死に様データベース
《自害》 《1488年》 《6月》 《9日》 《享年34歳》
加賀守護。
富樫家の家督をめぐる泰高と成春の争いは、
成春の子政親にも引き継がれ、
泰高と政親は、加賀国内で争った。
泰高の隠居後、
政親は富樫家の家督におさまったが、
今度は、応仁・文明の乱と絡んで、
弟幸千代との抗争が勃発。
文明5年(1475)、
政親は、一度は加賀を逐われたものの、
翌6年(1474)10月、
本願寺門徒や白山衆徒の支援を得、
幸千代を加賀より駆逐。
だが、
このことで本願寺門徒(一向一揆)の力を知り、
その伸長を恐れた政親は、
これと対立するに至る。
文明7年(1475)3月、政親は一向一揆を破り、
本願寺蓮如は、越前吉崎を逃れて、河内出口に移った。
ところが、
長享元年(1487)9月、
政親が、将軍足利義尚の六角高頼討伐に随って、
近江に出陣している隙をついて、
加賀一向一揆は、勢力を盛り返してきた。
12月、政親は雪路の中を慌てて帰国し、
加賀高尾城に入って、一向一揆と対峙。
一揆側は、富樫一族の山川高藤をとおして和議を申し入れたが、
政親はこれを聞かず、
長享2年(1488)5月、全面的な衝突に至った。
隣国越前の朝倉氏は、
室町幕府から政親への支援を命じられて出兵したが、
「一揆衆二十万人」(『蔭涼軒日録』)が高尾城を取り囲み、
支援できなかったという。
一向一揆についてしるした後代の書『官地論』には、
攻城側の陣容が記されている。
金剣・白山衆徒2,000は、諏訪口、
洲崎慶覚ら10,000は、上久安、
笠間家次7,000は、野市馬市、
安吉家長・河原衆8,000は、額口、
山本円正ら10,000は、山科山王林、
高橋新左衛門尉ら5,000は、押野山王林、
山八人衆ら諸勢は、山々峰々に隙間なく陣取り、
能美郡の勢50,000も、野市諏訪森に陣を張った。
合計で、92,000人超。
一揆勢は、加賀のみならず能登・越中の者も加わり、
「数万人に及ぶ」(『後法興院政家記』)とも。
実際の数字はよくわからないが、
6月初めまでに、相当な大軍が高尾城を取り囲んだことだけは、よくわかる。
『官地論』が書く、戦の推移が興味深い。
6月6日早朝、一揆勢は軍議をなし、
無駄な犠牲は出さず、兵糧攻めにしよう、
7・8日は日取りが悪い、
等々、さまざまに議論がなされ、
結局、7日早朝に力攻めで陥す、ということになった。
「骸を城の麓に晒し、名を末代まで残そう」
という言葉が、一同の意を決したという。
7日朝、額口をはじめ、各所で戦端が開かれ、
富樫政親は、「今日の合戦は国の分け目である」と全軍を鼓舞。
寄せ手も、今夜中に陥さんと猛攻をしかけ、
各所に放った火は、たちまちにして城を取り囲んだ。
城方の討死した将兵は数知れず。
その夜、政親は城内で、家臣たちや女房衆と、
最期の酒宴を開いた。
8日、政親は、一揆勢に妻女の助命を頼み、
自害しようとする妻を宥めて、
娘には、形見として琵琶の撥と尺八を渡し、
2人を輿に乗せて、城外に落とした。
別れ際の妻の歌、
秋風の露の草葉を吹分けて同く消ぬ身を如何せん
政親の返歌、
神懸て末の世契る梓弓引留へき袖にあらねば
妻はその後、越中を経て京都に上り、尼となった。
この日、翌日の攻撃に備えて
寄せ手は兵馬の息を休め、夜が明けるのを待った。
9日早朝、
政親のもとに300余人が集まり、最期の時を待った。
大手・搦め手で激戦が繰り広げられ、
血が城山を赤く染めた。
政親は、重臣たちの自害を見届けたのち、自害。
9寸5分(約29㎝)の鎧通しを、
左脇に突き立て、右手で引き回し、
引き抜いたのち、みぞおちからへそ下へ突き下ろした。
鮮血で、
五蘊本空なりければ何者か借て来らん借て返さん
と辞世を詠み、
刀の切っ先を口に含み、貫いた。
子息千代松丸が死を見届けて、屋形を火に包んだ。
32歳とも、34歳とも、36歳ともいう。
この政親に代わって、
一向一揆に加賀守護・富樫惣領として担ぎ出されたのは、
誰あろう、かつて政親と対立し、隠居した泰高であった。
政親の首実検をした泰高は、
思きや老木の花は残りつつ若木の桜先づ散んとは
と詠んで、涙を流した。
泰高が立てられたとはいえ、傀儡であった。
