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死に様データベース
《誅殺》 《1332年》 《6月》 《2日》 《享年43歳》


従三位、権中納言。


後醍醐天皇の側近として、日野資朝は同族の俊基とともに、
天皇の討幕計画に参画した。
旧来の価値観にとらわれない、豪胆な人物であったと伝えられる。


元亨4年(1324)9月19日、
京都四条の辺りで、合戦があった。
後醍醐天皇の討幕計画の一員で土岐頼員が、
恐れをなしたか、計画を六波羅探題に密告。
六波羅探題は、関係者の土岐頼有と多治見国長を召喚したところ、
応じずに反抗の意を露わにしたため、
軍勢を差し向けて、自害させた。
その騒動であった。

同日、計画の首謀者として、
日野俊基が、戌の刻(夜8時頃)、
資朝が、丑の刻(深夜2時頃)、
六波羅探題に連行された。


資朝は、
「関東の執政、然るべからず。
 また、運すでに衰うに似たり。
 朝威はなはだ盛ん。
 あに敵うべけんや。
 よって、誅せらるべきの由、綸言を承る。」(『花園天皇宸記』)
と言って、同志を募り、
23日の北野祭の喧騒に乗じて、
六波羅探題を倒す計画だったという。

また、彼らは、

 結衆の会合、
 乱遊、あるいは衣冠を着さず、
 ほとんど裸形、
 飲茶の会これ有り。(『花園天皇宸記』)

 献盃の次第、上下を云わず、
 男は烏帽子を脱いで髻を放ち、
 法師は衣を着ずして白衣になり、
 年十七八なる女の、みめ形優に、
 はだえ殊に清らかなるを二十余人、すずしの単ばかりを着せて、
 酌を取らせければ、
 雪のはだえ透き通りて、大液の芙蓉、新たに水を出でたるに異ならず。
 山海の珍物を尽くし、旨酒泉のごとくに湛えて、
 遊び戯れ舞い歌う。
 その間には、ただ東夷を亡ぼすべき企てのほかは他事なし。(『太平記』)

といった、「無礼講」「破仏講」と呼ばれるような乱チキ騒ぎを繰り返したといい、
花園上皇は、これを、
「これ学達士の風か。」(『花園天皇宸記』)などと批判している。


10月5日、
資朝に使える青侍2人を、
六波羅探題が、尋問のため召喚しようとしたところ、
逐電。


六波羅探題で取調べを受けた資朝・俊基は、
10月22日、
さらなる糾明のため、鎌倉に護送された。

正中2年(1325)閏正月、
鎌倉での糾明により、
資朝と俊基は、ほとんど無実とされたが、
なにゆえか、資朝のみは佐渡へ配流されることになった。

その訳は、2月7日に幕府が朝廷に伝えたところによると、
資朝は、計画への関与がきわめて濃厚なため、配流。
俊基は、関与の風聞があるが、証拠がないため、無罪放免。
幕府は、
資朝ひとりを罰することで、
後醍醐天皇とその周囲に、釘を刺し、
事件を処理したのである。


そうして、8月、
資朝は佐渡に配流される。


だが、元弘元年(1331)、
後醍醐天皇は飽き足らずに、再び討幕計画を起こし、
再び幕府の知るところとなった。
六波羅探題の追手を逃れて、御所を脱出した天皇は、
山城笠置山で挙兵するも、
幕府軍の攻撃により、あえなく陥落、捕えられた。


翌正慶元年(1332)4月、
幕府はこの一件の処断を下す。
2度目だけあって、幕府の処分は苛烈であった。
後醍醐天皇、隠岐へ配流。
天皇の皇子たちのうち、10歳以上は京都追放、10歳以下は然るべき人に預ける。
二条道平、叔父師忠預かり、家流廃絶。
洞院実世、父公賢預かり。
御子左為定、出仕停止、祖父為世預かり。
北畠具行・日野資朝・平成輔・日野俊基、斬罪。
聖尋・俊雅・文観、遠島。
洞院公敏・花山院師賢・万里小路藤房・同季房・円観・仲円、遠流。


かくして、
佐渡にいる資朝の斬刑は、
幕府より佐渡守護代本間山城入道へ伝えられた。

資朝の斬罪を聞いた子阿新丸(のちの日野国光)は、
最後に一目父に逢おうと、京都より越前敦賀を経て、佐渡に渡った。
しかし、
本間山城入道は、父子の対面を許さず、
6月2日、刑を執り行う。


 五月廿九日(ママ)の暮れ程に、
 資朝卿を牢より出だし奉りて、
 「遥かに御湯も召され候わぬに、御行水候え」と申せば、
 早斬らるべき時になりけりと思い給いて、
 「嗚呼うたてしきことかな、
  我が最後の様を見んために、
  遥々と尋ね下ったる幼き者を、一目も見ずして、
  果てぬる事よ」
 とばかり宣いて、
 そののちは、かつて諸事につけて、言葉をも出だし給わず。
 今朝までは、気色しおれて、常には涙を押し拭い給いけるが、
 人間の事においては、頭燃を払うごとくになりぬと覚って、
 ただ綿密の工夫のほかは、余念ありとも見え給わず。
 夜に入れば、輿さしよせて乗せ奉り、
 ここより十町ばかりある河原へ出だし奉り、輿かき据えたれば、
 少しも臆したる気色もなく、
 敷皮の上に居直って、辞世の頌を書き給う。

