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死に様データベース
《誅殺》 《1450年》 《12月》 《29日》 《享年5歳》


前内大臣花山院持忠の息子。
大臣家花山院家の息男ともなれば、
嫡子でなくとも幼児のうちに叙爵(叙従五位下)するのが通例だったようだが、
生母の出自のためか、この息子はその例にのらなかったようで、
実名も幼名も伝わらない。


宝徳2年(1450)12月29日のことか、
入道前内大臣花山院持忠(46歳)が、
5歳になる息子を自身の手で殺害する、という事件が起こった。
「前代未聞の事なり。末代の作法、悲しむべしと云々。」(『師郷記』、以下同)


それから2ヶ月後の宝徳3年(1451)2月26日、
今度は、持忠の嫡男の権中納言花山院定嗣が、
青侍の「あえ」という者に命じて、同じく青侍の安芸右馬助入道を討たせる、
という事件が起きた。
事件現場とは別の場所でも、右馬助入道の父や孫などが同時に殺害され、
安芸一族13人が犠牲になったという。

前年12月の事件の「余殃」(悪事の報い)であると噂された。

家長持忠は、花山院家断絶後に他家から入った継嗣であり、
当主家と家僕の間になにか角逐があったのかもしれない。


無理心中か錯乱か、はたまた家督をめぐる内訌か、
花山院家でいかなる事態があったか不明だが、
かりに、12月の事件と2月の安芸一族粛清が一連のことだとしても、
少なくとも5歳の幼児は、もめごとの主体ではなかったはずである。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
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《自害》 《1451年》 《6月》 《15日》 《享年不明》


宝徳4年(1451)6月15日夕刻、
京都一条小川の誓願寺で、
がひとり「自害」した(『師郷記』、以下同)
公家の中山家に仕える青侍と「相思」の女であったという。


誓願寺は、
清少納言が発心して往生した寺と伝わり、
また、和泉式部もこの寺で女人往生を志し、念仏の日々を過ごしたともいわれる。

このが、いかなる迷いを抱えていたのかは明らかでない。
あるいは、叶わぬ思いに世を儚んだが、
最期に女人往生を夢見て、誓願寺を死に場所に選んだのかもしれない。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 5』(続群書類従完成会、1988年)
『浄土宗西山深草派寺院名鑑』(浄土宗西山深草派宗務所、1983年)
《誅殺》 《1479年》 《5月》 《6日》 《享年10代》


室町幕府奉公衆、長下総守の息子。
実名は未詳。
仮名「次郎」は名乗っているが、元服したばかりの10代半ば~後半であったか。


園城寺戒乗坊の坊主は常日頃、
長次郎に「迷心」し、「朝夕知音」であった(『晴富宿禰記』、以下同)
ぞっこんで、日々親しくしていたのである。


文明11年(1479)5月6日、
この日も、坊主は自坊に次郎を招いた。
次郎は、従者を近くの西林坊に待たせて、
戒乗坊で坊主と二人きりの時を過ごした。


幾程か経ったころか、
次郎の従者である若党の山岩中務丞は、
そろそろ帰宅の頃合いかと思い、戒乗坊に主人を迎えにいった。
門は閉ざされていたので、叩いてみたが一向に開く気配がない。
隙間から中を覗いてみると、
庭に血だまりがあるのが見えた。
不審に思った山岩は、脇から門を押し破って坊内に入った。

坊内には誰もおらず、座敷には血が「充満」していた。
寝室を開けてみると、
そこに横たわっていたのは、小袖にくるまれた次郎の他殺体。
40ヶ所以上の傷があった。
「言語道断の躰」。
坊主はすでに行方をくらませていた。
何かを持ち出した形跡もなかった。


坊主は身寄りもない、「無縁孤独の者」であったという。
同宿も弟子もおらず、坊には下人が2人いるだけであった。
事件当時、
そのひとりは、なにがしかの命を受けて地方へ遣わされており、
もうひとりは自宅にいて、事件については何も知らないとのことだった。
坊主の単独犯だったようだが、
下人2人を遠ざけているあたり、無計画な衝動的な犯行ともいいきれない。


長父子を知る官人壬生晴富が、使者を弔問に遣わしたところ、
父の下総守はただ「惘然」とするばかりであったという。


中世の男性どうしの性愛は、
もっぱら成人男性による少年愛であり、
今日的な同性愛とは異なるものであったとされる。
40ヶ所以上という傷の多さは、執着と怨恨の深さをうかがわせる。
少年愛のような非対等な性愛は、
ふとしたきっかけで、いともたやすく他害に転じ、弱者の命を奪う。



〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
村岡幹生「日本中世社会における盗犯の位置・試論―盗みが裁判にかけられる時―」(『歴史の理論と教育』58、1983年)
湯川敏治「男色雑稿―戦国期の公家日記を中心に―」(『古文書研究』74、2012年)
《誅殺》 《1447年》 《閏2月》 《18日》 《享年不明》


文安4年(1447)閏2月18日の朝、京都かその周辺の某所で、
天台座主に仕える侍法師の女房が、
前田某という男に殺害された。
前田は、室町幕府管領細川勝元の被官で、
動機は「嫉妬の儀」(『師郷記』)であったという。
2人の間、あるいは夫の侍法師を含めて、
彼女らにどのような事情があったかは明らかでない。


