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死に様データベース
《自害》 《1443年》 《2月》 《28日》 《享年不明》


加賀守護富樫氏の家臣。
加賀守護代。


嘉吉元年(1441)6月、
加賀守護富樫教家は、
将軍足利義教の勘気を蒙って、隠居させられ、
喝食となっていた弟千代丸(のちの泰高)が還俗して、
加賀守護となった。

ところが、
将軍義教死後の嘉吉2年(1442)8月、
隠居した教家の子で、泰高の甥にあたる亀童丸(のちの成春)が、
加賀守護に任命される。

ここに、加賀国内において富樫氏の家督と加賀守護職をめぐる、
教家・亀童丸派と泰高派の内乱が勃発。
そして、
管領畠山持国が教家・亀童丸を、
細川持之が泰高を支援したことから、
内乱は、幕閣を巻き込んだ、泥沼の様相を呈する。


嘉吉3年(1443)2月17日、
泰高派の主軸山川八郎らは、大挙上洛し、
抗議の意を込めて、畠山持国邸で切腹する計画を立てた。
だが、この計画は、
細川持賢に「ぶっそうなことはするな」と制止され、
実行には移されなかった。
用心のため、管領畠山持国の出仕にも、山名持豊の警固がつき、
いったんは「洛中安堵の趣」(『建内記』)となったという。

しかし、それでも、
「泰高派が畠山持国を襲撃する」とか、
逆に「持国が泰高邸に攻め寄せる」といった噂が絶えず、
京都は不安な日々が続く。

2月27日、
幕閣の多くも畠山持国側、すなわち亀童丸側に傾き、
泰高が京都の屋敷を退去することで、カタをつけよう、
ということになった。
有無を言わせぬよう、
持国の軍勢が、畠山氏の本国より雲霞のごとく押し寄せ、
比叡山も、馬借を河原に集めてこれに協力するという、
ものものしい状態になった。

しかし、
泰高派50人ばかりが、泰高邸に立て籠もり、
抵抗の意を表明。


手をこまねいた持国らは、
今度は、泰高派の首魁山川八郎の切腹をもって、
万事手打ちにしよう、ということになった。


そうして、
28日戌の刻(夜8時頃)、山川八郎は、
泰高邸の庭上にて、幕府役人の検視のもと、
国もとでの乱行と京都の混乱の全責任を背負い、
父と若党3人とともに切腹した。
八郎の父の辞世、
  あつさ弓五十をこゆる年浪のまことの道に入にけるかな


これにて、京都に集まっていた諸軍勢は解散し、
京都の治安と幕府の政治は、ようやく旧に復したのである。


山川八郎は、大力の勇士であった。
切腹にあたって、八郎は、
幕府の役人に、主人泰高の助命と、加賀の分割を求めたという。
これを聞いた伏見宮貞成親王は、
「主人を助けて、罪を一身にうけて切腹した。
 忠節の至りである。感嘆に堪えない」(『看聞日記』)
と記している。



ちなみに、この一件、
歌舞伎「勧進帳」の原作となる謡曲「安宅」の成立にも、
影響を与えたとか、なんとか。



〔参考〕
『加能史料 室町Ⅲ』 (石川県 2005)
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《誅殺》 《1419年》 《2月》 《4日》 《享年不明》


室町将軍足利義持の近臣。


富樫満成は、幼いころより義持に仕え、
近習として、義持の使者や供奉役をたびたび務めた。
応永21年(1414)には、加賀半国守護となり、
富樫家惣領である兄満春と、本国を半国ずつ治めている。


応永25年(1418)正月25日、
将軍義持の命を受けて、
謀叛の嫌疑で幽閉されていた義持の弟義嗣を討った。
同じころ、
義嗣に加担した公家日野持光・山科教高も、
配流先の加賀で誅殺された。
先述のとおり、加賀は満成の守護分国である。

