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死に様データベース
《誅殺》 《1493年》 《閏4月》 《29日》 《享年52歳》


正三位権大納言。

8代将軍足利義政の弟義視と昵懇であり、
その子義材が将軍となるに及び、抬頭し、
正三位権大納言にのぼった。


明応2年(1493)2月、
将軍足利義材による畠山基家追討において、
光忠は畠山尚順とともに先陣をつとめた。
公家として異例である。
なお、
この陣には松殿忠顕・高倉永康ら、義材に近しい公家も従軍している。

4月22日、
京都に留守中の前管領細川政元が、
将軍義材に対してクーデターを起こすと、
葉室光忠の屋敷も、細川方によって徹底的に破壊された。
細川方の光忠に対する欝憤が知れる。
光忠の父教忠は、何とかその場を脱出し、逐電。
クーデターに参加した大内義興・赤松政則らも、
光忠の専横を、こころよく思っていなかったらしい。


出陣先の河内正覚寺城で孤立した将軍義材や畠山政長・尚順父子、光忠らは、
政元方と畠山基家に攻められ、
閏4月25日、落城。
畠山政長は切腹、尚順は逃亡したが、
義材と光忠は、細川政元に降服した。

29日申の刻(夕方4時頃)、光忠は、
幽閉先であろう、摂津天王寺の地蔵堂で殺された。
その首は、京都に運ばれた。


北野社の記録には、
「因果の儀、浅ましき浅ましき」(『北野社家引付』)
と書かれている。
出る杭は、討たれる。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
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《自害》 《1493年》 《閏4月》 《25日》 《享年52歳》


室町幕府管領。
河内・紀伊・越中・山城守護。


畠山政長の兄弥三郎と従兄義就との畠山氏の家督をめぐる争いは、
弥三郎の死後、弟の政長にも引き継がれ、
応仁・文明の乱の主要因をなした。
政長は、細川勝元の支援を得て、河内や山城で西軍の義就と戦い、
乱終息後もまだ各所でこれと戦った。


明応2年(1493)2月、
将軍足利義材は、義就の子基家を追討するため、
政長の子尚順や奉公衆を率いて、河内に出陣する。
基家追討には、政長の強い望みがあったといい、
政長もこれに随って、
将軍義材とともに河内橘嶋の正覚寺に陣を構えた。

2月中旬、合戦が始まり、
15日には大和郡山城が陥ち、
3月末には、基家の居城高屋城の周辺に戦場が移った。
政長の宿敵退治は、まもなく終わるはずだった。


ところが、
4月22日、出陣せず京都にいた前管領細川政元が、
将軍義材の従弟香厳院清晃を擁して、義材の排斥を図った。
基家追討に参陣していた大内義興・赤松政則らも、これに与同し、
その他の諸大名や奉公衆の多くもこれに従って、
義材・政長のもとを離れていった。
政元のクーデターは成功したのである。
これを、明応の政変という。
戦国時代の始点に置かれる事件である。


こうして、河内国内には、
政元方で発向してきた赤松政則
正覚寺城で孤立する足利義材・畠山政長
誉田城の畠山基家と、
三勢力が鼎立する混乱した状態となったが、
やがて赤松政則が畠山基家と結び、
義材・政長を追いつめてゆく。

閏4月上旬、
細川政元の家臣上原元秀・安富元家が、
義材らを討つため、河内に出陣。
藤井寺にいた政長の子尚順を破り、
これを正覚寺城へ退かせた。

閏4月22日、
畠山基家・赤松政則は、政長方の紀伊根来寺衆を破り、
正覚寺城を取り囲んだ。
24日夕方より総攻撃がしかけられ、
25日、正覚寺城はついに落城。
政長は子尚順を脱出させ、切腹した。
家臣遊佐長直らも討ち取られた。
義材やその側近葉室光忠らは、寄せ手の上原元秀に降服した。


政長は、政局の中枢にあり、
そのキャスティングボートを握るひとりであったが、
その死は、他人の巻き添えのような気がしなくもない。
政元のクーデターの目的が、将軍の廃立のみだとするならば、
政長の討滅は、“ついで”のように思われるのである。
しかも、
宿敵義就がこれ以前に、
病死という自然死を迎えていたことと比べるならば、
政長の死は、一層無駄死にであるような印象がぬぐいがたい。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
『国史大辞典11 (にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
《戦死》 《1446年》 《9月》 《17日》 《享年不明》


越前国人。堀江党の棟梁。
奈良興福寺領 越前河口荘細呂宜郷下方の政所。


加賀守護富樫氏の教家・泰高兄弟の争いは、
守護代山川八郎の切腹で、決着がつけられたはずだった。
だが、その後もくすぶり続け、
本国加賀でも両派の争いが激化していた。
さらに、
近隣の大名・国人へも、幕府から出兵が命じられ、
火に油を注ぐような状況になっている。
途中で、教家贔屓から泰高贔屓へ傾く、幕府のふらつき具合にも、
混乱の要因がある。


文安3年(1446)9月中旬、
加賀国内において、教家方と泰高方の合戦があった。
越前大野郡の守護斯波持種も、泰高方に助勢した、
激しい合戦であったらしい。
これに参戦していた越前国人堀江久用は、
一党30余騎とともに、討死してしまった。

おそらく、幕府からの出陣命令があったとはいえ、
わざわざ隣国に出かけていって、
他人の喧嘩の巻き添えをくって、命を落とすとは、
これ如何に。


なお、久用の死は、
越前河口荘内の支配を任せていた興福寺にとっては、
「言語道断」(『経覚私要鈔』)の事態であった。
これまた、あまり人間味のある反応ではない。



〔参考〕
『加能史料 室町Ⅲ』 (石川県 2005)
《病死》 《1432年》 《6月》 《27日》 《享年61歳》


室町幕府の大名。
能登畠山氏の祖。


応安2年(1372)生まれ。
兄満家とは同年の生まれであり、双生児かともされている。

父基国の死後、
足利義満の勘気を蒙って退隠していた兄満家にかわって、
畠山満慶は、畠山家惣領の地位につき、
河内・紀伊・越中・能登守護となった。
義満没後は、兄に家を譲り、能登守護のみ譲り受けた。
その後も兄をよく支えて、また幕政にも重きをなした。


永享4年(1432)5月24日、
以前からの長患いが悪化。

6月20日頃、満慶はひどい吐き気を催す。
医師坂胤能の処方した粉薬を、服用したためであったらしく、
妻や家臣もその薬を飲んでみたところ、同じ症状を発したという。
23日昼頃には、吐き気が収まったが、
27日、没。
60歳とも、61歳ともいう。

弟の死に力を落とした兄満家も、
翌年に没している。

藪医者によって死期を早めた、残念な例である。



〔参考〕
『国史大辞典 第11巻(にた-ひ)』 (吉川弘文館 1990)
『加能史料 室町Ⅱ』 (石川県 2002)
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