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死に様データベース
《病死》 《1447年》 《4月》 《27日》 《享年37歳》


内裏女房、掌侍。
前参議高倉永藤の娘、右兵衛督高倉永豊の妹。


応永32年(1425)11月、高倉藤子は15歳で掌侍として称光天皇に出仕し、
「新内侍」、ついで「藤内侍」と呼ばれた。
次の後花園天皇の代にもそのまま仕え続け、
永享2年(1429)正月に、従五位下、
同年末に、従五位上に叙されている。
父永藤の名にちなむ藤子の名は、出仕の際か叙位の折につけられたものだろう。


文安4年(1447)4月26日朝、
数日続いた「腹所労」により、藤子は内裏を退出した。
ほどなく危篤に陥り、翌27日、他界。
出仕から20年余、「禁中不断祗候」(『建内記』)といわれたが、
発病、退出からあっという間の死であった。
「不便々々(ふびんふびん)」(『建内記』)


兄の高倉永豊のもとを弔問に訪れた官人中原師郷は、
人づてに滋野井実益の卒中のことを聞いている。


〔参考〕
『増補史料大成 康富記 2』(臨川書店、1965年)
『大日本古記録 建内記 8』(岩波書店、1978年)
『史料纂集 師郷記 4』(続群書類従完成会、1987年)
松薗斉「室町時代の禁裏女房―後花園天皇の時代を中心に―」(『中世禁裏女房の研究』思文閣出版、2018年、初出2016年)
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《病死》 《1496年》 《5月》 《20日》 《享年57歳》


従一位。
権大納言裏松重政の娘、内大臣日野勝光の同母妹。
室町幕府8代将軍足利義政の正妻で、
同9代将軍足利義煕(もと義尚)と南御所光山聖俊を産んだ。

かつては、蓄財にはしり、政治に混乱をもたらした元凶、
応仁・文明の乱や数々の政変の黒幕などといわれたが、
そこには、史料や論者が抱えるジェンダーバイアスもある。
脇田晴子『中世に生きる女たち』の文を借りれば、
日野富子の悪評は、男がつねにやってきた政治権力悪を、
 女がもっと強烈にやったから、男より悪くいわれたにすぎない」
というわけだ。
現在は、私財を応仁・文明の乱の停戦や朝廷の維持に惜しみなく投じたり、
政治を放棄した夫義政に代わって執政し、幕政を牽引するなど、
室町幕府と朝廷の維持・運営に貢献した功労者であった、
との評価がもっぱらである。


長享3年(1489)3月、嫡男義煕に先立たれた富子は、
落髪しようとしたが、周囲に慰留され、
翌延徳2年(1490)正月、夫義政を亡くしたおりに落髪。
妙善院と号した。
晩年は小川御所にあって、小川御台などとよばれた。

夫の甥義材が10代将軍となると、その実父の足利義視が実権を握ったが、
富子と義弟義視との折り合いは、いまひとつだったらしい。
明応2年(1493)4月、管領細川政元がクーデターを起こして、
義材の従弟義遐を11代将軍に迎えると、富子もこれを支持した。
とはいえ、富子と義遐の間も、さほど良好というものではなかったらしい。
もっとも、夫義政とも、息子義煕とも、
富子は円満な関係を維持していたわけではないが。


明応5年(1496)4月半ば、
富子は、人々を猿楽観覧に招くほど元気であったが、
ひと月後の5月17日、にわかに体調をくずした。
20日、そのまま危篤に陥り、
夕方酉の終わりごろ(夜7時ごろ)、他界。
子の刻(深夜0時ごろ)であったとも。

 富むこと金銭を余し、貴きこと后妣に同じ。
 有待の習い、無常の刹鬼の責め、遁避せざるの条、
 嘆くべし嗟くべし。(『実隆公記』)

 およそ将軍家の御名残たるか。
 殊に富貴の余慶有りて、七珍なお庫蔵に満ちおわんぬ。(『和長卿記』)

「有待(うだい)」とは、人身の儚さをいい、
「無常の刹鬼」とは、そのおそろしさを鬼にたとえたもの。
決して地獄へ堕ちたと思われたわけではない。
富子が富貴な人とみられていたことがうかがえるものの、
訃報に接した者たちがみな、富子の財産に言及しているのは、
よほどのものだったのだろう。

