死に様データベース
《病死》 《1368年》 《9月》 《19日》 《享年63歳》
関東管領。
足利氏の準一門で、
足利尊氏・直義の従兄弟にあたる。
上杉憲顕は、
建武元年(1334)、28歳にして、関東政界にデビューして以来、
数度の上洛以外は、ずっと東国で活動した。
南北朝内乱で活躍した足利氏一門・譜代被官のなかでも、
こうした例は珍しい。
建武3年(1336)正月、
父憲房が京都で戦死すると、
その地位や上野守護職を継承。
当時、上杉一族の中心は、
憲顕、義兄弟の重能、従兄弟の朝定の3人であり、
いずれも足利直義の信頼を得て、その有力部将として活躍していたが、
重能・朝定が、室町幕府の中枢にあって、
京都や畿内近国で活動したのに対して、
憲顕のみは、関東や越後で南朝方と戦い、
足利氏権力の確立に努めている。
建武4年(1337)5月には、直義から、
「諸国の守護の非法のみ聞き候に、
当国の沙汰は、法の如く殊勝の由、
諸人申し合い候間、
感悦無極候、」(「上杉家文書」)
と、上野の支配を激賞されている。
憲顕の支配は、
足利直義の政権構想や支配理念と、よく合っていた。
と同時に、
憲顕が一代で築き上げた関東の基盤は、
幕府にとって、かなりのものだったと思われる。
暦応元年(1338)12月、
直義の命により、上洛するが、
同3年(1340)6月までに、再び関東に戻っている。
翌年(1341)から康永3年(1344)には、
越後を転戦して、南朝方を鎮圧。
観応の擾乱(足利方の内訌)が起こると、
憲顕は、むろん直義方として活動し、
観応2年(1351)正月、
関東両管領の一方で尊氏方の高師冬を、甲斐で討ち取った。
そして、
東国の強大な軍事力を背景に、
京都の直義を助けるべく、上洛を企てるが、
これは、直義に止められている。
そのかわり、子憲将らを上洛させたらしい。
同年11月、
京都を脱出した直義を、鎌倉に迎え、
駿河で足利尊氏と衝突。
一時はこれを圧倒するが、背後からの増援により、敗れた。
翌正平7年(1352)正月、
直義は、兄尊氏に降服し、観応の擾乱は終息。
尊氏に叛した憲顕は、
東国で築き上げたすべてを、失った。
これ以前、
憲顕の子能憲は、尊氏方の高師直らを誅殺した。
尊氏は、重臣師直を討った上杉氏を、
生涯許すことがなかったのである。
そして、憲顕も、主君直義を討った尊氏に、
徹底抗戦していくこととなる。
擾乱終息からほどない、観応3年(1352)閏2月、
憲顕は、南朝方と組んで、尊氏を破り、
鎌倉を占領。
しかし、翌3月、すぐさま奪回された。
それ以降、憲顕やその子らは、
越後や信濃で、ゲリラ的な活動をして、幕府に反抗した。
連敗していたようだから、
“隠然たる勢力を持っていた”とは言い難い。
ところが、
延文3年(1358)4月、尊氏が没すると、
状況が少しずつ変わっていった。
尊氏ほどに、上杉氏に対して拘りのない新将軍義詮は、
貞治元年(1362)、
憲顕を赦免して、越後守護に採用した。
そして、
翌2年(1363)3月、
鎌倉公方足利基氏によって、
再び関東管領として、鎌倉に迎えられることとなる。
基氏は、このことを、
「多年念願」、「願い大慶」(「上杉家文書」)
と述べている。
実父尊氏よりも、養父直義に憧憬を抱いていたらしい基氏は、
幼き頃に、直義の理念の体現者である憲顕の薫陶を受け、
その復帰を、嘱望していたのである。
こうして、憲顕は、
一族ともども、関東政界に完全な復帰を果たした。
こうした例も、
足利氏一門のなかでは、かなり稀である。
貞治6年(1367)4月、
主君基氏が若くして急逝。
その子金王丸(のちの氏満)が、
わずか9歳にして鎌倉公方となる。
しかし、
室町幕府は、その後の行く末を危ぶんだか、
重臣佐々木導誉を鎌倉に派遣して、関東の政務を執らせた。
憲顕はこれと交代して、7月に上洛し、
室町幕府に善後策を議した。
ところが、
同年12月に、将軍義詮も急逝。
鎌倉にあった佐々木導誉は、いそぎ帰京する。
この隙をついて、
