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《自害》 《1423年》 《8月》 《9日》 《享年不明》


関東の大名。

宇都宮氏の庶流武茂氏の出身で、
惣領家満綱の娘婿となり、惣領家を継ぐ。


応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では、
宇都宮持綱は当初静観しつつ、室町幕府との連絡を密にし、
幕府が鎌倉公方足利持氏の支援を決したのち、
それに従って行動を開始した。

この、鎌倉府の上意より室町幕府の上意を優先するという方針が、
持綱の命取りとなる。


乱後、持綱は幕府より、
禅秀の滅亡によって空席となっていた上総守護に推挙された。
しかし、
自分の近臣を守護にしたい鎌倉公方持氏にとっては、
幕府の推挙や持綱の存在は面白くない。
期せずして持綱は、
幕府と公方持氏の対立の渦中に置かれてしまったのである。


応永25年(1418)10月、
幕府との折衝の結果、
公方持氏はいったん、宇都宮持綱の上総守護就任を了承した。
だが、
翌年にかけて、上総では禅秀残党の蜂起が相次ぎ、
持綱の上総守護支配は、思うようには進まなかった。
まもなく、幕府も持綱による上総支配を諦めたらしい。


応永29年(1422)、公方持氏は、
反公方派の大名・国人の弾圧を開始する。
彼らは、幕府にとりいって、公方持氏に反抗していたのであった。
東国の情勢とともに、幕府と鎌倉府の関係も、
一気に緊張の度合いを増した。
6月、鎌倉府軍は常陸国人小栗満重を攻め、
閏10月には、常陸佐竹氏一族の山入与義を誅殺した。
そして、次なる標的に、宇都宮持綱が向けられたのである。

翌応永30年(1423)5月、
北関東の反持氏派の、本格的な討伐に乗り出した。
公方持氏自ら、武蔵、ついで下総古河・結城へ出陣するほどの、
気の入れようである。
窮地に立った宇都宮持綱は、助力をもとめるべく、
京都の幕府のもとに、使者を派遣する。

6月11日、
宇都宮を出発した使者白久但馬入道父子は、
関東平野を避け、会津を経由して、京都を目指した。
途中、南会津で持氏方の軍勢に襲われ、
但馬入道は捕縛され、斬られてしまう。
その子永訴が、父の遺命を継ぎ、
会津・北陸を経て、
7月4日、ようやく京都に到着した。


幕府はすぐさま、対策を議し、
小栗・宇都宮らへの支援を決定して、
使者に返書を持たせた。
7月8日、使者は京都を発つ。
だが、幕府軍の東国下向はなかなか決まらなかった。
“支援”と言っても、お墨付きを与える、といった程度で、
具体的に援軍を送るとか、そういうことはまた別だったらしい。


そうやって幕府がもたもたしている間も、
関東の情勢は時々刻々と変化していく。

6月下旬以来、常陸小栗城を攻めあぐねていた鎌倉府軍であったが、
8月2日、これを陥して小栗満重を滅ぼし、
同日、常陸真壁城も陥して、真壁秀幹を討った。
鎌倉府軍は鎌倉へ帰還せず、そのまま宇都宮持綱討伐に向かう。

大軍を前に利を失った持綱は、宇都宮城を脱する。
北国経由で、幕府の庇護下に逃げ込もうとしたのだろうか、
会津へ向かう街道を進んだらしい。
8月9日、
その道中の下野塩谷で、一族塩谷家綱に裏切られ、自刃。


使者永訴が宇都宮に戻ったかどうかは不明だが、
肝心の幕府軍来援が決定したのは、
持綱自刃の前日、8月8日。
持綱の無念のほどが知れる。



〔参考〕
山家浩樹「上総守護宇都宮持綱」 (『日本歴史』490 1989)
江田郁夫「持氏政権期の宇都宮氏」 (『室町幕府東国支配の研究』 高志書院 2008)
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《病死》 《1449年》 《8月》 《9日》 《享年38歳》


