死に様データベース
《病死》 《1441年》 《某月》 《某日》 《享年不明》
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
*****拷問の内容を含む記事です。閲覧にご注意ください。*****
鎌倉府女房。
「妻殿(めどの)」はすなわち乳母(めのと)で、
足利春王丸・安王丸の乳母であったか。
4代鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟は、
父の旧臣岩松持国・桃井憲義や下総の結城氏朝に擁されて、
下総結城城(現・茨城県結城市)で室町幕府・上杉氏を相手に戦ったが、
挙兵から約1年の嘉吉元年(1441)4月、
ついに落城のときを迎えつつあった。
この結城合戦を描いた数多くの軍記物のひとつ、
『鎌倉殿物語』(長享2年〈1488〉以前に成立)から、
そのときのようすを見てみよう。
(以下、引用は読みやすいように用字等を改めた。)
落城を悟った結城方は、
籠城している10人ほどの女房たちを哀れに思い、
落城前に彼女らを退去させようと、寄せ手に協力を頼んだ。
寄せ手の越後勢も「明日は我が身の上」と承知したため、
輿7張に女房たちを乗せて、城外に出した。
このなかに、女房に扮した春王丸と安王丸も紛れており、
どこかへ落ち延びさせるてはずとなっていたが、
寄せ手の兵も察していたのか、輿のなかを探され、
瞬く間に見つかってしまった。
このとき、後ろの輿に乗っていた妻殿女房は、
驚いて飛び降り、敵兵を制止しようとしたが、
やむなく京都へ護送される兄弟に付き従った。
京都へ向かう道中、妻殿女房は春王丸ら兄弟をさまざまに励まし、慰めている。
箱根・足柄のあたりでは、春王丸が、
夏の夜は臥すかとすればほととぎす鳴く音に明けるしのゝめの空
と詠むと、
妻殿も答えて、
箱根山ふたゝび見んと思はねば明けやすき夜ぞ殊に悲しき
と詠み、
春王丸はまた、
箱根山ふたり闇路に迷へるをたれかは知らん明けやすき空
と答えて涙した。
兄の春王丸もまた、道みち弟の安王丸を励ましたという。
春王丸ら護送の一行が、美濃赤坂宿(現・岐阜県大垣市)を過ぎるころ、
京都から、春王丸・安王丸を誅殺せよとの密命が下った。
一行は美濃垂井宿(現・同垂井町)に入り、
ことを察した春王丸ら兄弟は、
父持氏とも馴染みのあった同地の金蓮寺の聖人に面会して、
最期の酒宴を催し、
その5月16日の晩、警固の越後長尾実景の配下、服部隼人に斬首された。
何も知らない妻殿女房は、寺から響いてくる宴の鼓の音を聞いて、
その楽しげなようすに安堵し、宿所で寝入っていた。
その夜の妻殿女房の夢に、旧主足利持氏と春王丸・安王丸の親子が現れた。
妻殿がかつて仕えていた鎌倉公方の御所のようなところで、
近習たちの姿はなく、独りうちひしがれたようすの持氏の前に、
春王丸・安王丸兄弟が参上すると、
持氏ははらはらと涙を流し、
「我が命が消えることは、つゆほども惜しくはない。
だが、おまえたちのことは、未来永劫、草葉の陰から守ってきたが、
その甲斐なく、あまりのことになってしまった。
こうして今出会えているのも、本望ではないが、
親子は一世かぎりの契りであるので、
出会えているのも歎きのうちの喜びである」
と、兄弟の髪をかきなでていた。
夢から覚めた妻殿は、
京都が近いこともあって、しきりと胸騒ぎがし、
兄弟のためにひたすら読経して祈るしかなかった。
翌朝、胸騒ぎの収まらない妻殿女房は、
輿のなかの兄弟に話しかけようとしたが、
警固の者に「急ぐので後にせよ」と退けられ、
ただ従うしかなかった。
近江小野宿(現・滋賀県彦根市)の昼休憩に、
ようやく妻殿は兄弟の輿に近寄り、あれこれと話しかけたが、
いくら話しかけても一向に返事がない。
不思議に思って簾を上げてみると、
そこには小さな桶がふたつ並んで、布が懸けてあるばかりであった。
布をのけて覗いてみると、
幼い若君兄弟が、首だけになって入っていた。
妻殿女房は悲しみのあまり、号泣の果てに気絶した。
妻殿女房を介抱した幕吏は、
尋問のために彼女を京都へ連行した。
幕府の奉行所に着くと、幕吏は、
そのほかの春王丸の兄弟たちがどこへ潜伏しているのか、反乱の与同者は誰なのか、
ありのままに申せば命ばかりは助けてやる、
と妻殿を尋問したが、
彼女は、
「私は女の身ゆえに、どうして与同者のことなど知っているでしょう。
若君のことについては、二人いらっしゃったけれども、
かわいそうなことに亡くなってしまわれた。
ほかの若君のことは、天下に隠れないことならば、
尋問されるまでもないでしょう。
私のことは、今は命も惜しくありません。
どのように尋問されても、申すことはありません」
と供述を拒否。
すると幕吏は、
「膝を爍し、指を切り、爪を起こし、火水を以て」という凄惨な拷問を加え、
ついには「大なる蛇を喉ヘ入れ」るまでして、
白状させようとした。
息も絶え絶えの妻殿女房は、
自ら舌を食いちぎり、吐き出した。
これには幕吏も、舌がなければ何も喋れまい、と観念して、
ついに彼女を放逐した。
京都を後にした妻殿女房は、
垂井の春王丸・安王丸兄弟の荼毘所に赴き、
念仏をあげようとしたが、舌がないために叶わず、
硯を取り寄せて「南無阿弥陀仏」の六字の名号を百遍記し、
その奥に次の本願意趣を書き記した。
一切衆生、別しては二人の尊霊等
同じく三途の苦患を免れ、供に九品の蓮台に生まれん。