翌貞治7年(1368)2月、
憲顕に不満を持っていた河越直重ら平一揆が、武蔵河越で、
宇都宮氏綱が、下野宇都宮で挙兵した。
さらに、混乱に乗じて、
南朝方の残党新田義宗・義治らも、越後や上野で蜂起。
新将軍義満の屋敷で、この報を聞いた憲顕は、
急いで関東に帰った。
すぐさま、
憲顕の子能憲・憲春や、甥朝房らが出陣し、
手際よくこれを鎮圧していった。
万全な憲顕は、
平一揆や宇都宮氏の蜂起を誘うために、
あえて関東を留守にしたのではないか、とさえ思われる。
鎮圧軍は、残る敵宇都宮氏綱を、宇都宮城に追い込んだ。
憲顕も、東山道経由で関東に入り、
上野からそのまま下野足利に進んで、
鎮圧軍の監督に当たったが、
応安元年(1368)9月19日、
その陣中で没。
ほぼ一代で築き上げた勢力に、
失脚と反抗と復帰。
政治家としても、吏僚としても、軍事指揮官としても有能だった憲顕の、
63年の生涯は、
十分に波乱に富んでいたといえる。
〔参考〕
岩崎学「上杉憲顕の鎌倉復帰」 (『國學院大學大學院文学研究科紀要』20 1989)
阪田雄一「南北朝期における上杉氏の動向」 (『国史学』164 1998)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
関東管領。
足利氏の準一門で、
足利尊氏・直義の従兄弟にあたる。
上杉憲顕は、
建武元年(1334)、28歳にして、関東政界にデビューして以来、
数度の上洛以外は、ずっと東国で活動した。
南北朝内乱で活躍した足利氏一門・譜代被官のなかでも、
こうした例は珍しい。
建武3年(1336)正月、
父憲房が京都で戦死すると、
その地位や上野守護職を継承。
当時、上杉一族の中心は、
憲顕、義兄弟の重能、従兄弟の朝定の3人であり、
いずれも足利直義の信頼を得て、その有力部将として活躍していたが、
重能・朝定が、室町幕府の中枢にあって、
京都や畿内近国で活動したのに対して、
憲顕のみは、関東や越後で南朝方と戦い、
足利氏権力の確立に努めている。
建武4年(1337)5月には、直義から、
「諸国の守護の非法のみ聞き候に、
当国の沙汰は、法の如く殊勝の由、
諸人申し合い候間、
感悦無極候、」(「上杉家文書」)
と、上野の支配を激賞されている。
憲顕の支配は、
足利直義の政権構想や支配理念と、よく合っていた。
と同時に、
憲顕が一代で築き上げた関東の基盤は、
幕府にとって、かなりのものだったと思われる。
暦応元年(1338)12月、
直義の命により、上洛するが、
同3年(1340)6月までに、再び関東に戻っている。
翌年(1341)から康永3年(1344)には、
越後を転戦して、南朝方を鎮圧。
観応の擾乱(足利方の内訌)が起こると、
憲顕は、むろん直義方として活動し、
観応2年(1351)正月、
関東両管領の一方で尊氏方の高師冬を、甲斐で討ち取った。
そして、
東国の強大な軍事力を背景に、
京都の直義を助けるべく、上洛を企てるが、
これは、直義に止められている。
そのかわり、子憲将らを上洛させたらしい。
同年11月、
京都を脱出した直義を、鎌倉に迎え、
駿河で足利尊氏と衝突。
一時はこれを圧倒するが、背後からの増援により、敗れた。
翌正平7年(1352)正月、
直義は、兄尊氏に降服し、観応の擾乱は終息。
尊氏に叛した憲顕は、
東国で築き上げたすべてを、失った。
これ以前、
憲顕の子能憲は、尊氏方の高師直らを誅殺した。
尊氏は、重臣師直を討った上杉氏を、
生涯許すことがなかったのである。
そして、憲顕も、主君直義を討った尊氏に、
徹底抗戦していくこととなる。
擾乱終息からほどない、観応3年(1352)閏2月、
憲顕は、南朝方と組んで、尊氏を破り、
鎌倉を占領。
しかし、翌3月、すぐさま奪回された。
それ以降、憲顕やその子らは、
越後や信濃で、ゲリラ的な活動をして、幕府に反抗した。
連敗していたようだから、
“隠然たる勢力を持っていた”とは言い難い。
ところが、
延文3年(1358)4月、尊氏が没すると、
