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死に様データベース
《病死》 《1509年》 《2月》 《10日》 《享年88歳》


三条西家の女房。
局名は右京大夫
出自等は未詳。


応永29年(1422)の生まれ。
永享11年(1439)、18歳で三条西家へ女房づとめを始め、
当主公保・実隆父子に長く仕えた。
永正元年(1504)10月9日、83歳の年、
三条西家家礼の大沢重種宅で出家を遂げ、法名光智を名乗ったが、
その後も三条西家への奉公を続けたようである。

5年後の永正6年(1509)正月、
「老病無頼」により、光智は88歳で三条西家を退き、
三条西邸近くの二度観音堂辺りの小庵に相談して、そこへ移ることとなった。
その支度をしていたところ、
同月28日に三条西家へ雲龍院主がやってきたので、
幸いにもその輿に乗せてもらって、移住先の小庵に運んでもらった。


小庵に輿で運んでもらった光智と、ただ民家に移された梅枝
死に臨んでも、女房と下女という身分の違いは、歴然と上位者によって示される。


10日ほど経った2月10日午の刻(正午頃)光智入滅。
すぐに葬ったというから、土葬であったか。
知らせを受けた旧主実隆は、
翌11日に葬料を送っている。
「愁歎比類なきものなり」(『実隆公記』)
その後も実隆は、光智のために法華経を書写し、
百箇日や一周忌の法要も行っている。



〔参考〕
『実隆公記 巻5』(1938年)
原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1978年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、1995年)
細川涼一「家族を構成しない女性」(峰岸純夫編『中世を考える 家族と女性』吉川弘文館、1992年)
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《不明》 《1202年》 《某月》 《某日》 《享年不明》


建仁2年(1202)の春頃、
鎌倉では将軍家2代の源頼家の御所で、
連日のように蹴鞠会が催されていた。
3月8日にも、蹴鞠会があり、
その後の宴席は、比企能員邸の庭木の花が見頃だとのことで、
将軍家の御所から場所を移して開催された。

その宴席に、京都から下ってきたという微妙という名の舞女が候じた。
歌舞もよく、頼家もご満悦だったようだが、
亭主能員によれば、この微妙には愁訴の旨があって、山河を越えて鎌倉に来たのだという。
頼家が尋ねると、微妙は泣きながら、途切れがちにこう訴えた。

「去る建久年中(1190~99)
 父の右兵衛尉為成は、他人の讒言に遭って捕らえられ、
 右京の獄舎に入れられました。
 その後、同所の囚人は陸奥へ移送することとなり、
 鎌倉将軍家の雑色に引き渡されましたが、
 父為成もそのうちにおりました。
 母は悲嘆の余りに世を去り、7歳であった私は、頼るべき兄弟もなく、
 長く孤独の恨みに沈んでおりましたが、
 への想いを抑えきれず、その安否をたしかめたいと、
 今こうして宴曲の芸を身につけて、東路を越えてきたのです。」(『吾妻鏡』、以下同)

これを聞いて涙しない者はなく、
頼家はさっそく陸奥へ使者を遣わして、為成の行方を捜させた。

この話は、尼御台北条政子の耳にも届き、
3月15日、政子が頼家の御所を訪れた際に、微妙も召され、
その巧みな芸を披露した。
微妙のを想う志に感じ入った政子もまた、陸奥へ使者を遣って為成を捜させた。
さらに、
使者が鎌倉に戻った際には、政子のもとへ直接報告に来るよう命じている。

その後もたびたび微妙は頼家に召され、宴席に候じたが、
陸奥から使者が帰ったのは、5ヶ月後の8月5日。
その報告は、為成の死去を知らせるものであった。

これを聞いた微妙は、「涕泣、悶絶躄地」(もだえ苦しみ、転げ回ること)
10日後の15日夜、
微妙は鎌倉亀谷の栄西の禅坊に入って、出家を遂げた。
法名は持蓮。
の夢後を弔うためであったのはいうまでもない。
憐れんだ政子は、微妙改め持蓮に鎌倉西郊の深沢にに居所を用意して与え、
政子の持仏堂にも参じるよう言い含めたという。


微妙の姿は、を想うけなげな女性像として称賛されたようで、
戦前には「列女伝」の類や修身の教科書などに、多く取り上げられたようである。


ただ、この娘の孝行譚にはおまけがつく。
鎌倉滞在中の微妙は、
古郡保忠という御家人と浅からぬ仲になっていた。
ふたりは「比翼連理の契り」をしていたが、
微妙は、保忠が本国の甲斐に帰っている間、その帰りを待たずに出家したのである。
3月24日、鎌倉に戻った古郡保忠は、微妙の出家を知る。
微妙が、栄西の門弟祖達の房にいることを聞いた保忠は、そこへ押しかけ、
微妙に会わせよと迫った。
その剣幕におそれおののいた祖達は、将軍御所に駆け込み、
鬱憤休まらざる保忠は、従僧らを打擲したため、
亀谷一帯はたちまち騒動になった。
まもなく鎮静したが、政子は平賀朝光を遣わして保忠を宥めている。
結局、27日なって保忠は将軍頼家の勘気を蒙り、
政子からも「理不尽の所行、奇怪」と叱責を受けた。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
《病死》 《1103年》 《正月》 《25日》 《享年28歳》


