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死に様データベース
《自害》 《1444年》 《閏6月》 《20日》 《享年不明》


文安元年(1444)閏6月19日、
備中守護細川氏久の家臣葉室某が、
能登守護畠山義忠の家臣伊葉某に殺害されるという事件がおきた。

怒った細川側は、伊葉相応の人物の身柄の引渡しを要求。
応じない畠山側に対して、
細川家人らは、畠山家人宅に押し寄せ、
夜、京都の中御門京極辺で喧嘩に発展した。

管領畠山持国は、
騒乱の張本人伊葉本人の切腹をもって、事態を収めることとし、
細川側も納得して、退散。

翌20日、
伊葉切腹。


スピード解決。



〔参考〕
『増補史料大成 38 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)』(講談社 2006年)
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《戦死》 《1380年》 《5月》 《16日》 《享年31歳》


北関東の雄族宇都宮氏の当主。


父氏綱は、将軍足利尊氏に重用されて、
越後・上野守護を務めたが、
のち、鎌倉公方足利基氏に叛して両職を罷免され、
本領下野宇都宮に逼塞した。

だが、
この本領下野国内では、それなりの勢力を保っており、
所領を接する守護小山義政との競合は、避けえなかった。


康暦2年(1380)、
宇都宮基綱小山義政は、ついに武力衝突するに至る。
5月16日、
下野裳原にて、両軍は激突。
相当な激戦であったらしく、
小山方では、
一族の大内入道父子、
家臣の幸嶋・志筑・秦内氏ら、200余人が討死。
一方の宇都宮方では、
戦死者80余人と数の上では少なかったが、
その中には、当主基綱が含まれていた。
その他、
有力家臣の芳賀・岡本・船生氏らが討死。

この事態は、京都でも、
「以てのほかの大儀なり。」(『迎陽記』)
と受け止められた。


辛くも勝利を収めた小山義政であったが、
これを私戦と見て怒った鎌倉公方足利氏満は、
6月1日、
東国中に義政追討を命令。
ここに、17年続く小山氏の乱が始まる。



〔参考〕
杉山一弥「小山義政の乱にみる室町幕府と鎌倉府」 (『栃木県立文書館研究紀要』14 2010年)
江田郁夫編『下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』 (戎光祥出版 2011年)
《病死》 《1443年》 《7月》 《21日》 《享年10歳》


第7代室町幕府将軍。


足利義勝は、
嘉吉元年(1441)6月の父義教の横死により、
管領細川持之らに擁されて、8歳で将軍となった。


嘉吉3年(1443)7月12日、
義勝、赤痢発病。
16日には、食事のできぬほどに悪化したが、
翌17日、医師和気茂成の献じた秘薬によって、やや回復。

医師茂成の見立てによれば、
腹の痢病自体は治まりつつあるが、
「邪気」がひどく、回復を妨げているという。
その「邪気」の正体というのが、
義教によって殺された人々の怨霊であり、
一色義貫や足利持氏、赤松満祐らの怨霊が、義教から7代後までとり殺す、
ということであった。

19日は、容態は比較的安定していたが、
20日、危篤に陥り、下血。
21日明け方、没。
わずか10歳。
雷が激しく鳴り、雨がひどく降る日であったという。


23日、
遺骸は足利家の菩提寺等持院に移され、
29日晩、荼毘。
称号は慶雲院、道号栄山、法名道春。


利発な性格であり、将来を嘱望されていただけに、
みな悲歎に暮れた。
烏丸資任が養育していた弟三春(のちの義政)が、
早々に後継者に定められた。


この後、将軍邸や大名家、寺社で奇怪なことが相次ぐ。
石清水八幡宮の大木が、風もないのに倒れた。
山名持豊の厩の馬がものを言った。
京極持清邸の畳の上に蔬が生えた。
常在光院に一色義貫の亡霊が現れた。
管領畠山持国の厩の馬がものを言い、烏に食いついた。
特に、将軍邸には、
身長7尺ばかり(約210cm)の女房や大入道、人食い妖怪が徘徊し、
女中も番衆も、とても暮らしておれず、
別の地に新たに御所を造営することになった。


頻発する火事や、慢性的な飢饉、悪党の跋扈等、
洛中には終末感が漂っている。



〔参考〕
『続群書類従 補遺 4 看聞御記 下』 (続群書類従完成会 1930年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
《誅殺》 《1441年》 《6月》 《24日》 《享年48歳》


