死に様データベース
《病死》 《1412年》 《9月》 《1日》 《享年82歳》
下野国足利荘の小俣鶏足寺(現・栃木県足利市)の住持。
元弘元年(1331)生まれ。
房号は明源房。
もとは周防国の出身で、
俗世に対して、
「人間の栄耀幾程ならず、生者必滅免れ難し」(『鶏足寺世代血脈』、以下同)との思いを募らせ、
19歳のときに出家。
南北朝内乱まっさかりの貞和5・正平4年(1349)のことである。
周防を出た空覚は、諸国を渡ったのち関東に行きつき、
赤城山に参籠して、善縁にめぐりあうことを祈った。
その「容儀」の「美麗」さに目をとめたある僧と知り合って、赤城山を出、
やがて下野小俣の鶏足寺に入って、先代住持の尊猷に参じた。
尊猷は空覚の熱心な修行ぶりに感心し、三宝院法流を受け継がせた。
空覚の名声は近国にも知られたようで、
上野国新田荘綿打(現・群馬県太田市)の領主新田綿打了安に請われて、同地に大慶寺を開くなどしている。
応永19年(1412)9月1日、
空覚は新田荘鳥山の領主鳥山歌山より依頼を受けて、その館へ祈祷に赴き、
その帰路、休憩を取るために金井薬師堂(現・太田市)に立ち寄った。
堂内に入って、ほどなくして円寂。
「希代不思議の入寂なり」。
82歳であった。
鶏足寺へ無言の帰宅となり、荼毘・葬礼以下が慇懃になされた。
〔参考〕
『栃木県史 史料編 中世4』(栃木県、1979年)
下野国足利荘の小俣鶏足寺(現・栃木県足利市)の住持。
元弘元年(1331)生まれ。
房号は明源房。
もとは周防国の出身で、
俗世に対して、
「人間の栄耀幾程ならず、生者必滅免れ難し」(『鶏足寺世代血脈』、以下同)との思いを募らせ、
19歳のときに出家。
南北朝内乱まっさかりの貞和5・正平4年(1349)のことである。
周防を出た空覚は、諸国を渡ったのち関東に行きつき、
赤城山に参籠して、善縁にめぐりあうことを祈った。
その「容儀」の「美麗」さに目をとめたある僧と知り合って、赤城山を出、
やがて下野小俣の鶏足寺に入って、先代住持の尊猷に参じた。
尊猷は空覚の熱心な修行ぶりに感心し、三宝院法流を受け継がせた。
空覚の名声は近国にも知られたようで、
上野国新田荘綿打(現・群馬県太田市)の領主新田綿打了安に請われて、同地に大慶寺を開くなどしている。
応永19年(1412)9月1日、
空覚は新田荘鳥山の領主鳥山歌山より依頼を受けて、その館へ祈祷に赴き、
その帰路、休憩を取るために金井薬師堂(現・太田市)に立ち寄った。
堂内に入って、ほどなくして円寂。
「希代不思議の入寂なり」。
82歳であった。
鶏足寺へ無言の帰宅となり、荼毘・葬礼以下が慇懃になされた。
〔参考〕
『栃木県史 史料編 中世4』(栃木県、1979年)
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《病死》 《1245年》 《9月》 《24日》 《享年46歳》
後高倉院守貞親王の皇女。
母は北白河院持明院陳子。
同母弟に後堀河天皇。
寛喜元年(1229)に他界した姉本子内親王より、押小路御所を相続し、
「押小路姫宮」と呼ばれたが、
その後、もうひとりの姉式乾門院利子内親王と、母の旧邸であった北白河御所に同居して、
「白河姫宮」「白河尼姫宮」と呼ばれた。
系図史料には「斎宮」とあるが、未詳。
能子がいつごろ出家したのかは不明だが、
出家後の延応2年(1240)4月21日、
姪の暉子内親王とともに内親王宣下を受けた。
能子の名は、このとき大蔵卿菅原為長の勘進で付けられたもの。
いつのころからか、能子内親王は体調をくずし、
長患いで食欲不振が続いていたところ、
寛元3年(1245)9月24日辰の刻(朝8時頃)、閉眼。
46歳。
妹の邦子内親王は、弟後堀河天皇の准母として安嘉門院に、
姉の利子内親王は、甥の四条天皇の准母として式乾門院に、
と、同母の姉妹はそれぞれ女院に立てられたが、
