死に様データベース
《自害》 《1417年》 《正月》 《10日》 《享年不明》
鎌倉公方御連枝。
3代鎌倉公方足利満兼の次男で、
「乙若」、あるいは「乙御所」と呼ばれた。
母は身分の低い身であったらしく、
応永7年(1400)6月、鎌倉に呼び戻されるまでは、
上野で育てられたらしい。
応永17年(1410)12月、
鎌倉公方となっていた兄持氏とともに元服し、
将軍足利義持の一字をもらって、「持仲」と名乗る。
このとき、10歳前後であったろう。
いつの頃か、叔父満隆の養子となった。
養父満隆は野心の人であり、
若き甥持氏の鎌倉公方の地位を、たびたびうかがった。
その都度、鎌倉の市中は騒然とした空気になって、
関東管領上杉憲定が場をとりもったりしている。
応永23年(1416)10月2日、
満隆は前関東管領の上杉禅秀と組んで、ついに叛乱を起こす。
ただちに、鎌倉公方持氏らを急襲して放逐し、鎌倉を掌握。
クーデターは成功して、
満隆は、鎌倉公方になりすました。
養子持仲は、瞬く間に、
公方御曹司としてまつりあげられたのである。
しかし、
年末のあたりから、満隆・禅秀方は分が悪くなり、
各地で持氏方に連敗した。
年明けた応永24年(1417)正月10日、
持氏方に鎌倉に攻め込まれ、
満隆・持仲と禅秀一族は、
雪ノ下の鶴岡八幡宮別当坊で自害。
持仲は10代半ばであったと思われる。
この足利持仲の短い人生において、その事績は明らかでなく、
叛乱に対しても、何ら主体性は感じられない。
幼いころは父に認知されず、
長じては、家臣に担ぎ出され、
養父の野望につきあわされた果てに自害、
というならば、いささか不憫である。
同様の事例は、中世には少なくないけれども。
鎌倉公方御連枝。
3代鎌倉公方足利満兼の次男で、
「乙若」、あるいは「乙御所」と呼ばれた。
母は身分の低い身であったらしく、
応永7年(1400)6月、鎌倉に呼び戻されるまでは、
上野で育てられたらしい。
応永17年(1410)12月、
鎌倉公方となっていた兄持氏とともに元服し、
将軍足利義持の一字をもらって、「持仲」と名乗る。
このとき、10歳前後であったろう。
いつの頃か、叔父満隆の養子となった。
養父満隆は野心の人であり、
若き甥持氏の鎌倉公方の地位を、たびたびうかがった。
その都度、鎌倉の市中は騒然とした空気になって、
関東管領上杉憲定が場をとりもったりしている。
応永23年(1416)10月2日、
満隆は前関東管領の上杉禅秀と組んで、ついに叛乱を起こす。
ただちに、鎌倉公方持氏らを急襲して放逐し、鎌倉を掌握。
クーデターは成功して、
満隆は、鎌倉公方になりすました。
養子持仲は、瞬く間に、
公方御曹司としてまつりあげられたのである。
しかし、
年末のあたりから、満隆・禅秀方は分が悪くなり、
各地で持氏方に連敗した。
年明けた応永24年(1417)正月10日、
持氏方に鎌倉に攻め込まれ、
満隆・持仲と禅秀一族は、
雪ノ下の鶴岡八幡宮別当坊で自害。
持仲は10代半ばであったと思われる。
この足利持仲の短い人生において、その事績は明らかでなく、
叛乱に対しても、何ら主体性は感じられない。
幼いころは父に認知されず、
長じては、家臣に担ぎ出され、
養父の野望につきあわされた果てに自害、
というならば、いささか不憫である。
同様の事例は、中世には少なくないけれども。
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《自害》 《1423年》 《8月》 《9日》 《享年不明》
関東の大名。
宇都宮氏の庶流武茂氏の出身で、
惣領家満綱の娘婿となり、惣領家を継ぐ。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では、
宇都宮持綱は当初静観しつつ、室町幕府との連絡を密にし、
幕府が鎌倉公方足利持氏の支援を決したのち、
それに従って行動を開始した。
この、鎌倉府の上意より室町幕府の上意を優先するという方針が、
持綱の命取りとなる。
乱後、持綱は幕府より、
