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死に様データベース
《自害》 《1371年》 《4月》 《1日》 《享年不明》


土佐国人佐川氏の若党。


応安4年(1371)、
幼い将軍を抱え、南朝の攻略を進める室町幕府の管領細川頼之は、
この年も出兵の計画を立て、
自身の守護国である四国各国にも、軍勢催促をかけた。


当時、上洛して京都北小路万里小路の智恵光院を宿所としていた、
土佐国の国人佐川某のもとへも、
頼之から出陣命令が届いた。
しかし、
佐川某はこれを固く拒否。
子息が南朝方であったためで、
頼之もそれを承知で、むしろ利用しようとして出陣を命じたらしい。


4月1日、
この命令違反に対して、
頼之は、自身の軍勢と幕府侍所佐々木京極高秀の軍勢を差し向け、
佐川の宿所智恵光院を囲んだ。
佐川某はすぐに逃亡したが、
寺内に残っていた佐川の親類・若党・中間ら4人は、
幕府の軍勢に囲まれ、自害した。
そのうち1人は、しばらく息があったが、
数日のうちに絶命した。
「勇敢の至り、感ずべし。」(『後愚昧記』)

幕府の軍勢は、逃亡した佐川を捜索し、
近隣は大変な騒ぎになったという。

智恵光院の長老や僧たちも、事情聴取のために侍所へ連行された。
一両日中には釈放されたものの、
その間に寺内の財産を押収されるなど、
散々な目にあった。



この騒動には、おまけがつく。

自害した佐川の若党らの遺体は、
河原者に引き取られ、衣類などは彼らの手に渡ったが、
祇園社の犬神人たちが、それらの権利を主張し、
騒動から3日後の4月4日、
智恵光院に押し寄せたのである。
犬神人たちは、火をつけるなどと脅して、智恵光院に詰め寄り、
寺側の退去要請も聞かず、数刻にわたって居座った。

すると今度は、
それを聞いた河原者たちが、智恵光院を助けようと、
武装して集まってきた。

結局、犬神人たちは引き下がり、
侍所において、河原者の権利を認めるとの審判が下ることとなる。


人の死もまた、得分となる。



〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 2』 (岩波書店 1984年)
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《誅殺》 《1370年》 《9月》 《25日》 《享年不明》


葉室家青侍。


応安3年(1370)9月26日、
北朝の右大弁葉室長宗の弟民部大輔某は、
青侍の男と双六を打っていた。
主従といえど、
賭け事は喧嘩に発展するのが、中世の常。
二人は諍いとなり、
青侍は、主家の民部大輔を殺害してしまった。
駆けつけた葉室家の家人らに、
その青侍もまた殺されてしまったという。

その後の話では、
民部大輔は負傷したのみで、死亡はしていないが、
やはり青侍の男は、殺されてしまったという。


「末代といえども、主を殺すの条、希代の所為なり。
 下剋上の世、およそ怖畏無極のときなり。」(『後愚昧記』)


なお、
民部大輔某とおぼしき「長親」は、
いつの頃かは不明だが、
「狂気遁世」(『尊卑分脈』)したとされる。



〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
《事故死》 《1370年》 《8月》 《15日》 《享年不明》


前関白九条経教の青侍。


応安3年(1370)の8月15日、
この日、京都は未の終刻(午後3時頃)にひどい雷雨となった。

前関白九条経教亭では、
ちょうど二階家で連歌会のさなかであったが、
そこに雷が落ちた。
九条家の青侍2名が「震死」(『後愚昧記』)
連歌会に同席していた八条季興も、体調を崩した。


その後の噂では、
当主経教が、太刀「小狐」を抜いて、雷神を打ち払った、
という。
経教は日ごろから武芸を好んでおり、
三条公忠は、
さもありなん、といった感想を日記に記している。
事実とすれば、真っ先に雷が落ちそうなもの。



〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 1』 (岩波書店 1980年)
《誅殺》 《1312年》 《2月》 《28日》 《享年不明》


二条富小路内裏の北土門番衆。


応長2年(1312)2月28日、
二条富小路内裏の北土門番衆2人が口論となった。
当然のごとく、刃傷沙汰へ発展。
加害者は逃走した。
被害者の悲鳴は、遥か遠くまで聞こえたという。

事件は、門内、すなわち内裏のなかで起こったが、
斬られた側は、絶命する前に門外へ引き出され、
河原へ運ばれたので、
内裏の触穢は免れたことにされた。
門内には多量の流血が残ったというが…。


時の花園天皇は、
ひとたび、日記に事件の感想を記したようだが、
惜しいかな、思うところあって塗抹してしまい、
今日では読むことができない。



〔参考〕
宮内庁書陵部編『花園院宸記 4』 (便利堂 1993年)
《病死》 《1427年》 《5月》 《某日》 《享年不明》


京都清閑寺の寺僧住房に仕える下女。


応永34年(1427)5月頃、
この下女が、突如悶絶した。
そのうちに、うわごとを言い始めた。
曰く、
「大きな岩が落ちてくる。苦しい」
曰く、
「赤鬼や青鬼が大勢やってきて、乱暴する」
曰く、
「火車がやってきた」

そして、
「いかねばならないか」と自問したのち、
「やはりいかねばなるまい。仕方がない。ゆこう」
と言って、
とうとう死んでしまった。

一部始終を見ていた人々は、
「希代の事」と言い合ったという。


火車とは、
死者の亡骸を奪う猫の妖怪とされる。


〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
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