死に様データベース
《病死》 《1150年》 《11月》 《5日》 《享年91歳》
右大臣藤原俊家の娘。
関白藤原師通の先妻、同忠実の母。
御堂関白藤原道長の庶子頼宗の孫にあたり、
甥(兄宗俊の息子)には、故実家として名高い中御門流の藤原宗忠がいる。
御堂流の師通の正妻だったが、
全子の政所始が行われる前に離縁したため、北政所とは呼ばれず、
居所をもって「一条殿」「小川殿」と呼ばれた。
康平3年(1060)に、権中納言藤原俊家の娘として生まれた全子は、
関白藤原師実の嫡男で、2歳下の権中納言兼左大将藤原師通と婚姻した。
「いとうつくしき御あはひ」(『栄花物語』巻39)と評される夫婦で、
承暦2年(1078)11月には長男忠実が産まれた。
しかし、その夫婦仲もまもなく「あやしく枯れ枯れにのみなり」(同上)、離縁。
師通は、太政大臣藤原信長の養女信子と再婚した。
全子は、亡父俊家の肖像に祈って師通・信子夫妻を夜な夜な呪い、
あるとき夢枕に俊家が立って、その怨み必ずや晴らそう、と言ったという(『台記』)。
はたして師通は、康和元年(1099)6月に、38歳で急死し、
北政所信子は零落して、のちに師通の子孫から「乞食尼」と呼ばれている(『玉葉』)。
全子に引き取られ、祖父師実のもとに通ってその薫陶を受けた忠実は、
父師通の没後に藤原氏の氏長者となり、
政治の実権は白河院の掌中にあったが、
長治2年(1105)12月に関白となっている。
関白の母となった全子は、
天永3年(1112)12月、従三位に叙された。
摂関の母が、四位を経ずに無位から三位に叙されるのは、
「未曽有」(『殿暦』)であったという。
「全子」の名は、このとき式部大輔菅原在良によって付けられたものである。
永久2年(1114)2月には、従二位、
永久3年(1115)12月には、従一位に昇った。
保安元年(1120)11月、白河院の勘気により、息子忠実が失脚して宇治に籠居すると、
いまだ復権の叶わぬ大治元年(1126)3月、全子は出家している。
それでも3年後の大治4年(1129)7月には、
白河院の崩御にともなって、忠実は復権を果たしている。
久安6年(1150)正月、全子は准三宮となっている。
この久安6年(1150)は、全子の周辺で激動の年であった。
忠実には、忠通と頼長という歳の離れた二人の息子がおり、
忠通にはしばらく子がなかったために、忠実は頼長を忠通の養子として跡を継がせようとした。
ところが、忠通に待望の男子が産まれたことで、
忠実・頼長と忠通の間に、摂関の座をめぐる亀裂が発生。
さらに、それに絡んで忠通の養女と頼長の養女の入内競争も激化して、
久安6年(1150)9月、愛息頼長に肩入れする忠実は、嫡男忠通を義絶するに至る。
目の前で繰り広げられる息子と孫との争いに、老いた母は何を思ったろうか。
さらにこの年、10月頃から京都周辺で「咳病」が大流行し、
「老者多く以て妖亡す。民庶あらあら死亡す。近年以来第一の咳病なり」(『本朝世紀』)
というありさまだった。
頼長やその周囲も罹ったほか、鳥羽法皇も罹患して、諸行事への臨幸が取り止めになっている。
全子もまたこの咳病に罹った。
11月4日、全子の病状が思わしくないとのことで、
息子忠実は鳥羽より母のいる宇治へ駆けつけた。
翌5日巳の刻(午前10時頃)、全子は宇治の小川殿にて他界。91歳であった。
忠実・忠通の親子喧嘩は、全子の葬儀にも絡んだ。
忠実は全子の葬儀にあたり、
忠通の衰日(凶日)は考慮せず、頼長の衰日のみをふまえて調整するよう指示した。
17日、入棺。
18日、小川殿で葬礼が催された。
むろん、忠通の臨席はなかったが、
忠実も咳病のために臨席せず、頼長も父忠実の命令により欠席した。
忠実の命令は、頼長の触穢による行動制限を避けるためだろう。
19日、拾骨。
また、忠実は四十九日の間、魚食を断った。
頼長は忠実の年齢を考えて、思い返すよう説得したが、
忠実は聞き入れなかった。
73歳の子が91歳の母を送ることを、
孫の頼長は「我が朝未聞」「寿考」と記している(『台記』)。
全子の遺骨は、西法華堂という御堂に安置されたが、
これは、御堂流の菩提寺である木幡の浄妙寺が、
小川殿から見て、移転等を避けるべき「王相方」という方角に当たったためで、
翌年の仁平元年(1151)9月に、孫の頼長が西法華堂から浄妙寺へ改葬している。
また、息子忠実は全子の生前より、母のために小川殿のなかに御堂を建てていたが、