禅秀の滅亡によって空席となっていた上総守護に推挙された。
しかし、
自分の近臣を守護にしたい鎌倉公方持氏にとっては、
幕府の推挙や持綱の存在は面白くない。
期せずして持綱は、
幕府と公方持氏の対立の渦中に置かれてしまったのである。
応永25年(1418)10月、
幕府との折衝の結果、
公方持氏はいったん、宇都宮持綱の上総守護就任を了承した。
だが、
翌年にかけて、上総では禅秀残党の蜂起が相次ぎ、
持綱の上総守護支配は、思うようには進まなかった。
まもなく、幕府も持綱による上総支配を諦めたらしい。
応永29年(1422)、公方持氏は、
反公方派の大名・国人の弾圧を開始する。
彼らは、幕府にとりいって、公方持氏に反抗していたのであった。
東国の情勢とともに、幕府と鎌倉府の関係も、
一気に緊張の度合いを増した。
6月、鎌倉府軍は常陸国人小栗満重を攻め、
閏10月には、常陸佐竹氏一族の山入与義を誅殺した。
そして、次なる標的に、宇都宮持綱が向けられたのである。
翌応永30年(1423)5月、
北関東の反持氏派の、本格的な討伐に乗り出した。
公方持氏自ら、武蔵、ついで下総古河・結城へ出陣するほどの、
気の入れようである。
窮地に立った宇都宮持綱は、助力をもとめるべく、
京都の幕府のもとに、使者を派遣する。
6月11日、
宇都宮を出発した使者白久但馬入道父子は、
関東平野を避け、会津を経由して、京都を目指した。
途中、南会津で持氏方の軍勢に襲われ、
但馬入道は捕縛され、斬られてしまう。
その子永訴が、父の遺命を継ぎ、
会津・北陸を経て、
7月4日、ようやく京都に到着した。
幕府はすぐさま、対策を議し、
小栗・宇都宮らへの支援を決定して、
使者に返書を持たせた。
7月8日、使者は京都を発つ。
だが、幕府軍の東国下向はなかなか決まらなかった。
“支援”と言っても、お墨付きを与える、といった程度で、
具体的に援軍を送るとか、そういうことはまた別だったらしい。
そうやって幕府がもたもたしている間も、
関東の情勢は時々刻々と変化していく。
6月下旬以来、常陸小栗城を攻めあぐねていた鎌倉府軍であったが、
8月2日、これを陥して小栗満重を滅ぼし、
同日、常陸真壁城も陥して、真壁秀幹を討った。
鎌倉府軍は鎌倉へ帰還せず、そのまま宇都宮持綱討伐に向かう。
大軍を前に利を失った持綱は、宇都宮城を脱する。
北国経由で、幕府の庇護下に逃げ込もうとしたのだろうか、
会津へ向かう街道を進んだらしい。
8月9日、
その道中の下野塩谷で、一族塩谷家綱に裏切られ、自刃。
使者永訴が宇都宮に戻ったかどうかは不明だが、
肝心の幕府軍来援が決定したのは、
持綱自刃の前日、8月8日。
持綱の無念のほどが知れる。
〔参考〕
山家浩樹「上総守護宇都宮持綱」 (『日本歴史』490 1989)
江田郁夫「持氏政権期の宇都宮氏」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008)
関東の大名。
宇都宮氏の庶流武茂氏の出身で、
惣領家満綱の娘婿となり、惣領家を継ぐ。
応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では、
宇都宮持綱は当初静観しつつ、室町幕府との連絡を密にし、
幕府が鎌倉公方足利持氏の支援を決したのち、
それに従って行動を開始した。
この、鎌倉府の上意より室町幕府の上意を優先するという方針が、
持綱の命取りとなる。
乱後、持綱は幕府より、
禅秀の滅亡によって空席となっていた上総守護に推挙された。
しかし、
自分の近臣を守護にしたい鎌倉公方持氏にとっては、
幕府の推挙や持綱の存在は面白くない。
期せずして持綱は、
幕府と公方持氏の対立の渦中に置かれてしまったのである。
応永25年(1418)10月、
幕府との折衝の結果、
公方持氏はいったん、宇都宮持綱の上総守護就任を了承した。
だが、
翌年にかけて、上総では禅秀残党の蜂起が相次ぎ、
持綱の上総守護支配は、思うようには進まなかった。
まもなく、幕府も持綱による上総支配を諦めたらしい。
応永29年(1422)、公方持氏は、