状況が少しずつ変わっていった。
尊氏ほどに、上杉氏に対して拘りのない新将軍義詮は、
貞治元年(1362)、
憲顕を赦免して、越後守護に採用した。
そして、
翌2年(1363)3月、
鎌倉公方足利基氏によって、
再び関東管領として、鎌倉に迎えられることとなる。
基氏は、このことを、
「多年念願」、「願い大慶」(「上杉家文書」)
と述べている。
実父尊氏よりも、養父直義に憧憬を抱いていたらしい基氏は、
幼き頃に、直義の理念の体現者である憲顕の薫陶を受け、
その復帰を、嘱望していたのである。
こうして、憲顕は、
一族ともども、関東政界に完全な復帰を果たした。
こうした例も、
足利氏一門のなかでは、かなり稀である。
貞治6年(1367)4月、
主君基氏が若くして急逝。
その子金王丸(のちの氏満)が、
わずか9歳にして鎌倉公方となる。
しかし、
室町幕府は、その後の行く末を危ぶんだか、
重臣佐々木導誉を鎌倉に派遣して、関東の政務を執らせた。
憲顕はこれと交代して、7月に上洛し、
室町幕府に善後策を議した。
ところが、
同年12月に、将軍義詮も急逝。
鎌倉にあった佐々木導誉は、いそぎ帰京する。
この隙をついて、
翌貞治7年(1368)2月、
憲顕に不満を持っていた河越直重ら平一揆が、武蔵河越で、
宇都宮氏綱が、下野宇都宮で挙兵した。
さらに、混乱に乗じて、
南朝方の残党新田義宗・義治らも、越後や上野で蜂起。
新将軍義満の屋敷で、この報を聞いた憲顕は、
急いで関東に帰った。
すぐさま、
憲顕の子能憲・憲春や、甥朝房らが出陣し、
手際よくこれを鎮圧していった。
万全な憲顕は、
平一揆や宇都宮氏の蜂起を誘うために、
あえて関東を留守にしたのではないか、とさえ思われる。
鎮圧軍は、残る敵宇都宮氏綱を、宇都宮城に追い込んだ。
憲顕も、東山道経由で関東に入り、
上野からそのまま下野足利に進んで、
鎮圧軍の監督に当たったが、
応安元年(1368)9月19日、
その陣中で没。
ほぼ一代で築き上げた勢力に、
失脚と反抗と復帰。
政治家としても、吏僚としても、軍事指揮官としても有能だった憲顕の、
63年の生涯は、
十分に波乱に富んでいたといえる。
〔参考〕
岩崎学「上杉憲顕の鎌倉復帰」 (『國學院大學大學院文学研究科紀要』20 1989)
阪田雄一「南北朝期における上杉氏の動向」 (『国史学』164 1998)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
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《病死》 《1351年》 《正月》 《17日》 《享年77歳》
正二位、前権大納言。
内大臣洞院公守の次男として生まれ、
正親町家をおこした。
観応2年(1351)正月17日夜、
正親町実明没。
77歳。
甥の洞院公賢は、
「随分寿考の人なり」(『園太暦』)と、
その天寿を評している。
おりしも、南北朝内乱は、
観応の擾乱(室町幕府の内訌)のさなかであり、
正月17日は、
足利直義方の吉良満貞・斯波高経・千葉氏胤らが、
足利尊氏方を駆逐して、京都に乱入したその日であった。
そして、
実明の外孫である北朝の皇太子直仁親王は、
足利尊氏の一時的な南朝への降服(正平の一統)のために、
翌年に廃太子され、
その揚げ句、
南朝軍によって大和吉野へ連行、幽閉された。
実明が、もう少し生きながらえていたならば、
こうしたことを目前にしなければならなかった、
ということになる。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
正二位、前権大納言。
内大臣洞院公守の次男として生まれ、
正親町家をおこした。
観応2年(1351)正月17日夜、
正親町実明没。
77歳。
甥の洞院公賢は、
「随分寿考の人なり」(『園太暦』)と、
その天寿を評している。
おりしも、南北朝内乱は、
観応の擾乱(室町幕府の内訌)のさなかであり、
