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死に様データベース
《病死》 《1426年》 《9月》 《12日》 《享年不明》


尼寺大聖寺の喝食。
正二位権大納言清閑寺家俊の娘。


応永33年(1426)9月12日、「頓死」(『薩戒記』)
10代半ばほどだったろうか。

父清閑寺家俊は、
このとき、伊勢神宮との取次をつとめる神宮伝奏の職にあった。
おりしも伊勢神宮では、内宮造営のため全国で役夫工米の徴収が進められ、
8日後の9月20日には、室町殿足利義持の神宮参詣も控えていた。
家俊はこれらを取り計らう重要な役職にあったのだ。
の死により清閑寺家は触穢となったが、
後小松上皇は、
「大事な時期の大事な立場なので、ともかく触穢はけしからん」(『薩戒記』)
として、の喪に服することすら許さなかった。

「もっとも恐るべし恐るべし」(『薩戒記』)
とは、参議中山定親の言。

父家俊は、同年末にも引き続き神宮伝奏をつとめている。



〔参考〕
『大日本古記録 薩戒記 3』(岩波書店、2006年)
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《病死》 《1382年》 《6月》 《4日》 《享年不明》


畠山家国の娘、
初代鎌倉公方足利基氏の妻、
2代公方足利氏満の母。
後年の史料では、名前を「真砂」としているが、
確実な史料では確認できないので、
ここでは、出家後の号である「清渓」で呼んでおこう。

生年は、元弘元年(1331)~建武2年(1335)のいずれかであり、
暦応3年(1340)生まれの夫基氏より、少なくとも5歳以上は年長であった。


兄の畠山国清は、
観応2年(1351)末、将軍足利尊氏に従って関東に下り、
文和2年(1353)、鎌倉公方を補佐する関東執事に任じられた。

基氏清渓の縁組も、それからさほど下らない時期とすれば、
基氏10代後半、清渓20代前半のこととなる。
延文4年(1359)には、長男金王丸(のちの氏満)を産んでいる。


鎌倉公方が関東執事の妹婿となり、基氏と国清の関係は盤石かに思われたが、
康安元年(1361)、国清は失脚。
分国伊豆に籠もるも、基氏の追討を受け、没落した。
清渓は、謀叛人の妹となってしまった。
離縁されることはなかったようだが、
この間の清渓のようすは、ほとんどうかがい知れない。


貞治6年(1367)4月、夫基氏が若くして世を去った。
清渓は30代半ば。
10年前後の夫婦生活であった。
清渓が出家したのは、このときだろう。
妊娠7ヶ月だったともいわれるが、
その子がどうなったのかは、定かではない。


その後、清渓は、「大方殿」(貴人の母の呼称)として、
幼い息子氏満を支えて、鎌倉府の政務を主導したらしい。
翌応安元年(1368)に氏満が10歳で元服して以降も、その傍らにあり、
ともに政務にあたっている。


氏満の薫陶を託した禅僧義堂周信との交流も、
うかがい知れる清渓の足跡のひとつだ。
鎌倉の尼寺太平寺を再興したのも、義堂の影響だろう。
康暦2年(1380)に義堂が上洛してからも、交流は続き、
京都・鎌倉間で書状のやりとりをしたことが、義堂の日記に記されている。

永和4年(1378)10月には、二所詣でにゆくなど、
ときには鎌倉を出ることもあったようだ。


永徳2年(1382)6月4日、示寂。
40代後半であった。
再興した寺院にちなみ、「太平寺殿」と号されたという。

しかし、これは後年の史料の記述であり、
5年後の嘉慶元年(1387)にも、清渓らしき人物の活動が確認されるため、
情報には錯誤があると思われる。
とはいえ、それに代わる情報もないため、
ひとまずここでは、その忌日に合わせて掲載することとした。



〔参考〕
『神奈川県史編集資料集 第4集 鎌倉大日記』(神奈川県企画調査部県史編集室、1972年)
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版 1982年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣堂、1979年)
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館、2002年)
谷口雄太「足利基氏の妻と子女」(黒田基樹編『足利基氏とその時代』戎光祥出版、2013年)
《病死》 《1342年》 《12月》 《23日》 《享年74歳》