完成したのは、同じく仁平元年(1151)の10月のことだった。
全子が最期に目にしたのは、息子と孫との骨肉の争いであった。
この争いは、天皇家の争いなどとも絡んで、
5年後に保元の乱へと発展し、頼長の死と忠実の失墜に帰着する。
とはいえ、離縁後の逆境を耐え抜き、息子の自立や復権を見届け、自身も准三宮まで昇り、
保元の乱を見届けずにこの世を去ったのは、幸運というべきだろう。
前夫を呪った母全子と、嫡男を義絶した息子忠実。
そして、母の死を魚食を断つほどに悼んだ息子。
肉親への愛憎の激しさと執念深さは、母から息子へたしかに受け継がれたようである。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
『新訂増補国史大系 栄花物語』(吉川弘文館、1938年)
服藤早苗『平安朝の家と女性』(平凡社、1997年)
元木泰雄『藤原忠実〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2000年)
中村成里「『栄花物語』続編と藤原忠実」(『中古文学』83、2009年)
朧谷寿『平安王朝の葬送―死・入棺・埋骨―』(思文閣出版、2016年)
右大臣藤原俊家の娘。
関白藤原師通の先妻、同忠実の母。
御堂関白藤原道長の庶子頼宗の孫にあたり、
甥(兄宗俊の息子)には、故実家として名高い中御門流の藤原宗忠がいる。
御堂流の師通の正妻だったが、
全子の政所始が行われる前に離縁したため、北政所とは呼ばれず、
居所をもって「一条殿」「小川殿」と呼ばれた。
康平3年(1060)に、権中納言藤原俊家の娘として生まれた全子は、
関白藤原師実の嫡男で、2歳下の権中納言兼左大将藤原師通と婚姻した。
「いとうつくしき御あはひ」(『栄花物語』巻39)と評される夫婦で、
承暦2年(1078)11月には長男忠実が産まれた。
しかし、その夫婦仲もまもなく「あやしく枯れ枯れにのみなり」(同上)、離縁。
師通は、太政大臣藤原信長の養女信子と再婚した。
全子は、亡父俊家の肖像に祈って師通・信子夫妻を夜な夜な呪い、
あるとき夢枕に俊家が立って、その怨み必ずや晴らそう、と言ったという(『台記』)。
はたして師通は、康和元年(1099)6月に、38歳で急死し、
北政所信子は零落して、のちに師通の子孫から「乞食尼」と呼ばれている(『玉葉』)。
全子に引き取られ、祖父師実のもとに通ってその薫陶を受けた忠実は、
父師通の没後に藤原氏の氏長者となり、
政治の実権は白河院の掌中にあったが、
長治2年(1105)12月に関白となっている。
関白の母となった全子は、
天永3年(1112)12月、従三位に叙された。
摂関の母が、四位を経ずに無位から三位に叙されるのは、
「未曽有」(『殿暦』)であったという。
「全子」の名は、このとき式部大輔菅原在良によって付けられたものである。
永久2年(1114)2月には、従二位、
永久3年(1115)12月には、従一位に昇った。
保安元年(1120)11月、白河院の勘気により、息子忠実が失脚して宇治に籠居すると、
いまだ復権の叶わぬ大治元年(1126)3月、全子は出家している。
それでも3年後の大治4年(1129)7月には、
白河院の崩御にともなって、忠実は復権を果たしている。
久安6年(1150)正月、全子は准三宮となっている。
この久安6年(1150)は、全子の周辺で激動の年であった。
忠実には、忠通と頼長という歳の離れた二人の息子がおり、
忠通にはしばらく子がなかったために、忠実は頼長を忠通の養子として跡を継がせようとした。
ところが、忠通に待望の男子が産まれたことで、
忠実・頼長と忠通の間に、摂関の座をめぐる亀裂が発生。
さらに、それに絡んで忠通の養女と頼長の養女の入内競争も激化して、
久安6年(1150)9月、愛息頼長に肩入れする忠実は、嫡男忠通を義絶するに至る。
目の前で繰り広げられる息子と孫との争いに、老いた母は何を思ったろうか。
さらにこの年、10月頃から京都周辺で「咳病」が大流行し、
「老者多く以て妖亡す。民庶あらあら死亡す。近年以来第一の咳病なり」(『本朝世紀』)
というありさまだった。
頼長やその周囲も罹ったほか、鳥羽法皇も罹患して、諸行事への臨幸が取り止めになっている。
全子もまたこの咳病に罹った。
11月4日、全子の病状が思わしくないとのことで、
息子忠実は鳥羽より母のいる宇治へ駆けつけた。
