死に様データベース
《病死》 《1093年》 《10月》 《21日》 《享年73歳》
大舎人頭藤原親国の娘。母は未詳。
春宮大進藤原隆経の妻となり、息子顕季を産んだ。
天喜元年(1053)6月、
春宮尊仁親王(のち後三条天皇)に第一皇子貞仁が生まれると、
親子は33歳でその乳母のひとりに選ばれた。
乳母にはほかに、藤原資業の娘もいたが、こちらは貞仁が5歳のときに死去し、
親子が「唯一の御乳母」となった(『中右記』)。
なお、貞仁の実母藤原茂子も、康平5年(1062)6月に薨じている。
延久4年(1073)12月、親子53歳のとき。
貞仁親王は、父後三条天皇の退位を受けて皇位を嗣いだ(白河天皇)。
親子は天皇の乳母として従五位下から正三位に昇り、
白河天皇の退位後も重んじられて、
跡を嗣いだ堀河天皇も、父白河院の仙洞御所に次いで、
親子のもとに行幸している。
従二位に叙されたのち、親子は落飾し、
法勝寺の南東にお堂を建てて、念仏の日々を送った。
寛治7年(1093)9月中頃、親子は病に臥した。
10月4日夕刻、白河上皇はわずかの供を連れて、洛東の親子を見舞った。
親子の容態は思わしくなかったようで、
10日にも白河上皇の見舞いを受けている。
21日朝、親子薨ず。73歳。
「上皇の御愁歎、殊に深しと云々」(『中右記』)。
白河上皇はこのとき40歳。
なお、このころ京都では疱瘡(天然痘)が流行していたようだが、
親子が罹患していたかは定かでない。
親子の息子で、白河院の乳母子(乳兄弟)にあたる藤原顕季は、
院の信任も厚く、受領を歴任して財をなし、正三位まで昇った。
受領系の院近臣の典型とされるひとりである。
その子孫からは、四条家や山科家、六条藤家などが出て、大いに栄えた。
その礎に、院の乳母であった親子の存在があったことは、いうまでもない。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 1』(岩波書店、1993年)
竹鼻績全訳注『今鏡 上』(講談社学術文庫、1984年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2005年)
大舎人頭藤原親国の娘。母は未詳。
春宮大進藤原隆経の妻となり、息子顕季を産んだ。
天喜元年(1053)6月、
春宮尊仁親王(のち後三条天皇)に第一皇子貞仁が生まれると、
親子は33歳でその乳母のひとりに選ばれた。
乳母にはほかに、藤原資業の娘もいたが、こちらは貞仁が5歳のときに死去し、
親子が「唯一の御乳母」となった(『中右記』)。
なお、貞仁の実母藤原茂子も、康平5年(1062)6月に薨じている。
延久4年(1073)12月、親子53歳のとき。
貞仁親王は、父後三条天皇の退位を受けて皇位を嗣いだ(白河天皇)。
親子は天皇の乳母として従五位下から正三位に昇り、
白河天皇の退位後も重んじられて、
跡を嗣いだ堀河天皇も、父白河院の仙洞御所に次いで、
親子のもとに行幸している。
従二位に叙されたのち、親子は落飾し、
法勝寺の南東にお堂を建てて、念仏の日々を送った。
寛治7年(1093)9月中頃、親子は病に臥した。
10月4日夕刻、白河上皇はわずかの供を連れて、洛東の親子を見舞った。
親子の容態は思わしくなかったようで、
10日にも白河上皇の見舞いを受けている。
21日朝、親子薨ず。73歳。
「上皇の御愁歎、殊に深しと云々」(『中右記』)。
白河上皇はこのとき40歳。
なお、このころ京都では疱瘡(天然痘)が流行していたようだが、
親子が罹患していたかは定かでない。
親子の息子で、白河院の乳母子(乳兄弟)にあたる藤原顕季は、
院の信任も厚く、受領を歴任して財をなし、正三位まで昇った。
受領系の院近臣の典型とされるひとりである。
その子孫からは、四条家や山科家、六条藤家などが出て、大いに栄えた。
その礎に、院の乳母であった親子の存在があったことは、いうまでもない。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 1』(岩波書店、1993年)
