死に様データベース
《自害》 《1351年》 《正月》 《17日》 《享年不明》
関東執事。
武蔵・伊賀守護。
足利尊氏執事高師直の従兄弟。
のち、師直の養子となった。
暦応2年(1339)には、
伊勢から関東に渡り、南朝方の勢力拡大を図る北畠親房を討つため、
高師冬は、足利方の大将として関東に下向し、常陸を転戦。
康永2年(1343)11月までに、親房の拠点を次々と陥し、
親房を大和吉野に追い帰した。
翌康永3年(1344)2月、師冬も帰京。
ところが、
貞和5年(1349)半ば、京都において、
足利方内部に、高師直と足利直義の対立が惹起する。
当時、関東には、
直義派の上杉憲顕が、足利方の中心としていたが、
師直派の梃入れとして、再び師冬が関東に派遣され、
上杉憲顕とともに、関東両執事として、
幼い鎌倉公方足利基氏を支えることとなった。
翌観応元年(1350)に入ると、
観応の擾乱と呼ばれるこの足利方の内訌は、さらに激化し、
尊氏・直義兄弟間の抗争へと拡大、
軍事衝突するに至る。
関東でも、
尊氏・師直派の師冬と、直義派の上杉憲顕の両執事間で、
その代理戦争が勃発したことはいうまでもない。
観応元年(1350)11月中旬から12月初旬にかけて、
関東各地で、直義派が蜂起、
鎌倉にいる師冬を追い詰めていった。
12月25日、
支えきれなくなった師冬は、
幼い鎌倉公方足利基氏を担いで、鎌倉を脱出。
一向は西へ向かい、
同日夜半、相模毛利荘湯山に着。
しかし、そこで、
公方基氏の近習のなかから、直義派に寝返る者が現れ、
基氏を奪って、鎌倉の直義方に投じてしまった。
基氏を失って一層窮地に立たされた師冬は、
甲斐須沢城に立て籠もった。
翌観応2年(1351)正月4日、
直義派の上杉憲将を大将とする師冬討伐軍数千騎が、鎌倉を出発。
16日より、攻城軍の攻撃が始まり、
翌17日、落城。自害。
北畠親房討伐戦でも、功多いながら、賞少なく、
最期も、四面楚歌の敵地に放り込まれた上の、孤軍奮闘。
有力者の養子でありながら、
何だか報われない生涯であったような気がしてならない。
なお、日本文学史上の軍記物の傑作である『太平記』は、
「城すでに落ちんとし候時、
御烏帽子子に候いし諏訪五郎、
初めは祝部(諏訪隆種)に属して、城を責め候いしが、
城の弱りたるを見て、
「そもそも吾執事(師冬)の烏帽子子にて、
父子の契約を致しながら、
世こぞって背けばとて、
不義の振る舞いをば如何致すべき。
「曾参は車を勝母の郷にかえし、孔子は渇を盗泉の水に忍ぶ」といえり。
君子はそれ為せざる処において、名をだにも恐る。
況や義の違うにおいてをや」とて、
祝部に最後の暇乞いて、城中へ入り、
却って寄せ手を防ぐこと、身命を惜しまず。
さる程に城の後ろより破れて、 敵四方より追いしかば、
諏訪五郎と播州(師冬)とは、手に手を取り違え、
腹掻き切って臥し給う。
この外義を重んじ、名を惜しむ侍共六十四人、同時に皆自害して、
名を九原上の苔に残し、屍を一戦場の土に曝さる。」(『太平記』)
と、これまたうまい。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』(1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
関東執事。
武蔵・伊賀守護。
足利尊氏執事高師直の従兄弟。
のち、師直の養子となった。
暦応2年(1339)には、
伊勢から関東に渡り、南朝方の勢力拡大を図る北畠親房を討つため、
高師冬は、足利方の大将として関東に下向し、常陸を転戦。
康永2年(1343)11月までに、親房の拠点を次々と陥し、
親房を大和吉野に追い帰した。
翌康永3年(1344)2月、師冬も帰京。
ところが、
貞和5年(1349)半ば、京都において、
足利方内部に、高師直と足利直義の対立が惹起する。
当時、関東には、
直義派の上杉憲顕が、足利方の中心としていたが、
師直派の梃入れとして、再び師冬が関東に派遣され、
上杉憲顕とともに、関東両執事として、
