死に様データベース
《病死》 《1256年》 《6月》 《27日》 《享年不明》
鎌倉幕府連署北条重時の娘で、
幕府評定衆宇都宮泰綱の息子経綱の妻となった。
名は伝わらない。
建長8年(1256)頃のことか、
宇都宮経綱の妻は流産をした。
その後、産後の衰弱を病魔が襲ったのか、
「赤痢病」に罹ったという。
6月27日、卒去。享年は未詳。
宇都宮経綱にはその後、
その亡妻の妹が嫁したという。
日本中世のソロレート婚(妻の死別後にその姉妹と婚姻すること)の一例か。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 33 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
菊池紳一監修・北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)
鎌倉幕府連署北条重時の娘で、
幕府評定衆宇都宮泰綱の息子経綱の妻となった。
名は伝わらない。
建長8年(1256)頃のことか、
宇都宮経綱の妻は流産をした。
その後、産後の衰弱を病魔が襲ったのか、
「赤痢病」に罹ったという。
6月27日、卒去。享年は未詳。
宇都宮経綱にはその後、
その亡妻の妹が嫁したという。
日本中世のソロレート婚(妻の死別後にその姉妹と婚姻すること)の一例か。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 33 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会、1933年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
菊池紳一監修・北条氏研究会編『鎌倉北条氏人名辞典』(勉誠出版、2019年)
PR
《病死》 《1497年》 《6月》 《11日》 《享年22歳》
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
京都安禅寺の住持。
後土御門天皇の皇女。
応善とも。
寿岳恵仙は、
文明8年(1476)5月24日、
後土御門天皇の第三皇女として生まれた。
母は上﨟局と呼ばれた花山院兼子。
幼名は不明。
8月28日、
生後3ヶ月で、伯母芳苑観心が住持をつとめる安禅寺に入室した。
文明12年(1480)4月14日、5歳で喝食となり、
延徳4年(1492)6月15日、17歳で得度。
恵仙は生来病弱だったようで、
延徳3年(1491)5~6月と明応3年(1494)正~4月、若くして長らく病臥し、
その後、多少快復したのか、
明応4年(1495)9~10月には有馬温泉へ湯治に出かけている。
明応6年(1497)6月5日、恵仙は再び発病した。
「御腹気」(『親長卿記』)、あるいは「御痢病」(『実隆公記』)であったといい、
消化器系の疾患とみられたようだ。
そのまま快復せず、
11日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。22歳。
「無常歎くべし歎くべし」(『実隆公記』)。
13日、葬礼が行われ、
27日には、関係者の参内が判明したのか、「禁中触穢云々」(『後法興院記』)。
東福寺の了庵桂悟と三条西実隆の間で調整された結果、
没後に、尼五山第一位の景愛寺前住持の称号を贈られることとなった。
安禅寺にはその後、伏見宮邦高親王の娘が後土御門天皇の養女として入室したが、
その子もまた、
明応7年(1498)2月5日、7歳で夭逝してしまった。
〔参考〕
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年) →該当箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年) →該当箇所(同上)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
《病死》 《1178年》 《7月》 《16日》 《享年33歳》
兵部権大輔平時信の娘、
平清盛の息子宗盛の妻。
平清子については、
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」に詳しいので、
それによりつつ紹介したい。
久安2年(1146)、
鳥羽院に仕えた平時信と、院近臣藤原顕頼の娘祐子との間に生まれた清子は、
異母姉の時子に推されてか、
時子とその夫平清盛の子、すなわち清子にとって甥にあたる平宗盛の妻となった。
夫宗盛は清子の1歳下。
年齢からすると、婚議は永暦元年(1160)か翌応保元年(1161)ごろのことだったろうか。
清子の同母姉滋子は、後白河上皇の寵妃となって、このころ皇子憲仁を産んでおり、
