死に様データベース
《病死》 《1496年》 《5月》 《20日》 《享年57歳》
従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。
かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
「日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。
長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。
夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。
明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。
富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)
およそ将軍家の御名残たるか。
殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)
「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。
将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。
垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼、
妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)
(御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)
富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。
享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。
天下触穢。
貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。
いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。
小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。
6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。
富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。
同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、
朝露はみし夕顔の名残かな
あはれを問はばなでしこの宿
と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。
6月26日、中陰結願。
7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。
〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。
かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
「日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。
長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。
夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。
明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。
富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)
およそ将軍家の御名残たるか。
殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)
「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。
将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。
垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼、
妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)
(御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)
富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。
享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。
天下触穢。
貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。
いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。
小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。
6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。
富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。
同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、
朝露はみし夕顔の名残かな
あはれを問はばなでしこの宿
と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。
6月26日、中陰結願。
7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。
〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
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《病死》 《1207年》 《3月》 《29日》 《享年不明》
鎌倉幕府御家人比企朝宗の娘。
はじめ幕府の女房として将軍源頼朝に仕え、
頼朝にことさら気に入られて、「当時権威無双の女房」(『吾妻鏡』)といわれた。
「容顔はなはだ美麗と云々」(同前)とされている。
「姫前〈ひめのまえ〉」は、この女房時代の呼び名である。
そのうちに北条義時に見初められ、
一両年にわたって散々文でもって言い寄られた。
姫前は一向に聞く耳をもたなかったが、
頼朝の聞き及ぶところとなり、
離別しない旨の起請文を義時に書かせたうえで、嫁ぐことを命じられ、
姫前は義時に起請文を出させて、
建久3年(1192)9月25日、正妻として義時の邸宅に入った。
義時30歳。
姫前は20歳前くらいだったろうか。
わざわざ起請文を出させたのは、将来に不安があったからかもしれない。
この婚姻には、
幕府の実力者である北条家と比企家の融和という思惑も、
頼朝や両家の周辺にあったとされる。
ふたりの間には、
長男朝時、次男重時、長女竹殿が生まれた。
しかし、
姫前は北条家と比企家の架け橋となれなかった。
父朝宗の義兄弟比企能員が、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるい、
夫の父北条時政と対立したのである。
建仁3年(1203)9月、時政らは能員を謀殺、比企一族を滅ぼした。
義時は、反逆者の一族である姫前を離縁した。
ただし、
ふたりの離縁を、正治2年(1200)5月以前とする説もある。
この月に、義時の側妻が義時の本邸で出産し、
なおかつそれが、大々的に扱われているためである。
とすると、離縁の意味合いも、おのずと変わってこよう。
ただ、いずれにしても、
義時が姫前に言い寄って、結果的に破ることとなる起請文を出した話を、
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』が、なぜわざわざ記しているのかは、よくわからない。
そののち、姫前は上洛し、
ほどなく源具親の妻となった。
この村上源氏の傍流は、高位高官こそ望めなかったが、
和歌に秀でた一族で、
具親自身も和歌所の寄人に列し、
その妹には、歌人として著名な後鳥羽院宮内卿がいる。
離縁翌年の元久元年(1204)には、
具親との間に、輔通を産んだ。
建永2年(1207)3月にも、姫前は出産したが、胞衣がなかなか下りなかった。
胞衣(えな)とは胎盤等のことで、
胎児の出産後にそれらを娩出する後産が、思わしくなかったのである。
姫前の容態は重篤で、ついにはたびたび意識を失うに至った。
3月28日には、門前まで藤原定家の見舞いを受けたが、
翌29日、逝去した。
30代前半だったろうか。
具親とのあいだの長男源輔通は、
嘉禄2年(1226)11月、幕府の推挙により侍従に任じられ、
またその弟の輔時も、姫前の子とすると、
彼はのち、異父兄にあたる北条朝時の猶子となり、
輔時の息子通俊は、朝時の娘を妻としている。
姫前が産んだ両家の子どもたちは、
姫前の没後もつながりを保ちつづけたのである。
〔参考〕
『新訂増補 国史大系 32 吾妻鏡前編』(国史大系刊行会ほか、1932年)
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2 自承元元年至嘉禄2年』(朝日新聞社、2014年)
高橋秀樹編『新訂吾妻鏡 4 頼朝将軍記4 頼家将軍記 建久3年(1192)~建仁3年(1203)』(和泉書院、2020年)
安田元久『北条義時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1961年)
森幸夫『北条重時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2009年)
岩田慎平『北条義時―鎌倉殿を輔佐した二代目執権―』(中公新書、2021年)
山本みなみ『史伝 北条義時―武家政権を確立した権力者の実像―』(小学館、2021年)
近藤成一『執権 北条義時〈知的生きかた文庫〉』(三笠書房、2022年)
田端泰子「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」(『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、1998年、初出1996年)
石策竜喜「鎌倉武士の婚姻形態についての一試論―男女の出会いの場としての将軍御所の役割を中心として―」(義江彰夫編『古代中世の社会変動と宗教』吉川弘文館、2006年)
小野翠「鎌倉将軍家の女房について―源家将軍期を中心に―」(『紫苑』6、2008年)
鎌倉幕府御家人比企朝宗の娘。
はじめ幕府の女房として将軍源頼朝に仕え、
頼朝にことさら気に入られて、「当時権威無双の女房」(『吾妻鏡』)といわれた。