加賀一国は、一向一揆の支配下となったのである。
以降100年あまり続く、「百姓の持ちたる国」の始まりである。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2003)
『国史大辞典 第10巻 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989)
加賀守護。
富樫家の家督をめぐる泰高と成春の争いは、
成春の子政親にも引き継がれ、
泰高と政親は、加賀国内で争った。
泰高の隠居後、
政親は富樫家の家督におさまったが、
今度は、応仁・文明の乱と絡んで、
弟幸千代との抗争が勃発。
文明5年(1475)、
政親は、一度は加賀を逐われたものの、
翌6年(1474)10月、
本願寺門徒や白山衆徒の支援を得、
幸千代を加賀より駆逐。
だが、
このことで本願寺門徒(一向一揆)の力を知り、
その伸長を恐れた政親は、
これと対立するに至る。
文明7年(1475)3月、政親は一向一揆を破り、
本願寺蓮如は、越前吉崎を逃れて、河内出口に移った。
ところが、
長享元年(1487)9月、
政親が、将軍足利義尚の六角高頼討伐に随って、
近江に出陣している隙をついて、
加賀一向一揆は、勢力を盛り返してきた。
12月、政親は雪路の中を慌てて帰国し、
加賀高尾城に入って、一向一揆と対峙。
一揆側は、富樫一族の山川高藤をとおして和議を申し入れたが、
政親はこれを聞かず、
長享2年(1488)5月、全面的な衝突に至った。
隣国越前の朝倉氏は、
室町幕府から政親への支援を命じられて出兵したが、
「一揆衆二十万人」(『蔭涼軒日録』)が高尾城を取り囲み、
支援できなかったという。
一向一揆についてしるした後代の書『官地論』には、
攻城側の陣容が記されている。
金剣・白山衆徒2,000は、諏訪口、
洲崎慶覚ら10,000は、上久安、
笠間家次7,000は、野市馬市、
安吉家長・河原衆8,000は、額口、
山本円正ら10,000は、山科山王林、
高橋新左衛門尉ら5,000は、押野山王林、
山八人衆ら諸勢は、山々峰々に隙間なく陣取り、
能美郡の勢50,000も、野市諏訪森に陣を張った。
合計で、92,000人超。
一揆勢は、加賀のみならず能登・越中の者も加わり、
「数万人に及ぶ」(『後法興院政家記』)とも。
実際の数字はよくわからないが、
6月初めまでに、相当な大軍が高尾城を取り囲んだことだけは、よくわかる。
『官地論』が書く、戦の推移が興味深い。
6月6日早朝、一揆勢は軍議をなし、
無駄な犠牲は出さず、兵糧攻めにしよう、
7・8日は日取りが悪い、
等々、さまざまに議論がなされ、
結局、7日早朝に力攻めで陥す、ということになった。
「骸を城の麓に晒し、名を末代まで残そう」
という言葉が、一同の意を決したという。
7日朝、額口をはじめ、各所で戦端が開かれ、
富樫政親は、「今日の合戦は国の分け目である」と全軍を鼓舞。
寄せ手も、今夜中に陥さんと猛攻をしかけ、
各所に放った火は、たちまちにして城を取り囲んだ。
城方の討死した将兵は数知れず。
その夜、政親は城内で、家臣たちや女房衆と、
最期の酒宴を開いた。
8日、政親は、一揆勢に妻女の助命を頼み、
自害しようとする妻を宥めて、
娘には、形見として琵琶の撥と尺八を渡し、
2人を輿に乗せて、城外に落とした。
別れ際の妻の歌、
秋風の露の草葉を吹分けて同く消ぬ身を如何せん
政親の返歌、
神懸て末の世契る梓弓引留へき袖にあらねば
妻はその後、越中を経て京都に上り、尼となった。
この日、翌日の攻撃に備えて
寄せ手は兵馬の息を休め、夜が明けるのを待った。
9日早朝、
政親のもとに300余人が集まり、最期の時を待った。
大手・搦め手で激戦が繰り広げられ、
血が城山を赤く染めた。
政親は、重臣たちの自害を見届けたのち、自害。
9寸5分(約29㎝)の鎧通しを、
左脇に突き立て、右手で引き回し、
引き抜いたのち、みぞおちからへそ下へ突き下ろした。
鮮血で、
五蘊本空なりければ何者か借て来らん借て返さん
と辞世を詠み、
刀の切っ先を口に含み、貫いた。
子息千代松丸が死を見届けて、屋形を火に包んだ。
32歳とも、34歳とも、36歳ともいう。