能子と、いささか早く先だった本子の両内親王は、その栄誉に浴することはなかった。
姉妹の明暗を分けたものは何だったのか。
〔参考〕
『増補史料大成 平戸記2・妙槐記』(臨川書店、1965年)
後高倉院守貞親王の皇女。
母は北白河院持明院陳子。
同母弟に後堀河天皇。
寛喜元年(1229)に他界した姉本子内親王より、押小路御所を相続し、
「押小路姫宮」と呼ばれたが、
その後、もうひとりの姉式乾門院利子内親王と、母の旧邸であった北白河御所に同居して、
「白河姫宮」「白河尼姫宮」と呼ばれた。
系図史料には「斎宮」とあるが、未詳。
能子がいつごろ出家したのかは不明だが、
出家後の延応2年(1240)4月21日、
姪の暉子内親王とともに内親王宣下を受けた。
能子の名は、このとき大蔵卿菅原為長の勘進で付けられたもの。
いつのころからか、能子内親王は体調をくずし、
長患いで食欲不振が続いていたところ、
寛元3年(1245)9月24日辰の刻(朝8時頃)、閉眼。
46歳。
妹の邦子内親王は、弟後堀河天皇の准母として安嘉門院に、
姉の利子内親王は、甥の四条天皇の准母として式乾門院に、
と、同母の姉妹はそれぞれ女院に立てられたが、
能子と、いささか早く先だった本子の両内親王は、その栄誉に浴することはなかった。
姉妹の明暗を分けたものは何だったのか。
〔参考〕
『増補史料大成 平戸記2・妙槐記』(臨川書店、1965年)
《自害》 《1547年》 《3月》 《7日》 《享年36歳》
摂関家近衛家の諸大夫。
永正9年(1512)生まれ。
父は斎藤遠江守以康。
享禄2年(1529)に18歳で従五位下に叙されてのち、
順調に昇進を重ね、
天文13年(1544)に長門守に任じられて、
翌年には従四位下に叙されている。
斎藤長門守以親は、
天文16年(1547)2月23日、
妻を難産で亡くした。
ほどなくして、以親「狂気」(『歴名土代』)。
10日余りのちの3月6日、自害を図り、
翌7日、絶命。36歳。
息子に以定がいたが、
10歳にも満たなかったと思われる。
妻を追おうとした近衛忠嗣の例もあり、
中世における夫婦愛のありようのひとつであったろうか。
〔参考〕
湯川敏治編『歴名土代』(続群書類従完成会、1996年)
摂関家近衛家の諸大夫。
永正9年(1512)生まれ。
父は斎藤遠江守以康。
享禄2年(1529)に18歳で従五位下に叙されてのち、
順調に昇進を重ね、
天文13年(1544)に長門守に任じられて、
翌年には従四位下に叙されている。
斎藤長門守以親は、
天文16年(1547)2月23日、
妻を難産で亡くした。
ほどなくして、以親「狂気」(『歴名土代』)。
10日余りのちの3月6日、自害を図り、
翌7日、絶命。36歳。
息子に以定がいたが、
10歳にも満たなかったと思われる。
妻を追おうとした近衛忠嗣の例もあり、
中世における夫婦愛のありようのひとつであったろうか。
〔参考〕
湯川敏治編『歴名土代』(続群書類従完成会、1996年)
《病死》 《1229年》 《9月》 《22日》 《享年30代》
後高倉院守貞親王の皇女。
母は北白河院持明院陳子。
後堀河天皇の「妹宮」(『玉蘂』)とあるが、姉の誤り。
京都押小路御所に住まい、「押小路宮」と呼ばれた。
寛喜2年(1229)8月21日、
すでに出家していた本子内親王は、
尼の身ながら内親王宣下を受けた。
「比丘尼の幸、当世勝計すべからず」(『明月記』)、
つまり、尼僧の幸運としてこのうえないことである、といわれている。
しかし、本子すでにこのころから健康に不安を抱えていたらしい。
9月16日には、医師より「大腹水腫御病」(『明月記』)と診断された。
それから6日後の22日酉の刻(夕方6時頃)、薨去。
姉妹の年齢からして、30代前半であったかと思われる。
24日夜、二条西堂の辺りで葬送された。
邸宅の押小路御所は、同母妹の能子内親王に継承された。
〔参考〕
『明月記 3』(国書刊行会、1973年)
