死に様データベース
《誅殺》 《1450年》 《9月》 《1日》 《享年62歳》
美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
(文安期の越前守利藤=越前入道宗円と同一人物か。)
文安元年(1444)閏6月、
斎藤筑前入道は、
同僚でライバルの美濃守護代富島高景を殺害し、
自ら後釜の守護代職におさまった。
その後も、病気の主土岐持益を担いで、富島方を圧倒し、
威勢を振るっていた。
宝徳2年(1450)9月1日、
朔日の礼に、山名持豊のもとに出向いた帰路、
京都の近衛油小路にて「横死」(『康富記』)。
暗殺と見て間違いなかろう。
62歳であったという。
中原康富は、
『孟子』より「出於己者、帰於己者、」と引いて、
その報いを、冷ややかに見ている。
背景には、
惣領山名持豊と伯耆守護山名教之の不仲という、
別の大名家の一族抗争もからんでいたらしい。
政治史的に見れば、
こうした家々をまたいだ複雑な連携と対立の所産が、
応仁・文明の乱の勃発であったのである。
〔参考〕
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 8』 (岩波書店 1978年)
『大日本古記録 建内記 9』 (岩波書店 1982年)
美濃守護土岐氏の被官。
美濃守護代。
(文安期の越前守利藤=越前入道宗円と同一人物か。)
文安元年(1444)閏6月、
斎藤筑前入道は、
同僚でライバルの美濃守護代富島高景を殺害し、
自ら後釜の守護代職におさまった。
その後も、病気の主土岐持益を担いで、富島方を圧倒し、
威勢を振るっていた。
宝徳2年(1450)9月1日、
朔日の礼に、山名持豊のもとに出向いた帰路、
京都の近衛油小路にて「横死」(『康富記』)。
暗殺と見て間違いなかろう。
62歳であったという。
中原康富は、
『孟子』より「出於己者、帰於己者、」と引いて、
その報いを、冷ややかに見ている。
背景には、
惣領山名持豊と伯耆守護山名教之の不仲という、
別の大名家の一族抗争もからんでいたらしい。
政治史的に見れば、
こうした家々をまたいだ複雑な連携と対立の所産が、
応仁・文明の乱の勃発であったのである。
〔参考〕
『増補史料大成 39 康富記 3』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 8』 (岩波書店 1978年)
『大日本古記録 建内記 9』 (岩波書店 1982年)
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《事故死》 《1436年》 《9月》 《30日》 《享年27歳》
尾張・遠江・越前守護。
もとは僧籍に入っていたが、
永享5年(1433)11月、
兄で家督の義淳の重病により、還俗して斯波氏を継いだ。
永享8年(1436)9月28日夕刻、
病臥した正親町三条実雅の見舞いに訪れた斯波義郷は、
その帰路、
乗馬が暴れて、落馬し、頭を強く打った。
自邸に担ぎ込まれたが、
前後不覚、半死半生のてい。
将軍足利義教の見舞いを受けるも、
2日後の30日夕方、
死去。
27歳。
2歳の子義健が、家督を継承。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
尾張・遠江・越前守護。
もとは僧籍に入っていたが、
永享5年(1433)11月、
兄で家督の義淳の重病により、還俗して斯波氏を継いだ。
永享8年(1436)9月28日夕刻、
病臥した正親町三条実雅の見舞いに訪れた斯波義郷は、
その帰路、
乗馬が暴れて、落馬し、頭を強く打った。
自邸に担ぎ込まれたが、
前後不覚、半死半生のてい。
将軍足利義教の見舞いを受けるも、
2日後の30日夕方、
死去。
27歳。
2歳の子義健が、家督を継承。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 5』 (宮内庁書陵部 2010年)
《病死》 《1321年》 《6月》 《23日》 《享年不明》
正二位、前参議・式部大輔。
菅原在兼は、学者として、
伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐天皇の5代にわたって、
侍読をつとめた。
元亨元年(1321)、6月23日、没。
70歳前後であったらしい。
人物と、その死の衝撃については、
『花園天皇宸記』に詳しい。
文の衰微、道の陵夷、歎いて余りあり。
ああ命なる哉命なる哉。
但し齢七旬に及び、官八座に至る。
一門の長者、五代の帝師なり。
栄分満足、恨むところなきものか。
諸人いわく、高才の人なり。
尤も神慮に叶うべきのところ、
長者以後三年に及ばず。
未だ先例なし。
第二、忠長卿無才無能を説くべからず。
ただ飲酒を以って業をなすものなり。
しかるに在兼逝去。
忠長長者たり。
神慮疑いあり。
天道不審と云々。
予もって然らず。
死生命あり。
神道奈命何、
陰陽不測のものなり。
凡慮をもって神道を察し難し。 (『花園天皇宸記』)
・・・
優秀な人物であり、
栄達も恵まれたようだが、
後継者にはめぐまれなかったらしい。
花園天皇の悲嘆は、翌日もやまない。
なお在兼卿のこと悲歎無極。
風月文遊の席、誰をもって師たるか。
思慕止むなし。
よって興遊を止め、遊逸に臨まず。
慟哭余りあるものなり。 (『花園天皇宸記』)
やや大げさな気がしなくもない。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
正二位、前参議・式部大輔。
菅原在兼は、学者として、
伏見・後伏見・後二条・花園・後醍醐天皇の5代にわたって、
侍読をつとめた。
元亨元年(1321)、6月23日、没。
70歳前後であったらしい。
人物と、その死の衝撃については、
『花園天皇宸記』に詳しい。
文の衰微、道の陵夷、歎いて余りあり。
ああ命なる哉命なる哉。
但し齢七旬に及び、官八座に至る。
一門の長者、五代の帝師なり。
栄分満足、恨むところなきものか。
諸人いわく、高才の人なり。
尤も神慮に叶うべきのところ、
長者以後三年に及ばず。
未だ先例なし。
第二、忠長卿無才無能を説くべからず。
ただ飲酒を以って業をなすものなり。
しかるに在兼逝去。
忠長長者たり。
神慮疑いあり。
天道不審と云々。
予もって然らず。
死生命あり。
神道奈命何、
陰陽不測のものなり。
凡慮をもって神道を察し難し。 (『花園天皇宸記』)
・・・
優秀な人物であり、
栄達も恵まれたようだが、
後継者にはめぐまれなかったらしい。
花園天皇の悲嘆は、翌日もやまない。
なお在兼卿のこと悲歎無極。
風月文遊の席、誰をもって師たるか。
思慕止むなし。
よって興遊を止め、遊逸に臨まず。
慟哭余りあるものなり。 (『花園天皇宸記』)
やや大げさな気がしなくもない。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984年)
《病死》 《1322年》 《9月》 《10日》 《享年74歳》
従一位、前太政大臣。
関東申次。
西園寺実兼は、
朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役たる関東申次として、朝幕間に重きをなし、
また、天皇家の外戚としても権勢を誇った。
おりしも、時代は、
持明院・大覚寺両皇統の対立、
蒙古襲来、
寺社権門の訴訟多発、
といった難局を迎えていたが、
巧みにこれらを処理して、
その地位と権勢を保ち続けた。
嘉元2年(1304)、
56歳の実兼は、関東申次の職を嫡子公衡に代わり、
自身は北山の別邸に隠居。
ところが、
正和4年(1315)9月25日、
公衡が父に先立って没したため、
67歳の実兼が、再び関東申次に就いた。
このとき、
孫の実衡は、すでに26歳に達していたが、
時局難しいときであり、
老齢の実兼の再登板となったのである。
元亨元年(1321)12月28日、
実兼は病に倒れた。
心配した花園上皇は、
たびたび使者を遣わして、これを見舞ったが、
病状は一進一退を繰り返しつつ、徐々に進行し、
翌元亨2年(1322)5月7日頃には、
食事も進まぬ状態であった。
5月27日、
後醍醐天皇が、北山の西園寺邸を訪れ、
琵琶秘曲の伝授を受けようとしたが、
病床の実兼にはできず、
