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死に様データベース
《病死》 《1095年》 《6月》 《9日》 《享年80歳》


右大臣藤原頼宗の次女で、藤原道長の孫にあたる。
母は内大臣藤原伊周の娘。
幼少期より一条院の皇女脩子内親王に養育された。


長久3年(1042)3月22日、延子は27歳で後朱雀天皇に入内。
10月9日、女御となって、内裏の麗景殿を居所とし、
高倉女御、あるいは麗景殿女御と呼ばれた。
当時としては、入内時の年齢が高いのは、
娘の入内をめぐる父親たちのかけひきがあったためのようである。

長久5年(1044)正月、従四位上に叙され、まもなく懐妊したが、
翌寛徳2年(1045)正月18日、後朱雀天皇が37歳で崩御してしまった。
後冷泉天皇が即位すると、延子は30歳で内裏を退出し、
4月20日、正子内親王を出産。

 こぞ(去年)よりも色こそ濃けれ萩の花涙の雨にかゝる秋には(『今鏡』)

これは、延子がその翌年秋に詠んだ歌で、
勅撰集『後拾遺和歌集』にも哀傷の歌として入集している。


永承3年(1048)正月に従三位、
永承5年(1050)正月に従二位と昇っており、
父頼宗の存命中は、先帝の女御であっても相応に重んじられたようである。
また、延子は音楽と和歌に堪能だったらしく、
永承5年(1050)4月には歌合を催すなど、文化面での存在感をもっていたようである。
康平3年(1060)4月、延子は父より封戸500烟を譲与されている。


延久5年(1073)5月12日、延子は58歳で病気を理由に出家。
寛治7年(1093)11月26日に、近江園城寺で堂供養をしているのは、
夫後朱雀院か父頼宗の追悼のためだろうか。


そして、
嘉保2年(1095)6月9日夜半、
延子は「霍乱」により、にわかに薨じた(『中右記』)
80歳だったという。
「霍乱」とは、暑気あたりか食あたりなどのこと。
急死というから、80歳でもおおむね健康だったのだろう。

後朱雀院の没後50年のこと。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 2』(岩波書店、1996年)
竹鼻績全訳注『今鏡 下』(講談社学術文庫、1984年)
高橋由記「後朱雀天皇とキサキの文学的営為・文化圏についての一考察―女御延子を中心に―」(研究代表者福田景道『平成25年度~平成27年度国文学研究資料館共同研究(特定研究)成果報告書 歴史叙述と文学』国文学研究資料館、2017年)
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《病死》 《1093年》 《10月》 《21日》 《享年73歳》


大舎人頭藤原親国の娘。母は未詳。
春宮大進藤原隆経の妻となり、息子顕季を産んだ。


天喜元年(1053)6月、
春宮尊仁親王(のち後三条天皇)に第一皇子貞仁が生まれると、
親子は33歳でその乳母のひとりに選ばれた。
乳母にはほかに、藤原資業の娘もいたが、こちらは貞仁が5歳のときに死去し、
親子が「唯一の御乳母」となった(『中右記』)
なお、貞仁の実母藤原茂子も、康平5年(1062)6月に薨じている。


延久4年(1073)12月、親子53歳のとき。
貞仁親王は、父後三条天皇の退位を受けて皇位を嗣いだ(白河天皇)
親子は天皇の乳母として従五位下から正三位に昇り、
白河天皇の退位後も重んじられて、
跡を嗣いだ堀河天皇も、父白河院の仙洞御所に次いで、
親子のもとに行幸している。
従二位に叙されたのち、親子は落飾し、
法勝寺の南東にお堂を建てて、念仏の日々を送った。

寛治7年(1093)9月中頃、親子は病に臥した。
10月4日夕刻、白河上皇はわずかの供を連れて、洛東の親子を見舞った。
親子の容態は思わしくなかったようで、
10日にも白河上皇の見舞いを受けている。