その同母妹の清子を宗盛と娶せることで、後白河と宗盛は時子の実家を挟んで相婿となる。
こうした差配によって、
清盛の妻時子は、平家の将来を盤石なものにしようとしたという。
仁安3年(1168)3月、
清子は甥の憲仁親王(高倉天皇)の即位に際して、
義兄で舅の清盛の猶子として、従五位下に叙され、典侍に任じられた。
「清子」の名は、このとき養父清盛の名に因んで付けられたものだろう。
宮仕えに際しては、中納言三位局と呼ばれた。
嘉応2年(1170)には、夫宗盛との間に長男清宗を産んでいる。
清盛と時子の娘である徳子(のち建礼門院)が入内して、高倉天皇の中宮となり、
治承2年(1178)5月に懐妊すると、
清子はその乳母に内定した。
33歳のことであった。
中世の乳母は、その名に反して必ずしも授乳役ではなく、最側近の養育役というべきもので、
当時の政治社会においては、その存在や影響力は大きく、
清子の将来は、次代天皇の乳母として約束されたようなものであった。
6月28日、徳子の着帯の儀当日、
乳母となる清子と右近衛大将の夫宗盛は、それぞれに儀式に参列する予定だったが、
清子は遅参し、参列したのは帯の献上が終わったころであった。
この間、さきに参列していた夫宗盛も、
ひとけのないところへ退いて清子を待ち、その到着を見守って列に戻ったようである。
清子の遅参の理由には、彼女が抱えていた病があったらしい。
6月20日ごろより、清子の「髪」に「腫物」ができていたというから(『山槐記』)、
頭部の頭皮に近いところに異常があったのだろう。
28日の着帯の儀までに治らず、腫れ物を抱えたまま儀式に臨んだのである。
腫れ物は悪性だったようで、
まもなく清子は八条北高倉の新亭で療養に入った。
閏6月11日には、容態は「大事」に至ったという(『玉葉』)。
13日、医師の和気定長が灸を勧めたが、清子は受け付けず、
しかたなく和気貞説が膏薬を塗った。
医師の勧める最善の治療を拒んだまま病状は悪化し、
15日、天命を悟ってか、清子は出家。
19日には、右大臣藤原兼実も、
典薬頭和気定成(定長の父)との雑談で清子の病状を話題にしており、
京都の人々に注目されていたことがうかがえる。
23日、但馬国から来た但馬君という医僧が治療し、腫れ物の切除に成功した。
だが、清子の衰弱は甚だしく、余命はいくばくもないようだった。
7月10日、夫宗盛は、妻の病を理由に右近衛大将を辞任する。
妻の病気を理由に官職を辞する例は珍しく、
ふたりの関係や宗盛の人柄を示すエピソードともされるが、果たして。
16日、清子没。33歳。
一周忌の迫った翌治承3年(1179)6月3日、
宗盛は法性寺一橋西の辺りに堂を建てて、清子の菩提を弔った。
この堂は、平家滅亡後もしばらく住僧が維持していたが、
正治2年(1200)閏2月に取り壊されることとなり、
清子の乳母子であった木工権頭源仲国という人物が引き受けて、
四天王寺に移築されたという。
なお、
清子が乳母となるはずだった皇子が、のちの安徳天皇である。
打倒平家の挙兵が始まって、治承・寿永の内乱、いわゆる源平合戦が勃発するのは、
清子の没後2年、治承4年(1180)のこと。
安徳天皇が壇ノ浦の波間に沈み、宗盛が源氏の捕虜となるのは、
それからさらに5年後のことである。
〔参考〕
『増補史料大成 山槐記 2』(臨川書店、1989年)
『図書寮叢刊 〈九条家本〉玉葉 5』(宮内庁書陵部、1998年)
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」
(細川涼一編『〈生活と文化の歴史学7〉生・成長・老い・死』竹林舎、2016年)
兵部権大輔平時信の娘、
平清盛の息子宗盛の妻。
平清子については、
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」に詳しいので、
それによりつつ紹介したい。
久安2年(1146)、
鳥羽院に仕えた平時信と、院近臣藤原顕頼の娘祐子との間に生まれた清子は、
異母姉の時子に推されてか、
時子とその夫平清盛の子、すなわち清子にとって甥にあたる平宗盛の妻となった。
夫宗盛は清子の1歳下。
年齢からすると、婚議は永暦元年(1160)か翌応保元年(1161)ごろのことだったろうか。
清子の同母姉滋子は、後白河上皇の寵妃となって、このころ皇子憲仁を産んでおり、
その同母妹の清子を宗盛と娶せることで、後白河と宗盛は時子の実家を挟んで相婿となる。
こうした差配によって、
清盛の妻時子は、平家の将来を盤石なものにしようとしたという。
仁安3年(1168)3月、
清子は甥の憲仁親王(高倉天皇)の即位に際して、
義兄で舅の清盛の猶子として、従五位下に叙され、典侍に任じられた。
「清子」の名は、このとき養父清盛の名に因んで付けられたものだろう。
