死に様データベース
《病死》 《1491年》 《4月》 《3日》 《享年57歳》
堀越公方。
6代将軍足利義教の子、8代将軍足利義政の兄。
享徳3年(1454)12月、
5代鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こすと、
これを室町幕府に対する叛逆とみた将軍足利義政は、
長禄元年(1457)末、
天龍寺香厳院にいた庶兄清久を還俗させて、政知と名乗らせ、
成氏に代わる鎌倉公方として、関東に遣わすこととした。
当初、政知は、
成氏が失陥した鎌倉に入り、新たな鎌倉公方として東国に君臨するはずだった。
しかし、不安定な関東の情勢は、それを許さず、
長禄2年(1458)の東下以来、
箱根の山も越えずに、伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に長く留まった。
堀越公方と呼ばれる所以である。
それでも、堀越公方政知の登場は、成氏陣営に少なからぬ動揺を与えたが、
同時に上杉方にも混乱をもたらし、情勢を決定づけるには至らなかった。
さらに、文明14年(1482)に締結された義政と成氏の和睦で、
公方の地位は成氏に認められたため、
政知の地位は宙ぶらりんとなってしまった。
妥協案として、政知には伊豆一国の支配権と多少の直轄領のみが与えられ、
堀越御所が政知の終の棲家となった。
政知は、延徳3年(1491)正月頃より病気がちになり、
4月3日、永眠。享年57。
院号は勝幢院、道号は九山、法諱は未詳(『蔭凉軒日録』)。
臨終の際の様子を、伝え聞いた権大納言三条西実隆が日記に記している。
鎌倉殿〈左兵衛督政知、慈照院殿同甲子(年齢)御舎弟〉、
去んぬる四月三日、薨じ給う。
正月より御不食と云々。
…獲麟(死去)の時刻の儀、もってのほかの事どもなり。
すなわち寝殿西方の庭に土葬すと云々。
事の儀、記すに能わず。(『実隆公記』)
実隆は、ふた月ほど経とうという5月28日、
前権大納言冷泉為富から得た情報として、このことを記している。
「もってのほかの事ども(とんでもないことなど)」と、
政知の死に際して、何かただならぬことが起こったかのような書きぶりだが、
具体的なことは、「記すに能わず」と書き留めるのを放棄している。
また、貴人の葬法は、火葬と菩提寺への納骨が一般的であった当時、
すぐさま御所内の庭園に土葬されたというのも、どうにも奇妙である。
早々に埋葬を済ませねばならぬほど、特異な死に方であったのか、
それとも、死去の事実を秘匿せねばならない不安定な状況があったのか。
政知の死に何があったのか、今日に知るすべはないが、
3ヶ月後、政知の長男茶々丸が異母弟潤童子とその母を殺害し、
さらにその2年後には、
政知の次男義高を新将軍に立てた京都のクーデター(明応の政変)に連動して、
伊勢宗瑞が茶々丸を攻めて、伊豆への侵攻を開始した。
政知の不可解な死を合図とするかのように、
関東はさらなる動乱の時代へと進んでゆくことになる。
※本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して深謝す。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
久保健一郎『列島の戦国史 1 享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館、2020年)
則竹雄一『動乱の東国史 6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2013年)
堀越公方。
6代将軍足利義教の子、8代将軍足利義政の兄。
享徳3年(1454)12月、
5代鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こすと、
これを室町幕府に対する叛逆とみた将軍足利義政は、
長禄元年(1457)末、
天龍寺香厳院にいた庶兄清久を還俗させて、政知と名乗らせ、
成氏に代わる鎌倉公方として、関東に遣わすこととした。
当初、政知は、
成氏が失陥した鎌倉に入り、新たな鎌倉公方として東国に君臨するはずだった。
しかし、不安定な関東の情勢は、それを許さず、
長禄2年(1458)の東下以来、
箱根の山も越えずに、伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に長く留まった。
堀越公方と呼ばれる所以である。
それでも、堀越公方政知の登場は、成氏陣営に少なからぬ動揺を与えたが、
同時に上杉方にも混乱をもたらし、情勢を決定づけるには至らなかった。
さらに、文明14年(1482)に締結された義政と成氏の和睦で、
公方の地位は成氏に認められたため、
政知の地位は宙ぶらりんとなってしまった。
妥協案として、政知には伊豆一国の支配権と多少の直轄領のみが与えられ、
堀越御所が政知の終の棲家となった。