将軍近習家出身の五山僧景徐周麟も、
追悼文「妙善院殿起骨」に次のように記す。

 垂簾中四海九州、易簀須一病三日。
 散花天女叫同年、黙数維摩五十七。
 新物故妙善院殿一品慶山大禅定尼
 妝楼を磕破し、富窟を踢翻す。
 これ大丈夫の流、児女子の列に非ず。
 落日西没、二妾側に侍す。(『翰林胡蘆集』)

 (御台として全国を統治したが、罹病3日で逝去してしまった。
  散花の天女によれば、私と同じく57歳であったという。
  このほど逝去した妙善院殿一品慶山大禅定尼(富子)は、
  側妾〈もしくは女郎〉の住居を叩き壊し、富者の根城を蹴り飛ばした。
  これらのことは、成人の男こそなせども、並の女子どもがすることではない。
  近ごろは斜陽のごとく、女房が2人近仕するばかりであった。)

富子のかつての豪腕ぶりと、晩年のひそやかな暮らしぶりを伝えている。
「押しの大臣」と呼ばれた兄勝光に劣らぬ押しの強さを、
富子も備えていたのだろう。

享年は、56歳から59歳まで記録によりまちまちだが、
景徐周麟が記した57歳が確実であろうか。

天下触穢。


貴人の死ということで、22日にはさっそく、
廷臣や女房の間で、富子の肖像画について話し合われている。
作画は御用絵師の狩野正信が担当したが、衣裳の色などがわからず、
権大納言三条西実隆は、
嘉楽門院(後土御門天皇の母大炊御門信子)の肖像画を参照するよう伝えている。


いっぽう、富子の葬送については話が進まなかった。
死去から5日後の25日、
富子の遺体は、足利氏の菩提寺のひとつ北山等持院に移されたが、
荼毘(火葬)の場所や予定は決まらず、
さらに葬儀は半月以上先の来月14日とされた。
この幕府の決定を、人々は訝しんだという。

小川御所は喪中になったものの、
荼毘も葬儀もなされぬまま、
夏の盛りにもかかわらず、富子の遺体は等持院に留め置かれた。


6月14日、ようやく等持院で葬儀が執り行われ、
権中納言勧修寺政顕らが参列した。
義理の甥にあたる将軍足利義高(もと義遐)は、
母の喪に準じて、重服として喪に服したが、葬儀には出席しなかった。

富子の葬儀が20日以上も引き延ばされたのは、
将軍義高自身の指導力不足ばかりでなく、
そもそも富子が将軍の実母でなく、義高との親密さを欠いていたこともあっただろう。


同日、内裏でも追善の連歌会が催され、
勝仁親王(のちの後柏原天皇)や伏見宮邦高親王、三条西実隆らが出席し、
勝仁親王は、

 朝露はみし夕顔の名残かな
 あはれを問はばなでしこの宿

と詠んだ。
「なでしこ」とは、親に先立たれた子の意を含み、
勝仁親王自身が、富子を母と慕い、その急逝の儚さを嘆いたものか。
富子の慕われようが垣間見え、いささか救われるようである。


6月26日、中陰結願。

7月にも、
能書家の三条西実隆へ、富子の詠草の裏を返して盂蘭盆経の書写を求める者が来るなど、
富子の死を悼む者が続いたが、
人々の関心はもっぱら、
「七珍万宝は、公方(義高)か南御所(光山聖俊)か何方へ召さるべきか」(『大乗院寺社雑事記』)
「有徳の仁として財宝、今において詮なくおわんぬ」(『親長卿記』)
と、やはり富子の遺産のゆくえに向けられた。
富子の実子で存命なのは、娘の南御所光山聖俊のみであったが、
将軍家の家産の統括者として見れば、その相続者は将軍義高であった。
だが、急死ゆえに、
富子が遺産をどう処理するつもりだったのか、遺言を残せなかったのだろう。
結局、その処分は将軍義高が行った。



