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死に様データベース
《病死》 《1227年》 《11月》 《4日》 《享年不明》


北条時政の娘、政子・義時の姉妹。

源頼朝の異母弟阿野全成の妻となり、頼朝・政子とは兄弟姉妹どうしで夫婦だった。
建久3年(1192)8月、
阿波局は生まれたばかりの甥千幡(のちの源実朝)の乳母に選ばれ、
将軍御所に伺候した。


建仁3年(1203)5月、
夫の全成は、甥の2代将軍源頼家に謀反の罪を着せられ、流罪のうえ殺害される。
このとき頼家は、その妻阿波局も尋問しようとしたが、
政子が、
「このようなことを女性に関知させるべきでない」(『吾妻鏡』)
と庇ったため、御所への奉公を続けた。

それ以前の正治元年(1199)冬に、阿波局は、
御家人結城朝光へ梶原景時の讒言を忠告して、景時失脚のきっかけをつくり、
建仁3年(1203)9月には、
新将軍実朝の近くに、父時政の後妻牧の方がいるのは不穏当だ、と姉政子に進言し、
実朝を政子邸へ引き取らせている。
将軍家の乳母として、また政子の姉妹として、
彼女が幕政に少なからず影響力をもっていたことがうかがえよう。


建保7年(1219)正月、実朝は、甥の公暁に殺害され、
翌月、阿波局の息子阿野時元は将軍の座を狙って挙兵し、
叔父の執権北条義時に討たれた。
乳母子と実子をほぼ同時に喪った阿波局は、
その後も御所へ仕えたとおぼしい。


安貞元年(1227)11月4日、卒。
60歳前後だったろうか。
執権北条泰時は、重臣尾藤景綱の家に移り、
叔母のため30日間喪に服した。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
田端泰子『乳母の力 歴史を支えた女たち』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2005年)
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《病死》 《1368年》 《8月》 《2日》 《享年58歳》


史料上に「愛甲三品夫人」とのみあるが、
夫の「愛甲三品」(「三品」は三位の意)は、鎌倉公方の近習であることのほか未詳。
横山党の愛甲氏は、鎌倉時代に滅んでおり、
相模国愛甲荘(現・神奈川県厚木市)を領した足利氏の一門か譜代被官にあたろうか。
(あるいは、「三品」は「三刕(三州)」=三河守の誤写だろうか。)
夫人の出自等はなお不詳である。


愛甲三品夫人は、高僧夢窓疎石に就いて受衣するなど、生前より禅宗に傾倒し、
鎌倉でも夢窓の弟子義堂周信と親しくしていた。
応安元年(1368)8月2日、
病の篤くなった夫人は、義堂の来訪を受け落髪を求める、という夢を見た。
目覚めてから急ぎ義堂を呼んだが、落髪するには間に合わず、
臨終の際に、義堂から次のように問われた。

 汝は日ごろから、国師(夢窓疎石)が示していた即心即仏の公案に取り組んできた。
 今、それを会得し、境地を得たか。

「即心即仏」とは、
「衆生のいまの心がそのまま仏であること。心の体は仏と異なるものでない、ということ」(『仏教語大辞典』)
という。
この問いに夫人は頷いて、卒した。
享年58。


5日、愛甲氏の菩提寺、愛甲郡津久井の宝積寺(のち光明寺、現・相模原市)で葬儀が行われ、
義堂が火葬を取り仕切った。
法名は「如転禅尼(『義堂和尚語録』巻第3)とされる。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
川本慎自「光明寺と二つの宝積寺」(『特別展 津久井光明寺 知られざる夢窓疎石ゆかりの禅院―2つの宝積寺を訪ねて』神奈川県立金沢文庫、2015年)
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
《病死》 《1334年》 《6月》 《24日》 《享年不明》


信濃武士新野太郎入道(景経か)の娘。


建武元年(1334)6月24日、他界。
病死だろうか。

この「叔母(市河文書)他界の忌中として、
信濃の市河助房・倫房・経助兄弟は、命令を受けていた翌25日の出陣を見合わせ、
代わりに若党の難波助職を派遣している。

それでも8月中旬には、建武政権方の越後出陣に従っているので、
服喪はさほど長いものではなかったようだ。
越後では、反建武政権方の蜂起があり、
守護新田義貞配下の軍勢が鎮圧にあたっていた。