   五蘊仮に形を成し
   四大今空に帰す
   首をもって白刃に当つ
   截断一陣の風

 年号月日の下に名字を書き付けて、筆を擱き給えば、
 斬り手後ろへ回るとぞ見えし。
 御首は敷皮の上に落ち、骸はなお坐せるがごとし。(『太平記』)


その後、父の遺骨を拾った阿新丸は、
仇討ちとして、本間山城入道は取り逃したものの、
斬り手本間三郎を討ち果たすが、
それはまた別の話。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
『史料纂集 花園天皇宸記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
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《誅殺》 《1434年》 《12月》 《20日》 《享年不明》


左近中将。


永享6年(1434)12月20日、
関白二条持基亭において、
坊門信守は御所侍某と喧嘩になった。
何が原因かわからないが、
両者とも「沈酔」(『看聞日記』)していた。
先に信守が抜刀して斬りかかり、
逆に御所侍に突き殺された。
即死。

御所侍は、その場を逃亡したが、
その後、身柄を拘束されて、切腹。
「酔狂の至り、不可説也、」(『看聞日記』)とは、
まさしくそのとおりである。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 五』 (宮内庁書陵部、2010)
《病死》 《1525年》 《2月》 《2日》 《享年68歳》


本願寺第9世。

兄順如が早世したため、
父蓮如の法嗣となって、
延徳8年(1489)、本願寺を継承した。

室町幕府管領細川政元との関係を、良好に保ち、
急成長した本願寺教団を、何とか統制しつつ、
大名間の抗争にも介入するなどしたが、
政元の横死後は、その統制に苦慮し、
政治介入もやめて、
教団の再編・強化に努めた。


実如はまた、教団の地位の上昇にも貢献し、
大永元年(1521)には、
後柏原天皇より、准門跡とされている。
圧倒的な存在感を放つ父蓮如の陰に隠れて、やや目立たないが、
実如が本願寺教団に果たした役割は、大きい。


大永5年(1525)正月中旬、
山科本願寺にて病臥した実如は、
2月2日暁七つ時(午前4時頃)、
呼吸が荒くなり、
六つ時(朝6時頃)、昏睡。
辰の刻(朝8時頃)、永眠。
68歳。


7日未の刻(午後2時頃)、葬儀。
各地より門徒たちが上洛して参列し、
その数は、数十万にものぼったという。
なかには、実如に殉じて、
切腹する者もあったというが、定かではない。
偉大な宗主の盛大な葬儀であったことには、違いない。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅶ』 (石川県 2009)
『国史大辞典 第6巻(こま-しと)』 (吉川弘文館 1985)
《病死》 《1367年》 《3月》 《23日》 《享年48歳》


従二位、権中納言。


北朝に仕えた坊城俊冬は、
足利尊氏の護持僧賢俊と所領を争って、官を辞めたり、
貞治改元に際して、日野時光と争ったり、
なかなか血気盛んだったよう。


貞治6年(1367)3月17日、
俊冬は病臥する。
この日、前関白近衛道嗣の嫡男(兼嗣)元服の上卿をつとめるはずだったが、
欠席した。
医師丹波篤直は、
病原が不明だが、回復の望みはない、と診断した。
一方で、医師但馬道仙は、
「傷寒」(『後愚昧記』)(腸チフスの類か)と診断し、
22日に発汗したならば、まもなく回復するだろう、と見立てた。
だが、
23日亥の刻(夜10時頃)、死去。


正確に診断し、早々にさじを投げた医師と、
誤診して、気休めを言った医師。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1242年》 《6月》 《15日》 《享年60歳》


第3代鎌倉幕府執権。

承久3年(1221)の承久の乱では、
幕府軍の総大将として上洛し、
乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、
京都・畿内・西国の支配に当たった。

元仁元年(1224)6月、
2代執権である父義時の死をうけて、
鎌倉に帰り、執権となった。
その後、連署・評定衆を設置するなど、
幕府政治の刷新を図り、
貞永元年(1232)には、
武家最初の法典『御成敗式目』を制定。
鎌倉周辺の街道・港湾の整備、
鎌倉大仏建立の支援などもしている。

北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。


仁治3年(1242)、
泰時は所労により、病臥した。
5月8日、出家。
10日には、
小康状態となり、食事も摂ったが、
翌11日より悪化、
12日、さらに悪化し、
15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。
高熱のあまり、人を寄せ付けず、
亥の刻(夜10時頃)、苦しみ悶えて事切れた。
赤痢にも罹ったらしい。


泰時病臥・死去の報は、京都の公家たちも動揺させ、
噂や密談がしきりと飛び交った。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の祟りだ、とも言われている。
京都では、触穢のため、朝儀が30日間停止された。


勘解由小路経光は、
「近年、国家の重大事は、
 彼の取り計らいによっていたが、
 廉直な人柄で、道理をまず立て、
 堯舜の生まれ変わりのようであった。」(『経光卿記抄』)
と褒めちぎっている。
が、
高熱に苦しみ、独り死んだのは、
帝に弓をひいた「極重悪人」だからであって、
東大寺・興福寺を焼いた、平清盛の臨終の際と似ている、
としている。


なお、
父義時の命日が、6月13日、
承久の乱での幕府軍入京が、6月14日。
6月には何かが起きる。
この奇妙な符合は、当時の人々を震撼させた。



〔参考〕
『大日本史料 第五編之十四』 (東京大学出版会 1952)
『国史大辞典 第12巻 (ふ-ほ)』 (吉川弘文館 1991)
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