死に様データベース
《戦死》 《1507年》 《8月》 《29日》 《享年不明》
加賀石川郡の人。
加賀一向一揆。
「玄忍」とも。
永正4年(1507)、
加賀の一揆勢は、越前の一向衆と呼応し、越前に侵入した。
8月、
越前帝釈堂口で、越前の朝倉貞景・宗滴の軍勢と激突。
一揆勢の多くは逃げ散ったが、
玄任の率いる300余人の一隊は、一歩も退かず、討死した。
その後のことで、
軍記物『賀越闘諍記』は、面白い話を仕立てている。
玄任が帝釈堂口で討死してから、2、30日後、
その付近にあやかしが現れ、人々を悩ますという。
夜、家の門をほとほとと叩く者がおり、
家の者が出ると、
首のない、死体のような色をした者が、4、5人いた。
驚いて、もう一度よく確かめようと見ると、
すっと消えてしまった。
また、ある時は、
真っ青の生首が、家の窓から中を覗き込んで、にっと笑った。
家の女房が驚いて、「あっ」と声を上げて立ち上がると、
やはり、すっと消えてしまった。
毎夜、こんなさまだから、
人々は窓や戸を固く閉ざし、終夜寝ずに過ごした。
ある日の夕暮れ時、
簾ノ尾の僧3人が、帝釈堂を通りかかると、
空中に雲霞のごとく軍勢が集まり、その黒雲から、
「我々は、
文明3年(1471)の甲斐・朝倉氏の合戦で討死した兵や、
最近の合戦で討死した者たちの亡魂である。
怒りの妄執にとり憑かれ、ことごとく修羅道に堕ちて、
輪転生死の旗戈をさし、
邪見放逸の鎧を着、
散乱麁動の剣を擎げて、
昼夜を問わず、戦っている。
その苦しみたるや、いかに。」
と叫び、
2、3万人同時に鬨の声をあげた。
楯を叩き合って合戦する音が、響き渡った。
しばらくすると、
怒りが焔をなして、大きな光が100、200飛び交い、
怖ろしい鬼が、雲の中に現れて、
災難障碍の轡を噛み、遭難大苦の荒馬に乗り、
僧たちのところに降りかかってきた。
震え上がった僧たちは、寺へ逃げ帰った。
小雨が降り、風が冷たく、雷が鳴っている日は、
昼間でも合戦の声が聞こえたという。
その後、
高僧が経をあげ、朝倉貞景が経堂を建てたところ、
怪異はおさまったという。
この話は結局、仏法の力と朝倉貞景の名君ぶりを示す挿話であり、
玄任の討死はそれに利用されたのだが、
それにしても怪異譚が生々しい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
加賀石川郡の人。
加賀一向一揆。
「玄忍」とも。
永正4年(1507)、
加賀の一揆勢は、越前の一向衆と呼応し、越前に侵入した。
8月、
越前帝釈堂口で、越前の朝倉貞景・宗滴の軍勢と激突。
一揆勢の多くは逃げ散ったが、
玄任の率いる300余人の一隊は、一歩も退かず、討死した。
その後のことで、
軍記物『賀越闘諍記』は、面白い話を仕立てている。
玄任が帝釈堂口で討死してから、2、30日後、
その付近にあやかしが現れ、人々を悩ますという。
夜、家の門をほとほとと叩く者がおり、
家の者が出ると、
首のない、死体のような色をした者が、4、5人いた。
驚いて、もう一度よく確かめようと見ると、
すっと消えてしまった。
また、ある時は、
真っ青の生首が、家の窓から中を覗き込んで、にっと笑った。
家の女房が驚いて、「あっ」と声を上げて立ち上がると、
やはり、すっと消えてしまった。
毎夜、こんなさまだから、
人々は窓や戸を固く閉ざし、終夜寝ずに過ごした。
ある日の夕暮れ時、
簾ノ尾の僧3人が、帝釈堂を通りかかると、
空中に雲霞のごとく軍勢が集まり、その黒雲から、
「我々は、
文明3年(1471)の甲斐・朝倉氏の合戦で討死した兵や、
最近の合戦で討死した者たちの亡魂である。
怒りの妄執にとり憑かれ、ことごとく修羅道に堕ちて、
輪転生死の旗戈をさし、
邪見放逸の鎧を着、
散乱麁動の剣を擎げて、
昼夜を問わず、戦っている。
その苦しみたるや、いかに。」
と叫び、
2、3万人同時に鬨の声をあげた。
楯を叩き合って合戦する音が、響き渡った。
しばらくすると、
怒りが焔をなして、大きな光が100、200飛び交い、
怖ろしい鬼が、雲の中に現れて、
災難障碍の轡を噛み、遭難大苦の荒馬に乗り、
