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死に様データベース
《病死》 《1489年》 《3月》 《10日》 《78歳》


賀茂社神主森益久の娘。
後花園上皇の女房。

讃岐局、次いで中将局として後花園上皇に仕えた。
これらの女房名からすると、
はじめ下﨟だったが、のちに中﨟にのぼったと推測される。
文明2年(1470)12月の後花園法皇の崩御に際して、
女房づとめを退いて出家し、慶徳庵と名乗ったのだろうか。
「年来数奇」(『親長卿記』)というから、
和歌などに優れていたのだろう。


長享3年(1489)の春ごろ、慶徳庵が死期に近づくと、
弟の賀茂社神主森貞久は、絵師に命じての寿像(肖像画)を描かせた。
寿像が完成すると、慶徳庵は一首を寄せて辞世とした。

 のこしてもなにゝかはせんあだし野の草葉にきゆる露の面影(『親長卿記』)

「私の寿像など描き残して何になろう」という、
弟の行いに対するいささか皮肉めいたものを感じる。
なお、下の句は一説に「草葉にやどる露の面影」(『実隆公記』)であったとされるが、
面影も消えたほうが皮肉が効いていようか。


そうして、長享3年(1489)3月10日朝、逝去。
78歳とも79歳とも。
上の寿像と辞世の話を後土御門天皇から聞いた三条西実隆は、
「老病のうち、優美のことなり」(『実隆公記』)と記している。



〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
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《病死》 《1477年》 《正月》 《10日》 《享年42歳》


永享8年(1436)生まれ。出自は未詳。
はじめ三条西家の女房、
のち、内裏の右衛門内侍の女房。


三条西実隆が3歳か4歳のころ、
つまり長禄元年(1457)か同2年(1458)ごろ、
小督は三条西亭にあって、実隆の父公保に仕えていた。
小督が22、23歳のことである。
当時は別の女房名で呼ばれていたか。

長禄4年(1460)正月、主の公保が死んでしまうと、
その妻(実隆の母、甘露寺房長の娘)の計らいにより、
その年の秋より、内裏の右衛門内侍こと四辻春子に仕えることとなった。
文正元年(1466)4月、春子は勾当内侍に就任するが、
小督は有能な女官として、春子を支え続けたようである。
実隆との交流も続いたが、
小督にしてみれば、実隆はいつまでも昔の主家の坊ちゃんだっただろう。


文明8年(1476)12月13日、小督は母を亡くし、内裏を一時退去した。
実はこのとき、小督は妊娠していた。
権大納言庭田雅行とひそかに関係をもっていたらしい。
翌9年(1477)正月6日、ひどい難産のすえに女児を出産したが、
その子はまもなく死んでしまった。

難産は、小督自身の体も傷めた。
小督の産後の回復は思わしくなく、
正月10日子の下刻(夜0~1時頃)、逝去。
42歳であった。
中世の時代としては、かなりの高齢出産であっただろう。

勤続18年に及んだ小督の死に、春子の悲嘆ぶりはいかばかりか、
と実隆は同情しつつ、
自身も、日ごろのつきあいは浅からず、
「当時(いま)歎嗟の思い、忍びがたきのみ。
 有為の世界厭うべし。
 悲しむべし悲しむべし。」(『実隆公記』)
と、悲嘆に暮れている。
戒名は、玉峯珪蓮

正月28日、小督の供養のため、実隆は法華経の提婆達多品を卒塔婆に記してたむけた。
「多年官女の好、近来交友の睦、
 誠にもって忘れがたきものなり。
 よって寸丹の志を抽んずるのみ。」(『実隆公記』)


〔参考〕
『実隆公記 巻1』(1931年)
吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房―勾当内侍を中心として―」(『國學院大學大學院紀要―文学研究科―』13、1982年)
松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年)
《病死》 《1345年》 《8月》 《23日》 《享年57歳》


大外記中原師右の妻、
中原師茂・師守らの母。


康永4年(1345)の2月6日に、夫師右を亡くしたその妻は、
同月19日に出家して尼となり、顕心と号した。
その後も、子どもたちと夫の供養に勤しんでいたが、
翌3月の21日、いささか体調を崩した。
27日には、医師伊賀入道本寂の診察を受け、「大事ない」と診断されており、
次男師守は「心中悦喜のほか他事なし」と安堵して、
兄師茂と酒を飲んでいる(『師守記』、以下同)
3月30日、師茂・師守兄弟は、父の喪明けで職務に復帰した。

