死に様データベース
《病死》 《1452年》 《6月》 《15日》 《享年16歳》
室町幕府6代将軍足利義教の七男。
母はその正妻正親町三条尹子の妹豊子。
永享9年(1437)8月20日生まれ。
喝食となり、禅僧となる将来が定められていたようだが、
寺には入らず、母の実家正親町三条家で暮らしていた。
京都で疱瘡(天然痘)が大流行する宝徳4年(1452)のこと。
室町殿足利義成(のち義政)の弟で、
正親町三条家に暮らす16歳の青年が、
6月15日、他界した。
疱瘡に罹ったわけではなく、
幼いころより「邪気」にとりつかれており、
このところいっそう「興盛」で、落命に至ったようである(『師郷記』)。
貴人の「邪気」にはしばしば後日談がつく。
自称粟田口神明社神主の男が、「種々の不思議」を致し、
人々を「誑惑」したことが、この「邪気」の原因とされ(『師郷記』)、
幕吏に捕えられた。
その顛末は知れない。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
家永遵嗣「足利義視と文正元年の政変」(『学習院大学文学部研究年報』61、2014年)
室町幕府6代将軍足利義教の七男。
母はその正妻正親町三条尹子の妹豊子。
永享9年(1437)8月20日生まれ。
喝食となり、禅僧となる将来が定められていたようだが、
寺には入らず、母の実家正親町三条家で暮らしていた。
京都で疱瘡(天然痘)が大流行する宝徳4年(1452)のこと。
室町殿足利義成(のち義政)の弟で、
正親町三条家に暮らす16歳の青年が、
6月15日、他界した。
疱瘡に罹ったわけではなく、
幼いころより「邪気」にとりつかれており、
このところいっそう「興盛」で、落命に至ったようである(『師郷記』)。
貴人の「邪気」にはしばしば後日談がつく。
自称粟田口神明社神主の男が、「種々の不思議」を致し、
人々を「誑惑」したことが、この「邪気」の原因とされ(『師郷記』)、
幕吏に捕えられた。
その顛末は知れない。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
家永遵嗣「足利義視と文正元年の政変」(『学習院大学文学部研究年報』61、2014年)
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《病死》 《1448年》 《4月》 《13日》 《享年59歳》
庭田経子、のち幸子。
贈左大臣庭田経有の娘。
伏見宮貞成親王に仕えて、
性恵、後花園天皇、貞常親王、雲岳聖朝らの王子女を産み、
その正妻格となった。
天皇の母として、
永享6年(1434)3月、従三位に叙され、
文安元年(1444)4月、准后宣下を受けた。
叙従三位の折、父経有の一字をとって「経子」と名付けられたが、
准后宣下に際して「幸子」と改名した。
伏見宮家では、「今参」「二条局」、次いで「南御方」と呼ばれた。
癇癖な6代将軍足利義教や、その正妻正親町三条尹子と良好な関係を維持し、
社交的な性格だったかといわれている。
文安4年(1447)11月末、
夫の貞成親王は、天皇の父として院号宣下を受け、
後崇光院の尊号と上皇の待遇を得たが、
この少し前から、幸子は病魔に冒されていた。
「噎病所労」(『看聞日記』)、また「噎御病」(『師郷記』『康富記』)というから、
嚥下に困難が生じるのどの病気か、呼吸器系の疾患であったろうか。
翌文安5年(1448)2月、
形式にのっとって貞成親王の尊号辞退が進められるのと同時に、
幸子への女院号宣下の話が進められた。
2月3日、夫貞成は関白一条兼良に相談のうえ、後花園天皇にこの件を申し入れた。
幸子の病状は、治療の甲斐なく進行しており、宣下が急がれたのである。
翌4日には、色よい勅答が貞成のもとに届いている。
2月28日、
後花園天皇が、伏見宮家の御所に行幸して母幸子を見舞った。
幸子の容態は、「難治」(『師郷記』)、「昨今御危急」(『康富記』)であったのだ。
一条東洞院の内裏と土御門高倉の伏見宮家御所は、大路を挟んで向かいどうしであり、
