死に様データベース
《誅殺》 《1437年》 《11月》 《6日》 《享年不明》
将軍足利義教の召仕、
遁世者。
永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。
なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。
このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。
同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。
スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。
当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。
とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
将軍足利義教の召仕、
遁世者。
永享9年(1437)11月6日、
室町殿足利義教に祗候する女房東御方と少弁の、スキャンダルが発生した。
相国寺僧や行道らとの密通が露顕したのである。
東御方と少弁は流罪、
密通相手の相国寺僧4名は、刎首。
また、
少弁の密通相手で、これを庇おうとした佐阿弥も、
斬首された。
追っ手を逃れて、行方をくらました者もいた。
なお、この東御方は、
長慶天皇の孫であったという。
このスキャンダルに相前後して、
室町御所内の暗部が、芋づる式に明るみに出たらしい。
阿野実治の娘二条局は、髪を切られて、追い出され、
その他の関係者も片っ端から処罰されて、
切腹させられる者もいたという。
同じ頃、
義教の室正親町三条尹子の病悩も、
天狗の所行との噂も流れた。
底の見えない不祥事の数々に対する不信感と、
それへの苛烈な追及に対する恐怖が、
人ならぬ者の存在まで生んだのであろう。
スキャンダルが、
左遷でも、丸刈りでも、降板でも済まされなかったのは、
中世ゆえでもあるとも言えるが、
ときの将軍の個性にもよっている。
当時は、将軍足利義教の恐怖政治の最盛期であり、
10月にも、徳大寺公有や、楽人豊原久秋ら一党7人が、
次々と突鼻(失脚、出仕停止)されている。
まさしく、
「薄氷をふむ時節、恐怖無極、」(『看聞日記』)
の日々であった。
とある比丘尼が、
伊勢神宮参詣の帰路に、狂気を発して述べた託宣には、
「すべては悪将軍ゆえ」(『看聞日記』)
というが、
悪将軍の恐怖政治は、義教本人が弑されるまで、
まだ3年以上続く。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
東京大学史料編纂所データベース
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《戦死》 《1336年》 《11月》 《3日》 《享年不明》
下野佐野荘を本領とする国人領主。
佐野惣領家ではなく、
有力庶子家の出身だったようである。
建武2年(1335)、
鎌倉にあった足利尊氏が、
後醍醐天皇の建武政権からの決別を明らかにすると、
佐野義綱も、佐野にあって尊氏方へついた。
11月末から、
東海道にて、尊氏方と後醍醐方の戦端が開かれる。
当初は三河・遠江・駿河で、
尊氏の弟直義・高師泰が敗退するなど、
後醍醐方が優勢であったが、
12月中旬、箱根・竹ノ下の合戦で、
尊氏が新田義貞を破って以降、形勢は逆転する。
それから間もない12月19日、
義綱は、同族の阿曽沼朝綱に本領佐野荘へ乱入されたが、
佐野河原にてこれを追いかえした。
同月27日には、
足利氏一族の小俣少輔次郎に属して、
上野男山合戦に参戦。
28日、下野足利町河原合戦では、
敵2人を討ち取る。
この間の12月22日、
陸奥の北畠顕家が、大軍を率いて南下し、
鎌倉を攻撃しているから、
それにともなう戦争が、
関東各地で起きていたものと思われる。
年明けて建武3年(1336)正月9日、
上野新田城を攻め落とし、
笠懸原合戦では、敵1人を討ち取りつつ、乗馬を斬られた。
3月10日、
上野中野館でも、敵1人を討ち取り、
若党清弥九郎も、2人を討ち取った。
その後も義綱は、足利方に属して、
関東にて数々の戦功を立てた。
4月22日、上野利根川渡河戦では、
一族佐野清綱とともに、敵陣に先駆けし、
敵方阿代氏の被官五郎兵衛尉経政を討ち取る。