「容顔はなはだ美麗と云々」(同前)とされている。
「姫前〈ひめのまえ〉」は、この女房時代の呼び名である。
そのうちに北条義時に見初められ、
一両年にわたって散々文でもって言い寄られた。
姫前は一向に聞く耳をもたなかったが、
頼朝の聞き及ぶところとなり、
離別しない旨の起請文を義時に書かせたうえで、嫁ぐことを命じられ、
姫前は義時に起請文を出させて、
建久3年(1192)9月25日、正妻として義時の邸宅に入った。
義時30歳。
姫前は20歳前くらいだったろうか。
わざわざ起請文を出させたのは、将来に不安があったからかもしれない。
この婚姻には、
幕府の実力者である北条家と比企家の融和という思惑も、
頼朝や両家の周辺にあったとされる。
ふたりの間には、
長男朝時、次男重時、長女竹殿が生まれた。
しかし、
姫前は北条家と比企家の架け橋となれなかった。
父朝宗の義兄弟比企能員が、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるい、
夫の父北条時政と対立したのである。
建仁3年(1203)9月、時政らは能員を謀殺、比企一族を滅ぼした。
義時は、反逆者の一族である姫前を離縁した。
ただし、
ふたりの離縁を、正治2年(1200)5月以前とする説もある。
この月に、義時の側妻が義時の本邸で出産し、
なおかつそれが、大々的に扱われているためである。
とすると、離縁の意味合いも、おのずと変わってこよう。
ただ、いずれにしても、
義時が姫前に言い寄って、結果的に破ることとなる起請文を出した話を、
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』が、なぜわざわざ記しているのかは、よくわからない。
そののち、姫前は上洛し、
ほどなく源具親の妻となった。
この村上源氏の傍流は、高位高官こそ望めなかったが、
和歌に秀でた一族で、
具親自身も和歌所の寄人に列し、
その妹には、歌人として著名な後鳥羽院宮内卿がいる。
離縁翌年の元久元年(1204)には、
具親との間に、輔通を産んだ。
建永2年(1207)3月にも、姫前は出産したが、胞衣がなかなか下りなかった。
胞衣(えな)とは胎盤等のことで、
胎児の出産後にそれらを娩出する後産が、思わしくなかったのである。
姫前の容態は重篤で、ついにはたびたび意識を失うに至った。
3月28日には、門前まで藤原定家の見舞いを受けたが、
翌29日、逝去した。
30代前半だったろうか。
具親とのあいだの長男源輔通は、
嘉禄2年(1226)11月、幕府の推挙により侍従に任じられ、
またその弟の輔時も、姫前の子とすると、
彼はのち、異父兄にあたる北条朝時の猶子となり、
輔時の息子通俊は、朝時の娘を妻としている。
姫前が産んだ両家の子どもたちは、
姫前の没後もつながりを保ちつづけたのである。
〔参考〕
『新訂増補 国史大系 32 吾妻鏡前編』(国史大系刊行会ほか、1932年)
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2 自承元元年至嘉禄2年』(朝日新聞社、2014年)
高橋秀樹編『新訂吾妻鏡 4 頼朝将軍記4 頼家将軍記 建久3年(1192)~建仁3年(1203)』(和泉書院、2020年)
安田元久『北条義時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1961年)
森幸夫『北条重時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2009年)
岩田慎平『北条義時―鎌倉殿を輔佐した二代目執権―』(中公新書、2021年)
山本みなみ『史伝 北条義時―武家政権を確立した権力者の実像―』(小学館、2021年)
近藤成一『執権 北条義時〈知的生きかた文庫〉』(三笠書房、2022年)
田端泰子「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」(『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、1998年、初出1996年)
石策竜喜「鎌倉武士の婚姻形態についての一試論―男女の出会いの場としての将軍御所の役割を中心として―」(義江彰夫編『古代中世の社会変動と宗教』吉川弘文館、2006年)
小野翠「鎌倉将軍家の女房について―源家将軍期を中心に―」(『紫苑』6、2008年)
《病死》 《1424年》 《8月》 《28日》 《享年不明》
内裏女房。
藤原氏の一流高倉家の出身かとも推測されているが、出自は未詳。
当初は、伏見宮栄仁親王に仕えてその寵愛を得たらしいが、
のち、内裏に出仕して後小松・称光両天皇に掌侍(内侍司の三等官)として仕え、
たびたび参内する北山殿足利義満にも愛された。
栄仁の子貞成親王には、「吾が継母」のひとりとされている(『看聞日記』)。
応永初年ごろには、勾当内侍(掌侍の第一﨟)になっていたとされ、
応永22年(1415)に正五位下、その翌々年には従四位下に昇っている(「叙位除目女叙位文書」、『兼宣公記』ほか)。
「能子」の名は、これらの叙位にあたって付けられたものだろう。
「能」は父の名の一字であろうか。
能子はその立場上、諸方の事情に通じることから、
伏見宮家と内裏・仙洞・室町殿との橋渡しをつとめた。
郊外に逼塞する伏見宮家にとって、その間の調整にあたった能子の功績は大きい。
応永25年(1418)7月、伏見宮家を巻き込んで起こった内裏女房新内侍の密通疑惑事件は、
その局親(女房の擬制的な親)である能子の身にも及んだ。
称光天皇の怒りを受けた能子は、勾当内侍を更迭されそうになったが、
室町殿足利義持のとりなしでどうにか収まった。
事件の背景には、
