死に様データベース
《病死》 《1382年》 《6月》 《4日》 《享年不明》
畠山家国の娘、
初代鎌倉公方足利基氏の妻、
2代公方足利氏満の母。
後年の史料では、名前を「真砂」としているが、
確実な史料では確認できないので、
ここでは、出家後の号である「清渓」で呼んでおこう。
生年は、元弘元年(1331)~建武2年(1335)のいずれかであり、
暦応3年(1340)生まれの夫基氏より、少なくとも5歳以上は年長であった。
兄の畠山国清は、
観応2年(1351)末、将軍足利尊氏に従って関東に下り、
文和2年(1353)、鎌倉公方を補佐する関東執事に任じられた。
基氏と清渓の縁組も、それからさほど下らない時期とすれば、
基氏10代後半、清渓20代前半のこととなる。
延文4年(1359)には、長男金王丸(のちの氏満)を産んでいる。
鎌倉公方が関東執事の妹婿となり、基氏と国清の関係は盤石かに思われたが、
康安元年(1361)、国清は失脚。
分国伊豆に籠もるも、基氏の追討を受け、没落した。
清渓は、謀叛人の妹となってしまった。
離縁されることはなかったようだが、
この間の清渓のようすは、ほとんどうかがい知れない。
貞治6年(1367)4月、夫基氏が若くして世を去った。
清渓は30代半ば。
10年前後の夫婦生活であった。
清渓が出家したのは、このときだろう。
妊娠7ヶ月だったともいわれるが、
その子がどうなったのかは、定かではない。
その後、清渓は、「大方殿」(貴人の母の呼称)として、
幼い息子氏満を支えて、鎌倉府の政務を主導したらしい。
翌応安元年(1368)に氏満が10歳で元服して以降も、その傍らにあり、
ともに政務にあたっている。
氏満の薫陶を託した禅僧義堂周信との交流も、
うかがい知れる清渓の足跡のひとつだ。
鎌倉の尼寺太平寺を再興したのも、義堂の影響だろう。
康暦2年(1380)に義堂が上洛してからも、交流は続き、
京都・鎌倉間で書状のやりとりをしたことが、義堂の日記に記されている。
永和4年(1378)10月には、二所詣でにゆくなど、
ときには鎌倉を出ることもあったようだ。
永徳2年(1382)6月4日、示寂。
40代後半であった。
再興した寺院にちなみ、「太平寺殿」と号されたという。
しかし、これは後年の史料の記述であり、
5年後の嘉慶元年(1387)にも、清渓らしき人物の活動が確認されるため、
情報には錯誤があると思われる。
とはいえ、それに代わる情報もないため、
ひとまずここでは、その忌日に合わせて掲載することとした。
〔参考〕
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版 1982年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣堂、1979年)
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館、2002年)
谷口雄太「足利基氏の妻と子女」(黒田基樹編『足利基氏とその時代』戎光祥出版、2013年)
畠山家国の娘、
初代鎌倉公方足利基氏の妻、
2代公方足利氏満の母。
後年の史料では、名前を「真砂」としているが、
確実な史料では確認できないので、
ここでは、出家後の号である「清渓」で呼んでおこう。
生年は、元弘元年(1331)~建武2年(1335)のいずれかであり、
暦応3年(1340)生まれの夫基氏より、少なくとも5歳以上は年長であった。
兄の畠山国清は、
観応2年(1351)末、将軍足利尊氏に従って関東に下り、
文和2年(1353)、鎌倉公方を補佐する関東執事に任じられた。
基氏と清渓の縁組も、それからさほど下らない時期とすれば、
基氏10代後半、清渓20代前半のこととなる。
延文4年(1359)には、長男金王丸(のちの氏満)を産んでいる。
鎌倉公方が関東執事の妹婿となり、基氏と国清の関係は盤石かに思われたが、
康安元年(1361)、国清は失脚。
分国伊豆に籠もるも、基氏の追討を受け、没落した。
清渓は、謀叛人の妹となってしまった。
離縁されることはなかったようだが、
この間の清渓のようすは、ほとんどうかがい知れない。
貞治6年(1367)4月、夫基氏が若くして世を去った。
清渓は30代半ば。
10年前後の夫婦生活であった。
清渓が出家したのは、このときだろう。
妊娠7ヶ月だったともいわれるが、
その子がどうなったのかは、定かではない。
その後、清渓は、「大方殿」(貴人の母の呼称)として、