翌23日、上野板鼻合戦では、敵2人を討ち取りつつ、
乗馬を斬られる。
28日には、
父とともに、感状を与えられた。
29日、
下野沼和田合戦では、
旗差しの孫三郎が負傷。
6月20日、
下野古江山合戦で、
阿曽沼朝綱の被官土淵又六の肘を斬り落とす戦功。
8月9日にも、
下野天命堀籠で宿敵阿曽沼朝綱と戦い、
その家人飯土井四郎を斬った。
11月3日の宇都宮発向に際しては、
桃井直信麾下にあって、下野犬飼・栗崎合戦で先駆け、
武者1人、ほか2人を討ち取った。
だが、
敵の再襲を受け、義綱は討死。
翌月、
義綱の遺児安房一王丸は、父の戦功を室町幕府に訴え、
認められた。
「凡そ悲歎無極といえども、家名至極せしむるものや。」(「落合文書」)
元服前の幼い身とはいえ、安房一王丸にとって、
父の戦死を嘆き悲しんでいる暇などなかったのである。
関東の南北朝内乱は、
義綱の死後、なお20年近く続く。
この佐野義綱の戦死は、
山内経之のように、時代の渦に巻き込まれた末の死のようにも見える。
だが、
本領佐野荘が隣接する阿曽沼郷の阿曽沼朝綱との幾度の争いというように、
近隣領主間の抗争という側面もあった。
南北朝内乱が、
上位権力(足利尊氏や後醍醐天皇など)の戦争であった半面、
実質的には、各地の領主たちの所領・境界をめぐる抗争という面も、
濃厚に有していたことを、示している。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)
』 (吉川弘文館 2012年)
下野佐野荘を本領とする国人領主。
佐野惣領家ではなく、
有力庶子家の出身だったようである。
建武2年(1335)、
鎌倉にあった足利尊氏が、
後醍醐天皇の建武政権からの決別を明らかにすると、
佐野義綱も、佐野にあって尊氏方へついた。
11月末から、
東海道にて、尊氏方と後醍醐方の戦端が開かれる。
当初は三河・遠江・駿河で、
尊氏の弟直義・高師泰が敗退するなど、
後醍醐方が優勢であったが、
12月中旬、箱根・竹ノ下の合戦で、
尊氏が新田義貞を破って以降、形勢は逆転する。
それから間もない12月19日、
義綱は、同族の阿曽沼朝綱に本領佐野荘へ乱入されたが、
佐野河原にてこれを追いかえした。
同月27日には、
足利氏一族の小俣少輔次郎に属して、
上野男山合戦に参戦。
28日、下野足利町河原合戦では、
敵2人を討ち取る。
この間の12月22日、
陸奥の北畠顕家が、大軍を率いて南下し、
鎌倉を攻撃しているから、
それにともなう戦争が、
関東各地で起きていたものと思われる。
年明けて建武3年(1336)正月9日、
上野新田城を攻め落とし、
笠懸原合戦では、敵1人を討ち取りつつ、乗馬を斬られた。
3月10日、
上野中野館でも、敵1人を討ち取り、
若党清弥九郎も、2人を討ち取った。
その後も義綱は、足利方に属して、
関東にて数々の戦功を立てた。
4月22日、上野利根川渡河戦では、
一族佐野清綱とともに、敵陣に先駆けし、
敵方阿代氏の被官五郎兵衛尉経政を討ち取る。
翌23日、上野板鼻合戦では、敵2人を討ち取りつつ、
乗馬を斬られる。
28日には、
父とともに、感状を与えられた。
29日、
下野沼和田合戦では、
旗差しの孫三郎が負傷。
6月20日、
下野古江山合戦で、
阿曽沼朝綱の被官土淵又六の肘を斬り落とす戦功。
8月9日にも、
下野天命堀籠で宿敵阿曽沼朝綱と戦い、
その家人飯土井四郎を斬った。
11月3日の宇都宮発向に際しては、
桃井直信麾下にあって、下野犬飼・栗崎合戦で先駆け、
武者1人、ほか2人を討ち取った。
だが、
敵の再襲を受け、義綱は討死。
翌月、
義綱の遺児安房一王丸は、父の戦功を室町幕府に訴え、
認められた。
「凡そ悲歎無極といえども、家名至極せしむるものや。」(「落合文書」)
元服前の幼い身とはいえ、安房一王丸にとって、
父の戦死を嘆き悲しんでいる暇などなかったのである。
関東の南北朝内乱は、
義綱の死後、なお20年近く続く。
この佐野義綱の戦死は、
山内経之のように、時代の渦に巻き込まれた末の死のようにも見える。
だが、
本領佐野荘が隣接する阿曽沼郷の阿曽沼朝綱との幾度の争いというように、
近隣領主間の抗争という側面もあった。
南北朝内乱が、
上位権力(足利尊氏や後醍醐天皇など)の戦争であった半面、
実質的には、各地の領主たちの所領・境界をめぐる抗争という面も、
濃厚に有していたことを、示している。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)
