死に様データベース
《病死》 《1416年》 《11月》 《20日》 《享年66歳》
崇光天皇皇子。
伏見宮家初代。
父崇光天皇は、持明院統・北朝の正統であったが、
南北朝の動乱の過程で廃位され、
皇位は弟の後光厳天皇にわたった。
崇光上皇は、嫡男栄仁親王の立坊(立太子)を望んだが、果たされず、
後光厳天皇の系統が継ぐこととなる。
崇光上皇没後、
栄仁親王はその遺領を、
後小松天皇(後光厳の孫)に没収されるなど、
非常に苦しい立場にあった。
応永22年(1415)冬、
65歳になる栄仁親王は、脚気が再発。
翌応永23年(1416)夏頃から、
食が細くなり、めっきり憔悴してしまった。
この間、
同阿、高間といった医師たちが治療を行ったが、
快復には向かわなかった。
8月19日、
腰痛で、起きることすらままならなくなった。
医師竹田昌耆が来診し、
2日後、十四味建中湯と腰に付ける薬を調進。
25日と27日には、
大光明寺の継首座が、
医師心知客秘伝の術の、腰痛に効くという灸を、施した。
同時に、24~27日、祈祷のため大般若経が読まれている。
9月2日、
病気快復と旧領回復のため、伏見宮家の近臣や女房たちが、
当時霊験あらかたと流行していた桂地蔵に参詣。
翌10月頃から、
栄仁の終末への準備が始められていく。
10月4日、栄仁詠歌の撰集が開始される。
8日頃、腰痛再び悪化。
11月になっても、回復の兆しはなく、
12日、医師昌耆が灸を施すなど、治療が続けられた。
同日、詠歌の撰集が終了。
13日には、大光明寺への置文が作成された。
11月3日、
前月に続いて、貞成王の顔拭いの布がネズミにかじられる、
ということがあったが、
のち、貞成は、
これが凶兆だったのかもしれない、
と回想している。
20日、
暁より下痢にかかり、危篤。
夜前、左の脈が絶える。
この頃連日、医師昌耆を呼んでいたが、
都合が悪かったのか、このときも来なかった。
未の刻(午後2時頃)、粥を食べ、平臥した。
次男貞成王が、背中から抱きかかえたが、
辛そうな様子であった。
御前に伺候した仕女の対御方は、
悲しみのあまり嗚咽を漏らしていたが、
栄仁は、それが見えているかどうかも怪しいほど、
意識が混濁としていた。
貞成に代わって、尼玄経が抱きかかえていた頃、
栄仁が「起き上がりたい」というので、起き上がらせた。
だが、
顔色が急変し、喋ることもままならず、
口を閉じることすらできなくなった。
蘇合を口に含ませたが、飲み込めず、
非常に苦しげであった。
このとき、栄仁の周囲にいたのは、
次男貞成王・仕女対御方・近臣田向長資・その姉妹の尼玄経ら。
今度は、田向長資が抱き支えた。
急ぎ呼び集められた、
嫡男治仁王・近衛局・近臣庭田重有らが、集まったところで、
水を口に含ませようとしたが、
飲み込めず、
閉眼。
66歳。
次男貞成王の記。
「其の姿之を見る。
いよいよ哀傷肝に銘じ、悲涙眼に満つ。
予、去んぬる応永十八年此の御所へ参り候。
爾来以降六年の間、日夜昵近、朝暮孝を致す。
殊更去年御病悩より御臨終に至るまで、
看病寸暇を競い、忠孝の懇志に励むのみ。
つらつら案ずるに、
進退の安否前後惘然、
只愁涙を拭うのほか他念無きものなり。」(『看聞日記』)
前日19日には、孫娘あごご(貞成の娘)が生まれたばかりであり、
また、懸案の伏見宮家領は、いまだ後小松上皇の院宣が出ておらず、
念願の旧領回復は、まだ先の話であった。
知らせを受けた室町殿足利義持は、
荼毘は、崇光上皇のときと同じように執り行うように、
と、命じた。
とはいえ、宮家の経営が厳しい折、
そっくりそのままというわけにもいかず、
一部は省略などしなければならないのが実情であった。
生前、栄仁は、
播磨国石見郷を菩提料所として、伏見大光明寺へ寄進し、
没後のことはその年貢をもって賄うこと、
毎事簡略の儀をもってし、大光明寺に負担をかけぬようにすること、
位牌には「大通院無品親王」と書くべきこと、
を言い置いた。
これらの旨も、幕府へ届け出られ、許可が出ている。
23日寅の刻(午前4時頃)、
遺骸は輿に乗せられて、大光明寺に運ばれた。
御簾をあげてその死に顔を見た次男貞成王は、
「聊かも変色なく、
平生の御時眠る如し。
凡そ御終焉の儀、悪想現れず。
御往生と謂うべきものか。」(『看聞日記』)
続けて、
「今年六十六歳、
宝算長久と雖も、夢の如く幻の如し。
嗚呼登極の御先途遂にもって達せられざるの条、
生前の御遺恨此の一事に在り。
毎事悲歎落涙のほか他事無し。」(『看聞日記』)
と記す。
長寿を得たとはいえ、
即位の夢も果たせず、
所領の回復もままならず、
思い残すことは、少なくなかったであろう。
24日、大光明寺にて荼毘。
伏見宮家親族や侍臣たちが集まり、
