死に様データベース
《病死》 《1230年》 《8月》 《4日》 《享年25歳》
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
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《病死》 《1496年》 《5月》 《20日》 《享年57歳》
従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。
かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
「日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。
長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。
夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。
明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。
富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)
およそ将軍家の御名残たるか。
殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)
「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。
将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。
垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼、
妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)
(御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)
富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。
享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。
天下触穢。
貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。
いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。
小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。
6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。
富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。
同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、
朝露はみし夕顔の名残かな
あはれを問はばなでしこの宿
と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。
6月26日、中陰結願。
7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。
〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。
かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
「日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。
長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。
夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。
明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。
富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)
およそ将軍家の御名残たるか。
殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)
「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。
将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。
垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼、
妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)
(御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)
富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。
享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。
天下触穢。
貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。
いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。
小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。
6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。
富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。
同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、
朝露はみし夕顔の名残かな
あはれを問はばなでしこの宿
と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。
6月26日、中陰結願。
7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。
〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
《病死》 《1213年》 《6月》 《27日》 《享年不明》
僧円融の娘。
母方のおじ藤原(葉室)宗行の養女となり、
平頼盛の孫左兵衛佐保教と結婚した。
保教は、従兄の藤原(持明院)保家の猶子となっており、
一時期、藤原姓を名乗っている。
建暦3年(1213)6月27日、
保教の妻は、難産のまま死去。
遺体は蓮台に乗せて、郊外に送られたという。
29日、保教の友人藤原定家が、弔問の使者を送ったところ、
保教は、暇を願い出て蟄居していた。
それを聞いた定家の感想、
「近代の儀に非ず。
すこぶる人倫の法あり。
もっとも穏便というべし。」(『明月記』)
夫婦仲も穏やかだったのだろうか。
8年後、
夫保教は、承久の乱に加担したすえに自害し、
養父宗行も、鎌倉への護送中に斬刑に処される。
それを知らずに世を去ったのは、せめて幸運だったというべきか。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞社、2014年)
東京大学史料編纂所データベース
僧円融の娘。
母方のおじ藤原(葉室)宗行の養女となり、
平頼盛の孫左兵衛佐保教と結婚した。
保教は、従兄の藤原(持明院)保家の猶子となっており、
一時期、藤原姓を名乗っている。
建暦3年(1213)6月27日、
保教の妻は、難産のまま死去。
遺体は蓮台に乗せて、郊外に送られたという。
29日、保教の友人藤原定家が、弔問の使者を送ったところ、
保教は、暇を願い出て蟄居していた。
それを聞いた定家の感想、
「近代の儀に非ず。
すこぶる人倫の法あり。
もっとも穏便というべし。」(『明月記』)
夫婦仲も穏やかだったのだろうか。
8年後、
夫保教は、承久の乱に加担したすえに自害し、
養父宗行も、鎌倉への護送中に斬刑に処される。
それを知らずに世を去ったのは、せめて幸運だったというべきか。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞社、2014年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1207年》 《3月》 《29日》 《享年不明》
鎌倉幕府御家人比企朝宗の娘。
はじめ幕府の女房として将軍源頼朝に仕え、
頼朝にことさら気に入られて、「当時権威無双の女房」(『吾妻鏡』)といわれた。
「容顔はなはだ美麗と云々」(同前)とされている。
「姫前〈ひめのまえ〉」は、この女房時代の呼び名である。
そのうちに北条義時に見初められ、
一両年にわたって散々文でもって言い寄られた。
姫前は一向に聞く耳をもたなかったが、
頼朝の聞き及ぶところとなり、
離別しない旨の起請文を義時に書かせたうえで、嫁ぐことを命じられ、
姫前は義時に起請文を出させて、
建久3年(1192)9月25日、正妻として義時の邸宅に入った。
義時30歳。
姫前は20歳前くらいだったろうか。
わざわざ起請文を出させたのは、将来に不安があったからかもしれない。
この婚姻には、
幕府の実力者である北条家と比企家の融和という思惑も、
頼朝や両家の周辺にあったとされる。
ふたりの間には、
長男朝時、次男重時、長女竹殿が生まれた。
しかし、
姫前は北条家と比企家の架け橋となれなかった。
父朝宗の義兄弟比企能員が、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるい、
夫の父北条時政と対立したのである。
建仁3年(1203)9月、時政らは能員を謀殺、比企一族を滅ぼした。
義時は、反逆者の一族である姫前を離縁した。
ただし、
ふたりの離縁を、正治2年(1200)5月以前とする説もある。
この月に、義時の側妻が義時の本邸で出産し、
なおかつそれが、大々的に扱われているためである。
とすると、離縁の意味合いも、おのずと変わってこよう。
ただ、いずれにしても、
義時が姫前に言い寄って、結果的に破ることとなる起請文を出した話を、
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』が、なぜわざわざ記しているのかは、よくわからない。
そののち、姫前は上洛し、
ほどなく源具親の妻となった。
この村上源氏の傍流は、高位高官こそ望めなかったが、
和歌に秀でた一族で、
具親自身も和歌所の寄人に列し、
その妹には、歌人として著名な後鳥羽院宮内卿がいる。
離縁翌年の元久元年(1204)には、
具親との間に、輔通を産んだ。
建永2年(1207)3月にも、姫前は出産したが、胞衣がなかなか下りなかった。
