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死に様データベース
《病死》 《1322年》 《9月》 《10日》 《享年74歳》


従一位、前太政大臣。
関東申次。


西園寺実兼は、
朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役たる関東申次として、朝幕間に重きをなし、
また、天皇家の外戚としても権勢を誇った。
おりしも、時代は、
持明院・大覚寺両皇統の対立、
蒙古襲来、
寺社権門の訴訟多発、
といった難局を迎えていたが、
巧みにこれらを処理して、
その地位と権勢を保ち続けた。


嘉元2年(1304)、
56歳の実兼は、関東申次の職を嫡子公衡に代わり、
自身は北山の別邸に隠居。
ところが、
正和4年(1315)9月25日、
公衡が父に先立って没したため、
67歳の実兼が、再び関東申次に就いた。
このとき、
孫の実衡は、すでに26歳に達していたが、
時局難しいときであり、
老齢の実兼の再登板となったのである。


元亨元年(1321)12月28日、
実兼は病に倒れた。
心配した花園上皇は、
たびたび使者を遣わして、これを見舞ったが、
病状は一進一退を繰り返しつつ、徐々に進行し、
翌元亨2年(1322)5月7日頃には、
食事も進まぬ状態であった。

5月27日、
後醍醐天皇が、北山の西園寺邸を訪れ、
琵琶秘曲の伝授を受けようとしたが、
病床の実兼にはできず、
その子今出川兼季が、代わってこれを伝えた。

6月初旬、
量仁親王(のちの光厳天皇)が、百日連句を始めようとしたが、
実兼の病のため、中止。

7月末から8月初旬にかけて、
病状はさらに進行し、
8月7日、
後伏見上皇・同妃広義門院が、
直々に北山の西園寺邸まで見舞いに訪れている。

この頃、
実兼は関東申次の職を、孫実衡へ交替することに決めたらしい。
この旨は、鎌倉幕府の承認も得られ、
33歳の実衡が、同職に就いた。


8月15日、
花園上皇は、菅原公時や四条隆有らと、ひそかに詩会を催した。
実兼の病のため、長らく自粛していたのである。
公家社会における実兼の存在が、どれほどであったか知れよう。


8月18日朝、危篤。
昼より、やや持ち直したが、
脈が悪く、3日はもたないだろうと診断された。
実兼の病状は、日に日に悪化の一途をたどったが、
意識が混濁することはなかった。

9月4日、
再び、後伏見・花園両上皇の見舞いを受ける。
9日、
吉辰の日であったが、
実兼のために、興遊は差し控えられた。


9月10日酉の初め(夕方5時頃)、逝去。
74歳。
阿弥陀仏の名号を唱えながら、
安らかに逝ったという。


花園上皇は、悼んで記す。

 この相国(西園寺実兼)は、
 朝の元老、国の良弼なり。
 後嵯峨の朝より仕え、数代の重臣たり。
 頃年以来、跡を桑門(仏門)に遁るると雖も、
 なお、関東執奏不変。
 また、重事においては顧問に預かり、
 上皇(後伏見)は誠に外祖の義あり、
 身(花園上皇)においては、また曾祖の義たり。
 かたがたもって歎かざるべからず。
 何ぞいわんや国の柱石なり。
 文才少なしと雖も、
 久しく数代の朝に仕え、
 天下の義理に閲すること多し。
 朝のため身のため、悲歎もっとも深きものなり。(『花園天皇宸記』)


この後、
持明院統と大覚寺統の対立は激化し、
正中の変(後醍醐天皇の第1次討幕計画)も勃発して、
時代は徐々に混乱の度合いを深めてゆく。
それとともに、
西園寺家の威光にも翳りが見え始めてゆく。



〔参考〕
『史料纂集 花園天皇宸記 2』 (続群書類従完成会 1984)
森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』 (思文閣出版 1991年)
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《誅殺》 《1420年》 《9月》 《17日》 《享年22歳》


