死に様データベース
《戦死》 《1467年》 《7月》 《25日》 《享年不明》
加賀半国守護赤松氏の家臣。
加賀守護代。
応仁・文明の乱が勃発したばかりの応仁元年(1467)6月25日、
東軍の赤松政則らは、西軍の斯波義廉の屋敷に押し寄せ、
あちこちに火をかけて、攻めかかった。
この洛中の火災は、
摂津之親や西園寺実遠の屋敷などを焼き、
もと関白近衛房嗣邸のすぐ近くまで迫ったという。
7月11日、
再び東軍諸将は、斯波義廉邸を攻める。
守る斯波方も、粗略ながら櫓を立て、また朝倉孝景らの奮戦もあり、
容易に勝敗はつかなかった。
同月25日、再び合戦があり、
攻め手の間島河内守は、櫓の下まで攻め寄せたが、
上から大石を落とされ、
兜ごと打ち砕かれて、討死したという。
なんとも、痛々しい。
討死としては、特に珍しい例ではないけれど。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 2008)
加賀半国守護赤松氏の家臣。
加賀守護代。
応仁・文明の乱が勃発したばかりの応仁元年(1467)6月25日、
東軍の赤松政則らは、西軍の斯波義廉の屋敷に押し寄せ、
あちこちに火をかけて、攻めかかった。
この洛中の火災は、
摂津之親や西園寺実遠の屋敷などを焼き、
もと関白近衛房嗣邸のすぐ近くまで迫ったという。
7月11日、
再び東軍諸将は、斯波義廉邸を攻める。
守る斯波方も、粗略ながら櫓を立て、また朝倉孝景らの奮戦もあり、
容易に勝敗はつかなかった。
同月25日、再び合戦があり、
攻め手の間島河内守は、櫓の下まで攻め寄せたが、
上から大石を落とされ、
兜ごと打ち砕かれて、討死したという。
なんとも、痛々しい。
討死としては、特に珍しい例ではないけれど。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 2008)
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《誅殺》 《1417年》 《閏5月》 《13日》 《享年不明》
上野国人。上野新田荘領主。
新田氏惣領。
関東管領をつとめた上杉禅秀の娘を娶り、
父祖以来の鎌倉府上層部とのつながりを、さらに強固なものとした。
応永23年(1416)10月、
舅禅秀が、鎌倉公方足利持氏にクーデターを起こす。
岩松満純も、娘婿としてこれに参加し、
公方持氏の追い落としを成功させた。
クーデター成功後は、本国上野に戻り、
持氏方の関東管領上杉憲基勢と戦った。
反クーデター軍の掃討に乗り出したつもりなのかもしれないが、
敗北を重ね、
最終的に、応永24年(1417)正月、
持氏方の鎌倉回復・禅秀打倒を許した。
舅禅秀の自害後、
満純は、残党狩りの追っ手を逃れて、行方をくらます。
同年3月には、
本領から遥か遠い、陸奥白河周辺に潜んでいることが発覚し、
公方持氏からも室町幕府からも、軍勢が差し向けられたが、
その手もかいくぐって、なおも逃げた。
閏5月頃、満純に再起のときがくる。
満純は、本領の上野に戻り、与党を集めて蜂起した。
だが、
武蔵周辺まで出張ってきたところで、
討伐軍の上野国人舞木持広と合戦し、
あっけなく生け捕られた。
鎌倉に連行され、竜の口にて斬首。
江ノ島を眼前に望む竜の口は、
今日でこそ、風光明媚で観光客も集う土地であるが、
中世に処刑場であったのは、夙に有名な話。
〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010)
上野国人。上野新田荘領主。
新田氏惣領。
関東管領をつとめた上杉禅秀の娘を娶り、
父祖以来の鎌倉府上層部とのつながりを、さらに強固なものとした。