幼い鎌倉公方足利基氏を支えることとなった。
翌観応元年(1350)に入ると、
観応の擾乱と呼ばれるこの足利方の内訌は、さらに激化し、
尊氏・直義兄弟間の抗争へと拡大、
軍事衝突するに至る。
関東でも、
尊氏・師直派の師冬と、直義派の上杉憲顕の両執事間で、
その代理戦争が勃発したことはいうまでもない。
観応元年(1350)11月中旬から12月初旬にかけて、
関東各地で、直義派が蜂起、
鎌倉にいる師冬を追い詰めていった。
12月25日、
支えきれなくなった師冬は、
幼い鎌倉公方足利基氏を担いで、鎌倉を脱出。
一向は西へ向かい、
同日夜半、相模毛利荘湯山に着。
しかし、そこで、
公方基氏の近習のなかから、直義派に寝返る者が現れ、
基氏を奪って、鎌倉の直義方に投じてしまった。
基氏を失って一層窮地に立たされた師冬は、
甲斐須沢城に立て籠もった。
翌観応2年(1351)正月4日、
直義派の上杉憲将を大将とする師冬討伐軍数千騎が、鎌倉を出発。
16日より、攻城軍の攻撃が始まり、
翌17日、落城。自害。
北畠親房討伐戦でも、功多いながら、賞少なく、
最期も、四面楚歌の敵地に放り込まれた上の、孤軍奮闘。
有力者の養子でありながら、
何だか報われない生涯であったような気がしてならない。
なお、日本文学史上の軍記物の傑作である『太平記』は、
「城すでに落ちんとし候時、
御烏帽子子に候いし諏訪五郎、
初めは祝部(諏訪隆種)に属して、城を責め候いしが、
城の弱りたるを見て、
「そもそも吾執事(師冬)の烏帽子子にて、
父子の契約を致しながら、
世こぞって背けばとて、
不義の振る舞いをば如何致すべき。
「曾参は車を勝母の郷にかえし、孔子は渇を盗泉の水に忍ぶ」といえり。
君子はそれ為せざる処において、名をだにも恐る。
況や義の違うにおいてをや」とて、
祝部に最後の暇乞いて、城中へ入り、
却って寄せ手を防ぐこと、身命を惜しまず。
さる程に城の後ろより破れて、 敵四方より追いしかば、
諏訪五郎と播州(師冬)とは、手に手を取り違え、
腹掻き切って臥し給う。
この外義を重んじ、名を惜しむ侍共六十四人、同時に皆自害して、
名を九原上の苔に残し、屍を一戦場の土に曝さる。」(『太平記』)
と、これまたうまい。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』(1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
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《病死》 《1234年》 《11月》 《28日》 《享年78歳》
鎌倉幕府御家人。
父は、上野新田氏の一族、里見氏の祖義俊。
戦国期に房総で活躍する里見氏の遠祖にあたる。
治承4年(1180)8月、源頼朝が挙兵すると、
新田一族は日和見するなど、消極的であったが、
若き里見義成は、
平家の家人でありながら、進んで頼朝の陣に投じた。
頼朝の信用を得て、
鎌倉幕府樹立後、幕府内で厚く遇され、
頼朝死後も、将軍頼家・実朝に近侍した。
文暦元年(1234)11月28日、没。
78歳というから、
当時としてはなかなかの大往生。
頼朝の寵用された士の死を、
誰もが惜しんだという。
治承・寿永の内乱(源平合戦)から半世紀、
頼朝の死から35年。
直に内乱を知り、直に頼朝と接した人も、だんだん少なくなるだろう。
義成が、内乱や頼朝を、第2世代にどう語ったのか、
また、
内乱後の血みどろな政争を無事に乗り越えた義成が、
その時代の新しい社会をどんな思いで見つめていたのか、
気になるところではある。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 第二』 (吉川弘文館 1972)
鎌倉幕府御家人。
父は、上野新田氏の一族、里見氏の祖義俊。
戦国期に房総で活躍する里見氏の遠祖にあたる。
治承4年(1180)8月、源頼朝が挙兵すると、
新田一族は日和見するなど、消極的であったが、
若き里見義成は、