政知は、延徳3年(1491)正月頃より病気がちになり、
4月3日、永眠。享年57。
院号は勝幢院、道号は九山、法諱は未詳(『蔭凉軒日録』)。
臨終の際の様子を、伝え聞いた権大納言三条西実隆が日記に記している。
鎌倉殿〈左兵衛督政知、慈照院殿同甲子(年齢)御舎弟〉、
去んぬる四月三日、薨じ給う。
正月より御不食と云々。
…獲麟(死去)の時刻の儀、もってのほかの事どもなり。
すなわち寝殿西方の庭に土葬すと云々。
事の儀、記すに能わず。(『実隆公記』)
実隆は、ふた月ほど経とうという5月28日、
前権大納言冷泉為富から得た情報として、このことを記している。
「もってのほかの事ども(とんでもないことなど)」と、
政知の死に際して、何かただならぬことが起こったかのような書きぶりだが、
具体的なことは、「記すに能わず」と書き留めるのを放棄している。
また、貴人の葬法は、火葬と菩提寺への納骨が一般的であった当時、
すぐさま御所内の庭園に土葬されたというのも、どうにも奇妙である。
早々に埋葬を済ませねばならぬほど、特異な死に方であったのか、
それとも、死去の事実を秘匿せねばならない不安定な状況があったのか。
政知の死に何があったのか、今日に知るすべはないが、
3ヶ月後、政知の長男茶々丸が異母弟潤童子とその母を殺害し、
さらにその2年後には、
政知の次男義高を新将軍に立てた京都のクーデター(明応の政変)に連動して、
伊勢宗瑞が茶々丸を攻めて、伊豆への侵攻を開始した。
政知の不可解な死を合図とするかのように、
関東はさらなる動乱の時代へと進んでゆくことになる。
※本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して深謝す。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
久保健一郎『列島の戦国史 1 享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館、2020年)
則竹雄一『動乱の東国史 6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2013年)
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《病死》 《1509年》 《2月》 《10日》 《享年88歳》
三条西家の女房。
局名は右京大夫。
出自等は未詳。
応永29年(1422)の生まれ。
永享11年(1439)、18歳で三条西家へ女房づとめを始め、
当主公保・実隆父子に長く仕えた。
永正元年(1504)10月9日、83歳の年、
三条西家家礼の大沢重種宅で出家を遂げ、法名光智を名乗ったが、
その後も三条西家への奉公を続けたようである。
5年後の永正6年(1509)正月、
「老病無頼」により、光智は88歳で三条西家を退き、
三条西邸近くの二度観音堂辺りの小庵に相談して、そこへ移ることとなった。
その支度をしていたところ、
同月28日に三条西家へ雲龍院主がやってきたので、
幸いにもその輿に乗せてもらって、移住先の小庵に運んでもらった。
小庵に輿で運んでもらった光智と、ただ民家に移された梅枝。
死に臨んでも、女房と下女という身分の違いは、歴然と上位者によって示される。
10日ほど経った2月10日午の刻(正午頃)、光智入滅。
すぐに葬ったというから、土葬であったか。
知らせを受けた旧主実隆は、
翌11日に葬料を送っている。
「愁歎比類なきものなり」(『実隆公記』)
その後も実隆は、光智のために法華経を書写し、
百箇日や一周忌の法要も行っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻5』(1938年)
原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1978年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、1995年)
細川涼一「家族を構成しない女性」(峰岸純夫編『中世を考える 家族と女性』吉川弘文館、1992年)
三条西家の女房。
局名は右京大夫。
出自等は未詳。
応永29年(1422)の生まれ。
永享11年(1439)、18歳で三条西家へ女房づとめを始め、
当主公保・実隆父子に長く仕えた。
永正元年(1504)10月9日、83歳の年、
三条西家家礼の大沢重種宅で出家を遂げ、法名光智を名乗ったが、
その後も三条西家への奉公を続けたようである。
5年後の永正6年(1509)正月、
「老病無頼」により、光智は88歳で三条西家を退き、
三条西邸近くの二度観音堂辺りの小庵に相談して、そこへ移ることとなった。
その支度をしていたところ、
同月28日に三条西家へ雲龍院主がやってきたので、
幸いにもその輿に乗せてもらって、移住先の小庵に運んでもらった。
小庵に輿で運んでもらった光智と、ただ民家に移された梅枝。
