僧体となった師直・師泰らが、とぼとぼと随っている様は、
それは見苦しいものであったという。
ところが、
2月26日、
武庫川の鷲林寺前まで来たところで、
直義方の上杉能憲が、500騎ほどの軍勢で待ち構え、
講和条件に反して、
師直・師泰ら親類・家人数十人を、殺してしまった。
上杉能憲は、師直に殺された上杉重能の養子であった。
つまりは、親の仇。
尊氏はこの所業を怒り、
直義に能憲の処刑を迫ったが、容れられることはなかった。
洞院公賢は、
「盛衰耳目を遮る。
哀しむべし哀しむべし。」(『園太暦』)
と日記に記す。
軍記物『太平記』は、これまた見事。
同(2月)二十六日に、
将軍(尊氏)すでに御合体(和睦)にて上洛し給えば、
執事兄弟(師直・師泰)も、同じく遁世者にうち紛れて、
無常の岐にむちをうつ。
折節春雨しめやかに降りて、
数万の敵、ここかしこにひかえたる中をうち通れば、
「それよ」と人に見知られじと、
蓮の葉笠をうち傾け、袖にて顔をひき隠せども、
なかなか紛れぬ天が下、
身のせばき程こそあわれなれ。
将軍に離れ奉りては、
道にても、いかなる事かあらんずらんと、危ぶみて少しもさがらず、
馬を早めてうちけるを、
上杉・畠山の兵ども、かねて議したることなれば、
路の両方に、百騎、二百騎、五十騎、三十騎、
ところどころにひかえて待ちける者ども、
「すわや執事よ」と見てければ、
将軍と執事とのあわいを、次第に隔てんと、
鷹角一揆七十余騎、会釈色代もなく、
馬を中へうちこみうちこみしける程に、心ならず押し隔てられて、
武庫川の辺りを過ぎける時は、
将軍と執事とのあわい、河を隔て山をへだてて、
五十町ばかりになりにけり。
(中略)
執事兄弟、武庫川をうち渡りて、小堤の上を過ぎける時、
三浦八郎左衛門が中間二人、走り寄りて、
「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠ぬげ。」
とて、執事の着られたる蓮の葉笠を、引っ切って捨つるに、
ほうかぶりはずれて片顔の少し見えたるを、
三浦八郎左衛門、
「あわれ敵や、願うところの幸いかな。」と悦びて、
長刀の柄をとり延べて、胴中を切って落とさんと、
右の肩先より左の小脇まで、きっさきさがりに切り付けられて、
あっと云うところを、重ねて二打ちうつ。
打たれて馬よりどうと落ちければ、
三浦、馬より飛んで下り、頸を掻き落として、
長刀のきっさきに貫いて、差し上げたり。
越後入道(師泰)は、半町ばかり隔たりてうちけるが、
これを見て、馬を懸けのけんとしけるを、
あとにうちける吉江小四郎、
鑓をもって背骨より左の乳の下へ突きとおす。
突かれて鑓に取り付き、懐に指したる打刀を抜かんとしけるところに、
吉江が中間走り寄り、
鐙の鼻を返して、引き落とす。
落つれば首を掻き切って、あぎとを喉へ貫き、
とっつけ(鞍の下げ紐)に着けて、馳せて行く。
・・・
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
初代室町幕府足利尊氏の執事。
高家は、代々足利家執事を務める家柄で、
高師直も父祖同様に、当主尊氏の執事となった。
南北朝内乱においては、
戦場での活躍にも、目を瞠るものがある。
建武3年(1336)5月、
北九州で勢力を挽回して、東上する尊氏に随い、
摂津兵庫において、尊氏の弟直義とともに、
南朝方新田義貞・楠木正成を破る。
暦応元年(1338)5月、
奥羽勢を率いて西上した南朝方北畠顕家を、
和泉堺浦で敗死させ、
貞和3年(1347)、
弟師泰とともに、河内の南朝軍を叩き、
翌4年(1348)正月、
楠木正行を、河内四条畷で討ち取り、
同月末には、
南朝の本拠大和吉野に攻め入って、
後村上天皇を、大和賀名生に逐った。
越前金ヶ崎で、新田義貞を破った弟師泰といい、
常陸で北畠親房らを征圧した養子師冬といい、
師直の一族は、“武闘派”と呼ぶに相応しい活躍を見せている。
こうした師直らの軍事力は、
畿内近国の新興武士団を組織化した成果であり、
また、
「もし王なくて叶うまじき道理あらば、
木をもって造るか、金をもって鋳るかして、
生きたる院・国王をば、何方へも皆流し捨て奉らばや」(『太平記』)
と、言い放ったというような、
師直の強い個性に支えられたものであった。
しかし、
この師直らの旧来の秩序を無視するやり方は、
室町幕府の政務担当者足利直義の政権構想に反し、