おごそかに執り行われた。
荼毘の最中、
桟敷のあたりから人魂が飛んだという。
初七日の翌25日、拾骨。
その後、
12月2日、二七日の仏事。
7日、三七日、
12日、四七日、
13日、遺骨は深草法華堂や椎野浄金剛院に分納された。
17日、卅五日、
21日、六七日の仏事引き上げ、
25日、尽七の儀結願、
明けて応永24年(1417)正月9日、四十九日。
折も折、
関東における上杉禅秀の乱と、
京都での、それにともなう足利義嗣逐電事件のさなかであったが、
洛外の伏見ゆえか、その影響もなく、
いずれも滞りなく行われている。
そして、伏見宮家は栄仁の嫡男治仁王が継いだが…。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)
』 (講談社 2002年)
崇光天皇皇子。
伏見宮家初代。
父崇光天皇は、持明院統・北朝の正統であったが、
南北朝の動乱の過程で廃位され、
皇位は弟の後光厳天皇にわたった。
崇光上皇は、嫡男栄仁親王の立坊(立太子)を望んだが、果たされず、
後光厳天皇の系統が継ぐこととなる。
崇光上皇没後、
栄仁親王はその遺領を、
後小松天皇(後光厳の孫)に没収されるなど、
非常に苦しい立場にあった。
応永22年(1415)冬、
65歳になる栄仁親王は、脚気が再発。
翌応永23年(1416)夏頃から、
食が細くなり、めっきり憔悴してしまった。
この間、
同阿、高間といった医師たちが治療を行ったが、
快復には向かわなかった。
8月19日、
腰痛で、起きることすらままならなくなった。
医師竹田昌耆が来診し、
2日後、十四味建中湯と腰に付ける薬を調進。
25日と27日には、
大光明寺の継首座が、
医師心知客秘伝の術の、腰痛に効くという灸を、施した。
同時に、24~27日、祈祷のため大般若経が読まれている。
9月2日、
病気快復と旧領回復のため、伏見宮家の近臣や女房たちが、
当時霊験あらかたと流行していた桂地蔵に参詣。
翌10月頃から、
栄仁の終末への準備が始められていく。
10月4日、栄仁詠歌の撰集が開始される。
8日頃、腰痛再び悪化。
11月になっても、回復の兆しはなく、
12日、医師昌耆が灸を施すなど、治療が続けられた。
同日、詠歌の撰集が終了。
13日には、大光明寺への置文が作成された。
11月3日、
前月に続いて、貞成王の顔拭いの布がネズミにかじられる、
ということがあったが、
のち、貞成は、
これが凶兆だったのかもしれない、
と回想している。
20日、
暁より下痢にかかり、危篤。
夜前、左の脈が絶える。
この頃連日、医師昌耆を呼んでいたが、
都合が悪かったのか、このときも来なかった。
未の刻(午後2時頃)、粥を食べ、平臥した。
次男貞成王が、背中から抱きかかえたが、
辛そうな様子であった。
御前に伺候した仕女の対御方は、
悲しみのあまり嗚咽を漏らしていたが、
栄仁は、それが見えているかどうかも怪しいほど、
意識が混濁としていた。
貞成に代わって、尼玄経が抱きかかえていた頃、
栄仁が「起き上がりたい」というので、起き上がらせた。
だが、
顔色が急変し、喋ることもままならず、
口を閉じることすらできなくなった。
蘇合を口に含ませたが、飲み込めず、
非常に苦しげであった。
このとき、栄仁の周囲にいたのは、
次男貞成王・仕女対御方・近臣田向長資・その姉妹の尼玄経ら。
今度は、田向長資が抱き支えた。
急ぎ呼び集められた、
嫡男治仁王・近衛局・近臣庭田重有らが、集まったところで、
水を口に含ませようとしたが、
飲み込めず、
閉眼。
66歳。
次男貞成王の記。
「其の姿之を見る。
いよいよ哀傷肝に銘じ、悲涙眼に満つ。
予、去んぬる応永十八年此の御所へ参り候。
爾来以降六年の間、日夜昵近、朝暮孝を致す。
殊更去年御病悩より御臨終に至るまで、
看病寸暇を競い、忠孝の懇志に励むのみ。
つらつら案ずるに、
進退の安否前後惘然、
只愁涙を拭うのほか他念無きものなり。」(『看聞日記』)
前日19日には、孫娘あごご(貞成の娘)が生まれたばかりであり、
また、懸案の伏見宮家領は、いまだ後小松上皇の院宣が出ておらず、
念願の旧領回復は、まだ先の話であった。
知らせを受けた室町殿足利義持は、
荼毘は、崇光上皇のときと同じように執り行うように、
と、命じた。
とはいえ、宮家の経営が厳しい折、
そっくりそのままというわけにもいかず、
一部は省略などしなければならないのが実情であった。
生前、栄仁は、
播磨国石見郷を菩提料所として、伏見大光明寺へ寄進し、
没後のことはその年貢をもって賄うこと、
毎事簡略の儀をもってし、大光明寺に負担をかけぬようにすること、
位牌には「大通院無品親王」と書くべきこと、
を言い置いた。