応永23年(1416)10月、
舅禅秀が、鎌倉公方足利持氏にクーデターを起こす。
岩松満純も、娘婿としてこれに参加し、
公方持氏の追い落としを成功させた。
クーデター成功後は、本国上野に戻り、
持氏方の関東管領上杉憲基勢と戦った。
反クーデター軍の掃討に乗り出したつもりなのかもしれないが、
敗北を重ね、
最終的に、応永24年(1417)正月、
持氏方の鎌倉回復・禅秀打倒を許した。
舅禅秀の自害後、
満純は、残党狩りの追っ手を逃れて、行方をくらます。
同年3月には、
本領から遥か遠い、陸奥白河周辺に潜んでいることが発覚し、
公方持氏からも室町幕府からも、軍勢が差し向けられたが、
その手もかいくぐって、なおも逃げた。
閏5月頃、満純に再起のときがくる。
満純は、本領の上野に戻り、与党を集めて蜂起した。
だが、
武蔵周辺まで出張ってきたところで、
討伐軍の上野国人舞木持広と合戦し、
あっけなく生け捕られた。
鎌倉に連行され、竜の口にて斬首。
江ノ島を眼前に望む竜の口は、
今日でこそ、風光明媚で観光客も集う土地であるが、
中世に処刑場であったのは、夙に有名な話。
〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010)
《病死》 《1378年》 《4月》 《17日》 《享年46歳》
関東管領。
宅間上杉氏。
足利直義の寵臣として、草創期の室町幕府で活躍し、
南北朝期の政争の中で、非業の死をとげた、養父重能。
南北朝内乱を巧みに生き抜き、
関東における上杉氏の地位を築き上げた、実父憲顕。
上杉能憲は、
この2人の偉大な父の影響を、存分に受けたであろう。
父憲顕の死後、関東管領の職を継ぎ、
南朝残党の蜂起や、千葉氏と香取社の争いがありながら、
幼い鎌倉公方足利氏満を支えて、巧みに東国を治めている。
と同時に、
自身も、実父憲顕から受け継いだ上杉氏の地位を、
さらに強固なものとした。
永和2年(1376)3月、能憲は病に臥した。
5月8日、重篤に陥り、
弟憲方への家督相続や所領の譲与を遺言した。
翌9日には、
見舞いに訪れた禅僧義堂周信に、
臨終にあたっての心構え等を問うたりしている。
同日、能憲は、
鎌倉公方足利氏満に、関東管領の辞職を願い出た。
氏満は受け付けなかったが、
10日、能憲が再び願い出たところ、
氏満は、
「関東管領職の任免権は、室町幕府にある。
急ぎ幕府にうかがうから、返答が来るまで待つがいい。」
と答えた。
それを聞いた能憲の顔には、わずかに回復の色が表れ、
人々は、
関東管領の重責が、病の原因だったのだろう、
と噂した。
その後、能憲の病はいったん癒えたらしい。
翌6月に再発。
8月、
幕府からの文書が到来し、
能憲に関東管領復職が厳命された。
能憲は一度固辞したが、
義堂周信の説得もあって、復職を受け入れた。
その後も能憲の病は、再発と回復を繰り返していたのだろう。
2年後の永和4年(1378)4月、再発。
11日、再び弟憲方への家督相続の譲与状を認めている。
17日、危篤に陥り、
巳の刻(午前10時頃)、
鎌倉宅間谷の自邸にて、逝去。
46歳。
一度は死期を悟ったあと、
その2年間を、どのような気持ちで過ごしただろうか。
義堂周信は、危篤の報を受けて駆け付けたが、
臨終には間に合わなかった。
その顔は、穏やかに笑っていて、
まるで生きているかのようだったという。
棺は、宅間谷より報恩寺に移され、
翌18日、荼毘、
20日、納骨。
四十九日の法要は、次弟憲春がとりしきったが、
その他の葬儀全般は、三弟憲方がとりしきった。
憲方はまた、
実子を能憲の猶子とし、能憲旧邸を報恩寺の塔頭とするという、
能憲の遺命の遂行者でもあった。
生前、能憲は、
次弟憲春がいるにもかかわらず、
