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死に様データベース
《病死》 《1417年》 《2月》 《11日》 《享年47歳》



伏見宮家当主。
栄仁親王王子。


応永23年(1416)11月20日、
栄仁親王の薨去により、
その嫡子治仁王は、伏見宮家の当主となった。


11月24日、
栄仁親王の荼毘のさなかに、
桟敷あたりから人魂が飛んだという。


栄仁親王の仏事がひととおり済み、
年始のムードも落ち着いた、応永24年(1417)2月7日、
治仁王のもとにひとりの医師が現れた。
見るからに異様で不気味な医師であったが、
治仁王には以前お目にかかったことがある、とのことで、
御前に呼ばれ、
治仁を診察し、薬を献じて帰っていった。


4日後の11日、
日暮れから黒雲が湧き立ち、
夜には、肝を消すほどの激しい雷雨となった。

治仁王は、退屈しのぎに弟の貞成王を呼ぶことにし、
近臣の田向長資を遣わした。
貞成が赴くと、長資は早々に退出し、
兄弟2人きりとなった。
と、
にわかに、治仁王が昏倒。
何か呻いたが、聞き取ることはできず、
意識が朦朧として、人事不省に陥った。

驚いた貞成は、慌てて近衛局を呼び、
今上臈ら女房たちが集まった。
後ろから抱え起こして、
蘇合を口に含ませようとしたが、
歯を食いしばっていたために、飲ませることができなかった。
右手足も硬直していて、
明らかに中風(卒中)の症状を呈していた。

庭田重有ら近臣たちも、ようやく集まったが、
皆うろたえるばかりであった。

医術の心得のある僧無相中訓は、
「大中風」と診察。
医師心知客も呼んだが、夜中のためか来ず。
そこで、
法安寺の僧良明房を呼び、祈祷を行わせたが、
回復せず、
喋ることもできぬまま、「悶絶の体」(『看聞日記』)であった。

寅の刻(午前4時)、ついに薨去。
47歳。
父に続くこと、わずか2ヶ月と20日ばかり。


翌12日より、荼毘のことが話し合われたが、
伏見宮家の菩提寺大光明寺は、
時宜、室町殿足利義持に憚るとして、固辞。
蔵光庵で密々に行おうとしたが、蔵光庵主も難色を示した。
「両方故障珍事也、
 尊霊不運、没後の恥辱也」(『看聞日記』)
と、弟貞成は憤っている。

13日、
遺骸の剃髪の儀。
法名「松屋衍公」。

14日、
ようやく、蔵光庵で荼毘を行うことが決まり、
15日、荼毘。

17日、収骨の儀であったが、
豪雨のため、中止。
そして、この日、
懐妊していた治仁王の室今上臈が産気づき、
酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
これにより、
治仁の子は女児のみとなったため、
弟貞成王の伏見宮家相続が決まった。


しかし、
翌18日頃から、伏見宮家に不穏な空気が立ちこめる。

治仁王の頓死は、貞成王の暗殺によるものではないか、
との風聞が立ったのである。
死の4日前に現れた不気味な医師が献じたのは、毒薬であり、
貞成王・対御方(栄仁親王室)・庭田重有の差し金だった、
というのだ。
また、
死の当日の激しい雷雨は、
治仁王に雷神が取り憑いたからだ、
との噂もあった。

渦中の貞成は、
室町殿足利義持や後小松上皇に釈明し、
火消しに奔走した。
その甲斐あってか、
3月には、貞成の相続が安堵されている。

だが、
3月27日、
治仁王の遺品のなかから、
貞成王を猶子とする旨の置文が出てきたというのは、
なんだかできすぎの感がなくもない。


なお、
3月12日、
院号「葆光院」と定まり、
13日、大光明寺へ納骨。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』 (講談社学術文庫 2002年)
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《病死》 《1416年》 《11月》 《20日》 《享年66歳》


崇光天皇皇子。
伏見宮家初代。


父崇光天皇は、持明院統・北朝の正統であったが、
南北朝の動乱の過程で廃位され、
皇位は弟の後光厳天皇にわたった。
崇光上皇は、嫡男栄仁親王の立坊(立太子)を望んだが、果たされず、
後光厳天皇の系統が継ぐこととなる。

