忍者ブログ
死に様データベース
《病死》 《1447年》 《4月》 《29日》 《享年44歳》


正四位下、参議、右近中将。


文安4年(1447)4月28日亥の刻(夜10時頃)、
滋野井実益は脳卒中を起こし、重態に陥った。
深夜になって、心停止。
翌29日朝、死穢に備えてか、大夫将監某の屋敷に移される。
あわてて駆けつけた中原師郷は、
寝ている人のようにいびきをあげている実益の姿を見るばかりであった。
すでに駆けつけていた正親町三条実雅は、「周章の体」。
前日、日が沈むまで雑談していた相手が、
翌朝にはこのような有り様になってしまう。
「無常転変の理」(『師郷記』)を感じずにはいられなかったという。

29日申の刻(夕方4時頃)、ついにこときれた。
44歳。


実雅は、何かにつけて実益を頼っていた。
「かの心中誠に察せらるるところ也、」(『師郷記』)
と、師郷も実雅に同情を寄せている。


「寝たる人の如くいびきのごとくなる声あるばかり也、」(『師郷記』)
典型的な脳卒中の症状。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
PR
《自害》 《1335年》 《8月》 《19日》 《享年不明》


信濃諏訪大社の祠官。
北条得宗家の被官。


元弘3年(1333)、
新田義貞によって北条高時以下鎌倉北条氏一門が滅ぼされると、
高時の遺児時行を逃がし、匿ったのは、
信濃の諏訪氏一族であった。


後醍醐天皇の建武の新政が始まって、2年目の建武2年(1335)、
西園寺公宗による後醍醐政権の転覆計画が謀られていた。
計画は、京都にひそむ北条高時の弟時興を中心に、
時行ら各地の旧鎌倉幕府勢力を糾合しようというものであったが、
未然に漏洩して失敗。

機を逸した時行・諏訪頼重らであったが、
7月、挙兵。
信濃より上野を経て、武蔵に入り、
各地で、渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら討伐軍を破って、
鎌倉に迫った。
鎌倉将軍府(建武政権の出先機関)の成良親王・足利直義は、
鎌倉を脱出するも、各所で時行軍の追撃を受けた。


かくして、鎌倉を占領した北条時行・諏訪頼重らであったが、
翌8月になると、
三河で直義と合流した足利尊氏に、東海道各所で敗れ、
徐々に追い詰められていく。
8月7日、三河矢作宿で、西走する直義と京都から下る尊氏が合流。
9日、遠江橋本、
12日、遠江小夜中山、
14日、駿河国府、
17日、相模箱根、
18日、相模川で、連敗を重ねたのである。
19日、片瀬・腰越で敗れた時行方は、鎌倉に引き退き、
諏訪頼重父子・安保道潭父子ら、
主だった者たちが勝長寿院に籠って自害。



 初め遠江の橋本より、
 佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂、
 これら十七ヶ度の戦いに、
 平家(北条氏)二万余騎の兵ども、
 あるいは討たれあるいは疵をこうむりて、
 今僅かに三百余騎になりければ、
 諏訪三河守(頼重)をはじめとして、宗徒の大名四十三人、
 大御堂(鎌倉勝長寿院)の内に走り入りて、
 同じく皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。
 其の死骸を見るに、
 皆面の皮を剥いで何れをそれとも見分けざれば、
 相模次郎時行も、定めてこの内にぞ在るらんと、
 聞く人哀れを催しけり。(『太平記』)


自己の名誉を保つためか、敵軍を欺くためか、
顔の皮を剥いだというのは、
なかなかに凄惨な状況である。


鎌倉は尊氏らに奪還された。
この争乱を、「中先代の乱」と呼ぶ。

なお、北条時行はこのとき自害せず、鎌倉を脱出。
だが、その後、単独での再起は難しく、
再び信濃方面での潜伏生活を余儀なくされた。



〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』 (東京堂出版 2007年)
『日本古典文学大系 35 太平記 2』 (岩波書店 1961年)
櫻井彦『南北朝内乱と東国 (動乱の東国史)』 (吉川弘文館 2012年)
《誅殺》 《1450年》 《9月》 《1日》 《享年62歳》


美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
(文安期の越前守利藤=越前入道宗円と同一人物か。)


文安元年(1444)閏6月、
斎藤筑前入道は、
同僚でライバルの美濃守護代富島高景を殺害し、
自ら後釜の守護代職におさまった。

その後も、病気の主土岐持益を担いで、富島方を圧倒し、
威勢を振るっていた。


宝徳2年(1450)9月1日、
朔日の礼に、山名持豊のもとに出向いた帰路、
京都の近衛油小路にて「横死」(『康富記』)
暗殺と見て間違いなかろう。
62歳であったという。

中原康富は、
『孟子』より「出於己者、帰於己者、」と引いて、
その報いを、冷ややかに見ている。


背景には、
惣領山名持豊と伯耆守護山名教之の不仲という、
別の大名家の一族抗争もからんでいたらしい。
政治史的に見れば、
こうした家々をまたいだ複雑な連携と対立の所産が、
応仁・文明の乱の勃発であったのである。



〔参考〕
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 8』 (岩波書店 1978年)
『大日本古記録 建内記 9』 (岩波書店 1982年)
《事故死》 《1436年》 《9月》 《30日》 《享年27歳》


尾張・遠江・越前守護。


もとは僧籍に入っていたが、
永享5年(1433)11月、
兄で家督の義淳の重病により、還俗して斯波氏を継いだ。


永享8年(1436)9月28日夕刻、
病臥した正親町三条実雅の見舞いに訪れた斯波義郷は、
その帰路、
乗馬が暴れて、落馬し、頭を強く打った。
自邸に担ぎ込まれたが、
前後不覚、半死半生のてい。

将軍足利義教の見舞いを受けるも、
2日後の30日夕方、
死去。
27歳。


2歳の子義健が、家督を継承。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
《病死》 《1321年》 《6月》 《23日》 《享年不明》


正二位、前参議・式部大輔。


菅原在兼は、学者として、
伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐天皇の5代にわたって、
侍読をつとめた。


元亨元年(1321)、6月23日、没。
70歳前後であったらしい。


人物と、その死の衝撃については、
『花園天皇宸記』に詳しい。

 文の衰微、道の陵夷、歎いて余りあり。
 ああ命なる哉命なる哉。
 但し齢七旬に及び、官八座に至る。
 一門の長者、五代の帝師なり。
 栄分満足、恨むところなきものか。
 
 諸人いわく、高才の人なり。
 尤も神慮に叶うべきのところ、
 長者以後三年に及ばず。
 未だ先例なし。
 第二、忠長卿無才無能を説くべからず。
 ただ飲酒を以って業をなすものなり。
 しかるに在兼逝去。
 忠長長者たり。
 神慮疑いあり。
 天道不審と云々。
 予もって然らず。
 死生命あり。
 神道奈命何、
 陰陽不測のものなり。
 凡慮をもって神道を察し難し。 (『花園天皇宸記』)
 ・・・

優秀な人物であり、
栄達も恵まれたようだが、
後継者にはめぐまれなかったらしい。


花園天皇の悲嘆は、翌日もやまない。

 なお在兼卿のこと悲歎無極。
 風月文遊の席、誰をもって師たるか。
 思慕止むなし。
 よって興遊を止め、遊逸に臨まず。
 慟哭余りあるものなり。 (『花園天皇宸記』)


やや大げさな気がしなくもない。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
1  2  3  4  5  6 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]