堀河天皇の女御。
父は大納言藤原実季、母は大宰大弐藤原経平の娘睦子。
後三条天皇の皇女で伊勢斎宮であった俊子内親王の養女となった。


承徳2年(1098)10月29日、苡子は23歳で3歳下の堀河天皇に入内し、
12月8日、女御となった。
相前後して懐妊したが、康和元年(1099)4月4日、4ヶ月で流産。
康和2年(1100)正月11日には、その労いとして従四位下に叙されている。

苡子の同母兄の権大納言藤原公実が、なおも皇子の誕生を祈願すると、
はたして康和4年(1102)8月、苡子の再びの懐妊が明らかとなった。
8月7日、着帯の儀を行ったのち、苡子は内裏を退いて、
五条高倉の左少弁藤原顕隆邸に移った。
出産が近づくにつれて、
奈良興福寺の造営が中止され、軽犯の者が釈放されるなど、
世間の注目は皇嗣の誕生集まった。

康和5年(1103)正月13日夜より、苡子は産気づき、
兄公実が万事をとりしきって、
14日酉の刻(夜6時頃)、産所に白木の御帳が立てられて、そのときに備えた。
16日申の刻(夕方4時頃)からいよいよとなって、
深夜、ついに苡子は男児を出産。平産であった。
兄公実がへその緒を切ったという。

人々は皇子の降誕を祝いあった。
なかでも白河法皇は孫の誕生に、「御感の余りすでに落涙に及」んだという(『中右記』)
もっとも、外戚の地位を脅かされる摂関家の右大臣藤原忠実は、
いささかおもしろくなかったようである。

翌17日から、御湯殿始めや御乳付けなど、皇子の誕生儀礼が進められたが、
この間、苡子の体は「邪気」に冒され、「不食」(食欲不振)となっていた(『中右記』)
兄公実はこのの病状をひた隠しにしたとされる。

25日、白河法皇が産所の藤原顕隆邸に臨幸し、苡子を見舞って皇子と対面した。

ところが、同日亥の刻(夜10時頃)、雨の降りしきるころ、
「邪気」に取り入られた苡子の容態が悪化。
万一の死穢に備えて、皇子は院御所の高松殿に移された。
しかして、子の四点(深夜1時頃)、苡子卒去。28歳であった。
「今朝臨幸の栄耀あり、夕に非常の哀哭に逢ふ。
 誠に則ち憂喜聚門、吉凶同域の謂れか。
 世間の無常、あたかも春の夢のごときものなり。」(『中右記』)
もし、公実が苡子の容態を隠していなければ、手の施しようがあったかもしれない、
と人々は噂した。

しかし、その後、公実が語ったところでは、
苡子の容態は、深夜に急変して人事不省に陥り、
一刻(30分)ほどで逝去してしまった、
まったくの「頓滅」であったという(『中右記』)
そのうえ、人々からは「の重病を隠した」と謂れのない誹りを受けた、
ということであった。
白河法皇と堀河天皇に近仕し、摂関家をも凌がんとする勢いのあった公実には、
敵も多かったらしい。
とはいえ、に先立たれたうえ、“権力欲からを見殺しにした”と中傷されては、
たまったものではない。


27日、苡子の遺骸は、生前のごとく日用の牛車に乗せられ、
養母俊子内親王の御所に運ばれ、入棺。
皇子降誕の儀礼が催されているなかで、葬礼は憚られたらしい。
2月3日、鳥辺野で火葬されて、遺骨は木幡山陵に納められ、従三位の位階が贈られた。

悲嘆に暮れる堀河天皇は、はやくから苡子のために仏堂を建てようと志し、
父の白河法皇も同意して、方角と経費に気を付けるよう言い添えた。


同年末の12月19日、
七条室町の亡父実季の仏堂で、苡子の一周忌が大々的に営まれた。
丈六(高さ約4.85m)の釈迦如来像が造立され、
金泥の法華経も供えられた。
明けて康和6年(1104)正月27日には、
堀河天皇の念願叶って、仁和寺に転輪院が建立された。


4年後の嘉承2年(1107)には、堀河天皇も世を去り、
苡子が産んだ皇子宗仁が5歳で即位した(鳥羽天皇)
これにより、苡子に皇太后の称号が贈られた。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 5』(岩波書店、2005年)
『大日本古記録 殿暦 1』(岩波書店、1960年)

東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1496年》 《11月》 《23日》 《享年15歳》


清原宣賢の妻。
父は医師の上池院(坂)胤祐か。

明応5年(1496)11月23日、
六位蔵人清原宣賢のは、難産のすえに死去してしまった。
15歳であった。

夫の宣賢は22歳。


なお、夫宣賢には、3年後に別の女性との間に、
嫡男業賢(のち良雄)が生まれ、
吉田家の養子となる息子(兼右)や、三淵晴員の妻となる娘(智慶院)など、
多くの子に恵まれている。


〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
《病死》 《1496年》 《7月》 《21日》 《享年69歳》


洛西嵯峨摂取院の尼僧。
父は参議甘露寺房長、母は未詳。

応仁・文明の乱後、真如は越前国にあった摂取院の所領に移住した。
京都に戻らぬまま、
明応5年(1496)7月21日、入滅。69歳。


8月10日、江南院龍霄(もと参議万里小路春房)が、
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。
龍霄は真如の兄甘露寺親長の実子、実隆は真如の姉の子であり、
ふたりは真如の甥にあたる。
実隆の母真如の姉)はすでに25年前に他界しており、
「女子連子この一人なり。
 今一度相謁せず、無念というべし。」(『実隆公記』)
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、
と、叔母の死を悲しんでいる。

15日、実隆はを喪った叔父親長を見舞っている。



〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所
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