これらの旨も、幕府へ届け出られ、許可が出ている。
23日寅の刻(午前4時頃)、
遺骸は輿に乗せられて、大光明寺に運ばれた。
御簾をあげてその死に顔を見た次男貞成王は、
「聊かも変色なく、
平生の御時眠る如し。
凡そ御終焉の儀、悪想現れず。
御往生と謂うべきものか。」(『看聞日記』)
続けて、
「今年六十六歳、
宝算長久と雖も、夢の如く幻の如し。
嗚呼登極の御先途遂にもって達せられざるの条、
生前の御遺恨此の一事に在り。
毎事悲歎落涙のほか他事無し。」(『看聞日記』)
と記す。
長寿を得たとはいえ、
即位の夢も果たせず、
所領の回復もままならず、
思い残すことは、少なくなかったであろう。
24日、大光明寺にて荼毘。
伏見宮家親族や侍臣たちが集まり、
おごそかに執り行われた。
荼毘の最中、
桟敷のあたりから人魂が飛んだという。
初七日の翌25日、拾骨。
その後、
12月2日、二七日の仏事。
7日、三七日、
12日、四七日、
13日、遺骨は深草法華堂や椎野浄金剛院に分納された。
17日、卅五日、
21日、六七日の仏事引き上げ、
25日、尽七の儀結願、
明けて応永24年(1417)正月9日、四十九日。
折も折、
関東における上杉禅秀の乱と、
京都での、それにともなう足利義嗣逐電事件のさなかであったが、
洛外の伏見ゆえか、その影響もなく、
いずれも滞りなく行われている。
そして、伏見宮家は栄仁の嫡男治仁王が継いだが…。
〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)
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《自害》 《1333年》 《5月》 《9日》 《享年28歳》
六波羅探題北方、
信濃守護。
元徳2年(1330)末、
北条仲時は、上洛して六波羅探題北方に就任。
最初の討幕計画に失敗した後醍醐天皇が、
再び討幕の意を強くしている頃であった。
翌元徳3・元弘元年(1331)、
後醍醐天皇が2度目の討幕計画を起こすに及び、
笠置山に籠った後醍醐天皇を捕えて、鎌倉幕府の命により隠岐に流した。
その後、
畿内山岳部でゲリラを続ける楠木正成・護良親王らの討伐に当たった。
だが、
時代の趨勢は倒幕に傾き、
翌年には、山陰・山陽・四国・九州で反幕府勢力の挙兵が相次ぐ。
元弘3・正慶2年(1333)、
彼らに迎えられて、後醍醐天皇、隠岐脱出。
こうした危機的状況に、
鎌倉幕府は、足利高氏(のち尊氏)らに大軍をつけて、
関東から西へ遣わす。
しかし、
その高氏も、丹波篠村にて幕府より離反、
踵を返して、
播磨の赤松則村らとともに、京都への進軍を開始する。
元弘3年(1333)5月7日、
仲時と六波羅探題南方の北条時益は、洛中で反幕府軍と合戦し、敗北。
ここに、六波羅探題は崩壊する。
反幕府軍の入京を許した仲時と時益は、
持明院統の光厳天皇・後伏見・花園両上皇を奉じて、
鎌倉を目指すこととした。
しかし、
その日の夜、時益戦死。
仲時らが目指した関東であったが、
おりしもその8日、
新田義貞・足利千寿丸(尊氏の子、のちの義詮)らが上野新田荘で挙兵。
軍勢を増やしながら、鎌倉に向けて南下を始めているところであった。
京都脱出に成功した仲時は、
関東の状況など知る由もなく、鎌倉を目指して東山道を東へ急いだ。
だが、9日、
近江番場宿に来たところで、
再び、行く手を反幕府勢力に阻まれる。
しかも、
後陣の佐々木時信は、敵軍に投降してしまう。
前後の敵に進退窮まった仲時は、
番場蓮華寺にて、一族・家臣・同僚ら432人とともに自害。
仲時、28歳。
越後守仲時、暫し時信を遅しと待ち給いけるが、
待つ期過ぎて時移りければ、
さては時信も早敵に成りにけり。
今はいづくへか引き返し、いづくまでか落つべきなれば、
爽やかに腹を切らんずるものをと、
中々一途に心を取り定めて、
気色涼しくぞ見えける。
その時軍勢どもに向かって宣いけるは、
「武運漸く傾いて、当家の滅亡近きにあるべしと見給いながら、
弓矢の名を重んじ、日頃の好を忘れずして、
これまでつきまとい給える志、
中々申すことばはなかるべし。
その報謝の思い深しといえども、一家の運すでに尽きぬれば、
何をもってかこれを報ずべき。
今は我かたがたのために自害をして、
生前の報恩を死後に報ぜんと存ずるなり。
仲時不肖なりといえども、平氏一類の名を揚ぐる身なれば、
敵ども定めて我が首をもって、千戸侯にも募りぬらん。
早く仲時が首をとって源氏の手に渡し、
咎を補うて忠に備え給え。」
と、いいはてざることばの下に、
鎧脱いでおしはだ脱ぎ、腹かき切って伏し給う。
糟谷三郎宗秋これを見て、
泪の鎧の袖にかかりけるをおさえて、
「宗秋こそまず自害して、