竹鼻績全訳注『今鏡 上』(講談社学術文庫、1984年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2005年)
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《誅殺》 《1138年》 《11月》 《9日》 《享年20代》
*****性暴力とフェミサイドに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****
参議藤原家政の娘。
鳥羽上皇の后である待賢門院藤原璋子に仕え、
鳥羽上皇の皇女妍子内親王を産んだ。
ただし、出産まもないころか、長承2年(1133)6月に、
「母(三条局)の心、すこぶる穏やかならず」として、
鳥羽上皇から娘の同居を却けられている(『長秋記』)。
保延4年(1138)11月9日の夜、
三条局は参籠のためか、伏見稲荷近くのお堂にいた。
そこで乳母子の河内二郎清原盛資に「密通」を迫られ、
拒んだところ、殺害された(『帝王編年記』)。
父家政の生没年(1080-1115)と娘妍子内親王の生年(1133以前)からして、
20代半ばから30歳前後であったろうか。
犯人の河内二郎盛資は捕えられ、獄中で死去。
その父の河内守清原俊資は、縁坐により解官のうえ「移郷」(強制移住)に処され、
12月7日夜、検非違使によって逢坂の関の外へ放逐された(『上卿故実』)。
中世における乳母子(乳兄弟)とのつながりは、擬制的な血縁関係として重視され、
中世初頭の政治史においても、とりわけ権力者の乳母子は重要な存在とされている。
だが、
乳母子との関係が、ときとして性暴力に発展し、フェミサイドを引き起こすこともあったことに、
注意が必要である。
〔参考〕
『群書類従 第5輯(公事部)』(経済雑誌社、1905年)
『新訂増補国史大系 扶桑略紀 帝王編年記』(吉川弘文館、1932年)
『新訂増補国史大系 尊卑分脈 第1篇』(吉川弘文館、1957年)
『増補史料大成 長秋記』(臨川書店、1981年)
竹鼻績全訳注『今鏡 下』(講談社学術文庫、1984年)
角田文衛『日本の後宮 本編』(学燈社、1973年)
*****性暴力とフェミサイドに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****
参議藤原家政の娘。
鳥羽上皇の后である待賢門院藤原璋子に仕え、
鳥羽上皇の皇女妍子内親王を産んだ。
ただし、出産まもないころか、長承2年(1133)6月に、
「母(三条局)の心、すこぶる穏やかならず」として、
鳥羽上皇から娘の同居を却けられている(『長秋記』)。
保延4年(1138)11月9日の夜、
三条局は参籠のためか、伏見稲荷近くのお堂にいた。
そこで乳母子の河内二郎清原盛資に「密通」を迫られ、
拒んだところ、殺害された(『帝王編年記』)。
父家政の生没年(1080-1115)と娘妍子内親王の生年(1133以前)からして、
20代半ばから30歳前後であったろうか。
犯人の河内二郎盛資は捕えられ、獄中で死去。
その父の河内守清原俊資は、縁坐により解官のうえ「移郷」(強制移住)に処され、
12月7日夜、検非違使によって逢坂の関の外へ放逐された(『上卿故実』)。
中世における乳母子(乳兄弟)とのつながりは、擬制的な血縁関係として重視され、
中世初頭の政治史においても、とりわけ権力者の乳母子は重要な存在とされている。
だが、
乳母子との関係が、ときとして性暴力に発展し、フェミサイドを引き起こすこともあったことに、
注意が必要である。
〔参考〕
『群書類従 第5輯(公事部)』(経済雑誌社、1905年)
『新訂増補国史大系 扶桑略紀 帝王編年記』(吉川弘文館、1932年)
『新訂増補国史大系 尊卑分脈 第1篇』(吉川弘文館、1957年)
『増補史料大成 長秋記』(臨川書店、1981年)
竹鼻績全訳注『今鏡 下』(講談社学術文庫、1984年)
角田文衛『日本の後宮 本編』(学燈社、1973年)
《病死》 《1084年》 《9月》 《22日》 《享年28歳》
右大臣源顕房とその正妻源隆子の娘。