両者の反目は、やがて鋭い対立へと変わっていく
貞治5年(1349)閏6月、
この足利方の内訌が、
あわや武力衝突へと発展しそうになったが、
尊氏の調停によって、合意が成立。
その結果、
師直は、尊氏の執事を罷免させられた。
だが、
師直は負けてはおらず、
尊氏邸を囲んで、直義の引退を強請し、
これを成功させて、直義の寵臣上杉重能・畠山直宗を誅殺。
自身は執事に復帰した。
観応元年(1350)10月、
西国で力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏自ら、西征することとなった。
が、その出陣直前、
直義が、京都を出奔。
南朝と講和して、大和に逃れ、
ついで、
河内で、師直・師泰誅伐の兵を募って挙兵するに及び、
師直・直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争へと発展する。
翌観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から西上した尊氏・師直と、摂津打出浜で激突。
師直自身が股を負傷するほど、
尊氏方は大敗を喫した。
尊氏は直義に、
師直・師泰らを出家させ、彼らの政治生命を絶つことを条件に、
講和を申し入れた。
直義はこれを了承し、
尊氏を京都に入れることとなった。
2月25日、
尊氏は京都をめざし、湊川を出発。
将軍尊氏の3里ばかり後陣を、
僧体となった師直・師泰らが、とぼとぼと随っている様は、
それは見苦しいものであったという。
ところが、
2月26日、
武庫川の鷲林寺前まで来たところで、
直義方の上杉能憲が、500騎ほどの軍勢で待ち構え、
講和条件に反して、
師直・師泰ら親類・家人数十人を、殺してしまった。
上杉能憲は、師直に殺された上杉重能の養子であった。
つまりは、親の仇。
尊氏はこの所業を怒り、
直義に能憲の処刑を迫ったが、容れられることはなかった。
洞院公賢は、
「盛衰耳目を遮る。
哀しむべし哀しむべし。」(『園太暦』)
と日記に記す。
軍記物『太平記』は、これまた見事。
同(2月)二十六日に、
将軍(尊氏)すでに御合体(和睦)にて上洛し給えば、
執事兄弟(師直・師泰)も、同じく遁世者にうち紛れて、
無常の岐にむちをうつ。
折節春雨しめやかに降りて、
数万の敵、ここかしこにひかえたる中をうち通れば、
「それよ」と人に見知られじと、
蓮の葉笠をうち傾け、袖にて顔をひき隠せども、
なかなか紛れぬ天が下、
身のせばき程こそあわれなれ。
将軍に離れ奉りては、
道にても、いかなる事かあらんずらんと、危ぶみて少しもさがらず、
馬を早めてうちけるを、
上杉・畠山の兵ども、かねて議したることなれば、
路の両方に、百騎、二百騎、五十騎、三十騎、
ところどころにひかえて待ちける者ども、
「すわや執事よ」と見てければ、
将軍と執事とのあわいを、次第に隔てんと、
鷹角一揆七十余騎、会釈色代もなく、
馬を中へうちこみうちこみしける程に、心ならず押し隔てられて、
武庫川の辺りを過ぎける時は、
将軍と執事とのあわい、河を隔て山をへだてて、
五十町ばかりになりにけり。
(中略)
執事兄弟、武庫川をうち渡りて、小堤の上を過ぎける時、
三浦八郎左衛門が中間二人、走り寄りて、
「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠ぬげ。」
とて、執事の着られたる蓮の葉笠を、引っ切って捨つるに、
ほうかぶりはずれて片顔の少し見えたるを、
三浦八郎左衛門、
「あわれ敵や、願うところの幸いかな。」と悦びて、
長刀の柄をとり延べて、胴中を切って落とさんと、
右の肩先より左の小脇まで、きっさきさがりに切り付けられて、
あっと云うところを、重ねて二打ちうつ。
打たれて馬よりどうと落ちければ、
三浦、馬より飛んで下り、頸を掻き落として、
長刀のきっさきに貫いて、差し上げたり。
越後入道(師泰)は、半町ばかり隔たりてうちけるが、
これを見て、馬を懸けのけんとしけるを、
あとにうちける吉江小四郎、
鑓をもって背骨より左の乳の下へ突きとおす。
突かれて鑓に取り付き、懐に指したる打刀を抜かんとしけるところに、
吉江が中間走り寄り、
鐙の鼻を返して、引き落とす。
落つれば首を掻き切って、あぎとを喉へ貫き、
とっつけ(鞍の下げ紐)に着けて、馳せて行く。
