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死に様データベース
《誅殺》 《1351年》 《2月》 《26日》 《享年不明》


初代室町幕府足利尊氏の執事。

高家は、代々足利家執事を務める家柄で、
高師直も父祖同様に、当主尊氏の執事となった。
南北朝内乱においては、
戦場での活躍にも、目を瞠るものがある。


建武3年(1336)5月、
北九州で勢力を挽回して、東上する尊氏に随い、
摂津兵庫において、尊氏の弟直義とともに、
南朝方新田義貞・楠木正成を破る。

暦応元年(1338)5月、
奥羽勢を率いて西上した南朝方北畠顕家を、
和泉堺浦で敗死させ、
貞和3年(1347)、
弟師泰とともに、河内の南朝軍を叩き、
翌4年(1348)正月、
楠木正行を、河内四条畷で討ち取り、
同月末には、
南朝の本拠大和吉野に攻め入って、
後村上天皇を、大和賀名生に逐った。

越前金ヶ崎で、新田義貞を破った弟師泰といい、
常陸で北畠親房らを征圧した養子師冬といい、
師直の一族は、“武闘派”と呼ぶに相応しい活躍を見せている。


こうした師直らの軍事力は、
畿内近国の新興武士団を組織化した成果であり、
また、
「もし王なくて叶うまじき道理あらば、
 木をもって造るか、金をもって鋳るかして、
 生きたる院・国王をば、何方へも皆流し捨て奉らばや」(『太平記』)
と、言い放ったというような、
師直の強い個性に支えられたものであった。


しかし、
この師直らの旧来の秩序を無視するやり方は、
室町幕府の政務担当者足利直義の政権構想に反し、
両者の反目は、やがて鋭い対立へと変わっていく

貞治5年(1349)閏6月、
この足利方の内訌が、
あわや武力衝突へと発展しそうになったが、
尊氏の調停によって、合意が成立。
その結果、
師直は、尊氏の執事を罷免させられた。

だが、
師直は負けてはおらず、
尊氏邸を囲んで、直義の引退を強請し、
これを成功させて、直義の寵臣上杉重能・畠山直宗を誅殺。
自身は執事に復帰した。


観応元年(1350)10月、
西国で力を蓄える直義の養子直冬(尊氏の実子)を討つべく、
尊氏自ら、西征することとなった。
が、その出陣直前、
直義が、京都を出奔。
南朝と講和して、大和に逃れ、
ついで、
河内で、師直・師泰誅伐の兵を募って挙兵するに及び、
師直直義の対立は、
尊氏・直義の兄弟間抗争へと発展する。


翌観応2年(1351)2月17日、
京都を掌握した直義は、
播磨から西上した尊氏・師直と、摂津打出浜で激突。
師直自身が股を負傷するほど、
尊氏方は大敗を喫した。

尊氏は直義に、
師直・師泰らを出家させ、彼らの政治生命を絶つことを条件に、
講和を申し入れた。
直義はこれを了承し、
尊氏を京都に入れることとなった。

2月25日、
尊氏は京都をめざし、湊川を出発。
将軍尊氏の3里ばかり後陣を、
僧体となった師直・師泰らが、とぼとぼと随っている様は、
それは見苦しいものであったという。

ところが、
2月26日、
武庫川の鷲林寺前まで来たところで、
直義方の上杉能憲が、500騎ほどの軍勢で待ち構え、
講和条件に反して、
師直・師泰ら親類・家人数十人を、殺してしまった。
上杉能憲は、師直に殺された上杉重能の養子であった。
つまりは、親の仇。