胞衣(えな)とは胎盤等のことで、
胎児の出産後にそれらを娩出する後産が、思わしくなかったのである。
姫前の容態は重篤で、ついにはたびたび意識を失うに至った。
3月28日には、門前まで藤原定家の見舞いを受けたが、
翌29日、逝去した。
30代前半だったろうか。
具親とのあいだの長男源輔通は、
嘉禄2年(1226)11月、幕府の推挙により侍従に任じられ、
またその弟の輔時も、姫前の子とすると、
彼はのち、異父兄にあたる北条朝時の猶子となり、
輔時の息子通俊は、朝時の娘を妻としている。
姫前が産んだ両家の子どもたちは、
姫前の没後もつながりを保ちつづけたのである。
〔参考〕
『新訂増補 国史大系 32 吾妻鏡前編』(国史大系刊行会ほか、1932年)
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2 自承元元年至嘉禄2年』(朝日新聞社、2014年)
高橋秀樹編『新訂吾妻鏡 4 頼朝将軍記4 頼家将軍記 建久3年(1192)~建仁3年(1203)』(和泉書院、2020年)
安田元久『北条義時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1961年)
森幸夫『北条重時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2009年)
岩田慎平『北条義時―鎌倉殿を輔佐した二代目執権―』(中公新書、2021年)
山本みなみ『史伝 北条義時―武家政権を確立した権力者の実像―』(小学館、2021年)
近藤成一『執権 北条義時〈知的生きかた文庫〉』(三笠書房、2022年)
田端泰子「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」(『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、1998年、初出1996年)
石策竜喜「鎌倉武士の婚姻形態についての一試論―男女の出会いの場としての将軍御所の役割を中心として―」(義江彰夫編『古代中世の社会変動と宗教』吉川弘文館、2006年)
小野翠「鎌倉将軍家の女房について―源家将軍期を中心に―」(『紫苑』6、2008年)
鎌倉幕府御家人比企朝宗の娘。
はじめ幕府の女房として将軍源頼朝に仕え、
頼朝にことさら気に入られて、「当時権威無双の女房」(『吾妻鏡』)といわれた。
「容顔はなはだ美麗と云々」(同前)とされている。
「姫前〈ひめのまえ〉」は、この女房時代の呼び名である。
そのうちに北条義時に見初められ、
一両年にわたって散々文でもって言い寄られた。
姫前は一向に聞く耳をもたなかったが、
頼朝の聞き及ぶところとなり、
離別しない旨の起請文を義時に書かせたうえで、嫁ぐことを命じられ、
姫前は義時に起請文を出させて、
建久3年(1192)9月25日、正妻として義時の邸宅に入った。
義時30歳。
姫前は20歳前くらいだったろうか。
わざわざ起請文を出させたのは、将来に不安があったからかもしれない。
この婚姻には、
幕府の実力者である北条家と比企家の融和という思惑も、
頼朝や両家の周辺にあったとされる。
ふたりの間には、
長男朝時、次男重時、長女竹殿が生まれた。
しかし、
姫前は北条家と比企家の架け橋となれなかった。
父朝宗の義兄弟比企能員が、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるい、
夫の父北条時政と対立したのである。
建仁3年(1203)9月、時政らは能員を謀殺、比企一族を滅ぼした。
義時は、反逆者の一族である姫前を離縁した。
ただし、
ふたりの離縁を、正治2年(1200)5月以前とする説もある。
この月に、義時の側妻が義時の本邸で出産し、
なおかつそれが、大々的に扱われているためである。
とすると、離縁の意味合いも、おのずと変わってこよう。
ただ、いずれにしても、
義時が姫前に言い寄って、結果的に破ることとなる起請文を出した話を、
鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』が、なぜわざわざ記しているのかは、よくわからない。
そののち、姫前は上洛し、
ほどなく源具親の妻となった。
この村上源氏の傍流は、高位高官こそ望めなかったが、
和歌に秀でた一族で、
具親自身も和歌所の寄人に列し、
その妹には、歌人として著名な後鳥羽院宮内卿がいる。
離縁翌年の元久元年(1204)には、
具親との間に、輔通を産んだ。
建永2年(1207)3月にも、姫前は出産したが、胞衣がなかなか下りなかった。
胞衣(えな)とは胎盤等のことで、
胎児の出産後にそれらを娩出する後産が、思わしくなかったのである。
姫前の容態は重篤で、ついにはたびたび意識を失うに至った。
3月28日には、門前まで藤原定家の見舞いを受けたが、
翌29日、逝去した。
30代前半だったろうか。
具親とのあいだの長男源輔通は、
嘉禄2年(1226)11月、幕府の推挙により侍従に任じられ、
またその弟の輔時も、姫前の子とすると、
彼はのち、異父兄にあたる北条朝時の猶子となり、
輔時の息子通俊は、朝時の娘を妻としている。
姫前が産んだ両家の子どもたちは、
姫前の没後もつながりを保ちつづけたのである。
〔参考〕
『新訂増補 国史大系 32 吾妻鏡前編』(国史大系刊行会ほか、1932年)
『冷泉家時雨亭叢書 別巻3 翻刻 明月記 2 自承元元年至嘉禄2年』(朝日新聞社、2014年)
高橋秀樹編『新訂吾妻鏡 4 頼朝将軍記4 頼家将軍記 建久3年(1192)~建仁3年(1203)』(和泉書院、2020年)
