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死に様データベース
《病死》 《1200年》 《正月》 《某日》 《享年不明》


正三位藤原雅隆の妻。
出身は未詳。


正治元年(1199)のころか、
正三位藤原雅隆は、皇后範子内親王(土御門天皇の准母)に仕える半物(はしたもの、下女)の、
わかつまという女性に執心したらしい。
わかつまは、もとは藤原兼実の妻兼子に仕えていたという。

夫が他所の下女に入れ込んだことに、
そのは激しく嫉妬し、
そのあまり、食べ物ものどを通らなくなって、病気になってしまった。
そうして、
正治2年(1200)正月末ごろ、ついに死んでしまった。
と、藤原定家の日記『明月記』は記している。


夫雅隆は、このとき54歳であったから、
も近い年ごろであったろうか。

なお、夫の雅隆は翌年、皇后宮権大夫となっている。


“女の嫉妬”は、死に際してもなお男によって語られる。



〔参考〕
『冷泉家時雨亭叢書 別巻2 翻刻 明月記 1』(朝日新聞社、2012年)
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《病死》 《1105年》 《正月》 《某日》 《享年不明》


摂津広田社(現・兵庫県西宮市)に参籠していた女性
名前や出自、身分等はわからず、庶民であったか。


長治2年(1105)正月、
広田社に参籠していたこの人物は、
その末社のひとつの舞殿に参籠していたところ、
「頓死」した(「続左丞抄」第2)
「寝死に」、すなわち眠ったまま死んでいたため、
周りの人は気づかなかったという。
宿直の神人が下女に命じて、ひとけのないところに遺体を持ち出したという。
葬ったとか、弔ったという記述はない。

広田社は、社中の死穢により、恒例の祭礼等をとりやめた。
まもなく、朝廷より祓い清めの命令が下り、
次いで祈謝の宣旨が下されたとみられる。



〔参考〕
『壬生新写古文書』(宮内省図書寮、1930年)→該当箇所
『新訂増補国史大系 第27巻 新抄格勅符抄・法曹類林・類聚符宣抄・続左丞抄・別聚符宣抄』(国史大系刊行会ほか、1933年)→該当箇所
《誅殺》 《1454年》 《12月》 《27日》 《享年不明》


山内上杉家の重臣長尾実景の
武蔵国人安保憲祐の
名は伝わらない。


関東管領山内上杉家の重臣、長尾実景のとして生まれ、
北武蔵の有力国人安保宗繁の嫡男憲祐のとなった。

舅の宗繁と夫の憲祐は、
永享の乱や結城合戦で上杉方として立ち回り、
嘉吉元年(1441)の上杉方による佐竹討伐でも、
病身の宗繁に代わって憲祐が常陸へ出陣した。
「憲祐」の名も、山内上杉憲実から一字を与えられたものとすれば、
上杉氏と安保氏の蜜月は相当なものであったと思われる。
重臣長尾家のが輿入れしたのも、その表れだろう。


しかし、そうした関係の深さが安保氏の運命を左右した。
足利万寿王丸(成氏)によって鎌倉公方が復興され、上杉氏との対立が再燃すると、
夫憲祐も再び戦乱にまきこまれ、
享徳2年(1453)8月24日、
上野某所での敗退を受けて、自害してしまった。
夫を喪ったは、婚家を離れて実家の長尾家に戻ったようである。


とはいえ、
上杉家の重臣長尾家が、この抗争と無縁でいられるはずもない。
とくに父実景は、前任の長尾景仲に替わって山内上杉家の家宰となり、
重臣の筆頭として、年若い山内上杉憲忠を支える立場にあった。

享徳3年(1454)12月27日、
鎌倉公方足利成氏は、関東管領山内上杉憲忠を御所へ召し出して、殺害した。
主君憲忠に随行していたのだろう、家宰長尾実景とその嫡男景住も、同じく御所内で殺された。
さらに成氏方の一手は、山内上杉氏の本邸鎌倉山内も急襲した。
この争乱のさなかに、実景のも命を落としたという。
父実景が42歳だったというから、
娘は長じても20歳前後だったろうか。
巻き添えの死か、あるいは命を狙われてのものか、定かでない。

東国武士の家で、
夫の死後に、妻が婚家を離れて実家に身を寄せていたことを示す、希少な例でもある。


ただし、
このことを記す「長林寺本長尾系図」の記述には、曖昧な点もあり、
なお検討を要するか。



〔参考〕
黒田基樹編『シリーズ・中世関東武士の研究 1 長尾景春』(戎光祥出版、2010年)
史料纂集 古文書編 安保文書』(八木書店、2022年)
《病死》 《1400年》 《正月》 《6日》 《享年不明》


鶴岡八幡宮別当弘賢の力者竹鶴の妻。名は伝わらない。
力者とは、輿舁きや馬の口取りなど力仕事に携わった従者のこと。


応永7年(1400)正月6日、死去した。
特段、その様相について記されていないことからすると、病死であったか。
中世では、死穢を免れるため、瀕死の者は寺社や居宅の敷地から外へ出されることが多いが、
なにか理由があったのか、あるいは急死であったのか、
竹鶴の妻は鶴岡八幡宮の境内で死去したようである。

このことは、鶴岡八幡宮の運営を担う供僧の間でも議論を呼んだようで、
正月23日、外方供僧たちは、
修正会の料米が支給されていないことや、導師をつとめた僧侶への加増分がないことと併せて、
この竹鶴の妻の死去について話し合い、
執行(別当のもとで鶴岡の運営を取り仕切る進止供僧)へ伝達している。
おそらくは、別当側の対応の不備を責めたのではなかろうか。


死んだ人、死んだ状況よりも、死んだ場所が重視される、中世の庶民の死。


〔参考〕
「鶴岡事書日記」 『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市、1981年)
《病死》 《1426年》 《9月》 《12日》 《享年不明》


尼寺大聖寺の喝食。
正二位権大納言清閑寺家俊の娘。


応永33年(1426)9月12日、「頓死」(『薩戒記』)
10代半ばほどだったろうか。

父清閑寺家俊は、
このとき、伊勢神宮との取次をつとめる神宮伝奏の職にあった。
おりしも伊勢神宮では、内宮造営のため全国で役夫工米の徴収が進められ、
8日後の9月20日には、室町殿足利義持の神宮参詣も控えていた。
家俊はこれらを取り計らう重要な役職にあったのだ。
の死により清閑寺家は触穢となったが、
後小松上皇は、
「大事な時期の大事な立場なので、ともかく触穢はけしからん」(『薩戒記』)
として、の喪に服することすら許さなかった。

「もっとも恐るべし恐るべし」(『薩戒記』)
とは、参議中山定親の言。

父家俊は、同年末にも引き続き神宮伝奏をつとめている。



〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 3』(岩波書店、2006年)
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死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
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