第6代室町幕府将軍。


3代将軍義満の庶子として、はじめ僧籍に入れられたが、
後継者を決めぬまま室町殿足利義持が世を去った後、
神前でのくじ引きによって決められた、希代の将軍である。

その自負、あるいは負い目からか、
政治へ意欲的に取り組んだが、
徐々に、気に食わぬ者は罰するという、「万人恐怖」の政治へ傾いていった。
公家・武家・僧を問わず、
この将軍足利義教によって、
討たれた者、所領を召し上げられた者、放逐された者、籠居を余儀なくされた者は、
数知れない。


嘉吉元年(1441)6月24日、
雨の降るこの日の未の斜め(午後3時頃)、
義教は、播磨・美作・備前守護赤松満祐の子教康に、
結城合戦の戦勝祝いとして招かれ、その屋形に赴いた。
管領細川持之をはじめ、諸大名がこれに相伴した。


前日の23日
義教の腰刀が鞘走った。
他のものに取り替えさせたが、
またこれも鞘走った。
このことに、義教はたいそう腹を立てたというが、
これが不吉の兆しであったらしい。


一献ニ献と盃を重ね、猿楽が始まろうという時分、
にわかに屋敷内に騒ぎが起こった。
義教が、
「何事ぞ」
と周囲に尋ねると、
そばにいた正親町三条実雅が、
「雷鳴でしょうか」
と答えた。
その途端、
義教の背後の障子が、がらりと開いて、
武装した武士が数十人飛び出し、
たちまちに義教を討ち取ってしまった。
公家の三条実雅は、
引き出物として御前にあった金覆輪の太刀を引き抜き、防戦したが、
転倒して斬り伏せられた。
山名煕貴は、防戦のすえ、討死。
細川持春も、腰刀で防戦したが、
片腕を斬り落とされ、赤松邸を脱出。
同じく抜刀、防戦し、負傷した大内持世・京極高数・遠山某は、
帰邸したところで、絶命。
細川持之・持常・一色教親・赤松貞村らは、闘わずして逃走。
そのほか、人々は右往左往して逃げ惑い、
義教の御前で殉じる者はいなかったという。


「将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かざることなり。」(『看聞日記』)


「次討たれるのは自分だ」という危惧から、この所業に及んだらしい赤松一族は、
屋敷での一戦を覚悟したが、
諸大名のうちで、これを討とうというものはなかった。
それゆえ、
彼らは自邸に火を放ち、
義教の首を抱えて、悠々と洛中を抜け、
本国播磨へ下っていった。

義教の死骸は、翌25日、焼け跡より探し出され、
等持院へ移されたのち、
7月1日、荼毘。
首は、摂津中嶋に置き捨てられたものを、拾ってきたらしい。


6月26日、
義教に嫌われて罰せられていた人々の赦免があり、
ようやく幕府軍が、赤松討伐の途につくのは、
7月11日のこと。



〔参考〕
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
『史料纂集 77 師郷記 3』 (続群書類従完成会 1986年)
『図書寮叢刊 看聞日記 6』 (宮内庁書陵部 2012年)
今谷明『籤引き将軍足利義教』 (講談社 2003年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
《誅殺》 《1418年》 《正月》 《24日》 《享年25歳》



室町幕府3代将軍足利義満の次男、
4代将軍足利義持の弟。


足利義嗣は、
幼くして、梶井門跡に入室させられたが、
その後、還俗。
父義満の寵愛を受けて、異例の速さで昇進し、
元服の儀式も、親王に準ずるやり方で執り行われるほどであった。
それゆえ、一時は、
義持にかわって、家督・将軍候補に目されている。

応永15年(1408)、父義満の死により、
大きな後ろ盾を失うことになるが、
とはいえ、
その後も順次昇進しているし、
兄の将軍義持も、正月に義嗣の許を訪れたりしているから、
兄弟仲がそこまで険悪であったわけではない。


応永23年(1416)10月2日、鎌倉において、
前関東管領上杉禅秀が、鎌倉公方足利持氏に対して叛旗を翻した。
その報は15日夕刻になって、ようやく京都に入った。
幕府は、
上杉禅秀を支援するか、足利持氏を助けるか、はっきり示さぬまま、
ただ傍観して、続報を受け続けた。