・・・
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
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《病死》 《1368年》 《9月》 《19日》 《享年63歳》
関東管領。
足利氏の準一門で、
足利尊氏・直義の従兄弟にあたる。
上杉憲顕は、
建武元年(1334)、28歳にして、関東政界にデビューして以来、
数度の上洛以外は、ずっと東国で活動した。
南北朝内乱で活躍した足利氏一門・譜代被官のなかでも、
こうした例は珍しい。
建武3年(1336)正月、
父憲房が京都で戦死すると、
その地位や上野守護職を継承。
当時、上杉一族の中心は、
憲顕、義兄弟の重能、従兄弟の朝定の3人であり、
いずれも足利直義の信頼を得て、その有力部将として活躍していたが、
重能・朝定が、室町幕府の中枢にあって、
京都や畿内近国で活動したのに対して、
憲顕のみは、関東や越後で南朝方と戦い、
足利氏権力の確立に努めている。
建武4年(1337)5月には、直義から、
「諸国の守護の非法のみ聞き候に、
当国の沙汰は、法の如く殊勝の由、
諸人申し合い候間、
感悦無極候、」(「上杉家文書」)
と、上野の支配を激賞されている。
憲顕の支配は、
足利直義の政権構想や支配理念と、よく合っていた。
と同時に、
憲顕が一代で築き上げた関東の基盤は、
幕府にとって、かなりのものだったと思われる。
暦応元年(1338)12月、
直義の命により、上洛するが、
同3年(1340)6月までに、再び関東に戻っている。
翌年(1341)から康永3年(1344)には、
越後を転戦して、南朝方を鎮圧。
観応の擾乱(足利方の内訌)が起こると、
憲顕は、むろん直義方として活動し、
観応2年(1351)正月、
関東両管領の一方で尊氏方の高師冬を、甲斐で討ち取った。
そして、
東国の強大な軍事力を背景に、
京都の直義を助けるべく、上洛を企てるが、
これは、直義に止められている。
そのかわり、子憲将らを上洛させたらしい。
同年11月、
京都を脱出した直義を、鎌倉に迎え、
駿河で足利尊氏と衝突。
一時はこれを圧倒するが、背後からの増援により、敗れた。
翌正平7年(1352)正月、
直義は、兄尊氏に降服し、観応の擾乱は終息。
尊氏に叛した憲顕は、
東国で築き上げたすべてを、失った。
これ以前、
憲顕の子能憲は、尊氏方の高師直らを誅殺した。
尊氏は、重臣師直を討った上杉氏を、
生涯許すことがなかったのである。
そして、憲顕も、主君直義を討った尊氏に、
徹底抗戦していくこととなる。
擾乱終息からほどない、観応3年(1352)閏2月、
憲顕は、南朝方と組んで、尊氏を破り、
鎌倉を占領。
しかし、翌3月、すぐさま奪回された。
それ以降、憲顕やその子らは、
越後や信濃で、ゲリラ的な活動をして、幕府に反抗した。
連敗していたようだから、
“隠然たる勢力を持っていた”とは言い難い。
ところが、
延文3年(1358)4月、尊氏が没すると、
状況が少しずつ変わっていった。
尊氏ほどに、上杉氏に対して拘りのない新将軍義詮は、
貞治元年(1362)、
憲顕を赦免して、越後守護に採用した。
そして、
翌2年(1363)3月、
鎌倉公方足利基氏によって、
再び関東管領として、鎌倉に迎えられることとなる。
基氏は、このことを、
「多年念願」、「願い大慶」(「上杉家文書」)
と述べている。
実父尊氏よりも、養父直義に憧憬を抱いていたらしい基氏は、
幼き頃に、直義の理念の体現者である憲顕の薫陶を受け、
その復帰を、嘱望していたのである。
こうして、憲顕は、
一族ともども、関東政界に完全な復帰を果たした。
こうした例も、
足利氏一門のなかでは、かなり稀である。
貞治6年(1367)4月、
主君基氏が若くして急逝。
その子金王丸(のちの氏満)が、
わずか9歳にして鎌倉公方となる。
しかし、
室町幕府は、その後の行く末を危ぶんだか、
重臣佐々木導誉を鎌倉に派遣して、関東の政務を執らせた。
憲顕はこれと交代して、7月に上洛し、
室町幕府に善後策を議した。
ところが、
同年12月に、将軍義詮も急逝。
鎌倉にあった佐々木導誉は、いそぎ帰京する。
この隙をついて、
翌貞治7年(1368)2月、
憲顕に不満を持っていた河越直重ら平一揆が、武蔵河越で、
宇都宮氏綱が、下野宇都宮で挙兵した。