徒歩での行幸であったともいう。
子の刻(深夜0時頃)に内裏を発した後花園天皇は、母幸子を見舞ったのち、
父貞成親王や弟貞常親王と盃を交わし、
丑・寅の刻(深夜2~4時頃)に還幸した。
この深夜の見舞いに際して、事前に諮問を受けた関白一条兼良は、
「非常の臨幸」というのは、
近隣の火事か、あるいは死に目に駆け付けるようなときになされるものであって、
長患いを見舞うなら、方違えという名目で行くのがよいでしょう、
と進言した。
しかし、方違え行幸では事が進まなかったようで、
後小松天皇が危篤の母通陽門院(三条厳子)を見舞った応永13年(1406)の例を引いて、
結局、「非常の臨幸」となった。
関白兼良以下、前権大納言三条西公保、権大納言松木宗継・正親町三条実雅、
権中納言正親町持季、参議東坊城益長・正親町三条公綱・中山親通、
左中将庭田政賢・冷泉為富、右中将白川忠富・山科顕言、少将小倉実右・滋野井教国、
蔵人頭柳原資綱・坊城俊秀が供奉をし、
大路に出て渡るまでの路次を、管領細川勝元の配下が警固した。
親の見舞いを行くのに、実にぎょうぎょうしいことである。
3月4日、幸子への女院号宣下が実現し、
東坊城益長の勘進により、敷政門院の称号が与えられた。
4月13日申の刻(夕方4時頃)、
幸子は二尊院住持臨空を戒師として落飾。
もとは15日に落飾の予定だったが、予断を許さぬ状況として、
2日早めての落飾であった。
落飾ののち、幸子は手や顔を清めて、念仏を唱え、
酉の刻(夜6時頃)、崩御。59歳。
「御臨終正念云々」(『師郷記』『康富記』)。
触穢、諒闇としない旨が定められた。
15日暁、遺骸は伏見大光明寺に移され、
16日には、貞常親王やその姉妹たちが、伏見の御所跡に建つ法久庵に入った。
19日卯の刻(朝6時頃)、大光明寺にて葬儀が営まれ、
22日、大通院にて中陰の儀、
5月25日、大光明寺で四十九日の法要が行われた。
娘性恵の死も克明に記した夫貞成親王の日記『看聞日記』は、
2月初旬から4月7日までの記事がふつりと途切れている。
77歳の夫の心中は、いかばかりであったか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 7』(宮内庁書陵部、2014年)
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1985年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「伏見宮家の南御所」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
庭田経子、のち幸子。
贈左大臣庭田経有の娘。
伏見宮貞成親王に仕えて、
性恵、後花園天皇、貞常親王、雲岳聖朝らの王子女を産み、
その正妻格となった。
天皇の母として、
永享6年(1434)3月、従三位に叙され、
文安元年(1444)4月、准后宣下を受けた。
叙従三位の折、父経有の一字をとって「経子」と名付けられたが、
准后宣下に際して「幸子」と改名した。
伏見宮家では、「今参」「二条局」、次いで「南御方」と呼ばれた。
癇癖な6代将軍足利義教や、その正妻正親町三条尹子と良好な関係を維持し、
社交的な性格だったかといわれている。
文安4年(1447)11月末、
夫の貞成親王は、天皇の父として院号宣下を受け、
後崇光院の尊号と上皇の待遇を得たが、
この少し前から、幸子は病魔に冒されていた。
「噎病所労」(『看聞日記』)、また「噎御病」(『師郷記』『康富記』)というから、
嚥下に困難が生じるのどの病気か、呼吸器系の疾患であったろうか。
翌文安5年(1448)2月、
形式にのっとって貞成親王の尊号辞退が進められるのと同時に、
幸子への女院号宣下の話が進められた。
2月3日、夫貞成は関白一条兼良に相談のうえ、後花園天皇にこの件を申し入れた。
幸子の病状は、治療の甲斐なく進行しており、宣下が急がれたのである。
翌4日には、色よい勅答が貞成のもとに届いている。
2月28日、