第6代室町幕府将軍足利義教の室。
正親町三条実雅の妹。


三条尹子ははじめ、将軍足利義教の側室として、その寵愛を受けたが、
正室日野宗子の死後、正室となった。
兄実雅も、義教に近侍した。

義教横死後、出家。


宝徳元年(1449)夏頃より、長患いをしており、
8月5日、病のため、洛中を離れて桂川の西岸に移った。
9日早朝、危篤に陥り、逝去。
遺骸は、そのまま嵯峨二尊院に運ばれ、
12日朝、同院において火葬、昼、納骨。
諸大名をはじめ、多くの人々が弔問に訪れた。


さて、将軍家の人間が逝去すれば、
当然ながら、将軍本人の服喪や触穢が問題となる。
その、将軍がどの程度喪に服すかという問題は、
死亡者の格付けによって決まってくる。

尹子は当初、
前将軍義教の正室ということで、
将軍義成(のちの義政)の「嫡母」とされたが、
「養母」とはされなかった。
その後、先例を調査した結果、
「嫡母」ではなく、「継母」格ということで落着した。
これによって、
将軍義成は、軽い喪にも服さなくてよい、ということになった。

将軍の服喪ともなれば、相応の費用や手間がかかる。
初めから結論ありきのような格付けであった。
病身の尹子が郊外に移されたのも、
単に療養というだけでなく、
洛中の触穢を避けて、諸々の面倒を省く、
という目的があったのかもしれない。

また、
当時、将軍義成の実母として勢いを増し、もと正室の尹子を圧倒していた、
側室裏松重子の存在もうかがわれよう。


死そのものは、ごく個人的な自然現象であるが、
死はその直後から、死者の望むと望まざるとにかかわらず、
生者によって、政治的・社会的なものとして都合よく利用される。



〔参考〕
『増補史料大成39 康富記3(自文安6年至宝徳3年)』 (臨川書店 1965)
《誅殺》 《1417年》 《閏5月》 《13日》 《享年不明》


上野国人。上野新田荘領主。
新田氏惣領。


関東管領をつとめた上杉禅秀の娘を娶り、
父祖以来の鎌倉府上層部とのつながりを、さらに強固なものとした。

応永23年(1416)10月、
禅秀が、鎌倉公方足利持氏にクーデターを起こす。
岩松満純も、娘婿としてこれに参加し、
公方持氏の追い落としを成功させた。

クーデター成功後は、本国上野に戻り、
持氏方の関東管領上杉憲基勢と戦った。
反クーデター軍の掃討に乗り出したつもりなのかもしれないが、
敗北を重ね、
最終的に、応永24年(1417)正月、
持氏方の鎌倉回復・禅秀打倒を許した。


禅秀の自害後、
満純は、残党狩りの追っ手を逃れて、行方をくらます。
同年3月には、
本領から遥か遠い、陸奥白河周辺に潜んでいることが発覚し、
公方持氏からも室町幕府からも、軍勢が差し向けられたが、
その手もかいくぐって、なおも逃げた。


閏5月頃、満純に再起のときがくる。
満純は、本領の上野に戻り、与党を集めて蜂起した。
だが、
武蔵周辺まで出張ってきたところで、
討伐軍の上野国人舞木持広と合戦し、
あっけなく生け捕られた。
鎌倉に連行され、竜の口にて斬首。


江ノ島を眼前に望む竜の口は、
今日でこそ、風光明媚で観光客も集う土地であるが、
中世に処刑場であったのは、夙に有名な話。



〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010)
《病死》 《1378年》 《4月》 《17日》 《享年46歳》


関東管領。
宅間上杉氏。

足利直義の寵臣として、草創期の室町幕府で活躍し、
南北朝期の政争の中で、非業の死をとげた、養父重能
南北朝内乱を巧みに生き抜き、
関東における上杉氏の地位を築き上げた、実父憲顕
上杉能憲は、
この2人の偉大な父の影響を、存分に受けたであろう。
憲顕の死後、関東管領の職を継ぎ、
南朝残党の蜂起や、千葉氏と香取社の争いがありながら、
幼い鎌倉公方足利氏満を支えて、巧みに東国を治めている。
と同時に、
自身も、実父憲顕から受け継いだ上杉氏の地位を、
さらに強固なものとした。