反公方派の大名・国人の弾圧を開始する。
彼らは、幕府にとりいって、公方持氏に反抗していたのであった。
東国の情勢とともに、幕府と鎌倉府の関係も、
一気に緊張の度合いを増した。
6月、鎌倉府軍は常陸国人小栗満重を攻め、
閏10月には、常陸佐竹氏一族の山入与義を誅殺した。
そして、次なる標的に、宇都宮持綱が向けられたのである。
翌応永30年(1423)5月、
北関東の反持氏派の、本格的な討伐に乗り出した。
公方持氏自ら、武蔵、ついで下総古河・結城へ出陣するほどの、
気の入れようである。
窮地に立った宇都宮持綱は、助力をもとめるべく、
京都の幕府のもとに、使者を派遣する。
6月11日、
宇都宮を出発した使者白久但馬入道父子は、
関東平野を避け、会津を経由して、京都を目指した。
途中、南会津で持氏方の軍勢に襲われ、
但馬入道は捕縛され、斬られてしまう。
その子永訴が、父の遺命を継ぎ、
会津・北陸を経て、
7月4日、ようやく京都に到着した。
幕府はすぐさま、対策を議し、
小栗・宇都宮らへの支援を決定して、
使者に返書を持たせた。
7月8日、使者は京都を発つ。
だが、幕府軍の東国下向はなかなか決まらなかった。
“支援”と言っても、お墨付きを与える、といった程度で、
具体的に援軍を送るとか、そういうことはまた別だったらしい。
そうやって幕府がもたもたしている間も、
関東の情勢は時々刻々と変化していく。
6月下旬以来、常陸小栗城を攻めあぐねていた鎌倉府軍であったが、
8月2日、これを陥して小栗満重を滅ぼし、
同日、常陸真壁城も陥して、真壁秀幹を討った。
鎌倉府軍は鎌倉へ帰還せず、そのまま宇都宮持綱討伐に向かう。
大軍を前に利を失った持綱は、宇都宮城を脱する。
北国経由で、幕府の庇護下に逃げ込もうとしたのだろうか、
会津へ向かう街道を進んだらしい。
8月9日、
その道中の下野塩谷で、一族塩谷家綱に裏切られ、自刃。
使者永訴が宇都宮に戻ったかどうかは不明だが、
肝心の幕府軍来援が決定したのは、
持綱自刃の前日、8月8日。
持綱の無念のほどが知れる。
〔参考〕
山家浩樹「上総守護宇都宮持綱」 (『日本歴史』490 1989)
江田郁夫「持氏政権期の宇都宮氏」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008)
《病死》 《1449年》 《8月》 《9日》 《享年38歳》
第6代室町幕府将軍足利義教の室。
正親町三条実雅の妹。
三条尹子ははじめ、将軍足利義教の側室として、その寵愛を受けたが、
正室日野宗子の死後、正室となった。
兄実雅も、義教に近侍した。
夫義教横死後、出家。
宝徳元年(1449)夏頃より、長患いをしており、
8月5日、病のため、洛中を離れて桂川の西岸に移った。
9日早朝、危篤に陥り、逝去。
遺骸は、そのまま嵯峨二尊院に運ばれ、
12日朝、同院において火葬、昼、納骨。
諸大名をはじめ、多くの人々が弔問に訪れた。
さて、将軍家の人間が逝去すれば、
当然ながら、将軍本人の服喪や触穢が問題となる。
その、将軍がどの程度喪に服すかという問題は、
死亡者の格付けによって決まってくる。
尹子は当初、
前将軍義教の正室ということで、
将軍義成(のちの義政)の「嫡母」とされたが、
「養母」とはされなかった。
その後、先例を調査した結果、
「嫡母」ではなく、「継母」格ということで落着した。
これによって、
将軍義成は、軽い喪にも服さなくてよい、ということになった。
将軍の服喪ともなれば、相応の費用や手間がかかる。
初めから結論ありきのような格付けであった。
病身の尹子が郊外に移されたのも、
単に療養というだけでなく、
洛中の触穢を避けて、諸々の面倒を省く、
という目的があったのかもしれない。
また、
当時、将軍義成の実母として勢いを増し、もと正室の尹子を圧倒していた、
側室裏松重子の存在もうかがわれよう。
死そのものは、ごく個人的な自然現象であるが、
死はその直後から、死者の望むと望まざるとにかかわらず、
生者によって、政治的・社会的なものとして都合よく利用される。
〔参考〕