翌5日巳の刻(午前10時頃)、全子は宇治の小川殿にて他界。91歳であった。
忠実・忠通の親子喧嘩は、全子の葬儀にも絡んだ。
忠実は全子の葬儀にあたり、
忠通の衰日(凶日)は考慮せず、頼長の衰日のみをふまえて調整するよう指示した。
17日、入棺。
18日、小川殿で葬礼が催された。
むろん、忠通の臨席はなかったが、
忠実も咳病のために臨席せず、頼長も父忠実の命令により欠席した。
忠実の命令は、頼長の触穢による行動制限を避けるためだろう。
19日、拾骨。
また、忠実は四十九日の間、魚食を断った。
頼長は忠実の年齢を考えて、思い返すよう説得したが、
忠実は聞き入れなかった。
73歳の子が91歳の母を送ることを、
孫の頼長は「我が朝未聞」「寿考」と記している(『台記』)。
全子の遺骨は、西法華堂という御堂に安置されたが、
これは、御堂流の菩提寺である木幡の浄妙寺が、
小川殿から見て、移転等を避けるべき「王相方」という方角に当たったためで、
翌年の仁平元年(1151)9月に、孫の頼長が西法華堂から浄妙寺へ改葬している。
また、息子忠実は全子の生前より、母のために小川殿のなかに御堂を建てていたが、
完成したのは、同じく仁平元年(1151)の10月のことだった。
全子が最期に目にしたのは、息子と孫との骨肉の争いであった。
この争いは、天皇家の争いなどとも絡んで、
5年後に保元の乱へと発展し、頼長の死と忠実の失墜に帰着する。
とはいえ、離縁後の逆境を耐え抜き、息子の自立や復権を見届け、自身も准三宮まで昇り、
保元の乱を見届けずにこの世を去ったのは、幸運というべきだろう。
前夫を呪った母全子と、嫡男を義絶した息子忠実。
そして、母の死を魚食を断つほどに悼んだ息子。
肉親への愛憎の激しさと執念深さは、母から息子へたしかに受け継がれたようである。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
『新訂増補国史大系 栄花物語』(吉川弘文館、1938年)
服藤早苗『平安朝の家と女性』(平凡社、1997年)
元木泰雄『藤原忠実〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2000年)
中村成里「『栄花物語』続編と藤原忠実」(『中古文学』83、2009年)
朧谷寿『平安王朝の葬送―死・入棺・埋骨―』(思文閣出版、2016年)
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《病死》 《1095年》 《4月》 《28日》 《享年50代》
中納言藤原経季の娘。
宇多源氏の源政長の妻となった。
嘉保2年(1095)4月28日、卒。
「俄にもって逝去」(『中右記』)というから、急死だったようである。
夫政長は58歳であったから、妻も同じほどであったろうか。
5月4日、
伊勢神宮遷宮上卿であった治部卿藤原通俊は、
逝去した政長の妻が、自身の従姉妹にあたることから、
喪に服すべきか否かを関白藤原師通に問い合わせた。
通俊は他家の養子となっていることから、服喪の必要もないかと思われたが、
大殿藤原師実(関白師通の父)の判断で、
身内に不幸のあった通俊は、遷宮上卿に不適格として更迭され、
替わって権中納言大江匡房が同職に任じられた。
なお、妻を亡くした政長は、半年後に母も続けて亡くしている。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
中納言藤原経季の娘。
宇多源氏の源政長の妻となった。
嘉保2年(1095)4月28日、卒。
「俄にもって逝去」(『中右記』)というから、急死だったようである。
夫政長は58歳であったから、妻も同じほどであったろうか。
5月4日、
伊勢神宮遷宮上卿であった治部卿藤原通俊は、
逝去した政長の妻が、自身の従姉妹にあたることから、
喪に服すべきか否かを関白藤原師通に問い合わせた。
通俊は他家の養子となっていることから、服喪の必要もないかと思われたが、
大殿藤原師実(関白師通の父)の判断で、
身内に不幸のあった通俊は、遷宮上卿に不適格として更迭され、
替わって権中納言大江匡房が同職に任じられた。
なお、妻を亡くした政長は、半年後に母も続けて亡くしている。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