僧たちのところに降りかかってきた。
震え上がった僧たちは、寺へ逃げ帰った。
小雨が降り、風が冷たく、雷が鳴っている日は、
昼間でも合戦の声が聞こえたという。
その後、
高僧が経をあげ、朝倉貞景が経堂を建てたところ、
怪異はおさまったという。
この話は結局、仏法の力と朝倉貞景の名君ぶりを示す挿話であり、
玄任の討死はそれに利用されたのだが、
それにしても怪異譚が生々しい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
PR
《誅殺》 《1493年》 《閏4月》 《29日》 《享年52歳》
正三位権大納言。
8代将軍足利義政の弟義視と昵懇であり、
その子義材が将軍となるに及び、抬頭し、
正三位権大納言にのぼった。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材による畠山基家追討において、
光忠は畠山尚順とともに先陣をつとめた。
公家として異例である。
なお、
この陣には松殿忠顕・高倉永康ら、義材に近しい公家も従軍している。
4月22日、
京都に留守中の前管領細川政元が、
将軍義材に対してクーデターを起こすと、
葉室光忠の屋敷も、細川方によって徹底的に破壊された。
細川方の光忠に対する欝憤が知れる。
光忠の父教忠は、何とかその場を脱出し、逐電。
クーデターに参加した大内義興・赤松政則らも、
光忠の専横を、こころよく思っていなかったらしい。
出陣先の河内正覚寺城で孤立した将軍義材や畠山政長・尚順父子、光忠らは、
政元方と畠山基家に攻められ、
閏4月25日、落城。
畠山政長は切腹、尚順は逃亡したが、
義材と光忠は、細川政元に降服した。
29日申の刻(夕方4時頃)、光忠は、
幽閉先であろう、摂津天王寺の地蔵堂で殺された。
その首は、京都に運ばれた。
北野社の記録には、
「因果の儀、浅ましき浅ましき」(『北野社家引付』)
と書かれている。
出る杭は、討たれる。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
正三位権大納言。
8代将軍足利義政の弟義視と昵懇であり、
その子義材が将軍となるに及び、抬頭し、
正三位権大納言にのぼった。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材による畠山基家追討において、
光忠は畠山尚順とともに先陣をつとめた。
公家として異例である。
なお、
この陣には松殿忠顕・高倉永康ら、義材に近しい公家も従軍している。
4月22日、
京都に留守中の前管領細川政元が、
将軍義材に対してクーデターを起こすと、
葉室光忠の屋敷も、細川方によって徹底的に破壊された。
細川方の光忠に対する欝憤が知れる。
光忠の父教忠は、何とかその場を脱出し、逐電。
クーデターに参加した大内義興・赤松政則らも、
光忠の専横を、こころよく思っていなかったらしい。
出陣先の河内正覚寺城で孤立した将軍義材や畠山政長・尚順父子、光忠らは、
政元方と畠山基家に攻められ、
閏4月25日、落城。
畠山政長は切腹、尚順は逃亡したが、
義材と光忠は、細川政元に降服した。
29日申の刻(夕方4時頃)、光忠は、
幽閉先であろう、摂津天王寺の地蔵堂で殺された。
その首は、京都に運ばれた。
北野社の記録には、
「因果の儀、浅ましき浅ましき」(『北野社家引付』)
と書かれている。
出る杭は、討たれる。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
《病死》 《1496年》 《4月》 《25日》 《享年42歳》
加賀北半国・播磨・備前・美作守護。
大伯父満祐が、嘉吉の乱を起こして、室町幕府に滅ぼされてのち、
赤松氏は没落したが、
旧臣たちの尽力により、政則が家督に立てられ、
家を再興した。
赤松政則は、加賀北半国守護を足がかりに、勢力の挽回に努め、
旧本領播磨・備前・美作の守護に返り咲き、
赤松氏は昔日の勢いを取り戻した。
応仁・文明の乱やその後の難しい政局も、巧みにくぐりぬけ、
