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死に様データベース
《誅殺》 《1420年》 《9月》 《17日》 《享年22歳》


仙洞御所に仕える御所侍。


主人後小松上皇の寵愛を受け、
自身もなかなかの傍若無人ぶりであった御所侍左衛門二郎は、
応永25、26年(1418、19)頃、
女官と密通、
妊娠させた。
これが露見すると、
女官ともども御所を追放され、謹慎。

その後も、お赦しを得ようと、
さまざまなルートから、上皇に働きかけたが、
一向に勅許がおりることはなかった。


応永27年(1420)9月16日、
左衛門二郎は痺れを切らしたか、ついに強硬手段に出る。
仙洞御所へ押しかけ、
「今ここでお赦しが得られないなら、この場で死ぬ」
と、嗷訴したのである。

すぐさま、門衛の阿波守護細川義之の手勢に捕らえられ、
後小松上皇は、この者の処刑を将軍足利義持へ依頼。
将軍義持は、
 公家のもめごとで死罪はいかがなものか、
 流罪に処すのが穏当だろう、
と返答するも、
後小松は、頑なに死罪を主張した。

よって、
9月17日、
細川義之の手により、六条河原において刎首。
22歳であったとか。


ある意味、本人の望みどおり。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
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《病死》 《1367年》 《4月》 《3日》 《享年30歳》


正三位、権中納言。


貞治6年(1367)4月2日深夜、
四条隆家は、中風により倒れた。
3日卯の刻(朝6時頃)、危篤、
午の刻(昼12時頃)、こときれた。

何かと隆家を頼っていた中原師守は、
「殊に悲嘆」(『師守記』)している。


子がなかったため、
弟顕保の3歳の子を養子として、跡目を継がせた。


前月23日、
同じ権中納言の坊城俊冬が、没したばかりであった。
10日の間に、2人も現任の公卿が死んだことについて、
前関白近衛道嗣は、
「惜しむべし惜しむべし、哀しむべし哀しむべし」(『愚管記』)
と記し、
中原師守は、「朝家衰微」(『師守記』)としている。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1363年》 《7月》 《3日》 《享年95歳》


鎌倉幕府下で、薩摩守護、
室町幕府下で、薩摩・大隅・日向守護。

島津貞久は、
元弘の乱では、足利高氏(のち尊氏)の誘いに応じ、
少弐貞経・大友貞宗とともに、鎮西探題赤橋英時を討った。
つづく南北朝内乱でも、
基本的には尊氏に味方したが、
観応の擾乱(足利方の内訌)勃発にともなっては、
観応2年(1351)正月には、尊氏と対立する足利直冬に属し、
同年11月には、南朝の懐良親王にしたがうなど、
一時的に尊氏から離れている。
文和3年(1354)8月には、再び尊氏方に復す。

こうして、巧みに乱世を生き抜いた貞久は、
勢力を保持して、薩摩・大隅2ヶ国の守護職を手にし、
以後の島津家の礎を築いた。


貞治2年(1363)、
薩摩守護を三男師久へ、
大隅守護を四男氏久へ譲り、
7月3日、
薩摩木牟礼城にて没。
鹿児島五道院に葬られたという。
95歳。


年齢には異説があるというが、
またしても、
「中世人今際図巻」最高齢更新。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 7 (しな-しん)』 (吉川弘文館 1986)
《自害》 《1364年》 《7月》 《27日》 《享年不明》


上野新田氏の一族。

南北朝内乱では、
新田氏の惣領義貞から離れて、足利方として戦った。
それゆえか、
貞治3年(1364)4月頃には、
上総守護となっている。


それからわずか数ヶ月後の7月27日、
世良田義政は突如、鎌倉公方足利基氏の勘気を蒙った。
翌28日、
基氏より討手を差し向けられ、
鎌倉如来堂にて自害。


義政がなぜ勘気を蒙ったのか、
はっきりしたことはわからないが、
弟岩松直国との、新田氏惣領職や新田荘の領有をめぐる争いや、
鎌倉公方足利基氏と関東管領上杉憲顕による、
鎌倉府権力の確立のうえでの、何かしらの意図があったのかもしれない。



〔参考〕
小国浩寿「上総守護と世良田義政事件」(『鎌倉府体制と東国』 吉川弘文館 2001)
《誅殺》 《1497年》 《正月》 《14日》 《享年不明》


北野社松梅院の院主。

松梅院は、
北野社の院家のひとつで、
室町期に、北野公文所や将軍家御師職を掌握し、
北野社の主導権を握った。
特に、禅予から3代前の院主禅能は、
4代将軍足利義持に近付き、
多くの所領や特権を得た。


禅予は、従兄弟禅親(禅能の嫡孫)の養子となったが、
禅親には実子禅椿があった。
当然の流れとして、
彼らは、北野社領や御師職をめぐって、争うこととなり、
室町幕府に訴訟が持ち込まれた。

禅予は、
管領細川政元の家臣らの支援を得て、
訴訟を有利に運んでいたらしいが、
そのさなかの明応6年(1497)正月14日夜、
北野社の境内において、何者かに殺されてしまった。
下手人はむろん、禅椿の手の者だったらしい。


中世は、裁判も命がけ。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅳ』 (石川県 2004)
桜井英治『破産者たちの中世(日本史リブレット)』 (山川出版社 2005)
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