この政親に代わって、
一向一揆に加賀守護・富樫惣領として担ぎ出されたのは、
誰あろう、かつて政親と対立し、隠居した泰高であった。
政親の首実検をした泰高は、
思きや老木の花は残りつつ若木の桜先づ散んとは
と詠んで、涙を流した。
泰高が立てられたとはいえ、傀儡であった。
加賀一国は、一向一揆の支配下となったのである。
以降100年あまり続く、「百姓の持ちたる国」の始まりである。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2003)
『国史大辞典 第10巻 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989)
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《病死》 《1367年》 《4月》 《26日》 《享年28歳》
初代鎌倉公方。
室町幕府初代将軍足利尊氏の子で、
2代将軍義詮の弟。
叔父足利直義の養子になっていたとも。
貞和5年(1349)、足利方の内訌(観応の擾乱)に際し、
19歳の兄義詮が、鎌倉から京都へ召喚されると、
代わって9歳の足利基氏が、京都から鎌倉に遣わされた。
こうして、幼い基氏が、
兄と入れ替わるようにして、
関東における足利方の中心、“鎌倉公方”となったのである。
その後の観応の擾乱では、
幼少だったためか、
尊氏方に担がれたり、直義方に奪取されたりしたが、
擾乱の終息とともに、鎌倉に戻った。
文和3年(1353)7月から康安2年(1362)9月の間は、
越後・上野や武蔵の反乱分子を抑えるべく、
武蔵入間川に長期在陣する。
その間も含め、
延文3年(1358)10月には、
武蔵矢口渡で南朝方新田義興を謀殺し、
延文4年(1359)1月、
幕府の南朝方掃討作戦のため、関東執事畠山国清ら関東勢を畿内に派遣、
康安2年(1362)9月、
関東武士の支持を失った畠山国清を放逐、討伐。
さらに、
貞治2年(1363)3月、
畠山国清に代わって、逼塞していた上杉憲顕を関東管領に迎え、
同時に岩松直国・三浦高通らも呼び戻して、鎌倉府の体制を建て直すとともに、
憲顕の復権を阻もうとする芳賀禅可を駆逐し、
貞治3年(1364)7月には、
世良田義政・梶原景安を誅殺。
こうして、
基氏は、反乱分子を抑えて、
関東における足利氏権力の確立につとめた。
そのせいもあってか、
関東の安泰は、畿内に先んじて訪れている。
康安元年(1361)頃まで、幕府が南朝方と京都攻防戦を続けていたのに対して、
鎌倉は、
観応3年(1352)以来、敵の手に堕ちていない。
基氏の功績は大きい。
また、基氏は、
文芸や音楽、禅宗にも非常に興味を抱いており、
冷泉為秀に和歌の添削を請うたり、
豊原信秋らから笙の相伝を受けたり、
禅僧義堂周信を鎌倉に招いて、禅を学んだりしている。
東国の主として、文化人の側面も持っていたのである。
貞治6年(1367)3月中旬、
基氏はやや体調を崩した。
4月になっても回復しなかったらしい。
はしかであったという。
鎌倉中の寺社では、平癒の祈祷が行われたが、
日を逐って悪化し、
24日には、義堂周信を呼び、後事を託した。
25日、危篤に陥り、
26日、逝去。
28歳。
駆けつけた義堂周信が、遺骸を摩ると、
まだほのかに温かかったという。
遺言により、
義堂周信の僧衣がかけられ、瑞泉寺に葬られた。
5月1日、
基氏の訃報は、京都に発せられた。
京都でも、「天下の重事」(『後愚昧記』)と受け止められ、
4日には、基氏「蘇生」(『愚管記』)のデマが飛ぶなどしている。
3日、弟基氏の訃報がもたらされた際、
将軍義詮は、仏事の最中だったが、慌てて帰邸した。
弟の死を悼み、その後も、四十九日の仏事等を行っている。
また、鎌倉時代の北条氏の例に則って、洛中の服喪も定められた。
翌貞治7年(1368)2月、
上杉憲顕の復権によって、立場を失っていた河越直重・高坂氏重や宇都宮氏綱が、
武蔵河越や下野宇都宮で蜂起。
基氏の存命中は、彼自身が対立する両者のバランスをうまくとり、
内乱の勃発を抑えていたのだが、
そのバランサーを欠くと同時に、内乱が勃発したのである。