将軍足利義政・義尚らの信任も厚かったという。
明応5年(1496)閏2月29日、
赤松氏としては異例の従三位に叙せられたが、
4月25日申の刻(夕方4時頃)、
播磨坂田の九斗寺にて病没。
三条西実隆は、
「政則の今日の威勢は、無双のものであり、
その富貴さは、比肩する者がいないほどであった。
年齢もまだ壮齢であった。
世の無常は、権勢も貴賤も関係なく、瞬く間に訪れる。
ただ眼前の悲嘆に驚いている。」(『実隆公記』)
と、その死を悼んでいるが、
興福寺大乗院の尋尊は、
政則の命日4月25日が、
政則の攻撃によって切腹した畠山政長の命日と同じである、
(ただし、政長の切腹は正しくは閏4月25日)
と不思議がり、
東坊城和長に至っては、
「分不相応な従三位にのぼったから、
天罰が降ったのではないか」(『和長卿記』)
とまで書いている。
死も生も、ひとのとりよう。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979)
加賀北半国・播磨・備前・美作守護。
大伯父満祐が、嘉吉の乱を起こして、室町幕府に滅ぼされてのち、
赤松氏は没落したが、
旧臣たちの尽力により、政則が家督に立てられ、
家を再興した。
赤松政則は、加賀北半国守護を足がかりに、勢力の挽回に努め、
旧本領播磨・備前・美作の守護に返り咲き、
赤松氏は昔日の勢いを取り戻した。
応仁・文明の乱やその後の難しい政局も、巧みにくぐりぬけ、
将軍足利義政・義尚らの信任も厚かったという。
明応5年(1496)閏2月29日、
赤松氏としては異例の従三位に叙せられたが、
4月25日申の刻(夕方4時頃)、
播磨坂田の九斗寺にて病没。
三条西実隆は、
「政則の今日の威勢は、無双のものであり、
その富貴さは、比肩する者がいないほどであった。
年齢もまだ壮齢であった。
世の無常は、権勢も貴賤も関係なく、瞬く間に訪れる。
ただ眼前の悲嘆に驚いている。」(『実隆公記』)
と、その死を悼んでいるが、
興福寺大乗院の尋尊は、
政則の命日4月25日が、
政則の攻撃によって切腹した畠山政長の命日と同じである、
(ただし、政長の切腹は正しくは閏4月25日)
と不思議がり、
東坊城和長に至っては、
「分不相応な従三位にのぼったから、
天罰が降ったのではないか」(『和長卿記』)
とまで書いている。
死も生も、ひとのとりよう。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979)
《自害》 《1493年》 《閏4月》 《25日》 《享年52歳》
室町幕府管領。
河内・紀伊・越中・山城守護。
畠山政長の兄弥三郎と従兄義就との畠山氏の家督をめぐる争いは、
弥三郎の死後、弟の政長にも引き継がれ、
応仁・文明の乱の主要因をなした。
政長は、細川勝元の支援を得て、河内や山城で西軍の義就と戦い、
乱終息後もまだ各所でこれと戦った。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材は、義就の子基家を追討するため、
政長の子尚順や奉公衆を率いて、河内に出陣する。
基家追討には、政長の強い望みがあったといい、
政長もこれに随って、
将軍義材とともに河内橘嶋の正覚寺に陣を構えた。
2月中旬、合戦が始まり、
15日には大和郡山城が陥ち、
3月末には、基家の居城高屋城の周辺に戦場が移った。
政長の宿敵退治は、まもなく終わるはずだった。
ところが、
4月22日、出陣せず京都にいた前管領細川政元が、
将軍義材の従弟香厳院清晃を擁して、義材の排斥を図った。
基家追討に参陣していた大内義興・赤松政則らも、これに与同し、
その他の諸大名や奉公衆の多くもこれに従って、
義材・政長のもとを離れていった。
政元のクーデターは成功したのである。
これを、明応の政変という。
戦国時代の始点に置かれる事件である。
こうして、河内国内には、
政元方で発向してきた赤松政則、
正覚寺城で孤立する足利義材・畠山政長、
誉田城の畠山基家と、
三勢力が鼎立する混乱した状態となったが、
やがて赤松政則が畠山基家と結び、
義材・政長を追いつめてゆく。
