死に様データベース
《病死》 《1225年》 《5月》 《2日》 《享年不明》
正四位下前右京権大夫藤原隆信の娘、
正二位権中納言藤原公氏の妻。
似絵の名手といわれる藤原隆信の娘として生まれ、
後白河法皇の近臣藤原実綱の娘で、高倉天皇に督典侍として仕えた藤原教子の養女となった。
はじめ、土御門上皇に少将局として仕え、
承久3年(1221)、邦子内親王が後堀河天皇の准母として立后されると、その女房となった。
やがて、
藤原公氏にみそめられたのか、妻となってその邸宅に移る。
まだ「新妻」と呼ばれている嘉禄元年(1225)頃には、
公氏の子を身ごもっている。
経歴からして、30代半ばほどであったろうか。
なお、夫公氏はこのとき44歳。
しかし、
嘉禄元年(1225)5月2日、少将局は難産のすえ、落命。
公氏の妻妾は、これまで2人出産で命を落としており、
少将局で3人目であった。
その死去は、周囲の人々に暗い影を落とした。
夫公氏は服喪の間に病となり、
養母教子もまた病のすえ死去してしまった。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
石川泰水「七条院大納言に関わる若干の考証―高倉院典侍説をめぐって―」(『群馬県立女子大学 国文学研究』15、1995年)
松薗斉「中世の内侍の復元」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
正四位下前右京権大夫藤原隆信の娘、
正二位権中納言藤原公氏の妻。
似絵の名手といわれる藤原隆信の娘として生まれ、
後白河法皇の近臣藤原実綱の娘で、高倉天皇に督典侍として仕えた藤原教子の養女となった。
はじめ、土御門上皇に少将局として仕え、
承久3年(1221)、邦子内親王が後堀河天皇の准母として立后されると、その女房となった。
やがて、
藤原公氏にみそめられたのか、妻となってその邸宅に移る。
まだ「新妻」と呼ばれている嘉禄元年(1225)頃には、
公氏の子を身ごもっている。
経歴からして、30代半ばほどであったろうか。
なお、夫公氏はこのとき44歳。
しかし、
嘉禄元年(1225)5月2日、少将局は難産のすえ、落命。
公氏の妻妾は、これまで2人出産で命を落としており、
少将局で3人目であった。
その死去は、周囲の人々に暗い影を落とした。
夫公氏は服喪の間に病となり、
養母教子もまた病のすえ死去してしまった。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
石川泰水「七条院大納言に関わる若干の考証―高倉院典侍説をめぐって―」(『群馬県立女子大学 国文学研究』15、1995年)
松薗斉「中世の内侍の復元」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
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《病死》 《1568年》 《8月》 《1日》 《享年55歳》
房総の戦国大名里見義堯の正妻。
上総万喜城主土岐為頼の娘ともされるが、
世代等が合わず定かでない。
夫の里見義堯は、
父実堯の仇である従兄弟の里見義豊を討って、天文の内乱を克服し、
房総里見氏を統一して、戦国大名としての礎を築いた人物として知られる。
正蓮は、14歳の大永7年(1527)頃、7歳上の義堯と婚姻した。
里見家が天文の内乱に陥る前のことであり、夫婦でその苦難を乗り越えたのである。
ふたりの間に実子はなかったようで、
婚姻前に生まれていた義堯の妾腹の息子義弘を、正蓮は我が子同然に養育したらしい。
夫義堯は、正蓮との婚姻後はその側妾を里へ帰し、以後一切側妻を置かなかったという。
正蓮の死は、
安房妙本寺(現・千葉県安房郡鋸南町)の前住持日我が記した、
『里見義堯室追善記』によって知られる。
日我は正蓮の夫義堯と同年代で親しく、夫妻の信仰を支えた師僧であった。
なお、「正蓮」の名は、日我が追善のために付けた名であり、生前の名ではないが、
「御台所」等以外に呼び名が伝わらず、今ひとまず正蓮と呼んでおきたい。
(以下、引用は『里見義堯室追善記』で、読みやすいように適宜用字等を改めた。)