基氏の名君ぶりを示すできごとであるが、
如何せん、その死が早すぎた。
〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
田辺久子『関東公方足利氏四代』 (吉川弘文館 2002)
峰岸純夫「南北朝内乱と武士」 (『中世の合戦と城郭』 高志書院 2009)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
植田真平「南北朝後期鎌倉府の関東支配体制と公方直臣」 (『日本歴史』750 2010)
初代鎌倉公方。
室町幕府初代将軍足利尊氏の子で、
2代将軍義詮の弟。
叔父足利直義の養子になっていたとも。
貞和5年(1349)、足利方の内訌(観応の擾乱)に際し、
19歳の兄義詮が、鎌倉から京都へ召喚されると、
代わって9歳の足利基氏が、京都から鎌倉に遣わされた。
こうして、幼い基氏が、
兄と入れ替わるようにして、
関東における足利方の中心、“鎌倉公方”となったのである。
その後の観応の擾乱では、
幼少だったためか、
尊氏方に担がれたり、直義方に奪取されたりしたが、
擾乱の終息とともに、鎌倉に戻った。
文和3年(1353)7月から康安2年(1362)9月の間は、
越後・上野や武蔵の反乱分子を抑えるべく、
武蔵入間川に長期在陣する。
その間も含め、
延文3年(1358)10月には、
武蔵矢口渡で南朝方新田義興を謀殺し、
延文4年(1359)1月、
幕府の南朝方掃討作戦のため、関東執事畠山国清ら関東勢を畿内に派遣、
康安2年(1362)9月、
関東武士の支持を失った畠山国清を放逐、討伐。
さらに、
貞治2年(1363)3月、
畠山国清に代わって、逼塞していた上杉憲顕を関東管領に迎え、
同時に岩松直国・三浦高通らも呼び戻して、鎌倉府の体制を建て直すとともに、
憲顕の復権を阻もうとする芳賀禅可を駆逐し、
貞治3年(1364)7月には、
世良田義政・梶原景安を誅殺。
こうして、
基氏は、反乱分子を抑えて、
関東における足利氏権力の確立につとめた。
そのせいもあってか、
関東の安泰は、畿内に先んじて訪れている。
康安元年(1361)頃まで、幕府が南朝方と京都攻防戦を続けていたのに対して、
鎌倉は、
観応3年(1352)以来、敵の手に堕ちていない。
基氏の功績は大きい。
また、基氏は、
文芸や音楽、禅宗にも非常に興味を抱いており、
冷泉為秀に和歌の添削を請うたり、
豊原信秋らから笙の相伝を受けたり、
禅僧義堂周信を鎌倉に招いて、禅を学んだりしている。
東国の主として、文化人の側面も持っていたのである。
貞治6年(1367)3月中旬、
基氏はやや体調を崩した。
4月になっても回復しなかったらしい。
はしかであったという。
鎌倉中の寺社では、平癒の祈祷が行われたが、
日を逐って悪化し、
24日には、義堂周信を呼び、後事を託した。
25日、危篤に陥り、
26日、逝去。
28歳。
駆けつけた義堂周信が、遺骸を摩ると、
まだほのかに温かかったという。
遺言により、
義堂周信の僧衣がかけられ、瑞泉寺に葬られた。
5月1日、
基氏の訃報は、京都に発せられた。
京都でも、「天下の重事」(『後愚昧記』)と受け止められ、
4日には、基氏「蘇生」(『愚管記』)のデマが飛ぶなどしている。
3日、弟基氏の訃報がもたらされた際、
将軍義詮は、仏事の最中だったが、慌てて帰邸した。
弟の死を悼み、その後も、四十九日の仏事等を行っている。
また、鎌倉時代の北条氏の例に則って、洛中の服喪も定められた。
翌貞治7年(1368)2月、
上杉憲顕の復権によって、立場を失っていた河越直重・高坂氏重や宇都宮氏綱が、
武蔵河越や下野宇都宮で蜂起。
基氏の存命中は、彼自身が対立する両者のバランスをうまくとり、
内乱の勃発を抑えていたのだが、
そのバランサーを欠くと同時に、内乱が勃発したのである。
基氏の名君ぶりを示すできごとであるが、
如何せん、その死が早すぎた。
〔参考〕
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
田辺久子『関東公方足利氏四代』 (吉川弘文館 2002)
