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死に様データベース
《事故死》 《1433年》 《正月》 《20日》 《享年9歳》


南禅寺の喝食(禅寺に入った剃髪前の年少者)。


いずれの出身かわからないが、
永享5年(1433)正月18日、
ひとりの少年が南禅寺に入り、喝食となった。
ところが、翌々日の20日未明、
南禅寺の塔頭龍興庵と善住庵は火災に見舞われた。
放火であったらしい。
喝食となったばかりの少年は、その火中で命を落とした。
まだたったの9歳だった。

これを日記に記した伏見宮貞成親王は、
「前世の宿業、不便々々(ふびんふびん)」(『看聞日記』)
と嘆いている。


一方、
南禅寺住持の同渓秀茂は、火災当時に雲隠れしたとも噂されたが、
誤報であったらしい。
塔頭を焼いた炎が、今にも僧堂に燃え移ろうというとき、
にわかに南風が吹いて炎を押し返し、延焼は免れたという。

貞成親王はこれを、住持同渓秀茂の「道徳」(『看聞日記』)とし、
自分が彼を住持に推薦したことを喜んでいる。


かたや少年の死を「前世の宿業」といいながら、
被害がとどまったことを住持の「徳」と称える。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』(宮内庁書陵部、2008年)
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《誅殺》 《1365年》 《正月》 《24日》 《享年不明》


下総香取社(千葉県香取市)の神人。
神人とは、下級の神職のことで、
大禰宜などの上級神職に集団で仕えて、神社の武力を構成したとされる。


南北朝時代の香取社は、
神官内部の対立と、下総守護千葉氏の家臣による横暴に悩まされていた。
なかでも、千葉氏家臣の中村聖阿やその子胤幹は、
神官の一族の大中臣実持・実秋らと結託して、香取社の社領を侵犯し、
大禰宜(神官のトップ)の大中臣長房らとの対立を深めていた。


貞治4年(1365)正月24日、
中村胤幹は、多勢を率いて境内に押し寄せ、
社殿や神官らの居所に放火した。
神官たちは神輿を振りかざして対抗しようとしたが、
中村らに矢を射かけられ、
八龍神の木像も切り砕かれた。
その混乱のなかで、多くの神人も殺害されたのである。

中村らは、半月後の2月11日にも同様の事件を起こし、
神官らを逼塞させて、香取社を追い詰めることとなった。

なお、大禰宜大中臣長房の訴状には、
社殿や神官らの居所に放った火が、神殿にも燃え移ったこと、
神輿に矢を射かけたこと、
神像を切り砕いたことに次いで、
神人らの殺害、刃傷が記されている。
上級神職にとっては、神殿や神輿など神威の安泰こそが重大事であって、
下級神職の生死は二の次であったようだ。


さらに悪いことに、
同年9月、千葉氏の当主氏胤が美濃で客死し、
幼少の竹寿丸(のちの満胤)が当主の座に就くと、
家臣たちの統制はますますきかなくなっていった。
千葉氏の庶流の一族たちが中心となって、
竹寿丸を支えていくこととなったが、
重臣の円城寺氏政以下は、露骨にこれに反抗し、
中村胤幹らの横暴は、ますますひどくなっていった。


窮した香取社は、鎌倉府に訴えを起こしたが、
貞治6年(1367)4月には鎌倉公方足利基氏が病没し、
翌応安元年(1368)には、平一揆・宇都宮氏綱の乱も起こると、
鎌倉府はその対応に追われて、
香取社への裁定はなかなか下されなかった。

しびれを切らせた香取社が、
本所である藤原摂関家に訴えて、京都を巻き込みつつ、
鎌倉に神輿を振りかざして、鎌倉府に嗷訴して、
ようやく事態の鎮静化に漕ぎつけたのは、
事件から9年を経た応安7年(1374)のことである。


〔参考〕
小国浩寿「香取社応安訴訟事件の一背景―貞冶・応安期鎌倉府の守護・国人政策―」(『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館 2001年)
『南北朝遺文 関東編 5』(東京堂出版 2012年)
《誅殺》 《1435年》 《3月》 《某日》 《享年不明》


山城国伏見荘舟津(現・京都市伏見区)に住む下女。


永享6年(1434)9月のころから、伏見舟津の下女某は、
伏見光台寺永松庵の僧超俊と密会を重ね、その子を身ごもった。
ところが、翌年3月下旬、
ことを公になることを怖れた超俊によって、
永松庵門前の麦畠で刺殺され、
遺体は薦(こも)にくるまれて、淀川に流された。