永和2年(1376)3月、能憲は病に臥した。
5月8日、重篤に陥り、
弟憲方への家督相続や所領の譲与を遺言した。
翌9日には、
見舞いに訪れた禅僧義堂周信に、
臨終にあたっての心構え等を問うたりしている。

同日、能憲は、
鎌倉公方足利氏満に、関東管領の辞職を願い出た。
氏満は受け付けなかったが、
10日、能憲が再び願い出たところ、
氏満は、
「関東管領職の任免権は、室町幕府にある。
 急ぎ幕府にうかがうから、返答が来るまで待つがいい。」
と答えた。
それを聞いた能憲の顔には、わずかに回復の色が表れ、
人々は、
関東管領の重責が、病の原因だったのだろう、
と噂した。

その後、能憲の病はいったん癒えたらしい。
翌6月に再発。
8月、
幕府からの文書が到来し、
能憲に関東管領復職が厳命された。
能憲は一度固辞したが、
義堂周信の説得もあって、復職を受け入れた。


その後も能憲の病は、再発と回復を繰り返していたのだろう。
2年後の永和4年(1378)4月、再発。
11日、再び弟憲方への家督相続の譲与状を認めている。
17日、危篤に陥り、
巳の刻(午前10時頃)、
鎌倉宅間谷の自邸にて、逝去。
46歳。
一度は死期を悟ったあと、
その2年間を、どのような気持ちで過ごしただろうか。

義堂周信は、危篤の報を受けて駆け付けたが、
臨終には間に合わなかった。
その顔は、穏やかに笑っていて、
まるで生きているかのようだったという。
棺は、宅間谷より報恩寺に移され、
翌18日、荼毘、
20日、納骨。


四十九日の法要は、次弟憲春がとりしきったが、
その他の葬儀全般は、三弟憲方がとりしきった。
憲方はまた、
実子を能憲の猶子とし、能憲旧邸を報恩寺の塔頭とするという、
能憲の遺命の遂行者でもあった。

生前、能憲は、
次弟憲春がいるにもかかわらず、
それをとびこえて、三弟憲方を家督継承者に指名している。
しかし、
憲春はそれに容易に従わず、
上杉氏の家督に付随する所領や役職を、保持し続けた。
どうやら、能憲跡の相続をめぐって
憲春・憲方兄弟の間に、対立があったらしい。


故人に指名された相続人は誰か、
相続人であることのアピールとして、葬儀をとりしきるのは誰か、
遺言を無視して、実力で保持し続けるのは誰か。
ドロドロした現代劇と、さして変わらないように思われる。



〔参考〕
『新潟県史 資料編3 中世1 文書編Ⅰ』 (新潟県 1982)
蔭木英雄『訓注空華日用工夫略集 中世禅僧の生活と文学』 (思文閣出版 1982)
《自害》 《1379年》 《3月》 《7日》 《享年不明》


関東管領。
山内上杉氏。


永和5年(1379)3月7日、
関東管領の職にあった上杉憲春は、
突如自害した。
鎌倉山内の自邸の持仏堂とも、
鎌倉宅間の報恩寺ともいわれている。


永和5年(1379)、鎌倉公方足利氏満は、
京都での政変に乗じて上洛し、将軍足利義満にとってかわろう、
と、野望を抱いていた。
その主人の企みを聞いた憲春は仰天し、
再三思いとどまるよう諫言したが、聞き入れられることはなかった。
鎌倉山内の自邸に戻った憲春は、妻を呼び、
「思い立つことがあるので、尼になってくれないか」と頼んだ。
妻は驚いたが、「賢者第一の人」である夫の言うことであり、
何か訳があるのだろうと、「安き御望み」と了承した。
髪を切り、法衣の仕立てをする妻を見て、
憲春は、
「すまないことを頼んでしまったが、後々わかってほしい」
と、笑みをこぼして言った。
そして、
主人氏満への諫状を認め、持仏堂に籠って切腹した。