峰岸純夫「南北朝内乱と武士」 (『中世の合戦と城郭』 高志書院 2009)
小国浩寿『鎌倉府体制と東国』 (吉川弘文館 2001)
植田真平「南北朝後期鎌倉府の関東支配体制と公方直臣」 (『日本歴史』750 2010)
《自害》 《1503年》 《4月》 《1日》 《享年不明》
越前朝倉氏の一族。
朝倉氏は、
応仁・文明の乱で活躍した孝景に子が多く、
孝景死後は、一族の争いが絶えなかった。
特に、当主貞景と、叔父元景・その婿景豊との対立は、
年々激しさを増していた。
文亀3年(1503)4月、
朝倉氏の当主貞景は、
越前敦賀城に景豊を攻めた。
籠城する朝倉景豊は、
一族の多くが自分に味方していると思っていたが、
頼りにしていた従兄弟教景(のちの宗滴)が敵陣に寝返ったと知って、
愕然とした。
敗北を悟って、景豊は自害を決めた。
軍記物『賀越闘諍記』は、そのさまをこう描く。
「私は、もう籠の中の鳥、網にかかった魚に等しい。
みな、私とともに命を捨てても、無益だ。
敵も、降服した者を斬ることもあるまい。
みな、早く城を出たまえ。
もし、私と志を同じくする者がいるならば、
存分に戦って、心安く自害しよう。
ただし、みな私より先に切腹してはならない。
私が死んだ後、城に火を放ち、骸を火中に捨てよ。
決してみっともない真似をして、
後代まで人に笑われるようなことはするな。」
と、景豊はこまごま言い置いて、
経を読んだのち、
庭先の木を削って、辞世の詩を書き入れた。
二十余年の楽
電光石火の中
邪正何ぞ隔て有らん
皆是本来空
そして、十文字に腹を斬り、果てた。
20代の若者の死。
劇的演出の典型。
景豊の舅元景は、
近江より景豊の救援に向かったが、
途中で景豊の自害を聞き、空しく近江に引き返した。
これはどうやら史実らしい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
『国史大辞典1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979)
越前朝倉氏の一族。
朝倉氏は、
応仁・文明の乱で活躍した孝景に子が多く、
孝景死後は、一族の争いが絶えなかった。
特に、当主貞景と、叔父元景・その婿景豊との対立は、
年々激しさを増していた。
文亀3年(1503)4月、
朝倉氏の当主貞景は、
越前敦賀城に景豊を攻めた。
籠城する朝倉景豊は、
一族の多くが自分に味方していると思っていたが、
頼りにしていた従兄弟教景(のちの宗滴)が敵陣に寝返ったと知って、
愕然とした。
敗北を悟って、景豊は自害を決めた。
軍記物『賀越闘諍記』は、そのさまをこう描く。
「私は、もう籠の中の鳥、網にかかった魚に等しい。
みな、私とともに命を捨てても、無益だ。
敵も、降服した者を斬ることもあるまい。
みな、早く城を出たまえ。
もし、私と志を同じくする者がいるならば、
存分に戦って、心安く自害しよう。
ただし、みな私より先に切腹してはならない。
私が死んだ後、城に火を放ち、骸を火中に捨てよ。
決してみっともない真似をして、
後代まで人に笑われるようなことはするな。」
と、景豊はこまごま言い置いて、
経を読んだのち、
庭先の木を削って、辞世の詩を書き入れた。
二十余年の楽
電光石火の中
邪正何ぞ隔て有らん
皆是本来空
そして、十文字に腹を斬り、果てた。
20代の若者の死。
劇的演出の典型。
景豊の舅元景は、
近江より景豊の救援に向かったが、
途中で景豊の自害を聞き、空しく近江に引き返した。
これはどうやら史実らしい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
『国史大辞典1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979)
《戦死》 《1507年》 《8月》 《29日》 《享年不明》
加賀石川郡の人。
加賀一向一揆。
「玄忍」とも。
永正4年(1507)、
加賀の一揆勢は、越前の一向衆と呼応し、越前に侵入した。
8月、
越前帝釈堂口で、越前の朝倉貞景・宗滴の軍勢と激突。
一揆勢の多くは逃げ散ったが、
玄任の率いる300余人の一隊は、一歩も退かず、討死した。