同年7月、
畠山満慶・山名時煕・土岐康政(故人)ら幕閣にも、
謀叛人義嗣に加担した疑いが向けられ、
守護罷免・所領没収・出仕停止等の処分が下された。
その義持の命を取り次いだのも、満成であった。

満成は、いわば反義持派弾圧の下手人だったのである。


将軍の寵臣として、権勢を誇ったかに見えた満成であったが、
その幕引きはあっけない。

同じ応永25年(1418)11月22日、
満成は突如、
義持より「勘当」を言い渡された。
紀伊高野山に逃げ込んだが、
数日後にはそこも逐われ、流浪の身となったらしい。
所領・屋敷は没収され、
加賀半国守護職は兄満春に統合された。

巷では「勘当」の理由として、
義嗣に謀叛を勧めたのは、満成であったから、
義嗣の愛妾林歌局との密通が露見したから、
などと噂された。


翌応永26年(1419)2月4日頃、
大和吉野の山奥、天河の地に潜んでいた満成のもとに、
義持の赦免を報じる僧が現れた。
その言葉を信じて、僧とともに河内まで出たところ、
待ち構えていた国人によって討たれた。
義持より畠山満家に、満成討伐の命があったという。


この、あまりにあっけない失脚劇の背景には、
足利義嗣事件の真相を暴かれることを恐れた幕閣、
近習への権力集中を危ぶんだ義持
抬頭する庶子家を快く思わない富樫惣領家、
その他、満成の勢威に反感を抱く人々等、
様々な存在がうかがえる。

「権威傍若無人」(『看聞日記』)といわれた君側の奸の、
典型のような死である。



〔参考〕
『加能史料 室町Ⅱ』 (石川県 2002)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008)
桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』 (講談社 2001)
《病死》 《1432年》 《6月》 《27日》 《享年61歳》


室町幕府の大名。
能登畠山氏の祖。


応安2年(1372)生まれ。
兄満家とは同年の生まれであり、双生児かともされている。

父基国の死後、
足利義満の勘気を蒙って退隠していた兄満家にかわって、
畠山満慶は、畠山家惣領の地位につき、
河内・紀伊・越中・能登守護となった。
義満没後は、兄に家を譲り、能登守護のみ譲り受けた。
その後も兄をよく支えて、また幕政にも重きをなした。


永享4年(1432)5月24日、
以前からの長患いが悪化。

6月20日頃、満慶はひどい吐き気を催す。
医師坂胤能の処方した粉薬を、服用したためであったらしく、
妻や家臣もその薬を飲んでみたところ、同じ症状を発したという。
23日昼頃には、吐き気が収まったが、
27日、没。
60歳とも、61歳ともいう。

弟の死に力を落とした兄満家も、
翌年に没している。

藪医者によって死期を早めた、残念な例である。



〔参考〕
『国史大辞典 第11巻(にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
『加能史料 室町Ⅱ』 (石川県 2002)
《病死》 《1418年》 《8月》 《18日》 《享年48歳》


室町幕府管領。


応安元年(1371)生まれ。
初名義重

斯波義教は、父義将より越前守護職を譲り受け、
のちには、信濃・尾張・遠江守護も兼務した。
また、父の威光の下で管領も務め、
斯波氏の最盛期を築いたが、
応永17年(1410)の父の没後は、あまりふるわなかった。


応永25年(1418)8月10日、
義教は京都の自邸にあって、体調を崩す。
12日、やや持ち直したが、
17日、再び容体が急変し、将軍足利義持の見舞いを受けた。
18日申の刻(夕方4時頃)、他界。48歳。
死期を悟り、端坐合掌して往生したという。
死後、人々がその様を拝みに集まり、
将軍義持も見にやってきた。
遺言により、嵯峨法恩院に土葬された。


特に目立った業績もなく、偉大な父義将の陰に隠れたイメージだが、
伏見宮貞成親王は日記の中で、
「世のため人のために、穏便の人であった。」
と、その死を惜しんでいる。(『看聞日記』)