安田元久『北条義時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1961年)
森幸夫『北条重時〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2009年)
岩田慎平『北条義時―鎌倉殿を輔佐した二代目執権―』(中公新書、2021年)
山本みなみ『史伝 北条義時―武家政権を確立した権力者の実像―』(小学館、2021年)
近藤成一『執権 北条義時〈知的生きかた文庫〉』(三笠書房、2022年)
田端泰子「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」(『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、1998年、初出1996年)
石策竜喜「鎌倉武士の婚姻形態についての一試論―男女の出会いの場としての将軍御所の役割を中心として―」(義江彰夫編『古代中世の社会変動と宗教』吉川弘文館、2006年)
小野翠「鎌倉将軍家の女房について―源家将軍期を中心に―」(『紫苑』6、2008年)
《病死》 《1441年》 《5月》 《27日》 《享年79歳》
正親町三条実継の娘。
伏見宮家の女房。
はじめは「対御方」と呼ばれ、のち「東御方」と改められた。
栄仁親王に仕えて、恵舜ほか4人の王子を産んだが、
いずれも母に先立ち、若いうちに喪っている。
応永23年(1416)、栄仁親王が没したのちも、宮家にとどまり、
9歳下の継子貞成王に仕えた。
貞成の長女あごごには「養母」のごとく接したという。
室町殿足利義教の時代になると、
正親町三条家の当主で、東御方には兄弟の曾孫にあたる実雅・尹子兄妹が、
義教の寵愛を受けたことで、
東御方もしばしば室町殿に祗候し、義教と貞成の仲介もなした。
永享7年(1435)に、義教が洛中に伏見宮御所を用意したのも、
東御方が、「狭小」で「荒廃」している当時の伏見御所を脱して、
「みなそろって洛中での生活を望んでいる」と、義教にアピールしたためだったという。
ただし、貞成は、
「東御方は耄碌してでたらめなことを言っているのではないか」
と半信半疑でこれを聞いている。
永享9年(1437)2月9日、
義教は正親町三条亭に渡御して、実雅のもてなしを受けた。
会所に飾られた見事な唐絵を見た義教は、
傍らの東御方に感想を求めたが、
軽口のつもりだったのだろう、東御方は悪し様なことを言った。
しかし、相手は恐怖政治の元凶たる義教である。
たちまち激昂した義教は腰刀を抜き、峰打ちで東御方を打擲し、
「二度と目の前に現れるな」と追い出した。
東御方は、伏見の禅照庵に逃げ下った。
このとき75歳。
気分を害した義教は、その後の三条亭での予定を切り上げ、
さっさと室町殿に帰ってしまったという。
「薄氷をふむの儀、恐怖千万」(『看聞日記』)
翌日、義教の妻正親町三条尹子や、貞成の妻庭田幸子のとりなしで、
東御方は、ひきつづき伏見宮家へ祗候することは赦されたものの、
その後はすっかり局に閉じこもり、蟄居同前の生活を送った。
事件から4年後の嘉吉元年(1441)5月下旬、
東御方は健康を害した。
中風と診断された。
すでに容態は悪かったらしく、
25日、万一のことに備えて、
伏見宮御所を退いて、伏見の禅照庵に下った。
局女の宰相だけが供をしたという。
そして、
27日申の刻(夕方4時頃)、ひっそりと息を引き取った。
享年79。
没後のことは、生前の約束により蔵光庵の無相中訓がとりしきり、
翌28日、同庵に葬られた。
ただ、このとき、
東御方が「養母」のごとくかわいがったあごごこと性恵が危篤であり、
父貞成はおろおろするばかりで、
継母の他界については、
「存内といえども、年来の余波、旧労奉公、かたがた哀傷少なからず」(『看聞日記』)
と記すばかりである。
また、
東御方を打ちすえた義教が、「犬死」を果たすのは、
それからひと月のちのこと。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』(宮内庁書陵部、2012年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年)
植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺―『看聞日記』人名比定の再検討―」(『書陵部紀要』66、2014年)
正親町三条実継の娘。
伏見宮家の女房。
はじめは「対御方」と呼ばれ、のち「東御方」と改められた。
栄仁親王に仕えて、恵舜ほか4人の王子を産んだが、
いずれも母に先立ち、若いうちに喪っている。
応永23年(1416)、栄仁親王が没したのちも、宮家にとどまり、
9歳下の継子貞成王に仕えた。
貞成の長女あごごには「養母」のごとく接したという。
室町殿足利義教の時代になると、
正親町三条家の当主で、東御方には兄弟の曾孫にあたる実雅・尹子兄妹が、
義教の寵愛を受けたことで、
東御方もしばしば室町殿に祗候し、義教と貞成の仲介もなした。
永享7年(1435)に、義教が洛中に伏見宮御所を用意したのも、
東御方が、「狭小」で「荒廃」している当時の伏見御所を脱して、
「みなそろって洛中での生活を望んでいる」と、義教にアピールしたためだったという。
ただし、貞成は、
「東御方は耄碌してでたらめなことを言っているのではないか」
と半信半疑でこれを聞いている。
永享9年(1437)2月9日、
義教は正親町三条亭に渡御して、実雅のもてなしを受けた。
会所に飾られた見事な唐絵を見た義教は、
傍らの東御方に感想を求めたが、