平家の家人でありながら、進んで頼朝の陣に投じた。
頼朝の信用を得て、
鎌倉幕府樹立後、幕府内で厚く遇され、
頼朝死後も、将軍頼家・実朝に近侍した。
文暦元年(1234)11月28日、没。
78歳というから、
当時としてはなかなかの大往生。
頼朝の寵用された士の死を、
誰もが惜しんだという。
治承・寿永の内乱(源平合戦)から半世紀、
頼朝の死から35年。
直に内乱を知り、直に頼朝と接した人も、だんだん少なくなるだろう。
義成が、内乱や頼朝を、第2世代にどう語ったのか、
また、
内乱後の血みどろな政争を無事に乗り越えた義成が、
その時代の新しい社会をどんな思いで見つめていたのか、
気になるところではある。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 第二』 (吉川弘文館 1972)
《病死》 《1234年》 《7月》 《27日》 《享年32歳》
名は「鞠子」ともいわれるが、不詳。
鎌倉幕府2代将軍源頼家の娘。
4代将軍藤原頼経の室。
初代将軍源頼朝の孫にあたる。
父頼家や兄弟たち、また叔父実朝らが、
政争によって非業の死を遂げていくなかで、
竹御所は源家将軍の血統をひく者として、北条政子の後継者となり、
その没後は、鎌倉幕府の御家人をまとめる要のような存在となった。
寛喜2年(1230)12月、
3代将軍実朝の横死後、
京都の九条家から迎えられた4代将軍藤原頼経に嫁した。
竹御所、28歳。頼経、13歳。
文暦元年(1234)3月1日、
身ごもった竹御所は、着帯の儀を行った。
7月26日、
臨月を迎えた竹御所は、御産所として大叔父北条時房の邸に入った。
子の刻(深夜0時ごろ)、産気づき、
源家将軍の血をひく子の誕生を喜ぶ御家人たちが、
鳴弦役として祗候した。
しかし、
翌27日寅の刻(早朝4時頃)、男児を死産。
難産だったためか、竹御所自身も産後に回復せず、
辰の刻(朝8時頃)、逝去。
32歳。
当時としては、高齢出産だっただろう。
殿中は、悲しみのあまり、
女児の笑い声すら絶え、
ひっそりとして、悲嘆に暮れたという。
これによって、
源頼朝の血統をひく者は、まったく絶えてしまった。
御家人たちにも動揺が広がり、
京都に詰めていた御家人たちも、みな急ぎ鎌倉へ下っていった。
藤原定家は、
「源家将軍の血が絶えたのは、
頼朝が平家の子どもたちを根絶やしにした、
その報いではなかろうか。」(『明月記』)
と日記に記している。
京都では前年、後堀河天皇の中宮藻璧門院が、
難産の末、母子ともに薨じたばかりだった。
〔参考〕
『大日本史料 第五編之九』 (東京大学出版会 1971)
佐藤和彦・谷口榮編『吾妻鏡事典』 (東京堂出版 2007)
名は「鞠子」ともいわれるが、不詳。
鎌倉幕府2代将軍源頼家の娘。
4代将軍藤原頼経の室。
初代将軍源頼朝の孫にあたる。
父頼家や兄弟たち、また叔父実朝らが、
政争によって非業の死を遂げていくなかで、
竹御所は源家将軍の血統をひく者として、北条政子の後継者となり、
その没後は、鎌倉幕府の御家人をまとめる要のような存在となった。
寛喜2年(1230)12月、
3代将軍実朝の横死後、
京都の九条家から迎えられた4代将軍藤原頼経に嫁した。
竹御所、28歳。頼経、13歳。
文暦元年(1234)3月1日、
身ごもった竹御所は、着帯の儀を行った。
7月26日、
臨月を迎えた竹御所は、御産所として大叔父北条時房の邸に入った。
子の刻(深夜0時ごろ)、産気づき、
源家将軍の血をひく子の誕生を喜ぶ御家人たちが、
鳴弦役として祗候した。
しかし、
翌27日寅の刻(早朝4時頃)、男児を死産。
難産だったためか、竹御所自身も産後に回復せず、
辰の刻(朝8時頃)、逝去。
32歳。
当時としては、高齢出産だっただろう。
殿中は、悲しみのあまり、
女児の笑い声すら絶え、
ひっそりとして、悲嘆に暮れたという。
これによって、
源頼朝の血統をひく者は、まったく絶えてしまった。
御家人たちにも動揺が広がり、
京都に詰めていた御家人たちも、みな急ぎ鎌倉へ下っていった。