それをとびこえて、三弟憲方を家督継承者に指名している。
しかし、
憲春はそれに容易に従わず、
上杉氏の家督に付随する所領や役職を、保持し続けた。
どうやら、能憲跡の相続をめぐって
憲春・憲方兄弟の間に、対立があったらしい。
故人に指名された相続人は誰か、
相続人であることのアピールとして、葬儀をとりしきるのは誰か、
遺言を無視して、実力で保持し続けるのは誰か。
ドロドロした現代劇と、さして変わらないように思われる。
〔参考〕
『新潟県史 資料編3 中世1 文書編Ⅰ』 (新潟県 1982)
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
関東管領。
宅間上杉氏。
足利直義の寵臣として、草創期の室町幕府で活躍し、
南北朝期の政争の中で、非業の死をとげた、養父重能。
南北朝内乱を巧みに生き抜き、
関東における上杉氏の地位を築き上げた、実父憲顕。
上杉能憲は、
この2人の偉大な父の影響を、存分に受けたであろう。
父憲顕の死後、関東管領の職を継ぎ、
南朝残党の蜂起や、千葉氏と香取社の争いがありながら、
幼い鎌倉公方足利氏満を支えて、巧みに東国を治めている。
と同時に、
自身も、実父憲顕から受け継いだ上杉氏の地位を、
さらに強固なものとした。
永和2年(1376)3月、能憲は病に臥した。
5月8日、重篤に陥り、
弟憲方への家督相続や所領の譲与を遺言した。
翌9日には、
見舞いに訪れた禅僧義堂周信に、
臨終にあたっての心構え等を問うたりしている。
同日、能憲は、
鎌倉公方足利氏満に、関東管領の辞職を願い出た。
氏満は受け付けなかったが、
10日、能憲が再び願い出たところ、
氏満は、
「関東管領職の任免権は、室町幕府にある。
急ぎ幕府にうかがうから、返答が来るまで待つがいい。」
と答えた。
それを聞いた能憲の顔には、わずかに回復の色が表れ、
人々は、
関東管領の重責が、病の原因だったのだろう、
と噂した。
その後、能憲の病はいったん癒えたらしい。
翌6月に再発。
8月、
幕府からの文書が到来し、
能憲に関東管領復職が厳命された。
能憲は一度固辞したが、
義堂周信の説得もあって、復職を受け入れた。
その後も能憲の病は、再発と回復を繰り返していたのだろう。
2年後の永和4年(1378)4月、再発。
11日、再び弟憲方への家督相続の譲与状を認めている。
17日、危篤に陥り、
巳の刻(午前10時頃)、
鎌倉宅間谷の自邸にて、逝去。
46歳。
一度は死期を悟ったあと、
その2年間を、どのような気持ちで過ごしただろうか。
義堂周信は、危篤の報を受けて駆け付けたが、
臨終には間に合わなかった。
その顔は、穏やかに笑っていて、
まるで生きているかのようだったという。
棺は、宅間谷より報恩寺に移され、
翌18日、荼毘、
20日、納骨。
四十九日の法要は、次弟憲春がとりしきったが、
その他の葬儀全般は、三弟憲方がとりしきった。
憲方はまた、
実子を能憲の猶子とし、能憲旧邸を報恩寺の塔頭とするという、
能憲の遺命の遂行者でもあった。
生前、能憲は、
次弟憲春がいるにもかかわらず、
それをとびこえて、三弟憲方を家督継承者に指名している。
しかし、
憲春はそれに容易に従わず、
上杉氏の家督に付随する所領や役職を、保持し続けた。
どうやら、能憲跡の相続をめぐって
憲春・憲方兄弟の間に、対立があったらしい。
故人に指名された相続人は誰か、
相続人であることのアピールとして、葬儀をとりしきるのは誰か、
遺言を無視して、実力で保持し続けるのは誰か。
ドロドロした現代劇と、さして変わらないように思われる。
〔参考〕
『新潟県史 資料編3 中世1 文書編Ⅰ』 (新潟県 1982)