冥途の御先をも仕らんと存じ候いつるに、
先立たせ給いぬることこそ口惜しけれ。
今生にては命を際の御先途を見はてまいらせつ。
冥途なればとて見放し奉るべきにあらず。
暫く御待ち候え。
死出の山の御伴申候わん。」
とて、越後守の、つか口まで腹に突き立ておかれたる刀を取って、
己が腹に突き立て、仲時の膝に抱きつき、
うつぶしにこそ伏したりけれ。
これをはじめて、
佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・
(この間151名略)・愛多義中務丞・子息弥次郎、これら宗徒の者として、
都合四百三十二人、同時に腹をぞ切ったりける。
血はその身を浸して、あたかも黄河の流れのごとくなり。
死骸は庭に充満して、屠所の肉に異ならず。 (『太平記』)
「蓮華寺過去帳」には、
彼らの名前が記されている。
一部、年齢の記されている者のなかでは、
最も若くして、問注所阿子光丸、14歳、
年長の者で、糟屋弥次郎入道明翁、64歳。
老若430余名の同時自害。
中世を代表する、最も印象的な死のひとつ。
〔参考〕
竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 41』 (東京堂出版 1990年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
小林一岳『元寇と南北朝の動乱 (日本中世の歴史4)
』 (吉川弘文館 2009年)
六波羅探題北方、
信濃守護。
元徳2年(1330)末、
北条仲時は、上洛して六波羅探題北方に就任。
最初の討幕計画に失敗した後醍醐天皇が、
再び討幕の意を強くしている頃であった。
翌元徳3・元弘元年(1331)、
後醍醐天皇が2度目の討幕計画を起こすに及び、
笠置山に籠った後醍醐天皇を捕えて、鎌倉幕府の命により隠岐に流した。
その後、
畿内山岳部でゲリラを続ける楠木正成・護良親王らの討伐に当たった。
だが、
時代の趨勢は倒幕に傾き、
翌年には、山陰・山陽・四国・九州で反幕府勢力の挙兵が相次ぐ。
元弘3・正慶2年(1333)、
彼らに迎えられて、後醍醐天皇、隠岐脱出。
こうした危機的状況に、
鎌倉幕府は、足利高氏(のち尊氏)らに大軍をつけて、
関東から西へ遣わす。
しかし、
その高氏も、丹波篠村にて幕府より離反、
踵を返して、
播磨の赤松則村らとともに、京都への進軍を開始する。
元弘3年(1333)5月7日、
仲時と六波羅探題南方の北条時益は、洛中で反幕府軍と合戦し、敗北。
ここに、六波羅探題は崩壊する。
反幕府軍の入京を許した仲時と時益は、
持明院統の光厳天皇・後伏見・花園両上皇を奉じて、
鎌倉を目指すこととした。
しかし、
その日の夜、時益戦死。
仲時らが目指した関東であったが、
おりしもその8日、
新田義貞・足利千寿丸(尊氏の子、のちの義詮)らが上野新田荘で挙兵。
軍勢を増やしながら、鎌倉に向けて南下を始めているところであった。
京都脱出に成功した仲時は、
関東の状況など知る由もなく、鎌倉を目指して東山道を東へ急いだ。
だが、9日、
近江番場宿に来たところで、
再び、行く手を反幕府勢力に阻まれる。
しかも、
後陣の佐々木時信は、敵軍に投降してしまう。
前後の敵に進退窮まった仲時は、
番場蓮華寺にて、一族・家臣・同僚ら432人とともに自害。
仲時、28歳。
越後守仲時、暫し時信を遅しと待ち給いけるが、
待つ期過ぎて時移りければ、
さては時信も早敵に成りにけり。
今はいづくへか引き返し、いづくまでか落つべきなれば、
爽やかに腹を切らんずるものをと、
中々一途に心を取り定めて、
気色涼しくぞ見えける。
その時軍勢どもに向かって宣いけるは、
「武運漸く傾いて、当家の滅亡近きにあるべしと見給いながら、
弓矢の名を重んじ、日頃の好を忘れずして、
これまでつきまとい給える志、
中々申すことばはなかるべし。
その報謝の思い深しといえども、一家の運すでに尽きぬれば、
何をもってかこれを報ずべき。
今は我かたがたのために自害をして、
生前の報恩を死後に報ぜんと存ずるなり。
仲時不肖なりといえども、平氏一類の名を揚ぐる身なれば、
敵ども定めて我が首をもって、千戸侯にも募りぬらん。
早く仲時が首をとって源氏の手に渡し、
咎を補うて忠に備え給え。」
と、いいはてざることばの下に、
鎧脱いでおしはだ脱ぎ、腹かき切って伏し給う。
糟谷三郎宗秋これを見て、
泪の鎧の袖にかかりけるをおさえて、
「宗秋こそまず自害して、
冥途の御先をも仕らんと存じ候いつるに、
先立たせ給いぬることこそ口惜しけれ。
今生にては命を際の御先途を見はてまいらせつ。
冥途なればとて見放し奉るべきにあらず。
暫く御待ち候え。
死出の山の御伴申候わん。」