後花園天皇が、伏見宮家の御所に行幸して母幸子を見舞った。
幸子の容態は、「難治」(『師郷記』)、「昨今御危急」(『康富記』)であったのだ。
一条東洞院の内裏と土御門高倉の伏見宮家御所は、大路を挟んで向かいどうしであり、
徒歩での行幸であったともいう。
子の刻(深夜0時頃)に内裏を発した後花園天皇は、母幸子を見舞ったのち、
父貞成親王や弟貞常親王と盃を交わし、
丑・寅の刻(深夜2~4時頃)に還幸した。
この深夜の見舞いに際して、事前に諮問を受けた関白一条兼良は、
「非常の臨幸」というのは、
近隣の火事か、あるいは死に目に駆け付けるようなときになされるものであって、
長患いを見舞うなら、方違えという名目で行くのがよいでしょう、
と進言した。
しかし、方違え行幸では事が進まなかったようで、
後小松天皇が危篤の母通陽門院(三条厳子)を見舞った応永13年(1406)の例を引いて、
結局、「非常の臨幸」となった。
関白兼良以下、前権大納言三条西公保、権大納言松木宗継・正親町三条実雅、
権中納言正親町持季、参議東坊城益長・正親町三条公綱・中山親通、
左中将庭田政賢・冷泉為富、右中将白川忠富・山科顕言、少将小倉実右・滋野井教国、
蔵人頭柳原資綱・坊城俊秀が供奉をし、
大路に出て渡るまでの路次を、管領細川勝元の配下が警固した。
親の見舞いを行くのに、実にぎょうぎょうしいことである。
3月4日、幸子への女院号宣下が実現し、
東坊城益長の勘進により、敷政門院の称号が与えられた。
4月13日申の刻(夕方4時頃)、
幸子は二尊院住持臨空を戒師として落飾。
もとは15日に落飾の予定だったが、予断を許さぬ状況として、
2日早めての落飾であった。
落飾ののち、幸子は手や顔を清めて、念仏を唱え、
酉の刻(夜6時頃)、崩御。59歳。
「御臨終正念云々」(『師郷記』『康富記』)。
触穢、諒闇としない旨が定められた。
15日暁、遺骸は伏見大光明寺に移され、
16日には、貞常親王やその姉妹たちが、伏見の御所跡に建つ法久庵に入った。
19日卯の刻(朝6時頃)、大光明寺にて葬儀が営まれ、
22日、大通院にて中陰の儀、
5月25日、大光明寺で四十九日の法要が行われた。
娘性恵の死も克明に記した夫貞成親王の日記『看聞日記』は、
2月初旬から4月7日までの記事がふつりと途切れている。
77歳の夫の心中は、いかばかりであったか。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 7』(宮内庁書陵部、2014年)
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1985年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「伏見宮家の南御所」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年)
《誅殺》 《1450年》 《12月》 《29日》 《享年5歳》
前内大臣花山院持忠の息子。
大臣家花山院家の息男ともなれば、
嫡子でなくとも幼児のうちに叙爵(叙従五位下)するのが通例だったようだが、
生母の出自のためか、この息子はその例にのらなかったようで、
実名も幼名も伝わらない。
宝徳2年(1450)12月29日のことか、
入道前内大臣花山院持忠(46歳)が、
5歳になる息子を自身の手で殺害する、という事件が起こった。
「前代未聞の事なり。末代の作法、悲しむべしと云々。」(『師郷記』、以下同)
それから2ヶ月後の宝徳3年(1451)2月26日、
今度は、持忠の嫡男の権中納言花山院定嗣が、
青侍の「あえ」という者に命じて、同じく青侍の安芸右馬助入道を討たせる、
という事件が起きた。
事件現場とは別の場所でも、右馬助入道の父や孫などが同時に殺害され、
安芸一族13人が犠牲になったという。
前年12月の事件の「余殃」(悪事の報い)であると噂された。
家長持忠は、花山院家断絶後に他家から入った継嗣であり、
当主家と家僕の間になにか角逐があったのかもしれない。
