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死に様データベース
《病死》 《1367年》 《4月》 《3日》 《享年30歳》


正三位、権中納言。


貞治6年(1367)4月2日深夜、
四条隆家は、中風により倒れた。
3日卯の刻(朝6時頃)、危篤、
午の刻(昼12時頃)、こときれた。

何かと隆家を頼っていた中原師守は、
「殊に悲嘆」(『師守記』)している。


子がなかったため、
弟顕保の3歳の子を養子として、跡目を継がせた。


前月23日、
同じ権中納言の坊城俊冬が、没したばかりであった。
10日の間に、2人も現任の公卿が死んだことについて、
前関白近衛道嗣は、
「惜しむべし惜しむべし、哀しむべし哀しむべし」(『愚管記』)
と記し、
中原師守は、「朝家衰微」(『師守記』)としている。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十七』 (1935)
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《病死》 《1363年》 《7月》 《3日》 《享年95歳》


鎌倉幕府下で、薩摩守護、
室町幕府下で、薩摩・大隅・日向守護。

島津貞久は、
元弘の乱では、足利高氏(のち尊氏)の誘いに応じ、
少弐貞経・大友貞宗とともに、鎮西探題赤橋英時を討った。
つづく南北朝内乱でも、
基本的には尊氏に味方したが、
観応の擾乱(足利方の内訌)勃発にともなっては、
観応2年(1351)正月には、尊氏と対立する足利直冬に属し、
同年11月には、南朝の懐良親王にしたがうなど、
一時的に尊氏から離れている。
文和3年(1354)8月には、再び尊氏方に復す。

こうして、巧みに乱世を生き抜いた貞久は、
勢力を保持して、薩摩・大隅2ヶ国の守護職を手にし、
以後の島津家の礎を築いた。


貞治2年(1363)、
薩摩守護を三男師久へ、
大隅守護を四男氏久へ譲り、
7月3日、
薩摩木牟礼城にて没。
鹿児島五道院に葬られたという。
95歳。


年齢には異説があるというが、
またしても、
「中世人今際図巻」最高齢更新。



〔参考〕
『大日本史料 第六編之二十五』 (1931)
『国史大辞典 7 (しな-しん)』 (吉川弘文館 1986)
《自害》 《1364年》 《7月》 《27日》 《享年不明》


上野新田氏の一族。

南北朝内乱では、
新田氏の惣領義貞から離れて、足利方として戦った。
それゆえか、
貞治3年(1364)4月頃には、
上総守護となっている。


それからわずか数ヶ月後の7月27日、
世良田義政は突如、鎌倉公方足利基氏の勘気を蒙った。
翌28日、
基氏より討手を差し向けられ、
鎌倉如来堂にて自害。


義政がなぜ勘気を蒙ったのか、
はっきりしたことはわからないが、
弟岩松直国との、新田氏惣領職や新田荘の領有をめぐる争いや、
鎌倉公方足利基氏と関東管領上杉憲顕による、
鎌倉府権力の確立のうえでの、何かしらの意図があったのかもしれない。



〔参考〕
小国浩寿「上総守護と世良田義政事件」(『鎌倉府体制と東国』 吉川弘文館 2001)
《誅殺》 《1497年》 《正月》 《14日》 《享年不明》


北野社松梅院の院主。

松梅院は、
北野社の院家のひとつで、
室町期に、北野公文所や将軍家御師職を掌握し、
北野社の主導権を握った。
特に、禅予から3代前の院主禅能は、
4代将軍足利義持に近付き、
多くの所領や特権を得た。


禅予は、従兄弟禅親(禅能の嫡孫)の養子となったが、
禅親には実子禅椿があった。
当然の流れとして、
彼らは、北野社領や御師職をめぐって、争うこととなり、
室町幕府に訴訟が持ち込まれた。

禅予は、
管領細川政元の家臣らの支援を得て、
訴訟を有利に運んでいたらしいが、
そのさなかの明応6年(1497)正月14日夜、
北野社の境内において、何者かに殺されてしまった。
下手人はむろん、禅椿の手の者だったらしい。


中世は、裁判も命がけ。



〔参考〕
『加能史料 戦国Ⅳ』 (石川県 2004)
桜井英治『破産者たちの中世(日本史リブレット)』 (山川出版社 2005)
《病死》 《1234年》 《11月》 《28日》 《享年78歳》


鎌倉幕府御家人。
父は、上野新田氏の一族、里見氏の祖義俊。
戦国期に房総で活躍する里見氏の遠祖にあたる。


治承4年(1180)8月、源頼朝が挙兵すると、
新田一族は日和見するなど、消極的であったが、
若き里見義成は、
平家の家人でありながら、進んで頼朝の陣に投じた。
頼朝の信用を得て、
鎌倉幕府樹立後、幕府内で厚く遇され、
頼朝死後も、将軍頼家・実朝に近侍した。


文暦元年(1234)11月28日、没。
78歳というから、
当時としてはなかなかの大往生。
頼朝の寵用された士の死を、
誰もが惜しんだという。


治承・寿永の内乱(源平合戦)から半世紀、
頼朝の死から35年。
直に内乱を知り、直に頼朝と接した人も、だんだん少なくなるだろう。
義成が、内乱や頼朝を、第2世代にどう語ったのか、
また、
内乱後の血みどろな政争を無事に乗り越えた義成が、
その時代の新しい社会をどんな思いで見つめていたのか、
気になるところではある。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 第二』 (吉川弘文館 1972)
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病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
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