永禄11年(1568)8月1日早朝、
正蓮は55歳でこの世を去った。
一番鶏と二番鶏が鳴く間というから、午前3時頃だったろうか。
終世夫義堯と同居していたとすれば、
臨終の地は上総久留里城(現・千葉県君津市)の御殿だっただろう。
戒名は、妙光院殿貞室梵善大姉。
訃報を聞いた日我は、正蓮を「国母」と称え、
恩恵難忘旧主悁 黒衣紅涙若深淵
人間五十五年夢 人破秋風月一天
ながむれば月すみわたる大空に雲吹きつくすわしの山風
思ひには言の葉もなし言の葉はまたなをざりのなげきなりけり
等々と詠んでその死を悼んだ。
翌2日、里見氏の菩提寺の安房延命寺(現・千葉県南房総市)で葬儀が営まれた。
安房・上総両国から駆けつけた人々が、その死を嘆き、
その泣き声は谷間や峰々に響き渡って、
草木や石、風や水面までもが悲しんでいるようであったという。
なかでも、夫義堯とその息子義弘の絶え焦がれようは、例えようもないほどで、
戦場を駆ける大の武将、それも房総を切り従える里見家の当主父子が、
声をあげて涙にむせぶ姿を、参列者に見せていた。
義堯62歳、義弘44歳。
日我曰く、「夫婦・親子の恩愛の中ほど、哀れなることは世にあらじ」。
これほどまで夫婦の仲が睦まじかったのは、
「道をわきまえ、義を知り、志深くして、孝行の旨」をわかっていたからだ、
と、日我はいう。
正蓮に近仕した女房衆の悲しみようもまた、
「人をも見分け給わず泣き悲しみ給う」
「嘆きおめき叫び泣きもだえ給うこと、天地も響くばかり也」
というようすであった。
日我は、これもまた王后と女官との君臣の道に叶うものだとしている。
42年の夫婦生活のすえ、妻に先立たれた義堯の悲しみは、日に増して募ったらしい。
体調も崩しがちで、食も細くなっていた。
日我は、義堯が一夫一婦を貫いたことを褒めたたえ、
「かくのごとく別心なく、亀鶴の契り、比翼連理の語らい、四十年に余り給えば」
恋慕の思いは無理もない、として、
『源氏物語』より、
かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべし(ママ)
雲の上も涙はくるゝ秋の月いかにすむらん蓬生の宿(ママ)
等の歌を添えている。
義堯の嘆きようなど、日我の書きぶりはいささかおおげさにも感じるが、
そこには、
夫婦愛に満ち、信仰にも篤く、徳の高い支配者として義堯を称揚する、
という側面があることを見逃してはならない。
極論すれば、日我にとって正蓮は、夫に仕える“良妻”という義堯の引き立て役であって、
夫婦の道を修めた賢妻の姿はあれ、
正蓮その人に、どこまで日我の目が向けられていたか、
疑問を抱かずにはおれない。
日我は、正蓮からもらった手紙の数々を、裏打ちして妙本寺に奉納したというが、
肝心の『里見義堯室追善記』からは、生前の正蓮の声が聞こえてこないのである。
とはいえ、正蓮の存在を過小に評価する必要もないだろう。
延命寺での正蓮=妙光院殿の追善は、曾孫の代にも続き、
先祖供養として重視されていたことがうかがえる。
その背景に、領民に慕われた正蓮の姿を思い描くことも、的外れではあるまい。
夫義堯が死去したのは、それから6年後、
天正2年(1574)6月1日のことであった。
日我は妙本寺の裏山に、夫婦の供養塔を並べて建てた。
〔参考〕
『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』(思文閣出版、2007年)
同 「日我と里見義堯室正蓮―「里見義堯室追善記」を読む」(『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003年)
同 「東国大名里見氏の歴史的性格―支配理念の側面から」(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)
滝川恒昭『里見義堯〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2022年)
房総の戦国大名里見義堯の正妻。
上総万喜城主土岐為頼の娘ともされるが、
世代等が合わず定かでない。
夫の里見義堯は、
父実堯の仇である従兄弟の里見義豊を討って、天文の内乱を克服し、