その子今出川兼季が、代わってこれを伝えた。
6月初旬、
量仁親王(のちの光厳天皇)が、百日連句を始めようとしたが、
実兼の病のため、中止。
7月末から8月初旬にかけて、
病状はさらに進行し、
8月7日、
後伏見上皇・同妃広義門院が、
直々に北山の西園寺邸まで見舞いに訪れている。
この頃、
実兼は関東申次の職を、孫実衡へ交替することに決めたらしい。
この旨は、鎌倉幕府の承認も得られ、
33歳の実衡が、同職に就いた。
8月15日、
花園上皇は、菅原公時や四条隆有らと、ひそかに詩会を催した。
実兼の病のため、長らく自粛していたのである。
公家社会における実兼の存在が、どれほどであったか知れよう。
8月18日朝、危篤。
昼より、やや持ち直したが、
脈が悪く、3日はもたないだろうと診断された。
実兼の病状は、日に日に悪化の一途をたどったが、
意識が混濁することはなかった。
9月4日、
再び、後伏見・花園両上皇の見舞いを受ける。
9日、
吉辰の日であったが、
実兼のために、興遊は差し控えられた。
9月10日酉の初め(夕方5時頃)、逝去。
74歳。
阿弥陀仏の名号を唱えながら、
安らかに逝ったという。
花園上皇は、悼んで記す。
この相国(西園寺実兼)は、
朝の元老、国の良弼なり。
後嵯峨の朝より仕え、数代の重臣たり。
頃年以来、跡を桑門(仏門)に遁るると雖も、
なお、関東執奏不変。
また、重事においては顧問に預かり、
上皇(後伏見)は誠に外祖の義あり、
身(花園上皇)においては、また曾祖の義たり。
かたがたもって歎かざるべからず。
何ぞいわんや国の柱石なり。
文才少なしと雖も、
久しく数代の朝に仕え、
天下の義理に閲すること多し。
朝のため身のため、悲歎もっとも深きものなり。(『花園天皇宸記』)
この後、
持明院統と大覚寺統の対立は激化し、
正中の変(後醍醐天皇の第1次討幕計画)も勃発して、
時代は徐々に混乱の度合いを深めてゆく。
それとともに、
西園寺家の威光にも翳りが見え始めてゆく。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984)
森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』 (思文閣出版 1991年)
従一位、前太政大臣。
関東申次。
西園寺実兼は、
朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役たる関東申次として、朝幕間に重きをなし、
また、天皇家の外戚としても権勢を誇った。
おりしも、時代は、
持明院・大覚寺両皇統の対立、
蒙古襲来、
寺社権門の訴訟多発、
といった難局を迎えていたが、
巧みにこれらを処理して、
その地位と権勢を保ち続けた。
嘉元2年(1304)、
56歳の実兼は、関東申次の職を嫡子公衡に代わり、
自身は北山の別邸に隠居。
ところが、
正和4年(1315)9月25日、
公衡が父に先立って没したため、
67歳の実兼が、再び関東申次に就いた。
このとき、
孫の実衡は、すでに26歳に達していたが、
時局難しいときであり、
老齢の実兼の再登板となったのである。
元亨元年(1321)12月28日、
実兼は病に倒れた。
心配した花園上皇は、
たびたび使者を遣わして、これを見舞ったが、
病状は一進一退を繰り返しつつ、徐々に進行し、
翌元亨2年(1322)5月7日頃には、
食事も進まぬ状態であった。
5月27日、
後醍醐天皇が、北山の西園寺邸を訪れ、
琵琶秘曲の伝授を受けようとしたが、
病床の実兼にはできず、
その子今出川兼季が、代わってこれを伝えた。
6月初旬、
量仁親王(のちの光厳天皇)が、百日連句を始めようとしたが、
実兼の病のため、中止。
7月末から8月初旬にかけて、
病状はさらに進行し、
8月7日、
後伏見上皇・同妃広義門院が、
直々に北山の西園寺邸まで見舞いに訪れている。
この頃、
実兼は関東申次の職を、孫実衡へ交替することに決めたらしい。
この旨は、鎌倉幕府の承認も得られ、
33歳の実衡が、同職に就いた。
8月15日、
花園上皇は、菅原公時や四条隆有らと、ひそかに詩会を催した。
実兼の病のため、長らく自粛していたのである。
