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死に様データベース
《病死》 《1150年》 《11月》 《5日》 《享年91歳》


右大臣藤原俊家の娘。
関白藤原師通の先妻、同忠実の母。
御堂関白藤原道長の庶子頼宗の孫にあたり、
(兄宗俊の息子)には、故実家として名高い中御門流の藤原宗忠がいる。

御堂流の師通の正妻だったが、
全子の政所始が行われる前に離縁したため、北政所とは呼ばれず、
居所をもって「一条殿」「小川殿」と呼ばれた。


康平3年(1060)に、権中納言藤原俊家の娘として生まれた全子は、
関白藤原師実の嫡男で、2歳下の権中納言兼左大将藤原師通と婚姻した。
「いとうつくしき御あはひ」(『栄花物語』巻39)と評される夫婦で、
承暦2年(1078)11月には長男忠実が産まれた。

しかし、その夫婦仲もまもなく「あやしく枯れ枯れにのみなり」(同上)、離縁。
師通は、太政大臣藤原信長の養女信子と再婚した。
全子は、亡父俊家の肖像に祈って師通・信子夫妻を夜な夜な呪い、
あるとき夢枕に俊家が立って、その怨み必ずや晴らそう、と言ったという(『台記』)
はたして師通は、康和元年(1099)6月に、38歳で急死し、
北政所信子は零落して、のちに師通の子孫から「乞食尼」と呼ばれている(『玉葉』)

全子に引き取られ、祖父師実のもとに通ってその薫陶を受けた忠実は、
父師通の没後に藤原氏の氏長者となり、
政治の実権は白河院の掌中にあったが、
長治2年(1105)12月に関白となっている。

関白の母となった全子は、
天永3年(1112)12月、従三位に叙された。
摂関の母が、四位を経ずに無位から三位に叙されるのは、
「未曽有」(『殿暦』)であったという。
全子」の名は、このとき式部大輔菅原在良によって付けられたものである。
永久2年(1114)2月には、従二位、
永久3年(1115)12月には、従一位に昇った。

保安元年(1120)11月、白河院の勘気により、息子忠実が失脚して宇治に籠居すると、
いまだ復権の叶わぬ大治元年(1126)3月、全子は出家している。
それでも3年後の大治4年(1129)7月には、
白河院の崩御にともなって、忠実は復権を果たしている。
久安6年(1150)正月、全子は准三宮となっている。


この久安6年(1150)は、全子の周辺で激動の年であった。
忠実には、忠通と頼長という歳の離れた二人の息子がおり、
忠通にはしばらく子がなかったために、忠実は頼長を忠通の養子として跡を継がせようとした。
ところが、忠通に待望の男子が産まれたことで、
忠実・頼長と忠通の間に、摂関の座をめぐる亀裂が発生。
さらに、それに絡んで忠通の養女と頼長の養女の入内競争も激化して、
久安6年(1150)9月、愛息頼長に肩入れする忠実は、嫡男忠通を義絶するに至る。
目の前で繰り広げられる息子と孫との争いに、老いたは何を思ったろうか。

さらにこの年、10月頃から京都周辺で「咳病」が大流行し、
「老者多く以て妖亡す。民庶あらあら死亡す。近年以来第一の咳病なり」(『本朝世紀』)
というありさまだった。
頼長やその周囲も罹ったほか、鳥羽法皇も罹患して、諸行事への臨幸が取り止めになっている。

全子もまたこの咳病に罹った。
11月4日、全子の病状が思わしくないとのことで、
息子忠実は鳥羽よりのいる宇治へ駆けつけた。
翌5日巳の刻(午前10時頃)、全子は宇治の小川殿にて他界。91歳であった。


忠実・忠通の親子喧嘩は、全子の葬儀にも絡んだ。
忠実は全子の葬儀にあたり、
忠通の衰日(凶日)は考慮せず、頼長の衰日のみをふまえて調整するよう指示した。
17日、入棺。
18日、小川殿で葬礼が催された。
むろん、忠通の臨席はなかったが、
忠実も咳病のために臨席せず、頼長も父忠実の命令により欠席した。
忠実の命令は、頼長の触穢による行動制限を避けるためだろう。
19日、拾骨。


