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死に様データベース
《病死》 《1496年》 《4月》 《25日》 《享年42歳》


加賀北半国・播磨・備前・美作守護。


大伯父満祐が、嘉吉の乱を起こして、室町幕府に滅ぼされてのち、
赤松氏は没落したが、
旧臣たちの尽力により、政則が家督に立てられ、
家を再興した。

赤松政則は、加賀北半国守護を足がかりに、勢力の挽回に努め、
旧本領播磨・備前・美作の守護に返り咲き、
赤松氏は昔日の勢いを取り戻した。

応仁・文明の乱やその後の難しい政局も、巧みにくぐりぬけ、
将軍足利義政・義尚らの信任も厚かったという。


明応5年(1496)閏2月29日、
赤松氏としては異例の従三位に叙せられたが、
4月25日申の刻(夕方4時頃)、
播磨坂田の九斗寺にて病没。


三条西実隆は、
政則の今日の威勢は、無双のものであり、
 その富貴さは、比肩する者がいないほどであった。
 年齢もまだ壮齢であった。
 世の無常は、権勢も貴賤も関係なく、瞬く間に訪れる。
 ただ眼前の悲嘆に驚いている。」(『実隆公記』)
と、その死を悼んでいるが、
興福寺大乗院の尋尊は、
政則の命日4月25日が、
政則の攻撃によって切腹した畠山政長の命日と同じである、
(ただし、政長の切腹は正しくは閏4月25日)
と不思議がり、
東坊城和長に至っては、
「分不相応な従三位にのぼったから、
 天罰が降ったのではないか」(『和長卿記』)
とまで書いている。

死も生も、ひとのとりよう。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979)
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《自害》 《1493年》 《閏4月》 《25日》 《享年52歳》


室町幕府管領。
河内・紀伊・越中・山城守護。


畠山政長の兄弥三郎と従兄義就との畠山氏の家督をめぐる争いは、
弥三郎の死後、弟の政長にも引き継がれ、
応仁・文明の乱の主要因をなした。
政長は、細川勝元の支援を得て、河内や山城で西軍の義就と戦い、
乱終息後もまだ各所でこれと戦った。


明応2年(1493)2月、
将軍足利義材は、義就の子基家を追討するため、
政長の子尚順や奉公衆を率いて、河内に出陣する。
基家追討には、政長の強い望みがあったといい、
政長もこれに随って、
将軍義材とともに河内橘嶋の正覚寺に陣を構えた。

2月中旬、合戦が始まり、
15日には大和郡山城が陥ち、
3月末には、基家の居城高屋城の周辺に戦場が移った。
政長の宿敵退治は、まもなく終わるはずだった。


ところが、
4月22日、出陣せず京都にいた前管領細川政元が、
将軍義材の従弟香厳院清晃を擁して、義材の排斥を図った。
基家追討に参陣していた大内義興・赤松政則らも、これに与同し、
その他の諸大名や奉公衆の多くもこれに従って、
義材・政長のもとを離れていった。
政元のクーデターは成功したのである。
これを、明応の政変という。
戦国時代の始点に置かれる事件である。


こうして、河内国内には、
政元方で発向してきた赤松政則
正覚寺城で孤立する足利義材・畠山政長
誉田城の畠山基家と、
三勢力が鼎立する混乱した状態となったが、
やがて赤松政則が畠山基家と結び、
義材・政長を追いつめてゆく。

閏4月上旬、
細川政元の家臣上原元秀・安富元家が、
義材らを討つため、河内に出陣。
藤井寺にいた政長の子尚順を破り、
これを正覚寺城へ退かせた。

閏4月22日、
畠山基家・赤松政則は、政長方の紀伊根来寺衆を破り、
正覚寺城を取り囲んだ。
24日夕方より総攻撃がしかけられ、
25日、正覚寺城はついに落城。
政長は子尚順を脱出させ、切腹した。
家臣遊佐長直らも討ち取られた。
義材やその側近葉室光忠らは、寄せ手の上原元秀に降服した。