その後のことで、
軍記物『賀越闘諍記』は、面白い話を仕立てている。
玄任が帝釈堂口で討死してから、2、30日後、
その付近にあやかしが現れ、人々を悩ますという。
夜、家の門をほとほとと叩く者がおり、
家の者が出ると、
首のない、死体のような色をした者が、4、5人いた。
驚いて、もう一度よく確かめようと見ると、
すっと消えてしまった。
また、ある時は、
真っ青の生首が、家の窓から中を覗き込んで、にっと笑った。
家の女房が驚いて、「あっ」と声を上げて立ち上がると、
やはり、すっと消えてしまった。
毎夜、こんなさまだから、
人々は窓や戸を固く閉ざし、終夜寝ずに過ごした。
ある日の夕暮れ時、
簾ノ尾の僧3人が、帝釈堂を通りかかると、
空中に雲霞のごとく軍勢が集まり、その黒雲から、
「我々は、
文明3年(1471)の甲斐・朝倉氏の合戦で討死した兵や、
最近の合戦で討死した者たちの亡魂である。
怒りの妄執にとり憑かれ、ことごとく修羅道に堕ちて、
輪転生死の旗戈をさし、
邪見放逸の鎧を着、
散乱麁動の剣を擎げて、
昼夜を問わず、戦っている。
その苦しみたるや、いかに。」
と叫び、
2、3万人同時に鬨の声をあげた。
楯を叩き合って合戦する音が、響き渡った。
しばらくすると、
怒りが焔をなして、大きな光が100、200飛び交い、
怖ろしい鬼が、雲の中に現れて、
災難障碍の轡を噛み、遭難大苦の荒馬に乗り、
僧たちのところに降りかかってきた。
震え上がった僧たちは、寺へ逃げ帰った。
小雨が降り、風が冷たく、雷が鳴っている日は、
昼間でも合戦の声が聞こえたという。
その後、
高僧が経をあげ、朝倉貞景が経堂を建てたところ、
怪異はおさまったという。
この話は結局、仏法の力と朝倉貞景の名君ぶりを示す挿話であり、
玄任の討死はそれに利用されたのだが、
それにしても怪異譚が生々しい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
加賀石川郡の人。
加賀一向一揆。
「玄忍」とも。
永正4年(1507)、
加賀の一揆勢は、越前の一向衆と呼応し、越前に侵入した。
8月、
越前帝釈堂口で、越前の朝倉貞景・宗滴の軍勢と激突。
一揆勢の多くは逃げ散ったが、
玄任の率いる300余人の一隊は、一歩も退かず、討死した。
その後のことで、
軍記物『賀越闘諍記』は、面白い話を仕立てている。
玄任が帝釈堂口で討死してから、2、30日後、
その付近にあやかしが現れ、人々を悩ますという。
夜、家の門をほとほとと叩く者がおり、
家の者が出ると、
首のない、死体のような色をした者が、4、5人いた。
驚いて、もう一度よく確かめようと見ると、
すっと消えてしまった。
また、ある時は、
真っ青の生首が、家の窓から中を覗き込んで、にっと笑った。
家の女房が驚いて、「あっ」と声を上げて立ち上がると、
やはり、すっと消えてしまった。
毎夜、こんなさまだから、
人々は窓や戸を固く閉ざし、終夜寝ずに過ごした。
ある日の夕暮れ時、
簾ノ尾の僧3人が、帝釈堂を通りかかると、
空中に雲霞のごとく軍勢が集まり、その黒雲から、
「我々は、
文明3年(1471)の甲斐・朝倉氏の合戦で討死した兵や、
最近の合戦で討死した者たちの亡魂である。
怒りの妄執にとり憑かれ、ことごとく修羅道に堕ちて、
輪転生死の旗戈をさし、
邪見放逸の鎧を着、
散乱麁動の剣を擎げて、
昼夜を問わず、戦っている。
その苦しみたるや、いかに。」
と叫び、
2、3万人同時に鬨の声をあげた。
楯を叩き合って合戦する音が、響き渡った。
しばらくすると、
怒りが焔をなして、大きな光が100、200飛び交い、
怖ろしい鬼が、雲の中に現れて、
災難障碍の轡を噛み、遭難大苦の荒馬に乗り、
僧たちのところに降りかかってきた。
震え上がった僧たちは、寺へ逃げ帰った。
小雨が降り、風が冷たく、雷が鳴っている日は、
昼間でも合戦の声が聞こえたという。
その後、
高僧が経をあげ、朝倉貞景が経堂を建てたところ、
怪異はおさまったという。
この話は結局、仏法の力と朝倉貞景の名君ぶりを示す挿話であり、
玄任の討死はそれに利用されたのだが、
