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死に様データベース
《自害》 《1478年》 《正月》 《20日》 《享年不明》


能登守護畠山義統の家臣。


文明9年(1477)6月中旬、
五井兵庫頭は主人畠山義統に、能登方上保庶子分の拝領を望んだ。
この土地から京都へ納める年貢は、例年100貫余であったが、
兵庫頭はこれを300貫納めると約束して、
方上保庶子分を獲得した。

同地には、能登高座社の神田など、寺社領が散在しており、
新領主として入部した五井兵庫頭は、さっそくこれを確認し、
 高座社領 1町
 高勝寺領 2町7段
 金文社領 5段
と、これまでどおりに寺社領の面積を定めた。


ところが、
入部からまもない6月15日、
兵庫頭は高勝寺領に乱入し、3日間居座った。
そして、定めたはずの寺社領を、
 高座社領 1町→2町8段
 高勝寺領 2町7段→5町余
 金文社領 5段→8段
と架空に水増しして、その相応額の年貢を徴収したのである。

驚いた高座社は、
守護代遊佐統秀に訴え出て、
その訴えは、京都にいる守護畠山義統まで届いた。
これには、兵庫頭も慌てふためき、
高勝寺の院主良清らを仲介として、高座社に謝罪を申し入れ、
まず、事なきを得た。
高座社の神主大宮友永は、今後のことを考え、仲介役の良清らに、
五井兵庫頭より、以後社領を違乱しない旨を一筆書いて差し出すならば、
 社に戻って、神事につとめましょう。」
と申し出たところ、
良清らは、
兵庫頭も、守護畠山義統殿の家臣です。
 それに、われわれ年寄りが申し添えることでありますから、
 兵庫頭が一筆書くこともないでしょう。
 後はわれわれに任せて、社に戻って神事におつとめください。
 もし今後何か起きたら、
 そのときはわれわれと神主大宮殿とで、
 守護畠山殿のもとに訴えに行きましょう。」
と返答した。
それならば、と高座社側も社に戻り、神事に専念した。


ところが、
9月の神事が終わった頃、
五井兵庫頭は、再び寺社領の違乱を始めた。
高座社は、すぐに仲介役の良清らに届け出て、
良清らも困惑して、何度も兵庫頭に問い合わせたが、
一向に違乱行為は収まらなかった。
ついに、高座社の神田は完全に不知行に陥り、
10月28日、高座社は守護所へ出訴した。

11月6日、
訴訟は守護代遊佐統秀に受理され、
五井兵庫頭に出頭命令が出されたが、
兵庫頭は病気を理由に出頭せず、
代わりに一族の小三郎が出頭するのみだった。

能登の守護所では、訴訟は一向に進展せず、
12月18日、
高座社の訴状と守護代遊佐の推挙状が、京都の守護畠山義統のもとに送られ、
守護直々の裁決が下ることとなった。

守護代遊佐は、
「年内の解決は難しいだろうが、
 年始の神事が滞ってはよろしくない。ひとまず、高座社の神田の年貢を、
 兵庫頭より神主大宮殿へ渡し、
 年始の神事をされるのがよいだろう。」
と言い、
遊佐より使者が兵庫頭へ遣わされたが、
兵庫頭がこれを聞くはずもなかった。


年明けて、
年貢も上がらぬまま、高座社がなんとか年始の神事を済ませた頃の、
文明10年(1478)正月10日、
京都の守護畠山義統のもとより、裁決が到来する。
裁決は、
五井兵庫頭は、高座社へ神田をすべて返還せよ」
というもので、
兵庫頭の罪が全面的に認められる結果となった。


この前後より、神領を犯した五井兵庫頭は、数々の神罰を蒙る。
・北方より大きな光るものが飛来し、兵庫頭の家に墜ちて、家が潰れた。
・狐が、昼夜を問わず兵庫頭の家に乱入した。
・8月23日、兵庫頭の父将監入道が神罰で死去。
・12月18日、兵庫頭の家臣谷屋三郎左衛門ら兄弟親子3人が、死んでしまった。
 この者たちは、神領違乱の実行犯であり、
 腰・足・手がもげてしまった。
・12月28日、軒端にゴマが生えてきて、抜き取ってもまだ生えてきた。
・12月29日夜、兵庫頭の夢枕に神が立ち、
 白羽の矢でのど(?)を射抜き、
 それ以来、兵庫頭はめっきり食欲がなくなった。
・正月1日、兵庫頭が親のもとへ年始の挨拶へ行こうとしたところ、
 道に迷い、昼頃ようやくたどり着いた。
・正月20日、兵庫頭が守護所に出仕しようとしたところ、
 高座社の社人たちに拘束されて、蛸嶋幾野番頭の家に連れて行かれ、
 暁、兵庫頭は切腹してしまった。
 しかも、従者たちは夜明けまで気付かなかったという。
なお、鎌倉期に神領に乱入した信濃国人林氏の子も、
やはり神罰で死んでしまった、という話もあったらしい。