軽口のつもりだったのだろう、東御方は悪し様なことを言った。
しかし、相手は恐怖政治の元凶たる義教である。
たちまち激昂した義教は腰刀を抜き、峰打ちで東御方を打擲し、
「二度と目の前に現れるな」と追い出した。
東御方は、伏見の禅照庵に逃げ下った。
このとき75歳。
気分を害した義教は、その後の三条亭での予定を切り上げ、
さっさと室町殿に帰ってしまったという。
「薄氷をふむの儀、恐怖千万」(『看聞日記』)
翌日、義教の妻正親町三条尹子や、貞成の妻庭田幸子のとりなしで、
東御方は、ひきつづき伏見宮家へ祗候することは赦されたものの、
その後はすっかり局に閉じこもり、蟄居同前の生活を送った。
事件から4年後の嘉吉元年(1441)5月下旬、
東御方は健康を害した。
中風と診断された。
すでに容態は悪かったらしく、
25日、万一のことに備えて、
伏見宮御所を退いて、伏見の禅照庵に下った。
局女の宰相だけが供をしたという。
そして、
27日申の刻(夕方4時頃)、ひっそりと息を引き取った。
享年79。
没後のことは、生前の約束により蔵光庵の無相中訓がとりしきり、
翌28日、同庵に葬られた。
ただ、このとき、
東御方が「養母」のごとくかわいがったあごごこと性恵が危篤であり、
父貞成はおろおろするばかりで、
継母の他界については、
「存内といえども、年来の余波、旧労奉公、かたがた哀傷少なからず」(『看聞日記』)
と記すばかりである。
また、
東御方を打ちすえた義教が、「犬死」を果たすのは、
それからひと月のちのこと。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』(宮内庁書陵部、2012年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年)
植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺―『看聞日記』人名比定の再検討―」(『書陵部紀要』66、2014年)
《病死》 《1447年》 《7月》 《12日》 《享年15歳》
権中納言広橋兼郷の三男。
祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。
「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。
中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。
文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。
6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。
同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。
4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。
わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな
阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。
これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
過分のほどはなかなか申し上げようもない。
とくに御製をいただいたことは、格別である。
阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。
もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
権中納言広橋兼郷の三男。
祖父広橋兼宣は、室町殿足利義持の信任を得てその手足となり、
ついには准大臣に昇るなど、京都政界で権勢を振るった。
父兼郷もその勢いを継いで、
一時は本宗家の日野家家督を襲うほどだったが、
将軍足利義教の勘気を蒙って失脚し、
文安3年(1446)4月、失意のうちにこの世を去った。
長兄春龍丸は父に先だって夭逝しており、
広橋家の命運は、
16歳の次兄綱光と14歳の阿婦丸の、若き兄弟の肩にかかっていたのである。
「大様のもの」(『建内記』)と評されるような、ぼんやりした性格の兄綱光と違い、
阿婦丸の性格は父兼郷に似ていたという。
才気煥発で抜け目がなく、人を圧するような面があったのだろうか。
人々は阿婦丸を怖れたという。
中年の後花園天皇はこの阿婦丸の才能を愛したようで、側近くに仕えさせた。
阿婦丸は連日のように内裏に祗候し、
兄の綱光も阿婦丸に、天皇への取り次ぎを求めている。
文安4年(1447)、
室町幕府政治の混乱と、おりしもの天候不順などで、
京都近郊では土一揆が頻発していた。
さらに「三日病」とよばれる咳病も流行し、社会は混迷の度を増していた。
6月半ば、綱光・阿婦丸兄弟もこれに罹った。
綱光はほどなく癒えたものの、阿婦丸はついに癒えず、
翌7月12日、わずか15歳で世を去った。
同日、同じく後花園天皇に近仕していた高倉永知も、18歳で死去している。
4か月後の11月16日、
後花園天皇は、典侍綱子(阿婦丸の伯母)の申し出もあって、
阿婦丸の詠歌を宸筆で書き留め、その末尾に次の御製を記した。
わかのうらに跡のみ残るもしほ草 かきあつめてもぬるゝ袖かな
阿婦丸亡きあとの悲しみのほどがしれようか。
これを聞いた兄綱光は、
「面目のいたりであり、
過分のほどはなかなか申し上げようもない。
とくに御製をいただいたことは、格別である。