と、
軍記物『鎌倉大草紙』では、最期の夫婦の交感を描いている。


しかし、
自殺の原因は、主人への諫死だけではなかったらしい。


東国における上杉氏の地位を築き上げた、偉大な父憲顕ののち、
その地位は憲春の兄能憲が継承し、さらに強固なものとした。
病に臥せた能憲は、
自分の跡を、次弟憲春を飛び越えて、三弟憲方に継がせようとし、
憲春の保持する上野守護職も、憲方に渡すよう言い置いて、
永和4年(1378)、世を去った。
だが、憲春は、
この兄の遺言を無視して、上野守護であり続けたばかりか、
能憲の後、関東管領にも就任し、所領も保持し続けた。
これには、公方氏満の意向も働いたかもしれないが、
能憲と弟憲方に対して、憲春も含むところがあったに違いない。
とはいえ、
上杉氏の家督は、あくまで弟憲方であり、
憲春の立場は、非常に危ういものだった。


要するに、憲春は、
諫言を聞き入れない公方氏満、
公方氏満の制止を求める室町幕府・将軍足利義満、
上杉氏の正規の家督継承者である、有能な弟憲方、等々、
様々な板挟みのジレンマ・ストレスに苛まれていたのである。
そうして「欝憤」「狂乱」(『迎陽記』)の状態に陥って、
思い余ったものだろう。

それにしても、唐突さがぬぐえない。
なにやら“自殺”という現代的な響きのほうが、
しっくりくる自死である。



〔参考〕
岩崎学「関東管領上杉憲春の自殺」 (『小田原地方史研究』16 1988)
小国浩寿「鎌倉府北関東支配の形成」 (『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館 2001)
《自害》 《1382年》 《4月》 《13日》 《享年不明》


関東の大名。
下野守護。

小山氏は、俵藤太藤原秀郷の末裔で、
源頼朝の時代以来の、関東の雄族である。


康暦2年(1380)5月16日、
下野裳原において、
小山義政宇都宮基綱の軍勢が衝突した。
小山方は、宇都宮方の3倍近い200名以上の犠牲者を出しながら、
当主基綱を討ち取ることに成功した。
両者は、所領や下野の守護支配をめぐって、
以前から対立していたらしい。

これに怒った鎌倉公方足利氏満は、
すぐさま東国中に小山義政討伐の命を発し、
自身も武蔵府中、村岡、ついで下野足利に出陣した。

同年8月には、下野小山周辺で戦闘が始まり、
同月末、討伐軍は義政の本拠に迫った。
9月19日、公方氏満のもとに、義政の使者が訪れ、
降服を申し出た。
義政、最初の降服。


しかし、
義政はなお、鎌倉府に反抗的だったらしく、
翌永徳元年(1381)、公方氏満は再度義政討伐に乗り出す。

6月中旬、討伐軍は下野本沢河原で、巴波川の渡河点を突破、
8月には、義政の籠る小山鷲城に迫った。
だが、討伐軍は堅固な鷲城を攻めあぐね、
11月16日に至って、ようやく外郭を陥した。
12月8日、耐えきれなくなった義政は、ついに降服。
鷲城を明け渡して、小山祇園城に退き、
家督を子息若犬丸に譲り、出家した。
義政、2度目の降服。


ところが、なおも義政は諦めない。
翌永徳2年(1382)3月22日、
父子ともに祇園城を自焼、脱出し、
下野糟尾山に立て籠もった。
義政、3度目の反抗。

これまで、義政の命ばかりは助けてきた公方氏満であったが、
「願わくば目の当りに義政が逆頸を見ん」(『頼印僧正行状絵詞』)
と、義政を討ち取る以外に決着はないと、すでに考えていたらしく、
この蜂起を、むしろ好機と喜んでいる。

3月29日、討伐軍は鎌倉を発し、
4月5日より、周辺諸城を次々と陥していった。
4月12日、最後の砦の櫃沢城も落ち、
義政父子は夜陰に乗じて脱出した。
4月13日巳の刻(午前10時頃)、
山中で追っ手に囲まれ、進退窮まった義政は、
ついに自害した。

子の若犬丸は、戦場を脱出し、
この後も、父と同じく反鎌倉府闘争を展開していく。


義政を執拗に闘争に駆り立てたものは、何だったのか。
また、
公方氏満を執拗に討滅に駆り立てたものは、何だったのか。
当の本人たちにしかわからない、
と片付けたのでは、あまりにつまらない、
壮絶な史実である。