《病死》 《1447年》 《4月》 《29日》 《享年44歳》
正四位下、参議、右近中将。
文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。
29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。
実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。
「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
正四位下、参議、右近中将。
文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。
29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。
実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。
「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
《自害》 《1335年》 《8月》 《19日》 《享年不明》
信濃諏訪大社の祠官。
北条得宗家の被官。
元弘3年(1333)、
新田義貞によって北条高時以下鎌倉北条氏一門が滅ぼされると、
高時の遺児時行を逃がし、匿ったのは、
信濃の諏訪氏一族であった。
後醍醐天皇の建武の新政が始まって、2年目の建武2年(1335)、
西園寺公宗による後醍醐政権の転覆計画が謀られていた。
計画は、京都にひそむ北条高時の弟時興を中心に、
時行ら各地の旧鎌倉幕府勢力を糾合しようというものであったが、
未然に漏洩して失敗。
機を逸した時行・諏訪頼重らであったが、
7月、挙兵。
信濃より上野を経て、武蔵に入り、
各地で、渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら討伐軍を破って、
鎌倉に迫った。
鎌倉将軍府(建武政権の出先機関)の成良親王・足利直義は、
鎌倉を脱出するも、各所で時行軍の追撃を受けた。
かくして、鎌倉を占領した北条時行・諏訪頼重らであったが、
翌8月になると、
三河で直義と合流した足利尊氏に、東海道各所で敗れ、
徐々に追い詰められていく。
8月7日、三河矢作宿で、西走する直義と京都から下る尊氏が合流。
9日、遠江橋本、
12日、遠江小夜中山、
14日、駿河国府、
17日、相模箱根、
18日、相模川で、連敗を重ねたのである。
19日、片瀬・腰越で敗れた時行方は、鎌倉に引き退き、
諏訪頼重父子・安保道潭父子ら、
主だった者たちが勝長寿院に籠って自害。
初め遠江の橋本より、
佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂、
これら十七ヶ度の戦いに、
平家(北条氏)二万余騎の兵ども、
あるいは討たれあるいは疵をこうむりて、
今僅かに三百余騎になりければ、
諏訪三河守(頼重)をはじめとして、宗徒の大名四十三人、
大御堂(鎌倉勝長寿院)の内に走り入りて、
同じく皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。
其の死骸を見るに、
皆面の皮を剥いで何れをそれとも見分けざれば、
相模次郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、
聞く人哀れを催しけり。(『太平記』)
自己の名誉を保つためか、敵軍を欺くためか、
顔の皮を剥いだというのは、
なかなかに凄惨な状況である。
鎌倉は尊氏らに奪還された。
この争乱を、「中先代の乱」と呼ぶ。
なお、北条時行はこのとき自害せず、鎌倉を脱出。
だが、その後、単独での再起は難しく、
再び信濃方面での潜伏生活を余儀なくされた。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『日本古典文学大系 35 太平記 2』 (岩波書店 1961年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)
』 (吉川弘文館 2012年)
信濃諏訪大社の祠官。
北条得宗家の被官。
元弘3年(1333)、
新田義貞によって北条高時以下鎌倉北条氏一門が滅ぼされると、
高時の遺児時行を逃がし、匿ったのは、
信濃の諏訪氏一族であった。