やっと幕府の方針が持氏支援に決まった、29日の深夜、
突如として、
将軍の弟義嗣が、出奔。

対岸の火事をただ見守っていた幕府にとって、
急に足元に火が付いたのである。
一時は将軍候補に目された義嗣の出奔であって、
その敵対は、将軍義持の地位を脅かしかねない。
京中は大変な騒動になって、義嗣を探し回った。

翌30日、
ようやく栂尾高山寺(高雄神護寺とも)に遁世しているところを見つけたが、
すでに髻を切った後であった。

なぜ義嗣が、にわかに行方をくらましたのかは、わからない。
冷遇されていることが不満だったのか、
禅秀の叛乱とは何か関係があるのか。
時節が時節であり、
人々はみな、義嗣の“野心”を噂した。


11月2日、
義持の使者として管領細川満元・近習富樫満成が、
帰宅するよう諌めたが、聞き入れず、
かえって、兄への恨み言をつらつらと述べ、
「出家は本望だ」(『看聞日記』)とまで言った。
神護寺僧は怯えて、剃髪の役を務めたがらなかった。

5日、
義嗣は、仁和寺興徳庵に移される。
警固役の侍所一色義範には、
「もし野心の人が義嗣の身柄を奪い去ろうとしたら、
 義嗣を切腹させよ」(『看聞日記』)
と命が下った。
遠い山中の寺から、
幕府の監視下に入れられたのである。

そして、
義嗣に与して、ともに出家した山科教高らの尋問の結果、
彼等の謀叛の企てが露顕。


しかし、
そうまで事態がはっきりしていながら、
幕府首脳部では、義嗣処分の方法がなかなか決まらない。
「もし今後の尋問で、
 幕府首脳部にも謀叛の加担者がいることが明らかになってしまったら、
 どうするのだ。」
「謀叛の意志が明らかになった以上、
 さっさと切腹していただくしかない。」
「いや、あまり軽々しく処分を下すわけにはいかない。」(『看聞日記』)
根本的な解決というものとは、程遠い議論が交わされている。
この時代の京都の平和は、
こういう“うやむや”“なあなあ”“事なかれ主義”によって成り立っていたのである。


さらに、義嗣近臣の尋問が進むにつれ、
謀叛の加担者として、新たに、
斯波義教細川満元・赤松義則の名が挙げられた。
いずれも幕府首脳部の面々であり、
危惧したとおりの結果となった。
以降、事件をこれ以上の拡大させない方向で、解決が図られていく。


12月16日、
関東の上杉禅秀の叛乱も、義嗣が裏で糸を引いていたということになり、
義嗣を幽閉していた仁和寺臨光院を、牢屋のように作り変えた。
義嗣を奪い去ろうと、格子を切って中に侵入する者もいたが、
見張りに見付かって逃走したという。
「次このようなことがあれば、義嗣を殺害せよ」(『看聞日記』)
との命令が、再び義持から下っている。


翌応永24年(1417)正月21日、
足利持氏方勝利の報がもたらされ、
京都も戦勝ムードに包まれたが、
義嗣は幽閉の身のまま、むなしく時を過ごしたらしい。


同年12月、
嫡男義量の元服を済ませた将軍義持は、
そろそろこの厄介な弟の問題に決着をつけようとしたのだろうか。

翌応永25年(1418)正月24日夜、
義持は、近習富樫満成に命じて、義嗣を討たせた。
大義名分のため、
 義嗣が牢に火を放って、逃亡しようとしたから討った、
という体にしたらしい。
富樫の家臣で加賀守護代の山川兄弟が、
義嗣を討ち、その頸を取ったという。
享年25歳。
幽閉されて実に、1年以上。

 さためなき浮世のならひのうたてさは(『椿葉記』)


なお、
義嗣には、6歳と2歳の息子がおり、
母と乳母が抱えて逃げようとしたが、
討っ手に奪い取られ、政所執事伊勢貞経のもとに預けられた。
死罪は免れ、
6歳の子は泉涌寺の喝食にされることとなったが、
のち、「謀反人の子息だから」(『看聞日記』)という理由で、
後小松上皇の命により、寺を退出させられた。


また、
事件はこの後も長く尾を引き、
義嗣荷担を理由に、
山名時煕は出仕停止、
土岐持頼は伊勢守護罷免、
富樫満成は、没落する。
さらに、
将軍義量の急死も、義嗣の怨霊のしわざと囁かれたのである。


永享元年(1429)、
従一位贈位。


〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1928年)
桜井英治『室町人の精神』 (講談社 2001年)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)』 (角川学芸出版 2011年)
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