〔参考〕
『小山市史 史料編・中世』 (小山市 1980)
『群馬県史 資料編6 中世2 (編年史料1)』 (群馬県 1984)
佐久間弘行「小山義政の乱と鷲城・祇園城」
  (橋本澄朗・千田孝明編『知られざる下野の中世』随想舎 2005)
《自害》 《1439年》 《2月》 《10日》 《享年42歳》


第4代鎌倉公方。


応永16年(1409)9月、
父満兼の死をうけて、足利持氏は鎌倉公方の座についた。
このとき12歳。


応永23年(1416)10月には、
重臣上杉禅秀・叔父足利満隆の叛乱に遭い、
命からがら鎌倉を脱出した。
3ヶ月後、室町幕府の助力を得て、ようやくこれを鎮めたが、
この経験がよほど応えたのか、
以後、危険因子の徹底弾圧にのりだしていく。
岩松満純、武田信満、榛谷重氏、小栗満重、山入与義、
宇都宮持綱、桃井宣義、佐々木基清、大掾満幹等々、
持氏に滅ぼされた関東の大名・国人等は数知れない。
こうした強硬な姿勢は、室町幕府の不信を招くこととなる。

幕府は、持氏の独断専行を抑止しようと、あれこれ介入し、
持氏も、そうした幕府のやり方に対して、強い態度で臨んだため、
両者の関係は、険悪から対立へとかわっていった。
関東管領上杉憲実の奔走や、穏健派の幕閣の制止によって、
持氏と幕府の全面対決は、辛うじて回避されていたが、
応永30年(1423)頃以降、
両者は、常に一触即発の状態であった、といっても過言ではない。
特に、正長2年(1429)に将軍となった足利義教と、持氏は、
互いに反目しあい、犬猿の仲であった。

永享6年(1434)3月18日、持氏は、
墨に血を混ぜて、「呪詛の怨敵を未兆に攘う」と認めた願文を、
鎌倉鶴岡八幡宮に奉納した。
「呪詛の怨敵」とは、将軍義教のことか。
人を呪わば穴二つ。

そして、持氏にとっては、
幕府との橋渡しをし、
たびたび持氏の暴走を諫止する上杉憲実の存在が、
徐々に疎ましくなってくる。


永享10年(1438)8月、
身の危険を感じた上杉憲実は、鎌倉を退き、分国上野に籠る。
持氏はすぐさま、憲実追討の兵を差し向け、
自身も武蔵府中まで軍を進めた。
しかし、
憲実の隠退を合図にしていたかのように、
幕府軍および奥州の幕府方の勢力が、関東へ押し寄せた。
8月28日には、朝廷より持氏追討の綸旨も出されている。

9月10日、箱根・足柄で両軍の戦闘が始まり、
箱根では持氏方が優勢であったが、
幕府軍は足柄峠を突破し、
9月27日、小田原へなだれ込んだ。


以下、軍記物『鎌倉大草紙』の記述に従って、
この永享の乱を見てみたい。

10月に入ると、
戦況の不利が、持氏方を動揺させる。
鎌倉留守居役の三浦時高が、鎌倉を放棄し、
千葉胤直も、持氏の陣を離れた。

そうして、
大した戦闘もないまま、持氏方はぼろぼろと崩れ、
11月2日、 持氏は、相模葛原にて降服。
ただちに、鎌倉浄智寺、ついで永安寺、
そして金沢称名寺に幽閉され、剃髪した。
鎌倉にて、持氏の寵臣たちの処断が済んだのち、
持氏は再び永安寺に戻された。

上杉憲実は、旧主持氏の助命を幕府に訴えたが、
持氏を目の敵にしていた将軍足利義教は、
憲実に、持氏の早急な処罰を厳命する。

年明けて、永享11年(1439)2月10日、
憲実方の上杉持朝・千葉胤直は、手勢を率い、
永安寺を囲んで、持氏に自害を迫った。
寄せ手と持氏近習たちの戦闘が起こる中、
自害。
42歳。