後醍醐天皇の建武の新政が始まって、2年目の建武2年(1335)、
西園寺公宗による後醍醐政権の転覆計画が謀られていた。
計画は、京都にひそむ北条高時の弟時興を中心に、
時行ら各地の旧鎌倉幕府勢力を糾合しようというものであったが、
未然に漏洩して失敗。
機を逸した時行・諏訪頼重らであったが、
7月、挙兵。
信濃より上野を経て、武蔵に入り、
各地で、渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら討伐軍を破って、
鎌倉に迫った。
鎌倉将軍府(建武政権の出先機関)の成良親王・足利直義は、
鎌倉を脱出するも、各所で時行軍の追撃を受けた。
かくして、鎌倉を占領した北条時行・諏訪頼重らであったが、
翌8月になると、
三河で直義と合流した足利尊氏に、東海道各所で敗れ、
徐々に追い詰められていく。
8月7日、三河矢作宿で、西走する直義と京都から下る尊氏が合流。
9日、遠江橋本、
12日、遠江小夜中山、
14日、駿河国府、
17日、相模箱根、
18日、相模川で、連敗を重ねたのである。
19日、片瀬・腰越で敗れた時行方は、鎌倉に引き退き、
諏訪頼重父子・安保道潭父子ら、
主だった者たちが勝長寿院に籠って自害。
初め遠江の橋本より、
佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂、
これら十七ヶ度の戦いに、
平家(北条氏)二万余騎の兵ども、
あるいは討たれあるいは疵をこうむりて、
今僅かに三百余騎になりければ、
諏訪三河守(頼重)をはじめとして、宗徒の大名四十三人、
大御堂(鎌倉勝長寿院)の内に走り入りて、
同じく皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。
其の死骸を見るに、
皆面の皮を剥いで何れをそれとも見分けざれば、
相模次郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、
聞く人哀れを催しけり。(『太平記』)
自己の名誉を保つためか、敵軍を欺くためか、
顔の皮を剥いだというのは、
なかなかに凄惨な状況である。
鎌倉は尊氏らに奪還された。
この争乱を、「中先代の乱」と呼ぶ。
なお、北条時行はこのとき自害せず、鎌倉を脱出。
だが、その後、単独での再起は難しく、
再び信濃方面での潜伏生活を余儀なくされた。
〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『日本古典文学大系 35 太平記 2』 (岩波書店 1961年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)
《誅殺》 《1450年》 《9月》 《1日》 《享年62歳》
美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
(文安期の越前守利藤=越前入道宗円と同一人物か。)
文安元年(1444)閏6月、
斎藤筑前入道は、
同僚でライバルの美濃守護代富島高景を殺害し、
自ら後釜の守護代職におさまった。
その後も、病気の主土岐持益を担いで、富島方を圧倒し、
威勢を振るっていた。
宝徳2年(1450)9月1日、
朔日の礼に、山名持豊のもとに出向いた帰路、
京都の近衛油小路にて「横死」(『康富記』)。
暗殺と見て間違いなかろう。
62歳であったという。
中原康富は、
『孟子』より「出於己者、帰於己者、」と引いて、
その報いを、冷ややかに見ている。
背景には、
惣領山名持豊と伯耆守護山名教之の不仲という、
別の大名家の一族抗争もからんでいたらしい。
政治史的に見れば、
こうした家々をまたいだ複雑な連携と対立の所産が、
応仁・文明の乱の勃発であったのである。
〔参考〕
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 8』 (岩波書店 1978年)
『大日本古記録 建内記 9』 (岩波書店 1982年)
美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
(文安期の越前守利藤=越前入道宗円と同一人物か。)
文安元年(1444)閏6月、
斎藤筑前入道は、
同僚でライバルの美濃守護代富島高景を殺害し、
自ら後釜の守護代職におさまった。
その後も、病気の主土岐持益を担いで、富島方を圧倒し、
威勢を振るっていた。