死に臨んでも、女房と下女という身分の違いは、歴然と上位者によって示される。
10日ほど経った2月10日午の刻(正午頃)、光智入滅。
すぐに葬ったというから、土葬であったか。
知らせを受けた旧主実隆は、
翌11日に葬料を送っている。
「愁歎比類なきものなり」(『実隆公記』)
その後も実隆は、光智のために法華経を書写し、
百箇日や一周忌の法要も行っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻5』(1938年)
原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1978年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、1995年)
細川涼一「家族を構成しない女性」(峰岸純夫編『中世を考える 家族と女性』吉川弘文館、1992年)
《不明》 《1202年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
建仁2年(1202)の春頃、
鎌倉では将軍家2代の源頼家の御所で、
連日のように蹴鞠会が催されていた。
3月8日にも、蹴鞠会があり、
その後の宴席は、比企能員邸の庭木の花が見頃だとのことで、
将軍家の御所から場所を移して開催された。
その宴席に、京都から下ってきたという微妙という名の舞女が候じた。
歌舞もよく、頼家もご満悦だったようだが、
亭主能員によれば、この微妙には愁訴の旨があって、山河を越えて鎌倉に来たのだという。
頼家が尋ねると、微妙は泣きながら、途切れがちにこう訴えた。
「去る建久年中(1190~99)、
父の右兵衛尉為成は、他人の讒言に遭って捕らえられ、
右京の獄舎に入れられました。
その後、同所の囚人は陸奥へ移送することとなり、
鎌倉将軍家の雑色に引き渡されましたが、
父為成もそのうちにおりました。
母は悲嘆の余りに世を去り、7歳であった私は、頼るべき兄弟もなく、
長く孤独の恨みに沈んでおりましたが、
父への想いを抑えきれず、その安否をたしかめたいと、
今こうして宴曲の芸を身につけて、東路を越えてきたのです。」(『吾妻鏡』、以下同)
これを聞いて涙しない者はなく、
頼家はさっそく陸奥へ使者を遣わして、為成の行方を捜させた。
この話は、尼御台北条政子の耳にも届き、
3月15日、政子が頼家の御所を訪れた際に、微妙も召され、
その巧みな芸を披露した。
微妙の父を想う志に感じ入った政子もまた、陸奥へ使者を遣って為成を捜させた。
さらに、
使者が鎌倉に戻った際には、政子のもとへ直接報告に来るよう命じている。
その後もたびたび微妙は頼家に召され、宴席に候じたが、
陸奥から使者が帰ったのは、5ヶ月後の8月5日。
その報告は、為成の死去を知らせるものであった。
これを聞いた微妙は、「涕泣、悶絶躄地」(もだえ苦しみ、転げ回ること)。
10日後の15日夜、
微妙は鎌倉亀谷の栄西の禅坊に入って、出家を遂げた。
法名は持蓮。
父の夢後を弔うためであったのはいうまでもない。
憐れんだ政子は、微妙改め持蓮に鎌倉西郊の深沢にに居所を用意して与え、
政子の持仏堂にも参じるよう言い含めたという。
微妙の姿は、父を想うけなげな女性像として称賛されたようで、
戦前には「列女伝」の類や修身の教科書などに、多く取り上げられたようである。
ただ、この父娘の孝行譚にはおまけがつく。
鎌倉滞在中の微妙は、
古郡保忠という御家人と浅からぬ仲になっていた。
ふたりは「比翼連理の契り」をしていたが、
微妙は、保忠が本国の甲斐に帰っている間、その帰りを待たずに出家したのである。
3月24日、鎌倉に戻った古郡保忠は、微妙の出家を知る。
微妙が、栄西の門弟祖達の房にいることを聞いた保忠は、そこへ押しかけ、
微妙に会わせよと迫った。
その剣幕におそれおののいた祖達は、将軍御所に駆け込み、
鬱憤休まらざる保忠は、従僧らを打擲したため、
亀谷一帯はたちまち騒動になった。
まもなく鎮静したが、政子は平賀朝光を遣わして保忠を宥めている。
結局、27日なって保忠は将軍頼家の勘気を蒙り、
政子からも「理不尽の所行、奇怪」と叱責を受けた。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
建仁2年(1202)の春頃、
鎌倉では将軍家2代の源頼家の御所で、
連日のように蹴鞠会が催されていた。
3月8日にも、蹴鞠会があり、
その後の宴席は、比企能員邸の庭木の花が見頃だとのことで、
将軍家の御所から場所を移して開催された。
その宴席に、京都から下ってきたという微妙という名の舞女が候じた。
歌舞もよく、頼家もご満悦だったようだが、
亭主能員によれば、この微妙には愁訴の旨があって、山河を越えて鎌倉に来たのだという。
頼家が尋ねると、微妙は泣きながら、途切れがちにこう訴えた。
「去る建久年中(1190~99)、
父の右兵衛尉為成は、他人の讒言に遭って捕らえられ、
右京の獄舎に入れられました。