房総里見氏を統一して、戦国大名としての礎を築いた人物として知られる。
正蓮は、14歳の大永7年(1527)頃、7歳上の義堯と婚姻した。
里見家が天文の内乱に陥る前のことであり、夫婦でその苦難を乗り越えたのである。
ふたりの間に実子はなかったようで、
婚姻前に生まれていた義堯の妾腹の息子義弘を、正蓮は我が子同然に養育したらしい。
夫義堯は、正蓮との婚姻後はその側妾を里へ帰し、以後一切側妻を置かなかったという。
正蓮の死は、
安房妙本寺(現・千葉県安房郡鋸南町)の前住持日我が記した、
『里見義堯室追善記』によって知られる。
日我は正蓮の夫義堯と同年代で親しく、夫妻の信仰を支えた師僧であった。
なお、「正蓮」の名は、日我が追善のために付けた名であり、生前の名ではないが、
「御台所」等以外に呼び名が伝わらず、今ひとまず正蓮と呼んでおきたい。
(以下、引用は『里見義堯室追善記』で、読みやすいように適宜用字等を改めた。)
永禄11年(1568)8月1日早朝、
正蓮は55歳でこの世を去った。
一番鶏と二番鶏が鳴く間というから、午前3時頃だったろうか。
終世夫義堯と同居していたとすれば、
臨終の地は上総久留里城(現・千葉県君津市)の御殿だっただろう。
戒名は、妙光院殿貞室梵善大姉。
訃報を聞いた日我は、正蓮を「国母」と称え、
恩恵難忘旧主悁 黒衣紅涙若深淵
人間五十五年夢 人破秋風月一天
ながむれば月すみわたる大空に雲吹きつくすわしの山風
思ひには言の葉もなし言の葉はまたなをざりのなげきなりけり
等々と詠んでその死を悼んだ。
翌2日、里見氏の菩提寺の安房延命寺(現・千葉県南房総市)で葬儀が営まれた。
安房・上総両国から駆けつけた人々が、その死を嘆き、
その泣き声は谷間や峰々に響き渡って、
草木や石、風や水面までもが悲しんでいるようであったという。
なかでも、夫義堯とその息子義弘の絶え焦がれようは、例えようもないほどで、
戦場を駆ける大の武将、それも房総を切り従える里見家の当主父子が、
声をあげて涙にむせぶ姿を、参列者に見せていた。
義堯62歳、義弘44歳。
日我曰く、「夫婦・親子の恩愛の中ほど、哀れなることは世にあらじ」。
これほどまで夫婦の仲が睦まじかったのは、
「道をわきまえ、義を知り、志深くして、孝行の旨」をわかっていたからだ、
と、日我はいう。
正蓮に近仕した女房衆の悲しみようもまた、
「人をも見分け給わず泣き悲しみ給う」
「嘆きおめき叫び泣きもだえ給うこと、天地も響くばかり也」
というようすであった。
日我は、これもまた王后と女官との君臣の道に叶うものだとしている。
42年の夫婦生活のすえ、妻に先立たれた義堯の悲しみは、日に増して募ったらしい。
体調も崩しがちで、食も細くなっていた。
日我は、義堯が一夫一婦を貫いたことを褒めたたえ、
「かくのごとく別心なく、亀鶴の契り、比翼連理の語らい、四十年に余り給えば」
恋慕の思いは無理もない、として、
『源氏物語』より、
かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべし(ママ)
雲の上も涙はくるゝ秋の月いかにすむらん蓬生の宿(ママ)
等の歌を添えている。
義堯の嘆きようなど、日我の書きぶりはいささかおおげさにも感じるが、
そこには、
夫婦愛に満ち、信仰にも篤く、徳の高い支配者として義堯を称揚する、
という側面があることを見逃してはならない。
極論すれば、日我にとって正蓮は、夫に仕える“良妻”という義堯の引き立て役であって、
夫婦の道を修めた賢妻の姿はあれ、
正蓮その人に、どこまで日我の目が向けられていたか、
疑問を抱かずにはおれない。
日我は、正蓮からもらった手紙の数々を、裏打ちして妙本寺に奉納したというが、
肝心の『里見義堯室追善記』からは、生前の正蓮の声が聞こえてこないのである。
とはいえ、正蓮の存在を過小に評価する必要もないだろう。
延命寺での正蓮=妙光院殿の追善は、曾孫の代にも続き、
先祖供養として重視されていたことがうかがえる。
その背景に、領民に慕われた正蓮の姿を思い描くことも、的外れではあるまい。
夫義堯が死去したのは、それから6年後、
天正2年(1574)6月1日のことであった。
日我は妙本寺の裏山に、夫婦の供養塔を並べて建てた。
〔参考〕