なお、本件には関係ないと思われるが、
天台座主は、
前月末に梶井門主義承から毘沙門堂門主公承に交替したばかりであった。


異性愛であれば、嫉妬の矛先は恋敵の同性に向くはずだが、
しばしば異性に敵意が向けられ、
男性の嫉妬で女性が殺害されることとなる。



〔参考〕
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
《事故死》 《1221年》 《9月》 《12日》 《享年不明》


承久3年(1221)9月12日、
後鳥羽上皇の承久の乱が鎮圧された直後の畿内を、暴風雨が襲った。
石清水八幡宮(現・京都府八幡市)では、
麓の橋のひとつが流されたほか、
厩に浸水して、馬を避難させるなどの被害が出た。

摂津国の住吉社(現・大阪市住吉区)でも、
宿院の左方の廻廊15間すべてが倒壊した。
これに、宿院の中にいた数人が巻き込まれ、命を落とした。
どのような人々だったかは明らかでない。

住吉社は、奇しくもその翌13日に、恒例神事の相撲会を控えていたが、
祭場に死穢が及んで神事が予定どおり行えないとして、
朝廷に報告した。
これを受けて朝廷は、
10月5日に軒廊御卜という占いを行って、
10日、死穢による神事の中止を神前に上申することと、
天下のために祈禱することを、住吉社に命じ、
18日、神祇官の役人を派遣して、現場を祓い清めさせた。

神事と死穢の話ばかりで、
犠牲者のその後は伝わらない。



〔参考〕
『壬生新写古文書』(宮内省図書寮、1930年)
《病死》 《1096年》 《8月》 《7日》 《享年21歳》


名は媞子。内親王。
父は白河天皇。母は中宮藤原賢子


承保3年(1076)4月5日、白河天皇の第一皇女として生まれて、
まもなく内親王となり、
承暦2年(1078)3月16日、3歳で准三后となって、
同年8月2日、伊勢斎王となることが決まった。
承暦4年(1080)9月、5歳で伊勢へ赴くも、
応徳元年(1084)9月、の死去により斎宮を退いて、同年中に帰京した。


京都に戻った媞子は、
寛治元年(1087)12月16日、
12歳で同母弟堀河天皇9歳の母になぞらえられて、入内し、
寛治5年(1091)正月22日、
16歳でその中宮に立てられた。
そして、寛治7年(1093)正月19日、
18歳で女院号を与えられて、郁芳門院と号した。
擬制的ながら、実弟の妻であり母であるという女性の立場に当てられたのである。
不婚の内親王が天皇の准母となるのは、この郁芳門院媞子が初例であり、
白河上皇が、皇統のライバルであった異母弟輔仁親王を牽制して、
自身とその子らの正統性を補強するために実行した、とされている。


媞子は白河上皇最愛の娘であり、
「天下の威権、ただこの人にあり」(『中右記』)といわれるほどであった。
だが、それに驕ることはなかったようで、
「進退美麗、風容甚だ盛ん。
 性もとより寛仁、接心、好施」(同前)
であったという。
立ち居振る舞いが美しく、華があり、
性格も穏やかで慈悲深かった、といったところか。

しかし、京都で暮らす媞子の身は、病魔に冒されていた。
寛治3年(1089)頃から、媞子は春になるたびに「邪気」に襲われ、
そのつど神仏への祈禱がしきりになされたが、効果はなかった。
嘉保3年(1096)の春は、比較的平安に過ごしたようだが、
7月下旬より発熱などの症状があらわれた。
これにより、朝廷は儀式の一部を停止し、
父上皇は毎日読経をした。
だが、
8月7日寅の刻(午前4時頃)、六条殿の寝殿で薨去。
21歳であった。
ともども、若くして「邪気」に命を奪われたのである。

「生死無常、誠に春夢のごときか。仰天伏地、歎いて余りあり。」(『中右記』)
と、左中弁藤原宗忠は嘆いているが、
なにより悲嘆に暮れたのは、父の白河上皇であった。
「上皇こののち御神心迷乱。
 東西を知らしめ給はずと云々。」(同前)
右も左もおぼつかないほどのうろたえようだったのである。

翌8日、入棺。
この日、郁芳門院の乳母子の左衛門大夫藤原知信が出家した。
9日、白河上皇も、周囲の制止を聞かずに出家。
16日戌の刻(夜8時頃)、日中の小雨が夜半に本降りとなるなか、
郁芳門院の棺は車に乗せられ、六条殿を出た。
当時、弔いの念仏は出棺後に始めるのが習わしだったが、
父の白河上皇は、それに反して出棺前から念仏を始めたという。
棺は東洞院大路、五条大路、大宮大路を通って、船岡山の北へ運ばれ、火葬された。
遺灰は、叔父で院司だった右近衛少将源顕雅が運び、
賢子と同じ醍醐寺円光院に納められた。