『玉蘂』(思文閣出版、1984年)
後高倉院守貞親王の皇女。
母は北白河院持明院陳子。
後堀河天皇の「妹宮」(『玉蘂』)とあるが、姉の誤り。
京都押小路御所に住まい、「押小路宮」と呼ばれた。
寛喜2年(1229)8月21日、
すでに出家していた本子内親王は、
尼の身ながら内親王宣下を受けた。
「比丘尼の幸、当世勝計すべからず」(『明月記』)、
つまり、尼僧の幸運としてこのうえないことである、といわれている。
しかし、本子すでにこのころから健康に不安を抱えていたらしい。
9月16日には、医師より「大腹水腫御病」(『明月記』)と診断された。
それから6日後の22日酉の刻(夕方6時頃)、薨去。
姉妹の年齢からして、30代前半であったかと思われる。
24日夜、二条西堂の辺りで葬送された。
邸宅の押小路御所は、同母妹の能子内親王に継承された。
〔参考〕
『明月記 3』(国書刊行会、1973年)
『玉蘂』(思文閣出版、1984年)
《事故死》 《1244年》 《5月》 《25日》 《享年46歳》
藤原南家貞嗣流。
従四位上、前備中守。
大学頭藤原孝範の次男で、文章博士藤原経範の弟とされるが、
実は経範の息子とも、異父兄弟ともいう。
寛元2年(1244)5月26日、
前右大臣西園寺実氏邸を訪れた前備中守藤原宗範は、
雑談の折、粽(ちまき)を振る舞われた。
中世の粽は、餅米粉やうるち米粉を笹の葉などでくるんで蒸した餅菓子。
宗範がこれを口にしたところ、のどにつまらせてしまった。
周囲は背中を蹴って吐き出させようとしたが、詰まった粽は容易に出てこず、
宗範はついに窒息死してしまった。
45歳とも、46歳とも。
死穢を避けてか、
遺体は牛車に担ぎ入れられ、西園寺邸から送り出された。
「無常の理、驚くべからずといえども、悲しむべし悲しむべし。」(『平戸記』)
餅には気をつけられたい。
〔参考〕
『増補史料大成 平戸記 1』(臨川書店、1981年)
『大日本史料 第5編之17』(東京大学出版会、1982年)
藤原南家貞嗣流。
従四位上、前備中守。
大学頭藤原孝範の次男で、文章博士藤原経範の弟とされるが、
実は経範の息子とも、異父兄弟ともいう。
寛元2年(1244)5月26日、
前右大臣西園寺実氏邸を訪れた前備中守藤原宗範は、
雑談の折、粽(ちまき)を振る舞われた。
中世の粽は、餅米粉やうるち米粉を笹の葉などでくるんで蒸した餅菓子。
宗範がこれを口にしたところ、のどにつまらせてしまった。
周囲は背中を蹴って吐き出させようとしたが、詰まった粽は容易に出てこず、
宗範はついに窒息死してしまった。
45歳とも、46歳とも。
死穢を避けてか、
遺体は牛車に担ぎ入れられ、西園寺邸から送り出された。
「無常の理、驚くべからずといえども、悲しむべし悲しむべし。」(『平戸記』)
餅には気をつけられたい。
〔参考〕
『増補史料大成 平戸記 1』(臨川書店、1981年)
『大日本史料 第5編之17』(東京大学出版会、1982年)
《病死》 《1453年》 《正月》 《20日》 《享年20代》
室町幕府政所執事伊勢貞国の娘。
権中納言日野勝光の正妻。
享徳2年(1453)正月20日夜、
難産のすえ、他界。
夫勝光25歳、父貞国56歳、兄貞親37歳であったから、
享年は10代後半から20代のいずれかであったか。
このとき、室町幕府の女房衆も多くその産所に詰めていたため、
室町殿足利義成(のち義政)も「甲穢」(一時的な触穢)とされ、
この間に室町殿に参仕した人々にも触穢が及んだ。
それゆえ、「世間穢」として、
2月に予定されていた祭礼の多くが、翌月以降に延期された。
故人の葬礼や産児のゆくすえは記録にない。
系図史料『尊卑分脈』等の伊勢氏の系図には、勝光の「妾」とあるが、
同時代史料には正妻を意味する「室家」とある。
夫勝光と兄貞親は、こののち応仁・文明の乱にかけて暗躍、策動するが、