閏4月上旬、
細川政元の家臣上原元秀・安富元家が、
義材らを討つため、河内に出陣。
藤井寺にいた政長の子尚順を破り、
これを正覚寺城へ退かせた。
閏4月22日、
畠山基家・赤松政則は、政長方の紀伊根来寺衆を破り、
正覚寺城を取り囲んだ。
24日夕方より総攻撃がしかけられ、
25日、正覚寺城はついに落城。
政長は子尚順を脱出させ、切腹した。
家臣遊佐長直らも討ち取られた。
義材やその側近葉室光忠らは、寄せ手の上原元秀に降服した。
政長は、政局の中枢にあり、
そのキャスティングボートを握るひとりであったが、
その死は、他人の巻き添えのような気がしなくもない。
政元のクーデターの目的が、将軍の廃立のみだとするならば、
政長の討滅は、“ついで”のように思われるのである。
しかも、
宿敵義就がこれ以前に、
病死という自然死を迎えていたことと比べるならば、
政長の死は、一層無駄死にであるような印象がぬぐいがたい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典11 (にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
室町幕府管領。
河内・紀伊・越中・山城守護。
畠山政長の兄弥三郎と従兄義就との畠山氏の家督をめぐる争いは、
弥三郎の死後、弟の政長にも引き継がれ、
応仁・文明の乱の主要因をなした。
政長は、細川勝元の支援を得て、河内や山城で西軍の義就と戦い、
乱終息後もまだ各所でこれと戦った。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材は、義就の子基家を追討するため、
政長の子尚順や奉公衆を率いて、河内に出陣する。
基家追討には、政長の強い望みがあったといい、
政長もこれに随って、
将軍義材とともに河内橘嶋の正覚寺に陣を構えた。
2月中旬、合戦が始まり、
15日には大和郡山城が陥ち、
3月末には、基家の居城高屋城の周辺に戦場が移った。
政長の宿敵退治は、まもなく終わるはずだった。
ところが、
4月22日、出陣せず京都にいた前管領細川政元が、
将軍義材の従弟香厳院清晃を擁して、義材の排斥を図った。
基家追討に参陣していた大内義興・赤松政則らも、これに与同し、
その他の諸大名や奉公衆の多くもこれに従って、
義材・政長のもとを離れていった。
政元のクーデターは成功したのである。
これを、明応の政変という。
戦国時代の始点に置かれる事件である。
こうして、河内国内には、
政元方で発向してきた赤松政則、
正覚寺城で孤立する足利義材・畠山政長、
誉田城の畠山基家と、
三勢力が鼎立する混乱した状態となったが、
やがて赤松政則が畠山基家と結び、
義材・政長を追いつめてゆく。
閏4月上旬、
細川政元の家臣上原元秀・安富元家が、
義材らを討つため、河内に出陣。
藤井寺にいた政長の子尚順を破り、
これを正覚寺城へ退かせた。
閏4月22日、
畠山基家・赤松政則は、政長方の紀伊根来寺衆を破り、
正覚寺城を取り囲んだ。
24日夕方より総攻撃がしかけられ、
25日、正覚寺城はついに落城。
政長は子尚順を脱出させ、切腹した。
家臣遊佐長直らも討ち取られた。
義材やその側近葉室光忠らは、寄せ手の上原元秀に降服した。
政長は、政局の中枢にあり、
そのキャスティングボートを握るひとりであったが、
その死は、他人の巻き添えのような気がしなくもない。
政元のクーデターの目的が、将軍の廃立のみだとするならば、
政長の討滅は、“ついで”のように思われるのである。
しかも、
宿敵義就がこれ以前に、
病死という自然死を迎えていたことと比べるならば、
政長の死は、一層無駄死にであるような印象がぬぐいがたい。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典11 (にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
ブログ内検索
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R