崇光上皇没後、
栄仁親王はその遺領を、
後小松天皇(後光厳の孫)に没収されるなど、
非常に苦しい立場にあった。


応永22年(1415)冬、
65歳になる栄仁親王は、脚気が再発。
翌応永23年(1416)夏頃から、
食が細くなり、めっきり憔悴してしまった。

この間、
同阿、高間といった医師たちが治療を行ったが、
快復には向かわなかった。


8月19日、
腰痛で、起きることすらままならなくなった。
医師竹田昌耆が来診し、
2日後、十四味建中湯と腰に付ける薬を調進。

25日と27日には、
大光明寺の継首座が、
医師心知客秘伝の術の、腰痛に効くという灸を、施した。
同時に、24~27日、祈祷のため大般若経が読まれている。


9月2日、
病気快復と旧領回復のため、伏見宮家の近臣や女房たちが、
当時霊験あらかたと流行していた桂地蔵に参詣。


翌10月頃から、
栄仁の終末への準備が始められていく。

10月4日、栄仁詠歌の撰集が開始される。
8日頃、腰痛再び悪化。
11月になっても、回復の兆しはなく、
12日、医師昌耆が灸を施すなど、治療が続けられた。
同日、詠歌の撰集が終了。
13日には、大光明寺への置文が作成された。


11月3日、
前月に続いて、貞成王の顔拭いの布がネズミにかじられる、
ということがあったが、
のち、貞成は、
 これが凶兆だったのかもしれない、
と回想している。


20日、
暁より下痢にかかり、危篤。
夜前、左の脈が絶える。
この頃連日、医師昌耆を呼んでいたが、
都合が悪かったのか、このときも来なかった。
未の刻(午後2時頃)、粥を食べ、平臥した。
次男貞成王が、背中から抱きかかえたが、
辛そうな様子であった。
御前に伺候した仕女の対御方は、
悲しみのあまり嗚咽を漏らしていたが、
栄仁は、それが見えているかどうかも怪しいほど、
意識が混濁としていた。

貞成に代わって、尼玄経が抱きかかえていた頃、
栄仁が「起き上がりたい」というので、起き上がらせた。
だが、
顔色が急変し、喋ることもままならず、
口を閉じることすらできなくなった。
蘇合を口に含ませたが、飲み込めず、
非常に苦しげであった。

このとき、栄仁の周囲にいたのは、
次男貞成王・仕女対御方・近臣田向長資・その姉妹の尼玄経ら。
今度は、田向長資が抱き支えた。

急ぎ呼び集められた、
嫡男治仁王・近衛局・近臣庭田重有らが、集まったところで、
水を口に含ませようとしたが、
飲み込めず、
閉眼。

66歳。


次男貞成王の記。
「其の姿之を見る。
 いよいよ哀傷肝に銘じ、悲涙眼に満つ。
 予、去んぬる応永十八年此の御所へ参り候。
 爾来以降六年の間、日夜昵近、朝暮孝を致す。
 殊更去年御病悩より御臨終に至るまで、
 看病寸暇を競い、忠孝の懇志に励むのみ。
 つらつら案ずるに、
 進退の安否前後惘然、
 只愁涙を拭うのほか他念無きものなり。」(『看聞日記』)


前日19日には、孫娘あごご(貞成の娘)が生まれたばかりであり、
また、懸案の伏見宮家領は、いまだ後小松上皇の院宣が出ておらず、
念願の旧領回復は、まだ先の話であった。

知らせを受けた室町殿足利義持は、
 荼毘は、崇光上皇のときと同じように執り行うように、
と、命じた。
とはいえ、宮家の経営が厳しい折、
そっくりそのままというわけにもいかず、
一部は省略などしなければならないのが実情であった。


生前、栄仁は、
播磨国石見郷を菩提料所として、伏見大光明寺へ寄進し、
没後のことはその年貢をもって賄うこと、
毎事簡略の儀をもってし、大光明寺に負担をかけぬようにすること、
位牌には「大通院無品親王」と書くべきこと、
を言い置いた。
これらの旨も、幕府へ届け出られ、許可が出ている。


23日寅の刻(午前4時頃)、
遺骸は輿に乗せられて、大光明寺に運ばれた。
御簾をあげてその死に顔を見た次男貞成王は、
「聊かも変色なく、
 平生の御時眠る如し。
 凡そ御終焉の儀、悪想現れず。
 御往生と謂うべきものか。」(『看聞日記』)
続けて、
「今年六十六歳、
 宝算長久と雖も、夢の如く幻の如し。
 嗚呼登極の御先途遂にもって達せられざるの条、
 生前の御遺恨此の一事に在り。
 毎事悲歎落涙のほか他事無し。」(『看聞日記』)
と記す。