尊氏はこの所業を怒り、
直義能憲の処刑を迫ったが、容れられることはなかった。

洞院公賢は、
「盛衰耳目を遮る。
 哀しむべし哀しむべし。」(『園太暦』)
と日記に記す。


軍記物『太平記』は、これまた見事。

 同(2月)二十六日に、
 将軍(尊氏)すでに御合体(和睦)にて上洛し給えば、
 執事兄弟(師直・師泰)も、同じく遁世者にうち紛れて、
 無常の岐にむちをうつ。
 折節春雨しめやかに降りて、
 数万の敵、ここかしこにひかえたる中をうち通れば、
 「それよ」と人に見知られじと、
 蓮の葉笠をうち傾け、袖にて顔をひき隠せども、
 なかなか紛れぬ天が下、
 身のせばき程こそあわれなれ。
 将軍に離れ奉りては、
 道にても、いかなる事かあらんずらんと、危ぶみて少しもさがらず、
 馬を早めてうちけるを、
 上杉・畠山の兵ども、かねて議したることなれば、
 路の両方に、百騎、二百騎、五十騎、三十騎、
 ところどころにひかえて待ちける者ども、
 「すわや執事よ」と見てければ、
 将軍と執事とのあわいを、次第に隔てんと、
 鷹角一揆七十余騎、会釈色代もなく、
 馬を中へうちこみうちこみしける程に、心ならず押し隔てられて、
 武庫川の辺りを過ぎける時は、
 将軍と執事とのあわい、河を隔て山をへだてて、
 五十町ばかりになりにけり。
 (中略)
 執事兄弟、武庫川をうち渡りて、小堤の上を過ぎける時、
 三浦八郎左衛門が中間二人、走り寄りて、
 「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠ぬげ。」
 とて、執事の着られたる蓮の葉笠を、引っ切って捨つるに、
 ほうかぶりはずれて片顔の少し見えたるを、
 三浦八郎左衛門、
 「あわれ敵や、願うところの幸いかな。」と悦びて、
 長刀の柄をとり延べて、胴中を切って落とさんと、
 右の肩先より左の小脇まで、きっさきさがりに切り付けられて、
 あっと云うところを、重ねて二打ちうつ。
 打たれて馬よりどうと落ちければ、
 三浦、馬より飛んで下り、頸を掻き落として、
 長刀のきっさきに貫いて、差し上げたり。
 越後入道(師泰)は、半町ばかり隔たりてうちけるが、
 これを見て、馬を懸けのけんとしけるを、
 あとにうちける吉江小四郎、
 鑓をもって背骨より左の乳の下へ突きとおす。
 突かれて鑓に取り付き、懐に指したる打刀を抜かんとしけるところに、
 吉江が中間走り寄り、
 鐙の鼻を返して、引き落とす。
 落つれば首を掻き切って、あぎとを喉へ貫き、
 とっつけ(鞍の下げ紐)に着けて、馳せて行く。
 ・・・



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』 (1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
佐藤進一『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中央公論社 1965)
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《病死》 《1509年》 《閏8月》 《8日》 《享年79歳》


勧修寺前長吏、東大寺前別当。
無品。
常盤井宮直明王の子で、
のち、後崇光院(伏見宮貞成親王)の猶子となった。


応仁2年(1468)4月、
恒弘法親王は、加賀郡家荘下向の勅許を請い、
許されて、同地に下向した。
応仁・文明の乱からの疎開と思われるが、
乱終息後も長く同地に留まり、
勧修寺領郡家荘の経営にあたった。

文明16年(1484)6月、上洛、参内するも、
またすぐに加賀に下向。

永正6年(1509)閏8月8日、
再び上洛する途次、
船中において入滅。

79歳の老身には、厳しい旅路であったか。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅵ』 (石川県 2008)
《自害》 《1351年》 《正月》 《17日》 《享年不明》


関東執事。
武蔵・伊賀守護。
足利尊氏執事高師直の従兄弟。
のち、師直の養子となった。


暦応2年(1339)には、
伊勢から関東に渡り、南朝方の勢力拡大を図る北畠親房を討つため、
高師冬は、足利方の大将として関東に下向し、常陸を転戦。
康永2年(1343)11月までに、親房の拠点を次々と陥し、
親房を大和吉野に追い帰した。
翌康永3年(1344)2月、師冬も帰京。


ところが、
貞和5年(1349)半ば、京都において、
足利方内部に、高師直足利直義の対立が惹起する。

当時、関東には、
直義派の上杉憲顕が、足利方の中心としていたが、
師直派の梃入れとして、再び師冬が関東に派遣され、
上杉憲顕とともに、関東両執事として、
幼い鎌倉公方足利基氏を支えることとなった。

翌観応元年(1350)に入ると、
観応の擾乱と呼ばれるこの足利方の内訌は、さらに激化し、
尊氏・直義兄弟間の抗争へと拡大、
軍事衝突するに至る。
関東でも、
尊氏・師直派の師冬と、直義派の上杉憲顕の両執事間で、
その代理戦争が勃発したことはいうまでもない。


観応元年(1350)11月中旬から12月初旬にかけて、
関東各地で、直義派が蜂起、
鎌倉にいる師冬を追い詰めていった。
12月25日、
支えきれなくなった師冬は、
幼い鎌倉公方足利基氏を担いで、鎌倉を脱出。
一向は西へ向かい、
同日夜半、相模毛利荘湯山に着。
しかし、そこで、
公方基氏の近習のなかから、直義派に寝返る者が現れ、
基氏を奪って、鎌倉の直義方に投じてしまった。

基氏を失って一層窮地に立たされた師冬は、
甲斐須沢城に立て籠もった。
翌観応2年(1351)正月4日、
直義派の上杉憲将を大将とする師冬討伐軍数千騎が、鎌倉を出発。

16日より、攻城軍の攻撃が始まり、
翌17日、落城。自害。


北畠親房討伐戦でも、功多いながら、賞少なく、
最期も、四面楚歌の敵地に放り込まれた上の、孤軍奮闘。
有力者の養子でありながら、
何だか報われない生涯であったような気がしてならない。