無理心中か錯乱か、はたまた家督をめぐる内訌か、
花山院家でいかなる事態があったか不明だが、
かりに、12月の事件と2月の安芸一族粛清が一連のことだとしても、
少なくとも5歳の幼児は、もめごとの主体ではなかったはずである。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
前内大臣花山院持忠の息子。
大臣家花山院家の息男ともなれば、
嫡子でなくとも幼児のうちに叙爵(叙従五位下)するのが通例だったようだが、
生母の出自のためか、この息子はその例にのらなかったようで、
実名も幼名も伝わらない。
宝徳2年(1450)12月29日のことか、
入道前内大臣花山院持忠(46歳)が、
5歳になる息子を自身の手で殺害する、という事件が起こった。
「前代未聞の事なり。末代の作法、悲しむべしと云々。」(『師郷記』、以下同)
それから2ヶ月後の宝徳3年(1451)2月26日、
今度は、持忠の嫡男の権中納言花山院定嗣が、
青侍の「あえ」という者に命じて、同じく青侍の安芸右馬助入道を討たせる、
という事件が起きた。
事件現場とは別の場所でも、右馬助入道の父や孫などが同時に殺害され、
安芸一族13人が犠牲になったという。
前年12月の事件の「余殃」(悪事の報い)であると噂された。
家長持忠は、花山院家断絶後に他家から入った継嗣であり、
当主家と家僕の間になにか角逐があったのかもしれない。
無理心中か錯乱か、はたまた家督をめぐる内訌か、
花山院家でいかなる事態があったか不明だが、
かりに、12月の事件と2月の安芸一族粛清が一連のことだとしても、
少なくとも5歳の幼児は、もめごとの主体ではなかったはずである。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
《自害》 《1451年》 《6月》 《15日》 《享年不明》
宝徳4年(1451)6月15日夕刻、
京都一条小川の誓願寺で、
女がひとり「自害」した(『師郷記』、以下同)。
公家の中山家に仕える青侍と「相思」の女であったという。
誓願寺は、
清少納言が発心して往生した寺と伝わり、
また、和泉式部もこの寺で女人往生を志し、念仏の日々を過ごしたともいわれる。
この女が、いかなる迷いを抱えていたのかは明らかでない。
あるいは、叶わぬ思いに世を儚んだ女が、
最期に女人往生を夢見て、誓願寺を死に場所に選んだのかもしれない。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
『浄土宗西山深草派寺院名鑑』(浄土宗西山深草派宗務所、1983年)
宝徳4年(1451)6月15日夕刻、
京都一条小川の誓願寺で、
女がひとり「自害」した(『師郷記』、以下同)。
公家の中山家に仕える青侍と「相思」の女であったという。
誓願寺は、
清少納言が発心して往生した寺と伝わり、
また、和泉式部もこの寺で女人往生を志し、念仏の日々を過ごしたともいわれる。
この女が、いかなる迷いを抱えていたのかは明らかでない。
あるいは、叶わぬ思いに世を儚んだ女が、
最期に女人往生を夢見て、誓願寺を死に場所に選んだのかもしれない。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
『浄土宗西山深草派寺院名鑑』(浄土宗西山深草派宗務所、1983年)
《誅殺》 《1479年》 《5月》 《6日》 《享年10代》
室町幕府奉公衆、長下総守の息子。
実名は未詳。
仮名「次郎」は名乗っているが、元服したばかりの10代半ば~後半であったか。
園城寺戒乗坊の坊主は常日頃、
長次郎に「迷心」し、「朝夕知音」であった(『晴富宿禰記』、以下同)。
ぞっこんで、日々親しくしていたのである。
文明11年(1479)5月6日、
この日も、坊主は自坊に次郎を招いた。
次郎は、従者を近くの西林坊に待たせて、
戒乗坊で坊主と二人きりの時を過ごした。
幾程か経ったころか、
次郎の従者である若党の山岩中務丞は、