それにしても怪異譚が生々しい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
《誅殺》 《1493年》 《閏4月》 《29日》 《享年52歳》
正三位権大納言。
8代将軍足利義政の弟義視と昵懇であり、
その子義材が将軍となるに及び、抬頭し、
正三位権大納言にのぼった。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材による畠山基家追討において、
光忠は畠山尚順とともに先陣をつとめた。
公家として異例である。
なお、
この陣には松殿忠顕・高倉永康ら、義材に近しい公家も従軍している。
4月22日、
京都に留守中の前管領細川政元が、
将軍義材に対してクーデターを起こすと、
葉室光忠の屋敷も、細川方によって徹底的に破壊された。
細川方の光忠に対する欝憤が知れる。
光忠の父教忠は、何とかその場を脱出し、逐電。
クーデターに参加した大内義興・赤松政則らも、
光忠の専横を、こころよく思っていなかったらしい。
出陣先の河内正覚寺城で孤立した将軍義材や畠山政長・尚順父子、光忠らは、
政元方と畠山基家に攻められ、
閏4月25日、落城。
畠山政長は切腹、尚順は逃亡したが、
義材と光忠は、細川政元に降服した。
29日申の刻(夕方4時頃)、光忠は、
幽閉先であろう、摂津天王寺の地蔵堂で殺された。
その首は、京都に運ばれた。
北野社の記録には、
「因果の儀、浅ましき浅ましき」(『北野社家引付』)
と書かれている。
出る杭は、討たれる。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
正三位権大納言。
8代将軍足利義政の弟義視と昵懇であり、
その子義材が将軍となるに及び、抬頭し、
正三位権大納言にのぼった。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材による畠山基家追討において、
光忠は畠山尚順とともに先陣をつとめた。
公家として異例である。
なお、
この陣には松殿忠顕・高倉永康ら、義材に近しい公家も従軍している。
4月22日、
京都に留守中の前管領細川政元が、
将軍義材に対してクーデターを起こすと、
葉室光忠の屋敷も、細川方によって徹底的に破壊された。
細川方の光忠に対する欝憤が知れる。
光忠の父教忠は、何とかその場を脱出し、逐電。
クーデターに参加した大内義興・赤松政則らも、
光忠の専横を、こころよく思っていなかったらしい。
出陣先の河内正覚寺城で孤立した将軍義材や畠山政長・尚順父子、光忠らは、
政元方と畠山基家に攻められ、
閏4月25日、落城。
畠山政長は切腹、尚順は逃亡したが、
義材と光忠は、細川政元に降服した。
29日申の刻(夕方4時頃)、光忠は、
幽閉先であろう、摂津天王寺の地蔵堂で殺された。
その首は、京都に運ばれた。
北野社の記録には、
「因果の儀、浅ましき浅ましき」(『北野社家引付』)
と書かれている。
出る杭は、討たれる。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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1431 | 1432 | 1433 |
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没年 1460~1499
没日
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享年 ~40代
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34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
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41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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