幼い息子氏満を支えて、鎌倉府の政務を主導したらしい。
翌応安元年(1368)に氏満が10歳で元服して以降も、その傍らにあり、
ともに政務にあたっている。
氏満の薫陶を託した禅僧義堂周信との交流も、
うかがい知れる清渓の足跡のひとつだ。
鎌倉の尼寺太平寺を再興したのも、義堂の影響だろう。
康暦2年(1380)に義堂が上洛してからも、交流は続き、
京都・鎌倉間で書状のやりとりをしたことが、義堂の日記に記されている。
永和4年(1378)10月には、二所詣でにゆくなど、
ときには鎌倉を出ることもあったようだ。
永徳2年(1382)6月4日、示寂。
40代後半であった。
再興した寺院にちなみ、「太平寺殿」と号されたという。
しかし、これは後年の史料の記述であり、
5年後の嘉慶元年(1387)にも、清渓らしき人物の活動が確認されるため、
情報には錯誤があると思われる。
とはいえ、それに代わる情報もないため、
ひとまずここでは、その忌日に合わせて掲載することとした。
〔参考〕
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版 1982年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣堂、1979年)
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館、2002年)
谷口雄太「足利基氏の妻と子女」(黒田基樹編『足利基氏とその時代』戎光祥出版、2013年)
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《病死》 《1368年》 《9月》 《29日》 《享年不明》
鎌倉公方家の上﨟女房。
初代鎌倉公方足利基氏の乳母。
その嫡男金王丸(のちの足利氏満)の介添え役。
「清江」はおそらく法名で、女房名等は未詳。
清江夫人の出自は明らかでないが、
上﨟女房であることからすると、
ある程度身分の高い家の出身だったと考えられる。
あるいは、足利一門の出だったろうか。
清江は、京都生まれの足利基氏に乳母として仕え、
基氏が9歳で鎌倉に下るのに従ったと考えられる。
基氏の実母は赤橋登子であり、
足利尊氏の正室、その嫡男義詮の実母として、
貞治4年(1365)に没するまで京都で暮らしていた。
清江の周辺を見ていると、
鎌倉不在の基氏の実母に擬されて、
公方御所のひとつである西御門御所の別殿に住まい、
丁重に遇されていたようにも思われる。
ただ、実子にも等しい基氏は、
貞治6年(1367)4月26日、
28歳で先立ってしまった。
清江が悲しみに暮れたことは想像に難くない。
それから1年半をまたない応安元年(1368)9月29日、
清江も逝去した。
50歳前後と推測される。
10月5日、基氏の菩提寺である鎌倉瑞泉寺で荼毘にふされ、
基氏以下の信頼の厚かった義堂周信が、仏事を主導した。
そして、清江の遺言により、
住まいであった西御門御所の別殿を寺院にして、「保寿院」と名付けられた。
四十九日の法要も、この保寿院でされたという。
かくして、
保寿院は鎌倉公方家にとって重要な寺院となった。
12月には、金王丸とその母清渓尼の命により、
義堂周信が保寿院主となっている。
約半世紀後、
金王丸の腹心の子が、金王丸の孫に当院の前で謀叛の兵を挙げるのは、
また別の話。
〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』(有隣堂、1980年)
鎌倉公方家の上﨟女房。
初代鎌倉公方足利基氏の乳母。
その嫡男金王丸(のちの足利氏満)の介添え役。
「清江」はおそらく法名で、女房名等は未詳。
清江夫人の出自は明らかでないが、
上﨟女房であることからすると、
ある程度身分の高い家の出身だったと考えられる。
あるいは、足利一門の出だったろうか。
清江は、京都生まれの足利基氏に乳母として仕え、
基氏が9歳で鎌倉に下るのに従ったと考えられる。
基氏の実母は赤橋登子であり、
足利尊氏の正室、その嫡男義詮の実母として、
貞治4年(1365)に没するまで京都で暮らしていた。
清江の周辺を見ていると、
鎌倉不在の基氏の実母に擬されて、
公方御所のひとつである西御門御所の別殿に住まい、
丁重に遇されていたようにも思われる。
ただ、実子にも等しい基氏は、
貞治6年(1367)4月26日、
28歳で先立ってしまった。
清江が悲しみに暮れたことは想像に難くない。
