忍者ブログ
死に様データベース
《病死》 《1095年》 《4月》 《28日》 《享年50代》


中納言藤原経季の娘。
宇多源氏の源政長の妻となった。

嘉保2年(1095)4月28日、卒。
「俄にもって逝去」(『中右記』)というから、急死だったようである。
夫政長は58歳であったから、も同じほどであったろうか。


5月4日、
伊勢神宮遷宮上卿であった治部卿藤原通俊は、
逝去した政長の妻が、自身の従姉妹にあたることから、
喪に服すべきか否かを関白藤原師通に問い合わせた。
通俊は他家の養子となっていることから、服喪の必要もないかと思われたが、
大殿藤原師実(関白師通の父)の判断で、
身内に不幸のあった通俊は、遷宮上卿に不適格として更迭され、
替わって権中納言大江匡房が同職に任じられた。

なお、を亡くした政長は、半年後にも続けて亡くしている。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
PR
《病死》 《1095年》 《10月》 《25日》 《享年93歳》


大江山の酒呑童子退治や土蜘蛛退治で名高い、源頼光の娘。
宇多源氏の源資通の妻となり、政長らを産んだ。
『尊卑分脈』には、資通の母が頼光の娘とあるが、誤りか。


嘉保2年(1095)10月25日の暁、93歳で卒去。

息子の備中守政長は、半年前にを亡くしたばかりだった。
半年のうちにを亡くした男の心境は、如何ばかりか。
なお、その政長も、1年数ヶ月後に、
父資通や養父経長のように公卿には昇れないまま、卒去している。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 尊卑分脈 3』(吉川弘文館、1961年)
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
《病死》 《1228年》 《2月》 《4日》 《享年91歳》


八田宗綱の娘、宇都宮朝綱の妹。あるいは、宇都宮朝綱の娘とも。
小山政光の妻。
尼となる以前は、小山政光の後家、小山朝光の母などと呼ばれ、
女房名や出家後の法名などは明らかでない。


寒河尼は、
はじめは内裏で女房づとめをしていたともされるが、
10代後半のころ、在京のまま、源義朝の息子頼朝の乳母(養育係)となった。
その後、実家と同じく下野の豪族である小山政光の妻となった。
政光の息子、小山朝政・長沼宗政・結城朝光の三兄弟はいずれも、
寒河尼の所生であったとされる。


養君の頼朝が関東で挙兵すると、
治承4年(1180)10月、
寒河尼は実子の朝光を連れて、陣中の頼朝を訪ね、朝光を託した。
朝光はこのとき頼朝のもとで元服し、のち頼朝の近習として活躍、結城家を興すこととなる。
この逸話が象徴するように、
寒河尼は、夫政光とその子朝政・宗政・朝光兄弟を頼朝方につかせることに成功し、
頼朝の勝利に貢献したのである。

文治3年(1187)12月には、
「女性たりといえども、大功有るにより」(『吾妻鏡』)
頼朝より下野国寒河郡と網戸郷(いずれも現・栃木県小山市内)を与えられた。
夫政光の没後に出家したかと思われ、
所領にちなんで「寒河尼」あるいは「網戸尼」と呼ばれた。

その後も、頼朝と北条政子に特に重んじられたという。
鎌倉に暮らしたのであろうか。


安貞2年(1228)2月4日、卒去。91歳。
なお、子どもも長命で、
実子説のある宗政は、仁治元年(1240)没、
愛息朝光が死んだのは、建長6年(1254)であり、
長命のわりに、幸い子どもの死に目に遭っていない。


現在、栃木県の小山市役所裏の思川畔には、
小山政光と寒河尼の夫婦の像が、川面を向いて立っている。
小山一族の繁栄と小山の街の発展の、礎を築いた存在として称えられたのだろう。
中世武士の夫婦像は、おそらく全国でも珍しい。





〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 後篇』(吉川弘文館、1933年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、2005年)
松本一夫『小山氏の盛衰―下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版、2015年)
江田郁夫「小山政光室・寒河尼の出自について」(『栃木県立博物館研究紀要―人文―』32、2015年)
《病死》 《1256年》 《6月》 《27日》 《享年不明》


鎌倉幕府連署北条重時の娘で、
幕府評定衆宇都宮泰綱の息子経綱の妻となった。
名は伝わらない。


建長8年(1256)頃のことか、
宇都宮経綱の妻は流産をした。
その後、産後の衰弱を病魔が襲ったのか、
「赤痢病」に罹ったという。
6月27日、卒去。享年は未詳。


宇都宮経綱にはその後、
その亡妻の妹が嫁したという。
日本中世のソロレート婚(妻の死別後にその姉妹と婚姻すること)の一例か。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 33 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
菊池紳一監修・北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)
《病死》 《1497年》 《6月》 《11日》 《享年22歳》


京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。


寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。

恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。

明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)

13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)


東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。

安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。



〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
1  2  3  4  5  6  7 
ブログ内検索
死因
病死

 :病気やその他体調の変化による死去。
戦死

 :戦場での戦闘による落命。
誅殺

 :処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害

 :切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死

 :事故・災害等による不慮の死。
不詳

 :謎の死。
本サイトについて
 本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
 当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
 内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[08/26 記主]
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]