死に様データベース
《自害》 《1417年》 《正月》 《10日》 《享年不明》
関東管領。
犬懸上杉氏。実名氏憲。
禅秀上杉氏憲は、
隠遁した父朝宗の跡を受けて、上杉氏の一流犬懸家を継ぎ、
関東管領を務めるなどして、鎌倉府の政務を支えた。
若いうちは、
南東北の叛乱鎮圧軍の大将を務めるなどしているが、
あまりぱっとしない。
応永22年(1415)4月25日、
鎌倉府評定の場において、鎌倉公方足利持氏は、
禅秀の家臣越幡六郎を、何の罪もなく罰した。
禅秀が、これに怒って関東管領を辞すると、
持氏も、
「怒って関東管領を辞職するなど、上意を軽んじる行いだ」
と立腹し、山内上杉憲基を次の関東管領とした。
以上は、
軍記物『鎌倉大草紙』に記された、上杉禅秀の乱の要因である。
しかし、どうもそればかりではなかったらしい。
京都では、乱勃発当初から、
「禅秀が持氏の母を犯したとして、持氏が禅秀を討伐しようとした。
のちに濡れ衣とわかったものの、両者に遺恨を残した」
との風聞があった。(『看聞日記』)
政治的なものとしては、
関東管領を交互に務めた山内上杉氏・犬懸上杉氏の権力闘争、
足利持氏・山内上杉憲基と禅秀の、東国支配の方針をめぐる対立、
なども、要因としてあったかもしれない。
時を同じくして京都で起きた、足利義嗣逐電事件との連関も噂されたが、
真偽を確かめる術はない。
とにもかくにも、上杉禅秀は、
応永23年(1416)10月2日、叛乱を起こした。
鎌倉公方持氏の叔父で、野心家の足利満隆、
持氏の弟で、満隆の養子となっていた持仲、
禅秀の舅武田信満、娘婿岩松満純・那須資之・千葉兼胤、
その他関東各地の大名・国人と結び、
鎌倉に兵を起こして、主人持氏と同僚憲基を急襲したのである。
瞬く間に、鎌倉中が戦場となり、
虚を衝かれた持氏は、防戦もかなわず敗走し、
小田原・箱根を経て伊豆へ、
さらに駿河へ逃れて、守護今川氏を頼った。
憲基も、伯父が守護を務める越後へ逃げ込んだ。
持氏・憲基らを駆逐し、満隆・持仲父子を新たな当主に推戴して、
禅秀のクーデターは、成功したかに思えた。
挙兵からひと月も経たない、10月29日、
室町幕府は、持氏の支援と禅秀の討伐を決定した。
これが、禅秀の誤算であったかどうかはわからない。
ただ、これより徐々に、状況は転回していく。
12月下旬、
ついに持氏・憲基の反攻が始まる。
持氏は、駿河方面より足柄をとおって、東海道を、
憲基は、上野方面から武蔵高坂・久米河を経て、鎌倉街道上道を、
鎌倉目指して攻め上ってきた。
怒涛の反攻軍を前に、
一転して苦しい防衛側となった禅秀軍であったが、
翌応永24年(1417)正月、
鎌倉間近の相模藤沢・飯田原、武蔵瀬谷原で、
3度ほど、敵軍を押し返したらしい。
しかし、それも空しく、
正月9日、態勢を立て直した持氏方と、
武蔵瀬谷原で再びあいまみえ、
敗れた禅秀・足利満隆らは、鎌倉に撤退した。
翌10日、
余勢を駆って、鎌倉になだれ込んだ持氏方に囲まれ、
雪下の鶴岡八幡宮別当坊において、
禅秀は、子弟や足利満隆・持仲らとともに自害した。
挙兵から3ヶ月と8日。
神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)には、
この乱で落命した「敵味方」の供養碑が建てられている。
なお、
このとき生き延びた禅秀の子息の幾人かは、
京都に上って、幕府の庇護を得、
幕府と鎌倉公方の対立の際には、
幕府軍の大将などとして活躍した。
なかには、
父禅秀の死から、半世紀近くを経てなお、
その活動をしている者もある。
父の仇、反鎌倉公方の執念、恐るべし。
〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010)
関東管領。