そもそも、周恩皆発の花の色は、春王、各霊の袖に勤む。
極楽円満の月の光は、安王、菩提の暗路を照らし給え、となり。
なかんずく、三州の雲厚く掩いて、三毒悲想の都を忘れ、
五障の霧深く立ちて、五道輪縁の巷に迷えり。
あまつさえ、臨終眼を閉じ、
今、舌根不具にして読経叶わず、証名に絶えたり。
安然として、手尽きぬ。
願わくば、大慈大悲、弥陀如来、
宝号を唱えざれども、書写の志を哀れみて、
安楽世界に向かい給うべしとて、
かくばかり消え終わる命惜しきにあらねども、
物言わぬ身と成るぞ悲しき。
書き上げるとまもなく、妻殿女房は息絶えた。
そのとき、紫雲がたなびき、音楽が天に満ちたといい、
妻殿女房はまさしく往生を遂げたのであった。
以上は、念仏への帰依を説く軍記物に描かれた、鎌倉府女房の姿である。
もとより虚構の作中であり、すぐさま史実とは見なしがたいが、
しかし、東国の内乱のもとにいた女房たちの存在を思わせるに余りある描写である。
凄絶な拷問を受けながら、主家の廻向によって往生を遂げるとは、
あまりに都合のよい話ではあるが、
文学作品に描かれた貴重な室町期東国の女性の姿とその死のありようとして、
見過ごすべきものではないだろう。
〔参考〕
植田真平「鎌倉府女房衆の基礎的研究」(『歴史評論』898号、2025年)
『結城市史 第1巻 古代中世史料編』(結城市、1977年)
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《病死》 《1188年》 《4月》 《25日》 《享年24歳》
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
御台所北条政子の女房。
駿河手越の白拍子出身とされ、
『平家物語』における平重衡との悲恋で知られる。
元暦元年(1184)、
一ノ谷の合戦で生け捕りとなった平重衡が、鎌倉に連行されると、
源頼朝よりそのもてなし役のひとりに選ばれたのが、千手前であった。
琵琶や詩に長じた千手前は、虜囚の重衡の無聊を慰めたという。
文治4年(1188)4月22日夜、
千手前は御前にてにわかに卒倒した。
ほどなく意識を取り戻したが、持病などはなかったという。
翌朝、御所を退出して縁者のもとに移った。
それから2日後の25日朝、
千手前は卒去した。24歳であった。
性格は「大穏便」(『吾妻鏡』)で、人びとに惜しまれたという。
平重衡が京都に送還されるに及んで、恋慕の思いが日々募り、
病を得たのだろうか、と人びとは噂した。
異性愛規範とロマンティックラブイデオロギー、ジェンダーバイアスのもと、
周囲が心の内を勝手に推測して、とやかくいう。
なお、重衡が南都東大寺・興福寺の衆徒に引き渡されて斬首されたのは、
元暦2年(1185年)6月23日のこと。
3年ほど、健康を損なうほど想い続けたこととなり、
日ごろとりたてて体調不良などなかったという記述と、矛盾するようである。
『平家物語』では、
平重衡の刑死を聞いた千手前は、出家して尼となり、
信濃善光寺で重衡の菩提を弔いながら、自身も往生を遂げた、とされている。
南都を焼き討ちして仏罰となった重衡の救済の物語として創作されたか。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
朴知恵「「平家物語」の重衡と女人達―延慶本を中心に―」(明治大学大学院『文学研究論集』40、2014年)
櫻井陽子「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として―」(『駒澤國文』61、2024年)
《病死》 《1447年》 《4月》 《27日》 《享年37歳》
内裏女房、掌侍。
前参議高倉永藤の娘、右兵衛督高倉永豊の妹。
応永32年(1425)11月、高倉藤子は15歳で掌侍として称光天皇に出仕し、
「新内侍」、ついで「藤内侍」と呼ばれた。
次の後花園天皇の代にもそのまま仕え続け、
永享2年(1429)正月に、従五位下、
同年末に、従五位上に叙されている。
父永藤の名にちなむ藤子の名は、出仕の際か叙位の折につけられたものだろう。
文安4年(1447)4月26日朝、
数日続いた「腹所労」により、藤子は内裏を退出した。
ほどなく危篤に陥り、翌27日、他界。
出仕から20年余、「禁中不断祗候」(『建内記』)といわれたが、
発病、退出からあっという間の死であった。
「不便々々(ふびんふびん)」(『建内記』)。
兄の高倉永豊のもとを弔問に訪れた官人中原師郷は、
人づてに滋野井実益の卒中のことを聞いている。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1965年)
『大日本古記録 建内記 8』(岩波書店、1978年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「室町時代の禁裏女房―後花園天皇の時代を中心に―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2016年)
内裏女房、掌侍。
前参議高倉永藤の娘、右兵衛督高倉永豊の妹。
応永32年(1425)11月、高倉藤子は15歳で掌侍として称光天皇に出仕し、
「新内侍」、ついで「藤内侍」と呼ばれた。
次の後花園天皇の代にもそのまま仕え続け、
永享2年(1429)正月に、従五位下、
同年末に、従五位上に叙されている。