阿婦丸も眉目のいたりと、さぞありがたく思ったことだろう。」(『綱光公記』)
と喜び、
「猶々殊勝々々、思出泪落袖々々々、」(同上)
と偲んでいる。
もし阿婦丸が長命であったら、
室町時代政治史はいかばかりか変わっていたろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 9』(岩波書店、1982年)
『史料纂集 師郷記 第4』(続群書類従完成会、1987年)
遠藤珠紀・須田牧子・田中奈保・桃崎有一郎「史料紹介 綱光公記―文安三年・四年暦記」(『東京大学史料編纂所研究紀要』20、2010年)
《病死》 《1476年》 《6月》 《15日》 《享年48歳》
西行の和歌、
ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
にもあるように、
中世の人々は、
15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。
前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。
日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、
祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、
日野家受難の時代であった。
勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、
やがて受難の時代は去り、
勝光は順調に昇進したばかりでなく、
妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、
さらに、娘が義尚の正室となり、
将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。
そればかりか、
応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、
足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふるった。
蓄財もすさまじく、
「和漢の重宝を山岳の如く集め置」(『長興宿祢記』)いた。
文明8年(1476)4月下旬、
勝光は「雑熱」(『親長卿記』『実隆公記』)に冒されていた。
原因は、「腫物癰」(『長興宿祢記』)だったらしい。
医師は大事ないと診断したが、容体は悪化の一途をたどったようで、
5月10日頃には、「難儀」(『親長卿記』)、「危急之体」(『実隆公記』)となり、
妹の富子が兄のもとに駆けつけた。
14日には、平癒のため陰陽師によって泰山府君祭が行われている。
この頃から、勝光は死への準備を着々と進めている。
往生のことや葬儀のことなどを、あれこれと差配し、
300貫という多額のお布施を準備している。
また、5月16日には、日野家ではじめて左大臣に任じられた。
日野家の家格では、本来左大臣に昇ることはできないが、
足利将軍家の執奏によって、はじめて実現したのである。
6月に入ると、病状は一時安定し、食欲も回復したようだが、
8日夕、医師竹田昭慶の処方した薬を服用したところ、
たちまち容体は一変した。
勝光は、
もし今回の病で命ながらえるようなことがあれば、竹田昭慶の子孫は医師をやめよ(『雅久宿祢記』)
と、周囲に言い散らしていたといい、
勝光の病状安定に慌てた昭慶が毒を盛った、との噂が流れた。
勝光の発言の真意はよくわからないが、
入念な往生の準備に水を差されることが、嫌だったのだろうか。
10日、「腫物」は病勢を増し、
ついに勝光は、目の前の人を認知することすらできなくなった。
11日には、視線を交わす程度のことはできたようだが、
14日に、義政・富子・義尚一家が見舞いに訪れたのを、理解していたかどうか。
かくして、6月15日未明、
知恩寺の僧4、5人が念仏を勧めるなか、
南枕で西を向いて横たわり、8歳の嫡男政資が水を供える前で、
勝光は息を引き取った。
享年48歳。
年来勝光は、15日に往生したいと願っていたという。
「不思議の事なり。」(『親長卿記』)
なお、供水は死後に行うことだが、
幼い政資が「死面」(『雅久宿祢記』)を怖がったため、
勝光が眠っているときに行ったのだという。
明け方、遺体は知恩寺に移され、
19日辰の刻(朝8時頃)、葬儀が行われて、
同寺法誉上人の沙汰により、千本歓喜寺に土葬された。
院号は、遺言により「唯称院」。
所領の分配はこれも遺言により、吉田兼倶に一任された。
朝儀の停滞を避けるため、
公家全般は、触穢としない旨が通達されたが、
当然ながら、日野一家の人々は触穢とされた。
ただし、日野家のうちでも柳原量光のみは、
父資綱が神事にかかわる関係から、触穢とされていない。
義政は、乙穢(穢れの及ぶ範囲に関する等級のひとつ)とされている。
大乗院尋尊は、
勝光が左大臣に任じられてから、30日に満たずに死んだのを、
「希有の神罰」(『大乗院寺社雑事記』)と酷評している。
敵の多い人生ではあっただろうけれど、
これはいささか言いがかりのような気がしなくもない。
〔参考文献〕
黒田智「弘法大師の十五夜―願われた死の日時―」 (藤巻和宏編『聖地と聖人の東西―起源はいかに語られるか―』勉誠出版 2011年)
『大日本史料』第8編之8 (東京大学出版会 1970年)
西行の和歌、
ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
にもあるように、
中世の人々は、
15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。