さらに、混乱に乗じて、
南朝方の残党新田義宗・義治らも、越後や上野で蜂起。
新将軍義満の屋敷で、この報を聞いた憲顕は、
急いで関東に帰った。
すぐさま、
憲顕の子能憲・憲春や、甥朝房らが出陣し、
手際よくこれを鎮圧していった。
万全な憲顕は、
平一揆や宇都宮氏の蜂起を誘うために、
あえて関東を留守にしたのではないか、とさえ思われる。
鎮圧軍は、残る敵宇都宮氏綱を、宇都宮城に追い込んだ。
憲顕も、東山道経由で関東に入り、
上野からそのまま下野足利に進んで、
鎮圧軍の監督に当たったが、
応安元年(1368)9月19日、
その陣中で没。
ほぼ一代で築き上げた勢力に、
失脚と反抗と復帰。
政治家としても、吏僚としても、軍事指揮官としても有能だった憲顕の、
63年の生涯は、
十分に波乱に富んでいたといえる。
〔参考〕
岩崎学「上杉憲顕の鎌倉復帰」 (『國學院大學大學院文学研究科紀要』20 1989)
阪田雄一「南北朝期における上杉氏の動向」 (『国史学』164 1998)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
関東管領。
足利氏の準一門で、
足利尊氏・直義の従兄弟にあたる。
上杉憲顕は、
建武元年(1334)、28歳にして、関東政界にデビューして以来、
数度の上洛以外は、ずっと東国で活動した。
南北朝内乱で活躍した足利氏一門・譜代被官のなかでも、
こうした例は珍しい。
建武3年(1336)正月、
父憲房が京都で戦死すると、
その地位や上野守護職を継承。
当時、上杉一族の中心は、
憲顕、義兄弟の重能、従兄弟の朝定の3人であり、
いずれも足利直義の信頼を得て、その有力部将として活躍していたが、
重能・朝定が、室町幕府の中枢にあって、
京都や畿内近国で活動したのに対して、
憲顕のみは、関東や越後で南朝方と戦い、
足利氏権力の確立に努めている。
建武4年(1337)5月には、直義から、
「諸国の守護の非法のみ聞き候に、
当国の沙汰は、法の如く殊勝の由、
諸人申し合い候間、
感悦無極候、」(「上杉家文書」)
と、上野の支配を激賞されている。
憲顕の支配は、
足利直義の政権構想や支配理念と、よく合っていた。
と同時に、
憲顕が一代で築き上げた関東の基盤は、
幕府にとって、かなりのものだったと思われる。
暦応元年(1338)12月、
直義の命により、上洛するが、
同3年(1340)6月までに、再び関東に戻っている。
翌年(1341)から康永3年(1344)には、
越後を転戦して、南朝方を鎮圧。
観応の擾乱(足利方の内訌)が起こると、
憲顕は、むろん直義方として活動し、
観応2年(1351)正月、
関東両管領の一方で尊氏方の高師冬を、甲斐で討ち取った。
そして、
東国の強大な軍事力を背景に、
京都の直義を助けるべく、上洛を企てるが、
これは、直義に止められている。
そのかわり、子憲将らを上洛させたらしい。
同年11月、
京都を脱出した直義を、鎌倉に迎え、
駿河で足利尊氏と衝突。
一時はこれを圧倒するが、背後からの増援により、敗れた。
翌正平7年(1352)正月、
直義は、兄尊氏に降服し、観応の擾乱は終息。
尊氏に叛した憲顕は、
東国で築き上げたすべてを、失った。
これ以前、
憲顕の子能憲は、尊氏方の高師直らを誅殺した。
尊氏は、重臣師直を討った上杉氏を、
生涯許すことがなかったのである。
そして、憲顕も、主君直義を討った尊氏に、
徹底抗戦していくこととなる。
擾乱終息からほどない、観応3年(1352)閏2月、
憲顕は、南朝方と組んで、尊氏を破り、
鎌倉を占領。
しかし、翌3月、すぐさま奪回された。
それ以降、憲顕やその子らは、
越後や信濃で、ゲリラ的な活動をして、幕府に反抗した。
連敗していたようだから、
“隠然たる勢力を持っていた”とは言い難い。
ところが、
延文3年(1358)4月、尊氏が没すると、
状況が少しずつ変わっていった。
尊氏ほどに、上杉氏に対して拘りのない新将軍義詮は、
貞治元年(1362)、
憲顕を赦免して、越後守護に採用した。
そして、
翌2年(1363)3月、
鎌倉公方足利基氏によって、
再び関東管領として、鎌倉に迎えられることとなる。
基氏は、このことを、
「多年念願」、「願い大慶」(「上杉家文書」)
と述べている。
実父尊氏よりも、養父直義に憧憬を抱いていたらしい基氏は、