4月3日、顕心の病はやや回復したようで、次男師守はまた喜んでいるが、
この日の未の刻(午後2時頃)
顕心の暮らしている北面対屋の北東の柱に、羽蟻が涌くという変事があった。
陰陽師に相談したところ、
「重慎」であり、祈祷の必要があるとのことであった。
「口舌」(諍い)の災いがあるが、祈祷をすれば吉事に転じるとのことであった。
おそらく、陰陽師による祈祷がなされたであろう。


結局、顕心の具合は横ばいのままで、
5日、再び医師本寂の診察を受け、
やはり大事ないと診断されたものの、薬を処方された。
14日、重ねて本寂に診てもらい、
「御風」(風邪)と診断されて、五積散という薬を出されている。


17日、亡夫師右の跡を継いだ長男師茂が、大外記に任じられて、
名実ともに一家の当主となった。
このころ、師茂家では代替わりにともなう居宅の改築を計画していたが、
顕心の体調を慮って、改築を師茂の部屋周りにとどめている。
顕心は亡夫の部屋を使っていた。

20日、顕心の前で、新当主師茂が亡父師右の譲状を開封する儀が行われた。
長女や次男師守に宛てられたものもあり、
皆、師右を偲んで涙に暮れたようである。

26日、改築がなって引っ越しが行われ、
師右没後、顕心が管理していた南北文庫の鎰が、師茂に渡された。
師右から顕心を経て師茂への代替わりが着々と進んでいたことが、
次男師守の日記『師守記』に、刻々と記されている。


そのころの本寂による顕心の診断は、以下のとおり。
4月26日、「虚労」。薬を処方。
5月6日、「病状は変わらないが大事ない」。
5月11日、「やや快方にあるか」。
4月27日に支払われた薬代は、1貫100文(11万円ほどか)にのぼった。

5月17日、顕心は病をおして、夫師右の百ヶ日忌を執り行っている。


6月1日、
次男師守は、月が改まればの病気も癒えるはず、と期待をかけている。
しかし、6月4日のようすでは、顕心の具合はやはり思わしくなく、
毎日のようすを見ていた師守は、
一向に快方に向かわないことを嘆き、仏神に祈っている。

また本寂の見立て。
6月6日、「やや回復している」。薬を処方。
6月18日、「安心してよい」。
6月25日、「大事ない」。
次男師守はその都度一喜一憂しているが、
気休めの診断を下される顕心自身は、どう思っていたろうか。

このころ、長男師茂も体調を崩し、
8月には、「瘧病」を起こして、医師の伊藤六郎や本寂の診察を受け、
僧侶に祈祷もしてもらっている。
なお、本寂の診察料は高額だったのか、
師守やその家族の診察は、もっぱら伊藤六郎がしている。


7月18日にも、顕心は本寂より薬を処方され、
薬代100疋(10万円ほどか)であった。
しかし、顕心の病状は悪化の一途をたどり、
日に日に食欲を失い、体のむくみもひどくなっていった。
22日、次男師守は、もはや回復は望めないものと悲嘆している。
26日、医師本寂はついに「期待はできない」と診断した。


8月1日、
師守は再び、月の改まりにと兄の平癒に望みを託している。
7日ごろ、兄師茂の「瘧病」は治ったようだが、
顕心は、
14日には、師守とともに来客の対応もしたものの、
21日、容態が急変し、危篤に陥った。

23日酉の刻(夕方6時頃)、入滅。57歳。
3月下旬に体調を崩してから、5ヶ月。
臨終正念、閉眼の間際まで念仏を42遍唱えての往生であった。

師守ら兄弟姉妹にとっては、半年ばかりを隔てて父母を相次いで喪ったのである。
遺体は、亥の刻(夜10時頃)、ひそかに持蔵堂に移され、そこから霊山殿に運ばれて、
僧侶の手により葬儀が行われた。
師守らも密々これに随行している。
師茂家から支払われた葬儀代は、2貫500文(25万円ほどか)
先例では土葬だったが、火葬されたようである。

