死に様データベース
《病死》 《1228年》 《2月》 《4日》 《享年91歳》
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
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《病死》 《1497年》 《6月》 《11日》 《享年22歳》
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
《病死》 《1188年》 《4月》 《25日》 《享年24歳》
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
《病死》 《1225年》 《5月》 《2日》 《享年不明》
正四位下前右京権大夫藤原隆信の娘、
正二位権中納言藤原公氏の妻。
似絵の名手といわれる藤原隆信の娘として生まれ、
後白河法皇の近臣藤原実綱の娘で、高倉天皇に督典侍として仕えた藤原教子の養女となった。
はじめ、土御門上皇に少将局として仕え、
承久3年(1221)、邦子内親王が後堀河天皇の准母として立后されると、その女房となった。
やがて、
藤原公氏にみそめられたのか、妻となってその邸宅に移る。
まだ「新妻」と呼ばれている嘉禄元年(1225)頃には、
公氏の子を身ごもっている。
経歴からして、30代半ばほどであったろうか。
なお、夫公氏はこのとき44歳。
しかし、
嘉禄元年(1225)5月2日、少将局は難産のすえ、落命。
公氏の妻妾は、これまで2人出産で命を落としており、
少将局で3人目であった。
その死去は、周囲の人々に暗い影を落とした。
夫公氏は服喪の間に病となり、
養母教子もまた病のすえ死去してしまった。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
石川泰水「七条院大納言に関わる若干の考証―高倉院典侍説をめぐって―」(『群馬県立女子大学 国文学研究』15、1995年)
松薗斉「中世の内侍の復元」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
正四位下前右京権大夫藤原隆信の娘、
正二位権中納言藤原公氏の妻。
似絵の名手といわれる藤原隆信の娘として生まれ、
後白河法皇の近臣藤原実綱の娘で、高倉天皇に督典侍として仕えた藤原教子の養女となった。
はじめ、土御門上皇に少将局として仕え、
承久3年(1221)、邦子内親王が後堀河天皇の准母として立后されると、その女房となった。
やがて、
藤原公氏にみそめられたのか、妻となってその邸宅に移る。
まだ「新妻」と呼ばれている嘉禄元年(1225)頃には、
公氏の子を身ごもっている。
経歴からして、30代半ばほどであったろうか。
なお、夫公氏はこのとき44歳。
しかし、
嘉禄元年(1225)5月2日、少将局は難産のすえ、落命。
公氏の妻妾は、これまで2人出産で命を落としており、
少将局で3人目であった。
その死去は、周囲の人々に暗い影を落とした。
夫公氏は服喪の間に病となり、
養母教子もまた病のすえ死去してしまった。
〔参考〕
『冷泉家時雨亭文庫 別巻3 翻刻 明月記 2』(朝日新聞出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
石川泰水「七条院大納言に関わる若干の考証―高倉院典侍説をめぐって―」(『群馬県立女子大学 国文学研究』15、1995年)
松薗斉「中世の内侍の復元」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
《病死》 《1568年》 《8月》 《1日》 《享年55歳》
房総の戦国大名里見義堯の正妻。
上総万喜城主土岐為頼の娘ともされるが、
世代等が合わず定かでない。
夫の里見義堯は、
父実堯の仇である従兄弟の里見義豊を討って、天文の内乱を克服し、
房総里見氏を統一して、戦国大名としての礎を築いた人物として知られる。
正蓮は、14歳の大永7年(1527)頃、7歳上の義堯と婚姻した。
里見家が天文の内乱に陥る前のことであり、夫婦でその苦難を乗り越えたのである。
ふたりの間に実子はなかったようで、
婚姻前に生まれていた義堯の妾腹の息子義弘を、正蓮は我が子同然に養育したらしい。
夫義堯は、正蓮との婚姻後はその側妾を里へ帰し、以後一切側妻を置かなかったという。
正蓮の死は、
安房妙本寺(現・千葉県安房郡鋸南町)の前住持日我が記した、
『里見義堯室追善記』によって知られる。
日我は正蓮の夫義堯と同年代で親しく、夫妻の信仰を支えた師僧であった。
なお、「正蓮」の名は、日我が追善のために付けた名であり、生前の名ではないが、
「御台所」等以外に呼び名が伝わらず、今ひとまず正蓮と呼んでおきたい。
(以下、引用は『里見義堯室追善記』で、読みやすいように適宜用字等を改めた。)