白河天皇の中宮。
延久3年(1071)3月、15歳のとき、
賢子は左大臣藤原師実の養女として、皇太子貞仁親王に祗候した。
貞仁はこのとき18歳。
翌年、貞仁が即位すると(白河天皇)、
翌々年の延久5年(1073)7月、賢子は女御となって従四位下に叙され、
翌延久6年(1074)6月、立后して中宮となった。
承保元年(1075)12月には、第一皇子の敦文親王を産んでいる(ただし早逝)。
応徳元年(1084)9月15日、
中宮賢子はにわかに健康を害した。
「邪気の所為」と診断されたという(『扶桑略記』)。
実父の右大臣源顕房は、人相見であり、
その少し前、娘賢子のもとに参上したおり、
娘の薄命を悟って、その一両年の余命を予感していた。
顕房の妻は「縁起でもない、こんなに元気なのに」と夫を難じたが、
顕房は、
美麗によるべからざるなり。
生気なく成り給いたるものを。
として、今年か来年を越せないだろう、と言ったという(『古事談』巻6)。
数日前から天王寺(現・大阪市天王寺区)や住吉社(現・同住吉区)の参詣に出かけていた実父顕房は、
娘の病を聞いて、予定を切り上げて帰洛した。
17日、養父母の関白師実・麗子夫妻も、賢子を見舞っている。
和歌会なども取りやめとなり、皆ひっそりと賢子の容態を見守ったが、
病状は重篤であった。
22日卯の刻(朝6時頃)、里内裏三条殿において、中宮賢子崩御。享年28。
「万人泣涕止み難し」(『後二条師通記』)。
後代の所伝によると、
白河天皇は内裏が死穢となることを厭わず、危篤の賢子を内裏に留め、
臨終の際も賢子の腰を抱いて、離れようとしなかった。
中宮大夫藤原俊明が、「天皇が臨終に立ち会う先例はない」と諫言して離席を促すと、
白河天皇は、
例はこれよりこそ始まらめ。
と突っぱねたという(『古事談』巻2)。
天皇はこのとき31歳。
実際、悲しみのあまり、天皇は数日の間食事を摂らず、24日、悶絶した。
程なく快復したというが、悲嘆の程が知れよう。
24日、賢子の遺骸は四条高倉の備後守高階経成の邸に移され、
10月1日、鳥辺野で火葬された。
白河天皇は、賢子の月命日の毎月22日のたびに、
丈六(1丈6尺、5m弱、仏像の標準サイズ)の阿弥陀如来像を造立し、曼荼羅供を修することを定め、
一周忌までの間は、天下の政を停止して、節会や宴会の類も悉く中止とした。
この間、世間でも波風の立つような騒動など起きず、
人々は、
およびなく影も見ざりし月なれど雲隠るゝは悲しかりけり
と謳い、
翌年9月に右大弁藤原通俊は、
しぐれつゝ朽ちにし袖はいかゞするあはれうかりし秋は来にけり
と詠んだという(『栄花物語』巻40)。
いずれも賢子の他界を悲しむ歌だが、
かたや、雲の上の賢子を見たことのない月に喩え、
かたや、一年経っても涙がしぐれて袖が朽ちる、と嘆いてみせる。
これらを、いつまでも悲嘆に暮れて世の賑わいを消した白河天皇への皮肉と読むのは、
いささか邪推に過ぎようか。
なお、内裏女房で歌人の周防内侍も、賢子を偲んで、
浅茅原はかなくおきし草の上の露をかたみと思ひかけきや
いかにしてそらに知るらん世の中のこの月まではくもるべしとは
と詠んでいる。
翌応徳2年(1085)7月10日、
賢子の遺骨は、醍醐寺に新造された円光院という堂に納められた。
白河天皇はこのほか、
比叡山の麓に円徳院、同山内の飯室に勝楽院、洛東白河の法勝寺に常行堂を建てて、
賢子の菩提を弔った。
寛治元年(1087)12月には、実子の堀河天皇によって、賢子に太皇太后の称号が贈られている。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 扶桑略記 帝王編年紀』(吉川弘文館、1932年)
『日本古典文学大系 栄花物語 下』(岩波書店、1965年)
『新日本古典文学大系 古事談 続古事談』(岩波書店、2005年)
東京大学史料編纂所データベース
古池由美「堀河天皇の父と母―堀河天皇誕生から即位まで―」(『安田女子大学大学院文学研究科紀要』4集4号、1999年)
右大臣源顕房とその正妻源隆子の娘。
白河天皇の中宮。