長寿を得たとはいえ、
即位の夢も果たせず、
所領の回復もままならず、
思い残すことは、少なくなかったであろう。


24日、大光明寺にて荼毘。
伏見宮家親族や侍臣たちが集まり、
おごそかに執り行われた。

荼毘の最中、
桟敷のあたりから人魂が飛んだという。



初七日の翌25日、拾骨。
その後、
12月2日、二七日の仏事。
7日、三七日、
12日、四七日、
13日、遺骨は深草法華堂や椎野浄金剛院に分納された。
17日、卅五日、
21日、六七日の仏事引き上げ、
25日、尽七の儀結願、
明けて応永24年(1417)正月9日、四十九日。
折も折、
関東における上杉禅秀の乱と、
京都での、それにともなう足利義嗣逐電事件のさなかであったが、
洛外の伏見ゆえか、その影響もなく、
いずれも滞りなく行われている。


そして、伏見宮家は栄仁の嫡男治仁王が継いだが…。



〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)』 (講談社 2002年)
《自害》 《1333年》 《5月》 《9日》 《享年28歳》


六波羅探題北方、
信濃守護。


元徳2年(1330)末、
北条仲時は、上洛して六波羅探題北方に就任。
最初の討幕計画に失敗した後醍醐天皇が、
再び討幕の意を強くしている頃であった。


翌元徳3・元弘元年(1331)、
後醍醐天皇が2度目の討幕計画を起こすに及び、
笠置山に籠った後醍醐天皇を捕えて、鎌倉幕府の命により隠岐に流した。
その後、
畿内山岳部でゲリラを続ける楠木正成・護良親王らの討伐に当たった。

だが、
時代の趨勢は倒幕に傾き、
翌年には、山陰・山陽・四国・九州で反幕府勢力の挙兵が相次ぐ。
元弘3・正慶2年(1333)、
彼らに迎えられて、後醍醐天皇、隠岐脱出。


こうした危機的状況に、
鎌倉幕府は、足利高氏(のち尊氏)らに大軍をつけて、
関東から西へ遣わす。
しかし、
その高氏も、丹波篠村にて幕府より離反、
踵を返して、
播磨の赤松則村らとともに、京都への進軍を開始する。


元弘3年(1333)5月7日、
仲時と六波羅探題南方の北条時益は、洛中で反幕府軍と合戦し、敗北。
ここに、六波羅探題は崩壊する。

反幕府軍の入京を許した仲時と時益は、
持明院統の光厳天皇・後伏見・花園両上皇を奉じて、
鎌倉を目指すこととした。
しかし、
その日の夜、時益戦死。


仲時らが目指した関東であったが、
おりしもその8日、
新田義貞・足利千寿丸(尊氏の子、のちの義詮)らが上野新田荘で挙兵。
軍勢を増やしながら、鎌倉に向けて南下を始めているところであった。


京都脱出に成功した仲時は、
関東の状況など知る由もなく、鎌倉を目指して東山道を東へ急いだ。
だが、9日、
近江番場宿に来たところで、
再び、行く手を反幕府勢力に阻まれる。
しかも、
後陣の佐々木時信は、敵軍に投降してしまう。

前後の敵に進退窮まった仲時は、
番場蓮華寺にて、一族・家臣・同僚ら432人とともに自害。
仲時、28歳。


 越後守仲時、暫し時信を遅しと待ち給いけるが、
 待つ期過ぎて時移りければ、
 さては時信も早敵に成りにけり。
 今はいづくへか引き返し、いづくまでか落つべきなれば、
 爽やかに腹を切らんずるものをと、
 中々一途に心を取り定めて、
 気色涼しくぞ見えける。
 その時軍勢どもに向かって宣いけるは、
 「武運漸く傾いて、当家の滅亡近きにあるべしと見給いながら、
  弓矢の名を重んじ、日頃の好を忘れずして、
  これまでつきまとい給える志、
  中々申すことばはなかるべし。
  その報謝の思い深しといえども、一家の運すでに尽きぬれば、
  何をもってかこれを報ずべき。
  今は我かたがたのために自害をして、
  生前の報恩を死後に報ぜんと存ずるなり。
  仲時不肖なりといえども、平氏一類の名を揚ぐる身なれば、
  敵ども定めて我が首をもって、千戸侯にも募りぬらん。
  早く仲時が首をとって源氏の手に渡し、
  咎を補うて忠に備え給え。」
 と、いいはてざることばの下に、
 鎧脱いでおしはだ脱ぎ、腹かき切って伏し給う。
 糟谷三郎宗秋これを見て、
 泪の鎧の袖にかかりけるをおさえて、
 「宗秋こそまず自害して、
  冥途の御先をも仕らんと存じ候いつるに、
  先立たせ給いぬることこそ口惜しけれ。
  今生にては命を際の御先途を見はてまいらせつ。
  冥途なればとて見放し奉るべきにあらず。
  暫く御待ち候え。
  死出の山の御伴申候わん。」
 とて、越後守の、つか口まで腹に突き立ておかれたる刀を取って、
 己が腹に突き立て、仲時の膝に抱きつき、
 うつぶしにこそ伏したりけれ。
 これをはじめて、
 佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・
 (この間151名略)・愛多義中務丞・子息弥次郎、これら宗徒の者として、
 都合四百三十二人、同時に腹をぞ切ったりける。
 血はその身を浸して、あたかも黄河の流れのごとくなり。
 死骸は庭に充満して、屠所の肉に異ならず。 (『太平記』)
 