宮仕えに際しては、中納言三位局と呼ばれた。
嘉応2年(1170)には、夫宗盛との間に長男清宗を産んでいる。
清盛と時子の娘である徳子(のち建礼門院)が入内して、高倉天皇の中宮となり、
治承2年(1178)5月に懐妊すると、
清子はその乳母に内定した。
33歳のことであった。
中世の乳母は、その名に反して必ずしも授乳役ではなく、最側近の養育役というべきもので、
当時の政治社会においては、その存在や影響力は大きく、
清子の将来は、次代天皇の乳母として約束されたようなものであった。
6月28日、徳子の着帯の儀当日、
乳母となる清子と右近衛大将の夫宗盛は、それぞれに儀式に参列する予定だったが、
清子は遅参し、参列したのは帯の献上が終わったころであった。
この間、さきに参列していた夫宗盛も、
ひとけのないところへ退いて清子を待ち、その到着を見守って列に戻ったようである。
清子の遅参の理由には、彼女が抱えていた病があったらしい。
6月20日ごろより、清子の「髪」に「腫物」ができていたというから(『山槐記』)、
頭部の頭皮に近いところに異常があったのだろう。
28日の着帯の儀までに治らず、腫れ物を抱えたまま儀式に臨んだのである。
腫れ物は悪性だったようで、
まもなく清子は八条北高倉の新亭で療養に入った。
閏6月11日には、容態は「大事」に至ったという(『玉葉』)。
13日、医師の和気定長が灸を勧めたが、清子は受け付けず、
しかたなく和気貞説が膏薬を塗った。
医師の勧める最善の治療を拒んだまま病状は悪化し、
15日、天命を悟ってか、清子は出家。
19日には、右大臣藤原兼実も、
典薬頭和気定成(定長の父)との雑談で清子の病状を話題にしており、
京都の人々に注目されていたことがうかがえる。
23日、但馬国から来た但馬君という医僧が治療し、腫れ物の切除に成功した。
だが、清子の衰弱は甚だしく、余命はいくばくもないようだった。
7月10日、夫宗盛は、妻の病を理由に右近衛大将を辞任する。
妻の病気を理由に官職を辞する例は珍しく、
ふたりの関係や宗盛の人柄を示すエピソードともされるが、果たして。
16日、清子没。33歳。
一周忌の迫った翌治承3年(1179)6月3日、
宗盛は法性寺一橋西の辺りに堂を建てて、清子の菩提を弔った。
この堂は、平家滅亡後もしばらく住僧が維持していたが、
正治2年(1200)閏2月に取り壊されることとなり、
清子の乳母子であった木工権頭源仲国という人物が引き受けて、
四天王寺に移築されたという。
なお、
清子が乳母となるはずだった皇子が、のちの安徳天皇である。
打倒平家の挙兵が始まって、治承・寿永の内乱、いわゆる源平合戦が勃発するのは、
清子の没後2年、治承4年(1180)のこと。
安徳天皇が壇ノ浦の波間に沈み、宗盛が源氏の捕虜となるのは、
それからさらに5年後のことである。
〔参考〕
『増補史料大成 山槐記 2』(臨川書店、1989年)
『図書寮叢刊 〈九条家本〉玉葉 5』(宮内庁書陵部、1998年)
高松百香「平宗盛の妻―平清子の人生とその意義―」
(細川涼一編『〈生活と文化の歴史学7〉生・成長・老い・死』竹林舎、2016年)
《病死》 《1230年》 《8月》 《4日》 《享年25歳》
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
鎌倉幕府執権北条泰時の娘。
三浦泰村の妻。
童名も女房名も伝わらない。
鎌倉幕府草創期以来の有力御家人である北条氏と三浦氏は、
三浦義村の娘が北条泰時の妻となり、
その離縁後には、泰時の娘が義村の息子泰村の妻となることで、
その関係を維持した。
この三浦泰村の妻となった北条泰時の娘は、
安貞2年(1228)、泰村の子を身ごもった。
明けて安貞3年(1229)正月19日、産気づいたがなかなか産まれず、
8日後の27日朝になっても、母を苦しませる難産であった。
医師丹波良基が診察し、
将軍家護持僧観基と鶴岡林東坊頼暁、陰陽師安倍晴賢が加持祈禱を行ったが、
同日酉の刻(夕方6時頃)、男児を死産した。
その後、泰村の妻は大きく健康を害することもなく、夫婦仲も悪くなかったようで、
8ヶ月後の寛喜元年(1229)9月には、
大番役をつとめる夫泰村とともに上洛している。
翌寛喜2年(1230)、泰村の妻は再び懐妊した。
7月15日酉の刻(夕方6時頃)、女児を出産した。
同じく医師丹波良基が診察を、林東坊頼暁・陰陽師安倍泰宗が祈禱を行ったが、
やはり難産だったらしい。
26日、この女児は生後11日で夭逝してしまった。
産後の快復も思わしくなく、
8月4日酉の刻(夕方6時頃)、逝去。
25歳であった。
北条泰時は、2ヶ月前に嫡男時氏を喪ったばかりで、
続けざまに子どもを二人喪う不幸に見舞われたこととなった。
8月15日には、鶴岡八幡宮の放生会が予定されていたが、