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
《自害》 《1379年》 《3月》 《7日》 《享年不明》
関東管領。
山内上杉氏。
永和5年(1379)3月7日、
関東管領の職にあった上杉憲春は、
突如自害した。
鎌倉山内の自邸の持仏堂とも、
鎌倉宅間の報恩寺ともいわれている。
永和5年(1379)、鎌倉公方足利氏満は、
京都での政変に乗じて上洛し、将軍足利義満にとってかわろう、
と、野望を抱いていた。
その主人の企みを聞いた憲春は仰天し、
再三思いとどまるよう諫言したが、聞き入れられることはなかった。
鎌倉山内の自邸に戻った憲春は、妻を呼び、
「思い立つことがあるので、尼になってくれないか」と頼んだ。
妻は驚いたが、「賢者第一の人」である夫の言うことであり、
何か訳があるのだろうと、「安き御望み」と了承した。
髪を切り、法衣の仕立てをする妻を見て、
憲春は、
「すまないことを頼んでしまったが、後々わかってほしい」
と、笑みをこぼして言った。
そして、
主人氏満への諫状を認め、持仏堂に籠って切腹した。
と、
軍記物『鎌倉大草紙』では、最期の夫婦の交感を描いている。
しかし、
自殺の原因は、主人への諫死だけではなかったらしい。
東国における上杉氏の地位を築き上げた、偉大な父憲顕ののち、
その地位は憲春の兄能憲が継承し、さらに強固なものとした。
病に臥せた能憲は、
自分の跡を、次弟憲春を飛び越えて、三弟憲方に継がせようとし、
憲春の保持する上野守護職も、憲方に渡すよう言い置いて、
永和4年(1378)、世を去った。
だが、憲春は、
この兄の遺言を無視して、上野守護であり続けたばかりか、
能憲の後、関東管領にも就任し、所領も保持し続けた。
これには、公方氏満の意向も働いたかもしれないが、
兄能憲と弟憲方に対して、憲春も含むところがあったに違いない。
とはいえ、
上杉氏の家督は、あくまで弟憲方であり、
憲春の立場は、非常に危ういものだった。
要するに、憲春は、
諫言を聞き入れない公方氏満、
公方氏満の制止を求める室町幕府・将軍足利義満、
上杉氏の正規の家督継承者である、有能な弟憲方、等々、
様々な板挟みのジレンマ・ストレスに苛まれていたのである。
そうして「欝憤」「狂乱」(『迎陽記』)の状態に陥って、
思い余ったものだろう。
それにしても、唐突さがぬぐえない。
なにやら“自殺”という現代的な響きのほうが、
しっくりくる自死である。
〔参考〕
岩崎学「関東管領上杉憲春の自殺」 (『小田原地方史研究』16 1988)
小国浩寿「鎌倉府北関東支配の形成」 (『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館 2001)
関東管領。
山内上杉氏。
永和5年(1379)3月7日、
関東管領の職にあった上杉憲春は、
突如自害した。
鎌倉山内の自邸の持仏堂とも、
鎌倉宅間の報恩寺ともいわれている。
永和5年(1379)、鎌倉公方足利氏満は、
京都での政変に乗じて上洛し、将軍足利義満にとってかわろう、
と、野望を抱いていた。
その主人の企みを聞いた憲春は仰天し、
再三思いとどまるよう諫言したが、聞き入れられることはなかった。
鎌倉山内の自邸に戻った憲春は、妻を呼び、
「思い立つことがあるので、尼になってくれないか」と頼んだ。
妻は驚いたが、「賢者第一の人」である夫の言うことであり、
何か訳があるのだろうと、「安き御望み」と了承した。
髪を切り、法衣の仕立てをする妻を見て、
憲春は、
「すまないことを頼んでしまったが、後々わかってほしい」
と、笑みをこぼして言った。
そして、
主人氏満への諫状を認め、持仏堂に籠って切腹した。
と、