その後、同所の囚人は陸奥へ移送することとなり、
鎌倉将軍家の雑色に引き渡されましたが、
父為成もそのうちにおりました。
母は悲嘆の余りに世を去り、7歳であった私は、頼るべき兄弟もなく、
長く孤独の恨みに沈んでおりましたが、
父への想いを抑えきれず、その安否をたしかめたいと、
今こうして宴曲の芸を身につけて、東路を越えてきたのです。」(『吾妻鏡』、以下同)
これを聞いて涙しない者はなく、
頼家はさっそく陸奥へ使者を遣わして、為成の行方を捜させた。
この話は、尼御台北条政子の耳にも届き、
3月15日、政子が頼家の御所を訪れた際に、微妙も召され、
その巧みな芸を披露した。
微妙の父を想う志に感じ入った政子もまた、陸奥へ使者を遣って為成を捜させた。
さらに、
使者が鎌倉に戻った際には、政子のもとへ直接報告に来るよう命じている。
その後もたびたび微妙は頼家に召され、宴席に候じたが、
陸奥から使者が帰ったのは、5ヶ月後の8月5日。
その報告は、為成の死去を知らせるものであった。
これを聞いた微妙は、「涕泣、悶絶躄地」(もだえ苦しみ、転げ回ること)。
10日後の15日夜、
微妙は鎌倉亀谷の栄西の禅坊に入って、出家を遂げた。
法名は持蓮。
父の夢後を弔うためであったのはいうまでもない。
憐れんだ政子は、微妙改め持蓮に鎌倉西郊の深沢にに居所を用意して与え、
政子の持仏堂にも参じるよう言い含めたという。
微妙の姿は、父を想うけなげな女性像として称賛されたようで、
戦前には「列女伝」の類や修身の教科書などに、多く取り上げられたようである。
ただ、この父娘の孝行譚にはおまけがつく。
鎌倉滞在中の微妙は、
古郡保忠という御家人と浅からぬ仲になっていた。
ふたりは「比翼連理の契り」をしていたが、
微妙は、保忠が本国の甲斐に帰っている間、その帰りを待たずに出家したのである。
3月24日、鎌倉に戻った古郡保忠は、微妙の出家を知る。
微妙が、栄西の門弟祖達の房にいることを聞いた保忠は、そこへ押しかけ、
微妙に会わせよと迫った。
その剣幕におそれおののいた祖達は、将軍御所に駆け込み、
鬱憤休まらざる保忠は、従僧らを打擲したため、
亀谷一帯はたちまち騒動になった。
まもなく鎮静したが、政子は平賀朝光を遣わして保忠を宥めている。
結局、27日なって保忠は将軍頼家の勘気を蒙り、
政子からも「理不尽の所行、奇怪」と叱責を受けた。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
《病死》 《1103年》 《正月》 《25日》 《享年28歳》
堀河天皇の女御。
父は大納言藤原実季、母は大宰大弐藤原経平の娘睦子。
後三条天皇の皇女で伊勢斎宮であった俊子内親王の養女となった。
承徳2年(1098)10月29日、苡子は23歳で3歳下の堀河天皇に入内し、
12月8日、女御となった。
相前後して懐妊したが、康和元年(1099)4月4日、4ヶ月で流産。
康和2年(1100)正月11日には、その労いとして従四位下に叙されている。
苡子の同母兄の権大納言藤原公実が、なおも皇子の誕生を祈願すると、
はたして康和4年(1102)8月、苡子の再びの懐妊が明らかとなった。
8月7日、着帯の儀を行ったのち、苡子は内裏を退いて、
五条高倉の左少弁藤原顕隆邸に移った。
出産が近づくにつれて、
奈良興福寺の造営が中止され、軽犯の者が釈放されるなど、
世間の注目は皇嗣の誕生集まった。
康和5年(1103)正月13日夜より、苡子は産気づき、
兄公実が万事をとりしきって、
14日酉の刻(夜6時頃)、産所に白木の御帳が立てられて、そのときに備えた。
16日申の刻(夕方4時頃)からいよいよとなって、
深夜、ついに苡子は男児を出産。平産であった。
兄公実がへその緒を切ったという。
人々は皇子の降誕を祝いあった。
なかでも白河法皇は孫の誕生に、「御感の余りすでに落涙に及」んだという(『中右記』)。
もっとも、外戚の地位を脅かされる摂関家の右大臣藤原忠実は、
いささかおもしろくなかったようである。
翌17日から、御湯殿始めや御乳付けなど、皇子の誕生儀礼が進められたが、
この間、苡子の体は「邪気」に冒され、「不食」(食欲不振)となっていた(『中右記』)。
兄公実はこの妹の病状をひた隠しにしたとされる。
25日、白河法皇が産所の藤原顕隆邸に臨幸し、苡子を見舞って皇子と対面した。
ところが、同日亥の刻(夜10時頃)、雨の降りしきるころ、
「邪気」に取り入られた苡子の容態が悪化。
万一の死穢に備えて、皇子は院御所の高松殿に移された。
しかして、子の四点(深夜1時頃)、苡子卒去。28歳であった。
「今朝臨幸の栄耀あり、夕に非常の哀哭に逢ふ。
誠に則ち憂喜聚門、吉凶同域の謂れか。
世間の無常、あたかも春の夢のごときものなり。」(『中右記』)
もし、公実が苡子の容態を隠していなければ、手の施しようがあったかもしれない、
と人々は噂した。
しかし、その後、公実が語ったところでは、
苡子の容態は、深夜に急変して人事不省に陥り、
一刻(30分)ほどで逝去してしまった、
