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死に様データベース
《病死》 《1234年》 《11月》 《28日》 《享年78歳》


鎌倉幕府御家人。
父は、上野新田氏の一族、里見氏の祖義俊。
戦国期に房総で活躍する里見氏の遠祖にあたる。


治承4年(1180)8月、源頼朝が挙兵すると、
新田一族は日和見するなど、消極的であったが、
若き里見義成は、
平家の家人でありながら、進んで頼朝の陣に投じた。
頼朝の信用を得て、
鎌倉幕府樹立後、幕府内で厚く遇され、
頼朝死後も、将軍頼家・実朝に近侍した。


文暦元年(1234)11月28日、没。
78歳というから、
当時としてはなかなかの大往生。
頼朝の寵用された士の死を、
誰もが惜しんだという。


治承・寿永の内乱(源平合戦)から半世紀、
頼朝の死から35年。
直に内乱を知り、直に頼朝と接した人も、だんだん少なくなるだろう。
義成が、内乱や頼朝を、第2世代にどう語ったのか、
また、
内乱後の血みどろな政争を無事に乗り越えた義成が、
その時代の新しい社会をどんな思いで見つめていたのか、
気になるところではある。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 第二』 (吉川弘文館 1972)
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《病死》 《1234年》 《7月》 《27日》 《享年32歳》


名は「鞠子」ともいわれるが、不詳。
鎌倉幕府2代将軍源頼家の娘。
4代将軍藤原頼経の室。
初代将軍源頼朝の孫にあたる。


父頼家や兄弟たち、また叔父実朝らが、
政争によって非業の死を遂げていくなかで、
竹御所は源家将軍の血統をひく者として、北条政子の後継者となり、
その没後は、鎌倉幕府の御家人をまとめる要のような存在となった。


寛喜2年(1230)12月、
3代将軍実朝の横死後、
京都の九条家から迎えられた4代将軍藤原頼経に嫁した。
竹御所、28歳。頼経、13歳。


文暦元年(1234)3月1日、
身ごもった竹御所は、着帯の儀を行った。
7月26日、
臨月を迎えた竹御所は、御産所として大叔父北条時房の邸に入った。
子の刻(深夜0時ごろ)、産気づき、
源家将軍の血をひく子の誕生を喜ぶ御家人たちが、
鳴弦役として祗候した。
しかし、
翌27日寅の刻(早朝4時頃)、男児を死産。
難産だったためか、竹御所自身も産後に回復せず、
辰の刻(朝8時頃)、逝去。
32歳。
当時としては、高齢出産だっただろう。


殿中は、悲しみのあまり、
女児の笑い声すら絶え、
ひっそりとして、悲嘆に暮れたという。

これによって、
源頼朝の血統をひく者は、まったく絶えてしまった。
御家人たちにも動揺が広がり、
京都に詰めていた御家人たちも、みな急ぎ鎌倉へ下っていった。


藤原定家は、
「源家将軍の血が絶えたのは、
 頼朝が平家の子どもたちを根絶やしにした、
 その報いではなかろうか。」(『明月記』)
と日記に記している。
京都では前年、後堀河天皇の中宮藻璧門院が、
難産の末、母子ともに薨じたばかりだった。



〔参考〕
『大日本史料 第五編之九』 (東京大学出版会 1971)
佐藤和彦・谷口榮編『吾妻鏡事典』 (東京堂出版 2007)
《病死》 《1242年》 《6月》 《15日》 《享年60歳》


第3代鎌倉幕府執権。

承久3年(1221)の承久の乱では、
幕府軍の総大将として上洛し、
乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、
京都・畿内・西国の支配に当たった。

元仁元年(1224)6月、
2代執権である父義時の死をうけて、
鎌倉に帰り、執権となった。
その後、連署・評定衆を設置するなど、
幕府政治の刷新を図り、
貞永元年(1232)には、
武家最初の法典『御成敗式目』を制定。
鎌倉周辺の街道・港湾の整備、
鎌倉大仏建立の支援などもしている。