藤原定家は、
「源家将軍の血が絶えたのは、
頼朝が平家の子どもたちを根絶やしにした、
その報いではなかろうか。」(『明月記』)
と日記に記している。
京都では前年、後堀河天皇の中宮藻璧門院が、
難産の末、母子ともに薨じたばかりだった。
〔参考〕
『大日本史料 第五編之九』 (東京大学出版会 1971)
佐藤和彦・谷口榮編『吾妻鏡事典』 (東京堂出版 2007)
《病死》 《1242年》 《6月》 《15日》 《享年60歳》
第3代鎌倉幕府執権。
承久3年(1221)の承久の乱では、
幕府軍の総大将として上洛し、
乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、
京都・畿内・西国の支配に当たった。
元仁元年(1224)6月、
2代執権である父義時の死をうけて、
鎌倉に帰り、執権となった。
その後、連署・評定衆を設置するなど、
幕府政治の刷新を図り、
貞永元年(1232)には、
武家最初の法典『御成敗式目』を制定。
鎌倉周辺の街道・港湾の整備、
鎌倉大仏建立の支援などもしている。
北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。
仁治3年(1242)、
泰時は所労により、病臥した。
5月8日、出家。
10日には、
小康状態となり、食事も摂ったが、
翌11日より悪化、
12日、さらに悪化し、
15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。
高熱のあまり、人を寄せ付けず、
亥の刻(夜10時頃)、苦しみ悶えて事切れた。
赤痢にも罹ったらしい。
泰時病臥・死去の報は、京都の公家たちも動揺させ、
噂や密談がしきりと飛び交った。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の祟りだ、とも言われている。
京都では、触穢のため、朝儀が30日間停止された。
勘解由小路経光は、
「近年、国家の重大事は、
彼の取り計らいによっていたが、
廉直な人柄で、道理をまず立て、
堯舜の生まれ変わりのようであった。」(『経光卿記抄』)
と褒めちぎっている。
が、
高熱に苦しみ、独り死んだのは、
帝に弓をひいた「極重悪人」だからであって、
東大寺・興福寺を焼いた、平清盛の臨終の際と似ている、
としている。
なお、
父義時の命日が、6月13日、
承久の乱での幕府軍入京が、6月14日。
6月には何かが起きる。
この奇妙な符合は、当時の人々を震撼させた。
〔参考〕
『大日本史料 第五編之十四』 (東京大学出版会 1952)
『国史大辞典 第12巻 (ふ-ほ)』 (吉川弘文館 1991)
第3代鎌倉幕府執権。
承久3年(1221)の承久の乱では、
幕府軍の総大将として上洛し、
乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、
京都・畿内・西国の支配に当たった。
元仁元年(1224)6月、
2代執権である父義時の死をうけて、
鎌倉に帰り、執権となった。
その後、連署・評定衆を設置するなど、
幕府政治の刷新を図り、
貞永元年(1232)には、
武家最初の法典『御成敗式目』を制定。
鎌倉周辺の街道・港湾の整備、
鎌倉大仏建立の支援などもしている。
北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。
仁治3年(1242)、
泰時は所労により、病臥した。
5月8日、出家。
10日には、
小康状態となり、食事も摂ったが、
翌11日より悪化、
12日、さらに悪化し、
15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。
高熱のあまり、人を寄せ付けず、
亥の刻(夜10時頃)、苦しみ悶えて事切れた。
赤痢にも罹ったらしい。
泰時病臥・死去の報は、京都の公家たちも動揺させ、