皇統をめぐる後光厳流(後小松・称光)から崇光流(伏見宮家)への敵愾心があったとされる。
応永27年(1420)3月上旬、能子は体調を崩した。
はやり病であったらしい。
能子は勾当内侍の座などを、仙洞女房の姪右衛門督局に譲ることを望み、
後小松上皇と室町殿義持より安堵を得た。
3月16日、病身の能子は典侍(内侍司の二等官)に叙され、即日これを辞して落髪した。
また、能子は伏見宮家から、一期分(一代限り)として播磨国比地御祈保(現・兵庫県宍粟市)を与えられていたが、
それを弟の円光院尭範に譲与することを、本所の貞成親王に願い出た。
貞成は、面識のない尭範に所領がわたることに難色を示したが、
翌4月、能子のこれまでの奉公に報いて、尭範一期に限ってこれを許した。
ただ、このころ能子の病気は本復している。
その後、能子は宮仕えに復さず、旧里への籠居を続けた。
能子の不遇は続く。
応永29年(1422)6月、姪の右衛門督局が、ライバルの仙洞女房別当局(東坊城茂子)に勾当内侍の座を逐われた。
自身の籠居と姪の落魄を、貞成親王は「老後の恥辱もっともふびん」と憂い、
故北山殿(足利義満)の御時、寵愛を蒙り栄幸にあう。
暫時思い出づるに夢のごとし。天上五衰なげかるるものか。(『看聞日記』)
と述懐を続けている。
応永31年(1424)6月ごろ、能子は再び病を得て、8月、容態を悪化させた。
8月8日、伏見宮家の女房東御方が見舞いに訪れると、「存命不定」の状態だったという。
18日には同じく宮家女房の廊御方が見舞い、「言語分明に昔物語に及」んだが、
食欲はないようで、何もものを口にしなかった(『看聞日記』)。
28日、他界。
貞成より年長とすれば、60歳前後だったろうか。
姪右衛門督局への相続は後小松上皇に改めて認められたが、
勅勘は解けぬまま、不遇のうちの死去であった。
貞成が、天人五衰(天人の死に臨んで現れるという五つの兆し)になぞらえたのも、
往時の栄華からの凋落ぶりを思えば、無理なかろうか。
ただし、
その「栄幸」は男性権力者の「寵愛」に依り、
その零落は、天人のごとき麗しさの“衰え”に例えられた。
おばと同じく籠居していた右衛門督局は、ほどなく仙洞への帰参を許された。
所領を譲り受けた弟の尭範は、翌32年(1425)10月、姉を追うように病没した。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』(宮内庁書陵部、2002年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』(宮内庁書陵部、2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』(宮内庁書陵部、2006年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
村井章介「『看聞日記』人名考証三題」(『日本歴史』882、2021年)
東京大学史料編纂所データベース
内裏女房。
藤原氏の一流高倉家の出身かとも推測されているが、出自は未詳。
当初は、伏見宮栄仁親王に仕えてその寵愛を得たらしいが、
のち、内裏に出仕して後小松・称光両天皇に掌侍(内侍司の三等官)として仕え、
たびたび参内する北山殿足利義満にも愛された。
栄仁の子貞成親王には、「吾が継母」のひとりとされている(『看聞日記』)。
応永初年ごろには、勾当内侍(掌侍の第一﨟)になっていたとされ、
応永22年(1415)に正五位下、その翌々年には従四位下に昇っている(「叙位除目女叙位文書」、『兼宣公記』ほか)。
「能子」の名は、これらの叙位にあたって付けられたものだろう。
「能」は父の名の一字であろうか。
能子はその立場上、諸方の事情に通じることから、
伏見宮家と内裏・仙洞・室町殿との橋渡しをつとめた。
郊外に逼塞する伏見宮家にとって、その間の調整にあたった能子の功績は大きい。
応永25年(1418)7月、伏見宮家を巻き込んで起こった内裏女房新内侍の密通疑惑事件は、
その局親(女房の擬制的な親)である能子の身にも及んだ。
称光天皇の怒りを受けた能子は、勾当内侍を更迭されそうになったが、
室町殿足利義持のとりなしでどうにか収まった。
事件の背景には、
皇統をめぐる後光厳流(後小松・称光)から崇光流(伏見宮家)への敵愾心があったとされる。
応永27年(1420)3月上旬、能子は体調を崩した。
はやり病であったらしい。
能子は勾当内侍の座などを、仙洞女房の姪右衛門督局に譲ることを望み、
後小松上皇と室町殿義持より安堵を得た。
3月16日、病身の能子は典侍(内侍司の二等官)に叙され、即日これを辞して落髪した。
また、能子は伏見宮家から、一期分(一代限り)として播磨国比地御祈保(現・兵庫県宍粟市)を与えられていたが、
それを弟の円光院尭範に譲与することを、本所の貞成親王に願い出た。
貞成は、面識のない尭範に所領がわたることに難色を示したが、
翌4月、能子のこれまでの奉公に報いて、尭範一期に限ってこれを許した。
ただ、このころ能子の病気は本復している。
その後、能子は宮仕えに復さず、旧里への籠居を続けた。
能子の不遇は続く。
応永29年(1422)6月、姪の右衛門督局が、ライバルの仙洞女房別当局(東坊城茂子)に勾当内侍の座を逐われた。
自身の籠居と姪の落魄を、貞成親王は「老後の恥辱もっともふびん」と憂い、
故北山殿(足利義満)の御時、寵愛を蒙り栄幸にあう。
暫時思い出づるに夢のごとし。天上五衰なげかるるものか。(『看聞日記』)
と述懐を続けている。
応永31年(1424)6月ごろ、能子は再び病を得て、8月、容態を悪化させた。
8月8日、伏見宮家の女房東御方が見舞いに訪れると、「存命不定」の状態だったという。
18日には同じく宮家女房の廊御方が見舞い、「言語分明に昔物語に及」んだが、