延久3年(1071)3月、15歳のとき、
賢子は左大臣藤原師実の養女として、皇太子貞仁親王に祗候した。
貞仁はこのとき18歳。
翌年、貞仁が即位すると(白河天皇)、
翌々年の延久5年(1073)7月、賢子は女御となって従四位下に叙され、
翌延久6年(1074)6月、立后して中宮となった。
承保元年(1075)12月には、第一皇子の敦文親王を産んでいる(ただし早逝)。
応徳元年(1084)9月15日、
中宮賢子はにわかに健康を害した。
「邪気の所為」と診断されたという(『扶桑略記』)。
実父の右大臣源顕房は、人相見であり、
その少し前、娘賢子のもとに参上したおり、
娘の薄命を悟って、その一両年の余命を予感していた。
顕房の妻は「縁起でもない、こんなに元気なのに」と夫を難じたが、
顕房は、
美麗によるべからざるなり。
生気なく成り給いたるものを。
として、今年か来年を越せないだろう、と言ったという(『古事談』巻6)。
数日前から天王寺(現・大阪市天王寺区)や住吉社(現・同住吉区)の参詣に出かけていた実父顕房は、
娘の病を聞いて、予定を切り上げて帰洛した。
17日、養父母の関白師実・麗子夫妻も、賢子を見舞っている。
和歌会なども取りやめとなり、皆ひっそりと賢子の容態を見守ったが、
病状は重篤であった。
22日卯の刻(朝6時頃)、里内裏三条殿において、中宮賢子崩御。享年28。
「万人泣涕止み難し」(『後二条師通記』)。
後代の所伝によると、
白河天皇は内裏が死穢となることを厭わず、危篤の賢子を内裏に留め、
臨終の際も賢子の腰を抱いて、離れようとしなかった。
中宮大夫藤原俊明が、「天皇が臨終に立ち会う先例はない」と諫言して離席を促すと、
白河天皇は、
例はこれよりこそ始まらめ。
と突っぱねたという(『古事談』巻2)。
天皇はこのとき31歳。
実際、悲しみのあまり、天皇は数日の間食事を摂らず、24日、悶絶した。
程なく快復したというが、悲嘆の程が知れよう。
24日、賢子の遺骸は四条高倉の備後守高階経成の邸に移され、
10月1日、鳥辺野で火葬された。
白河天皇は、賢子の月命日の毎月22日のたびに、
丈六(1丈6尺、5m弱、仏像の標準サイズ)の阿弥陀如来像を造立し、曼荼羅供を修することを定め、
一周忌までの間は、天下の政を停止して、節会や宴会の類も悉く中止とした。
この間、世間でも波風の立つような騒動など起きず、
人々は、
およびなく影も見ざりし月なれど雲隠るゝは悲しかりけり
と謳い、
翌年9月に右大弁藤原通俊は、
しぐれつゝ朽ちにし袖はいかゞするあはれうかりし秋は来にけり
と詠んだという(『栄花物語』巻40)。
いずれも賢子の他界を悲しむ歌だが、
かたや、雲の上の賢子を見たことのない月に喩え、
かたや、一年経っても涙がしぐれて袖が朽ちる、と嘆いてみせる。
これらを、いつまでも悲嘆に暮れて世の賑わいを消した白河天皇への皮肉と読むのは、
いささか邪推に過ぎようか。
なお、内裏女房で歌人の周防内侍も、賢子を偲んで、
浅茅原はかなくおきし草の上の露をかたみと思ひかけきや
いかにしてそらに知るらん世の中のこの月まではくもるべしとは
と詠んでいる。
翌応徳2年(1085)7月10日、
賢子の遺骨は、醍醐寺に新造された円光院という堂に納められた。
白河天皇はこのほか、
比叡山の麓に円徳院、同山内の飯室に勝楽院、洛東白河の法勝寺に常行堂を建てて、
賢子の菩提を弔った。
寛治元年(1087)12月には、実子の堀河天皇によって、賢子に太皇太后の称号が贈られている。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 扶桑略記 帝王編年紀』(吉川弘文館、1932年)
『日本古典文学大系 栄花物語 下』(岩波書店、1965年)
『新日本古典文学大系 古事談 続古事談』(岩波書店、2005年)
東京大学史料編纂所データベース
古池由美「堀河天皇の父と母―堀河天皇誕生から即位まで―」(『安田女子大学大学院文学研究科紀要』4集4号、1999年)
《事故死》 《1151年》 《12月》 《26日》 《享年不明》
仁平元年(1151)12月26日、