師茂家は人々の弔問を受け、
なかには見舞いのつもりで訪れたところ、他界を知って引き返した者もいた。


29日の初七日法要は、悪日のためやはり僧侶によってなされたが、
二七日以降の法要は、師茂家でなされた。
9月4日、師守は、黒染めの狩衣を着て、霊山殿へ最初の墓参りをし、
10月5日には、七七日に書写した般若心経を墓前に供えている。
この日、師茂・師守兄弟は、喪明けでもとの官職に復したが、
10月23日、月忌始め、12月3日、百日忌と、
供養を怠らずに執り行っている。



〔参考〕
『史料纂集 師守記 第3』(続群書類従完成会、1969年)
《誅殺》 《1381年》 《10月》 《27日》 《享年不明》


鴨社の前社務。
記録には「祐-(『後愚昧記』)と記されているのみで、
いまその名は詳らかにしえない。
なお、「祐」は社務家の通字であり、みな「祐○」と名乗っている。


永徳元年(1381)10月27日夜、
この男は実相院の坊官祐栄の家へ忍び入り、
鞍を盗み出そうとした。
うまく盗みおおせたのか、あるいはしくじって感づかれたのか、
逃亡しようとしたところ、
京都四辻今出川あたりで見つかって囲まれ、討ち取られた。

窃盗の常習犯であったというが、余罪は明らかでない。


〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
《誅殺》 《1225年》 《10月》 《10日》 《享年不明》


賀茂社の祢宜。


承久3年(1221)7月末、
賀茂社の祢宜賀茂祐綱は、承久の乱に加担したかどで六波羅探題に捕らえられた。
甲斐に流罪となった祐綱に代わって、祢宜に任命されたのが、
祐綱の異母兄で、賀茂社の摂社河合社の祢宜だった賀茂祐頼であった。

ちなみに、
かつて祐頼の父祐兼が、庶子の祐頼を河合社祢宜の座に押し込んだ際、
その対立候補だったのが鴨長明だったという。
長明はその敗北を機に出家して、のちに『方丈記』を編むこととなる。


閑話休題。
弟祐綱のつまづきによって、
幸運にも賀茂社祢宜の座に入れた祐頼だったが、
その最期もまたあえないものだった。

4年後の嘉禄元年(1225)10月10日正午ごろ、
摂社の巡拝を行っていた祐頼は、
河合社の北あたりで、黒染めの衣に笠をかぶった法体の男に襲われた。
周囲の田んぼからも、賊の仲間5、6人が飛び出てきて、
祐頼の供の者たちは逃げ散ってしまい、
残された祐頼は、あっけなく斬り殺されてしまった。
白昼のできごとであった。
下手人たちは東のほうに逃げて行ったというが、行方を知る者はなかった。

12日夜、
犯人不明のまま、祐頼の遺骸は船岡(現・京都市北区)あたりに葬られた。


この奇怪な事件について、人々が噂しあったのはいうまでもない。
黒幕としてまず疑われたのが、
祢宜を罷免され流罪となっていた異母弟の祐綱と、
その祐綱の同母弟で、権祢宜の祐道らである。
腹違いの兄弟間で、祢宜の座をめぐる対立があったというのだ。
実際に、祐頼の跡には権祢宜祐道が祢宜に補任されたという。

さらに数日後には、
社務を引き継いだ祐道が、伝来の文書等も引き継ごうとしたところ、
祐頼の息子祐高らが武装して抵抗した、との騒動もあったらしい。
また、
事件の前日に祐頼が境内の櫨の木を伐採したことの、罰が当たったのだ、
という噂もあったという。


結局、
祐道と祐高の争いは、六波羅探題の法廷に持ち込まれた。
11月16日に行われた裁判では、
祐道の裏で流罪中の祐綱が糸を引いていた、との理解に傾き、
翌嘉禄2年(1226)2月ごろには、証拠ありとして、
祐綱が鎌倉幕府によって再び禁錮に処されることとなり、
陰陽師の漏刻博士賀茂宣知も、共犯者として六波羅探題に拘束された。
祐高に優位に事態が動いたのは、
祐道よりも多額の賄賂が効いたのかもしれないが、
なにより、祐高の妻が有力御家人の三浦義村の縁者だったことによるようだ。

事件から5か月後の3月21日、
祐高は、鎌倉幕府の推挙によって、賀茂社の祢宜に任命された。


ところが、これで決着と思いきや、
4月以降も六波羅探題の詮議は続いた。
下手人の山法師も捕えられて、犯行を自白し、
一方の祐高による策謀も発覚したというが、
それはまた別の話。


〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
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