まったくの「頓滅」であったという(『中右記』)。
そのうえ、人々からは「妹の重病を隠した」と謂れのない誹りを受けた、
ということであった。
白河法皇と堀河天皇に近仕し、摂関家をも凌がんとする勢いのあった公実には、
敵も多かったらしい。
とはいえ、妹に先立たれたうえ、“権力欲から妹を見殺しにした”と中傷されては、
たまったものではない。
27日、苡子の遺骸は、生前のごとく日用の牛車に乗せられ、
養母俊子内親王の御所に運ばれ、入棺。
皇子降誕の儀礼が催されているなかで、葬礼は憚られたらしい。
2月3日、鳥辺野で火葬されて、遺骨は木幡山陵に納められ、従三位の位階が贈られた。
悲嘆に暮れる堀河天皇は、はやくから苡子のために仏堂を建てようと志し、
父の白河法皇も同意して、方角と経費に気を付けるよう言い添えた。
同年末の12月19日、
七条室町の亡父実季の仏堂で、苡子の一周忌が大々的に営まれた。
丈六(高さ約4.85m)の釈迦如来像が造立され、
金泥の法華経も供えられた。
明けて康和6年(1104)正月27日には、
堀河天皇の念願叶って、仁和寺に転輪院が建立された。
4年後の嘉承2年(1107)には、堀河天皇も世を去り、
苡子が産んだ皇子宗仁が5歳で即位した(鳥羽天皇)。
これにより、苡子に皇太后の称号が贈られた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 5』(岩波書店、2005年)
『大日本古記録 殿暦 1』(岩波書店、1960年)
東京大学史料編纂所データベース
堀河天皇の女御。
父は大納言藤原実季、母は大宰大弐藤原経平の娘睦子。
後三条天皇の皇女で伊勢斎宮であった俊子内親王の養女となった。
承徳2年(1098)10月29日、苡子は23歳で3歳下の堀河天皇に入内し、
12月8日、女御となった。
相前後して懐妊したが、康和元年(1099)4月4日、4ヶ月で流産。
康和2年(1100)正月11日には、その労いとして従四位下に叙されている。
苡子の同母兄の権大納言藤原公実が、なおも皇子の誕生を祈願すると、
はたして康和4年(1102)8月、苡子の再びの懐妊が明らかとなった。
8月7日、着帯の儀を行ったのち、苡子は内裏を退いて、
五条高倉の左少弁藤原顕隆邸に移った。
出産が近づくにつれて、
奈良興福寺の造営が中止され、軽犯の者が釈放されるなど、
世間の注目は皇嗣の誕生集まった。
康和5年(1103)正月13日夜より、苡子は産気づき、
兄公実が万事をとりしきって、
14日酉の刻(夜6時頃)、産所に白木の御帳が立てられて、そのときに備えた。
16日申の刻(夕方4時頃)からいよいよとなって、
深夜、ついに苡子は男児を出産。平産であった。
兄公実がへその緒を切ったという。
人々は皇子の降誕を祝いあった。
なかでも白河法皇は孫の誕生に、「御感の余りすでに落涙に及」んだという(『中右記』)。
もっとも、外戚の地位を脅かされる摂関家の右大臣藤原忠実は、
いささかおもしろくなかったようである。
翌17日から、御湯殿始めや御乳付けなど、皇子の誕生儀礼が進められたが、
この間、苡子の体は「邪気」に冒され、「不食」(食欲不振)となっていた(『中右記』)。
兄公実はこの妹の病状をひた隠しにしたとされる。
25日、白河法皇が産所の藤原顕隆邸に臨幸し、苡子を見舞って皇子と対面した。
ところが、同日亥の刻(夜10時頃)、雨の降りしきるころ、
「邪気」に取り入られた苡子の容態が悪化。
万一の死穢に備えて、皇子は院御所の高松殿に移された。
しかして、子の四点(深夜1時頃)、苡子卒去。28歳であった。
「今朝臨幸の栄耀あり、夕に非常の哀哭に逢ふ。
誠に則ち憂喜聚門、吉凶同域の謂れか。
世間の無常、あたかも春の夢のごときものなり。」(『中右記』)
もし、公実が苡子の容態を隠していなければ、手の施しようがあったかもしれない、
と人々は噂した。
しかし、その後、公実が語ったところでは、
苡子の容態は、深夜に急変して人事不省に陥り、
一刻(30分)ほどで逝去してしまった、
まったくの「頓滅」であったという(『中右記』)。
そのうえ、人々からは「妹の重病を隠した」と謂れのない誹りを受けた、
ということであった。
白河法皇と堀河天皇に近仕し、摂関家をも凌がんとする勢いのあった公実には、
敵も多かったらしい。
とはいえ、妹に先立たれたうえ、“権力欲から妹を見殺しにした”と中傷されては、
たまったものではない。
27日、苡子の遺骸は、生前のごとく日用の牛車に乗せられ、
養母俊子内親王の御所に運ばれ、入棺。
皇子降誕の儀礼が催されているなかで、葬礼は憚られたらしい。
2月3日、鳥辺野で火葬されて、遺骨は木幡山陵に納められ、従三位の位階が贈られた。
悲嘆に暮れる堀河天皇は、はやくから苡子のために仏堂を建てようと志し、
父の白河法皇も同意して、方角と経費に気を付けるよう言い添えた。
同年末の12月19日、
七条室町の亡父実季の仏堂で、苡子の一周忌が大々的に営まれた。
丈六(高さ約4.85m)の釈迦如来像が造立され、