9月26日の四十九日を迎えるまで、
父上皇によって多くの仏事が営まれた。


その後、郁芳門院の同母妹令子内親王が、
白河上皇の孫鳥羽天皇の准母に立てられたが、
このとき白河上皇は、
郁芳門院を強引に立后したことが、その若すぎる死を招いた、と悔い、
令子立后の主導を避けた。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
栗山圭子『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)
《病死》 《1491年》 《4月》 《3日》 《享年57歳》


堀越公方。
6代将軍足利義教の子、8代将軍足利義政の兄。



享徳3年(1454)12月、
5代鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺して享徳の乱を起こすと、
これを室町幕府に対する叛逆とみた将軍足利義政は、
長禄元年(1457)末、
天龍寺香厳院にいた庶兄清久を還俗させて、政知と名乗らせ、
成氏に代わる鎌倉公方として、関東に遣わすこととした。

当初、政知は、
成氏が失陥した鎌倉に入り、新たな鎌倉公方として東国に君臨するはずだった。
しかし、不安定な関東の情勢は、それを許さず、
長禄2年(1458)の東下以来、
箱根の山も越えずに、伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に長く留まった。
堀越公方と呼ばれる所以である。

それでも、堀越公方政知の登場は、成氏陣営に少なからぬ動揺を与えたが、
同時に上杉方にも混乱をもたらし、情勢を決定づけるには至らなかった。
さらに、文明14年(1482)に締結された義政と成氏の和睦で、
公方の地位は成氏に認められたため、
政知の地位は宙ぶらりんとなってしまった。
妥協案として、政知には伊豆一国の支配権と多少の直轄領のみが与えられ、
堀越御所が政知の終の棲家となった。


政知は、延徳3年(1491)正月頃より病気がちになり、
4月3日、永眠。享年57。
院号は勝幢院、道号は九山、法諱は未詳(『蔭凉軒日録』)


臨終の際の様子を、伝え聞いた権大納言三条西実隆が日記に記している。

 鎌倉殿〈左兵衛督政知、慈照院殿同甲子(年齢)御舎弟〉
 去んぬる四月三日、薨じ給う。
 正月より御不食と云々。
 …獲麟(死去)の時刻の儀、もってのほかの事どもなり。
 すなわち寝殿西方の庭に土葬すと云々。
 事の儀、記すに能わず。(『実隆公記』)

実隆は、ふた月ほど経とうという5月28日、
前権大納言冷泉為富から得た情報として、このことを記している。
「もってのほかの事ども(とんでもないことなど)」と、
政知の死に際して、何かただならぬことが起こったかのような書きぶりだが、
具体的なことは、「記すに能わず」と書き留めるのを放棄している。
また、貴人の葬法は、火葬と菩提寺への納骨が一般的であった当時、
すぐさま御所内の庭園に土葬されたというのも、どうにも奇妙である。
早々に埋葬を済ませねばならぬほど、特異な死に方であったのか、
それとも、死去の事実を秘匿せねばならない不安定な状況があったのか。


政知の死に何があったのか、今日に知るすべはないが、
3ヶ月後、政知の長男茶々丸が異母弟潤童子とその母を殺害し、
さらにその2年後には、
政知の次男義高を新将軍に立てた京都のクーデター(明応の政変)に連動して、
伊勢宗瑞が茶々丸を攻めて、伊豆への侵攻を開始した。
政知の不可解な死を合図とするかのように、
関東はさらなる動乱の時代へと進んでゆくことになる。




※本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して深謝す。

〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
久保健一郎『列島の戦国史 1 享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館、2020年)
則竹雄一『動乱の東国史 6 古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館、2013年)
《病死》 《1509年》 《2月》 《10日》 《享年88歳》


三条西家の女房。
局名は右京大夫
出自等は未詳。


応永29年(1422)の生まれ。
永享11年(1439)、18歳で三条西家へ女房づとめを始め、
当主公保・実隆父子に長く仕えた。
永正元年(1504)10月9日、83歳の年、
三条西家家礼の大沢重種宅で出家を遂げ、法名光智を名乗ったが、
その後も三条西家への奉公を続けたようである。

5年後の永正6年(1509)正月、
「老病無頼」により、光智は88歳で三条西家を退き、
三条西邸近くの二度観音堂辺りの小庵に相談して、そこへ移ることとなった。
その支度をしていたところ、
同月28日に三条西家へ雲龍院主がやってきたので、
幸いにもその輿に乗せてもらって、移住先の小庵に運んでもらった。


小庵に輿で運んでもらった光智と、ただ民家に移された梅枝
死に臨んでも、女房と下女という身分の違いは、歴然と上位者によって示される。


10日ほど経った2月10日午の刻(正午頃)光智入滅。
すぐに葬ったというから、土葬であったか。
知らせを受けた旧主実隆は、
翌11日に葬料を送っている。
「愁歎比類なきものなり」(『実隆公記』)
その後も実隆は、光智のために法華経を書写し、
百箇日や一周忌の法要も行っている。



〔参考〕
『実隆公記 巻5』(1938年)
原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1978年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、1995年)
細川涼一「家族を構成しない女性」(峰岸純夫編『中世を考える 家族と女性』吉川弘文館、1992年)
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