軍記物『鎌倉大草紙』では、最期の夫婦の交感を描いている。
しかし、
自殺の原因は、主人への諫死だけではなかったらしい。
東国における上杉氏の地位を築き上げた、偉大な父憲顕ののち、
その地位は憲春の兄能憲が継承し、さらに強固なものとした。
病に臥せた能憲は、
自分の跡を、次弟憲春を飛び越えて、三弟憲方に継がせようとし、
憲春の保持する上野守護職も、憲方に渡すよう言い置いて、
永和4年(1378)、世を去った。
だが、憲春は、
この兄の遺言を無視して、上野守護であり続けたばかりか、
能憲の後、関東管領にも就任し、所領も保持し続けた。
これには、公方氏満の意向も働いたかもしれないが、
兄能憲と弟憲方に対して、憲春も含むところがあったに違いない。
とはいえ、
上杉氏の家督は、あくまで弟憲方であり、
憲春の立場は、非常に危ういものだった。
要するに、憲春は、
諫言を聞き入れない公方氏満、
公方氏満の制止を求める室町幕府・将軍足利義満、
上杉氏の正規の家督継承者である、有能な弟憲方、等々、
様々な板挟みのジレンマ・ストレスに苛まれていたのである。
そうして「欝憤」「狂乱」(『迎陽記』)の状態に陥って、
思い余ったものだろう。
それにしても、唐突さがぬぐえない。
なにやら“自殺”という現代的な響きのほうが、
しっくりくる自死である。
〔参考〕
岩崎学「関東管領上杉憲春の自殺」 (『小田原地方史研究』16 1988)
小国浩寿「鎌倉府北関東支配の形成」 (『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館 2001)
《自害》 《1382年》 《4月》 《13日》 《享年不明》
関東の大名。
下野守護。
小山氏は、俵藤太藤原秀郷の末裔で、
源頼朝の時代以来の、関東の雄族である。
康暦2年(1380)5月16日、
下野裳原において、
小山義政と宇都宮基綱の軍勢が衝突した。
小山方は、宇都宮方の3倍近い200名以上の犠牲者を出しながら、
当主基綱を討ち取ることに成功した。
両者は、所領や下野の守護支配をめぐって、
以前から対立していたらしい。
これに怒った鎌倉公方足利氏満は、
すぐさま東国中に小山義政討伐の命を発し、
自身も武蔵府中、村岡、ついで下野足利に出陣した。
同年8月には、下野小山周辺で戦闘が始まり、
同月末、討伐軍は義政の本拠に迫った。
9月19日、公方氏満のもとに、義政の使者が訪れ、
降服を申し出た。
義政、最初の降服。
しかし、
義政はなお、鎌倉府に反抗的だったらしく、
翌永徳元年(1381)、公方氏満は再度義政討伐に乗り出す。
6月中旬、討伐軍は下野本沢河原で、巴波川の渡河点を突破、
8月には、義政の籠る小山鷲城に迫った。
だが、討伐軍は堅固な鷲城を攻めあぐね、
11月16日に至って、ようやく外郭を陥した。
12月8日、耐えきれなくなった義政は、ついに降服。
鷲城を明け渡して、小山祇園城に退き、
家督を子息若犬丸に譲り、出家した。
義政、2度目の降服。
ところが、なおも義政は諦めない。
翌永徳2年(1382)3月22日、
父子ともに祇園城を自焼、脱出し、
下野糟尾山に立て籠もった。
義政、3度目の反抗。
これまで、義政の命ばかりは助けてきた公方氏満であったが、
「願わくば目の当りに義政が逆頸を見ん」(『頼印僧正行状絵詞』)
と、義政を討ち取る以外に決着はないと、すでに考えていたらしく、
この蜂起を、むしろ好機と喜んでいる。
3月29日、討伐軍は鎌倉を発し、
4月5日より、周辺諸城を次々と陥していった。
4月12日、最後の砦の櫃沢城も落ち、
義政父子は夜陰に乗じて脱出した。
4月13日巳の刻(午前10時頃)、
山中で追っ手に囲まれ、進退窮まった義政は、
ついに自害した。
子の若犬丸は、戦場を脱出し、