北条泰時のもとに弔問客が集まったため、
触穢が方々へ及んでしまい、放生会は延引となった。
11月の開催が見込まれたが、
今度は、鶴岡若宮の廻廊に死人が出て、12月15日にようやく催されている。
泰村の妻の百箇日を迎える10月24日、
その墳墓堂供養が行われた。
妻を亡くした三浦泰村は、
そののち先妻の姉妹である別の泰時の娘と再婚したが、
その後妻も嘉禎2年(1236)12月に亡くしている。
北条氏と三浦氏が宝治合戦で衝突するのは、
それからさらに11年後のこと。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
高橋秀樹『対決の東国史 2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021年)
永井晋編『鎌倉僧歴事典』(八木書店、2020年)
《病死》 《1213年》 《3月》 《21日》 《享年6歳》
鎌倉幕府御家人和田平太胤長の娘。
名前のよみかたは未詳。
鵑はホトトギス、あるいはサツキ、ヤマツツジのこと。
建暦3年(1213)2月15日のこと、
泉親衡という信濃国の御家人が、鎌倉幕府に対して謀反を企てていることが発覚した。
親衡の郎従の弟である阿静房安念という僧が、鎌倉で仲間を募っていたところ捕らえられ、
事態が明るみになったのである。
親衡は、幽閉のすえ殺害された2代将軍源頼家の遺児を擁して挙兵し、
執権北条義時を討つ計画だったという。
安念の自白により、
中心メンバーに30人余、そのほか総勢200人の関与が明らかになり、
次々に検挙されていった。
そのなかには、
幕府侍所別当和田義盛の息子義直・義重兄弟や、甥の胤長も含まれていた。
捕らえられた和田義直・義重は、それぞれ伊東祐長・祐広に、
胤長は、北条義時の腹心金窪行親・安東忠家に預けられた。
このとき、一族の長である義盛は上総国伊北荘(千葉県勝浦市ほか)にいたが、
事態を聞いて慌てて鎌倉に戻り、
3月8日、将軍源実朝の御所に参上して、息子ふたりの宥免を訴えた。
実朝も、義盛のこれまでの勲功に応じて、義直・義重を赦した。
しかし、胤長の赦免には及ばなかった。
翌9日、
義盛は、今度は一族98人を率いて将軍御所に参上し、
南庭に列座して胤長の赦免を求めた。
しかし、幕府の宿老大江広元が、
謀反の首謀者のひとりである胤長を赦免するわけにはいかない、と進言したため、
和田一族が列座する前で、
後ろ手に縛られた胤長は、金窪・安東から侍所の二階堂行村に引き渡された。
和田一族が味わわされた屈辱は、いかばかりであったか。
かくして、和田胤長は陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市ほか)に配流されることとなった。
胤長には、6歳になるその娘荒鵑がいたが、
荒鵑は、父との別れを悲しむあまり憔悴し、病に臥してしまった。
あまりの衰弱ぶりに、心配した周囲は一計を案じ、
父胤長と風貌の似ている一族の和田朝盛(義盛の孫)に、胤長のふりをさせ、
あたかも父が家に帰ってきたかのように思わせて、荒鵑を元気づけようとした。
荒鵑は、いささか持ち直したように顔をあげて、その姿を見たが、
それもつかの間、ついに閉眼してしまった。
父の配流が決まってから10日余り、3月21日のことであった。
荒鵑の亡骸は父胤長に葬られ、
27歳の母は、その日のうちに鶴岡善松坊重賀のもとで出家した。
なお、
父のふりをした和田朝盛は、
4月、将軍実朝と一族との板挟みとなって遁世し、
5月、和田一族は挙兵のすえ滅亡、
父胤長も、配所の陸奥国岩瀬郡の鏡沼辺り(福島県鏡石町)で誅殺された。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
鎌倉幕府御家人和田平太胤長の娘。
名前のよみかたは未詳。
鵑はホトトギス、あるいはサツキ、ヤマツツジのこと。
建暦3年(1213)2月15日のこと、
泉親衡という信濃国の御家人が、鎌倉幕府に対して謀反を企てていることが発覚した。
親衡の郎従の弟である阿静房安念という僧が、鎌倉で仲間を募っていたところ捕らえられ、
事態が明るみになったのである。
親衡は、幽閉のすえ殺害された2代将軍源頼家の遺児を擁して挙兵し、
執権北条義時を討つ計画だったという。
安念の自白により、
中心メンバーに30人余、そのほか総勢200人の関与が明らかになり、
次々に検挙されていった。
そのなかには、
幕府侍所別当和田義盛の息子義直・義重兄弟や、甥の胤長も含まれていた。
捕らえられた和田義直・義重は、それぞれ伊東祐長・祐広に、
胤長は、北条義時の腹心金窪行親・安東忠家に預けられた。
このとき、一族の長である義盛は上総国伊北荘(千葉県勝浦市ほか)にいたが、