食欲はないようで、何もものを口にしなかった(『看聞日記』)。
28日、他界。
貞成より年長とすれば、60歳前後だったろうか。
姪右衛門督局への相続は後小松上皇に改めて認められたが、
勅勘は解けぬまま、不遇のうちの死去であった。
貞成が、天人五衰(天人の死に臨んで現れるという五つの兆し)になぞらえたのも、
往時の栄華からの凋落ぶりを思えば、無理なかろうか。
ただし、
その「栄幸」は男性権力者の「寵愛」に依り、
その零落は、天人のごとき麗しさの“衰え”に例えられた。
おばと同じく籠居していた右衛門督局は、ほどなく仙洞への帰参を許された。
所領を譲り受けた弟の尭範は、翌32年(1425)10月、姉を追うように病没した。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』(宮内庁書陵部、2002年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』(宮内庁書陵部、2004年)
『図書寮叢刊 看聞日記 3』(宮内庁書陵部、2006年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
村井章介「『看聞日記』人名考証三題」(『日本歴史』882、2021年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1441年》 《5月》 《27日》 《享年79歳》
正親町三条実継の娘。
伏見宮家の女房。
はじめは「対御方」と呼ばれ、のち「東御方」と改められた。
栄仁親王に仕えて、恵舜ほか4人の王子を産んだが、
いずれも母に先立ち、若いうちに喪っている。
応永23年(1416)、栄仁親王が没したのちも、宮家にとどまり、
9歳下の継子貞成王に仕えた。
貞成の長女あごごには「養母」のごとく接したという。
室町殿足利義教の時代になると、
正親町三条家の当主で、東御方には兄弟の曾孫にあたる実雅・尹子兄妹が、
義教の寵愛を受けたことで、
東御方もしばしば室町殿に祗候し、義教と貞成の仲介もなした。
永享7年(1435)に、義教が洛中に伏見宮御所を用意したのも、
東御方が、「狭小」で「荒廃」している当時の伏見御所を脱して、
「みなそろって洛中での生活を望んでいる」と、義教にアピールしたためだったという。
ただし、貞成は、
「東御方は耄碌してでたらめなことを言っているのではないか」
と半信半疑でこれを聞いている。
永享9年(1437)2月9日、
義教は正親町三条亭に渡御して、実雅のもてなしを受けた。
会所に飾られた見事な唐絵を見た義教は、
傍らの東御方に感想を求めたが、
軽口のつもりだったのだろう、東御方は悪し様なことを言った。
しかし、相手は恐怖政治の元凶たる義教である。
たちまち激昂した義教は腰刀を抜き、峰打ちで東御方を打擲し、
「二度と目の前に現れるな」と追い出した。
東御方は、伏見の禅照庵に逃げ下った。
このとき75歳。
気分を害した義教は、その後の三条亭での予定を切り上げ、
さっさと室町殿に帰ってしまったという。
「薄氷をふむの儀、恐怖千万」(『看聞日記』)
翌日、義教の妻正親町三条尹子や、貞成の妻庭田幸子のとりなしで、
東御方は、ひきつづき伏見宮家へ祗候することは赦されたものの、
その後はすっかり局に閉じこもり、蟄居同前の生活を送った。
事件から4年後の嘉吉元年(1441)5月下旬、
東御方は健康を害した。
中風と診断された。
すでに容態は悪かったらしく、
25日、万一のことに備えて、
伏見宮御所を退いて、伏見の禅照庵に下った。
局女の宰相だけが供をしたという。
そして、
27日申の刻(夕方4時頃)、ひっそりと息を引き取った。
享年79。
没後のことは、生前の約束により蔵光庵の無相中訓がとりしきり、
翌28日、同庵に葬られた。
ただ、このとき、
東御方が「養母」のごとくかわいがったあごごこと性恵が危篤であり、
父貞成はおろおろするばかりで、
継母の他界については、
「存内といえども、年来の余波、旧労奉公、かたがた哀傷少なからず」(『看聞日記』)
と記すばかりである。
また、
東御方を打ちすえた義教が、「犬死」を果たすのは、
それからひと月のちのこと。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』(宮内庁書陵部、2012年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年)
植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺―『看聞日記』人名比定の再検討―」(『書陵部紀要』66、2014年)
正親町三条実継の娘。
伏見宮家の女房。
はじめは「対御方」と呼ばれ、のち「東御方」と改められた。
栄仁親王に仕えて、恵舜ほか4人の王子を産んだが、
いずれも母に先立ち、若いうちに喪っている。
応永23年(1416)、栄仁親王が没したのちも、宮家にとどまり、
9歳下の継子貞成王に仕えた。
貞成の長女あごごには「養母」のごとく接したという。
室町殿足利義教の時代になると、
正親町三条家の当主で、東御方には兄弟の曾孫にあたる実雅・尹子兄妹が、
義教の寵愛を受けたことで、
東御方もしばしば室町殿に祗候し、義教と貞成の仲介もなした。
永享7年(1435)に、義教が洛中に伏見宮御所を用意したのも、
東御方が、「狭小」で「荒廃」している当時の伏見御所を脱して、
「みなそろって洛中での生活を望んでいる」と、義教にアピールしたためだったという。
ただし、貞成は、
「東御方は耄碌してでたらめなことを言っているのではないか」
と半信半疑でこれを聞いている。
永享9年(1437)2月9日、