21日朝、親子薨ず。73歳。
「上皇の御愁歎、殊に深しと云々」(『中右記』)
白河上皇はこのとき40歳。
なお、このころ京都では疱瘡(天然痘)が流行していたようだが、
親子が罹患していたかは定かでない。


親子の息子で、白河院の乳母子(乳兄弟)にあたる藤原顕季は、
院の信任も厚く、受領を歴任して財をなし、正三位まで昇った。
受領系の院近臣の典型とされるひとりである。
その子孫からは、四条家や山科家、六条藤家などが出て、大いに栄えた。
その礎に、院の乳母であった親子の存在があったことは、いうまでもない。



〔参考〕
『大日本古記録 中右記 1』(岩波書店、1993年)
竹鼻績全訳注『今鏡 上』(講談社学術文庫、1984年)
田端泰子『乳母の力―歴史を支えた女たち―』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー、2005年)
《誅殺》 《1138年》 《11月》 《9日》 《享年20代》


*****性暴力とフェミサイドに関する記事です。閲覧にご注意ください。*****


参議藤原家政の娘。
鳥羽上皇の后である待賢門院藤原璋子に仕え、
鳥羽上皇の皇女妍子内親王を産んだ。
ただし、出産まもないころか、長承2年(1133)6月に、
(三条局)の心、すこぶる穏やかならず」として、
鳥羽上皇から娘の同居を却けられている(『長秋記』)



保延4年(1138)11月9日の夜、
三条局は参籠のためか、伏見稲荷近くのお堂にいた。
そこで乳母子の河内二郎清原盛資に「密通」を迫られ、
拒んだところ、殺害された(『帝王編年記』)

父家政の生没年(1080-1115)と娘妍子内親王の生年(1133以前)からして、
20代半ばから30歳前後であったろうか。


犯人の河内二郎盛資は捕えられ、獄中で死去。
その父の河内守清原俊資は、縁坐により解官のうえ「移郷」(強制移住)に処され、
12月7日夜、検非違使によって逢坂の関の外へ放逐された(『上卿故実』)


中世における乳母子(乳兄弟)とのつながりは、擬制的な血縁関係として重視され、
中世初頭の政治史においても、とりわけ権力者の乳母子は重要な存在とされている。
だが、
乳母子との関係が、ときとして性暴力に発展し、フェミサイドを引き起こすこともあったことに、
注意が必要である。



〔参考〕
『群書類従 第5輯(公事部)』(経済雑誌社、1905年)
『新訂増補国史大系 扶桑略紀 帝王編年記』(吉川弘文館、1932年)
『新訂増補国史大系 尊卑分脈 第1篇』(吉川弘文館、1957年)
『増補史料大成 長秋記』(臨川書店、1981年)
竹鼻績全訳注『今鏡 下』(講談社学術文庫、1984年)
角田文衛『日本の後宮 本編』(学燈社、1973年)
《病死》 《1084年》 《9月》 《22日》 《享年28歳》


右大臣源顕房とその正妻源隆子の娘。
白河天皇の中宮。


延久3年(1071)3月、15歳のとき、
賢子は左大臣藤原師実の養女として、皇太子貞仁親王に祗候した。
貞仁はこのとき18歳。

翌年、貞仁が即位すると(白河天皇)
翌々年の延久5年(1073)7月、賢子は女御となって従四位下に叙され、
翌延久6年(1074)6月、立后して中宮となった。
承保元年(1075)12月には、第一皇子の敦文親王を産んでいる(ただし早逝)


応徳元年(1084)9月15日、
中宮賢子はにわかに健康を害した。
「邪気の所為」と診断されたという(『扶桑略記』)

実父の右大臣源顕房は、人相見であり、
その少し前、娘賢子のもとに参上したおり、
の薄命を悟って、その一両年の余命を予感していた。
顕房の妻は「縁起でもない、こんなに元気なのに」と夫を難じたが、
顕房は、
  美麗によるべからざるなり。
  生気なく成り給いたるものを。
として、今年か来年を越せないだろう、と言ったという(『古事談』巻6)