正月17日は、
足利直義方の吉良満貞・斯波高経・千葉氏胤らが、
足利尊氏方を駆逐して、京都に乱入したその日であった。
そして、
実明の外孫である北朝の皇太子直仁親王は、
足利尊氏の一時的な南朝への降服(正平の一統)のために、
翌年に廃太子され、
その揚げ句、
南朝軍によって大和吉野へ連行、幽閉された。
実明が、もう少し生きながらえていたならば、
こうしたことを目前にしなければならなかった、
ということになる。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
《誅殺》 《1497年》 《正月》 《14日》 《享年不明》
北野社松梅院の院主。
松梅院は、
北野社の院家のひとつで、
室町期に、北野公文所や将軍家御師職を掌握し、
北野社の主導権を握った。
特に、禅予から3代前の院主禅能は、
4代将軍足利義持に近付き、
多くの所領や特権を得た。
禅予は、従兄弟禅親(禅能の嫡孫)の養子となったが、
禅親には実子禅椿があった。
当然の流れとして、
彼らは、北野社領や御師職をめぐって、争うこととなり、
室町幕府に訴訟が持ち込まれた。
禅予は、
管領細川政元の家臣らの支援を得て、
訴訟を有利に運んでいたらしいが、
そのさなかの明応6年(1497)正月14日夜、
北野社の境内において、何者かに殺されてしまった。
下手人はむろん、禅椿の手の者だったらしい。
中世は、裁判も命がけ。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅳ』 (石川県 2004)
桜井英治『破産者たちの中世(日本史リブレット)
』 (山川出版社 2005)
北野社松梅院の院主。
松梅院は、
北野社の院家のひとつで、
室町期に、北野公文所や将軍家御師職を掌握し、
北野社の主導権を握った。
特に、禅予から3代前の院主禅能は、
4代将軍足利義持に近付き、
多くの所領や特権を得た。
禅予は、従兄弟禅親(禅能の嫡孫)の養子となったが、
禅親には実子禅椿があった。
当然の流れとして、
彼らは、北野社領や御師職をめぐって、争うこととなり、
室町幕府に訴訟が持ち込まれた。
禅予は、
管領細川政元の家臣らの支援を得て、
訴訟を有利に運んでいたらしいが、
そのさなかの明応6年(1497)正月14日夜、
北野社の境内において、何者かに殺されてしまった。
下手人はむろん、禅椿の手の者だったらしい。
中世は、裁判も命がけ。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅳ』 (石川県 2004)
桜井英治『破産者たちの中世(日本史リブレット)
《病死》 《1509年》 《閏8月》 《8日》 《享年79歳》
勧修寺前長吏、東大寺前別当。
無品。
常盤井宮直明王の子で、
のち、後崇光院(伏見宮貞成親王)の猶子となった。
応仁2年(1468)4月、
恒弘法親王は、加賀郡家荘下向の勅許を請い、
許されて、同地に下向した。
応仁・文明の乱からの疎開と思われるが、
乱終息後も長く同地に留まり、
勧修寺領郡家荘の経営にあたった。
文明16年(1484)6月、上洛、参内するも、
またすぐに加賀に下向。
永正6年(1509)閏8月8日、
再び上洛する途次、
船中において入滅。
79歳の老身には、厳しい旅路であったか。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅵ』 (石川県 2008)
勧修寺前長吏、東大寺前別当。
無品。
常盤井宮直明王の子で、
のち、後崇光院(伏見宮貞成親王)の猶子となった。
応仁2年(1468)4月、
恒弘法親王は、加賀郡家荘下向の勅許を請い、
許されて、同地に下向した。
応仁・文明の乱からの疎開と思われるが、
乱終息後も長く同地に留まり、
勧修寺領郡家荘の経営にあたった。
文明16年(1484)6月、上洛、参内するも、
またすぐに加賀に下向。
永正6年(1509)閏8月8日、
再び上洛する途次、
