死に様データベース
《病死》 《1230年》 《8月》 《4日》 《享年25歳》
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
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《病死》 《1213年》 《3月》 《21日》 《享年6歳》
鎌倉幕府御家人和田平太胤長の娘。
名前のよみかたは未詳。
鵑はホトトギス、あるいはサツキ、ヤマツツジのこと。
建暦3年(1213)2月15日のこと、
泉親衡という信濃国の御家人が、鎌倉幕府に対して謀反を企てていることが発覚した。
親衡の郎従の弟である阿静房安念という僧が、鎌倉で仲間を募っていたところ捕らえられ、
事態が明るみになったのである。
親衡は、幽閉のすえ殺害された2代将軍源頼家の遺児を擁して挙兵し、
執権北条義時を討つ計画だったという。
安念の自白により、
中心メンバーに30人余、そのほか総勢200人の関与が明らかになり、
次々に検挙されていった。
そのなかには、
幕府侍所別当和田義盛の息子義直・義重兄弟や、甥の胤長も含まれていた。
捕らえられた和田義直・義重は、それぞれ伊東祐長・祐広に、
胤長は、北条義時の腹心金窪行親・安東忠家に預けられた。
このとき、一族の長である義盛は上総国伊北荘(千葉県勝浦市ほか)にいたが、
事態を聞いて慌てて鎌倉に戻り、
3月8日、将軍源実朝の御所に参上して、息子ふたりの宥免を訴えた。
実朝も、義盛のこれまでの勲功に応じて、義直・義重を赦した。
しかし、胤長の赦免には及ばなかった。
翌9日、
義盛は、今度は一族98人を率いて将軍御所に参上し、
南庭に列座して胤長の赦免を求めた。
しかし、幕府の宿老大江広元が、
謀反の首謀者のひとりである胤長を赦免するわけにはいかない、と進言したため、
和田一族が列座する前で、
後ろ手に縛られた胤長は、金窪・安東から侍所の二階堂行村に引き渡された。
和田一族が味わわされた屈辱は、いかばかりであったか。
かくして、和田胤長は陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市ほか)に配流されることとなった。
胤長には、6歳になるその娘荒鵑がいたが、
荒鵑は、父との別れを悲しむあまり憔悴し、病に臥してしまった。
あまりの衰弱ぶりに、心配した周囲は一計を案じ、
父胤長と風貌の似ている一族の和田朝盛(義盛の孫)に、胤長のふりをさせ、
あたかも父が家に帰ってきたかのように思わせて、荒鵑を元気づけようとした。
荒鵑は、いささか持ち直したように顔をあげて、その姿を見たが、
それもつかの間、ついに閉眼してしまった。
父の配流が決まってから10日余り、3月21日のことであった。
荒鵑の亡骸は父胤長に葬られ、
27歳の母は、その日のうちに鶴岡善松坊重賀のもとで出家した。
なお、
父のふりをした和田朝盛は、
4月、将軍実朝と一族との板挟みとなって遁世し、
5月、和田一族は挙兵のすえ滅亡、
父胤長も、配所の陸奥国岩瀬郡の鏡沼辺り(福島県鏡石町)で誅殺された。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
鎌倉幕府御家人和田平太胤長の娘。
名前のよみかたは未詳。
鵑はホトトギス、あるいはサツキ、ヤマツツジのこと。
建暦3年(1213)2月15日のこと、
泉親衡という信濃国の御家人が、鎌倉幕府に対して謀反を企てていることが発覚した。
親衡の郎従の弟である阿静房安念という僧が、鎌倉で仲間を募っていたところ捕らえられ、
事態が明るみになったのである。
親衡は、幽閉のすえ殺害された2代将軍源頼家の遺児を擁して挙兵し、
執権北条義時を討つ計画だったという。
安念の自白により、
中心メンバーに30人余、そのほか総勢200人の関与が明らかになり、
次々に検挙されていった。
そのなかには、
幕府侍所別当和田義盛の息子義直・義重兄弟や、甥の胤長も含まれていた。
捕らえられた和田義直・義重は、それぞれ伊東祐長・祐広に、
胤長は、北条義時の腹心金窪行親・安東忠家に預けられた。
このとき、一族の長である義盛は上総国伊北荘(千葉県勝浦市ほか)にいたが、
事態を聞いて慌てて鎌倉に戻り、
3月8日、将軍源実朝の御所に参上して、息子ふたりの宥免を訴えた。
実朝も、義盛のこれまでの勲功に応じて、義直・義重を赦した。
しかし、胤長の赦免には及ばなかった。
翌9日、
義盛は、今度は一族98人を率いて将軍御所に参上し、
南庭に列座して胤長の赦免を求めた。
しかし、幕府の宿老大江広元が、
謀反の首謀者のひとりである胤長を赦免するわけにはいかない、と進言したため、
和田一族が列座する前で、
後ろ手に縛られた胤長は、金窪・安東から侍所の二階堂行村に引き渡された。
和田一族が味わわされた屈辱は、いかばかりであったか。
かくして、和田胤長は陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市ほか)に配流されることとなった。
胤長には、6歳になるその娘荒鵑がいたが、
荒鵑は、父との別れを悲しむあまり憔悴し、病に臥してしまった。
あまりの衰弱ぶりに、心配した周囲は一計を案じ、
父胤長と風貌の似ている一族の和田朝盛(義盛の孫)に、胤長のふりをさせ、
あたかも父が家に帰ってきたかのように思わせて、荒鵑を元気づけようとした。
荒鵑は、いささか持ち直したように顔をあげて、その姿を見たが、
それもつかの間、ついに閉眼してしまった。
父の配流が決まってから10日余り、3月21日のことであった。
荒鵑の亡骸は父胤長に葬られ、
27歳の母は、その日のうちに鶴岡善松坊重賀のもとで出家した。
なお、
父のふりをした和田朝盛は、