『増補史料大成39 康富記3(自文安6年至宝徳3年)』 (臨川書店 1965)
第6代室町幕府将軍足利義教の室。
正親町三条実雅の妹。
三条尹子ははじめ、将軍足利義教の側室として、その寵愛を受けたが、
正室日野宗子の死後、正室となった。
兄実雅も、義教に近侍した。
夫義教横死後、出家。
宝徳元年(1449)夏頃より、長患いをしており、
8月5日、病のため、洛中を離れて桂川の西岸に移った。
9日早朝、危篤に陥り、逝去。
遺骸は、そのまま嵯峨二尊院に運ばれ、
12日朝、同院において火葬、昼、納骨。
諸大名をはじめ、多くの人々が弔問に訪れた。
さて、将軍家の人間が逝去すれば、
当然ながら、将軍本人の服喪や触穢が問題となる。
その、将軍がどの程度喪に服すかという問題は、
死亡者の格付けによって決まってくる。
尹子は当初、
前将軍義教の正室ということで、
将軍義成(のちの義政)の「嫡母」とされたが、
「養母」とはされなかった。
その後、先例を調査した結果、
「嫡母」ではなく、「継母」格ということで落着した。
これによって、
将軍義成は、軽い喪にも服さなくてよい、ということになった。
将軍の服喪ともなれば、相応の費用や手間がかかる。
初めから結論ありきのような格付けであった。
病身の尹子が郊外に移されたのも、
単に療養というだけでなく、
洛中の触穢を避けて、諸々の面倒を省く、
という目的があったのかもしれない。
また、
当時、将軍義成の実母として勢いを増し、もと正室の尹子を圧倒していた、
側室裏松重子の存在もうかがわれよう。
死そのものは、ごく個人的な自然現象であるが、
死はその直後から、死者の望むと望まざるとにかかわらず、
生者によって、政治的・社会的なものとして都合よく利用される。
〔参考〕
『増補史料大成39 康富記3(自文安6年至宝徳3年)』 (臨川書店 1965)
《誅殺》 《1417年》 《閏5月》 《13日》 《享年不明》
上野国人。上野新田荘領主。
新田氏惣領。
関東管領をつとめた上杉禅秀の娘を娶り、
父祖以来の鎌倉府上層部とのつながりを、さらに強固なものとした。
応永23年(1416)10月、
舅禅秀が、鎌倉公方足利持氏にクーデターを起こす。
岩松満純も、娘婿としてこれに参加し、
公方持氏の追い落としを成功させた。
クーデター成功後は、本国上野に戻り、
持氏方の関東管領上杉憲基勢と戦った。
反クーデター軍の掃討に乗り出したつもりなのかもしれないが、
敗北を重ね、
最終的に、応永24年(1417)正月、
持氏方の鎌倉回復・禅秀打倒を許した。
舅禅秀の自害後、
満純は、残党狩りの追っ手を逃れて、行方をくらます。
同年3月には、
本領から遥か遠い、陸奥白河周辺に潜んでいることが発覚し、
公方持氏からも室町幕府からも、軍勢が差し向けられたが、
その手もかいくぐって、なおも逃げた。
閏5月頃、満純に再起のときがくる。
満純は、本領の上野に戻り、与党を集めて蜂起した。
だが、
武蔵周辺まで出張ってきたところで、
討伐軍の上野国人舞木持広と合戦し、
あっけなく生け捕られた。
鎌倉に連行され、竜の口にて斬首。
江ノ島を眼前に望む竜の口は、
今日でこそ、風光明媚で観光客も集う土地であるが、
中世に処刑場であったのは、夙に有名な話。
〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造
』吉川弘文館 2010)
上野国人。上野新田荘領主。
新田氏惣領。
関東管領をつとめた上杉禅秀の娘を娶り、
父祖以来の鎌倉府上層部とのつながりを、さらに強固なものとした。
応永23年(1416)10月、
舅禅秀が、鎌倉公方足利持氏にクーデターを起こす。
岩松満純も、娘婿としてこれに参加し、
公方持氏の追い落としを成功させた。
クーデター成功後は、本国上野に戻り、
持氏方の関東管領上杉憲基勢と戦った。
反クーデター軍の掃討に乗り出したつもりなのかもしれないが、
敗北を重ね、
最終的に、応永24年(1417)正月、
持氏方の鎌倉回復・禅秀打倒を許した。
舅禅秀の自害後、
満純は、残党狩りの追っ手を逃れて、行方をくらます。