そろそろ帰宅の頃合いかと思い、戒乗坊に主人を迎えにいった。
門は閉ざされていたので、叩いてみたが一向に開く気配がない。
隙間から中を覗いてみると、
庭に血だまりがあるのが見えた。
不審に思った山岩は、脇から門を押し破って坊内に入った。
坊内には誰もおらず、座敷には血が「充満」していた。
寝室を開けてみると、
そこに横たわっていたのは、小袖にくるまれた次郎の他殺体。
40ヶ所以上の傷があった。
「言語道断の躰」。
坊主はすでに行方をくらませていた。
何かを持ち出した形跡もなかった。
坊主は身寄りもない、「無縁孤独の者」であったという。
同宿も弟子もおらず、坊には下人が2人いるだけであった。
事件当時、
そのひとりは、なにがしかの命を受けて地方へ遣わされており、
もうひとりは自宅にいて、事件については何も知らないとのことだった。
坊主の単独犯だったようだが、
下人2人を遠ざけているあたり、無計画な衝動的な犯行ともいいきれない。
長父子を知る官人壬生晴富が、使者を弔問に遣わしたところ、
父の下総守はただ「惘然」とするばかりであったという。
中世の男性どうしの性愛は、
もっぱら成人男性による少年愛であり、
今日的な同性愛とは異なるものであったとされる。
40ヶ所以上という傷の多さは、執着と怨恨の深さをうかがわせる。
少年愛のような非対等な性愛は、
ふとしたきっかけで、いともたやすく他害に転じ、弱者の命を奪う。
〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
村岡幹生「日本中世社会における盗犯の位置・試論―盗みが裁判にかけられる時―」(『歴史の理論と教育』58、1983年)
湯川敏治「男色雑稿―戦国期の公家日記を中心に―」(『古文書研究』74、2012年)
室町幕府奉公衆、長下総守の息子。
実名は未詳。
仮名「次郎」は名乗っているが、元服したばかりの10代半ば~後半であったか。
園城寺戒乗坊の坊主は常日頃、
長次郎に「迷心」し、「朝夕知音」であった(『晴富宿禰記』、以下同)。
ぞっこんで、日々親しくしていたのである。
文明11年(1479)5月6日、
この日も、坊主は自坊に次郎を招いた。
次郎は、従者を近くの西林坊に待たせて、
戒乗坊で坊主と二人きりの時を過ごした。
幾程か経ったころか、
次郎の従者である若党の山岩中務丞は、
そろそろ帰宅の頃合いかと思い、戒乗坊に主人を迎えにいった。
門は閉ざされていたので、叩いてみたが一向に開く気配がない。
隙間から中を覗いてみると、
庭に血だまりがあるのが見えた。
不審に思った山岩は、脇から門を押し破って坊内に入った。
坊内には誰もおらず、座敷には血が「充満」していた。
寝室を開けてみると、
そこに横たわっていたのは、小袖にくるまれた次郎の他殺体。
40ヶ所以上の傷があった。
「言語道断の躰」。
坊主はすでに行方をくらませていた。
何かを持ち出した形跡もなかった。
坊主は身寄りもない、「無縁孤独の者」であったという。
同宿も弟子もおらず、坊には下人が2人いるだけであった。
事件当時、
そのひとりは、なにがしかの命を受けて地方へ遣わされており、
もうひとりは自宅にいて、事件については何も知らないとのことだった。
坊主の単独犯だったようだが、
下人2人を遠ざけているあたり、無計画な衝動的な犯行ともいいきれない。
長父子を知る官人壬生晴富が、使者を弔問に遣わしたところ、
父の下総守はただ「惘然」とするばかりであったという。
中世の男性どうしの性愛は、
もっぱら成人男性による少年愛であり、
今日的な同性愛とは異なるものであったとされる。
40ヶ所以上という傷の多さは、執着と怨恨の深さをうかがわせる。
少年愛のような非対等な性愛は、
ふとしたきっかけで、いともたやすく他害に転じ、弱者の命を奪う。
〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
村岡幹生「日本中世社会における盗犯の位置・試論―盗みが裁判にかけられる時―」(『歴史の理論と教育』58、1983年)