とて、越後守の、つか口まで腹に突き立ておかれたる刀を取って、
己が腹に突き立て、仲時の膝に抱きつき、
うつぶしにこそ伏したりけれ。
これをはじめて、
佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・
(この間151名略)・愛多義中務丞・子息弥次郎、これら宗徒の者として、
都合四百三十二人、同時に腹をぞ切ったりける。
血はその身を浸して、あたかも黄河の流れのごとくなり。
死骸は庭に充満して、屠所の肉に異ならず。 (『太平記』)
「蓮華寺過去帳」には、
彼らの名前が記されている。
一部、年齢の記されている者のなかでは、
最も若くして、問注所阿子光丸、14歳、
年長の者で、糟屋弥次郎入道明翁、64歳。
老若430余名の同時自害。
中世を代表する、最も印象的な死のひとつ。
〔参考〕
竹内理三編『鎌倉遺文 古文書編 41』 (東京堂出版 1990年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
小林一岳『元寇と南北朝の動乱 (日本中世の歴史4)
《病死》 《1442年》 《8月》 《4日》 《享年43歳》
前管領。
摂津・丹波・讃岐・土佐守護。
兄持元の早世により、
永享元年(1429)7月、細川持之は30歳にして家督を継ぐ。
同年10月、管領斯波義淳の辞職を受けて、
同職に就任。
将軍足利義教を支えた。
しかし、
畠山満家・斯波義淳・満済・山名時煕ら宿老たちの相次ぐ死に、
持之ら若い幕閣は、義教を抑えることができず、
その暴走を許すこととなった。
そのため、
義教による公家・武家の粛清が度重なり、
また、懸案の鎌倉公方足利持氏との武力衝突を回避できず、
最終的に、
嘉吉元年(1441)の義教自身の横死へとつながった。
管領持之は、
将軍不在の紛糾する幕府をまとめ上げ、
義教の子義勝の擁立、
義教を弑した赤松満祐の討伐まで、どうにかこぎつけた。
そうした心労からか、
翌嘉吉2年(1442)6月24日、
「風瘧の病悩」(『康富記』)により出家し、
管領職の辞表を提出。
この日は、前将軍足利義教の一周忌でもあった。
29日、管領辞職が認められ、
畠山持国が新たな管領となる。
それからわずかひと月余りのちの8月4日、
逝去。
43歳。
13歳の子勝元が跡を継いだ。
難しい時局を切り抜けた管領だが、
“名宰相”の評価は、いまのところ、ない。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
前管領。
摂津・丹波・讃岐・土佐守護。
兄持元の早世により、
永享元年(1429)7月、細川持之は30歳にして家督を継ぐ。
同年10月、管領斯波義淳の辞職を受けて、
同職に就任。
将軍足利義教を支えた。
しかし、
畠山満家・斯波義淳・満済・山名時煕ら宿老たちの相次ぐ死に、
持之ら若い幕閣は、義教を抑えることができず、
その暴走を許すこととなった。
そのため、
義教による公家・武家の粛清が度重なり、
また、懸案の鎌倉公方足利持氏との武力衝突を回避できず、
最終的に、
嘉吉元年(1441)の義教自身の横死へとつながった。
管領持之は、
将軍不在の紛糾する幕府をまとめ上げ、
義教の子義勝の擁立、
義教を弑した赤松満祐の討伐まで、どうにかこぎつけた。
そうした心労からか、
翌嘉吉2年(1442)6月24日、
「風瘧の病悩」(『康富記』)により出家し、
管領職の辞表を提出。
この日は、前将軍足利義教の一周忌でもあった。
29日、管領辞職が認められ、
畠山持国が新たな管領となる。
それからわずかひと月余りのちの8月4日、
逝去。
43歳。
13歳の子勝元が跡を継いだ。
難しい時局を切り抜けた管領だが、
“名宰相”の評価は、いまのところ、ない。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
《誅殺》 《1177年》 《7月》 《9日》 《享年40歳》
正二位、権大納言。
父は、鳥羽院の寵臣藤原家成。
自身も後白河院の寵臣として権勢をふるった。
男色関係にあったともされる。
平治の乱では、
藤原信頼に加担して、平氏と敵対したが、
妹が平重盛(清盛の嫡男)の妻であったこともあって、
死罪は免れ、解官のみで赦された。
その後も、
延暦寺衆徒の訴えなどにより、たびたび解官・配流されたが、
そのつど、後白河院の保護により、復任。
しかし、
平氏一族に昇進を阻まれるなど、
急速に伸張する平氏の圧迫に堪えかね、
安元3年(1177)、
ついに、後白河院の近臣西光や俊寛らと、平氏打倒の密謀をなした。
宴席で、倒れた瓶子を平氏に見たてて、
その首を折り割るなどしたらしい。