公家社会における実兼の存在が、どれほどであったか知れよう。
8月18日朝、危篤。
昼より、やや持ち直したが、
脈が悪く、3日はもたないだろうと診断された。
実兼の病状は、日に日に悪化の一途をたどったが、
意識が混濁することはなかった。
9月4日、
再び、後伏見・花園両上皇の見舞いを受ける。
9日、
吉辰の日であったが、
実兼のために、興遊は差し控えられた。
9月10日酉の初め(夕方5時頃)、逝去。
74歳。
阿弥陀仏の名号を唱えながら、
安らかに逝ったという。
花園上皇は、悼んで記す。
この相国(西園寺実兼)は、
朝の元老、国の良弼なり。
後嵯峨の朝より仕え、数代の重臣たり。
頃年以来、跡を桑門(仏門)に遁るると雖も、
なお、関東執奏不変。
また、重事においては顧問に預かり、
上皇(後伏見)は誠に外祖の義あり、
身(花園上皇)においては、また曾祖の義たり。
かたがたもって歎かざるべからず。
何ぞいわんや国の柱石なり。
文才少なしと雖も、
久しく数代の朝に仕え、
天下の義理に閲すること多し。
朝のため身のため、悲歎もっとも深きものなり。(『花園天皇宸記』)
この後、
持明院統と大覚寺統の対立は激化し、
正中の変(後醍醐天皇の第1次討幕計画)も勃発して、
時代は徐々に混乱の度合いを深めてゆく。
それとともに、
西園寺家の威光にも翳りが見え始めてゆく。
〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984)
森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』 (思文閣出版 1991年)
《誅殺》 《1420年》 《9月》 《17日》 《享年22歳》
仙洞御所に仕える御所侍。
主人後小松上皇の寵愛を受け、
自身もなかなかの傍若無人ぶりであった御所侍左衛門二郎は、
応永25、26年(1418、19)頃、
女官と密通、
妊娠させた。
これが露見すると、
女官ともども御所を追放され、謹慎。
その後も、お赦しを得ようと、
さまざまなルートから、上皇に働きかけたが、
一向に勅許がおりることはなかった。
応永27年(1420)9月16日、
左衛門二郎は痺れを切らしたか、ついに強硬手段に出る。
仙洞御所へ押しかけ、
「今ここでお赦しが得られないなら、この場で死ぬ」
と、嗷訴したのである。
すぐさま、門衛の阿波守護細川義之の手勢に捕らえられ、
後小松上皇は、この者の処刑を将軍足利義持へ依頼。
将軍義持は、
公家のもめごとで死罪はいかがなものか、
流罪に処すのが穏当だろう、
と返答するも、
後小松は、頑なに死罪を主張した。
よって、
9月17日、
細川義之の手により、六条河原において刎首。
22歳であったとか。
ある意味、本人の望みどおり。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
仙洞御所に仕える御所侍。
主人後小松上皇の寵愛を受け、
自身もなかなかの傍若無人ぶりであった御所侍左衛門二郎は、
応永25、26年(1418、19)頃、
女官と密通、
妊娠させた。
これが露見すると、
女官ともども御所を追放され、謹慎。
その後も、お赦しを得ようと、
さまざまなルートから、上皇に働きかけたが、
一向に勅許がおりることはなかった。
応永27年(1420)9月16日、
左衛門二郎は痺れを切らしたか、ついに強硬手段に出る。
仙洞御所へ押しかけ、
「今ここでお赦しが得られないなら、この場で死ぬ」
と、嗷訴したのである。
すぐさま、門衛の阿波守護細川義之の手勢に捕らえられ、
後小松上皇は、この者の処刑を将軍足利義持へ依頼。
将軍義持は、
公家のもめごとで死罪はいかがなものか、
流罪に処すのが穏当だろう、
と返答するも、
後小松は、頑なに死罪を主張した。
よって、
9月17日、
細川義之の手により、六条河原において刎首。
22歳であったとか。
ある意味、本人の望みどおり。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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