北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。


仁治3年(1242)、
泰時は所労により、病臥した。
5月8日、出家。
10日には、
小康状態となり、食事も摂ったが、
翌11日より悪化、
12日、さらに悪化し、
15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。
高熱のあまり、人を寄せ付けず、
亥の刻(夜10時頃)、苦しみ悶えて事切れた。
赤痢にも罹ったらしい。


泰時病臥・死去の報は、京都の公家たちも動揺させ、
噂や密談がしきりと飛び交った。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の祟りだ、とも言われている。
京都では、触穢のため、朝儀が30日間停止された。


勘解由小路経光は、
「近年、国家の重大事は、
 彼の取り計らいによっていたが、
 廉直な人柄で、道理をまず立て、
 堯舜の生まれ変わりのようであった。」(『経光卿記抄』)
と褒めちぎっている。
が、
高熱に苦しみ、独り死んだのは、
帝に弓をひいた「極重悪人」だからであって、
東大寺・興福寺を焼いた、平清盛の臨終の際と似ている、
としている。


なお、
父義時の命日が、6月13日、
承久の乱での幕府軍入京が、6月14日。
6月には何かが起きる。
この奇妙な符合は、当時の人々を震撼させた。



〔参考〕
『大日本史料 第五編之十四』 (東京大学出版会 1952)
『国史大辞典 第12巻 (ふ-ほ)』 (吉川弘文館 1991)
《戦死》 《1506年》 《9月》 《19日》 《享年42歳》


越後守護代。
一時、主君の越後守護上杉房能と対立することもあったが、
その後は主君に随い、越後国内や関東を転戦した。


永正3年(1506)、
加賀・能登・越前・越中・美濃・尾張等、
諸国の一向一揆がいっせいに蜂起した。
加賀の隣国である越前・越中では、特に激しかったらしい。
すでに加賀では、
長享2年(1488)、守護富樫政親を滅ぼして以来、
一向一揆による一国支配が行われており、
加賀の一揆勢が、どっと隣国へ攻め寄せたのと呼応して、
国内の一向衆も蜂起したのである。

越前では、さっそく朝倉貞景らが鎮圧に乗り出し、
各所で激戦が繰り広げられた。

越中でも、守護代神保慶宗や遊佐慶親が鎮圧にあたったが、
思うように進まず、
隣国越後に援軍を頼ることとなった。

7月に越後を発ち、越中に入った長尾能景の軍勢は、
神保慶宗勢と合流し、
8月、越中蓮台寺の戦いで一揆勢を撃破。
9月18日、中村・般若野等で再び両勢は激突。
その乱戦のなか、能景は討死した。
一揆勢の意気は、ますます上がったという。


一向一揆の勢力が越後へ及ぶことを危惧して、出兵したとはいえ、
これまた、他人の巻き添えのような死。

一説に、
援軍を依頼したはずの神保慶宗が、後方で裏切ったとも。
これを信じた能景の子為景は、
のち、神保慶宗を親の仇として討つこととなるが、
それはまた別の話。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
《自害》 《1488年》 《6月》 《9日》 《享年34歳》


加賀守護。

富樫家の家督をめぐる泰高と成春の争いは、
成春の子政親にも引き継がれ、
泰高と政親は、加賀国内で争った。
泰高の隠居後、
政親は富樫家の家督におさまったが、
今度は、応仁・文明の乱と絡んで、
弟幸千代との抗争が勃発。

文明5年(1475)、
政親は、一度は加賀を逐われたものの、
翌6年(1474)10月、
本願寺門徒や白山衆徒の支援を得、
幸千代を加賀より駆逐。


だが、
このことで本願寺門徒(一向一揆)の力を知り、
その伸長を恐れた政親は、
これと対立するに至る。

文明7年(1475)3月、政親は一向一揆を破り、
本願寺蓮如は、越前吉崎を逃れて、河内出口に移った。


ところが、
長享元年(1487)9月、
政親が、将軍足利義尚の六角高頼討伐に随って、
近江に出陣している隙をついて、
加賀一向一揆は、勢力を盛り返してきた。
12月、政親は雪路の中を慌てて帰国し、
加賀高尾城に入って、一向一揆と対峙。