事態を聞いて慌てて鎌倉に戻り、
3月8日、将軍源実朝の御所に参上して、息子ふたりの宥免を訴えた。
実朝も、義盛のこれまでの勲功に応じて、義直・義重を赦した。
しかし、胤長の赦免には及ばなかった。
翌9日、
義盛は、今度は一族98人を率いて将軍御所に参上し、
南庭に列座して胤長の赦免を求めた。
しかし、幕府の宿老大江広元が、
謀反の首謀者のひとりである胤長を赦免するわけにはいかない、と進言したため、
和田一族が列座する前で、
後ろ手に縛られた胤長は、金窪・安東から侍所の二階堂行村に引き渡された。
和田一族が味わわされた屈辱は、いかばかりであったか。
かくして、和田胤長は陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市ほか)に配流されることとなった。
胤長には、6歳になるその娘荒鵑がいたが、
荒鵑は、父との別れを悲しむあまり憔悴し、病に臥してしまった。
あまりの衰弱ぶりに、心配した周囲は一計を案じ、
父胤長と風貌の似ている一族の和田朝盛(義盛の孫)に、胤長のふりをさせ、
あたかも父が家に帰ってきたかのように思わせて、荒鵑を元気づけようとした。
荒鵑は、いささか持ち直したように顔をあげて、その姿を見たが、
それもつかの間、ついに閉眼してしまった。
父の配流が決まってから10日余り、3月21日のことであった。
荒鵑の亡骸は父胤長に葬られ、
27歳の母は、その日のうちに鶴岡善松坊重賀のもとで出家した。
なお、
父のふりをした和田朝盛は、
4月、将軍実朝と一族との板挟みとなって遁世し、
5月、和田一族は挙兵のすえ滅亡、
父胤長も、配所の陸奥国岩瀬郡の鏡沼辺り(福島県鏡石町)で誅殺された。
〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
ブログ内検索
人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 1350~1399
1350 | ||
1351 | 1352 | 1353 |
1355 | ||
1357 | ||
1363 | ||
1364 | 1365 | 1366 |
1367 | 1368 | |
1370 | ||
1371 | 1372 | |
1374 | ||
1378 | 1379 | |
1380 | ||
1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
1400 | ||
1402 | 1403 | |
1405 | ||
1408 | ||
1412 | ||
1414 | 1415 | 1416 |
1417 | 1418 | 1419 |
1420 | ||
1421 | 1422 | 1423 |
1424 | 1425 | 1426 |
1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
1430 | ||
1431 | 1432 | 1433 |
1434 | 1435 | 1436 |
1437 | 1439 | |
1441 | 1443 | |
1444 | 1446 | |
1447 | 1448 | 1449 |
1450 | ||
1453 | ||
1454 | 1455 | |
1459 |
没年 1460~1499
没日
1日 | 2日 | 3日 |
4日 | 5日 | 6日 |
7日 | 8日 | 9日 |
10日 | 11日 | 12日 |
13日 | 14日 | 15日 |
16日 | 17日 | 18日 |
19日 | 20日 | 21日 |
22日 | 23日 | 24日 |
25日 | 26日 | 27日 |
28日 | 29日 | 30日 |
某日 |
享年 ~40代
6歳 | ||
9歳 | ||
10歳 | ||
11歳 | ||
15歳 | ||
18歳 | 19歳 | |
20歳 | ||
22歳 | ||
24歳 | 25歳 | 26歳 |
27歳 | 28歳 | 29歳 |
30歳 | ||
31歳 | 32歳 | 33歳 |
34歳 | 35歳 | |
37歳 | 38歳 | 39歳 |
40歳 | ||
41歳 | 42歳 | 43歳 |
44歳 | 45歳 | 46歳 |
47歳 | 48歳 | 49歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
最新コメント
[01/18 記主]
[01/16 記主]
[10/20 世良 康雄]
[08/18 記主]
[09/05 記主]
[04/29 記主]
[03/07 記主]
[01/24 記主]
[03/18 記主]
[03/20 記主]
アクセス解析
忍者アナライズ
P R