前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。
日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、
祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、
日野家受難の時代であった。
勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、
やがて受難の時代は去り、
勝光は順調に昇進したばかりでなく、
妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、
さらに、娘が義尚の正室となり、
将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。
そればかりか、
応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、
足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふるった。
蓄財もすさまじく、
「和漢の重宝を山岳の如く集め置」(『長興宿祢記』)いた。
文明8年(1476)4月下旬、
勝光は「雑熱」(『親長卿記』『実隆公記』)に冒されていた。
原因は、「腫物癰」(『長興宿祢記』)だったらしい。
医師は大事ないと診断したが、容体は悪化の一途をたどったようで、
5月10日頃には、「難儀」(『親長卿記』)、「危急之体」(『実隆公記』)となり、
妹の富子が兄のもとに駆けつけた。
14日には、平癒のため陰陽師によって泰山府君祭が行われている。
この頃から、勝光は死への準備を着々と進めている。
往生のことや葬儀のことなどを、あれこれと差配し、
300貫という多額のお布施を準備している。
また、5月16日には、日野家ではじめて左大臣に任じられた。
日野家の家格では、本来左大臣に昇ることはできないが、
足利将軍家の執奏によって、はじめて実現したのである。
6月に入ると、病状は一時安定し、食欲も回復したようだが、
8日夕、医師竹田昭慶の処方した薬を服用したところ、
たちまち容体は一変した。
勝光は、
もし今回の病で命ながらえるようなことがあれば、竹田昭慶の子孫は医師をやめよ(『雅久宿祢記』)
と、周囲に言い散らしていたといい、
勝光の病状安定に慌てた昭慶が毒を盛った、との噂が流れた。
勝光の発言の真意はよくわからないが、
入念な往生の準備に水を差されることが、嫌だったのだろうか。
10日、「腫物」は病勢を増し、
ついに勝光は、目の前の人を認知することすらできなくなった。
11日には、視線を交わす程度のことはできたようだが、
14日に、義政・富子・義尚一家が見舞いに訪れたのを、理解していたかどうか。
かくして、6月15日未明、
知恩寺の僧4、5人が念仏を勧めるなか、
南枕で西を向いて横たわり、8歳の嫡男政資が水を供える前で、
勝光は息を引き取った。
享年48歳。
年来勝光は、15日に往生したいと願っていたという。
「不思議の事なり。」(『親長卿記』)
なお、供水は死後に行うことだが、
幼い政資が「死面」(『雅久宿祢記』)を怖がったため、
勝光が眠っているときに行ったのだという。
明け方、遺体は知恩寺に移され、
19日辰の刻(朝8時頃)、葬儀が行われて、
同寺法誉上人の沙汰により、千本歓喜寺に土葬された。
院号は、遺言により「唯称院」。
所領の分配はこれも遺言により、吉田兼倶に一任された。
朝儀の停滞を避けるため、
公家全般は、触穢としない旨が通達されたが、
当然ながら、日野一家の人々は触穢とされた。
ただし、日野家のうちでも柳原量光のみは、
父資綱が神事にかかわる関係から、触穢とされていない。
義政は、乙穢(穢れの及ぶ範囲に関する等級のひとつ)とされている。
大乗院尋尊は、
勝光が左大臣に任じられてから、30日に満たずに死んだのを、
「希有の神罰」(『大乗院寺社雑事記』)と酷評している。
敵の多い人生ではあっただろうけれど、
これはいささか言いがかりのような気がしなくもない。
〔参考文献〕
黒田智「弘法大師の十五夜―願われた死の日時―」 (藤巻和宏編『聖地と聖人の東西―起源はいかに語られるか―』勉誠出版 2011年)
『大日本史料』第8編之8 (東京大学出版会 1970年)
《病死》 《1426年》 《10月》 《16日》 《享年49歳》
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | 1096 | |
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1221 | ||
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1451 | 1452 | 1453 |
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 5歳 | 6歳 | |
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | 16歳 | |
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | 59歳 |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
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