死に様データベース
《病死》 《1426年》 《10月》 《16日》 《享年49歳》
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府管領。
摂津・阿波・讃岐守護。
管領在任中には、
伊勢北畠満雅の討伐や、
関東の上杉禅秀の乱、
その後の鎌倉公方足利持氏との関係悪化、
対馬応永の外寇、といった地方の混乱や、
将軍連枝足利義嗣の出奔、
将軍近習富樫満成の失脚など、幕政の動揺もあったが、
将軍足利義持を支えて、乗り切っている。
応永33年(1426)10月上旬、
細川満元(法名道歓)は、腫物に悩まされていた。
それもやや悪性のものであったらしい。
宿老の病状を心配した室町殿足利義持は、見舞いにゆこうとし、
三宝院満済に、治癒の祈祷と併せて、
予め満元の様子を見てくることを命じた。
10月7日、
やってきた満済に面会した満元は、
それほど苦しそうな様子ではなかったが、
視界にやや不調があったという。
翌8日、
義持は満元を見舞い、腫物の様子を見た。
満元は、10月5日より、
家臣の安富宝城が「よく効く」として進上した薬を使用していたが、
どうもこれがよくなかったらしい、
という話が義持周辺で言われた。
医師の坂胤能が、
「この薬のこと、不審なり」(『満済准后日記』)
と疑義を呈したという。
こうした満元の病状に、幕府首脳は動揺したようである。
「およそ〈細川〉京兆入道(満元)のこと、
天下の重人なり。
ご政道等一方の意見者の間、
御所様(足利義持)かたがたご仰天か。」(『満済准后日記』)
14日、
満元の腫物は悪化した。
医師坂胤能は、「難儀」と診ている。
義持は、再び見舞いにゆこうとし、
またしても、先んじて満済を遣わした。
訪れた満済に、満元は起き上がって対面した。
意識等は変わりなかったが、
病状は相当なものであった。
まもなく訪れた義持は、
薬を違えたことを責めたが、
もはや後の祭りとせざるを得なかった。
この日、義持は、
嫡男持元へ、満元の跡目を安堵した。
15日、
すでに先が長くないことを悟ったか、
満元は辞世の歌を詠んでいる。
ことし又命の露のそめいだす
座のもみぢを人や見なれん (『満済准后日記』)
16日午後(午の刻の終わり〈午後1時頃〉とも、申の刻の初め〈夕方4時頃〉とも)、
満元は、
諸仏無増処
衆生又不滅 (『満済准后日記』)
の2句の偈をしたため、端座入滅。
享年49歳。
「平生一義神妙の仁か。
御所様(足利義持)もってのほかのご周章と云々。」(『満済准后日記』)
人々は、3日間遊興を慎んだという。
義持は、焼香にゆくつもりであった。
しかし、
義持が、焼香のために細川亭に入ると、
室町殿は30日間の触穢となる。
そこで、
公家や諸門跡には、室町殿に参入しないよう布達された。
ところが、比叡山から、
翌年正月の山門礼拝講で頭人をつとめる義持本人が、触穢になっては困る、
との訴えがあり、
義持自身の焼香も中止され、
荼毘への参列も取りやめとなった。
「天下の重人」「神妙の仁」(『満済准后日記』)
「執政の器」「古昔の大臣に異なるべからざるか」(『薩戒記』)
と評価の高い満元であったが、
死後の弔いは、現実的な問題で処理されている。
なんとも不憫であるような。
なお、
献じた薬が問題視され、義持の不興を買った安富宝城は、
つとめていた東寺領備中国新見荘の代官を辞め、
高野山に隠遁したという。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『大日本古記録 薩戒記 3』 (岩波書店 2006年)
東京大学史料編纂所データベース
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《自害》 《1414年》 《11月》 《29日》 《享年不明》
室町幕府管領細川氏の一族。
社会が安定を迎えていた将軍足利義持の時代のことである。
管領細川氏の一族、細川宮内少輔は、
東大寺の所領を押領し、混乱を起こしていた。
度重なる東大寺の訴えを受けた室町幕府は、
事態を重く見て、宮内少輔に押領停止を命じた。
しかし、
宮内少輔は幕命を軽んじて、従わず、
それどころか、
暴言を吐くなど、反抗する態度をとり続けた。
事態の収束を図る将軍義持は、
管領細川満元へ密命を下す。
応永21年(1414)11月29日明け方、
宮内少輔は惣領満元に攻められ、切腹。
安定へ向かう社会において、
それを乱す者の処分に容赦はない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料データベース)