なんだか、釈然としない、
気味の悪い話である。
神々にたてつくと、どうやらこういうことになるらしい。


とにもかくにも、
兵庫頭は追い詰められて、腹を切ったのであり、
その死は、高座社によって、神威の宣伝に大いに利用されたのである。

死も不幸も、敵にとっては宣伝の好材料にほかならない。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 1998)
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《自害》 《1423年》 《8月》 《9日》 《享年不明》


関東の大名。

宇都宮氏の庶流武茂氏の出身で、
惣領家満綱の娘婿となり、惣領家を継ぐ。


応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では、
宇都宮持綱は当初静観しつつ、室町幕府との連絡を密にし、
幕府が鎌倉公方足利持氏の支援を決したのち、
それに従って行動を開始した。

この、鎌倉府の上意より室町幕府の上意を優先するという方針が、
持綱の命取りとなる。


乱後、持綱は幕府より、
禅秀の滅亡によって空席となっていた上総守護に推挙された。
しかし、
自分の近臣を守護にしたい鎌倉公方持氏にとっては、
幕府の推挙や持綱の存在は面白くない。
期せずして持綱は、
幕府と公方持氏の対立の渦中に置かれてしまったのである。


応永25年(1418)10月、
幕府との折衝の結果、
公方持氏はいったん、宇都宮持綱の上総守護就任を了承した。
だが、
翌年にかけて、上総では禅秀残党の蜂起が相次ぎ、
持綱の上総守護支配は、思うようには進まなかった。
まもなく、幕府も持綱による上総支配を諦めたらしい。


応永29年(1422)、公方持氏は、
反公方派の大名・国人の弾圧を開始する。
彼らは、幕府にとりいって、公方持氏に反抗していたのであった。
東国の情勢とともに、幕府と鎌倉府の関係も、
一気に緊張の度合いを増した。
6月、鎌倉府軍は常陸国人小栗満重を攻め、
閏10月には、常陸佐竹氏一族の山入与義を誅殺した。
そして、次なる標的に、宇都宮持綱が向けられたのである。

翌応永30年(1423)5月、
北関東の反持氏派の、本格的な討伐に乗り出した。
公方持氏自ら、武蔵、ついで下総古河・結城へ出陣するほどの、
気の入れようである。
窮地に立った宇都宮持綱は、助力をもとめるべく、
京都の幕府のもとに、使者を派遣する。

6月11日、
宇都宮を出発した使者白久但馬入道父子は、
関東平野を避け、会津を経由して、京都を目指した。
途中、南会津で持氏方の軍勢に襲われ、
但馬入道は捕縛され、斬られてしまう。
その子永訴が、父の遺命を継ぎ、
会津・北陸を経て、
7月4日、ようやく京都に到着した。


幕府はすぐさま、対策を議し、
小栗・宇都宮らへの支援を決定して、
使者に返書を持たせた。
7月8日、使者は京都を発つ。
だが、幕府軍の東国下向はなかなか決まらなかった。
“支援”と言っても、お墨付きを与える、といった程度で、
具体的に援軍を送るとか、そういうことはまた別だったらしい。


そうやって幕府がもたもたしている間も、
関東の情勢は時々刻々と変化していく。

6月下旬以来、常陸小栗城を攻めあぐねていた鎌倉府軍であったが、
8月2日、これを陥して小栗満重を滅ぼし、
同日、常陸真壁城も陥して、真壁秀幹を討った。
鎌倉府軍は鎌倉へ帰還せず、そのまま宇都宮持綱討伐に向かう。

大軍を前に利を失った持綱は、宇都宮城を脱する。
北国経由で、幕府の庇護下に逃げ込もうとしたのだろうか、
会津へ向かう街道を進んだらしい。
8月9日、
その道中の下野塩谷で、一族塩谷家綱に裏切られ、自刃。