幼き頃に、直義の理念の体現者である憲顕の薫陶を受け、
その復帰を、嘱望していたのである。
こうして、憲顕は、
一族ともども、関東政界に完全な復帰を果たした。
こうした例も、
足利氏一門のなかでは、かなり稀である。
貞治6年(1367)4月、
主君基氏が若くして急逝。
その子金王丸(のちの氏満)が、
わずか9歳にして鎌倉公方となる。
しかし、
室町幕府は、その後の行く末を危ぶんだか、
重臣佐々木導誉を鎌倉に派遣して、関東の政務を執らせた。
憲顕はこれと交代して、7月に上洛し、
室町幕府に善後策を議した。
ところが、
同年12月に、将軍義詮も急逝。
鎌倉にあった佐々木導誉は、いそぎ帰京する。
この隙をついて、
翌貞治7年(1368)2月、
憲顕に不満を持っていた河越直重ら平一揆が、武蔵河越で、
宇都宮氏綱が、下野宇都宮で挙兵した。
さらに、混乱に乗じて、
南朝方の残党新田義宗・義治らも、越後や上野で蜂起。
新将軍義満の屋敷で、この報を聞いた憲顕は、
急いで関東に帰った。
すぐさま、
憲顕の子能憲・憲春や、甥朝房らが出陣し、
手際よくこれを鎮圧していった。
万全な憲顕は、
平一揆や宇都宮氏の蜂起を誘うために、
あえて関東を留守にしたのではないか、とさえ思われる。
鎮圧軍は、残る敵宇都宮氏綱を、宇都宮城に追い込んだ。
憲顕も、東山道経由で関東に入り、
上野からそのまま下野足利に進んで、
鎮圧軍の監督に当たったが、
応安元年(1368)9月19日、
その陣中で没。
ほぼ一代で築き上げた勢力に、
失脚と反抗と復帰。
政治家としても、吏僚としても、軍事指揮官としても有能だった憲顕の、
63年の生涯は、
十分に波乱に富んでいたといえる。
〔参考〕
岩崎学「上杉憲顕の鎌倉復帰」 (『國學院大學大學院文学研究科紀要』20 1989)
阪田雄一「南北朝期における上杉氏の動向」 (『国史学』164 1998)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
《病死》 《1351年》 《正月》 《17日》 《享年77歳》
正二位、前権大納言。
内大臣洞院公守の次男として生まれ、
正親町家をおこした。
観応2年(1351)正月17日夜、
正親町実明没。
77歳。
甥の洞院公賢は、
「随分寿考の人なり」(『園太暦』)と、
その天寿を評している。
おりしも、南北朝内乱は、
観応の擾乱(室町幕府の内訌)のさなかであり、
正月17日は、
足利直義方の吉良満貞・斯波高経・千葉氏胤らが、
足利尊氏方を駆逐して、京都に乱入したその日であった。
そして、
実明の外孫である北朝の皇太子直仁親王は、
足利尊氏の一時的な南朝への降服(正平の一統)のために、
翌年に廃太子され、
その揚げ句、
南朝軍によって大和吉野へ連行、幽閉された。
実明が、もう少し生きながらえていたならば、
こうしたことを目前にしなければならなかった、
ということになる。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
正二位、前権大納言。
内大臣洞院公守の次男として生まれ、
正親町家をおこした。
観応2年(1351)正月17日夜、
正親町実明没。
77歳。
甥の洞院公賢は、
「随分寿考の人なり」(『園太暦』)と、
その天寿を評している。
おりしも、南北朝内乱は、
観応の擾乱(室町幕府の内訌)のさなかであり、
正月17日は、
足利直義方の吉良満貞・斯波高経・千葉氏胤らが、
足利尊氏方を駆逐して、京都に乱入したその日であった。
そして、
実明の外孫である北朝の皇太子直仁親王は、
足利尊氏の一時的な南朝への降服(正平の一統)のために、
翌年に廃太子され、
その揚げ句、
南朝軍によって大和吉野へ連行、幽閉された。
実明が、もう少し生きながらえていたならば、
こうしたことを目前にしなければならなかった、
ということになる。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
《誅殺》 《1497年》 《正月》 《14日》 《享年不明》
北野社松梅院の院主。
松梅院は、
北野社の院家のひとつで、
室町期に、北野公文所や将軍家御師職を掌握し、
北野社の主導権を握った。
特に、禅予から3代前の院主禅能は、
4代将軍足利義持に近付き、
多くの所領や特権を得た。
禅予は、従兄弟禅親(禅能の嫡孫)の養子となったが、