父永藤の名にちなむ藤子の名は、出仕の際か叙位の折につけられたものだろう。
文安4年(1447)4月26日朝、
数日続いた「腹所労」により、藤子は内裏を退出した。
ほどなく危篤に陥り、翌27日、他界。
出仕から20年余、「禁中不断祗候」(『建内記』)といわれたが、
発病、退出からあっという間の死であった。
「不便々々(ふびんふびん)」(『建内記』)。
兄の高倉永豊のもとを弔問に訪れた官人中原師郷は、
人づてに滋野井実益の卒中のことを聞いている。
〔参考〕
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1965年)
『大日本古記録 建内記 8』(岩波書店、1978年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「室町時代の禁裏女房―後花園天皇の時代を中心に―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2016年)
《病死》 《1496年》 《5月》 《20日》 《享年57歳》
従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。
かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
「日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。
長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。
夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。
明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。
富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)
およそ将軍家の御名残たるか。
殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)
「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。
将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。
垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼、
妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)
(御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)
富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。
享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。
天下触穢。
貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。
いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。
小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。
6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。
富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。
同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、
朝露はみし夕顔の名残かな
あはれを問はばなでしこの宿
と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。
6月26日、中陰結願。
7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。
〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。
かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
「日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。
長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。
夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。
明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。
富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)
およそ将軍家の御名残たるか。
殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)