後年不発であったといえ、この前後の政情不安等を考えれば、
存外幸運な死であったかもしれない。



〔参考〕
『国史大辞典 第7巻(しな-しん)』 (吉川弘文館 1986)
『加能史料 室町Ⅱ』 (石川県 2002)
《病死》 《1428年》 《正月》 《18日》 《享年43歳》


第4代室町幕府将軍。

至徳3年(1386)2月12日生まれ。
父義満の嫡子として、足利義持は、
応永元年(1394)12月17日、将軍となるも、
父の権威は未だ高く、
また父の寵愛を受ける弟義嗣の存在もあって、
その地位は不安定であった。

応永15年(1408)5月の義満没後、
ようやく権力の地歩を固めた。

その治世には、
後南朝の後亀山法皇の潜幸や、
飛騨国司姉小路氏・伊勢国司北畠氏らの叛乱、
義嗣の謀叛、
鎌倉公方足利持氏との対立等、
いろいろあったが、
細川満元・畠山満家ら幕閣にも恵まれ、
よくこれを収めた。

応永30年(1423)3月18日、
将軍職を嫡子義量に譲り、出家。
義量の早世後も、その後嗣を決めぬまま、
「室町殿」として君臨した。


応永35年(1428)正月、
義持は、三が日の予定を無事にすませた。
例年どおりの正月のはずであった。

正月7日、風呂場で尻のできものを掻き破ったためか、
義持は熱を出す。
9日、医師に診せ、大事ないと判断されたが、
傷跡は大きく腫れ上がっていたらしい。
10日、臣下に謁する予定であったが、
熱がひどく、延期した。
11日、評定始めの儀式には、無理をおして出席したが、
他人に手をひかれて登場し、
ほんの一時、顔を出したのみであった。
12日以降の予定も、延期したり、
また座ることもままならず、
寝たまま、形ばかりで済ませたり、という状況であった。

15日には、傷が腐りかけていたらしい。
16日、容体が急変し、
17日、いよいよ危うくなった。
管領畠山満家以下の幕閣が、
義持の護持僧で政治顧問でもあった三宝院満済のもとに集まり、
対策を講じた。
治療や祈祷のことなども議題に上ったが、
何にもまして最重要案件とされたのは、
未定のまま放置されていた、後継者のことであった。

義持の意向を確認する役となった満済が、御所へ赴くと、
義持は近習らを集めて、酒を与えているところだった。
別れの盃、末期の酒、といったところだろうか。
人払いしたのち、満済が意向をうかがうと、
義持は次のように語った。

  もし仮に実子があったとしても、後嗣を定めることはしない。
  実際には子もいないから、
  ともかく皆で話し合って、うまく取り計らえ。
  兄弟がいるから、そのうちから適性をもって決めればよい。
  弟4人からくじ引きで決めるのもよいが、
  自分が生きているうちは、決してくじを開いてはならない。・・・

義持が後継者について、
「たとえ指名したとしても、幕閣がその人を支持しないのであれば、
 なんら意味がない」(『建内記』)
と、語ったということは、
室町幕府論の中では、つとに有名な話である。

結局、
その日のうちに満済がくじを作成し、
山名時煕が封をして、
畠山満家が深夜、石清水八幡宮の神前でそれを引き、
義持没後に開封することとなった。

そして、その日(17日)の酉半刻頃(夜6時頃)、
義持は危篤に陥る。
言葉を発することも聞き取ることもできず、
人々の顔を見ても判らないほどの重態となり、
人々は咽び泣いた。
公家・武家・僧俗みな御所の辺りに群れ集まり、
京都市中は騒然とした状況となった。

病状は一夜もち耐えたものの、
翌18日巳半刻(午前10時頃)、義持はついに息を引き取る。
禅僧が沐浴を済ませ、床上に安置して、
人々が焼香した。
23日、荼毘。


死の当日、
管領畠山満家がくじを開き、
後継者は、青蓮院門跡の義円と決まった。
のちの6代将軍足利義教である。



〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(上)』 (続群書類従完成会 1928)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008)
桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』 (講談社 2001)
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