金泥の法華経も供えられた。
明けて康和6年(1104)正月27日には、
堀河天皇の念願叶って、仁和寺に転輪院が建立された。
4年後の嘉承2年(1107)には、堀河天皇も世を去り、
苡子が産んだ皇子宗仁が5歳で即位した(鳥羽天皇)。
これにより、苡子に皇太后の称号が贈られた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 5』(岩波書店、2005年)
『大日本古記録 殿暦 1』(岩波書店、1960年)
東京大学史料編纂所データベース
《病死》 《1496年》 《11月》 《23日》 《享年15歳》
清原宣賢の妻。
父は医師の上池院(坂)胤祐か。
明応5年(1496)11月23日、
六位蔵人清原宣賢の妻は、難産のすえに死去してしまった。
15歳であった。
夫の宣賢は22歳。
なお、夫宣賢には、3年後に別の女性との間に、
嫡男業賢(のち良雄)が生まれ、
吉田家の養子となる息子(兼右)や、三淵晴員の妻となる娘(智慶院)など、
多くの子に恵まれている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
清原宣賢の妻。
父は医師の上池院(坂)胤祐か。
明応5年(1496)11月23日、
六位蔵人清原宣賢の妻は、難産のすえに死去してしまった。
15歳であった。
夫の宣賢は22歳。
なお、夫宣賢には、3年後に別の女性との間に、
嫡男業賢(のち良雄)が生まれ、
吉田家の養子となる息子(兼右)や、三淵晴員の妻となる娘(智慶院)など、
多くの子に恵まれている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
《病死》 《1496年》 《7月》 《21日》 《享年69歳》
洛西嵯峨摂取院の尼僧。
父は参議甘露寺房長、母は未詳。
応仁・文明の乱後、真如は越前国にあった摂取院の所領に移住した。
京都に戻らぬまま、
明応5年(1496)7月21日、入滅。69歳。
8月10日、江南院龍霄(もと参議万里小路春房)が、
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。
龍霄は真如の兄甘露寺親長の実子、実隆は真如の姉の子であり、
ふたりは真如の甥にあたる。
実隆の母(真如の姉)はすでに25年前に他界しており、
「女子連子この一人なり。
今一度相謁せず、無念というべし。」(『実隆公記』)
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、
と、叔母の死を悲しんでいる。
15日、実隆は妹を喪った叔父親長を見舞っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
洛西嵯峨摂取院の尼僧。
父は参議甘露寺房長、母は未詳。
応仁・文明の乱後、真如は越前国にあった摂取院の所領に移住した。
京都に戻らぬまま、
明応5年(1496)7月21日、入滅。69歳。
8月10日、江南院龍霄(もと参議万里小路春房)が、
従弟の権大納言三条西実隆にこのことを知らせた。
龍霄は真如の兄甘露寺親長の実子、実隆は真如の姉の子であり、
ふたりは真如の甥にあたる。
実隆の母(真如の姉)はすでに25年前に他界しており、
「女子連子この一人なり。
今一度相謁せず、無念というべし。」(『実隆公記』)
と、最後の女性の親族であったのに、再会せぬままになってしまった、
と、叔母の死を悲しんでいる。
15日、実隆は妹を喪った叔父親長を見舞っている。
〔参考〕
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
《病死》 《1505年》 《11月》 《7日》 《享年40代》
三条西家の下女。
文明初年(1470前後)のころから、三条西家に仕えていたらしい。
永正2年(1505)11月6日の夜、
梅枝は中風(脳卒中の類)を発し、人事不省に陥った。
主の三条西実隆は、「不便々々(ふびんふびん)」と言いつつも、
瀕死の梅枝の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した(『実隆公記』)。
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。
翌7日、絶命。
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、
40代半ば~後半であったろうか。
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる(『実隆公記』)。
〔参考〕
『実隆公記 巻4』(太洋社、1935年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
三条西家の下女。
文明初年(1470前後)のころから、三条西家に仕えていたらしい。