船中において入滅。
79歳の老身には、厳しい旅路であったか。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅵ』 (石川県 2008)
《自害》 《1351年》 《正月》 《17日》 《享年不明》
関東執事。
武蔵・伊賀守護。
足利尊氏執事高師直の従兄弟。
のち、師直の養子となった。
暦応2年(1339)には、
伊勢から関東に渡り、南朝方の勢力拡大を図る北畠親房を討つため、
高師冬は、足利方の大将として関東に下向し、常陸を転戦。
康永2年(1343)11月までに、親房の拠点を次々と陥し、
親房を大和吉野に追い帰した。
翌康永3年(1344)2月、師冬も帰京。
ところが、
貞和5年(1349)半ば、京都において、
足利方内部に、高師直と足利直義の対立が惹起する。
当時、関東には、
直義派の上杉憲顕が、足利方の中心としていたが、
師直派の梃入れとして、再び師冬が関東に派遣され、
上杉憲顕とともに、関東両執事として、
幼い鎌倉公方足利基氏を支えることとなった。
翌観応元年(1350)に入ると、
観応の擾乱と呼ばれるこの足利方の内訌は、さらに激化し、
尊氏・直義兄弟間の抗争へと拡大、
軍事衝突するに至る。
関東でも、
尊氏・師直派の師冬と、直義派の上杉憲顕の両執事間で、
その代理戦争が勃発したことはいうまでもない。
観応元年(1350)11月中旬から12月初旬にかけて、
関東各地で、直義派が蜂起、
鎌倉にいる師冬を追い詰めていった。
12月25日、
支えきれなくなった師冬は、
幼い鎌倉公方足利基氏を担いで、鎌倉を脱出。
一向は西へ向かい、
同日夜半、相模毛利荘湯山に着。
しかし、そこで、
公方基氏の近習のなかから、直義派に寝返る者が現れ、
基氏を奪って、鎌倉の直義方に投じてしまった。
基氏を失って一層窮地に立たされた師冬は、
甲斐須沢城に立て籠もった。
翌観応2年(1351)正月4日、
直義派の上杉憲将を大将とする師冬討伐軍数千騎が、鎌倉を出発。
16日より、攻城軍の攻撃が始まり、
翌17日、落城。自害。
北畠親房討伐戦でも、功多いながら、賞少なく、
最期も、四面楚歌の敵地に放り込まれた上の、孤軍奮闘。
有力者の養子でありながら、
何だか報われない生涯であったような気がしてならない。
なお、日本文学史上の軍記物の傑作である『太平記』は、
「城すでに落ちんとし候時、
御烏帽子子に候いし諏訪五郎、
初めは祝部(諏訪隆種)に属して、城を責め候いしが、
城の弱りたるを見て、
「そもそも吾執事(師冬)の烏帽子子にて、
父子の契約を致しながら、
世こぞって背けばとて、
不義の振る舞いをば如何致すべき。
「曾参は車を勝母の郷にかえし、孔子は渇を盗泉の水に忍ぶ」といえり。
君子はそれ為せざる処において、名をだにも恐る。
況や義の違うにおいてをや」とて、
祝部に最後の暇乞いて、城中へ入り、
却って寄せ手を防ぐこと、身命を惜しまず。
さる程に城の後ろより破れて、 敵四方より追いしかば、
諏訪五郎と播州(師冬)とは、手に手を取り違え、
腹掻き切って臥し給う。
この外義を重んじ、名を惜しむ侍共六十四人、同時に皆自害して、
名を九原上の苔に残し、屍を一戦場の土に曝さる。」(『太平記』)
と、これまたうまい。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』(1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
関東執事。
武蔵・伊賀守護。
足利尊氏執事高師直の従兄弟。
のち、師直の養子となった。
暦応2年(1339)には、
伊勢から関東に渡り、南朝方の勢力拡大を図る北畠親房を討つため、
高師冬は、足利方の大将として関東に下向し、常陸を転戦。
康永2年(1343)11月までに、親房の拠点を次々と陥し、
親房を大和吉野に追い帰した。
翌康永3年(1344)2月、師冬も帰京。
ところが、
貞和5年(1349)半ば、京都において、
