死に様データベース
《誅殺》 《1422年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
冷泉家の青侍。
冷泉持和(のち持為)の継母の兄弟。
冷泉持和は、継母の比丘尼を犯し、
その懐妊を知ると、外聞を気にしてか、これを毒殺。
さらに、それから間もない応永29(1422)年、
比丘尼の兄弟の青侍を、手ずから殺害した。
翌々年の応永31年(1424)2月、
とある尼が室町幕府に訴え出たことで、
事件が公になったのである。
だが、
当の冷泉持和は、所領播磨国細河荘没収の罰のみ。
今なら極刑ものだが…。
〔参考〕
『史料纂集 兼宣公記 第2』 (八木書店 2012年)
冷泉家の青侍。
冷泉持和(のち持為)の継母の兄弟。
冷泉持和は、継母の比丘尼を犯し、
その懐妊を知ると、外聞を気にしてか、これを毒殺。
さらに、それから間もない応永29(1422)年、
比丘尼の兄弟の青侍を、手ずから殺害した。
翌々年の応永31年(1424)2月、
とある尼が室町幕府に訴え出たことで、
事件が公になったのである。
だが、
当の冷泉持和は、所領播磨国細河荘没収の罰のみ。
今なら極刑ものだが…。
〔参考〕
『史料纂集 兼宣公記 第2』 (八木書店 2012年)
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《事故死》 《1421年》 《9月》 《24日》 《享年不明》
伏見大光明寺(現京都市伏見区)の僧。
応永28年(1421)9月18日夜、
酒を飲み、したたかに酔った僧某は、
縁で足を踏み外し、その際に陰嚢を強く打った。
それ以来、健康を崩し、
24日暁、円寂。
酒には気をつけられたい。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
伏見大光明寺(現京都市伏見区)の僧。
応永28年(1421)9月18日夜、
酒を飲み、したたかに酔った僧某は、
縁で足を踏み外し、その際に陰嚢を強く打った。
それ以来、健康を崩し、
24日暁、円寂。
酒には気をつけられたい。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
《自害》 《1424年》 《8月》 《4日》 《享年不明》
内裏の御湯殿に仕えていた男。
この内裏に仕えていた某男は、
応永31年(1424)のある日、
同じ内裏の典侍局に仕える某女に艶書を送った。
ところが、
これが称光天皇の目に触れ、天皇は激怒。
男は逐電した。
怒り収まらぬ天皇は、
「本人がいないのならば父が腹を切れ」と厳命。
父に自分の身代わりになることは、さすがにいたたまれなかったか、
8月4日、男は内裏に帰り、切腹。
女は出家させられた。
中世は恋も命がけ。
〔参考〕
『史料纂集 兼宣公記 第2』 (八木書店 2012年)
内裏の御湯殿に仕えていた男。
この内裏に仕えていた某男は、
応永31年(1424)のある日、
同じ内裏の典侍局に仕える某女に艶書を送った。
ところが、
これが称光天皇の目に触れ、天皇は激怒。
男は逐電した。
怒り収まらぬ天皇は、
「本人がいないのならば父が腹を切れ」と厳命。
父に自分の身代わりになることは、さすがにいたたまれなかったか、
8月4日、男は内裏に帰り、切腹。
女は出家させられた。
中世は恋も命がけ。
〔参考〕
『史料纂集 兼宣公記 第2』 (八木書店 2012年)
《誅殺》 《1417年》 《8月》 《20日》 《享年不明》
京都五条坊門大宮に住む法華衆。
応永24年(1417)8月20日辰の刻(朝8時頃)、
法師体の男とその下部の2人組に追われ、
大宮大路を北へ逃げていた法華僧は、
綾小路大宮と四条大宮の間の人家に逃げ込んだところ、
追いつかれて、
大刀で斬り殺された。
討ち手の2人は、すぐさま野次馬に取り押さえられ、
侍所に引き渡された。
下部の方は、手傷を負っていたという。
親の仇、あるいは妻の仇であったというが、
これを日記に記した中原康富は、
「親の仇ということならば、神妙の至りであるけれども、
こういうことはよくあるので、信じるには及ばない。」(『康富記』)
と書いている。
また、
追いつめられた法華僧が慈心を起こすと、
刀の刃が徐々に毀れていったというが、如何に。
この日寅の刻(午前4時頃)には、