この後も、父と同じく反鎌倉府闘争を展開していく。
義政を執拗に闘争に駆り立てたものは、何だったのか。
また、
公方氏満を執拗に討滅に駆り立てたものは、何だったのか。
当の本人たちにしかわからない、
と片付けたのでは、あまりにつまらない、
壮絶な史実である。
〔参考〕
『小山市史 史料編・中世』 (小山市 1980)
『群馬県史 資料編6 中世2 (編年史料1)』 (群馬県 1984)
佐久間弘行「小山義政の乱と鷲城・祇園城」
(橋本澄朗・千田孝明編『知られざる下野の中世』随想舎 2005)
関東の大名。
下野守護。
小山氏は、俵藤太藤原秀郷の末裔で、
源頼朝の時代以来の、関東の雄族である。
康暦2年(1380)5月16日、
下野裳原において、
小山義政と宇都宮基綱の軍勢が衝突した。
小山方は、宇都宮方の3倍近い200名以上の犠牲者を出しながら、
当主基綱を討ち取ることに成功した。
両者は、所領や下野の守護支配をめぐって、
以前から対立していたらしい。
これに怒った鎌倉公方足利氏満は、
すぐさま東国中に小山義政討伐の命を発し、
自身も武蔵府中、村岡、ついで下野足利に出陣した。
同年8月には、下野小山周辺で戦闘が始まり、
同月末、討伐軍は義政の本拠に迫った。
9月19日、公方氏満のもとに、義政の使者が訪れ、
降服を申し出た。
義政、最初の降服。
しかし、
義政はなお、鎌倉府に反抗的だったらしく、
翌永徳元年(1381)、公方氏満は再度義政討伐に乗り出す。
6月中旬、討伐軍は下野本沢河原で、巴波川の渡河点を突破、
8月には、義政の籠る小山鷲城に迫った。
だが、討伐軍は堅固な鷲城を攻めあぐね、
11月16日に至って、ようやく外郭を陥した。
12月8日、耐えきれなくなった義政は、ついに降服。
鷲城を明け渡して、小山祇園城に退き、
家督を子息若犬丸に譲り、出家した。
義政、2度目の降服。
ところが、なおも義政は諦めない。
翌永徳2年(1382)3月22日、
父子ともに祇園城を自焼、脱出し、
下野糟尾山に立て籠もった。
義政、3度目の反抗。
これまで、義政の命ばかりは助けてきた公方氏満であったが、
「願わくば目の当りに義政が逆頸を見ん」(『頼印僧正行状絵詞』)
と、義政を討ち取る以外に決着はないと、すでに考えていたらしく、
この蜂起を、むしろ好機と喜んでいる。
3月29日、討伐軍は鎌倉を発し、
4月5日より、周辺諸城を次々と陥していった。
4月12日、最後の砦の櫃沢城も落ち、
義政父子は夜陰に乗じて脱出した。
4月13日巳の刻(午前10時頃)、
山中で追っ手に囲まれ、進退窮まった義政は、
ついに自害した。
子の若犬丸は、戦場を脱出し、
この後も、父と同じく反鎌倉府闘争を展開していく。
義政を執拗に闘争に駆り立てたものは、何だったのか。
また、
公方氏満を執拗に討滅に駆り立てたものは、何だったのか。
当の本人たちにしかわからない、
と片付けたのでは、あまりにつまらない、
壮絶な史実である。
〔参考〕
『小山市史 史料編・中世』 (小山市 1980)
『群馬県史 資料編6 中世2 (編年史料1)』 (群馬県 1984)
佐久間弘行「小山義政の乱と鷲城・祇園城」
(橋本澄朗・千田孝明編『知られざる下野の中世』随想舎 2005)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
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1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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