死に様データベース
《誅殺》 《1370年》 《9月》 《25日》 《享年不明》
葉室家青侍。
応安3年(1370)9月26日、
北朝の右大弁葉室長宗の弟民部大輔某は、
青侍の男と双六を打っていた。
主従といえど、
賭け事は喧嘩に発展するのが、中世の常。
二人は諍いとなり、
青侍は、主家の民部大輔を殺害してしまった。
駆けつけた葉室家の家人らに、
その青侍もまた殺されてしまったという。
その後の話では、
民部大輔は負傷したのみで、死亡はしていないが、
やはり青侍の男は、殺されてしまったという。
「末代といえども、主を殺すの条、希代の所為なり。
下剋上の世、およそ怖畏無極のときなり。」(『後愚昧記』)
なお、
民部大輔某とおぼしき「長親」は、
いつの頃かは不明だが、
「狂気遁世」(『尊卑分脈』)したとされる。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
葉室家青侍。
応安3年(1370)9月26日、
北朝の右大弁葉室長宗の弟民部大輔某は、
青侍の男と双六を打っていた。
主従といえど、
賭け事は喧嘩に発展するのが、中世の常。
二人は諍いとなり、
青侍は、主家の民部大輔を殺害してしまった。
駆けつけた葉室家の家人らに、
その青侍もまた殺されてしまったという。
その後の話では、
民部大輔は負傷したのみで、死亡はしていないが、
やはり青侍の男は、殺されてしまったという。
「末代といえども、主を殺すの条、希代の所為なり。
下剋上の世、およそ怖畏無極のときなり。」(『後愚昧記』)
なお、
民部大輔某とおぼしき「長親」は、
いつの頃かは不明だが、
「狂気遁世」(『尊卑分脈』)したとされる。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
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《事故死》 《1370年》 《8月》 《15日》 《享年不明》
前関白九条経教の青侍。
応安3年(1370)の8月15日、
この日、京都は未の終刻(午後3時頃)にひどい雷雨となった。
前関白九条経教亭では、
ちょうど二階家で連歌会のさなかであったが、
そこに雷が落ちた。
九条家の青侍2名が「震死」(『後愚昧記』)。
連歌会に同席していた八条季興も、体調を崩した。
その後の噂では、
当主経教が、太刀「小狐」を抜いて、雷神を打ち払った、
という。
経教は日ごろから武芸を好んでおり、
三条公忠は、
さもありなん、といった感想を日記に記している。
事実とすれば、真っ先に雷が落ちそうなもの。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
前関白九条経教の青侍。
応安3年(1370)の8月15日、
この日、京都は未の終刻(午後3時頃)にひどい雷雨となった。
前関白九条経教亭では、
ちょうど二階家で連歌会のさなかであったが、
そこに雷が落ちた。
九条家の青侍2名が「震死」(『後愚昧記』)。
連歌会に同席していた八条季興も、体調を崩した。
その後の噂では、
当主経教が、太刀「小狐」を抜いて、雷神を打ち払った、
という。
経教は日ごろから武芸を好んでおり、
三条公忠は、
さもありなん、といった感想を日記に記している。
事実とすれば、真っ先に雷が落ちそうなもの。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
《誅殺》 《1312年》 《2月》 《28日》 《享年不明》
二条富小路内裏の北土門番衆。
応長2年(1312)2月28日、
二条富小路内裏の北土門番衆2人が口論となった。
当然のごとく、刃傷沙汰へ発展。
加害者は逃走した。
被害者の悲鳴は、遥か遠くまで聞こえたという。
事件は、門内、すなわち内裏のなかで起こったが、
斬られた側は、絶命する前に門外へ引き出され、
河原へ運ばれたので、
内裏の触穢は免れたことにされた。
門内には多量の流血が残ったというが…。
時の花園天皇は、
ひとたび、日記に事件の感想を記したようだが、
惜しいかな、思うところあって塗抹してしまい、
今日では読むことができない。
〔参考〕
宮内庁書陵部編『花園院宸記 4』 (便利堂 1993年)
二条富小路内裏の北土門番衆。
応長2年(1312)2月28日、
二条富小路内裏の北土門番衆2人が口論となった。
当然のごとく、刃傷沙汰へ発展。
加害者は逃走した。
被害者の悲鳴は、遥か遠くまで聞こえたという。
事件は、門内、すなわち内裏のなかで起こったが、
斬られた側は、絶命する前に門外へ引き出され、
河原へ運ばれたので、
内裏の触穢は免れたことにされた。
門内には多量の流血が残ったというが…。
時の花園天皇は、
ひとたび、日記に事件の感想を記したようだが、
惜しいかな、思うところあって塗抹してしまい、
今日では読むことができない。
〔参考〕
宮内庁書陵部編『花園院宸記 4』 (便利堂 1993年)