それは10年以上後のこと。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
室町幕府政所執事伊勢貞国の娘。
権中納言日野勝光の正妻。
享徳2年(1453)正月20日夜、
難産のすえ、他界。
夫勝光25歳、父貞国56歳、兄貞親37歳であったから、
享年は10代後半から20代のいずれかであったか。
このとき、室町幕府の女房衆も多くその産所に詰めていたため、
室町殿足利義成(のち義政)も「甲穢」(一時的な触穢)とされ、
この間に室町殿に参仕した人々にも触穢が及んだ。
それゆえ、「世間穢」として、
2月に予定されていた祭礼の多くが、翌月以降に延期された。
故人の葬礼や産児のゆくすえは記録にない。
系図史料『尊卑分脈』等の伊勢氏の系図には、勝光の「妾」とあるが、
同時代史料には正妻を意味する「室家」とある。
夫勝光と兄貞親は、こののち応仁・文明の乱にかけて暗躍、策動するが、
それは10年以上後のこと。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
《病死》 《1452年》 《6月》 《24日》 《享年15歳》
室町幕府管領細川持之の息子。勝元の弟。
細川典厩家の継嗣。
右馬助。
宝徳4年(1452)の夏、
京都では疱瘡(天然痘)が大流行し、命を落とすものが続出した。
室町幕府や朝廷の周辺でも、
駿河守護今川範忠の子や赤松治部少輔、右中将土御門有通らが相次いで没した。
4月ごろ、細川京兆家から典厩家に養子入りしていた細川右馬助成賢も、疱瘡に罹った。
2ヶ月の闘病のすえ、6月24日、卒去。15歳。
「その体(てい)、常篇を絶すと云々。」(『師郷記』)というから、
尋常ならざる病態だったようだ。
疱瘡は、発疹が化膿するほか、高熱を発して呼吸不全も起こすというから、
よほど苦しんだのだろう。
家人の内藤藤右衛門が「悲歎の余り」殉死した(『師郷記』)。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
川口成人「細川持賢と室町幕府 : 幕府-地域権力間交渉と在京活動の検討から(『ヒストリア』266、2018年)
室町幕府管領細川持之の息子。勝元の弟。
細川典厩家の継嗣。
右馬助。
宝徳4年(1452)の夏、
京都では疱瘡(天然痘)が大流行し、命を落とすものが続出した。
室町幕府や朝廷の周辺でも、
駿河守護今川範忠の子や赤松治部少輔、右中将土御門有通らが相次いで没した。
4月ごろ、細川京兆家から典厩家に養子入りしていた細川右馬助成賢も、疱瘡に罹った。
2ヶ月の闘病のすえ、6月24日、卒去。15歳。
「その体(てい)、常篇を絶すと云々。」(『師郷記』)というから、
尋常ならざる病態だったようだ。
疱瘡は、発疹が化膿するほか、高熱を発して呼吸不全も起こすというから、
よほど苦しんだのだろう。
家人の内藤藤右衛門が「悲歎の余り」殉死した(『師郷記』)。
継嗣成賢の死により、
典厩家はのちに細川野州家から養子に入った政国が継ぐこととなる。
典厩家はのちに細川野州家から養子に入った政国が継ぐこととなる。
管領細川勝元の隣に、有力一門典厩家の当主として実弟成賢がいたならば、
その後の幕府政治の流れもいささか変わっていたろうか。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
川口成人「細川持賢と室町幕府 : 幕府-地域権力間交渉と在京活動の検討から(『ヒストリア』266、2018年)
《病死》 《1235年》 《閏6月》 《16日》 《享年30代》
権大納言三条実親の妻。
父は、関東申次として朝幕間で重きをなした入道前太政大臣西園寺公経。
実親との間に、公親・公泰らを産んだ。
呼び名や院号、法名などは伝わらない。
権大納言三条実親の妻は、
文暦2年(1235)3月頃には「邪気」により健康を損じていた。
病状はながいこと思わしくなく、
3月9日は「邪気又盛興」、