仙洞御所に仕える御所侍。


主人後小松上皇の寵愛を受け、
自身もなかなかの傍若無人ぶりであった御所侍左衛門二郎は、
応永25、26年(1418、19)頃、
女官と密通、
妊娠させた。
これが露見すると、
女官ともども御所を追放され、謹慎。

その後も、お赦しを得ようと、
さまざまなルートから、上皇に働きかけたが、
一向に勅許がおりることはなかった。


応永27年(1420)9月16日、
左衛門二郎は痺れを切らしたか、ついに強硬手段に出る。
仙洞御所へ押しかけ、
「今ここでお赦しが得られないなら、この場で死ぬ」
と、嗷訴したのである。

すぐさま、門衛の阿波守護細川義之の手勢に捕らえられ、
後小松上皇は、この者の処刑を将軍足利義持へ依頼。
将軍義持は、
 公家のもめごとで死罪はいかがなものか、
 流罪に処すのが穏当だろう、
と返答するも、
後小松は、頑なに死罪を主張した。

よって、
9月17日、
細川義之の手により、六条河原において刎首。
22歳であったとか。


ある意味、本人の望みどおり。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
《病死》 《1367年》 《4月》 《3日》 《享年30歳》


正三位、権中納言。


貞治6年(1367)4月2日深夜、
四条隆家は、中風により倒れた。
3日卯の刻(朝6時頃)、危篤、
午の刻(昼12時頃)、こときれた。

何かと隆家を頼っていた中原師守は、
「殊に悲嘆」(『師守記』)している。


子がなかったため、
弟顕保の3歳の子を養子として、跡目を継がせた。


前月23日、
同じ権中納言の坊城俊冬が、没したばかりであった。
10日の間に、2人も現任の公卿が死んだことについて、
前関白近衛道嗣は、
「惜しむべし惜しむべし、哀しむべし哀しむべし」(『愚管記』)
と記し、
中原師守は、「朝家衰微」(『師守記』)としている。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
《病死》 《1363年》 《7月》 《3日》 《享年95歳》


鎌倉幕府下で、薩摩守護、
室町幕府下で、薩摩・大隅・日向守護。

島津貞久は、
元弘の乱では、足利高氏(のち尊氏)の誘いに応じ、
少弐貞経・大友貞宗とともに、鎮西探題赤橋英時を討った。
つづく南北朝内乱でも、
基本的には尊氏に味方したが、
観応の擾乱(足利方の内訌)勃発にともなっては、
観応2年(1351)正月には、尊氏と対立する足利直冬に属し、
同年11月には、南朝の懐良親王にしたがうなど、
一時的に尊氏から離れている。
文和3年(1354)8月には、再び尊氏方に復す。

こうして、巧みに乱世を生き抜いた貞久は、
勢力を保持して、薩摩・大隅2ヶ国の守護職を手にし、
以後の島津家の礎を築いた。


貞治2年(1363)、
薩摩守護を三男師久へ、
大隅守護を四男氏久へ譲り、
7月3日、
薩摩木牟礼城にて没。
鹿児島五道院に葬られたという。
95歳。


年齢には異説があるというが、
またしても、
「中世人今際図巻」最高齢更新。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 7 (しな-しん)』 (吉川弘文館 1986)
《自害》 《1364年》 《7月》 《27日》 《享年不明》


上野新田氏の一族。

南北朝内乱では、
新田氏の惣領義貞から離れて、足利方として戦った。
それゆえか、
貞治3年(1364)4月頃には、
上総守護となっている。


それからわずか数ヶ月後の7月27日、
世良田義政は突如、鎌倉公方足利基氏の勘気を蒙った。
翌28日、
基氏より討手を差し向けられ、
鎌倉如来堂にて自害。


義政がなぜ勘気を蒙ったのか、
はっきりしたことはわからないが、
弟岩松直国との、新田氏惣領職や新田荘の領有をめぐる争いや、
鎌倉公方足利基氏と関東管領上杉憲顕による、
鎌倉府権力の確立のうえでの、何かしらの意図があったのかもしれない。



〔参考〕
小国浩寿「上総守護と世良田義政事件」(『鎌倉府体制と東国』 吉川弘文館 2001)
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