《病死》 《1228年》 《2月》 《4日》 《享年91歳》
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。
寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。
養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。
文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)、
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。
その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。
安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。
現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
《病死》 《1256年》 《6月》 《27日》 《享年不明》
鎌倉幕府連署北条重時の娘で、
幕府評定衆宇都宮泰綱の息子経綱の妻となった。
名は伝わらない。
建長8年(1256)頃のことか、
宇都宮経綱の妻は流産をした。
その後、産後の衰弱を病魔が襲ったのか、
「赤痢病」に罹ったという。
6月27日、卒去。享年は未詳。
宇都宮経綱にはその後、
その亡妻の妹が嫁したという。
日本中世のソロレート婚(妻の死別後にその姉妹と婚姻すること)の一例か。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 33 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
菊池紳一監修・北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)
鎌倉幕府連署北条重時の娘で、
幕府評定衆宇都宮泰綱の息子経綱の妻となった。
名は伝わらない。
建長8年(1256)頃のことか、
宇都宮経綱の妻は流産をした。
その後、産後の衰弱を病魔が襲ったのか、
「赤痢病」に罹ったという。
6月27日、卒去。享年は未詳。
宇都宮経綱にはその後、
その亡妻の妹が嫁したという。
日本中世のソロレート婚(妻の死別後にその姉妹と婚姻すること)の一例か。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 33 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
菊池紳一監修・北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)
《病死》 《1497年》 《6月》 《11日》 《享年22歳》
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
《病死》 《1178年》 《7月》 《16日》 《享年33歳》
兵部権大輔平時信の娘、
平清盛の息子宗盛の妻。
平清子については、
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」に詳しいので、
それによりつつ紹介したい。
久安2年(1146)、
鳥羽院に仕えた平時信と、院近臣藤原顕頼の娘祐子との間に生まれた清子は、
異母姉の時子に推されてか、
時子とその夫平清盛の子、すなわち清子にとって甥にあたる平宗盛の妻となった。
夫宗盛は清子の1歳下。
年齢からすると、婚議は永暦元年(1160)か翌応保元年(1161)ごろのことだったろうか。
清子の同母姉滋子は、後白河上皇の寵妃となって、このころ皇子憲仁を産んでおり、
その同母妹の清子を宗盛と娶せることで、後白河と宗盛は時子の実家を挟んで相婿となる。
こうした差配によって、
清盛の妻時子は、平家の将来を盤石なものにしようとしたという。
仁安3年(1168)3月、
清子は甥の憲仁親王(高倉天皇)の即位に際して、
義兄で舅の清盛の猶子として、従五位下に叙され、典侍に任じられた。
「清子」の名は、このとき養父清盛の名に因んで付けられたものだろう。
宮仕えに際しては、中納言三位局と呼ばれた。