禅親には実子禅椿があった。
当然の流れとして、
彼らは、北野社領や御師職をめぐって、争うこととなり、
室町幕府に訴訟が持ち込まれた。
禅予は、
管領細川政元の家臣らの支援を得て、
訴訟を有利に運んでいたらしいが、
そのさなかの明応6年(1497)正月14日夜、
北野社の境内において、何者かに殺されてしまった。
下手人はむろん、禅椿の手の者だったらしい。
中世は、裁判も命がけ。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅳ』 (石川県 2004)
桜井英治『破産者たちの中世(日本史リブレット)』 (山川出版社 2005)
北野社松梅院の院主。
松梅院は、
北野社の院家のひとつで、
室町期に、北野公文所や将軍家御師職を掌握し、
北野社の主導権を握った。
特に、禅予から3代前の院主禅能は、
4代将軍足利義持に近付き、
多くの所領や特権を得た。
禅予は、従兄弟禅親(禅能の嫡孫)の養子となったが、
禅親には実子禅椿があった。
当然の流れとして、
彼らは、北野社領や御師職をめぐって、争うこととなり、
室町幕府に訴訟が持ち込まれた。
禅予は、
管領細川政元の家臣らの支援を得て、
訴訟を有利に運んでいたらしいが、
そのさなかの明応6年(1497)正月14日夜、
北野社の境内において、何者かに殺されてしまった。
下手人はむろん、禅椿の手の者だったらしい。
中世は、裁判も命がけ。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅳ』 (石川県 2004)
桜井英治『破産者たちの中世(日本史リブレット)』 (山川出版社 2005)
《病死》 《1509年》 《閏8月》 《8日》 《享年79歳》
勧修寺前長吏、東大寺前別当。
無品。
常盤井宮直明王の子で、
のち、後崇光院(伏見宮貞成親王)の猶子となった。
応仁2年(1468)4月、
恒弘法親王は、加賀郡家荘下向の勅許を請い、
許されて、同地に下向した。
応仁・文明の乱からの疎開と思われるが、
乱終息後も長く同地に留まり、
勧修寺領郡家荘の経営にあたった。
文明16年(1484)6月、上洛、参内するも、
またすぐに加賀に下向。
永正6年(1509)閏8月8日、
再び上洛する途次、
船中において入滅。
79歳の老身には、厳しい旅路であったか。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅵ』 (石川県 2008)
勧修寺前長吏、東大寺前別当。
無品。
常盤井宮直明王の子で、
のち、後崇光院(伏見宮貞成親王)の猶子となった。
応仁2年(1468)4月、
恒弘法親王は、加賀郡家荘下向の勅許を請い、
許されて、同地に下向した。
応仁・文明の乱からの疎開と思われるが、
乱終息後も長く同地に留まり、
勧修寺領郡家荘の経営にあたった。
文明16年(1484)6月、上洛、参内するも、
またすぐに加賀に下向。
永正6年(1509)閏8月8日、
再び上洛する途次、
船中において入滅。
79歳の老身には、厳しい旅路であったか。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅵ』 (石川県 2008)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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1417 | 1418 | 1419 |
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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享年 ~40代
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37歳 | 38歳 | 39歳 |
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41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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