同年3月には、
本領から遥か遠い、陸奥白河周辺に潜んでいることが発覚し、
公方持氏からも室町幕府からも、軍勢が差し向けられたが、
その手もかいくぐって、なおも逃げた。
閏5月頃、満純に再起のときがくる。
満純は、本領の上野に戻り、与党を集めて蜂起した。
だが、
武蔵周辺まで出張ってきたところで、
討伐軍の上野国人舞木持広と合戦し、
あっけなく生け捕られた。
鎌倉に連行され、竜の口にて斬首。
江ノ島を眼前に望む竜の口は、
今日でこそ、風光明媚で観光客も集う土地であるが、
中世に処刑場であったのは、夙に有名な話。
〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造
《病死》 《1378年》 《4月》 《17日》 《享年46歳》
関東管領。
宅間上杉氏。
足利直義の寵臣として、草創期の室町幕府で活躍し、
南北朝期の政争の中で、非業の死をとげた、養父重能。
南北朝内乱を巧みに生き抜き、
関東における上杉氏の地位を築き上げた、実父憲顕。
上杉能憲は、
この2人の偉大な父の影響を、存分に受けたであろう。
父憲顕の死後、関東管領の職を継ぎ、
南朝残党の蜂起や、千葉氏と香取社の争いがありながら、
幼い鎌倉公方足利氏満を支えて、巧みに東国を治めている。
と同時に、
自身も、実父憲顕から受け継いだ上杉氏の地位を、
さらに強固なものとした。
永和2年(1376)3月、能憲は病に臥した。
5月8日、重篤に陥り、
弟憲方への家督相続や所領の譲与を遺言した。
翌9日には、
見舞いに訪れた禅僧義堂周信に、
臨終にあたっての心構え等を問うたりしている。
同日、能憲は、
鎌倉公方足利氏満に、関東管領の辞職を願い出た。
氏満は受け付けなかったが、
10日、能憲が再び願い出たところ、
氏満は、
「関東管領職の任免権は、室町幕府にある。
急ぎ幕府にうかがうから、返答が来るまで待つがいい。」
と答えた。
それを聞いた能憲の顔には、わずかに回復の色が表れ、
人々は、
関東管領の重責が、病の原因だったのだろう、
と噂した。
その後、能憲の病はいったん癒えたらしい。
翌6月に再発。
8月、
幕府からの文書が到来し、
能憲に関東管領復職が厳命された。
能憲は一度固辞したが、
義堂周信の説得もあって、復職を受け入れた。
その後も能憲の病は、再発と回復を繰り返していたのだろう。
2年後の永和4年(1378)4月、再発。
11日、再び弟憲方への家督相続の譲与状を認めている。
17日、危篤に陥り、
巳の刻(午前10時頃)、
鎌倉宅間谷の自邸にて、逝去。
46歳。
一度は死期を悟ったあと、
その2年間を、どのような気持ちで過ごしただろうか。
義堂周信は、危篤の報を受けて駆け付けたが、
臨終には間に合わなかった。
その顔は、穏やかに笑っていて、
まるで生きているかのようだったという。
棺は、宅間谷より報恩寺に移され、
翌18日、荼毘、
20日、納骨。
四十九日の法要は、次弟憲春がとりしきったが、
その他の葬儀全般は、三弟憲方がとりしきった。
憲方はまた、
実子を能憲の猶子とし、能憲旧邸を報恩寺の塔頭とするという、
能憲の遺命の遂行者でもあった。
生前、能憲は、
次弟憲春がいるにもかかわらず、
それをとびこえて、三弟憲方を家督継承者に指名している。
しかし、
憲春はそれに容易に従わず、
上杉氏の家督に付随する所領や役職を、保持し続けた。
どうやら、能憲跡の相続をめぐって
憲春・憲方兄弟の間に、対立があったらしい。
故人に指名された相続人は誰か、
相続人であることのアピールとして、葬儀をとりしきるのは誰か、
遺言を無視して、実力で保持し続けるのは誰か。
ドロドロした現代劇と、さして変わらないように思われる。
〔参考〕
『新潟県史 資料編3 中世1 文書編Ⅰ』 (新潟県 1982)
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
関東管領。
宅間上杉氏。
足利直義の寵臣として、草創期の室町幕府で活躍し、
南北朝期の政争の中で、非業の死をとげた、養父重能。
南北朝内乱を巧みに生き抜き、