京都西京の六条辺りで、
「豺狼」が「下女一人」を「喫殺」したという(『本朝世紀』)。
「豺狼」は、やまいぬやオオカミの類のこと。
「喫」は「くらう」と訓ず。
冬場に餌を求めて人里に下りたものか。
獣害はいつの時代も人身を脅かす。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
仁平元年(1151)12月26日、
京都西京の六条辺りで、
「豺狼」が「下女一人」を「喫殺」したという(『本朝世紀』)。
「豺狼」は、やまいぬやオオカミの類のこと。
「喫」は「くらう」と訓ず。
冬場に餌を求めて人里に下りたものか。
獣害はいつの時代も人身を脅かす。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
《病死》 《1150年》 《11月》 《5日》 《享年91歳》
右大臣藤原俊家の娘。
関白藤原師通の先妻、同忠実の母。
御堂関白藤原道長の庶子頼宗の孫にあたり、
甥(兄宗俊の息子)には、故実家として名高い中御門流の藤原宗忠がいる。
御堂流の師通の正妻だったが、
全子の政所始が行われる前に離縁したため、北政所とは呼ばれず、
居所をもって「一条殿」「小川殿」と呼ばれた。
康平3年(1060)に、権中納言藤原俊家の娘として生まれた全子は、
関白藤原師実の嫡男で、2歳下の権中納言兼左大将藤原師通と婚姻した。
「いとうつくしき御あはひ」(『栄花物語』巻39)と評される夫婦で、
承暦2年(1078)11月には長男忠実が産まれた。
しかし、その夫婦仲もまもなく「あやしく枯れ枯れにのみなり」(同上)、離縁。
師通は、太政大臣藤原信長の養女信子と再婚した。
全子は、亡父俊家の肖像に祈って師通・信子夫妻を夜な夜な呪い、
あるとき夢枕に俊家が立って、その怨み必ずや晴らそう、と言ったという(『台記』)。
はたして師通は、康和元年(1099)6月に、38歳で急死し、
北政所信子は零落して、のちに師通の子孫から「乞食尼」と呼ばれている(『玉葉』)。
全子に引き取られ、祖父師実のもとに通ってその薫陶を受けた忠実は、
父師通の没後に藤原氏の氏長者となり、
政治の実権は白河院の掌中にあったが、
長治2年(1105)12月に関白となっている。
関白の母となった全子は、
天永3年(1112)12月、従三位に叙された。
摂関の母が、四位を経ずに無位から三位に叙されるのは、
「未曽有」(『殿暦』)であったという。
「全子」の名は、このとき式部大輔菅原在良によって付けられたものである。
永久2年(1114)2月には、従二位、
永久3年(1115)12月には、従一位に昇った。
保安元年(1120)11月、白河院の勘気により、息子忠実が失脚して宇治に籠居すると、
いまだ復権の叶わぬ大治元年(1126)3月、全子は出家している。
それでも3年後の大治4年(1129)7月には、
白河院の崩御にともなって、忠実は復権を果たしている。
久安6年(1150)正月、全子は准三宮となっている。
この久安6年(1150)は、全子の周辺で激動の年であった。
忠実には、忠通と頼長という歳の離れた二人の息子がおり、
忠通にはしばらく子がなかったために、忠実は頼長を忠通の養子として跡を継がせようとした。
ところが、忠通に待望の男子が産まれたことで、
忠実・頼長と忠通の間に、摂関の座をめぐる亀裂が発生。
さらに、それに絡んで忠通の養女と頼長の養女の入内競争も激化して、
久安6年(1150)9月、愛息頼長に肩入れする忠実は、嫡男忠通を義絶するに至る。
目の前で繰り広げられる息子と孫との争いに、老いた母は何を思ったろうか。
さらにこの年、10月頃から京都周辺で「咳病」が大流行し、
「老者多く以て妖亡す。民庶あらあら死亡す。近年以来第一の咳病なり」(『本朝世紀』)
というありさまだった。
頼長やその周囲も罹ったほか、鳥羽法皇も罹患して、諸行事への臨幸が取り止めになっている。
全子もまたこの咳病に罹った。
11月4日、全子の病状が思わしくないとのことで、
息子忠実は鳥羽より母のいる宇治へ駆けつけた。
