死に様データベース
《病死》 《1496年》 《11月》 《23日》 《享年15歳》
清原宣賢の妻。
父は医師の上池院(坂)胤祐か。
明応5年(1496)11月23日、
六位蔵人清原宣賢の妻は、難産のすえに死去してしまった。
15歳であった。
夫の宣賢は22歳。
なお、夫宣賢には、3年後に別の女性との間に、
嫡男業賢(のち良雄)が生まれ、
吉田家の養子となる息子(兼右)や、三淵晴員の妻となる娘(智慶院)など、
多くの子に恵まれている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
清原宣賢の妻。
父は医師の上池院(坂)胤祐か。
明応5年(1496)11月23日、
六位蔵人清原宣賢の妻は、難産のすえに死去してしまった。
15歳であった。
夫の宣賢は22歳。
なお、夫宣賢には、3年後に別の女性との間に、
嫡男業賢(のち良雄)が生まれ、
吉田家の養子となる息子(兼右)や、三淵晴員の妻となる娘(智慶院)など、
多くの子に恵まれている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
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《病死》 《1496年》 《7月》 《21日》 《享年69歳》
洛西嵯峨摂取院の尼僧。
父は参議甘露寺房長、母は未詳。
応仁・文明の乱後、真如は越前国にあった摂取院の所領に移住した。
京都に戻らぬまま、
明応5年(1496)7月21日、入滅。69歳。
8月10日、江南院龍霄(もと参議万里小路春房)が、
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。
龍霄は真如の兄甘露寺親長の実子、実隆は真如の姉の子であり、
ふたりは真如の甥にあたる。
実隆の母(真如の姉)はすでに25年前に他界しており、
「女子連子この一人なり。
今一度相謁せず、無念というべし。」(『実隆公記』)
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、
と、叔母の死を悲しんでいる。
15日、実隆は妹を喪った叔父親長を見舞っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所
洛西嵯峨摂取院の尼僧。
父は参議甘露寺房長、母は未詳。
応仁・文明の乱後、真如は越前国にあった摂取院の所領に移住した。
京都に戻らぬまま、
明応5年(1496)7月21日、入滅。69歳。
8月10日、江南院龍霄(もと参議万里小路春房)が、
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。
龍霄は真如の兄甘露寺親長の実子、実隆は真如の姉の子であり、
ふたりは真如の甥にあたる。
実隆の母(真如の姉)はすでに25年前に他界しており、
「女子連子この一人なり。
今一度相謁せず、無念というべし。」(『実隆公記』)
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、
と、叔母の死を悲しんでいる。
15日、実隆は妹を喪った叔父親長を見舞っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所
《病死》 《1228年》 《2月》 《4日》 《享年91歳》
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
《病死》 《1497年》 《6月》 《11日》 《享年22歳》
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
《病死》 《1188年》 《4月》 《25日》 《享年24歳》
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | ||
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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