政長は、政局の中枢にあり、
そのキャスティングボートを握るひとりであったが、
その死は、他人の巻き添えのような気がしなくもない。
政元のクーデターの目的が、将軍の廃立のみだとするならば、
政長の討滅は、“ついで”のように思われるのである。
しかも、
宿敵義就がこれ以前に、
病死という自然死を迎えていたことと比べるならば、
政長の死は、一層無駄死にであるような印象がぬぐいがたい。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典11 (にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
《誅殺》 《1475年》 《正月》 《23日》 《享年不明》


前内大臣日野勝光の青侍。

文明7年(1475)正月23日戌の下の刻(夜9時頃)、
山形勝宗は、京都裏辻の北の辺りで、何者かに殺された。
理由も不明。

辻斬りだろうか、
あるいは、
前将軍足利義政の義兄、かつ将軍足利義尚の舅として権勢をふるった、
主人日野勝光を怨む者に殺されたのだろうか。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅱ』 (石川県 2000)
《自害》 《1417年》 《正月》 《10日》 《享年不明》


鎌倉公方御連枝。


3代鎌倉公方足利満兼の次男で、
「乙若」、あるいは「乙御所」と呼ばれた。
母は身分の低い身であったらしく、
応永7年(1400)6月、鎌倉に呼び戻されるまでは、
上野で育てられたらしい。

応永17年(1410)12月、
鎌倉公方となっていた兄持氏とともに元服し、
将軍足利義持の一字をもらって、「持仲」と名乗る。
このとき、10歳前後であったろう。
いつの頃か、叔父満隆の養子となった。


養父満隆は野心の人であり、
若き甥持氏の鎌倉公方の地位を、たびたびうかがった。
その都度、鎌倉の市中は騒然とした空気になって、
関東管領上杉憲定が場をとりもったりしている。

応永23年(1416)10月2日、
満隆は前関東管領の上杉禅秀と組んで、ついに叛乱を起こす。
ただちに、鎌倉公方持氏らを急襲して放逐し、鎌倉を掌握。
クーデターは成功して、
満隆は、鎌倉公方になりすました。
養子持仲は、瞬く間に、
公方御曹司としてまつりあげられたのである。

しかし、
年末のあたりから、満隆・禅秀方は分が悪くなり、
各地で持氏方に連敗した。
年明けた応永24年(1417)正月10日、
持氏方に鎌倉に攻め込まれ、
満隆・持仲禅秀一族は、
雪ノ下の鶴岡八幡宮別当坊で自害。
持仲は10代半ばであったと思われる。



この足利持仲の短い人生において、その事績は明らかでなく、
叛乱に対しても、何ら主体性は感じられない。
幼いころは父に認知されず、
長じては、家臣に担ぎ出され、
養父の野望につきあわされた果てに自害、
というならば、いささか不憫である。

同様の事例は、中世には少なくないけれども。
中世のひとびとは、
現代のわれわれとは、ずいぶん違った感覚や考え方を持っていた、
といわれています。


中世、
すなわち、院政期~戦国時代を政治状況で見てみますと、

 院政、
 平清盛の平氏政権、
 治承・寿永の内乱(源平合戦)、
 鎌倉幕府、
 元寇、
 建武の新政、
 南北朝の動乱、
 室町幕府、
 享徳の乱、
 応仁・文明の乱、
 戦国乱世、
 織田信長、豊臣秀吉、

というように、
戦乱の時代でした。
そして、それは、
自分の命や権利は、自分で守らねばならない、
“自力救済”の時代でもありました。
つまり、
中世とは、
死というものが、きわめて身近に存在する時代だったのです。

それならば、
中世のひとびとは、
現代のわれわれとは大きく異なる死生観を持っていたはずです。


中世人のいまわのきわを集めていれば、
いつか、われわれには到底思いも寄らないような中世人の死生観が、
見えてくるかもしれません。
などと、
現代のわれわれは、他力本願なことをいいながら、
それを座して眺めていたいと思います。


なお、
当ブログで取り上げるものは、
史料の制約上、
どうしても、権力者や貴族、著名人が多くなってしまいます。
なるべく身分や性別、職業に偏りがないよう、心がけますが、
その点ご理解いただければ、幸いです。

   
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