湯川敏治「男色雑稿―戦国期の公家日記を中心に―」(『古文書研究』74、2012年)
《誅殺》 《1447年》 《閏2月》 《18日》 《享年不明》
文安4年(1447)閏2月18日の朝、京都かその周辺の某所で、
天台座主に仕える侍法師の女房が、
前田某という男に殺害された。
前田は、室町幕府管領細川勝元の被官で、
動機は「嫉妬の儀」(『師郷記』)であったという。
2人の間、あるいは夫の侍法師を含めて、
彼女らにどのような事情があったかは明らかでない。
なお、本件には関係ないと思われるが、
天台座主は、
前月末に梶井門主義承から毘沙門堂門主公承に交替したばかりであった。
異性愛であれば、嫉妬の矛先は恋敵の同性に向くはずだが、
しばしば異性に敵意が向けられ、
男性の嫉妬で女性が殺害されることとなる。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
文安4年(1447)閏2月18日の朝、京都かその周辺の某所で、
天台座主に仕える侍法師の女房が、
前田某という男に殺害された。
前田は、室町幕府管領細川勝元の被官で、
動機は「嫉妬の儀」(『師郷記』)であったという。
2人の間、あるいは夫の侍法師を含めて、
彼女らにどのような事情があったかは明らかでない。
なお、本件には関係ないと思われるが、
天台座主は、
前月末に梶井門主義承から毘沙門堂門主公承に交替したばかりであった。
異性愛であれば、嫉妬の矛先は恋敵の同性に向くはずだが、
しばしば異性に敵意が向けられ、
男性の嫉妬で女性が殺害されることとなる。
〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
《事故死》 《1221年》 《9月》 《12日》 《享年不明》
承久3年(1221)9月12日、
後鳥羽上皇の承久の乱が鎮圧された直後の畿内を、暴風雨が襲った。
石清水八幡宮(現・京都府八幡市)では、
麓の橋のひとつが流されたほか、
厩に浸水して、馬を避難させるなどの被害が出た。
摂津国の住吉社(現・大阪市住吉区)でも、
宿院の左方の廻廊15間すべてが倒壊した。
これに、宿院の中にいた数人が巻き込まれ、命を落とした。
どのような人々だったかは明らかでない。
住吉社は、奇しくもその翌13日に、恒例神事の相撲会を控えていたが、
祭場に死穢が及んで神事が予定どおり行えないとして、
朝廷に報告した。
これを受けて朝廷は、
10月5日に軒廊御卜という占いを行って、
10日、死穢による神事の中止を神前に上申することと、
天下のために祈禱することを、住吉社に命じ、
18日、神祇官の役人を派遣して、現場を祓い清めさせた。
神事と死穢の話ばかりで、
犠牲者のその後は伝わらない。
〔参考〕
『壬生新写古文書』(宮内省図書寮、1930年)
承久3年(1221)9月12日、
後鳥羽上皇の承久の乱が鎮圧された直後の畿内を、暴風雨が襲った。
石清水八幡宮(現・京都府八幡市)では、
麓の橋のひとつが流されたほか、
厩に浸水して、馬を避難させるなどの被害が出た。
摂津国の住吉社(現・大阪市住吉区)でも、
宿院の左方の廻廊15間すべてが倒壊した。
これに、宿院の中にいた数人が巻き込まれ、命を落とした。
どのような人々だったかは明らかでない。
住吉社は、奇しくもその翌13日に、恒例神事の相撲会を控えていたが、
祭場に死穢が及んで神事が予定どおり行えないとして、
朝廷に報告した。
これを受けて朝廷は、
10月5日に軒廊御卜という占いを行って、
10日、死穢による神事の中止を神前に上申することと、
天下のために祈禱することを、住吉社に命じ、
18日、神祇官の役人を派遣して、現場を祓い清めさせた。
神事と死穢の話ばかりで、
犠牲者のその後は伝わらない。
〔参考〕
『壬生新写古文書』(宮内省図書寮、1930年)
《病死》 《1096年》 《8月》 《7日》 《享年21歳》
名は媞子。内親王。
父は白河天皇。母は中宮藤原賢子。
承保3年(1076)4月5日、白河天皇の第一皇女として生まれて、
まもなく内親王となり、