暴走の果てに、無謀な戦をしかけて、
自業自得のような気がしなくもないが、
持氏はこののち、京都において怨霊と化す。


そして憲実は、
君臣の道に背いて、主持氏を討ったことを、
激しく悔いたという。



〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
《病死》 《1428年》 《正月》 《18日》 《享年43歳》


第4代室町幕府将軍。

至徳3年(1386)2月12日生まれ。
父義満の嫡子として、足利義持は、
応永元年(1394)12月17日、将軍となるも、
父の権威は未だ高く、
また父の寵愛を受ける弟義嗣の存在もあって、
その地位は不安定であった。

応永15年(1408)5月の義満没後、
ようやく権力の地歩を固めた。

その治世には、
後南朝の後亀山法皇の潜幸や、
飛騨国司姉小路氏・伊勢国司北畠氏らの叛乱、
義嗣の謀叛、
鎌倉公方足利持氏との対立等、
いろいろあったが、
細川満元・畠山満家ら幕閣にも恵まれ、
よくこれを収めた。

応永30年(1423)3月18日、
将軍職を嫡子義量に譲り、出家。
義量の早世後も、その後嗣を決めぬまま、
「室町殿」として君臨した。


応永35年(1428)正月、
義持は、三が日の予定を無事にすませた。
例年どおりの正月のはずであった。

正月7日、風呂場で尻のできものを掻き破ったためか、
義持は熱を出す。
9日、医師に診せ、大事ないと判断されたが、
傷跡は大きく腫れ上がっていたらしい。
10日、臣下に謁する予定であったが、
熱がひどく、延期した。
11日、評定始めの儀式には、無理をおして出席したが、
他人に手をひかれて登場し、
ほんの一時、顔を出したのみであった。
12日以降の予定も、延期したり、
また座ることもままならず、
寝たまま、形ばかりで済ませたり、という状況であった。

15日には、傷が腐りかけていたらしい。
16日、容体が急変し、
17日、いよいよ危うくなった。
管領畠山満家以下の幕閣が、
義持の護持僧で政治顧問でもあった三宝院満済のもとに集まり、
対策を講じた。
治療や祈祷のことなども議題に上ったが、
何にもまして最重要案件とされたのは、
未定のまま放置されていた、後継者のことであった。

義持の意向を確認する役となった満済が、御所へ赴くと、
義持は近習らを集めて、酒を与えているところだった。
別れの盃、末期の酒、といったところだろうか。
人払いしたのち、満済が意向をうかがうと、
義持は次のように語った。

  もし仮に実子があったとしても、後嗣を定めることはしない。
  実際には子もいないから、
  ともかく皆で話し合って、うまく取り計らえ。
  兄弟がいるから、そのうちから適性をもって決めればよい。
  弟4人からくじ引きで決めるのもよいが、
  自分が生きているうちは、決してくじを開いてはならない。・・・

義持が後継者について、
「たとえ指名したとしても、幕閣がその人を支持しないのであれば、
 なんら意味がない」(『建内記』)
と、語ったということは、
室町幕府論の中では、つとに有名な話である。

結局、
その日のうちに満済がくじを作成し、
山名時煕が封をして、
畠山満家が深夜、石清水八幡宮の神前でそれを引き、
義持没後に開封することとなった。

そして、その日(17日)の酉半刻頃(夜6時頃)、
義持は危篤に陥る。
言葉を発することも聞き取ることもできず、
人々の顔を見ても判らないほどの重態となり、
人々は咽び泣いた。
公家・武家・僧俗みな御所の辺りに群れ集まり、
京都市中は騒然とした状況となった。

病状は一夜もち耐えたものの、
翌18日巳半刻(午前10時頃)、義持はついに息を引き取る。
禅僧が沐浴を済ませ、床上に安置して、
人々が焼香した。
23日、荼毘。


死の当日、
管領畠山満家がくじを開き、
後継者は、青蓮院門跡の義円と決まった。
のちの6代将軍足利義教である。



〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(上)』 (続群書類従完成会 1928)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008)
桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』 (講談社 2001)
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