《病死》 《1427年》 《5月》 《某日》 《享年不明》
京都清閑寺の寺僧住房に仕える下女。
応永34年(1427)5月頃、
この下女が、突如悶絶した。
そのうちに、うわごとを言い始めた。
曰く、
「大きな岩が落ちてくる。苦しい」
曰く、
「赤鬼や青鬼が大勢やってきて、乱暴する」
曰く、
「火車がやってきた」
そして、
「いかねばならないか」と自問したのち、
「やはりいかねばなるまい。仕方がない。ゆこう」
と言って、
とうとう死んでしまった。
一部始終を見ていた人々は、
「希代の事」と言い合ったという。
火車とは、
死者の亡骸を奪う猫の妖怪とされる。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
京都清閑寺の寺僧住房に仕える下女。
応永34年(1427)5月頃、
この下女が、突如悶絶した。
そのうちに、うわごとを言い始めた。
曰く、
「大きな岩が落ちてくる。苦しい」
曰く、
「赤鬼や青鬼が大勢やってきて、乱暴する」
曰く、
「火車がやってきた」
そして、
「いかねばならないか」と自問したのち、
「やはりいかねばなるまい。仕方がない。ゆこう」
と言って、
とうとう死んでしまった。
一部始終を見ていた人々は、
「希代の事」と言い合ったという。
火車とは、
死者の亡骸を奪う猫の妖怪とされる。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
《自害》 《1374年》 《11月》 《23日》 《享年不明》
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
鎌倉円覚寺の上副寺(ふうす、寺院の財政を掌る職)。
応安7年(1374)11月23日、
円覚寺の上副寺某は、柴を買い求めようとしたところ、
その値段をめぐって、柴売りと口論になった。
副寺に罵られたことを根に持った柴売りは、
同日夜、円覚寺に忍び入り、
上副寺寮の柴置き小屋に、松明を投げ入れた。
副寺は、罵ったことを後悔したが、すでに遅く、
火は瞬く間に、仏殿など境内各所に広がった。
塔頭大仙庵に行き、
同僚の僧たちに、ことの次第と別れを告げた副寺は、
衣鉢を帯びて、燃えさかる仏殿に入り、
礼仏三拝して、烈火の中にその身を投じたのであった。
人々はこれを聞き、みな涙したという。
世間の怒りを拡散させた以外は、
何の解決にも資することのない責任のとりかた。
この火事で、
同契庵の僧某や正続院の僧6人、続灯庵の僧13人ほか、
寺中上下の多くの人々が焼死したという。
混乱の渦中にあった義堂周信は、火事の後、
「これを戒めとして、
今後商人らと相争ってはならない。
伽藍の荒廃はさだめだが、
戒めなく人のなすことによって、
小事が大事を生むとは、まさにこのことである。」
と説いた。
一方、この混乱の中で、
円覚寺秘蔵の霊鏡が、対立する建長寺に奪われる、
という雑説もおきていたらしい。
〔参考〕
『空華日用工夫略集』 (太洋社 1939年)
『群書類従 第26輯』 (続群書類従完成会)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982年)
山田邦明「室町時代の鎌倉」 (五味文彦編『中世を考える 都市の中世』 吉川弘文館 1992年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
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1363 | ||
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1380 | ||
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没年 1400~1429
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1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
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11歳 | ||
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18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
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27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
享年 50代~
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