『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』(思文閣出版、2007年)
同 「日我と里見義堯室正蓮―「里見義堯室追善記」を読む」(『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003年)
同 「東国大名里見氏の歴史的性格―支配理念の側面から」(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)
滝川恒昭『里見義堯〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2022年)
《病死》 《1257年》 《7月》 《5日》 《享年87歳》
源在子。
承安元年(1171)生まれ。
法勝寺執行能円と刑部卿局藤原範子(範兼の娘)の娘で、
父母が離別したため、母が再婚した継父源通親の養女となった。
後鳥羽天皇の後宮に入り、
建久6年(1195)12月、為仁親王を産んだ。
為仁の即位(土御門天皇)と後鳥羽院政開始後の正治元年(1199)12月、
天皇の生母として准三后となり、
さらに建仁2年(1202)正月、
女院号を受けて承明門院と称した。
在子30余歳のころ。
しかし、次の皇位継承者には、土御門天皇の異母弟守成親王が立てられ、
土御門の子孫は、後鳥羽によって皇位継承から排除されることとなった。
これには、在子が養父通親より「あいし参らせける」ために、後鳥羽に遠ざけられ、
替わって守成の母藤原重子(修明門院)がその寵を集めた、
という裏事情があったという話もあるが(『愚管抄』巻6)、
男性の変節を女性の落ち度に負わせ、
なおかつそれをゴシップとして消費する偏見的な見方である。
承元4年(1210)11月、
後鳥羽によって土御門が譲位させられ、守成(順徳天皇)が即位した。
「源博陸」(源家の関白の意)とまで呼ばれた権力者の源通親は、すでに世になく、
養祖父の後ろ盾を欠く土御門は、傍系に甘んじたのである。
翌年の建暦元年(1211)12月、在子は出家して真如妙と号した。
その間、在子はたびたび病に罹って、
息子土御門上皇の見舞いを受けている。
在子40歳のころ。
ところが、承久3年(1221)、
後鳥羽上皇が承久の乱を起こすに及んで、在子の周囲は一変する。
鎌倉幕府によって、後鳥羽は隠岐へ、土御門は土佐(のち阿波へ移送)、順徳は佐渡に流され、
在子は夫と息子と生き別れとなった。
在子51歳。
自身に累が及ぶことはなかったが、
翌貞応元年(1222)7月には、放火によって土御門万里小路御所が焼亡するなど、
在子が不安のうちに身を置いたことは間違いない。
10年後の寛喜3年(1231)10月、再開を果たせぬままに土御門に先立たれ、
阿波より遺骨を迎えて、山城金ヶ原(現京都府長岡京市)に法華堂を建てて安置した。
在子はまた、
覚子内親王や仁助法親王、邦仁王ら土御門の遺児たちを引き取り、養育した。
いずれも養父通親の孫通子が産んだ皇子女たちである。
いっぽう、忠成王ら順徳上皇の皇子女は、順徳の母修明門院重子が養育、後見していた。
仁治3年(1242)正月、
四条天皇の崩御によって、承久の乱後に鎌倉幕府が擁立した後高倉皇統が断絶すると、
在子の擁する土御門皇子か、重子の擁する順徳皇子か、
どちらの皇統が皇位を継ぐかが争点となった。
京都政界を牛耳る九条道家と西園寺公経に推された順徳皇子忠成王が、有力とみられたが、
幕府の強い意向により、土御門皇子の邦仁王に決定し、
仁治3年(1242)正月、邦仁は在子のもとで元服して、3月に即位した(後嵯峨天皇)。
同年5月には、西園寺姞子が在子の猶子となって入内している。
息子土御門の退位以来続いた在子の斜陽と不安の日々は、
30余年を経てようやく晴れたといえようか。
後嵯峨の行幸や諸臣の拝礼を受けるなど、70歳を超えた在子は天皇の祖母として公家社会で厚く遇された。
正嘉元年(1257)春ごろ、在子は体調を崩した。
夏に至っても快復せず、6月15日に後嵯峨の見舞いを受けた。
しかし、
7月5日未の刻(午後2時ごろ)、他界。
日来の不調により、本人も周囲も“その時”を待っていたが、