だが、
その一見は、たちまちのうちに清盛の耳に入ってしまった。
6月1日、
藤原成親は、清盛に呼び出されて、
露顕したとも知らずに赴いた。
公卿の座にいた平重盛・頼盛に対し、
「何事でしょうか、
お召しがあったので、参りました。」
と言って、奥に入っていったところ、
待ち構えていた平氏の郎党平盛俊に組み伏せられ、縛り上げられて、
部屋に押し込められたのである。
驚いた重盛は、部屋越しに、
「お命ばかりは、私重盛が申し受けます」
と、義兄成親を励ましたという。
西光も同日、清盛に捕えられ、
拷問のすえ、梟首。
翌2日、
成親は、備前国へ流罪。
18日、解官。
重盛は、配流先の成親へ、衣類を送るなど援助していたが、
7月9日、死去。
食事を与えられずに、殺害されたという。
〔参考〕
『日本古典文学大系 86 愚管抄』 (岩波書店 1967年)
『新訂増補国史大系 11 日本紀略後編・百錬抄』 (吉川弘文館 1929年)
五味文彦『平清盛 (人物叢書)
』 (吉川弘文館 2009年)
『国史大辞典 12 ふ-ほ』 (吉川弘文館 1991年)
正二位、権大納言。
父は、鳥羽院の寵臣藤原家成。
自身も後白河院の寵臣として権勢をふるった。
男色関係にあったともされる。
平治の乱では、
藤原信頼に加担して、平氏と敵対したが、
妹が平重盛(清盛の嫡男)の妻であったこともあって、
死罪は免れ、解官のみで赦された。
その後も、
延暦寺衆徒の訴えなどにより、たびたび解官・配流されたが、
そのつど、後白河院の保護により、復任。
しかし、
平氏一族に昇進を阻まれるなど、
急速に伸張する平氏の圧迫に堪えかね、
安元3年(1177)、
ついに、後白河院の近臣西光や俊寛らと、平氏打倒の密謀をなした。
宴席で、倒れた瓶子を平氏に見たてて、
その首を折り割るなどしたらしい。
だが、
その一見は、たちまちのうちに清盛の耳に入ってしまった。
6月1日、
藤原成親は、清盛に呼び出されて、
露顕したとも知らずに赴いた。
公卿の座にいた平重盛・頼盛に対し、
「何事でしょうか、
お召しがあったので、参りました。」
と言って、奥に入っていったところ、
待ち構えていた平氏の郎党平盛俊に組み伏せられ、縛り上げられて、
部屋に押し込められたのである。
驚いた重盛は、部屋越しに、
「お命ばかりは、私重盛が申し受けます」
と、義兄成親を励ましたという。
西光も同日、清盛に捕えられ、
拷問のすえ、梟首。
翌2日、
成親は、備前国へ流罪。
18日、解官。
重盛は、配流先の成親へ、衣類を送るなど援助していたが、
7月9日、死去。
食事を与えられずに、殺害されたという。
〔参考〕
『日本古典文学大系 86 愚管抄』 (岩波書店 1967年)
『新訂増補国史大系 11 日本紀略後編・百錬抄』 (吉川弘文館 1929年)
五味文彦『平清盛 (人物叢書)
『国史大辞典 12 ふ-ほ』 (吉川弘文館 1991年)
《誅殺》 《1332年》 《6月》 《2日》 《享年43歳》
従三位、権中納言。
後醍醐天皇の側近として、日野資朝は同族の俊基とともに、
天皇の討幕計画に参画した。
旧来の価値観にとらわれない、豪胆な人物であったと伝えられる。
元亨4年(1324)9月19日、
京都四条の辺りで、合戦があった。
後醍醐天皇の討幕計画の一員で土岐頼員が、
恐れをなしたか、計画を六波羅探題に密告。
六波羅探題は、関係者の土岐頼有と多治見国長を召喚したところ、
応じずに反抗の意を露わにしたため、
軍勢を差し向けて、自害させた。
その騒動であった。
同日、計画の首謀者として、
日野俊基が、戌の刻(夜8時頃)、
資朝が、丑の刻(深夜2時頃)、
六波羅探題に連行された。
資朝は、
「関東の執政、然るべからず。
また、運すでに衰うに似たり。
朝威はなはだ盛ん。
あに敵うべけんや。
よって、誅せらるべきの由、綸言を承る。」(『花園天皇宸記』)
と言って、同志を募り、
23日の北野祭の喧騒に乗じて、
六波羅探題を倒す計画だったという。
また、彼らは、
結衆の会合、
乱遊、あるいは衣冠を着さず、
ほとんど裸形、
飲茶の会これ有り。(『花園天皇宸記』)
献盃の次第、上下を云わず、
男は烏帽子を脱いで髻を放ち、
法師は衣を着ずして白衣になり、
年十七八なる女の、みめ形優に、
はだえ殊に清らかなるを二十余人、すずしの単ばかりを着せて、
酌を取らせければ、
雪のはだえ透き通りて、大液の芙蓉、新たに水を出でたるに異ならず。
山海の珍物を尽くし、旨酒泉のごとくに湛えて、
遊び戯れ舞い歌う。
その間には、ただ東夷を亡ぼすべき企てのほかは他事なし。(『太平記』)
といった、「無礼講」「破仏講」と呼ばれるような乱チキ騒ぎを繰り返したといい、
花園上皇は、これを、