室町幕府管領細川氏の一族。
社会が安定を迎えていた将軍足利義持の時代のことである。
管領細川氏の一族、細川宮内少輔は、
東大寺の所領を押領し、混乱を起こしていた。
度重なる東大寺の訴えを受けた室町幕府は、
事態を重く見て、宮内少輔に押領停止を命じた。
しかし、
宮内少輔は幕命を軽んじて、従わず、
それどころか、
暴言を吐くなど、反抗する態度をとり続けた。
事態の収束を図る将軍義持は、
管領細川満元へ密命を下す。
応永21年(1414)11月29日明け方、
宮内少輔は惣領満元に攻められ、切腹。
安定へ向かう社会において、
それを乱す者の処分に容赦はない。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料データベース)
《誅殺》 《1415年》 《8月》 《26日》 《享年62歳》
将軍足利義持の近習。
応永22年(1415)8月26日、
京都新日吉社の笠懸馬場にて、喧嘩が起こった。
一方は、将軍義持の近習畠山貞清、法名常忠、62歳。
もう一方は、同じく将軍近習小笠原満長の子二郎、19歳。
喧嘩は刃傷沙汰に発展し、
刺し違えたか、2人はその場で死んだ。
そこで収まらないのが中世の喧嘩。
貞清の家臣や子どもたちは、
二郎の父小笠原満長の屋敷へ攻め寄せた。
双方、死傷者を出したが、
やがて将軍義持が来たことで、退散。
9月2日、貞清は荼毘にふされた。
理由は何だかわからぬが、
老人と若者の喧嘩とはこれ如何に。
〔参照〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料総合データベース)
将軍足利義持の近習。
応永22年(1415)8月26日、
京都新日吉社の笠懸馬場にて、喧嘩が起こった。
一方は、将軍義持の近習畠山貞清、法名常忠、62歳。
もう一方は、同じく将軍近習小笠原満長の子二郎、19歳。
喧嘩は刃傷沙汰に発展し、
刺し違えたか、2人はその場で死んだ。
そこで収まらないのが中世の喧嘩。
貞清の家臣や子どもたちは、
二郎の父小笠原満長の屋敷へ攻め寄せた。
双方、死傷者を出したが、
やがて将軍義持が来たことで、退散。
9月2日、貞清は荼毘にふされた。
理由は何だかわからぬが、
老人と若者の喧嘩とはこれ如何に。
〔参照〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
東京大学史料編纂所データベース(大日本史料総合データベース)
《病死》 《1474年》 《7月》 《3日》 《享年50歳》
伏見宮家4代当主。
一品、式部卿。
父は3代当主貞成親王、
母は庭田経有の娘幸子(敷政門院)。
伏見宮貞常親王は、
後花園上皇の実弟として、
足利義政に争乱の鎮静を求める勅使をつとめたり、
義政の意を受けて、後土御門天皇の出家を留めるなど、
京都政界でも一定の役割を果たした。
応仁・文明の乱の兵火で、御所を焼かれ、
伏見や大原など洛外に居を移す。
洛中に戻ってからは、
足利義政の室町殿の片隅に寓居した。
前年に山名宗全と細川勝元が病没し、
その子政豊と政元の講和がようやくなった、
文明6年(1474)の6月、腹病を起こす。
月末には、勅使の見舞いを受けるも、一向によくならず、
7月3日、甥の後土御門天皇自身も見舞いに訪れた。
父貞成親王より琵琶の秘曲伝授を受けていた貞常は、
自身も廷臣等にこれを授けていた。
そのため、
親王の病が篤いと聞くと、
伝授を一部残している弟子が、しまいまで授けてほしいと、
見舞客にまじって、押しかけてくる。
同じ7月3日、
四辻季春来。
貞常が伝授の奥書を与えると、
季春は太刀や馬を進上して、帰って行った。
その晩、いよいよとして、
室町殿を退いて、室庭田盈子の邸に移ることになるが、
その直前になって、
口伝を残していると、今出川教季来。
これにも、貞常は奥書を与えた。
師弟の責務が、
教えを絶やさないことにあった時代の話である。
夜四つ時(10時頃)、盈子邸に移った貞常は、
姉妹の理延や雲岳聖朝、従姉妹観心(後花園天皇娘)の見舞われつつ、
丑の刻(深夜2時頃)、逝去。
享年50歳。
後大通院と追号された。
「和漢の才あり。心荘御穏便。」(『親長卿記』)の人であったという。
〔参考〕
『史料纂集 言国卿記 1』 (続群書類従完成会 1969年)
『増補史料大成 親長卿記 1』 (臨川書店 1965年)
伏見宮家4代当主。
一品、式部卿。
父は3代当主貞成親王、
母は庭田経有の娘幸子(敷政門院)。
伏見宮貞常親王は、