永禄11年(1568)8月1日早朝、
正蓮は55歳でこの世を去った。
一番鶏と二番鶏が鳴く間というから、午前3時頃だったろうか。
終世夫義堯と同居していたとすれば、
臨終の地は上総久留里城(現・千葉県君津市)の御殿だっただろう。
戒名は、妙光院殿貞室梵善大姉。
訃報を聞いた日我は、正蓮を「国母」と称え、
恩恵難忘旧主悁 黒衣紅涙若深淵
人間五十五年夢 人破秋風月一天
ながむれば月すみわたる大空に雲吹きつくすわしの山風
思ひには言の葉もなし言の葉はまたなをざりのなげきなりけり
等々と詠んでその死を悼んだ。
翌2日、里見氏の菩提寺の安房延命寺(現・千葉県南房総市)で葬儀が営まれた。
安房・上総両国から駆けつけた人々が、その死を嘆き、
その泣き声は谷間や峰々に響き渡って、
草木や石、風や水面までもが悲しんでいるようであったという。
なかでも、夫義堯とその息子義弘の絶え焦がれようは、例えようもないほどで、
戦場を駆ける大の武将、それも房総を切り従える里見家の当主父子が、
声をあげて涙にむせぶ姿を、参列者に見せていた。
義堯62歳、義弘44歳。
日我曰く、「夫婦・親子の恩愛の中ほど、哀れなることは世にあらじ」。
これほどまで夫婦の仲が睦まじかったのは、
「道をわきまえ、義を知り、志深くして、孝行の旨」をわかっていたからだ、
と、日我はいう。
正蓮に近仕した女房衆の悲しみようもまた、
「人をも見分け給わず泣き悲しみ給う」
「嘆きおめき叫び泣きもだえ給うこと、天地も響くばかり也」
というようすであった。
日我は、これもまた王后と女官との君臣の道に叶うものだとしている。
42年の夫婦生活のすえ、妻に先立たれた義堯の悲しみは、日に増して募ったらしい。
体調も崩しがちで、食も細くなっていた。
日我は、義堯が一夫一婦を貫いたことを褒めたたえ、
「かくのごとく別心なく、亀鶴の契り、比翼連理の語らい、四十年に余り給えば」
恋慕の思いは無理もない、として、
『源氏物語』より、
かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべし(ママ)
雲の上も涙はくるゝ秋の月いかにすむらん蓬生の宿(ママ)
等の歌を添えている。
義堯の嘆きようなど、日我の書きぶりはいささかおおげさにも感じるが、
そこには、
夫婦愛に満ち、信仰にも篤く、徳の高い支配者として義堯を称揚する、
という側面があることを見逃してはならない。
極論すれば、日我にとって正蓮は、夫に仕える“良妻”という義堯の引き立て役であって、
夫婦の道を修めた賢妻の姿はあれ、
正蓮その人に、どこまで日我の目が向けられていたか、
疑問を抱かずにはおれない。
日我は、正蓮からもらった手紙の数々を、裏打ちして妙本寺に奉納したというが、
肝心の『里見義堯室追善記』からは、生前の正蓮の声が聞こえてこないのである。
とはいえ、正蓮の存在を過小に評価する必要もないだろう。
延命寺での正蓮=妙光院殿の追善は、曾孫の代にも続き、
先祖供養として重視されていたことがうかがえる。
その背景に、領民に慕われた正蓮の姿を思い描くことも、的外れではあるまい。
夫義堯が死去したのは、それから6年後、
天正2年(1574)6月1日のことであった。
日我は妙本寺の裏山に、夫婦の供養塔を並べて建てた。
〔参考〕
『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』(思文閣出版、2007年)
同 「日我と里見義堯室正蓮―「里見義堯室追善記」を読む」(『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003年)
同 「東国大名里見氏の歴史的性格―支配理念の側面から」(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)
滝川恒昭『里見義堯〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2022年)
房総の戦国大名里見義堯の正妻。
上総万喜城主土岐為頼の娘ともされるが、
世代等が合わず定かでない。
夫の里見義堯は、
父実堯の仇である従兄弟の里見義豊を討って、天文の内乱を克服し、
房総里見氏を統一して、戦国大名としての礎を築いた人物として知られる。
正蓮は、14歳の大永7年(1527)頃、7歳上の義堯と婚姻した。
里見家が天文の内乱に陥る前のことであり、夫婦でその苦難を乗り越えたのである。
ふたりの間に実子はなかったようで、
婚姻前に生まれていた義堯の妾腹の息子義弘を、正蓮は我が子同然に養育したらしい。
夫義堯は、正蓮との婚姻後はその側妾を里へ帰し、以後一切側妻を置かなかったという。
正蓮の死は、
安房妙本寺(現・千葉県安房郡鋸南町)の前住持日我が記した、
『里見義堯室追善記』によって知られる。
日我は正蓮の夫義堯と同年代で親しく、夫妻の信仰を支えた師僧であった。
