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死に様データベース
《誅殺》 《1496年》 《正月》 《7日》 《享年49歳》


正四位下、大学頭・文章博士・大内記。
九条家の家司。


代々家司として摂関家の九条家に仕えていた唐橋在数は、
文明年代後半(1480頃)から、
九条家の当主政基・尚経父子と、深刻な対立関係にあった。
理由の一端には、九条家の家領支配をめぐってのことがあったらしく、
家領から年貢がなかなかあがってこないで、困窮した政基が、
現地の代官を叱責したところ、代官は確かに納めたことを主張、
年貢を管理していた在数に、押領等の疑いがかかったという。


九条政基の母は、唐橋在数の父在治の姉妹であり、
すなわち、政基と在数は従兄弟の関係にあたる。
かつて、政基とその甥政忠との九条家当主をめぐる争いにおいて、
在数の父在治は、政基派の主軸となって、立ち回り、
在治を前にした政忠は、怒りのあまり、刀を突きつけたという。
九条家における家司唐橋家の位置が、
如何に重いものであったか。


明応4年(1495)末、
怒りのたまった主九条政基は、唐橋在数の出仕を拒否。
しかし、
在数はこれを無視して九条亭に出仕した。
翌5年(1496)の元日・2・4日も、
同様に九条亭にやってきた。

そして、7日、
やはり出仕してきた在数と政基父子の対立は、
口論から、瞬時に加熱したらしい。
政基と尚経は、邸内において、自らの手で在数を殺害した。


元関白とその嫡子による殺人事件という、
「前代未聞」「もってのほか」(『後法興院記』)
「言語道断」(『実隆公記』・『親長卿記』・『和長卿記』)の事態に、
京都政界は揺れに揺れた。
在数と同族の東坊城和長は、
「不便(ふびん)といい無念といい、言説にあたわず」(『和長卿記』)
と、書き記している。


事件から3日後の正月10日、
在数と同族の東坊城和長・五条為学らは集まって、その後の対応を講じ、
24日、連署で抗議文を朝廷に提出。
また、
前例のない事態に対応を苦慮していた朝廷も、
同じ24日、
勅使を九条家に遣わして、事情聴取を行った。


当の政基は、
在数の罪状や「不義緩怠の子細」(「九条家文書」)を主張し、
殺害の正当性を頻りに訴えた。
在数は九条家当主の改替を図ったのだ、としており、
「愚老(政基)たとい天上の妙果を得るといえども、
 また三有の旧里に帰すといえども、
 在数朝臣においては再会するべからず。
 今生一世の勘気に非ざる…」(「九条家文書」)
と、在数への怒りが相当なものであったことがうかがえる。
蘇我入鹿と藤原鎌足の例までとりあげて、
摂関家の敵は朝敵である、とまで言っている。


2月5日、
後土御門天皇の御前にて、伝奏・弁官・外記らが出席して、評定が開かれた。
当初、九条尚経の官位剥奪が検討されたが、
近衛尚通や三条西実隆の口入れもあり、
閏2月3日、
勅勘による政基・尚経の出仕停止という判決が出された。


事件から3年近くを経た、明応7年(1498)12月11日、
九条家に勅免が下り、尚経は再び朝廷に出仕した。
政基は、これを機に隠居、剃髪。
また、
在数の子在名が元服し、唐橋家を継承した。


被官勢力の抬頭、
それによる、下剋上・上剋下の波は、
この時代、武家・公家を問わない。



〔参考〕
『図書寮叢刊 九条家文書5』 (宮内庁書陵部 1975年)
東京大学史料編纂所データベース
湯川敏治「唐橋在数事件顛末」 (『戦国期公家社会と荘園経済』 続群書類従完成会 2005年)
小森正明「中世後期九条家の家司について」 (『史境』28 1994年)
丸山裕之「中世後期公家家政の変容」 (『三田中世史研究』18 2011年)
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《誅殺》 《1429年》 《9月》 《24日》 《享年不明》



永享元年(1429)9月18日、
奈良にて潜伏中の楠木光正が捕縛され、
京都に連行された。
捕縛の手柄は、興福寺衆徒の有力者筒井覚順。
22日に奈良に下向する将軍足利義教を狙ったものとして、
捕えられたのであった。


楠木光正は、
その名字と「正」の通字からしてもわかるとおり、
南北朝期に南朝方として活躍した楠木正成の末裔と思われるが、
詳らかでない。
本当に将軍義教の命を狙っていたのかどうかも、
定かではないのである。

ただ、
応永22年(1415)7月に、
河内で楠木一族が蜂起し、守護畠山氏に鎮圧されているので、
光正もその関係者、あるいは張本人として、
身柄を捜索されていたのかもしれない。


18日に逮捕・連行された光正は、
4日後の24日、
京都六条河原にて、幕府侍所によって斬首された。
侍所の者たち6、700人が取り囲んだ上での処刑であったといい、
誇張にしても、随分ものものしい。
斬り手は、魚住某。