上杉頼重の娘。
父の奉公先である足利家に仕え、
嘉元3年(1305)、36歳の年、当主貞氏との間に、息子高氏を、
その翌々年、次男高国を産んだ。
貞氏には別に正妻がおり、その間には嫡男も生まれていたが、
その嫡男が早世してしまったことから、高氏が足利家の跡取りとなり、
清子も当主の母となった。

いわずもがな、
その高氏こそ、室町幕府初代将軍足利尊氏その人であり、
次男高国改め直義が、草創期足利政権の立役者であることも、多言を要すまい。
清子はその二人の母として、「大方殿」「大方禅尼」と呼ばれ、
丁重に遇された。
あわせて、清子の兄憲房や甥の重能・朝定・憲顕らも、政権中枢で活躍し、
上杉氏繁栄の礎をなした。


60代半ばを過ぎての身辺の急変を、
清子はどのように受け止めたのだろうか。
当時の史料からは、
清子が京都錦小路に居を構え、
宣政門院(後醍醐の娘、光厳院室)らと交わり、
宮廷歌壇にもかかわったことがうかがえる。

また、建武5年(1338)5月27日付けの清子書状では、

 5月22日、天王寺(大阪市天王寺区)と和泉堺(堺市堺区)で、
 陸奥国司北畠顕家が討たれ、その首級が京都に運ばれました。
 この合戦に、八幡神や住吉大神のご加勢があったことは明らかで、
 不思議なことに、船が6艘も焼けて沈んだそうです。
 ひとえに神々の思し召しであるでしょう。
 今後もたのもしい限りです。
 …細川兵部少輔(顕氏)と武蔵守(高師直)の高名とのことで、
 南朝の紀伊の軍勢も敗走したそうです。
 この2人だからこそのことでしょう。(「上杉家文書」)

と、畿内の戦況を伝えている。
関東にいる親族の上杉一族に宛てたものと思われ、
女性が合戦のようすを伝えた、珍しいものとされている。
都鄙の連絡に、清子も重要な役割を果たしていた、といえようか。


康永元年(1342)12月23日、京都にて病没。
74歳とされる。
法名は雪庭
はじめ等持院殿と追号されたが、
その後、この号は息子尊氏に転用され、
清子果証院殿と改められた。
法要には、竺仙梵僊など名だたる高僧が列した。

北朝では、喪に服して30日間雑訴を停止し、
正月行事の節会も、鳴り物を中止した。

将軍実母の死去に、
各地の足利方諸将も、弔問に上洛したらしい。
ただ、越後出陣中の甥憲顕は、戦陣を離れることができず、
代わりに嫡男憲将を上洛させて、主君直義に慰められている。
南朝方は、足利方の動きが鈍くなったこの機を逃すまいと、
特に、奥羽での動きを活発化させており、
越後ではその対応のため、緊迫した状況が続いたようだ。


翌年3月、
清子に従二位が追贈された。

貞和4年(1348)、七回忌に行われた等持院の法華八講も、
佐々木導誉・二階堂時綱・長井広秀以下幕府の重臣5名が奉行をつとめるなど、
盛大に行われた。


没後に編纂された勅撰集『風雅和歌集』には、
次の清子の歌が収められている。

 空にのみ散る計りにて今日幾か日をふる雪の積らざるらん



〔参考〕
東京大学史料編纂所データベース
清水克行『〈人を歩く〉足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013年)
山家浩樹「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301、1998年)
GERHART Karen M., "Reconstructing the Life of Uesugi Kiyoko", Japan review: Journal of the International Research Center for Japanese Studies, 31(2017)
《病死》 《1433年》 《閏7月》 《13日》 《享年39歳》


足利義満の娘。
母は寧福院(源春子)。
大慈院門主。

父義満の寵愛を受けた栄山聖久(幼名未詳)は、
父の正妻日野康子の猶子となったのち、
崇賢門院(広橋仲子、後光厳院室、後円融院母)の猶子となり、
その遺産を継ぐことが約束された。
北山殿の愛娘として、貴族社会でも厚く遇され、
ふたりの養母の没後は、
予定どおり、康子の邸宅南御所と、崇賢門院が建てた大慈院を継承し、
「南御所」あるいは「大慈院殿」と呼ばれた。

尼門跡となった大慈院には、
聖久とその同母妹聖紹以下、将軍家の娘が入れられ、
聖久には姪にあたる、義持の娘と義教の娘も、
それぞれ聖久の弟子として入寺した。
ただし、このうち義教の娘は、
永享3年(1431)に3歳で夭逝してしまっている。


