死に様データベース
《誅殺》 《1434年》 《12月》 《20日》 《享年不明》
左近中将。
永享6年(1434)12月20日、
関白二条持基亭において、
坊門信守は御所侍某と喧嘩になった。
何が原因かわからないが、
両者とも「沈酔」(『看聞日記』)していた。
先に信守が抜刀して斬りかかり、
逆に御所侍に突き殺された。
即死。
御所侍は、その場を逃亡したが、
その後、身柄を拘束されて、切腹。
「酔狂の至り、不可説也、」(『看聞日記』)とは、
まさしくそのとおりである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 五』 (宮内庁書陵部、2010)
左近中将。
永享6年(1434)12月20日、
関白二条持基亭において、
坊門信守は御所侍某と喧嘩になった。
何が原因かわからないが、
両者とも「沈酔」(『看聞日記』)していた。
先に信守が抜刀して斬りかかり、
逆に御所侍に突き殺された。
即死。
御所侍は、その場を逃亡したが、
その後、身柄を拘束されて、切腹。
「酔狂の至り、不可説也、」(『看聞日記』)とは、
まさしくそのとおりである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 五』 (宮内庁書陵部、2010)
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《病死》 《1525年》 《2月》 《2日》 《享年68歳》
本願寺第9世。
兄順如が早世したため、
父蓮如の法嗣となって、
延徳8年(1489)、本願寺を継承した。
室町幕府管領細川政元との関係を、良好に保ち、
急成長した本願寺教団を、何とか統制しつつ、
大名間の抗争にも介入するなどしたが、
政元の横死後は、その統制に苦慮し、
政治介入もやめて、
教団の再編・強化に努めた。
実如はまた、教団の地位の上昇にも貢献し、
大永元年(1521)には、
後柏原天皇より、准門跡とされている。
圧倒的な存在感を放つ父蓮如の陰に隠れて、やや目立たないが、
実如が本願寺教団に果たした役割は、大きい。
大永5年(1525)正月中旬、
山科本願寺にて病臥した実如は、
2月2日暁七つ時(午前4時頃)、
呼吸が荒くなり、
六つ時(朝6時頃)、昏睡。
辰の刻(朝8時頃)、永眠。
68歳。
7日未の刻(午後2時頃)、葬儀。
各地より門徒たちが上洛して参列し、
その数は、数十万にものぼったという。
なかには、実如に殉じて、
切腹する者もあったというが、定かではない。
偉大な宗主の盛大な葬儀であったことには、違いない。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅶ』 (石川県 2009)
『国史大辞典 第6巻(こま-しと)』 (吉川弘文館 1985)
本願寺第9世。
兄順如が早世したため、
父蓮如の法嗣となって、
延徳8年(1489)、本願寺を継承した。
室町幕府管領細川政元との関係を、良好に保ち、
急成長した本願寺教団を、何とか統制しつつ、
大名間の抗争にも介入するなどしたが、
政元の横死後は、その統制に苦慮し、
政治介入もやめて、
教団の再編・強化に努めた。
実如はまた、教団の地位の上昇にも貢献し、
大永元年(1521)には、
後柏原天皇より、准門跡とされている。
圧倒的な存在感を放つ父蓮如の陰に隠れて、やや目立たないが、
実如が本願寺教団に果たした役割は、大きい。
大永5年(1525)正月中旬、
山科本願寺にて病臥した実如は、
2月2日暁七つ時(午前4時頃)、
呼吸が荒くなり、
六つ時(朝6時頃)、昏睡。
辰の刻(朝8時頃)、永眠。
68歳。
7日未の刻(午後2時頃)、葬儀。
各地より門徒たちが上洛して参列し、
その数は、数十万にものぼったという。
なかには、実如に殉じて、
切腹する者もあったというが、定かではない。
偉大な宗主の盛大な葬儀であったことには、違いない。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅶ』 (石川県 2009)
『国史大辞典 第6巻(こま-しと)』 (吉川弘文館 1985)
《病死》 《1367年》 《3月》 《23日》 《享年48歳》
従二位、権中納言。
北朝に仕えた坊城俊冬は、
足利尊氏の護持僧賢俊と所領を争って、官を辞めたり、
貞治改元に際して、日野時光と争ったり、
なかなか血気盛んだったよう。
貞治6年(1367)3月17日、
俊冬は病臥する。
この日、前関白近衛道嗣の嫡男(兼嗣)元服の上卿をつとめるはずだったが、