翌5日巳の刻(午前10時頃)、全子は宇治の小川殿にて他界。91歳であった。
忠実・忠通の親子喧嘩は、全子の葬儀にも絡んだ。
忠実は全子の葬儀にあたり、
忠通の衰日(凶日)は考慮せず、頼長の衰日のみをふまえて調整するよう指示した。
17日、入棺。
18日、小川殿で葬礼が催された。
むろん、忠通の臨席はなかったが、
忠実も咳病のために臨席せず、頼長も父忠実の命令により欠席した。
忠実の命令は、頼長の触穢による行動制限を避けるためだろう。
19日、拾骨。
また、忠実は四十九日の間、魚食を断った。
頼長は忠実の年齢を考えて、思い返すよう説得したが、
忠実は聞き入れなかった。
73歳の子が91歳の母を送ることを、
孫の頼長は「我が朝未聞」「寿考」と記している(『台記』)。
全子の遺骨は、西法華堂という御堂に安置されたが、
これは、御堂流の菩提寺である木幡の浄妙寺が、
小川殿から見て、移転等を避けるべき「王相方」という方角に当たったためで、
翌年の仁平元年(1151)9月に、孫の頼長が西法華堂から浄妙寺へ改葬している。
また、息子忠実は全子の生前より、母のために小川殿のなかに御堂を建てていたが、
完成したのは、同じく仁平元年(1151)の10月のことだった。
全子が最期に目にしたのは、息子と孫との骨肉の争いであった。
この争いは、天皇家の争いなどとも絡んで、
5年後に保元の乱へと発展し、頼長の死と忠実の失墜に帰着する。
とはいえ、離縁後の逆境を耐え抜き、息子の自立や復権を見届け、自身も准三宮まで昇り、
保元の乱を見届けずにこの世を去ったのは、幸運というべきだろう。
前夫を呪った母全子と、嫡男を義絶した息子忠実。
そして、母の死を魚食を断つほどに悼んだ息子。
肉親への愛憎の激しさと執念深さは、母から息子へたしかに受け継がれたようである。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
『新訂増補国史大系 栄花物語』(吉川弘文館、1938年)
服藤早苗『平安朝の家と女性』(平凡社、1997年)
元木泰雄『藤原忠実〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2000年)
中村成里「『栄花物語』続編と藤原忠実」(『中古文学』83、2009年)
朧谷寿『平安王朝の葬送―死・入棺・埋骨―』(思文閣出版、2016年)
右大臣藤原俊家の娘。
関白藤原師通の先妻、同忠実の母。
御堂関白藤原道長の庶子頼宗の孫にあたり、
甥(兄宗俊の息子)には、故実家として名高い中御門流の藤原宗忠がいる。
御堂流の師通の正妻だったが、
全子の政所始が行われる前に離縁したため、北政所とは呼ばれず、
居所をもって「一条殿」「小川殿」と呼ばれた。
康平3年(1060)に、権中納言藤原俊家の娘として生まれた全子は、
関白藤原師実の嫡男で、2歳下の権中納言兼左大将藤原師通と婚姻した。
「いとうつくしき御あはひ」(『栄花物語』巻39)と評される夫婦で、
承暦2年(1078)11月には長男忠実が産まれた。
しかし、その夫婦仲もまもなく「あやしく枯れ枯れにのみなり」(同上)、離縁。
師通は、太政大臣藤原信長の養女信子と再婚した。
全子は、亡父俊家の肖像に祈って師通・信子夫妻を夜な夜な呪い、
あるとき夢枕に俊家が立って、その怨み必ずや晴らそう、と言ったという(『台記』)。
はたして師通は、康和元年(1099)6月に、38歳で急死し、
北政所信子は零落して、のちに師通の子孫から「乞食尼」と呼ばれている(『玉葉』)。
全子に引き取られ、祖父師実のもとに通ってその薫陶を受けた忠実は、
父師通の没後に藤原氏の氏長者となり、
政治の実権は白河院の掌中にあったが、
長治2年(1105)12月に関白となっている。
関白の母となった全子は、
天永3年(1112)12月、従三位に叙された。
摂関の母が、四位を経ずに無位から三位に叙されるのは、
「未曽有」(『殿暦』)であったという。
「全子」の名は、このとき式部大輔菅原在良によって付けられたものである。
永久2年(1114)2月には、従二位、
永久3年(1115)12月には、従一位に昇った。