まもなく、現場に残った血だまりから事態は発覚。
超俊は犯行を自白し、
山崎(現・京都府乙訓郡大山崎町ほか)のあたりで下女の遺体も発見されたが、
その直後、超俊は行方をくらました。


犯人の超俊が逐電してしまったため、
罪は、超俊のおじで光台寺住持兼永松庵主の玄超にかけられることとなった。
領主の伏見宮貞成親王は、室町幕府に裁定を仰ごうとしたが、
伏見法安寺の住持がとりなしを求めたため、
玄超は、光台寺住持を更迭、永松庵を一時法安寺預かりとするにとどめられた。


殺害された下女の弔いがどうなったのか、
事件を記した『看聞日記』には記されていない。



〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
《自害》 《1250年》 《6月》 《24日》 《享年不明》


鎌倉の佐介(現・鎌倉市佐助)に住むがいた。
は、娘とその聟と3人で暮らしていた。

この
あろうことか実の娘に劣情を抱いたらしい。
建長2年(1250)6月24日、
聟が地方に下っているすきをうかがい、
は娘に言い寄った。
驚いた娘は、当然ながらこれを拒絶。
どうにか想いを遂げたいは、
「投げた櫛を拾った者は、肉親も赤の他人となる」という、
絶縁を意味する“投げ櫛”の慣習にのっとり、
娘の部屋に忍び込んで、屏風越しに櫛を投げ入れた。
娘は思わず、その櫛を拾ってしまう。
が「もはや他人である」と、娘に手をかけようとしたそのとき、
聟が帰宅。

実の娘に手をかけようとしたところを、その夫に見られ、
慚愧の念に堪え切れなくなったは、その場で自害した。


家の周りには、どこから聞きつけたのか野次馬が大勢集まり、
の遺骸を見ていたという。


その後の顛末がまた後味が悪い。

の自害に悲嘆した聟は、
の命令に背くから、このような親不孝なことになるのだ。
 生涯の伴侶とするには及ばない」
として、
実父の手にかけられそうになった妻を離縁した。
そして自身は出家し、
の菩提を弔う余生を送ったという。


家庭内性暴力という、今日にまで至る問題と、
中世人特有の親子観や恥の意識がないまぜとなった、
なんとも理解しがたく、胸の悪くなる事件である。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』 (吉川弘文館 1965年)
秋山哲雄「移動する武士たち―田舎・京都・鎌倉―」(『鎌倉を読み解く―中世都市の内と外―』勉誠出版 2017年 初出2008年)
《誅殺》 《1381年》 《8月》 《14日》 《享年不明》


真下勘解由左衛門尉の外居(ほかい、食べ物を入れる蓋付きの容器)を運んでいた人夫。


永徳元年(1381)8月14日、夕暮れ時、
日野一門の中納言裏松資康の家人の右衛門太郎という男の家へ、
賊が押し入った。
犯人は、資康の弟日野資教の家人である堀川範弘の息子弾正忠某。
右衛門太郎とその息子虎熊は、それぞれ頭部や右腕に深手を負いながらも防戦し、
弾正忠に傷を負わせて追い出した。


弾正忠の目当ては、右衛門太郎の殺害であったらしい。
しかし、虎熊の奮戦にあえなく撤退したため、
いよいよ恨みを募らせて、
今度は人数を引き連れて、右衛門太郎宅へ押し寄せた。
しかし、右衛門太郎父子も馬鹿ではない。
再来することを予想して、家の中で待ち構えていた。

右衛門太郎の家の前で、入るに入れない弾正忠方は、
その場で虎熊の下人を殺害した。
さらに、怒りに任せて、
たまたま通りかかった将軍足利義満の近習真下勘解由左衛門尉の人夫をも、
殺害したのである。
「およそ濫吹(乱暴狼藉)の至り、言語道断の次第也、」(『後愚昧記』)


激怒した右衛門太郎の主人裏松資康は、将軍義満へ訴え、
義満は日野資教へ、弾正忠の父堀川範弘をどう処罰するのか、と迫った。
しかし、
堀川範弘はすでに行方をくらましてしまっており、
処罰することはできなかった。


右衛門太郎父子の負傷を不憫に思った義満は、
医師を遣わして治療に当たらせた。
これにて右衛門太郎は大いに面目を施したという。


日野家の資康・資教兄弟は、
妹業子が義満の正室となったことで、将軍家の姻戚として権勢を誇り、
前々年(康暦元年)の正月にも、官人とのもめ事に対して、
「武家権威」による「傍若無人の下知」(『後愚昧記』)を下すなど、
問題を起こしていた。
傍若無人の頂上決戦は、無用な巻き添えを出しておきながら、
うやむやのまま流されたようである。



〔参考文献〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店 1988年)
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