欠席した。
医師丹波篤直は、
病原が不明だが、回復の望みはない、と診断した。
一方で、医師但馬道仙は、
「傷寒」(『後愚昧記』)(腸チフスの類か)と診断し、
22日に発汗したならば、まもなく回復するだろう、と見立てた。
だが、
23日亥の刻(夜10時頃)、死去。
正確に診断し、早々にさじを投げた医師と、
誤診して、気休めを言った医師。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
従二位、権中納言。
北朝に仕えた坊城俊冬は、
足利尊氏の護持僧賢俊と所領を争って、官を辞めたり、
貞治改元に際して、日野時光と争ったり、
なかなか血気盛んだったよう。
貞治6年(1367)3月17日、
俊冬は病臥する。
この日、前関白近衛道嗣の嫡男(兼嗣)元服の上卿をつとめるはずだったが、
欠席した。
医師丹波篤直は、
病原が不明だが、回復の望みはない、と診断した。
一方で、医師但馬道仙は、
「傷寒」(『後愚昧記』)(腸チフスの類か)と診断し、
22日に発汗したならば、まもなく回復するだろう、と見立てた。
だが、
23日亥の刻(夜10時頃)、死去。
正確に診断し、早々にさじを投げた医師と、
誤診して、気休めを言った医師。
〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1242年》 《6月》 《15日》 《享年60歳》
第3代鎌倉幕府執権。
承久3年(1221)の承久の乱では、
幕府軍の総大将として上洛し、
乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、
京都・畿内・西国の支配に当たった。
元仁元年(1224)6月、
2代執権である父義時の死をうけて、
鎌倉に帰り、執権となった。
その後、連署・評定衆を設置するなど、
幕府政治の刷新を図り、
貞永元年(1232)には、
武家最初の法典『御成敗式目』を制定。
鎌倉周辺の街道・港湾の整備、
鎌倉大仏建立の支援などもしている。
北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。
仁治3年(1242)、
泰時は所労により、病臥した。
5月8日、出家。
10日には、
小康状態となり、食事も摂ったが、
翌11日より悪化、
12日、さらに悪化し、
15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。
高熱のあまり、人を寄せ付けず、
亥の刻(夜10時頃)、苦しみ悶えて事切れた。
赤痢にも罹ったらしい。
泰時病臥・死去の報は、京都の公家たちも動揺させ、
噂や密談がしきりと飛び交った。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の祟りだ、とも言われている。
京都では、触穢のため、朝儀が30日間停止された。
勘解由小路経光は、
「近年、国家の重大事は、
彼の取り計らいによっていたが、
廉直な人柄で、道理をまず立て、
堯舜の生まれ変わりのようであった。」(『経光卿記抄』)
と褒めちぎっている。
が、
高熱に苦しみ、独り死んだのは、
帝に弓をひいた「極重悪人」だからであって、
東大寺・興福寺を焼いた、平清盛の臨終の際と似ている、
としている。
なお、
父義時の命日が、6月13日、
承久の乱での幕府軍入京が、6月14日。
6月には何かが起きる。
この奇妙な符合は、当時の人々を震撼させた。
〔参考〕
『大日本史料 第五編之十四』 (東京大学出版会 1952)
『国史大辞典 第12巻 (ふ-ほ)』 (吉川弘文館 1991)
第3代鎌倉幕府執権。
承久3年(1221)の承久の乱では、
幕府軍の総大将として上洛し、
乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、
京都・畿内・西国の支配に当たった。
元仁元年(1224)6月、
2代執権である父義時の死をうけて、
鎌倉に帰り、執権となった。
その後、連署・評定衆を設置するなど、
幕府政治の刷新を図り、
貞永元年(1232)には、
武家最初の法典『御成敗式目』を制定。
鎌倉周辺の街道・港湾の整備、
鎌倉大仏建立の支援などもしている。
北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。
仁治3年(1242)、
泰時は所労により、病臥した。
5月8日、出家。
10日には、
小康状態となり、食事も摂ったが、