「これ学達士の風か。」(『花園天皇宸記』)などと批判している。
10月5日、
資朝に使える青侍2人を、
六波羅探題が、尋問のため召喚しようとしたところ、
逐電。
六波羅探題で取調べを受けた資朝・俊基は、
10月22日、
さらなる糾明のため、鎌倉に護送された。
正中2年(1325)閏正月、
鎌倉での糾明により、
資朝と俊基は、ほとんど無実とされたが、
なにゆえか、資朝のみは佐渡へ配流されることになった。
その訳は、2月7日に幕府が朝廷に伝えたところによると、
資朝は、計画への関与がきわめて濃厚なため、配流。
俊基は、関与の風聞があるが、証拠がないため、無罪放免。
幕府は、
資朝ひとりを罰することで、
後醍醐天皇とその周囲に、釘を刺し、
事件を処理したのである。
そうして、8月、
資朝は佐渡に配流される。
だが、元弘元年(1331)、
後醍醐天皇は飽き足らずに、再び討幕計画を起こし、
再び幕府の知るところとなった。
六波羅探題の追手を逃れて、御所を脱出した天皇は、
山城笠置山で挙兵するも、
幕府軍の攻撃により、あえなく陥落、捕えられた。
翌正慶元年(1332)4月、
幕府はこの一件の処断を下す。
2度目だけあって、幕府の処分は苛烈であった。
後醍醐天皇、隠岐へ配流。
天皇の皇子たちのうち、10歳以上は京都追放、10歳以下は然るべき人に預ける。
二条道平、叔父師忠預かり、家流廃絶。
洞院実世、父公賢預かり。
御子左為定、出仕停止、祖父為世預かり。
北畠具行・日野資朝・平成輔・日野俊基、斬罪。
聖尋・俊雅・文観、遠島。
洞院公敏・花山院師賢・万里小路藤房・同季房・円観・仲円、遠流。
かくして、
佐渡にいる資朝の斬刑は、
幕府より佐渡守護代本間山城入道へ伝えられた。
父資朝の斬罪を聞いた子阿新丸(のちの日野国光)は、
最後に一目父に逢おうと、京都より越前敦賀を経て、佐渡に渡った。
しかし、
本間山城入道は、父子の対面を許さず、
6月2日、刑を執り行う。
五月廿九日(ママ)の暮れ程に、
資朝卿を牢より出だし奉りて、
「遥かに御湯も召され候わぬに、御行水候え」と申せば、
早斬らるべき時になりけりと思い給いて、
「嗚呼うたてしきことかな、
我が最後の様を見んために、
遥々と尋ね下ったる幼き者を、一目も見ずして、
果てぬる事よ」
とばかり宣いて、
そののちは、かつて諸事につけて、言葉をも出だし給わず。
今朝までは、気色しおれて、常には涙を押し拭い給いけるが、
人間の事においては、頭燃を払うごとくになりぬと覚って、
ただ綿密の工夫のほかは、余念ありとも見え給わず。
夜に入れば、輿さしよせて乗せ奉り、
ここより十町ばかりある河原へ出だし奉り、輿かき据えたれば、
少しも臆したる気色もなく、
敷皮の上に居直って、辞世の頌を書き給う。
五蘊仮に形を成し
四大今空に帰す
首をもって白刃に当つ
截断一陣の風
年号月日の下に名字を書き付けて、筆を擱き給えば、
斬り手後ろへ回るとぞ見えし。
御首は敷皮の上に落ち、骸はなお坐せるがごとし。(『太平記』)
その後、父の遺骨を拾った阿新丸は、
仇討ちとして、本間山城入道は取り逃したものの、
斬り手本間三郎を討ち果たすが、
それはまた別の話。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
『史料纂集 花園天皇宸記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
従三位、権中納言。
後醍醐天皇の側近として、日野資朝は同族の俊基とともに、
天皇の討幕計画に参画した。
旧来の価値観にとらわれない、豪胆な人物であったと伝えられる。
元亨4年(1324)9月19日、
京都四条の辺りで、合戦があった。
後醍醐天皇の討幕計画の一員で土岐頼員が、
恐れをなしたか、計画を六波羅探題に密告。
六波羅探題は、関係者の土岐頼有と多治見国長を召喚したところ、
応じずに反抗の意を露わにしたため、
軍勢を差し向けて、自害させた。
その騒動であった。
同日、計画の首謀者として、
日野俊基が、戌の刻(夜8時頃)、
資朝が、丑の刻(深夜2時頃)、
六波羅探題に連行された。
資朝は、
「関東の執政、然るべからず。
また、運すでに衰うに似たり。
朝威はなはだ盛ん。
あに敵うべけんや。
よって、誅せらるべきの由、綸言を承る。」(『花園天皇宸記』)
と言って、同志を募り、
23日の北野祭の喧騒に乗じて、
六波羅探題を倒す計画だったという。
また、彼らは、
結衆の会合、
乱遊、あるいは衣冠を着さず、
ほとんど裸形、
飲茶の会これ有り。(『花園天皇宸記』)
献盃の次第、上下を云わず、
男は烏帽子を脱いで髻を放ち、
法師は衣を着ずして白衣になり、
年十七八なる女の、みめ形優に、