宝徳2年(1450)9月1日、
朔日の礼に、山名持豊のもとに出向いた帰路、
京都の近衛油小路にて「横死」(『康富記』)。
暗殺と見て間違いなかろう。
62歳であったという。
中原康富は、
『孟子』より「出於己者、帰於己者、」と引いて、
その報いを、冷ややかに見ている。
背景には、
惣領山名持豊と伯耆守護山名教之の不仲という、
別の大名家の一族抗争もからんでいたらしい。
政治史的に見れば、
こうした家々をまたいだ複雑な連携と対立の所産が、
応仁・文明の乱の勃発であったのである。
〔参考〕
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 8』 (岩波書店 1978年)
『大日本古記録 建内記 9』 (岩波書店 1982年)
《事故死》 《1436年》 《9月》 《30日》 《享年27歳》
尾張・遠江・越前守護。
もとは僧籍に入っていたが、
永享5年(1433)11月、
兄で家督の義淳の重病により、還俗して斯波氏を継いだ。
永享8年(1436)9月28日夕刻、
病臥した正親町三条実雅の見舞いに訪れた斯波義郷は、
その帰路、
乗馬が暴れて、落馬し、頭を強く打った。
自邸に担ぎ込まれたが、
前後不覚、半死半生のてい。
将軍足利義教の見舞いを受けるも、
2日後の30日夕方、
死去。
27歳。
2歳の子義健が、家督を継承。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
尾張・遠江・越前守護。
もとは僧籍に入っていたが、
永享5年(1433)11月、
兄で家督の義淳の重病により、還俗して斯波氏を継いだ。
永享8年(1436)9月28日夕刻、
病臥した正親町三条実雅の見舞いに訪れた斯波義郷は、
その帰路、
乗馬が暴れて、落馬し、頭を強く打った。
自邸に担ぎ込まれたが、
前後不覚、半死半生のてい。
将軍足利義教の見舞いを受けるも、
2日後の30日夕方、
死去。
27歳。
2歳の子義健が、家督を継承。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
《病死》 《1321年》 《6月》 《23日》 《享年70代》
正二位、前参議・式部大輔。
菅原在兼は、学者として、
伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐天皇の5代にわたって、
侍読をつとめた。
元亨元年(1321)、6月23日、没。
70歳前後であったらしい。
人物と、その死の衝撃については、
『花園天皇宸記』に詳しい。
文の衰微、道の陵夷、歎いて余りあり。
ああ命なる哉命なる哉。
但し齢七旬に及び、官八座に至る。
一門の長者、五代の帝師なり。
栄分満足、恨むところなきものか。
諸人いわく、高才の人なり。
尤も神慮に叶うべきのところ、
長者以後三年に及ばず。
未だ先例なし。
第二、忠長卿無才無能を説くべからず。
ただ飲酒を以って業をなすものなり。
しかるに在兼逝去。
忠長長者たり。
神慮疑いあり。
天道不審と云々。
予もって然らず。
死生命あり。
神道奈命何、
陰陽不測のものなり。
凡慮をもって神道を察し難し。 (『花園天皇宸記』)
・・・
優秀な人物であり、
栄達も恵まれたようだが、
後継者にはめぐまれなかったらしい。
花園天皇の悲嘆は、翌日もやまない。
なお在兼卿のこと悲歎無極。
風月文遊の席、誰をもって師たるか。
思慕止むなし。
よって興遊を止め、遊逸に臨まず。
慟哭余りあるものなり。 (『花園天皇宸記』)
やや大げさな気がしなくもない。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
正二位、前参議・式部大輔。
菅原在兼は、学者として、
伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐天皇の5代にわたって、
侍読をつとめた。
元亨元年(1321)、6月23日、没。
70歳前後であったらしい。
人物と、その死の衝撃については、
『花園天皇宸記』に詳しい。
文の衰微、道の陵夷、歎いて余りあり。
ああ命なる哉命なる哉。
但し齢七旬に及び、官八座に至る。
一門の長者、五代の帝師なり。
栄分満足、恨むところなきものか。
諸人いわく、高才の人なり。
尤も神慮に叶うべきのところ、
長者以後三年に及ばず。
未だ先例なし。
第二、忠長卿無才無能を説くべからず。
ただ飲酒を以って業をなすものなり。
しかるに在兼逝去。