永享5年(1433)秋、痢病に苦しんでいた聖久は、
閏7月初旬ごろから危篤に陥り、
13日朝、息を引き取った。
39歳。

当時の室町殿は、聖久の異母兄足利義教である。
本来ならば、室町殿の妹が身罷ったということで、
諸人が弔問に訪れるところだが、
入寺していた義教の娘が夭折していたことで、
兄妹の関係は微妙なものになっていたらしい。
そのため、義教はもとより、ほかの兄弟たちも弔問に赴かず、
生前の盛んなころに比べれば、実に寂しい没後であった。
義教の命令により、中陰も早々に切り上げられたという。


大慈院の所領は、3,000貫分と莫大なものであり、
その継承のゆくえも注目されたが、
義教の命を待つこととなり、
結局、聖久の妹聖紹ののち、義持の娘が継いだようである。



〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』(宮内庁書陵部、2008年)
臼井信義『足利義満〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1960年)
湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」(『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、2001年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
《病死》 《1441年》 《5月》 《27日》 《享年79歳》


正親町三条実継の娘。
伏見宮家の女房。
はじめは「対御方」と呼ばれ、のち「東御方」と改められた。
栄仁親王に仕えて、恵舜ほか4人の王子を産んだが、
いずれもに先立ち、若いうちに喪っている。

応永23年(1416)、栄仁親王が没したのちも、宮家にとどまり、
9歳下の継子貞成王に仕えた。
貞成の長女あごごには「養母」のごとく接したという。


室町殿足利義教の時代になると、
正親町三条家の当主で、東御方には兄弟の曾孫にあたる実雅・尹子兄妹が、
義教の寵愛を受けたことで、
東御方もしばしば室町殿に祗候し、義教と貞成の仲介もなした。

永享7年(1435)に、義教が洛中に伏見宮御所を用意したのも、
東御方が、「狭小」で「荒廃」している当時の伏見御所を脱して、
「みなそろって洛中での生活を望んでいる」と、義教にアピールしたためだったという。
ただし、貞成は、
東御方は耄碌してでたらめなことを言っているのではないか」
と半信半疑でこれを聞いている。


永享9年(1437)2月9日、
義教は正親町三条亭に渡御して、実雅のもてなしを受けた。
会所に飾られた見事な唐絵を見た義教は、
傍らの東御方に感想を求めたが、
軽口のつもりだったのだろう、東御方は悪し様なことを言った。
しかし、相手は恐怖政治の元凶たる義教である。
たちまち激昂した義教は腰刀を抜き、峰打ちで東御方を打擲し、
「二度と目の前に現れるな」と追い出した。
東御方は、伏見の禅照庵に逃げ下った。
このとき75歳。

気分を害した義教は、その後の三条亭での予定を切り上げ、
さっさと室町殿に帰ってしまったという。
「薄氷をふむの儀、恐怖千万」(『看聞日記』)


翌日、義教の妻正親町三条尹子や、貞成の妻庭田幸子のとりなしで、
東御方は、ひきつづき伏見宮家へ祗候することは赦されたものの、
その後はすっかり局に閉じこもり、蟄居同前の生活を送った。


事件から4年後の嘉吉元年(1441)5月下旬、
東御方は健康を害した。
中風と診断された。
すでに容態は悪かったらしく、
25日、万一のことに備えて、
伏見宮御所を退いて、伏見の禅照庵に下った。
局女の宰相だけが供をしたという。
そして、
27日申の刻(夕方4時頃)、ひっそりと息を引き取った。
享年79。
没後のことは、生前の約束により蔵光庵の無相中訓がとりしきり、
翌28日、同庵に葬られた。

ただ、このとき、
東御方が「養母」のごとくかわいがったあごごこと性恵が危篤であり、
父貞成はおろおろするばかりで、
継母の他界については、
「存内といえども、年来の余波、旧労奉公、かたがた哀傷少なからず」(『看聞日記』)
と記すばかりである。


また、
東御方を打ちすえた義教が、「犬死」を果たすのは、
それからひと月のちのこと。



〔参考文献〕
『図書寮叢刊 看聞日記 6』(宮内庁書陵部、2012年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年)
植田真平・大澤泉「伏見宮貞成親王の周辺―『看聞日記』人名比定の再検討―」(『書陵部紀要』66、2014年)
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