噂や密談がしきりと飛び交った。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の祟りだ、とも言われている。
京都では、触穢のため、朝儀が30日間停止された。
勘解由小路経光は、
「近年、国家の重大事は、
彼の取り計らいによっていたが、
廉直な人柄で、道理をまず立て、
堯舜の生まれ変わりのようであった。」(『経光卿記抄』)
と褒めちぎっている。
が、
高熱に苦しみ、独り死んだのは、
帝に弓をひいた「極重悪人」だからであって、
東大寺・興福寺を焼いた、平清盛の臨終の際と似ている、
としている。
なお、
父義時の命日が、6月13日、
承久の乱での幕府軍入京が、6月14日。
6月には何かが起きる。
この奇妙な符合は、当時の人々を震撼させた。
〔参考〕
『大日本史料 第五編之十四』 (東京大学出版会 1952)
『国史大辞典 第12巻 (ふ-ほ)』 (吉川弘文館 1991)
《戦死》 《1506年》 《9月》 《19日》 《享年42歳》
越後守護代。
一時、主君の越後守護上杉房能と対立することもあったが、
その後は主君に随い、越後国内や関東を転戦した。
永正3年(1506)、
加賀・能登・越前・越中・美濃・尾張等、
諸国の一向一揆がいっせいに蜂起した。
加賀の隣国である越前・越中では、特に激しかったらしい。
すでに加賀では、
長享2年(1488)、守護富樫政親を滅ぼして以来、
一向一揆による一国支配が行われており、
加賀の一揆勢が、どっと隣国へ攻め寄せたのと呼応して、
国内の一向衆も蜂起したのである。
越前では、さっそく朝倉貞景らが鎮圧に乗り出し、
各所で激戦が繰り広げられた。
越中でも、守護代神保慶宗や遊佐慶親が鎮圧にあたったが、
思うように進まず、
隣国越後に援軍を頼ることとなった。
7月に越後を発ち、越中に入った長尾能景の軍勢は、
神保慶宗勢と合流し、
8月、越中蓮台寺の戦いで一揆勢を撃破。
9月18日、中村・般若野等で再び両勢は激突。
その乱戦のなか、能景は討死した。
一揆勢の意気は、ますます上がったという。
一向一揆の勢力が越後へ及ぶことを危惧して、出兵したとはいえ、
これまた、他人の巻き添えのような死。
一説に、
援軍を依頼したはずの神保慶宗が、後方で裏切ったとも。
これを信じた能景の子為景は、
のち、神保慶宗を親の仇として討つこととなるが、
それはまた別の話。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
越後守護代。
一時、主君の越後守護上杉房能と対立することもあったが、
その後は主君に随い、越後国内や関東を転戦した。
永正3年(1506)、
加賀・能登・越前・越中・美濃・尾張等、
諸国の一向一揆がいっせいに蜂起した。
加賀の隣国である越前・越中では、特に激しかったらしい。
すでに加賀では、
長享2年(1488)、守護富樫政親を滅ぼして以来、
一向一揆による一国支配が行われており、
加賀の一揆勢が、どっと隣国へ攻め寄せたのと呼応して、
国内の一向衆も蜂起したのである。
越前では、さっそく朝倉貞景らが鎮圧に乗り出し、
各所で激戦が繰り広げられた。
越中でも、守護代神保慶宗や遊佐慶親が鎮圧にあたったが、
思うように進まず、
隣国越後に援軍を頼ることとなった。
7月に越後を発ち、越中に入った長尾能景の軍勢は、
神保慶宗勢と合流し、
8月、越中蓮台寺の戦いで一揆勢を撃破。
9月18日、中村・般若野等で再び両勢は激突。
その乱戦のなか、能景は討死した。
一揆勢の意気は、ますます上がったという。
一向一揆の勢力が越後へ及ぶことを危惧して、出兵したとはいえ、
これまた、他人の巻き添えのような死。
一説に、
援軍を依頼したはずの神保慶宗が、後方で裏切ったとも。
これを信じた能景の子為景は、
のち、神保慶宗を親の仇として討つこととなるが、
それはまた別の話。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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