忠長長者たり。
神慮疑いあり。
天道不審と云々。
予もって然らず。
死生命あり。
神道奈命何、
陰陽不測のものなり。
凡慮をもって神道を察し難し。 (『花園天皇宸記』)
・・・
優秀な人物であり、
栄達も恵まれたようだが、
後継者にはめぐまれなかったらしい。
花園天皇の悲嘆は、翌日もやまない。
なお在兼卿のこと悲歎無極。
風月文遊の席、誰をもって師たるか。
思慕止むなし。
よって興遊を止め、遊逸に臨まず。
慟哭余りあるものなり。 (『花園天皇宸記』)
やや大げさな気がしなくもない。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
《病死》 《1322年》 《9月》 《10日》 《享年74歳》
従一位、前太政大臣。
関東申次。
西園寺実兼は、
朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役たる関東申次として、朝幕間に重きをなし、
また、天皇家の外戚としても権勢を誇った。
おりしも、時代は、
持明院・大覚寺両皇統の対立、
蒙古襲来、
寺社権門の訴訟多発、
といった難局を迎えていたが、
巧みにこれらを処理して、
その地位と権勢を保ち続けた。
嘉元2年(1304)、
56歳の実兼は、関東申次の職を嫡子公衡に代わり、
自身は北山の別邸に隠居。
ところが、
正和4年(1315)9月25日、
公衡が父に先立って没したため、
67歳の実兼が、再び関東申次に就いた。
このとき、
孫の実衡は、すでに26歳に達していたが、
時局難しいときであり、
老齢の実兼の再登板となったのである。
元亨元年(1321)12月28日、
実兼は病に倒れた。
心配した花園上皇は、
たびたび使者を遣わして、これを見舞ったが、
病状は一進一退を繰り返しつつ、徐々に進行し、
翌元亨2年(1322)5月7日頃には、
食事も進まぬ状態であった。
5月27日、
後醍醐天皇が、北山の西園寺邸を訪れ、
琵琶秘曲の伝授を受けようとしたが、
病床の実兼にはできず、
その子今出川兼季が、代わってこれを伝えた。
6月初旬、
量仁親王(のちの光厳天皇)が、百日連句を始めようとしたが、
実兼の病のため、中止。
7月末から8月初旬にかけて、
病状はさらに進行し、
8月7日、
後伏見上皇・同妃広義門院が、
直々に北山の西園寺邸まで見舞いに訪れている。
この頃、
実兼は関東申次の職を、孫実衡へ交替することに決めたらしい。
この旨は、鎌倉幕府の承認も得られ、
33歳の実衡が、同職に就いた。
8月15日、
花園上皇は、菅原公時や四条隆有らと、ひそかに詩会を催した。
実兼の病のため、長らく自粛していたのである。
公家社会における実兼の存在が、どれほどであったか知れよう。
8月18日朝、危篤。
昼より、やや持ち直したが、
脈が悪く、3日はもたないだろうと診断された。
実兼の病状は、日に日に悪化の一途をたどったが、
意識が混濁することはなかった。
9月4日、
再び、後伏見・花園両上皇の見舞いを受ける。
9日、
吉辰の日であったが、
実兼のために、興遊は差し控えられた。
9月10日酉の初め(夕方5時頃)、逝去。
74歳。
阿弥陀仏の名号を唱えながら、
安らかに逝ったという。
花園上皇は、悼んで記す。
この相国(西園寺実兼)は、
朝の元老、国の良弼なり。
後嵯峨の朝より仕え、数代の重臣たり。
頃年以来、跡を桑門(仏門)に遁るると雖も、
なお、関東執奏不変。
また、重事においては顧問に預かり、
上皇(後伏見)は誠に外祖の義あり、
身(花園上皇)においては、また曾祖の義たり。
かたがたもって歎かざるべからず。
何ぞいわんや国の柱石なり。
文才少なしと雖も、
久しく数代の朝に仕え、
天下の義理に閲すること多し。
朝のため身のため、悲歎もっとも深きものなり。(『花園天皇宸記』)
この後、
持明院統と大覚寺統の対立は激化し、
正中の変(後醍醐天皇の第1次討幕計画)も勃発して、
時代は徐々に混乱の度合いを深めてゆく。
それとともに、
西園寺家の威光にも翳りが見え始めてゆく。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984)
森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』 (思文閣出版 1991年)
従一位、前太政大臣。
関東申次。
西園寺実兼は、
朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役たる関東申次として、朝幕間に重きをなし、