はだえ殊に清らかなるを二十余人、すずしの単ばかりを着せて、
酌を取らせければ、
雪のはだえ透き通りて、大液の芙蓉、新たに水を出でたるに異ならず。
山海の珍物を尽くし、旨酒泉のごとくに湛えて、
遊び戯れ舞い歌う。
その間には、ただ東夷を亡ぼすべき企てのほかは他事なし。(『太平記』)
といった、「無礼講」「破仏講」と呼ばれるような乱チキ騒ぎを繰り返したといい、
花園上皇は、これを、
「これ学達士の風か。」(『花園天皇宸記』)などと批判している。
10月5日、
資朝に使える青侍2人を、
六波羅探題が、尋問のため召喚しようとしたところ、
逐電。
六波羅探題で取調べを受けた資朝・俊基は、
10月22日、
さらなる糾明のため、鎌倉に護送された。
正中2年(1325)閏正月、
鎌倉での糾明により、
資朝と俊基は、ほとんど無実とされたが、
なにゆえか、資朝のみは佐渡へ配流されることになった。
その訳は、2月7日に幕府が朝廷に伝えたところによると、
資朝は、計画への関与がきわめて濃厚なため、配流。
俊基は、関与の風聞があるが、証拠がないため、無罪放免。
幕府は、
資朝ひとりを罰することで、
後醍醐天皇とその周囲に、釘を刺し、
事件を処理したのである。
そうして、8月、
資朝は佐渡に配流される。
だが、元弘元年(1331)、
後醍醐天皇は飽き足らずに、再び討幕計画を起こし、
再び幕府の知るところとなった。
六波羅探題の追手を逃れて、御所を脱出した天皇は、
山城笠置山で挙兵するも、
幕府軍の攻撃により、あえなく陥落、捕えられた。
翌正慶元年(1332)4月、
幕府はこの一件の処断を下す。
2度目だけあって、幕府の処分は苛烈であった。
後醍醐天皇、隠岐へ配流。
天皇の皇子たちのうち、10歳以上は京都追放、10歳以下は然るべき人に預ける。
二条道平、叔父師忠預かり、家流廃絶。
洞院実世、父公賢預かり。
御子左為定、出仕停止、祖父為世預かり。
北畠具行・日野資朝・平成輔・日野俊基、斬罪。
聖尋・俊雅・文観、遠島。
洞院公敏・花山院師賢・万里小路藤房・同季房・円観・仲円、遠流。
かくして、
佐渡にいる資朝の斬刑は、
幕府より佐渡守護代本間山城入道へ伝えられた。
父資朝の斬罪を聞いた子阿新丸(のちの日野国光)は、
最後に一目父に逢おうと、京都より越前敦賀を経て、佐渡に渡った。
しかし、
本間山城入道は、父子の対面を許さず、
6月2日、刑を執り行う。
五月廿九日(ママ)の暮れ程に、
資朝卿を牢より出だし奉りて、
「遥かに御湯も召され候わぬに、御行水候え」と申せば、
早斬らるべき時になりけりと思い給いて、
「嗚呼うたてしきことかな、
我が最後の様を見んために、
遥々と尋ね下ったる幼き者を、一目も見ずして、
果てぬる事よ」
とばかり宣いて、
そののちは、かつて諸事につけて、言葉をも出だし給わず。
今朝までは、気色しおれて、常には涙を押し拭い給いけるが、
人間の事においては、頭燃を払うごとくになりぬと覚って、
ただ綿密の工夫のほかは、余念ありとも見え給わず。
夜に入れば、輿さしよせて乗せ奉り、
ここより十町ばかりある河原へ出だし奉り、輿かき据えたれば、
少しも臆したる気色もなく、
敷皮の上に居直って、辞世の頌を書き給う。
五蘊仮に形を成し
四大今空に帰す
首をもって白刃に当つ
截断一陣の風
年号月日の下に名字を書き付けて、筆を擱き給えば、
斬り手後ろへ回るとぞ見えし。
御首は敷皮の上に落ち、骸はなお坐せるがごとし。(『太平記』)
その後、父の遺骨を拾った阿新丸は、
仇討ちとして、本間山城入道は取り逃したものの、
斬り手本間三郎を討ち果たすが、
それはまた別の話。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
『史料纂集 花園天皇宸記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『太平記 1 日本古典文学大系 34』 (岩波書店 1960年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
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27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
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享年 50代~
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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