〔参考〕
三浦周行『歴史と人物』(東亜堂書房、1916年)
脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波書店、岩波新書、1995年)
田端泰子『足利義政と日野富子 夫婦で担った室町将軍家』(山川出版社、日本史リブレット人、2011年)
田端泰子『室町将軍の御台所 日野康子・重子・富子』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2018年)
田端泰子『日野富子 政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事』(ミネルヴァ書房、ミネルヴァ日本評伝選、2021年)
『後法興院記 下巻』(至文堂、1930年)
『実隆公記 巻3』(太洋社、1933年)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
『五山文学全集 第4輯』(民友社/貝葉書院、1915年)
《病死》 《1489年》 《3月》 《10日》 《78歳》


賀茂社神主森益久の娘。
後花園上皇の女房。

讃岐局、次いで中将局として後花園上皇に仕えた。
これらの女房名からすると、
はじめ下﨟だったが、のちに中﨟にのぼったと推測される。
文明2年(1470)12月の後花園法皇の崩御に際して、
女房づとめを退いて出家し、慶徳庵と名乗ったのだろうか。
「年来数奇」(『親長卿記』)というから、
和歌などに優れていたのだろう。


長享3年(1489)の春ごろ、慶徳庵が死期に近づくと、
弟の賀茂社神主森貞久は、絵師に命じての寿像(肖像画)を描かせた。
寿像が完成すると、慶徳庵は一首を寄せて辞世とした。

 のこしてもなにゝかはせんあだし野の草葉にきゆる露の面影(『親長卿記』)

「私の寿像など描き残して何になろう」という、
弟の行いに対するいささか皮肉めいたものを感じる。
なお、下の句は一説に「草葉にやどる露の面影」(『実隆公記』)であったとされるが、
面影も消えたほうが皮肉が効いていようか。


そうして、長享3年(1489)3月10日朝、逝去。
78歳とも79歳とも。
上の寿像と辞世の話を後土御門天皇から聞いた三条西実隆は、
「老病のうち、優美のことなり」(『実隆公記』)と記している。



〔参考〕
『実隆公記 巻2』(1932年) →該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
『増補史料大成 親長卿記 3』(臨川書店、1965年)
《事故死》 《1477年》 《3月》 《29日》 《享年不明》


畠山式部大輔家の下女。


文明9年(1477)3月29日、京都の畠山式部大輔の宿所において、
下女が井戸へ「堕落死」した(『実隆公記』)
井戸は転落事故も起こるが、中世にもしばしば身投げに使われた。
この下女の死が、身投げだったか事故だったかは不明だが、
ここではひとまず事故死に分類した。

これにより、畠山式部大輔の宿所は触穢となり、
室町幕府は「乙穢」、禁裏は「丙穢」となった。
「乙穢」とは、二次的な触穢、
「丙穢」とは、三次的な触穢のことをいう。

穢れの話ばかりで、下女の身の上についてはなにも伝わらない。



〔参考〕
『実隆公記 巻1』(大洋社、1931年) ―該当記事(国立国会図書館デジタルコレクション)
《誅殺》 《1479年》 《5月》 《5日》 《享年不明》


*****ドメスティック・バイオレンスに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****


応仁・文明の乱の余燼がまだ消えやらぬ文明11年(1479)のころ、
京都四条西洞院の北西の角に、とある「在家」の一家が住んでいた。
「在家」とは、ここでは庶民(の家)といったほどの意味であろう。
夫婦には幼い子もあったが、
夫はなんと、「妾」も同居させていたらしい。

5月5日、
妻は「妾」のことで、夫を激しく責め立てた。
「妾」を妬んでのことであったというが、
日ごろより思うところがあり、それが募ったすえであろう。
しかし、夫は逆上したのか、妻を殺害。
さらに、幼子にも手をかけた。
「希代の所行」(「晴富宿禰記」)

騒ぎを聞きつけた人々が、所司代に通報しようとしたところ、
夫は逐電。
「妾」の顚末も知れない。


女性の主張は、“嫉妬”とかたづけられ、
身内への暴力は、いともたやすく激化する。
およそ「耐えられるDV」などというものは、この世に存在しない。


〔参考〕
『図書寮叢刊 晴富宿禰記』(宮内庁書陵部、1971年)
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