「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。
将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。
垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼、
妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)
(御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)
富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。
享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。
天下触穢。
貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。
いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。
小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。
6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。
富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。
同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、
朝露はみし夕顔の名残かな
あはれを問はばなでしこの宿
と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。
6月26日、中陰結願。
7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。
〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
《病死》 《1489年》 《3月》 《10日》 《78歳》
賀茂社神主森益久の娘。
後花園上皇の女房。
讃岐局、次いで中将局として後花園上皇に仕えた。
これらの女房名からすると、
はじめ下﨟だったが、のちに中﨟にのぼったと推測される。
文明2年(1470)12月の後花園法皇の崩御に際して、
女房づとめを退いて出家し、慶徳庵と名乗ったのだろうか。
「年来数奇」(『親長卿記』)というから、
和歌などに優れていたのだろう。
長享3年(1489)の春ごろ、慶徳庵が死期に近づくと、
弟の賀茂社神主森貞久は、絵師に命じて姉の寿像(肖像画)を描かせた。
寿像が完成すると、慶徳庵は一首を寄せて辞世とした。
のこしてもなにゝかはせんあだし野の草葉にきゆる露の面影(『親長卿記』)
「私の寿像など描き残して何になろう」という、
弟の行いに対するいささか皮肉めいたものを感じる。
なお、下の句は一説に「草葉にやどる露の面影」(『実隆公記』)であったとされるが、
面影も消えたほうが皮肉が効いていようか。
そうして、長享3年(1489)3月10日朝、逝去。
78歳とも79歳とも。
上の寿像と辞世の話を後土御門天皇から聞いた三条西実隆は、
「老病のうち、優美のことなり」(『実隆公記』)と記している。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
賀茂社神主森益久の娘。
後花園上皇の女房。
讃岐局、次いで中将局として後花園上皇に仕えた。
これらの女房名からすると、
はじめ下﨟だったが、のちに中﨟にのぼったと推測される。
文明2年(1470)12月の後花園法皇の崩御に際して、
女房づとめを退いて出家し、慶徳庵と名乗ったのだろうか。
「年来数奇」(『親長卿記』)というから、
和歌などに優れていたのだろう。
長享3年(1489)の春ごろ、慶徳庵が死期に近づくと、
弟の賀茂社神主森貞久は、絵師に命じて姉の寿像(肖像画)を描かせた。
寿像が完成すると、慶徳庵は一首を寄せて辞世とした。
のこしてもなにゝかはせんあだし野の草葉にきゆる露の面影(『親長卿記』)
「私の寿像など描き残して何になろう」という、
弟の行いに対するいささか皮肉めいたものを感じる。
なお、下の句は一説に「草葉にやどる露の面影」(『実隆公記』)であったとされるが、
面影も消えたほうが皮肉が効いていようか。
そうして、長享3年(1489)3月10日朝、逝去。
78歳とも79歳とも。
上の寿像と辞世の話を後土御門天皇から聞いた三条西実隆は、
「老病のうち、優美のことなり」(『実隆公記』)と記している。
〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
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没年 1400~1429
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1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
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