なお、日本文学史上の軍記物の傑作である『太平記』は、
「城すでに落ちんとし候時、
 御烏帽子子に候いし諏訪五郎、
 初めは祝部(諏訪隆種)に属して、城を責め候いしが、
 城の弱りたるを見て、
 「そもそも吾執事(師冬)の烏帽子子にて、
  父子の契約を致しながら、
  世こぞって背けばとて、
  不義の振る舞いをば如何致すべき。
  「曾参は車を勝母の郷にかえし、孔子は渇を盗泉の水に忍ぶ」といえり。
  君子はそれ為せざる処において、名をだにも恐る。
  況や義の違うにおいてをや」とて、
 祝部に最後の暇乞いて、城中へ入り、
 却って寄せ手を防ぐこと、身命を惜しまず。
 さる程に城の後ろより破れて、 敵四方より追いしかば、
 諏訪五郎と播州(師冬)とは、手に手を取り違え、
 腹掻き切って臥し給う。
 この外義を重んじ、名を惜しむ侍共六十四人、同時に皆自害して、
 名を九原上の苔に残し、屍を一戦場の土に曝さる。」(『太平記』)
と、これまたうまい。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之十四』(1916)
『日本古典文学大系 36 太平記 三』 (岩波書店 1962)
《戦死》 《1507年》 《8月》 《29日》 《享年不明》


加賀石川郡の人。
加賀一向一揆。
「玄忍」とも。


永正4年(1507)、
加賀の一揆勢は、越前の一向衆と呼応し、越前に侵入した。
8月、
越前帝釈堂口で、越前の朝倉貞景・宗滴の軍勢と激突。
一揆勢の多くは逃げ散ったが、
玄任の率いる300余人の一隊は、一歩も退かず、討死した。


その後のことで、
軍記物『賀越闘諍記』は、面白い話を仕立てている。

 玄任が帝釈堂口で討死してから、2、30日後、
 その付近にあやかしが現れ、人々を悩ますという。
 夜、家の門をほとほとと叩く者がおり、
 家の者が出ると、
 首のない、死体のような色をした者が、4、5人いた。
 驚いて、もう一度よく確かめようと見ると、
 すっと消えてしまった。
 また、ある時は、
 真っ青の生首が、家の窓から中を覗き込んで、にっと笑った。
 家の女房が驚いて、「あっ」と声を上げて立ち上がると、
 やはり、すっと消えてしまった。
 毎夜、こんなさまだから、
 人々は窓や戸を固く閉ざし、終夜寝ずに過ごした。

 ある日の夕暮れ時、
 簾ノ尾の僧3人が、帝釈堂を通りかかると、
 空中に雲霞のごとく軍勢が集まり、その黒雲から、
 「我々は、
  文明3年(1471)の甲斐・朝倉氏の合戦で討死した兵や、
  最近の合戦で討死した者たちの亡魂である。
  怒りの妄執にとり憑かれ、ことごとく修羅道に堕ちて、
  輪転生死の旗戈をさし、
  邪見放逸の鎧を着、
  散乱麁動の剣を擎げて、
  昼夜を問わず、戦っている。
  その苦しみたるや、いかに。」
 と叫び、
 2、3万人同時に鬨の声をあげた。
 楯を叩き合って合戦する音が、響き渡った。
 しばらくすると、
 怒りが焔をなして、大きな光が100、200飛び交い、
 怖ろしい鬼が、雲の中に現れて、
 災難障碍の轡を噛み、遭難大苦の荒馬に乗り、
 僧たちのところに降りかかってきた。
 震え上がった僧たちは、寺へ逃げ帰った。
 小雨が降り、風が冷たく、雷が鳴っている日は、
 昼間でも合戦の声が聞こえたという。

その後、
高僧が経をあげ、朝倉貞景が経堂を建てたところ、
怪異はおさまったという。
この話は結局、仏法の力と朝倉貞景の名君ぶりを示す挿話であり、
玄任の討死はそれに利用されたのだが、
それにしても怪異譚が生々しい。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅴ』 (石川県 2006)
《自害》 《1478年》 《正月》 《20日》 《享年不明》


能登守護畠山義統の家臣。


文明9年(1477)6月中旬、
五井兵庫頭は主人畠山義統に、能登方上保庶子分の拝領を望んだ。
この土地から京都へ納める年貢は、例年100貫余であったが、
兵庫頭はこれを300貫納めると約束して、
方上保庶子分を獲得した。

同地には、能登高座社の神田など、寺社領が散在しており、
新領主として入部した五井兵庫頭は、さっそくこれを確認し、
 高座社領 1町
 高勝寺領 2町7段
 金文社領 5段
と、これまでどおりに寺社領の面積を定めた。