それから1年半をまたない応安元年(1368)9月29日、
清江も逝去した。
50歳前後と推測される。
10月5日、基氏の菩提寺である鎌倉瑞泉寺で荼毘にふされ、
基氏以下の信頼の厚かった義堂周信が、仏事を主導した。
そして、清江の遺言により、
住まいであった西御門御所の別殿を寺院にして、「保寿院」と名付けられた。
四十九日の法要も、この保寿院でされたという。
かくして、
保寿院は鎌倉公方家にとって重要な寺院となった。
12月には、金王丸とその母清渓尼の命により、
義堂周信が保寿院主となっている。
約半世紀後、
金王丸の腹心の子が、金王丸の孫に当院の前で謀叛の兵を挙げるのは、
また別の話。
〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』(有隣堂、1980年)
《誅殺》 《1435年》 《9月》 《11日》 《享年不明》
室町幕府の御膳奉行。
永享7年(1435)9月3日、
室町殿足利義教は思い立って、伊勢神宮へ参拝に出かけた。
供には、広橋兼郷・飛鳥井雅世・正親町三条実雅ら昵近の公卿たちも従い、
最高権力者の一行は、仰々しく京都を出発したことだろう。
室町殿の食膳を担当する御膳奉行の進士某も、
義教に旅の食事を供するために一行に加わっていた。
ところが、往路の旅程中の食事に、義教のお気に召さないことがあったらしい。
途中で一行からはずされ、京都に追い返された。
それでも、
一行が帰京したら赦免の沙汰があるといわれており、
進士は9日の義教の帰京を、落ち着かない思いで待ったに違いない。
そして、義教が京都に戻ったあとの10日頃、
進士は、義教の近臣細川持春の屋形に呼び出された。
当然、義教の怒りが解けて赦されるものと思っただろう。
しかし、進士を待っていたのは、思いも寄らない運命だった。
細川の屋形に赴いた進士は、その場で捕らえられ、
そのまま近衛河原にひきすえられて、首をはねられた。
再帰の期待は、あまりに残酷なかたちで裏切られたのである。
連座させられることを怖れた進士の息子は、すぐに姿をくらましたが、
捜索されて、やはり誅殺されたとかなんとか。
およそ為政者のすることではない。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』(宮内庁書陵部 2010年)
室町幕府の御膳奉行。
永享7年(1435)9月3日、
室町殿足利義教は思い立って、伊勢神宮へ参拝に出かけた。
供には、広橋兼郷・飛鳥井雅世・正親町三条実雅ら昵近の公卿たちも従い、
最高権力者の一行は、仰々しく京都を出発したことだろう。
室町殿の食膳を担当する御膳奉行の進士某も、
義教に旅の食事を供するために一行に加わっていた。
ところが、往路の旅程中の食事に、義教のお気に召さないことがあったらしい。
途中で一行からはずされ、京都に追い返された。
それでも、
一行が帰京したら赦免の沙汰があるといわれており、
進士は9日の義教の帰京を、落ち着かない思いで待ったに違いない。
そして、義教が京都に戻ったあとの10日頃、
進士は、義教の近臣細川持春の屋形に呼び出された。
当然、義教の怒りが解けて赦されるものと思っただろう。
しかし、進士を待っていたのは、思いも寄らない運命だった。
細川の屋形に赴いた進士は、その場で捕らえられ、
そのまま近衛河原にひきすえられて、首をはねられた。
再帰の期待は、あまりに残酷なかたちで裏切られたのである。
連座させられることを怖れた進士の息子は、すぐに姿をくらましたが、
捜索されて、やはり誅殺されたとかなんとか。
およそ為政者のすることではない。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』(宮内庁書陵部 2010年)
《誅殺》 《1434年》 《7月》 《17日》 《享年不明》
建仁寺の僧。
「正首座」とも。
「首座」は、禅宗寺院での役職名で、
「*昌」「*正」(*はなんらかの1字)という名であったと思われる。
永享6年(1434)7月9日頃、
京都に不穏な事件が起こった。
建仁寺の昌首座という僧が、
白昼、幸首座という同僚の僧を捕まえて、
双岡にて首を斬って殺害したのだ。
室町幕府はただちに犯人の昌首座を捕縛して、尋問したところ、
共謀する者たちの名を述べたという。
そこには、
京極持高や四条上杉教房、細川持有らの家臣の名も含まれていたというが、
共謀の内容も真偽も明らかでない。
そして、翌10日、
またしても物騒な事件が起きた。