さて、この新野の娘と市河助房らが、叔母-甥の関係だったとすると、
忌中による出陣延期など、血縁のない親族(父母の兄弟の妻)には考えづらいから、
父母の姉妹ということになるだろうか。
市河家に養子入りした父盛房か、母尼せんかうの姉妹とすれば、
父母のどちらかは新野氏出身となる。
鎌倉末期における信濃武士間の姻戚関係の一端がうかがえよう。

ただし、この太郎入道の娘がどのような人物だったのかは、
今日たどることはできない。


〔参考〕
『南北朝遺文 関東編 1』(東京堂出版、2007年)
長野県立歴史館HP - 市河文書
《病死》 《1426年》 《9月》 《12日》 《享年不明》


尼寺大聖寺の喝食。
正二位権大納言清閑寺家俊の娘。


応永33年(1426)9月12日、「頓死」(『薩戒記』)
10代半ばほどだったろうか。

父清閑寺家俊は、
このとき、伊勢神宮との取次をつとめる神宮伝奏の職にあった。
おりしも伊勢神宮では、内宮造営のため全国で役夫工米の徴収が進められ、
8日後の9月20日には、室町殿足利義持の神宮参詣も控えていた。
家俊はこれらを取り計らう重要な役職にあったのだ。
の死により清閑寺家は触穢となったが、
後小松上皇は、
「大事な時期の大事な立場なので、ともかく触穢はけしからん」(『薩戒記』)
として、の喪に服することすら許さなかった。

「もっとも恐るべし恐るべし」(『薩戒記』)
とは、参議中山定親の言。

父家俊は、同年末にも引き続き神宮伝奏をつとめている。



〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 3』(岩波書店、2006年)
《病死》 《1382年》 《6月》 《4日》 《享年不明》


畠山家国の娘、
初代鎌倉公方足利基氏の妻、
2代公方足利氏満の母。
後年の史料では、名前を「真砂」としているが、
確実な史料では確認できないので、
ここでは、出家後の号である「清渓」で呼んでおこう。

生年は、元弘元年(1331)~建武2年(1335)のいずれかであり、
暦応3年(1340)生まれの夫基氏より、少なくとも5歳以上は年長であった。


兄の畠山国清は、
観応2年(1351)末、将軍足利尊氏に従って関東に下り、
文和2年(1353)、鎌倉公方を補佐する関東執事に任じられた。

基氏清渓の縁組も、それからさほど下らない時期とすれば、
基氏10代後半、清渓20代前半のこととなる。
延文4年(1359)には、長男金王丸(のちの氏満)を産んでいる。


鎌倉公方が関東執事の妹婿となり、基氏と国清の関係は盤石かに思われたが、
康安元年(1361)、国清は失脚。
分国伊豆に籠もるも、基氏の追討を受け、没落した。
清渓は、謀叛人の妹となってしまった。
離縁されることはなかったようだが、
この間の清渓のようすは、ほとんどうかがい知れない。


貞治6年(1367)4月、夫基氏が若くして世を去った。
清渓は30代半ば。
10年前後の夫婦生活であった。
清渓が出家したのは、このときだろう。
妊娠7ヶ月だったともいわれるが、
その子がどうなったのかは、定かではない。


その後、清渓は、「大方殿」(貴人の母の呼称)として、
幼い息子氏満を支えて、鎌倉府の政務を主導したらしい。
翌応安元年(1368)に氏満が10歳で元服して以降も、その傍らにあり、
ともに政務にあたっている。


氏満の薫陶を託した禅僧義堂周信との交流も、
うかがい知れる清渓の足跡のひとつだ。
鎌倉の尼寺太平寺を再興したのも、義堂の影響だろう。
康暦2年(1380)に義堂が上洛してからも、交流は続き、
京都・鎌倉間で書状のやりとりをしたことが、義堂の日記に記されている。

永和4年(1378)10月には、二所詣でにゆくなど、
ときには鎌倉を出ることもあったようだ。


永徳2年(1382)6月4日、示寂。
40代後半であった。
再興した寺院にちなみ、「太平寺殿」と号されたという。

しかし、これは後年の史料の記述であり、
5年後の嘉慶元年(1387)にも、清渓らしき人物の活動が確認されるため、
情報には錯誤があると思われる。
とはいえ、それに代わる情報もないため、
ひとまずここでは、その忌日に合わせて掲載することとした。



〔参考〕
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版 1982年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣堂、1979年)
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館、2002年)
谷口雄太「足利基氏の妻と子女」(黒田基樹編『足利基氏とその時代』戎光祥出版、2013年)
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