翌11日より悪化、
12日、さらに悪化し、
15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。
高熱のあまり、人を寄せ付けず、
亥の刻(夜10時頃)、苦しみ悶えて事切れた。
赤痢にも罹ったらしい。
泰時病臥・死去の報は、京都の公家たちも動揺させ、
噂や密談がしきりと飛び交った。
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の祟りだ、とも言われている。
京都では、触穢のため、朝儀が30日間停止された。
勘解由小路経光は、
「近年、国家の重大事は、
彼の取り計らいによっていたが、
廉直な人柄で、道理をまず立て、
堯舜の生まれ変わりのようであった。」(『経光卿記抄』)
と褒めちぎっている。
が、
高熱に苦しみ、独り死んだのは、
帝に弓をひいた「極重悪人」だからであって、
東大寺・興福寺を焼いた、平清盛の臨終の際と似ている、
としている。
なお、
父義時の命日が、6月13日、
承久の乱での幕府軍入京が、6月14日。
6月には何かが起きる。
この奇妙な符合は、当時の人々を震撼させた。
〔参考〕
『大日本史料 第五編之十四』 (東京大学出版会 1952)
『国史大辞典 第12巻 (ふ-ほ)』 (吉川弘文館 1991)
《誅殺》 《1493年》 《閏4月》 《29日》 《享年52歳》
正三位権大納言。
8代将軍足利義政の弟義視と昵懇であり、
その子義材が将軍となるに及び、抬頭し、
正三位権大納言にのぼった。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材による畠山基家追討において、
光忠は畠山尚順とともに先陣をつとめた。
公家として異例である。
なお、
この陣には松殿忠顕・高倉永康ら、義材に近しい公家も従軍している。
4月22日、
京都に留守中の前管領細川政元が、
将軍義材に対してクーデターを起こすと、
葉室光忠の屋敷も、細川方によって徹底的に破壊された。
細川方の光忠に対する欝憤が知れる。
光忠の父教忠は、何とかその場を脱出し、逐電。
クーデターに参加した大内義興・赤松政則らも、
光忠の専横を、こころよく思っていなかったらしい。
出陣先の河内正覚寺城で孤立した将軍義材や畠山政長・尚順父子、光忠らは、
政元方と畠山基家に攻められ、
閏4月25日、落城。
畠山政長は切腹、尚順は逃亡したが、
義材と光忠は、細川政元に降服した。
29日申の刻(夕方4時頃)、光忠は、
幽閉先であろう、摂津天王寺の地蔵堂で殺された。
その首は、京都に運ばれた。
北野社の記録には、
「因果の儀、浅ましき浅ましき」(『北野社家引付』)
と書かれている。
出る杭は、討たれる。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
正三位権大納言。
8代将軍足利義政の弟義視と昵懇であり、
その子義材が将軍となるに及び、抬頭し、
正三位権大納言にのぼった。
明応2年(1493)2月、
将軍足利義材による畠山基家追討において、
光忠は畠山尚順とともに先陣をつとめた。
公家として異例である。
なお、
この陣には松殿忠顕・高倉永康ら、義材に近しい公家も従軍している。
4月22日、
京都に留守中の前管領細川政元が、
将軍義材に対してクーデターを起こすと、
葉室光忠の屋敷も、細川方によって徹底的に破壊された。
細川方の光忠に対する欝憤が知れる。
光忠の父教忠は、何とかその場を脱出し、逐電。
クーデターに参加した大内義興・赤松政則らも、
光忠の専横を、こころよく思っていなかったらしい。
出陣先の河内正覚寺城で孤立した将軍義材や畠山政長・尚順父子、光忠らは、
政元方と畠山基家に攻められ、
閏4月25日、落城。
畠山政長は切腹、尚順は逃亡したが、
義材と光忠は、細川政元に降服した。
29日申の刻(夕方4時頃)、光忠は、
幽閉先であろう、摂津天王寺の地蔵堂で殺された。
その首は、京都に運ばれた。
北野社の記録には、
「因果の儀、浅ましき浅ましき」(『北野社家引付』)
と書かれている。
出る杭は、討たれる。
〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅲ』 (石川県 2004)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
享年 50代~
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