関東における上杉氏の地位を築き上げた、実父憲顕。
上杉能憲は、
この2人の偉大な父の影響を、存分に受けたであろう。
父憲顕の死後、関東管領の職を継ぎ、
南朝残党の蜂起や、千葉氏と香取社の争いがありながら、
幼い鎌倉公方足利氏満を支えて、巧みに東国を治めている。
と同時に、
自身も、実父憲顕から受け継いだ上杉氏の地位を、
さらに強固なものとした。
永和2年(1376)3月、能憲は病に臥した。
5月8日、重篤に陥り、
弟憲方への家督相続や所領の譲与を遺言した。
翌9日には、
見舞いに訪れた禅僧義堂周信に、
臨終にあたっての心構え等を問うたりしている。
同日、能憲は、
鎌倉公方足利氏満に、関東管領の辞職を願い出た。
氏満は受け付けなかったが、
10日、能憲が再び願い出たところ、
氏満は、
「関東管領職の任免権は、室町幕府にある。
急ぎ幕府にうかがうから、返答が来るまで待つがいい。」
と答えた。
それを聞いた能憲の顔には、わずかに回復の色が表れ、
人々は、
関東管領の重責が、病の原因だったのだろう、
と噂した。
その後、能憲の病はいったん癒えたらしい。
翌6月に再発。
8月、
幕府からの文書が到来し、
能憲に関東管領復職が厳命された。
能憲は一度固辞したが、
義堂周信の説得もあって、復職を受け入れた。
その後も能憲の病は、再発と回復を繰り返していたのだろう。
2年後の永和4年(1378)4月、再発。
11日、再び弟憲方への家督相続の譲与状を認めている。
17日、危篤に陥り、
巳の刻(午前10時頃)、
鎌倉宅間谷の自邸にて、逝去。
46歳。
一度は死期を悟ったあと、
その2年間を、どのような気持ちで過ごしただろうか。
義堂周信は、危篤の報を受けて駆け付けたが、
臨終には間に合わなかった。
その顔は、穏やかに笑っていて、
まるで生きているかのようだったという。
棺は、宅間谷より報恩寺に移され、
翌18日、荼毘、
20日、納骨。
四十九日の法要は、次弟憲春がとりしきったが、
その他の葬儀全般は、三弟憲方がとりしきった。
憲方はまた、
実子を能憲の猶子とし、能憲旧邸を報恩寺の塔頭とするという、
能憲の遺命の遂行者でもあった。
生前、能憲は、
次弟憲春がいるにもかかわらず、
それをとびこえて、三弟憲方を家督継承者に指名している。
しかし、
憲春はそれに容易に従わず、
上杉氏の家督に付随する所領や役職を、保持し続けた。
どうやら、能憲跡の相続をめぐって
憲春・憲方兄弟の間に、対立があったらしい。
故人に指名された相続人は誰か、
相続人であることのアピールとして、葬儀をとりしきるのは誰か、
遺言を無視して、実力で保持し続けるのは誰か。
ドロドロした現代劇と、さして変わらないように思われる。
〔参考〕
『新潟県史 資料編3 中世1 文書編Ⅰ』 (新潟県 1982)
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | ||
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
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| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
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| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
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| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 22歳 | ||
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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