「蓮華寺過去帳」には、
彼らの名前が記されている。
一部、年齢の記されている者のなかでは、
最も若くして、問注所阿子光丸、14歳、
年長の者で、糟屋弥次郎入道明翁、64歳。

老若430余名の同時自害。
中世を代表する、最も印象的な死のひとつ。



〔参考〕
竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 41』 (東京堂出版 1990年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
小林一岳『元寇と南北朝の動乱 (日本中世の歴史4)』 (吉川弘文館 2009年)
《病死》 《1442年》 《8月》 《4日》 《享年43歳》


前管領。
摂津・丹波・讃岐・土佐守護。


兄持元の早世により、
永享元年(1429)7月、細川持之は30歳にして家督を継ぐ。
同年10月、管領斯波義淳の辞職を受けて、
同職に就任。
将軍足利義教を支えた。

しかし、
畠山満家・斯波義淳・満済・山名時煕ら宿老たちの相次ぐ死に、
持之ら若い幕閣は、義教を抑えることができず、
その暴走を許すこととなった。
そのため、
義教による公家・武家の粛清が度重なり、
また、懸案の鎌倉公方足利持氏との武力衝突を回避できず、
最終的に、
嘉吉元年(1441)の義教自身の横死へとつながった。


管領持之は、
将軍不在の紛糾する幕府をまとめ上げ、
義教の子義勝の擁立、
義教を弑した赤松満祐の討伐まで、どうにかこぎつけた。


そうした心労からか、
翌嘉吉2年(1442)6月24日、
「風瘧の病悩」(『康富記』)により出家し、
管領職の辞表を提出。
この日は、前将軍足利義教の一周忌でもあった。

29日、管領辞職が認められ、
畠山持国が新たな管領となる。

それからわずかひと月余りのちの8月4日、
逝去。
43歳。
13歳の子勝元が跡を継いだ。


難しい時局を切り抜けた管領だが、
“名宰相”の評価は、いまのところ、ない。



〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
《誅殺》 《1177年》 《7月》 《9日》 《享年40歳》


正二位、権大納言。

父は、鳥羽院の寵臣藤原家成。
自身も後白河院の寵臣として権勢をふるった。
男色関係にあったともされる。


平治の乱では、
藤原信頼に加担して、平氏と敵対したが、
妹が平重盛(清盛の嫡男)の妻であったこともあって、
死罪は免れ、解官のみで赦された。

その後も、
延暦寺衆徒の訴えなどにより、たびたび解官・配流されたが、
そのつど、後白河院の保護により、復任。

しかし、
平氏一族に昇進を阻まれるなど、
急速に伸張する平氏の圧迫に堪えかね、
安元3年(1177)、
ついに、後白河院の近臣西光や俊寛らと、平氏打倒の密謀をなした。
宴席で、倒れた瓶子を平氏に見たてて、
その首を折り割るなどしたらしい。


だが、
その一見は、たちまちのうちに清盛の耳に入ってしまった。

6月1日、
藤原成親は、清盛に呼び出されて、
露顕したとも知らずに赴いた。
公卿の座にいた平重盛・頼盛に対し、
「何事でしょうか、
 お召しがあったので、参りました。」
と言って、奥に入っていったところ、
待ち構えていた平氏の郎党平盛俊に組み伏せられ、縛り上げられて、
部屋に押し込められたのである。

驚いた重盛は、部屋越しに、
「お命ばかりは、私重盛が申し受けます」
と、義兄成親を励ましたという。


西光も同日、清盛に捕えられ、
拷問のすえ、梟首。


翌2日、
成親は、備前国へ流罪。
18日、解官。
重盛は、配流先の成親へ、衣類を送るなど援助していたが、
7月9日、死去。
食事を与えられずに、殺害されたという。



〔参考〕
『日本古典文学大系 86 愚管抄』 (岩波書店 1967年)
『新訂増補国史大系 11 日本紀略後編・百錬抄』 (吉川弘文館 1929年)
五味文彦『平清盛 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2009年)
『国史大辞典 12 ふ-ほ』 (吉川弘文館 1991年)
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