また、忠実は四十九日の間、魚食を断った。
頼長は忠実の年齢を考えて、思い返すよう説得したが、
忠実は聞き入れなかった。
73歳の子が91歳のを送ることを、
孫の頼長は「我が朝未聞」「寿考」と記している(『台記』)

全子の遺骨は、西法華堂という御堂に安置されたが、
これは、御堂流の菩提寺である木幡の浄妙寺が、
小川殿から見て、移転等を避けるべき「王相方」という方角に当たったためで、
翌年の仁平元年(1151)9月に、孫の頼長が西法華堂から浄妙寺へ改葬している。
また、息子忠実は全子の生前より、母のために小川殿のなかに御堂を建てていたが、
完成したのは、同じく仁平元年(1151)の10月のことだった。


全子が最期に目にしたのは、息子と孫との骨肉の争いであった。
この争いは、天皇家の争いなどとも絡んで、
5年後に保元の乱へと発展し、頼長の死と忠実の失墜に帰着する。
とはいえ、離縁後の逆境を耐え抜き、息子の自立や復権を見届け、自身も准三宮まで昇り、
保元の乱を見届けずにこの世を去ったのは、幸運というべきだろう。

前夫を呪った母全子と、嫡男を義絶した息子忠実。
そして、の死を魚食を断つほどに悼んだ息子。
肉親への愛憎の激しさと執念深さは、から息子へたしかに受け継がれたようである。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
『新訂増補国史大系 栄花物語』(吉川弘文館、1938年)
服藤早苗『平安朝の家と女性』(平凡社、1997年)
元木泰雄『藤原忠実〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2000年)
中村成里「『栄花物語』続編と藤原忠実」(『中古文学』83、2009年)
朧谷寿『平安王朝の葬送―死・入棺・埋骨―』(思文閣出版、2016年)
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《病死》 《1095年》 《4月》 《28日》 《享年不明》


中納言藤原経季の娘。
宇多源氏の源政長の妻となった。

嘉保2年(1095)4月28日、卒。
「俄にもって逝去」(『中右記』)というから、急死だったようである。
夫政長は58歳であったから、も同じほどであったろうか。


5月4日、
伊勢神宮遷宮上卿であった治部卿藤原通俊は、
逝去した政長の妻が、自身の従姉妹にあたることから、
喪に服すべきか否かを関白藤原師通に問い合わせた。
通俊は他家の養子となっていることから、服喪の必要もないかと思われたが、
大殿藤原師実(関白師通の父)の判断で、
身内に不幸のあった通俊は、遷宮上卿に不適格として更迭され、
替わって権中納言大江匡房が同職に任じられた。

なお、を亡くした政長は、半年後にも続けて亡くしている。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
《病死》 《1256年》 《6月》 《27日》 《享年不明》


鎌倉幕府連署北条重時の娘で、
幕府評定衆宇都宮泰綱の息子経綱の妻となった。
名は伝わらない。


建長8年(1256)頃のことか、
宇都宮経綱の妻は流産をした。
その後、産後の衰弱を病魔が襲ったのか、
「赤痢病」に罹ったという。
6月27日、卒去。享年は未詳。


宇都宮経綱にはその後、
その亡妻の妹が嫁したという。
日本中世のソロレート婚(妻の死別後にその姉妹と婚姻すること)の一例か。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 33 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
菊池紳一監修・北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)
《病死》 《1230年》 《8月》 《4日》 《享年25歳》


鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。


鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。


この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。

その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。


翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。

産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。


北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。

8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。

泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。


を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
《病死》 《1496年》 《5月》 《20日》 《享年57歳》


従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。

かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
 女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。


長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。

夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。


明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。

 富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
 有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
 嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)

 およそ将軍家の御名残たるか。
 殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)

「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。

将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。

 垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
 散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
 新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼
 妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
 これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
 落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)

 (御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
  散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
  このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
  側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
  これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
  近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)

富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。

享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。

天下触穢。


貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。


いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。

小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。


6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。

富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。


同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、

 朝露はみし夕顔の名残かな
 あはれを問はばなでしこの宿

と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。


6月26日、中陰結願。

7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。



〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
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