足利方内部に、高師直と足利直義の対立が惹起する。
当時、関東には、
直義派の上杉憲顕が、足利方の中心としていたが、
師直派の梃入れとして、再び師冬が関東に派遣され、
上杉憲顕とともに、関東両執事として、
幼い鎌倉公方足利基氏を支えることとなった。
翌観応元年(1350)に入ると、
観応の擾乱と呼ばれるこの足利方の内訌は、さらに激化し、
尊氏・直義兄弟間の抗争へと拡大、
軍事衝突するに至る。
関東でも、
尊氏・師直派の師冬と、直義派の上杉憲顕の両執事間で、
その代理戦争が勃発したことはいうまでもない。
観応元年(1350)11月中旬から12月初旬にかけて、
関東各地で、直義派が蜂起、
鎌倉にいる師冬を追い詰めていった。
12月25日、
支えきれなくなった師冬は、
幼い鎌倉公方足利基氏を担いで、鎌倉を脱出。
一向は西へ向かい、
同日夜半、相模毛利荘湯山に着。
しかし、そこで、
公方基氏の近習のなかから、直義派に寝返る者が現れ、
基氏を奪って、鎌倉の直義方に投じてしまった。
基氏を失って一層窮地に立たされた師冬は、
甲斐須沢城に立て籠もった。
翌観応2年(1351)正月4日、
直義派の上杉憲将を大将とする師冬討伐軍数千騎が、鎌倉を出発。
16日より、攻城軍の攻撃が始まり、
翌17日、落城。自害。
北畠親房討伐戦でも、功多いながら、賞少なく、
最期も、四面楚歌の敵地に放り込まれた上の、孤軍奮闘。
有力者の養子でありながら、
何だか報われない生涯であったような気がしてならない。
なお、日本文学史上の軍記物の傑作である『太平記』は、
「城すでに落ちんとし候時、
御烏帽子子に候いし諏訪五郎、
初めは祝部(諏訪隆種)に属して、城を責め候いしが、
城の弱りたるを見て、
「そもそも吾執事(師冬)の烏帽子子にて、
父子の契約を致しながら、
世こぞって背けばとて、
不義の振る舞いをば如何致すべき。
「曾参は車を勝母の郷にかえし、孔子は渇を盗泉の水に忍ぶ」といえり。
君子はそれ為せざる処において、名をだにも恐る。
況や義の違うにおいてをや」とて、
祝部に最後の暇乞いて、城中へ入り、
却って寄せ手を防ぐこと、身命を惜しまず。
さる程に城の後ろより破れて、 敵四方より追いしかば、
諏訪五郎と播州(師冬)とは、手に手を取り違え、
腹掻き切って臥し給う。
この外義を重んじ、名を惜しむ侍共六十四人、同時に皆自害して、
名を九原上の苔に残し、屍を一戦場の土に曝さる。」(『太平記』)
と、これまたうまい。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』(1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
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1370 | ||
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1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
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1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
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1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
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1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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