永正2年(1505)11月6日の夜、
梅枝は中風(脳卒中の類)を発し、人事不省に陥った。
主の三条西実隆は、「不便々々(ふびんふびん)」と言いつつも、
瀕死の梅枝の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した(『実隆公記』)。
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。
翌7日、絶命。
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、
40代半ば~後半であったろうか。
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる(『実隆公記』)。
〔参考〕
『実隆公記 巻4』(太洋社、1935年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
《病死》 《1097年》 《閏正月》 《18日》 《享年63歳》
中宮亮高階公俊の妻。
永長2年(1097)閏正月16日朝、
中宮亮高階公俊が卒去した。
64歳であった。
その2日前に出家していたというから、
すでに病床にあったのだろう。
その2日後の閏正月18日、
公俊の妻も卒した。
63歳であった。
夫のあとを追うような死に方は、
「頗る奇怪か」(『中右記』)
といわれた。
この妻は、日ごろから観音菩薩を篤く信仰し、
臨終の際にも、その名号を念じていた。
絶命の直後、部屋には薫香が満ちたという。
信心から現れた「瑞相」とされた(『中右記』)。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
中宮亮高階公俊の妻。
永長2年(1097)閏正月16日朝、
中宮亮高階公俊が卒去した。
64歳であった。
その2日前に出家していたというから、
すでに病床にあったのだろう。
その2日後の閏正月18日、
公俊の妻も卒した。
63歳であった。
夫のあとを追うような死に方は、
「頗る奇怪か」(『中右記』)
といわれた。
この妻は、日ごろから観音菩薩を篤く信仰し、
臨終の際にも、その名号を念じていた。
絶命の直後、部屋には薫香が満ちたという。
信心から現れた「瑞相」とされた(『中右記』)。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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| 4日 | 5日 | 6日 |
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| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
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| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
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| 10代 | 10歳 | |
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| 15歳 | 16歳 | |
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| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
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| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
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| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
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| 60代 | 60歳 | |
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| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
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当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
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