使者永訴が宇都宮に戻ったかどうかは不明だが、
肝心の幕府軍来援が決定したのは、
持綱自刃の前日、8月8日。
持綱の無念のほどが知れる。



〔参考〕
山家浩樹「上総守護宇都宮持綱」 (『日本歴史』490 1989)
江田郁夫「持氏政権期の宇都宮氏」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008)
《誅殺》 《1463年》 《8月》 《25日》 《享年不明》


東寺領 備中新見荘領家方の代官。


備中守護細川氏に委任支配されていた、東寺領の新見荘領家方であったが、
細川氏代官の横暴に苦しんだ荘民たちは、
寛正2年(1461)6月、
ついに一揆して、細川氏代官を追放し、
東寺の直接支配に復することに成功した。
そうして、
東寺より代官として派遣されてきたのが、
祐清である。


寛正3年(1462)7月26日、
祐清は供を連れて京都を出発し、
8月5日、新見荘に入った。
すぐに、祐清による代官支配が始まるが、
荘民の期待に反して、
祐清の支配は、なかなかに苛烈なものだった。
祐清は、たびたび荘内を巡検して、
未納の年貢などを厳しく取り立てたのである。


寛正4年(1463)8月25日、
この日も祐清は、兵衛二郎と彦四郎の2人の従者を連れて、
荘内の巡検に出発した。
未の刻(午後2時頃)、
地頭方の名主谷内の、新造中の屋敷の前を通りかかったところ、
「あの代官、下馬をしないじゃないか」
と、谷内の家の者に見咎められ、追い詰められた。
祐清は、
「谷内の家と知らなかったのだ。下馬せず、すまなかった。」
と、馬を下りて、非礼を詫びた。
しかし、
谷内家の者たちは大勢ひきつれて、抜刀して祐清らを取り囲んだ。
そうなると、祐清も刀を抜かざるを得ず、
両者じりじりと対峙する格好となった。

と、そこへ、
谷内本人と、その同輩の名主横見が駆けつけ、
「刀をお収めください」と仲裁に入ったため、
祐清も、「ならばともかく」と刀を収めた。
すると突然、
横見と谷内が抜刀して、祐清に斬りかかり、
従者兵衛二郎もろとも、殺してしまった。


酉の刻(午後6時頃)、
辛くもその凄惨な現場を脱した祐清の従者彦四郎は、
領家方の荘官金子衡氏・福本盛吉・宮田家高に、事態を報告した。
谷内らの仕打ちに怒った金子らと、領家方の荘民たちは、
すぐさま谷内の屋敷に馳せ向かい、
報復として、
谷内の屋敷、次いですぐ隣の地頭方政所を焼き打ちして、
掠奪を行った。


谷内・横見の行いは、祐清に成敗された領家方名主豊岡の敵討ちだ、という説や、
下馬咎めなどという不当な言いがかりこそ問題だ、というような主張が、
事件の後に飛び交ったが、
根本には、
新見荘内における地頭方と領家方の潜在的な対立があったらしい。


そして、この事件には後日談がもうひとつ。

京都より派遣されてきた祐清であったが、
赴任先の新見荘に妻を持った。
荘官福本盛吉の妹で、名を“たまがき”といった。

たまがきは、夫祐清の横死後、
領主東寺に向けて、以下のような上申書を送った。

 諸事、お取り計らいいただきたく、
 かように一筆進上いたします。
 さて、祐清があのようなことになったことは、
 非常においたわしいことであります。
 そのとき、私は政所におりましたが、
 その後事について、恥を忍んで申し上げます。
 祐清の遺品については、
 記録をとって、荘官らに差し上げましたので、
 きっと荘官らから報告があるでしょう。
 そのうち、
 祐清の着物は、事件の際に斬られて、遺失しました。
 また、残ったものも、
 その後、いろいろ尽力してくれた僧に与えたり、
 葬礼の費用に宛てたりしました。
 詳しい明細は、別途報告いたします。
 祐清とわたくしとは、生前親しくしておりました。
 祐清の持ち物を少々、形見としていただければ、
 どんなに嬉しいことでしょう。
 重ねて、このことは荘官らにも申し上げます。
 祐清の遺品は、
 すべて荘官らに差し上げましたが、
 別の書き付けのとおりにいただければ、
 こんなに嬉しいことはございません。
 あなかしく。