一揆側は、富樫一族の山川高藤をとおして和議を申し入れたが、
政親はこれを聞かず、
長享2年(1488)5月、全面的な衝突に至った。


隣国越前の朝倉氏は、
室町幕府から政親への支援を命じられて出兵したが、
「一揆衆二十万人」(『蔭涼軒日録』)が高尾城を取り囲み、
支援できなかったという。

一向一揆についてしるした後代の書『官地論』には、
攻城側の陣容が記されている。
金剣・白山衆徒2,000は、諏訪口、
洲崎慶覚ら10,000は、上久安、
笠間家次7,000は、野市馬市、
安吉家長・河原衆8,000は、額口、
山本円正ら10,000は、山科山王林、
高橋新左衛門尉ら5,000は、押野山王林、
山八人衆ら諸勢は、山々峰々に隙間なく陣取り、
能美郡の勢50,000も、野市諏訪森に陣を張った。
合計で、92,000人超。

一揆勢は、加賀のみならず能登・越中の者も加わり、
「数万人に及ぶ」(『後法興院政家記』)とも。

実際の数字はよくわからないが、
6月初めまでに、相当な大軍が高尾城を取り囲んだことだけは、よくわかる。


『官地論』が書く、戦の推移が興味深い。

6月6日早朝、一揆勢は軍議をなし、
無駄な犠牲は出さず、兵糧攻めにしよう、
7・8日は日取りが悪い、
等々、さまざまに議論がなされ、
結局、7日早朝に力攻めで陥す、ということになった。
「骸を城の麓に晒し、名を末代まで残そう」
という言葉が、一同の意を決したという。

7日朝、額口をはじめ、各所で戦端が開かれ、
富樫政親は、「今日の合戦は国の分け目である」と全軍を鼓舞。
寄せ手も、今夜中に陥さんと猛攻をしかけ、
各所に放った火は、たちまちにして城を取り囲んだ。
城方の討死した将兵は数知れず。
その夜、政親は城内で、家臣たちや女房衆と、
最期の酒宴を開いた。

8日、政親は、一揆勢に妻女の助命を頼み、
自害しようとする妻を宥めて、
娘には、形見として琵琶の撥と尺八を渡し、
2人を輿に乗せて、城外に落とした。
別れ際の妻の歌、
 秋風の露の草葉を吹分けて同く消ぬ身を如何せん
政親の返歌、
 神懸て末の世契る梓弓引留へき袖にあらねば
妻はその後、越中を経て京都に上り、尼となった。

この日、翌日の攻撃に備えて
寄せ手は兵馬の息を休め、夜が明けるのを待った。

9日早朝、
政親のもとに300余人が集まり、最期の時を待った。
大手・搦め手で激戦が繰り広げられ、
血が城山を赤く染めた。

政親は、重臣たちの自害を見届けたのち、自害。
9寸5分(約29㎝)の鎧通しを、
左脇に突き立て、右手で引き回し、
引き抜いたのち、みぞおちからへそ下へ突き下ろした。
鮮血で、
 五蘊本空なりければ何者か借て来らん借て返さん
と辞世を詠み、
刀の切っ先を口に含み、貫いた。
子息千代松丸が死を見届けて、屋形を火に包んだ。
32歳とも、34歳とも、36歳ともいう。


この政親に代わって、
一向一揆に加賀守護・富樫惣領として担ぎ出されたのは、
誰あろう、かつて政親と対立し、隠居した泰高であった。
政親の首実検をした泰高は、
 思きや老木の花は残りつつ若木の桜先づ散んとは
と詠んで、涙を流した。


泰高が立てられたとはいえ、傀儡であった。
加賀一国は、一向一揆の支配下となったのである。
以降100年あまり続く、「百姓の持ちたる国」の始まりである。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2003)
『国史大辞典 第10巻 (と-にそ)』 (吉川弘文館 1989)
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