義教は正親町三条亭に渡御して、実雅のもてなしを受けた。
会所に飾られた見事な唐絵を見た義教は、
傍らの東御方に感想を求めたが、
軽口のつもりだったのだろう、東御方は悪し様なことを言った。
しかし、相手は恐怖政治の元凶たる義教である。
たちまち激昂した義教は腰刀を抜き、峰打ちで東御方を打擲し、
「二度と目の前に現れるな」と追い出した。
東御方は、伏見の禅照庵に逃げ下った。
このとき75歳。
気分を害した義教は、その後の三条亭での予定を切り上げ、
さっさと室町殿に帰ってしまったという。
「薄氷をふむの儀、恐怖千万」(『看聞日記』)
翌日、義教の妻正親町三条尹子や、貞成の妻庭田幸子のとりなしで、
東御方は、ひきつづき伏見宮家へ祗候することは赦されたものの、
その後はすっかり局に閉じこもり、蟄居同前の生活を送った。
事件から4年後の嘉吉元年(1441)5月下旬、
東御方は健康を害した。
中風と診断された。
すでに容態は悪かったらしく、
25日、万一のことに備えて、
伏見宮御所を退いて、伏見の禅照庵に下った。
局女の宰相だけが供をしたという。
そして、
27日申の刻(夕方4時頃)、ひっそりと息を引き取った。
享年79。
没後のことは、生前の約束により蔵光庵の無相中訓がとりしきり、
翌28日、同庵に葬られた。
ただ、このとき、
東御方が「養母」のごとくかわいがったあごごこと性恵が危篤であり、
父貞成はおろおろするばかりで、
継母の他界については、
「存内といえども、年来の余波、旧労奉公、かたがた哀傷少なからず」(『看聞日記』)
と記すばかりである。
また、
東御方を打ちすえた義教が、「犬死」を果たすのは、
それからひと月のちのこと。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』(宮内庁書陵部、2012年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年)
植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺―『看聞日記』人名比定の再検討―」(『書陵部紀要』66、2014年)
《病死》 《1447年》 《7月》 《12日》 《享年15歳》
権中納言広橋兼郷の三男。
祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。
「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。
中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。
文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。
6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。
同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。
4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。
わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな
阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。
これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
過分のほどはなかなか申し上げようもない。
とくに御製をいただいたことは、格別である。
阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。
もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
権中納言広橋兼郷の三男。
祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。
「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。
中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。
文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。
6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。
同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。
4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。
わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな
阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。
これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
過分のほどはなかなか申し上げようもない。
とくに御製をいただいたことは、格別である。
阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。
もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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