犬懸上杉氏。実名氏憲。
禅秀上杉氏憲は、
隠遁した父朝宗の跡を受けて、上杉氏の一流犬懸家を継ぎ、
関東管領を務めるなどして、鎌倉府の政務を支えた。
若いうちは、
南東北の叛乱鎮圧軍の大将を務めるなどしているが、
あまりぱっとしない。
応永22年(1415)4月25日、
鎌倉府評定の場において、鎌倉公方足利持氏は、
禅秀の家臣越幡六郎を、何の罪もなく罰した。
禅秀が、これに怒って関東管領を辞すると、
持氏も、
「怒って関東管領を辞職するなど、上意を軽んじる行いだ」
と立腹し、山内上杉憲基を次の関東管領とした。
以上は、
軍記物『鎌倉大草紙』に記された、上杉禅秀の乱の要因である。
しかし、どうもそればかりではなかったらしい。
京都では、乱勃発当初から、
「禅秀が持氏の母を犯したとして、持氏が禅秀を討伐しようとした。
のちに濡れ衣とわかったものの、両者に遺恨を残した」
との風聞があった。(『看聞日記』)
政治的なものとしては、
関東管領を交互に務めた山内上杉氏・犬懸上杉氏の権力闘争、
足利持氏・山内上杉憲基と禅秀の、東国支配の方針をめぐる対立、
なども、要因としてあったかもしれない。
時を同じくして京都で起きた、足利義嗣逐電事件との連関も噂されたが、
真偽を確かめる術はない。
とにもかくにも、上杉禅秀は、
応永23年(1416)10月2日、叛乱を起こした。
鎌倉公方持氏の叔父で、野心家の足利満隆、
持氏の弟で、満隆の養子となっていた持仲、
禅秀の舅武田信満、娘婿岩松満純・那須資之・千葉兼胤、
その他関東各地の大名・国人と結び、
鎌倉に兵を起こして、主人持氏と同僚憲基を急襲したのである。
瞬く間に、鎌倉中が戦場となり、
虚を衝かれた持氏は、防戦もかなわず敗走し、
小田原・箱根を経て伊豆へ、
さらに駿河へ逃れて、守護今川氏を頼った。
憲基も、伯父が守護を務める越後へ逃げ込んだ。
持氏・憲基らを駆逐し、満隆・持仲父子を新たな当主に推戴して、
禅秀のクーデターは、成功したかに思えた。
挙兵からひと月も経たない、10月29日、
室町幕府は、持氏の支援と禅秀の討伐を決定した。
これが、禅秀の誤算であったかどうかはわからない。
ただ、これより徐々に、状況は転回していく。
12月下旬、
ついに持氏・憲基の反攻が始まる。
持氏は、駿河方面より足柄をとおって、東海道を、
憲基は、上野方面から武蔵高坂・久米河を経て、鎌倉街道上道を、
鎌倉目指して攻め上ってきた。
怒涛の反攻軍を前に、
一転して苦しい防衛側となった禅秀軍であったが、
翌応永24年(1417)正月、
鎌倉間近の相模藤沢・飯田原、武蔵瀬谷原で、
3度ほど、敵軍を押し返したらしい。
しかし、それも空しく、
正月9日、態勢を立て直した持氏方と、
武蔵瀬谷原で再びあいまみえ、
敗れた禅秀・足利満隆らは、鎌倉に撤退した。
翌10日、
余勢を駆って、鎌倉になだれ込んだ持氏方に囲まれ、
雪下の鶴岡八幡宮別当坊において、
禅秀は、子弟や足利満隆・持仲らとともに自害した。
挙兵から3ヶ月と8日。
神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)には、
この乱で落命した「敵味方」の供養碑が建てられている。
なお、
このとき生き延びた禅秀の子息の幾人かは、
京都に上って、幕府の庇護を得、
幕府と鎌倉公方の対立の際には、
幕府軍の大将などとして活躍した。
なかには、
父禅秀の死から、半世紀近くを経てなお、
その活動をしている者もある。
父の仇、反鎌倉公方の執念、恐るべし。
〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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