なお、「正蓮」の名は、日我が追善のために付けた名であり、生前の名ではないが、
「御台所」等以外に呼び名が伝わらず、今ひとまず正蓮と呼んでおきたい。
(以下、引用は『里見義堯室追善記』で、読みやすいように適宜用字等を改めた。)
永禄11年(1568)8月1日早朝、
正蓮は55歳でこの世を去った。
一番鶏と二番鶏が鳴く間というから、午前3時頃だったろうか。
終世夫義堯と同居していたとすれば、
臨終の地は上総久留里城(現・千葉県君津市)の御殿だっただろう。
戒名は、妙光院殿貞室梵善大姉。
訃報を聞いた日我は、正蓮を「国母」と称え、
恩恵難忘旧主悁 黒衣紅涙若深淵
人間五十五年夢 人破秋風月一天
ながむれば月すみわたる大空に雲吹きつくすわしの山風
思ひには言の葉もなし言の葉はまたなをざりのなげきなりけり
等々と詠んでその死を悼んだ。
翌2日、里見氏の菩提寺の安房延命寺(現・千葉県南房総市)で葬儀が営まれた。
安房・上総両国から駆けつけた人々が、その死を嘆き、
その泣き声は谷間や峰々に響き渡って、
草木や石、風や水面までもが悲しんでいるようであったという。
なかでも、夫義堯とその息子義弘の絶え焦がれようは、例えようもないほどで、
戦場を駆ける大の武将、それも房総を切り従える里見家の当主父子が、
声をあげて涙にむせぶ姿を、参列者に見せていた。
義堯62歳、義弘44歳。
日我曰く、「夫婦・親子の恩愛の中ほど、哀れなることは世にあらじ」。
これほどまで夫婦の仲が睦まじかったのは、
「道をわきまえ、義を知り、志深くして、孝行の旨」をわかっていたからだ、
と、日我はいう。
正蓮に近仕した女房衆の悲しみようもまた、
「人をも見分け給わず泣き悲しみ給う」
「嘆きおめき叫び泣きもだえ給うこと、天地も響くばかり也」
というようすであった。
日我は、これもまた王后と女官との君臣の道に叶うものだとしている。
42年の夫婦生活のすえ、妻に先立たれた義堯の悲しみは、日に増して募ったらしい。
体調も崩しがちで、食も細くなっていた。
日我は、義堯が一夫一婦を貫いたことを褒めたたえ、
「かくのごとく別心なく、亀鶴の契り、比翼連理の語らい、四十年に余り給えば」
恋慕の思いは無理もない、として、
『源氏物語』より、
かぎりとて別るゝ道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべし(ママ)
雲の上も涙はくるゝ秋の月いかにすむらん蓬生の宿(ママ)
等の歌を添えている。
義堯の嘆きようなど、日我の書きぶりはいささかおおげさにも感じるが、
そこには、
夫婦愛に満ち、信仰にも篤く、徳の高い支配者として義堯を称揚する、
という側面があることを見逃してはならない。
極論すれば、日我にとって正蓮は、夫に仕える“良妻”という義堯の引き立て役であって、
夫婦の道を修めた賢妻の姿はあれ、
正蓮その人に、どこまで日我の目が向けられていたか、
疑問を抱かずにはおれない。
日我は、正蓮からもらった手紙の数々を、裏打ちして妙本寺に奉納したというが、
肝心の『里見義堯室追善記』からは、生前の正蓮の声が聞こえてこないのである。
とはいえ、正蓮の存在を過小に評価する必要もないだろう。
延命寺での正蓮=妙光院殿の追善は、曾孫の代にも続き、
先祖供養として重視されていたことがうかがえる。
その背景に、領民に慕われた正蓮の姿を思い描くことも、的外れではあるまい。
夫義堯が死去したのは、それから6年後、
天正2年(1574)6月1日のことであった。
日我は妙本寺の裏山に、夫婦の供養塔を並べて建てた。
〔参考〕
『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』(千葉県、2001年)
佐藤博信『安房妙本寺日我一代記』(思文閣出版、2007年)
同 「日我と里見義堯室正蓮―「里見義堯室追善記」を読む」(『中世東国日蓮宗寺院の研究』東京大学出版会、2003年)
同 「東国大名里見氏の歴史的性格―支配理念の側面から」(『中世東国の権力と構造』校倉書房、2013年)
滝川恒昭『里見義堯〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2022年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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某日 |
享年 ~40代
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40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
享年 50代~
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