同11日、「又病重」、
4月7日には「又危急云々」(いずれも『明月記』)。
余命いくばくもないことを悟ってか、
5月23日、洛北の香隆寺あたりで出家した。
夫実親の叔父覚教僧正が戒師を、実親の子睿助法眼が剃頭をつとめた。
閏6月16日、実親の妻は沐浴を済ませて浄衣を着、
清畳を敷いて、その上で五色の糸を引いて印を結び、臨終の用意を済ませた。
未の刻(午後2時頃)には、意識を失ったのかことばも絶え、
雲が空を覆って満月の見えない夜更け、
父公房の制止をふりきって駆けつけた夫実親が見守る前で、息を引き取った。
夫実親が41歳、息子の公親と公泰が14歳と5歳であったから、
30代半ばか後半ほどであったろうか。
〔参考〕
『大日本史料 第5編之10』(東京大学出版会、1982年)
東京大学史料編纂所データベース
権大納言三条実親の妻。
父は、関東申次として朝幕間で重きをなした入道前太政大臣西園寺公経。
実親との間に、公親・公泰らを産んだ。
呼び名や院号、法名などは伝わらない。
権大納言三条実親の妻は、
文暦2年(1235)3月頃には「邪気」により健康を損じていた。
病状はながいこと思わしくなく、
3月9日は「邪気又盛興」、
同11日、「又病重」、
4月7日には「又危急云々」(いずれも『明月記』)。
余命いくばくもないことを悟ってか、
5月23日、洛北の香隆寺あたりで出家した。
夫実親の叔父覚教僧正が戒師を、実親の子睿助法眼が剃頭をつとめた。
閏6月16日、実親の妻は沐浴を済ませて浄衣を着、
清畳を敷いて、その上で五色の糸を引いて印を結び、臨終の用意を済ませた。
未の刻(午後2時頃)には、意識を失ったのかことばも絶え、
雲が空を覆って満月の見えない夜更け、
父公房の制止をふりきって駆けつけた夫実親が見守る前で、息を引き取った。
夫実親が41歳、息子の公親と公泰が14歳と5歳であったから、
30代半ばか後半ほどであったろうか。
〔参考〕
『大日本史料 第5編之10』(東京大学出版会、1982年)
東京大学史料編纂所データベース
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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| 1097 | ||
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没年 1350~1399
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没年 1400~1429
| 1400 | ||
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没年 1430~1459
| 1430 | ||
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没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 5歳 | 6歳 | |
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | 16歳 | |
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | 36歳 |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
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| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
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