承暦2年(1078)3月16日、3歳で准三后となって、
同年8月2日、伊勢斎王となることが決まった。
承暦4年(1080)9月、5歳で伊勢へ赴くも、
応徳元年(1084)9月、母の死去により斎宮を退いて、同年中に帰京した。
京都に戻った媞子は、
寛治元年(1087)12月16日、
12歳で同母弟堀河天皇9歳の母になぞらえられて、入内し、
寛治5年(1091)正月22日、
16歳でその中宮に立てられた。
そして、寛治7年(1093)正月19日、
18歳で女院号を与えられて、郁芳門院と号した。
擬制的ながら、実弟の妻であり母であるという女性の立場に当てられたのである。
不婚の内親王が天皇の准母となるのは、この郁芳門院媞子が初例であり、
白河上皇が、皇統のライバルであった異母弟輔仁親王を牽制して、
自身とその子らの正統性を補強するために実行した、とされている。
媞子は白河上皇最愛の娘であり、
「天下の威権、ただこの人にあり」(『中右記』)といわれるほどであった。
だが、それに驕ることはなかったようで、
「進退美麗、風容甚だ盛ん。
性もとより寛仁、接心、好施」(同前)
であったという。
立ち居振る舞いが美しく、華があり、
性格も穏やかで慈悲深かった、といったところか。
しかし、京都で暮らす媞子の身は、病魔に冒されていた。
寛治3年(1089)頃から、媞子は春になるたびに「邪気」に襲われ、
そのつど神仏への祈禱がしきりになされたが、効果はなかった。
嘉保3年(1096)の春は、比較的平安に過ごしたようだが、
7月下旬より発熱などの症状があらわれた。
これにより、朝廷は儀式の一部を停止し、
父上皇は毎日読経をした。
だが、
8月7日寅の刻(午前4時頃)、六条殿の寝殿で薨去。
21歳であった。
母娘ともども、若くして「邪気」に命を奪われたのである。
「生死無常、誠に春夢のごときか。仰天伏地、歎いて余りあり。」(『中右記』)
と、左中弁藤原宗忠は嘆いているが、
なにより悲嘆に暮れたのは、父の白河上皇であった。
「上皇こののち御神心迷乱。
東西を知らしめ給はずと云々。」(同前)
右も左もおぼつかないほどのうろたえようだったのである。
翌8日、入棺。
この日、郁芳門院の乳母子の左衛門大夫藤原知信が出家した。
9日、白河上皇も、周囲の制止を聞かずに出家。
16日戌の刻(夜8時頃)、日中の小雨が夜半に本降りとなるなか、
郁芳門院の棺は車に乗せられ、六条殿を出た。
当時、弔いの念仏は出棺後に始めるのが習わしだったが、
父の白河上皇は、それに反して出棺前から念仏を始めたという。
棺は東洞院大路、五条大路、大宮大路を通って、船岡山の北へ運ばれ、火葬された。
遺灰は、叔父で院司だった右近衛少将源顕雅が運び、
母賢子と同じ醍醐寺円光院に納められた。
9月26日の四十九日を迎えるまで、
父上皇によって多くの仏事が営まれた。
その後、郁芳門院の同母妹令子内親王が、
白河上皇の孫鳥羽天皇の准母に立てられたが、
このとき白河上皇は、
郁芳門院を強引に立后したことが、その若すぎる死を招いた、と悔い、
令子立后の主導を避けた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
栗山圭子『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)
名は媞子。内親王。
父は白河天皇。母は中宮藤原賢子。
承保3年(1076)4月5日、白河天皇の第一皇女として生まれて、
まもなく内親王となり、
承暦2年(1078)3月16日、3歳で准三后となって、
同年8月2日、伊勢斎王となることが決まった。
承暦4年(1080)9月、5歳で伊勢へ赴くも、
応徳元年(1084)9月、母の死去により斎宮を退いて、同年中に帰京した。
京都に戻った媞子は、
寛治元年(1087)12月16日、
12歳で同母弟堀河天皇9歳の母になぞらえられて、入内し、
寛治5年(1091)正月22日、
16歳でその中宮に立てられた。
そして、寛治7年(1093)正月19日、
18歳で女院号を与えられて、郁芳門院と号した。