保安元年(1120)11月、白河院の勘気により、息子忠実が失脚して宇治に籠居すると、
いまだ復権の叶わぬ大治元年(1126)3月、全子は出家している。
それでも3年後の大治4年(1129)7月には、
白河院の崩御にともなって、忠実は復権を果たしている。
久安6年(1150)正月、全子は准三宮となっている。
この久安6年(1150)は、全子の周辺で激動の年であった。
忠実には、忠通と頼長という歳の離れた二人の息子がおり、
忠通にはしばらく子がなかったために、忠実は頼長を忠通の養子として跡を継がせようとした。
ところが、忠通に待望の男子が産まれたことで、
忠実・頼長と忠通の間に、摂関の座をめぐる亀裂が発生。
さらに、それに絡んで忠通の養女と頼長の養女の入内競争も激化して、
久安6年(1150)9月、愛息頼長に肩入れする忠実は、嫡男忠通を義絶するに至る。
目の前で繰り広げられる息子と孫との争いに、老いた母は何を思ったろうか。
さらにこの年、10月頃から京都周辺で「咳病」が大流行し、
「老者多く以て妖亡す。民庶あらあら死亡す。近年以来第一の咳病なり」(『本朝世紀』)
というありさまだった。
頼長やその周囲も罹ったほか、鳥羽法皇も罹患して、諸行事への臨幸が取り止めになっている。
全子もまたこの咳病に罹った。
11月4日、全子の病状が思わしくないとのことで、
息子忠実は鳥羽より母のいる宇治へ駆けつけた。
翌5日巳の刻(午前10時頃)、全子は宇治の小川殿にて他界。91歳であった。
忠実・忠通の親子喧嘩は、全子の葬儀にも絡んだ。
忠実は全子の葬儀にあたり、
忠通の衰日(凶日)は考慮せず、頼長の衰日のみをふまえて調整するよう指示した。
17日、入棺。
18日、小川殿で葬礼が催された。
むろん、忠通の臨席はなかったが、
忠実も咳病のために臨席せず、頼長も父忠実の命令により欠席した。
忠実の命令は、頼長の触穢による行動制限を避けるためだろう。
19日、拾骨。
また、忠実は四十九日の間、魚食を断った。
頼長は忠実の年齢を考えて、思い返すよう説得したが、
忠実は聞き入れなかった。
73歳の子が91歳の母を送ることを、
孫の頼長は「我が朝未聞」「寿考」と記している(『台記』)。
全子の遺骨は、西法華堂という御堂に安置されたが、
これは、御堂流の菩提寺である木幡の浄妙寺が、
小川殿から見て、移転等を避けるべき「王相方」という方角に当たったためで、
翌年の仁平元年(1151)9月に、孫の頼長が西法華堂から浄妙寺へ改葬している。
また、息子忠実は全子の生前より、母のために小川殿のなかに御堂を建てていたが、
完成したのは、同じく仁平元年(1151)の10月のことだった。
全子が最期に目にしたのは、息子と孫との骨肉の争いであった。
この争いは、天皇家の争いなどとも絡んで、
5年後に保元の乱へと発展し、頼長の死と忠実の失墜に帰着する。
とはいえ、離縁後の逆境を耐え抜き、息子の自立や復権を見届け、自身も准三宮まで昇り、
保元の乱を見届けずにこの世を去ったのは、幸運というべきだろう。
前夫を呪った母全子と、嫡男を義絶した息子忠実。
そして、母の死を魚食を断つほどに悼んだ息子。
肉親への愛憎の激しさと執念深さは、母から息子へたしかに受け継がれたようである。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
『新訂増補国史大系 栄花物語』(吉川弘文館、1938年)
服藤早苗『平安朝の家と女性』(平凡社、1997年)
元木泰雄『藤原忠実〈人物叢書〉』(吉川弘文館、2000年)
中村成里「『栄花物語』続編と藤原忠実」(『中古文学』83、2009年)
朧谷寿『平安王朝の葬送―死・入棺・埋骨―』(思文閣出版、2016年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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享年 40代~60代
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