嘉応2年(1170)には、夫宗盛との間に長男清宗を産んでいる。
清盛と時子の娘である徳子(のち建礼門院)が入内して、高倉天皇の中宮となり、
治承2年(1178)5月に懐妊すると、
清子はその乳母に内定した。
33歳のことであった。
中世の乳母は、その名に反して必ずしも授乳役ではなく、最側近の養育役というべきもので、
当時の政治社会においては、その存在や影響力は大きく、
清子の将来は、次代天皇の乳母として約束されたようなものであった。
6月28日、徳子の着帯の儀当日、
乳母となる清子と右近衛大将の夫宗盛は、それぞれに儀式に参列する予定だったが、
清子は遅参し、参列したのは帯の献上が終わったころであった。
この間、さきに参列していた夫宗盛も、
ひとけのないところへ退いて清子を待ち、その到着を見守って列に戻ったようである。
清子の遅参の理由には、彼女が抱えていた病があったらしい。
6月20日ごろより、清子の「髪」に「腫物」ができていたというから(『山槐記』)、
頭部の頭皮に近いところに異常があったのだろう。
28日の着帯の儀までに治らず、腫れ物を抱えたまま儀式に臨んだのである。
腫れ物は悪性だったようで、
まもなく清子は八条北高倉の新亭で療養に入った。
閏6月11日には、容態は「大事」に至ったという(『玉葉』)。
13日、医師の和気定長が灸を勧めたが、清子は受け付けず、
しかたなく和気貞説が膏薬を塗った。
医師の勧める最善の治療を拒んだまま病状は悪化し、
15日、天命を悟ってか、清子は出家。
19日には、右大臣藤原兼実も、
典薬頭和気定成(定長の父)との雑談で清子の病状を話題にしており、
京都の人々に注目されていたことがうかがえる。
23日、但馬国から来た但馬君という医僧が治療し、腫れ物の切除に成功した。
だが、清子の衰弱は甚だしく、余命はいくばくもないようだった。
7月10日、夫宗盛は、妻の病を理由に右近衛大将を辞任する。
妻の病気を理由に官職を辞する例は珍しく、
ふたりの関係や宗盛の人柄を示すエピソードともされるが、果たして。
16日、清子没。33歳。
一周忌の迫った翌治承3年(1179)6月3日、
宗盛は法性寺一橋西の辺りに堂を建てて、清子の菩提を弔った。
この堂は、平家滅亡後もしばらく住僧が維持していたが、
正治2年(1200)閏2月に取り壊されることとなり、
清子の乳母子であった木工権頭源仲国という人物が引き受けて、
四天王寺に移築されたという。
なお、
清子が乳母となるはずだった皇子が、のちの安徳天皇である。
打倒平家の挙兵が始まって、治承・寿永の内乱、いわゆる源平合戦が勃発するのは、
清子の没後2年、治承4年(1180)のこと。
安徳天皇が壇ノ浦の波間に沈み、宗盛が源氏の捕虜となるのは、
それからさらに5年後のことである。
〔参考〕
『増補史料大成 山槐記 2』(臨川書店、1989年)
『図書寮叢刊 〈九条家本〉玉葉 5』(宮内庁書陵部、1998年)
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」
(細川涼一編『〈生活と文化の歴史学7〉生・成長・老い・死』竹林舎、2016年)
兵部権大輔平時信の娘、
平清盛の息子宗盛の妻。
平清子については、
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」に詳しいので、
それによりつつ紹介したい。
久安2年(1146)、
鳥羽院に仕えた平時信と、院近臣藤原顕頼の娘祐子との間に生まれた清子は、
異母姉の時子に推されてか、
時子とその夫平清盛の子、すなわち清子にとって甥にあたる平宗盛の妻となった。
夫宗盛は清子の1歳下。
年齢からすると、婚議は永暦元年(1160)か翌応保元年(1161)ごろのことだったろうか。
清子の同母姉滋子は、後白河上皇の寵妃となって、このころ皇子憲仁を産んでおり、
その同母妹の清子を宗盛と娶せることで、後白河と宗盛は時子の実家を挟んで相婿となる。
こうした差配によって、
清盛の妻時子は、平家の将来を盤石なものにしようとしたという。
仁安3年(1168)3月、
清子は甥の憲仁親王(高倉天皇)の即位に際して、
義兄で舅の清盛の猶子として、従五位下に叙され、典侍に任じられた。
「清子」の名は、このとき養父清盛の名に因んで付けられたものだろう。
宮仕えに際しては、中納言三位局と呼ばれた。
嘉応2年(1170)には、夫宗盛との間に長男清宗を産んでいる。