 ・所持金1貫文 後事にいろいろ使用しました。
 ・青小袖1つ 僧に与えました。
 ・抜手綿2つ 同じく僧に与えました。
 ・帷子1つ 同じく僧に与えました。
 ・畳表5枚 売って後事のことに宛てました。
 以上のものは、それぞれそのように使用しました。
 そのことについては、お詫び申し上げます。
 ・白い小袖1つ
 ・紬の表1つ
 ・布子1つ
 この3つを祐清の形見にいただければ、
 どんなに嬉しいでしょう。

原文かな書きのこの文書は、
たまがき自筆のものといい、
夫を喪った女性の悲痛な手紙とされている。
特に、中世において農村女性の手紙は珍しく、
貴重な例とされている。

しかし、
内容は形見わけや、葬礼等の費用に関するもので、
「悲痛」とまでいえるかどうか。
また、筆跡は男性のそれに近く、
兄福本盛吉の意向が強くはたらいたもの、とする見解もある。
はたして如何に。



〔参考〕
『新見庄 生きている中世』 (備北民報社 1983)
辰田芳雄「祐清殺害事件新論」 (『日本史研究』492 2003)
渡邊太祐「新見荘祐清殺害事件と豊岡成敗」 (『日本歴史』718 2008)
清水克行「新見荘祐清殺害事件の真相」
 (東寺文書研究会編『東寺文書と中世の諸相』 思文閣出版 2011)
《病死》 《1449年》 《8月》 《9日》 《享年38歳》


第6代室町幕府将軍足利義教の室。
正親町三条実雅の妹。


三条尹子ははじめ、将軍足利義教の側室として、その寵愛を受けたが、
正室日野宗子の死後、正室となった。
兄実雅も、義教に近侍した。

義教横死後、出家。


宝徳元年(1449)夏頃より、長患いをしており、
8月5日、病のため、洛中を離れて桂川の西岸に移った。
9日早朝、危篤に陥り、逝去。
遺骸は、そのまま嵯峨二尊院に運ばれ、
12日朝、同院において火葬、昼、納骨。
諸大名をはじめ、多くの人々が弔問に訪れた。


さて、将軍家の人間が逝去すれば、
当然ながら、将軍本人の服喪や触穢が問題となる。
その、将軍がどの程度喪に服すかという問題は、
死亡者の格付けによって決まってくる。

尹子は当初、
前将軍義教の正室ということで、
将軍義成(のちの義政)の「嫡母」とされたが、
「養母」とはされなかった。
その後、先例を調査した結果、
「嫡母」ではなく、「継母」格ということで落着した。
これによって、
将軍義成は、軽い喪にも服さなくてよい、ということになった。

将軍の服喪ともなれば、相応の費用や手間がかかる。
初めから結論ありきのような格付けであった。
病身の尹子が郊外に移されたのも、
単に療養というだけでなく、
洛中の触穢を避けて、諸々の面倒を省く、
という目的があったのかもしれない。

また、
当時、将軍義成の実母として勢いを増し、もと正室の尹子を圧倒していた、
側室裏松重子の存在もうかがわれよう。


死そのものは、ごく個人的な自然現象であるが、
死はその直後から、死者の望むと望まざるとにかかわらず、
生者によって、政治的・社会的なものとして都合よく利用される。



〔参考〕
『増補史料大成39 康富記3(自文安6年至宝徳3年)』 (臨川書店 1965)
死に様は、その人の生き様を映す鏡である。
死に様を見れば、生の何たるかが見えてくるかもしれない。


・・・などという高尚な目的を、当ブログは持っておりません。


人類にとって、死というものは興味深いものであり、
ひとの死に際は、古今を通じて人々の関心をひいてきました。
歴史資料や古典文学をひもとけば、
しばしば、死の現場が克明に描かれています。
畳の上の大往生、
戦場での壮絶な戦死、
予期せざる不運な事故死、
病死、毒殺、暗殺、処刑、切腹、餓死、心中、・・・
死は、万人に等しく訪れるとはいえ、
その様相は、実に千差万別です。

ひとの死に際は面白い。
面白いものを集めれば、もっと面白いかもしれない。
当ブログは、
そういう、不謹慎かつ悪趣味な興味関心によってのみ成り立っています。
ご了承のうえ、お楽しみください。



   
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