ところが、
入部からまもない6月15日、
兵庫頭は高勝寺領に乱入し、3日間居座った。
そして、定めたはずの寺社領を、
 高座社領 1町→2町8段
 高勝寺領 2町7段→5町余
 金文社領 5段→8段
と架空に水増しして、その相応額の年貢を徴収したのである。

驚いた高座社は、
守護代遊佐統秀に訴え出て、
その訴えは、京都にいる守護畠山義統まで届いた。
これには、兵庫頭も慌てふためき、
高勝寺の院主良清らを仲介として、高座社に謝罪を申し入れ、
まず、事なきを得た。
高座社の神主大宮友永は、今後のことを考え、仲介役の良清らに、
五井兵庫頭より、以後社領を違乱しない旨を一筆書いて差し出すならば、
 社に戻って、神事につとめましょう。」
と申し出たところ、
良清らは、
兵庫頭も、守護畠山義統殿の家臣です。
 それに、われわれ年寄りが申し添えることでありますから、
 兵庫頭が一筆書くこともないでしょう。
 後はわれわれに任せて、社に戻って神事におつとめください。
 もし今後何か起きたら、
 そのときはわれわれと神主大宮殿とで、
 守護畠山殿のもとに訴えに行きましょう。」
と返答した。
それならば、と高座社側も社に戻り、神事に専念した。


ところが、
9月の神事が終わった頃、
五井兵庫頭は、再び寺社領の違乱を始めた。
高座社は、すぐに仲介役の良清らに届け出て、
良清らも困惑して、何度も兵庫頭に問い合わせたが、
一向に違乱行為は収まらなかった。
ついに、高座社の神田は完全に不知行に陥り、
10月28日、高座社は守護所へ出訴した。

11月6日、
訴訟は守護代遊佐統秀に受理され、
五井兵庫頭に出頭命令が出されたが、
兵庫頭は病気を理由に出頭せず、
代わりに一族の小三郎が出頭するのみだった。

能登の守護所では、訴訟は一向に進展せず、
12月18日、
高座社の訴状と守護代遊佐の推挙状が、京都の守護畠山義統のもとに送られ、
守護直々の裁決が下ることとなった。

守護代遊佐は、
「年内の解決は難しいだろうが、
 年始の神事が滞ってはよろしくない。ひとまず、高座社の神田の年貢を、
 兵庫頭より神主大宮殿へ渡し、
 年始の神事をされるのがよいだろう。」
と言い、
遊佐より使者が兵庫頭へ遣わされたが、
兵庫頭がこれを聞くはずもなかった。


年明けて、
年貢も上がらぬまま、高座社がなんとか年始の神事を済ませた頃の、
文明10年(1478)正月10日、
京都の守護畠山義統のもとより、裁決が到来する。
裁決は、
五井兵庫頭は、高座社へ神田をすべて返還せよ」
というもので、
兵庫頭の罪が全面的に認められる結果となった。


この前後より、神領を犯した五井兵庫頭は、数々の神罰を蒙る。
・北方より大きな光るものが飛来し、兵庫頭の家に墜ちて、家が潰れた。
・狐が、昼夜を問わず兵庫頭の家に乱入した。
・8月23日、兵庫頭の父将監入道が神罰で死去。
・12月18日、兵庫頭の家臣谷屋三郎左衛門ら兄弟親子3人が、死んでしまった。
 この者たちは、神領違乱の実行犯であり、
 腰・足・手がもげてしまった。
・12月28日、軒端にゴマが生えてきて、抜き取ってもまだ生えてきた。
・12月29日夜、兵庫頭の夢枕に神が立ち、
 白羽の矢でのど(?)を射抜き、
 それ以来、兵庫頭はめっきり食欲がなくなった。
・正月1日、兵庫頭が親のもとへ年始の挨拶へ行こうとしたところ、
 道に迷い、昼頃ようやくたどり着いた。
・正月20日、兵庫頭が守護所に出仕しようとしたところ、
 高座社の社人たちに拘束されて、蛸嶋幾野番頭の家に連れて行かれ、
 暁、兵庫頭は切腹してしまった。
 しかも、従者たちは夜明けまで気付かなかったという。
なお、鎌倉期に神領に乱入した信濃国人林氏の子も、
やはり神罰で死んでしまった、という話もあったらしい。

なんだか、釈然としない、
気味の悪い話である。
神々にたてつくと、どうやらこういうことになるらしい。


とにもかくにも、
兵庫頭は追い詰められて、腹を切ったのであり、
その死は、高座社によって、神威の宣伝に大いに利用されたのである。

死も不幸も、敵にとっては宣伝の好材料にほかならない。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅰ』 (石川県 1998)
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