なかなか来ないまま、ついにこの日まで及んだという(『経俊卿記』)。
享年87。
翌6日、洛西広隆寺で荼毘に付され、息子土御門が眠る金ヶ原に葬られて、
孫の円満院仁助法親王が仏事を行った。
上皇・天皇の直系尊属で、これほどの長命は前例が少ないとか。
承保元年(1074)に87歳で薨じた後一条・後朱雀両天皇の母上東門院(藤原彰子)や、
嘉保元年(1094)に82歳で薨じた後三条天皇の母陽明門院(禎子内親王)の例が勘案され、
後者の例に依り、後嵯峨は15日間の喪に服した。
その後も在子は、
辛苦の末に後嵯峨皇統を実現させた尊属として王家に称えられたが(「亀山天皇逆修願文」等)、
後嵯峨のふるまいによって、その次代から熾烈な皇統の争いが再発するのは、
在子の没後まもなくのこと。
〔参考〕
『図書寮叢刊 経俊卿記』(宮内庁書陵部、1970年)
美川圭『院政 もうひとつの天皇制 増補版』(中公新書、2021年)
曽我部愛『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年)
野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史 3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022年)
東京大学史料編纂所データベース
源在子。
承安元年(1171)生まれ。
法勝寺執行能円と刑部卿局藤原範子(範兼の娘)の娘で、
父母が離別したため、母が再婚した継父源通親の養女となった。
後鳥羽天皇の後宮に入り、
建久6年(1195)12月、為仁親王を産んだ。
為仁の即位(土御門天皇)と後鳥羽院政開始後の正治元年(1199)12月、
天皇の生母として准三后となり、
さらに建仁2年(1202)正月、
女院号を受けて承明門院と称した。
在子30余歳のころ。
しかし、次の皇位継承者には、土御門天皇の異母弟守成親王が立てられ、
土御門の子孫は、後鳥羽によって皇位継承から排除されることとなった。
これには、在子が養父通親より「あいし参らせける」ために、後鳥羽に遠ざけられ、
替わって守成の母藤原重子(修明門院)がその寵を集めた、
という裏事情があったという話もあるが(『愚管抄』巻6)、
男性の変節を女性の落ち度に負わせ、
なおかつそれをゴシップとして消費する偏見的な見方である。
承元4年(1210)11月、
後鳥羽によって土御門が譲位させられ、守成(順徳天皇)が即位した。
「源博陸」(源家の関白の意)とまで呼ばれた権力者の源通親は、すでに世になく、
養祖父の後ろ盾を欠く土御門は、傍系に甘んじたのである。
翌年の建暦元年(1211)12月、在子は出家して真如妙と号した。
その間、在子はたびたび病に罹って、
息子土御門上皇の見舞いを受けている。
在子40歳のころ。
ところが、承久3年(1221)、
後鳥羽上皇が承久の乱を起こすに及んで、在子の周囲は一変する。
鎌倉幕府によって、後鳥羽は隠岐へ、土御門は土佐(のち阿波へ移送)、順徳は佐渡に流され、
在子は夫と息子と生き別れとなった。
在子51歳。
自身に累が及ぶことはなかったが、
翌貞応元年(1222)7月には、放火によって土御門万里小路御所が焼亡するなど、
在子が不安のうちに身を置いたことは間違いない。
10年後の寛喜3年(1231)10月、再開を果たせぬままに土御門に先立たれ、
阿波より遺骨を迎えて、山城金ヶ原(現京都府長岡京市)に法華堂を建てて安置した。
在子はまた、
覚子内親王や仁助法親王、邦仁王ら土御門の遺児たちを引き取り、養育した。
いずれも養父通親の孫通子が産んだ皇子女たちである。
いっぽう、忠成王ら順徳上皇の皇子女は、順徳の母修明門院重子が養育、後見していた。
仁治3年(1242)正月、
四条天皇の崩御によって、承久の乱後に鎌倉幕府が擁立した後高倉皇統が断絶すると、
在子の擁する土御門皇子か、重子の擁する順徳皇子か、
どちらの皇統が皇位を継ぐかが争点となった。
京都政界を牛耳る九条道家と西園寺公経に推された順徳皇子忠成王が、有力とみられたが、
幕府の強い意向により、土御門皇子の邦仁王に決定し、
仁治3年(1242)正月、邦仁は在子のもとで元服して、3月に即位した(後嵯峨天皇)。