また、天皇家の外戚としても権勢を誇った。
おりしも、時代は、
持明院・大覚寺両皇統の対立、
蒙古襲来、
寺社権門の訴訟多発、
といった難局を迎えていたが、
巧みにこれらを処理して、
その地位と権勢を保ち続けた。
嘉元2年(1304)、
56歳の実兼は、関東申次の職を嫡子公衡に代わり、
自身は北山の別邸に隠居。
ところが、
正和4年(1315)9月25日、
公衡が父に先立って没したため、
67歳の実兼が、再び関東申次に就いた。
このとき、
孫の実衡は、すでに26歳に達していたが、
時局難しいときであり、
老齢の実兼の再登板となったのである。
元亨元年(1321)12月28日、
実兼は病に倒れた。
心配した花園上皇は、
たびたび使者を遣わして、これを見舞ったが、
病状は一進一退を繰り返しつつ、徐々に進行し、
翌元亨2年(1322)5月7日頃には、
食事も進まぬ状態であった。
5月27日、
後醍醐天皇が、北山の西園寺邸を訪れ、
琵琶秘曲の伝授を受けようとしたが、
病床の実兼にはできず、
その子今出川兼季が、代わってこれを伝えた。
6月初旬、
量仁親王(のちの光厳天皇)が、百日連句を始めようとしたが、
実兼の病のため、中止。
7月末から8月初旬にかけて、
病状はさらに進行し、
8月7日、
後伏見上皇・同妃広義門院が、
直々に北山の西園寺邸まで見舞いに訪れている。
この頃、
実兼は関東申次の職を、孫実衡へ交替することに決めたらしい。
この旨は、鎌倉幕府の承認も得られ、
33歳の実衡が、同職に就いた。
8月15日、
花園上皇は、菅原公時や四条隆有らと、ひそかに詩会を催した。
実兼の病のため、長らく自粛していたのである。
公家社会における実兼の存在が、どれほどであったか知れよう。
8月18日朝、危篤。
昼より、やや持ち直したが、
脈が悪く、3日はもたないだろうと診断された。
実兼の病状は、日に日に悪化の一途をたどったが、
意識が混濁することはなかった。
9月4日、
再び、後伏見・花園両上皇の見舞いを受ける。
9日、
吉辰の日であったが、
実兼のために、興遊は差し控えられた。
9月10日酉の初め(夕方5時頃)、逝去。
74歳。
阿弥陀仏の名号を唱えながら、
安らかに逝ったという。
花園上皇は、悼んで記す。
この相国(西園寺実兼)は、
朝の元老、国の良弼なり。
後嵯峨の朝より仕え、数代の重臣たり。
頃年以来、跡を桑門(仏門)に遁るると雖も、
なお、関東執奏不変。
また、重事においては顧問に預かり、
上皇(後伏見)は誠に外祖の義あり、
身(花園上皇)においては、また曾祖の義たり。
かたがたもって歎かざるべからず。
何ぞいわんや国の柱石なり。
文才少なしと雖も、
久しく数代の朝に仕え、
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朝のため身のため、悲歎もっとも深きものなり。(『花園天皇宸記』)
この後、
持明院統と大覚寺統の対立は激化し、
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時代は徐々に混乱の度合いを深めてゆく。
それとともに、
西園寺家の威光にも翳りが見え始めてゆく。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984)
森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』 (思文閣出版 1991年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
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戦死
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没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
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享年 ~30代
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享年 40代~60代
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