擬制的ながら、実弟の妻であり母であるという女性の立場に当てられたのである。
不婚の内親王が天皇の准母となるのは、この郁芳門院媞子が初例であり、
白河上皇が、皇統のライバルであった異母弟輔仁親王を牽制して、
自身とその子らの正統性を補強するために実行した、とされている。
媞子は白河上皇最愛の娘であり、
「天下の威権、ただこの人にあり」(『中右記』)といわれるほどであった。
だが、それに驕ることはなかったようで、
「進退美麗、風容甚だ盛ん。
性もとより寛仁、接心、好施」(同前)
であったという。
立ち居振る舞いが美しく、華があり、
性格も穏やかで慈悲深かった、といったところか。
しかし、京都で暮らす媞子の身は、病魔に冒されていた。
寛治3年(1089)頃から、媞子は春になるたびに「邪気」に襲われ、
そのつど神仏への祈禱がしきりになされたが、効果はなかった。
嘉保3年(1096)の春は、比較的平安に過ごしたようだが、
7月下旬より発熱などの症状があらわれた。
これにより、朝廷は儀式の一部を停止し、
父上皇は毎日読経をした。
だが、
8月7日寅の刻(午前4時頃)、六条殿の寝殿で薨去。
21歳であった。
母娘ともども、若くして「邪気」に命を奪われたのである。
「生死無常、誠に春夢のごときか。仰天伏地、歎いて余りあり。」(『中右記』)
と、左中弁藤原宗忠は嘆いているが、
なにより悲嘆に暮れたのは、父の白河上皇であった。
「上皇こののち御神心迷乱。
東西を知らしめ給はずと云々。」(同前)
右も左もおぼつかないほどのうろたえようだったのである。
翌8日、入棺。
この日、郁芳門院の乳母子の左衛門大夫藤原知信が出家した。
9日、白河上皇も、周囲の制止を聞かずに出家。
16日戌の刻(夜8時頃)、日中の小雨が夜半に本降りとなるなか、
郁芳門院の棺は車に乗せられ、六条殿を出た。
当時、弔いの念仏は出棺後に始めるのが習わしだったが、
父の白河上皇は、それに反して出棺前から念仏を始めたという。
棺は東洞院大路、五条大路、大宮大路を通って、船岡山の北へ運ばれ、火葬された。
遺灰は、叔父で院司だった右近衛少将源顕雅が運び、
母賢子と同じ醍醐寺円光院に納められた。
9月26日の四十九日を迎えるまで、
父上皇によって多くの仏事が営まれた。
その後、郁芳門院の同母妹令子内親王が、
白河上皇の孫鳥羽天皇の准母に立てられたが、
このとき白河上皇は、
郁芳門院を強引に立后したことが、その若すぎる死を招いた、と悔い、
令子立后の主導を避けた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
栗山圭子『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | 1096 | |
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1221 | ||
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
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| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1451 | 1452 | 1453 |
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 5歳 | 6歳 | |
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | 16歳 | |
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | 59歳 |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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