執行日当日に、奈良に滞在中であった将軍義教は、
「はやく首を斬れ」と急かしている。
捜査が長く深く及ぶと、
何か不都合なことでもあったのだろうか。


斬られる前日、
光正は硯と紙を取り寄せ、
辞世の頌歌をしたためた。


 幸いなるかな、小人の虚詐により大謀の高誉を成す。珍重々々。

 不来不去真空を摂る
 万物乾坤皆一同
 即ち是甚だ深し無二の法
 秋霜三尺西風を斬る

 なが月やすゑ野の原の草のうへに 身のよそならできゆる露かな
 我のみかたが秋の世のすゑの露 もとのしづくのかゝるためしを
 夢のうちに宮この秋のはてはみつ こゝろは西にあり明の月

   永享元     楠木五郎左衛門尉光正
     九月廿三日       常泉


光正の処刑に際し、
河原にあふれるほどの見物人が集まった。
首は、京都四塚にかけられた。


伏見宮貞成王は、
「頌歌等、天下の美談なり。」
と讃えている。
光正への同情の集まりは、
将軍・幕府にとっては、確かに都合が悪い。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006)
《病死》 《1350年》 《3月》 《2日》 《享年不明》


法印権大僧都。
独清軒。
玄恵とも。


漢学や詩歌に通じ、
公家社会などで重用された。

また、
足利直義とも親しく、
室町幕府の基本法令『建武式目』の起草にも関与している。
足利尊氏とその庶長子直冬の間をとりもつよう、
直義に進言したのも、
玄慧であったという。


貞和5年(1349)閏6月、
直義は、対立する高師直の排除に、いったんは成功するものの、
その2ヶ月後、巻き返しにあって、
政務より引退。
京都三条坊門高倉の屋敷も、尊氏の嫡子義詮に譲って、
12月、42歳にして剃髪し、
錦小路堀川の細川顕氏亭に籠居した。

その直義の無聊を慰めたのが、
玄慧であった、と『太平記』は伝えている。
師直の許可を得て、度々直義のもとを訪れ、
様々な物語を聞かせたという。

その玄慧も、やがて老病に冒される。
直義は、薬1包を玄慧に贈り、
その包み紙に、
 ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世に (『太平記』)
と、詠んだ。
玄慧は、これを読んで涙し、
 君が一日の恩を感じ
 我が百年の魂を招く
 病を扶けて床下に坐す
 書を披いて泪痕を拭ふ (『太平記』)
と、詠んだ。

平癒を祈る直義と、それに感じ入る玄慧
なんとも、友と呼ぶにふさわしい交流である。


観応元年(1350)3月2日、円寂。
直義は深く悲しみ、
上の漢詩に紙を貼り継ぎ、経典の一句を書き入れて、
玄慧の菩提を弔った。


嘆いたのは、直義ばかりではない。
洞院公賢は、
「文道の衰微か。
 天下頗る不問文王没落か。
 不便々々。」(『園太暦』)
と、記し、
頓阿は、直義の弔歌を読んで、
 なき跡をとはるゝまでものこりけり窓にあつめしゆきの光は (『草庵和歌集』)
と、詠み、
そのほか、多くの禅僧やときの文化人たちが、
玄慧の死を惜しんだ。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十三』 (1914)
『太平記 三 日本古典文学大系36』 (岩波書店 1962)
『国史大辞典 5 (け-こほ)』 (吉川弘文館 1985)
《病死》 《1349年》 《7月》 《6日》 《享年35歳》


前関白、
従一位左大臣。


九条道教は、北朝に仕え、
南北朝動乱の世にあって、なんとか家と家領を保った。


貞和2・3年(1346・47)頃より、体を壊しがちで、
出家を遂げていた。
貞和5年(1349)6月下旬のころより、
その「累年所労」(『園太暦』)が悪化。
24日には、「御持病危急」(『師守記』)に陥り、
いちどは薨去の報すら流れた。

7月6日未の刻(午後2時頃)、薨去。
35歳。
「心気御所労」(『師守記』)というから、
循環器系の病であろう。

その日の朝、
道教の妻は、夢うつつに不思議なものを見た。
蓮台に乗った観音菩薩が、道教の枕もとに現れ、
庭木の辺りには、紫雲が立ち込めたという。


7月8日、
一音院にて火葬。


数年前からの仏門への帰依と、
臨終の際における、観音菩薩の出現。
死への周到な準備と、その結実を、
中原師守は、
「臨終正念」(『師守記』)
と、記している。


北朝は、3日間奏事を停止。


乱世の対応に苦慮した上の、若死にであろうか。
おりしも、
室町幕府内部における足利直義高師直の対立が惹起し、
動乱がより混迷の色を深めていくさなかであった。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十二』 (1913)
《病死》 《1363年》 《2月》 《8日》 《享年37歳》


京都三条坊門油小路の念仏僧か。


貞治3年(1363)2月8日亥の刻(夜10時頃)、
三条坊門油小路の念仏堂にて、
端座合掌したまま、弘阿弥入滅。
昨冬より、体を壊していたという。


〔参考〕
『大日本史料 第六之二十六』 (1933)
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