綾小路西洞院の家に強盗が入り、家主が殺された。
市井はいつの世も物騒である。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
京都五条坊門大宮に住む法華衆。
応永24年(1417)8月20日辰の刻(朝8時頃)、
法師体の男とその下部の2人組に追われ、
大宮大路を北へ逃げていた法華僧は、
綾小路大宮と四条大宮の間の人家に逃げ込んだところ、
追いつかれて、
大刀で斬り殺された。
討ち手の2人は、すぐさま野次馬に取り押さえられ、
侍所に引き渡された。
下部の方は、手傷を負っていたという。
親の仇、あるいは妻の仇であったというが、
これを日記に記した中原康富は、
「親の仇ということならば、神妙の至りであるけれども、
こういうことはよくあるので、信じるには及ばない。」(『康富記』)
と書いている。
また、
追いつめられた法華僧が慈心を起こすと、
刀の刃が徐々に毀れていったというが、如何に。
この日寅の刻(午前4時頃)には、
綾小路西洞院の家に強盗が入り、家主が殺された。
市井はいつの世も物騒である。
〔参考〕
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
《誅殺》 《1421年》 《2月》 《17日》 《享年不明》
京都三条堀河千手堂の老僧。
応永28年(1421)2月17日、
京都三条堀河の千手堂に盗人が入り、
主の老僧を刺し殺して、堂に放火した。
堂の下に埋めておいたという、
大般若経新写のために勧進した料足3,000疋を狙った犯行という。
さっそく、
堂に寄宿していた龍山和尚に、嫌疑がかかり、
幕府の役人は、捕縛・糾問の末、犯行を白状させた。
重罪により、死刑は確実だろうとされた。
この龍山和尚、
あちこちを巡りながら、人々に法華経を講釈していた僧で、
その語りぶりが、なかなか見事であったらしく、
講釈のたびに、人々が群れ集まったという。
事件前年10月には伏見にも訪れ、
好奇心旺盛な伏見宮貞成親王も、こっそり聞きに行くほどであった。
そのためか、事件を聞いた貞成親王は、
「いくら末法の世とはいえ、
これほどの重罪や破戒は聞いたことがない。」(『看聞日記』)
と、驚いている。
ところが、
一度は犯行を認め、投獄された龍山であったが、
翌18日になると、一転して犯行を否認、無罪を主張した。
どういった取り調べがあったか不明だが、
犯行は、弟子たちの所行ということになって、
龍山は処刑を免れ、追放と相成った。
自白の強要による冤罪か、
はたまた、
弟子へのなすりつけによる命乞いか。
どちらにしても、後味の悪い事件である。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
京都三条堀河千手堂の老僧。
応永28年(1421)2月17日、
京都三条堀河の千手堂に盗人が入り、
主の老僧を刺し殺して、堂に放火した。
堂の下に埋めておいたという、
大般若経新写のために勧進した料足3,000疋を狙った犯行という。
さっそく、
堂に寄宿していた龍山和尚に、嫌疑がかかり、
幕府の役人は、捕縛・糾問の末、犯行を白状させた。
重罪により、死刑は確実だろうとされた。
この龍山和尚、
あちこちを巡りながら、人々に法華経を講釈していた僧で、
その語りぶりが、なかなか見事であったらしく、
講釈のたびに、人々が群れ集まったという。
事件前年10月には伏見にも訪れ、
好奇心旺盛な伏見宮貞成親王も、こっそり聞きに行くほどであった。
そのためか、事件を聞いた貞成親王は、
「いくら末法の世とはいえ、
これほどの重罪や破戒は聞いたことがない。」(『看聞日記』)
と、驚いている。
ところが、
一度は犯行を認め、投獄された龍山であったが、
翌18日になると、一転して犯行を否認、無罪を主張した。
どういった取り調べがあったか不明だが、
犯行は、弟子たちの所行ということになって、
龍山は処刑を免れ、追放と相成った。
自白の強要による冤罪か、
はたまた、
弟子へのなすりつけによる命乞いか。
どちらにしても、後味の悪い事件である。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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