清盛と時子の娘である徳子(のち建礼門院)が入内して、高倉天皇の中宮となり、
治承2年(1178)5月に懐妊すると、
清子はその乳母に内定した。
33歳のことであった。
中世の乳母は、その名に反して必ずしも授乳役ではなく、最側近の養育役というべきもので、
当時の政治社会においては、その存在や影響力は大きく、
清子の将来は、次代天皇の乳母として約束されたようなものであった。
6月28日、徳子の着帯の儀当日、
乳母となる清子と右近衛大将の夫宗盛は、それぞれに儀式に参列する予定だったが、
清子は遅参し、参列したのは帯の献上が終わったころであった。
この間、さきに参列していた夫宗盛も、
ひとけのないところへ退いて清子を待ち、その到着を見守って列に戻ったようである。
清子の遅参の理由には、彼女が抱えていた病があったらしい。
6月20日ごろより、清子の「髪」に「腫物」ができていたというから(『山槐記』)、
頭部の頭皮に近いところに異常があったのだろう。
28日の着帯の儀までに治らず、腫れ物を抱えたまま儀式に臨んだのである。
腫れ物は悪性だったようで、
まもなく清子は八条北高倉の新亭で療養に入った。
閏6月11日には、容態は「大事」に至ったという(『玉葉』)。
13日、医師の和気定長が灸を勧めたが、清子は受け付けず、
しかたなく和気貞説が膏薬を塗った。
医師の勧める最善の治療を拒んだまま病状は悪化し、
15日、天命を悟ってか、清子は出家。
19日には、右大臣藤原兼実も、
典薬頭和気定成(定長の父)との雑談で清子の病状を話題にしており、
京都の人々に注目されていたことがうかがえる。
23日、但馬国から来た但馬君という医僧が治療し、腫れ物の切除に成功した。
だが、清子の衰弱は甚だしく、余命はいくばくもないようだった。
7月10日、夫宗盛は、妻の病を理由に右近衛大将を辞任する。
妻の病気を理由に官職を辞する例は珍しく、
ふたりの関係や宗盛の人柄を示すエピソードともされるが、果たして。
16日、清子没。33歳。
一周忌の迫った翌治承3年(1179)6月3日、
宗盛は法性寺一橋西の辺りに堂を建てて、清子の菩提を弔った。
この堂は、平家滅亡後もしばらく住僧が維持していたが、
正治2年(1200)閏2月に取り壊されることとなり、
清子の乳母子であった木工権頭源仲国という人物が引き受けて、
四天王寺に移築されたという。
なお、
清子が乳母となるはずだった皇子が、のちの安徳天皇である。
打倒平家の挙兵が始まって、治承・寿永の内乱、いわゆる源平合戦が勃発するのは、
清子の没後2年、治承4年(1180)のこと。
安徳天皇が壇ノ浦の波間に沈み、宗盛が源氏の捕虜となるのは、
それからさらに5年後のことである。
〔参考〕
『増補史料大成 山槐記 2』(臨川書店、1989年)
『図書寮叢刊 〈九条家本〉玉葉 5』(宮内庁書陵部、1998年)
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」
(細川涼一編『〈生活と文化の歴史学7〉生・成長・老い・死』竹林舎、2016年)
《病死》 《1230年》 《8月》 《4日》 《享年25歳》
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
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病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
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没年 1350~1399
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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| 4日 | 5日 | 6日 |
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| 某日 |
享年 ~30代
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享年 40代~60代
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