同年5月には、西園寺姞子が在子の猶子となって入内している。
息子土御門の退位以来続いた在子の斜陽と不安の日々は、
30余年を経てようやく晴れたといえようか。
後嵯峨の行幸や諸臣の拝礼を受けるなど、70歳を超えた在子は天皇の祖母として公家社会で厚く遇された。
正嘉元年(1257)春ごろ、在子は体調を崩した。
夏に至っても快復せず、6月15日に後嵯峨の見舞いを受けた。
しかし、
7月5日未の刻(午後2時ごろ)、他界。
日来の不調により、本人も周囲も“その時”を待っていたが、
なかなか来ないまま、ついにこの日まで及んだという(『経俊卿記』)。
享年87。
翌6日、洛西広隆寺で荼毘に付され、息子土御門が眠る金ヶ原に葬られて、
孫の円満院仁助法親王が仏事を行った。
上皇・天皇の直系尊属で、これほどの長命は前例が少ないとか。
承保元年(1074)に87歳で薨じた後一条・後朱雀両天皇の母上東門院(藤原彰子)や、
嘉保元年(1094)に82歳で薨じた後三条天皇の母陽明門院(禎子内親王)の例が勘案され、
後者の例に依り、後嵯峨は15日間の喪に服した。
その後も在子は、
辛苦の末に後嵯峨皇統を実現させた尊属として王家に称えられたが(「亀山天皇逆修願文」等)、
後嵯峨のふるまいによって、その次代から熾烈な皇統の争いが再発するのは、
在子の没後まもなくのこと。
〔参考〕
『図書寮叢刊 経俊卿記』(宮内庁書陵部、1970年)
美川圭『院政 もうひとつの天皇制 増補版』(中公新書、2021年)
曽我部愛『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年)
野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史 3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1324年》 《3月》 《12日》 《享年55歳》
憙子内親王。
父は亀山天皇、母は典侍法性寺雅子。
後宇多天皇は異母兄にあたる。
御所の場所より、「土御門女院」「河鰭宮」などとも呼ばれた。
永仁元年(1293)12月10日、内親王宣下を受け、
同4年(1296)8月11日、准三宮となった。
同日、女院号の宣下も受け、昭慶門院と称した。
このとき、27歳。
父亀山法皇の御幸にたびたび同行しており、
親子の仲が良好であったことをうかがわせる。
父から多くの荘園も譲られている。
嘉元4年(1306)9月15日、父の一周忌に際して落飾し、法名を清浄源とした。
延慶3年(1310)ごろか、
甥である尊治親王(のちの後醍醐天皇)に皇子世良親王が生まれると、
昭慶門院の養育するところとなった。
王家において昭慶門院が重んじられる立場にいたことを示そうか。
正中元年(1324)になってからか、昭慶門院は腫物に悩まされ、
3月に至って、容態が悪化した。
昭慶門院の気がかりだったのは、愛しい養君世良親王の元服だった。
「余執(死後にもなお残る執着)」(『花園院宸記』)だったという。
どうにか存命中にということになり、
3月12日、世良親王の元服式が執り行われた。
午の刻(正午ごろ)、元服式が終了すると、
申の刻(夕方4時ごろ)、昭慶門院は崩じたという。
享年55。
まさに、昭慶門院は大甥の成長に生死をわけるほど執心していたのであった。
昭慶門院が有していた荘園郡は、世良親王が相続したが、
その世良も、6年後の元徳2年(1330)に早世してしまった。
〔参考〕
『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)
東京大学史料編纂所データベース
憙子内親王。
父は亀山天皇、母は典侍法性寺雅子。
後宇多天皇は異母兄にあたる。
御所の場所より、「土御門女院」「河鰭宮」などとも呼ばれた。
永仁元年(1293)12月10日、内親王宣下を受け、
同4年(1296)8月11日、准三宮となった。
同日、女院号の宣下も受け、昭慶門院と称した。
このとき、27歳。
父亀山法皇の御幸にたびたび同行しており、
親子の仲が良好であったことをうかがわせる。
父から多くの荘園も譲られている。
嘉元4年(1306)9月15日、父の一周忌に際して落飾し、法名を清浄源とした。