今度は、相国寺で大徳院の老僧が喝食を殺害したのだ。
殺害された喝食は、
山名持豊の親類であったという。
7月17日、
幕府侍所は、この2人の犯人の処刑を執行した。
両僧を裸にして、車に乗せて手足をしばりつけ、
一条大路から引き回して、
相国寺・建仁寺それぞれの境内に移して、さらし者にした。
建仁寺では、鐘を鳴らして境内中に知らせ、
寺内の多くの人びとがこれを見物したという。
夕刻、両人は群衆が見物するなか、
六条河原で斬首に処せられた。
人びとは、
この両人の悪行にこの仕置きでは、まだ足らないと言い合ったという。
伏見宮貞成曰く、「重罪いうに及ばざる事か」(『看聞日記』)、
三宝院満済曰く、「前代未聞の事どもなり」(『満済准后日記』)。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 下』 (群書類従完成会 1928年)
『史料纂集 師郷記 1』 (続群書類従完成会 1985年)
建仁寺の僧。
「正首座」とも。
「首座」は、禅宗寺院での役職名で、
「*昌」「*正」(*はなんらかの1字)という名であったと思われる。
永享6年(1434)7月9日頃、
京都に不穏な事件が起こった。
建仁寺の昌首座という僧が、
白昼、幸首座という同僚の僧を捕まえて、
双岡にて首を斬って殺害したのだ。
室町幕府はただちに犯人の昌首座を捕縛して、尋問したところ、
共謀する者たちの名を述べたという。
そこには、
京極持高や四条上杉教房、細川持有らの家臣の名も含まれていたというが、
共謀の内容も真偽も明らかでない。
そして、翌10日、
またしても物騒な事件が起きた。
今度は、相国寺で大徳院の老僧が喝食を殺害したのだ。
殺害された喝食は、
山名持豊の親類であったという。
7月17日、
幕府侍所は、この2人の犯人の処刑を執行した。
両僧を裸にして、車に乗せて手足をしばりつけ、
一条大路から引き回して、
相国寺・建仁寺それぞれの境内に移して、さらし者にした。
建仁寺では、鐘を鳴らして境内中に知らせ、
寺内の多くの人びとがこれを見物したという。
夕刻、両人は群衆が見物するなか、
六条河原で斬首に処せられた。
人びとは、
この両人の悪行にこの仕置きでは、まだ足らないと言い合ったという。
伏見宮貞成曰く、「重罪いうに及ばざる事か」(『看聞日記』)、
三宝院満済曰く、「前代未聞の事どもなり」(『満済准后日記』)。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 下』 (群書類従完成会 1928年)
『史料纂集 師郷記 1』 (続群書類従完成会 1985年)
《誅殺》 《1443年》 《5月》 《18日》 《享年18歳》
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
建仁寺霊雲庵僧。
室町幕府奉行人布施貞基の子。
建仁寺霊雲庵では、
住持の跡継ぎをめぐって、
住持と門徒との間で、激しい争いが起きていた。
嘉吉2年(1442)、
幕府は、僧録海門承朝の指示にしたがうことを命じ、
いったんは落ち着いたかに見えたが、
水面下では、なおくすぶり続けていた。
嘉吉3年(1443)5月18日暁、
門徒側の血気にはやる僧たちが、
霊雲庵に乱入、放火。
住持の同宿にも、半死半生の深手を負わせるなど、
境内を暴れ回った。
その混乱のなかで、
住持の弟子真瑤侍者も、
「矢庭に」(『康富記』)殺されてしまった。
享年18歳。
「言語道断、未聞の儀なり。」(『康富記』)
真瑤の父布施貞基と旧知の間柄であった中原康富は、
不便(ふびん)申すばかりなし。
しきりに悲涙を催す。
如之何々々々。 (『康富記』)
と記している。
悪僧たちは、
所司代多賀高直の追捕の手をかわして、
逃げ散ったという。
翌6月18日には、
真瑤の弔いのため、
父貞基の同僚飯尾貞元の邸宅で、連歌会が催され、
貞基らが、
浪にしく花は蓮のうてなかな 貞元
むすふは玉か夏草の露 貞基 (『康富記』)
と詠んだ。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
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24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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