数日前から天王寺(現・大阪市天王寺区)や住吉社(現・同住吉区)の参詣に出かけていた実父顕房は、
の病を聞いて、予定を切り上げて帰洛した。
17日、養父母の関白師実・麗子夫妻も、賢子を見舞っている。
和歌会なども取りやめとなり、皆ひっそりと賢子の容態を見守ったが、
病状は重篤であった。

22日卯の刻(朝6時頃)、里内裏三条殿において、中宮賢子崩御。享年28。
「万人泣涕止み難し」(『後二条師通記』)
後代の所伝によると、
白河天皇は内裏が死穢となることを厭わず、危篤の賢子を内裏に留め、
臨終の際も賢子の腰を抱いて、離れようとしなかった。
中宮大夫藤原俊明が、「天皇が臨終に立ち会う先例はない」と諫言して離席を促すと、
白河天皇は、
  例はこれよりこそ始まらめ。
と突っぱねたという(『古事談』巻2)
天皇はこのとき31歳。
実際、悲しみのあまり、天皇は数日の間食事を摂らず、24日、悶絶した。
程なく快復したというが、悲嘆の程が知れよう。

24日、賢子の遺骸は四条高倉の備後守高階経成の邸に移され、
10月1日、鳥辺野で火葬された。

白河天皇は、賢子の月命日の毎月22日のたびに、
丈六(1丈6尺、5m弱、仏像の標準サイズ)の阿弥陀如来像を造立し、曼荼羅供を修することを定め、
一周忌までの間は、天下の政を停止して、節会や宴会の類も悉く中止とした。
この間、世間でも波風の立つような騒動など起きず、
人々は、
  およびなく影も見ざりし月なれど雲隠るゝは悲しかりけり
と謳い、
翌年9月に右大弁藤原通俊は、
  しぐれつゝ朽ちにし袖はいかゞするあはれうかりし秋は来にけり
と詠んだという(『栄花物語』巻40)
いずれも賢子の他界を悲しむ歌だが、
かたや、雲の上の賢子を見たことのない月に喩え、
かたや、一年経っても涙がしぐれて袖が朽ちる、と嘆いてみせる。
これらを、いつまでも悲嘆に暮れて世の賑わいを消した白河天皇への皮肉と読むのは、
いささか邪推に過ぎようか。

なお、内裏女房で歌人の周防内侍も、賢子を偲んで、
  浅茅原はかなくおきし草の上の露をかたみと思ひかけきや
  いかにしてそらに知るらん世の中のこの月まではくもるべしとは
と詠んでいる。


翌応徳2年(1085)7月10日、
賢子の遺骨は、醍醐寺に新造された円光院という堂に納められた。
白河天皇はこのほか、
比叡山の麓に円徳院、同山内の飯室に勝楽院、洛東白河の法勝寺に常行堂を建てて、
賢子の菩提を弔った。
寛治元年(1087)12月には、実子の堀河天皇によって、賢子に太皇太后の称号が贈られている。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 扶桑略記 帝王編年紀』(吉川弘文館、1932年)
『日本古典文学大系 栄花物語 下』(岩波書店、1965年)
『新日本古典文学大系 古事談 続古事談』(岩波書店、2005年)
東京大学史料編纂所データベース
古池由美「堀河天皇の父と母―堀河天皇誕生から即位まで―」(『安田女子大学大学院文学研究科紀要』4集4号、1999年)
《事故死》 《1151年》 《12月》 《26日》 《享年不明》


仁平元年(1151)12月26日、
京都西京の六条辺りで、
「豺狼」が「下女一人」を「喫殺」したという(『本朝世紀』)


「豺狼」は、やまいぬやオオカミの類のこと。
「喫」は「くらう」と訓ず。

冬場に餌を求めて人里に下りたものか。
獣害はいつの時代も人身を脅かす。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 本朝世紀』(吉川弘文館、1933年)
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