後花園上皇の実弟として、
足利義政に争乱の鎮静を求める勅使をつとめたり、
義政の意を受けて、後土御門天皇の出家を留めるなど、
京都政界でも一定の役割を果たした。
応仁・文明の乱の兵火で、御所を焼かれ、
伏見や大原など洛外に居を移す。
洛中に戻ってからは、
足利義政の室町殿の片隅に寓居した。
前年に山名宗全と細川勝元が病没し、
その子政豊と政元の講和がようやくなった、
文明6年(1474)の6月、腹病を起こす。
月末には、勅使の見舞いを受けるも、一向によくならず、
7月3日、甥の後土御門天皇自身も見舞いに訪れた。
父貞成親王より琵琶の秘曲伝授を受けていた貞常は、
自身も廷臣等にこれを授けていた。
そのため、
親王の病が篤いと聞くと、
伝授を一部残している弟子が、しまいまで授けてほしいと、
見舞客にまじって、押しかけてくる。
同じ7月3日、
四辻季春来。
貞常が伝授の奥書を与えると、
季春は太刀や馬を進上して、帰って行った。
その晩、いよいよとして、
室町殿を退いて、室庭田盈子の邸に移ることになるが、
その直前になって、
口伝を残していると、今出川教季来。
これにも、貞常は奥書を与えた。
師弟の責務が、
教えを絶やさないことにあった時代の話である。
夜四つ時(10時頃)、盈子邸に移った貞常は、
姉妹の理延や雲岳聖朝、従姉妹観心(後花園天皇娘)の見舞われつつ、
丑の刻(深夜2時頃)、逝去。
享年50歳。
後大通院と追号された。
「和漢の才あり。心荘御穏便。」(『親長卿記』)の人であったという。
〔参考〕
『史料纂集 言国卿記 1』 (続群書類従完成会 1969年)
『増補史料大成 親長卿記 1』 (臨川書店 1965年)
《病死》 《1417年》 《2月》 《11日》 《享年47歳》
伏見宮家当主。
栄仁親王王子。
応永23年(1416)11月20日、
父栄仁親王の薨去により、
その嫡子治仁王は、伏見宮家の当主となった。
11月24日、
故栄仁親王の荼毘のさなかに、
桟敷あたりから人魂が飛んだという。
故栄仁親王の仏事がひととおり済み、
年始のムードも落ち着いた、応永24年(1417)2月7日、
治仁王のもとにひとりの医師が現れた。
見るからに異様で不気味な医師であったが、
治仁王には以前お目にかかったことがある、とのことで、
御前に呼ばれ、
治仁を診察し、薬を献じて帰っていった。
4日後の11日、
日暮れから黒雲が湧き立ち、
夜には、肝を消すほどの激しい雷雨となった。
治仁王は、退屈しのぎに弟の貞成王を呼ぶことにし、
近臣の田向長資を遣わした。
貞成が赴くと、長資は早々に退出し、
兄弟2人きりとなった。
と、
にわかに、治仁王が昏倒。
何か呻いたが、聞き取ることはできず、
意識が朦朧として、人事不省に陥った。
驚いた貞成は、慌てて近衛局を呼び、
今上臈ら女房たちが集まった。
後ろから抱え起こして、
蘇合を口に含ませようとしたが、
歯を食いしばっていたために、飲ませることができなかった。
右手足も硬直していて、
明らかに中風(卒中)の症状を呈していた。
庭田重有ら近臣たちも、ようやく集まったが、
皆うろたえるばかりであった。
医術の心得のある僧無相中訓は、
「大中風」と診察。
医師心知客も呼んだが、夜中のためか来ず。
そこで、
法安寺の僧良明房を呼び、祈祷を行わせたが、
回復せず、
喋ることもできぬまま、「悶絶の体」(『看聞日記』)であった。
寅の刻(午前4時)、ついに薨去。
47歳。
父に続くこと、わずか2ヶ月と20日ばかり。
翌12日より、荼毘のことが話し合われたが、
伏見宮家の菩提寺大光明寺は、
時宜、室町殿足利義持に憚るとして、固辞。
蔵光庵で密々に行おうとしたが、蔵光庵主も難色を示した。
「両方故障珍事也、
尊霊不運、没後の恥辱也」(『看聞日記』)
と、弟貞成は憤っている。
13日、
遺骸の剃髪の儀。
法名「松屋衍公」。
14日、
ようやく、蔵光庵で荼毘を行うことが決まり、
15日、荼毘。
17日、収骨の儀であったが、
豪雨のため、中止。
そして、この日、
懐妊していた治仁王の室今上臈が産気づき、
酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
これにより、
治仁の子は女児のみとなったため、
弟貞成王の伏見宮家相続が決まった。
しかし、
翌18日頃から、伏見宮家に不穏な空気が立ちこめる。
治仁王の頓死は、貞成王の暗殺によるものではないか、
との風聞が立ったのである。
死の4日前に現れた不気味な医師が献じたのは、毒薬であり、
貞成王・対御方(栄仁親王室)・庭田重有の差し金だった、