延慶3年(1310)ごろか、
甥である尊治親王(のちの後醍醐天皇)に皇子世良親王が生まれると、
昭慶門院の養育するところとなった。
王家において昭慶門院が重んじられる立場にいたことを示そうか。
正中元年(1324)になってからか、昭慶門院は腫物に悩まされ、
3月に至って、容態が悪化した。
昭慶門院の気がかりだったのは、愛しい養君世良親王の元服だった。
「余執(死後にもなお残る執着)」(『花園院宸記』)だったという。
どうにか存命中にということになり、
3月12日、世良親王の元服式が執り行われた。
午の刻(正午ごろ)、元服式が終了すると、
申の刻(夕方4時ごろ)、昭慶門院は崩じたという。
享年55。
まさに、昭慶門院は大甥の成長に生死をわけるほど執心していたのであった。
昭慶門院が有していた荘園郡は、世良親王が相続したが、
その世良も、6年後の元徳2年(1330)に早世してしまった。
〔参考〕
『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1334年》 《6月》 《24日》 《享年不明》
信濃武士新野太郎入道(景経か)の娘。
建武元年(1334)6月24日、他界。
病死だろうか。
この「叔母」(市河文書)他界の忌中として、
信濃の市河助房・倫房・経助兄弟は、命令を受けていた翌25日の出陣を見合わせ、
代わりに若党の難波助職を派遣している。
それでも8月中旬には、建武政権方の越後出陣に従っているので、
服喪はさほど長いものではなかったようだ。
越後では、反建武政権方の蜂起があり、
守護新田義貞配下の軍勢が鎮圧にあたっていた。
さて、この新野の娘と市河助房らが、叔母-甥の関係だったとすると、
忌中による出陣延期など、血縁のない親族(父母の兄弟の妻)には考えづらいから、
父母の姉妹ということになるだろうか。
市河家に養子入りした父盛房か、母尼せんかうの姉妹とすれば、
父母のどちらかは新野氏出身となる。
鎌倉末期における信濃武士間の姻戚関係の一端がうかがえよう。
ただし、この太郎入道の娘がどのような人物だったのかは、
今日たどることはできない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』(東京堂出版、2007年)
長野県立歴史館HP - 市河文書
信濃武士新野太郎入道(景経か)の娘。
建武元年(1334)6月24日、他界。
病死だろうか。
この「叔母」(市河文書)他界の忌中として、
信濃の市河助房・倫房・経助兄弟は、命令を受けていた翌25日の出陣を見合わせ、
代わりに若党の難波助職を派遣している。
それでも8月中旬には、建武政権方の越後出陣に従っているので、
服喪はさほど長いものではなかったようだ。
越後では、反建武政権方の蜂起があり、
守護新田義貞配下の軍勢が鎮圧にあたっていた。
さて、この新野の娘と市河助房らが、叔母-甥の関係だったとすると、
忌中による出陣延期など、血縁のない親族(父母の兄弟の妻)には考えづらいから、
父母の姉妹ということになるだろうか。
市河家に養子入りした父盛房か、母尼せんかうの姉妹とすれば、
父母のどちらかは新野氏出身となる。
鎌倉末期における信濃武士間の姻戚関係の一端がうかがえよう。
ただし、この太郎入道の娘がどのような人物だったのかは、
今日たどることはできない。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』(東京堂出版、2007年)
長野県立歴史館HP - 市河文書
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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某日 |
享年 ~40代
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41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
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