4月、将軍実朝と一族との板挟みとなって遁世し、
5月、和田一族は挙兵のすえ滅亡、
父胤長も、配所の陸奥国岩瀬郡の鏡沼辺り(福島県鏡石町)で誅殺された。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
《病死》 《1441年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
《病死》 《1188年》 《4月》 《25日》 《享年24歳》
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
《病死》 《1447年》 《4月》 《27日》 《享年37歳》
内裏女房、掌侍。
前参議高倉永藤の娘、右兵衛督高倉永豊の妹。
応永32年(1425)11月、高倉藤子は15歳で掌侍として称光天皇に出仕し、
「新内侍」、ついで「藤内侍」と呼ばれた。
次の後花園天皇の代にもそのまま仕え続け、
永享2年(1429)正月に、従五位下、
同年末に、従五位上に叙されている。
父永藤の名にちなむ藤子の名は、出仕の際か叙位の折につけられたものだろう。
文安4年(1447)4月26日朝、
数日続いた「腹所労」により、藤子は内裏を退出した。
ほどなく危篤に陥り、翌27日、他界。
出仕から20年余、「禁中不断祗候」(『建内記』)といわれたが、
発病、退出からあっという間の死であった。
「不便々々(ふびんふびん)」(『建内記』)。
兄の高倉永豊のもとを弔問に訪れた官人中原師郷は、
人づてに滋野井実益の卒中のことを聞いている。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1965年)
『大日本古記録 建内記 8』(岩波書店、1978年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「室町時代の禁裏女房―後花園天皇の時代を中心に―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2016年)
内裏女房、掌侍。
前参議高倉永藤の娘、右兵衛督高倉永豊の妹。
応永32年(1425)11月、高倉藤子は15歳で掌侍として称光天皇に出仕し、
「新内侍」、ついで「藤内侍」と呼ばれた。
次の後花園天皇の代にもそのまま仕え続け、
永享2年(1429)正月に、従五位下、
同年末に、従五位上に叙されている。
父永藤の名にちなむ藤子の名は、出仕の際か叙位の折につけられたものだろう。
文安4年(1447)4月26日朝、
数日続いた「腹所労」により、藤子は内裏を退出した。
ほどなく危篤に陥り、翌27日、他界。
出仕から20年余、「禁中不断祗候」(『建内記』)といわれたが、
発病、退出からあっという間の死であった。
「不便々々(ふびんふびん)」(『建内記』)。
兄の高倉永豊のもとを弔問に訪れた官人中原師郷は、
人づてに滋野井実益の卒中のことを聞いている。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1965年)
『大日本古記録 建内記 8』(岩波書店、1978年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「室町時代の禁裏女房―後花園天皇の時代を中心に―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2016年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
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1351 | 1352 | 1353 |
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1367 | 1368 | |
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没年 1400~1429
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1414 | 1415 | 1416 |
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没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
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1447 | 1448 | 1449 |
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1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
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11歳 | ||
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18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
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27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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