というのだ。
また、
死の当日の激しい雷雨は、
治仁王に雷神が取り憑いたからだ、
との噂もあった。
渦中の貞成は、
室町殿足利義持や後小松上皇に釈明し、
火消しに奔走した。
その甲斐あってか、
3月には、貞成の相続が安堵されている。
だが、
3月27日、
治仁王の遺品のなかから、
貞成王を猶子とする旨の置文が出てきたというのは、
なんだかできすぎの感がなくもない。
なお、
3月12日、
院号「葆光院」と定まり、
13日、大光明寺へ納骨。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』 (講談社学術文庫 2002年)
伏見宮家当主。
栄仁親王王子。
応永23年(1416)11月20日、
父栄仁親王の薨去により、
その嫡子治仁王は、伏見宮家の当主となった。
11月24日、
故栄仁親王の荼毘のさなかに、
桟敷あたりから人魂が飛んだという。
故栄仁親王の仏事がひととおり済み、
年始のムードも落ち着いた、応永24年(1417)2月7日、
治仁王のもとにひとりの医師が現れた。
見るからに異様で不気味な医師であったが、
治仁王には以前お目にかかったことがある、とのことで、
御前に呼ばれ、
治仁を診察し、薬を献じて帰っていった。
4日後の11日、
日暮れから黒雲が湧き立ち、
夜には、肝を消すほどの激しい雷雨となった。
治仁王は、退屈しのぎに弟の貞成王を呼ぶことにし、
近臣の田向長資を遣わした。
貞成が赴くと、長資は早々に退出し、
兄弟2人きりとなった。
と、
にわかに、治仁王が昏倒。
何か呻いたが、聞き取ることはできず、
意識が朦朧として、人事不省に陥った。
驚いた貞成は、慌てて近衛局を呼び、
今上臈ら女房たちが集まった。
後ろから抱え起こして、
蘇合を口に含ませようとしたが、
歯を食いしばっていたために、飲ませることができなかった。
右手足も硬直していて、
明らかに中風(卒中)の症状を呈していた。
庭田重有ら近臣たちも、ようやく集まったが、
皆うろたえるばかりであった。
医術の心得のある僧無相中訓は、
「大中風」と診察。
医師心知客も呼んだが、夜中のためか来ず。
そこで、
法安寺の僧良明房を呼び、祈祷を行わせたが、
回復せず、
喋ることもできぬまま、「悶絶の体」(『看聞日記』)であった。
寅の刻(午前4時)、ついに薨去。
47歳。
父に続くこと、わずか2ヶ月と20日ばかり。
翌12日より、荼毘のことが話し合われたが、
伏見宮家の菩提寺大光明寺は、
時宜、室町殿足利義持に憚るとして、固辞。
蔵光庵で密々に行おうとしたが、蔵光庵主も難色を示した。
「両方故障珍事也、
尊霊不運、没後の恥辱也」(『看聞日記』)
と、弟貞成は憤っている。
13日、
遺骸の剃髪の儀。
法名「松屋衍公」。
14日、
ようやく、蔵光庵で荼毘を行うことが決まり、
15日、荼毘。
17日、収骨の儀であったが、
豪雨のため、中止。
そして、この日、
懐妊していた治仁王の室今上臈が産気づき、
酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
これにより、
治仁の子は女児のみとなったため、
弟貞成王の伏見宮家相続が決まった。
しかし、
翌18日頃から、伏見宮家に不穏な空気が立ちこめる。
治仁王の頓死は、貞成王の暗殺によるものではないか、
との風聞が立ったのである。
死の4日前に現れた不気味な医師が献じたのは、毒薬であり、
貞成王・対御方(栄仁親王室)・庭田重有の差し金だった、
というのだ。
また、
死の当日の激しい雷雨は、
治仁王に雷神が取り憑いたからだ、
との噂もあった。
渦中の貞成は、
室町殿足利義持や後小松上皇に釈明し、
火消しに奔走した。
その甲斐あってか、
3月には、貞成の相続が安堵されている。
だが、
3月27日、
治仁王の遺品のなかから、
貞成王を猶子とする旨の置文が出てきたというのは、
なんだかできすぎの感がなくもない。
なお、
3月12日、
院号「葆光院」と定まり、
13日、大光明寺へ納骨。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』 (講談社学術文庫 2002年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
享年 50代~
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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