死に様データベース
《病死》 《1096年》 《8月》 《7日》 《享年21歳》
名は媞子。内親王。
父は白河天皇。母は中宮藤原賢子。
承保3年(1076)4月5日、白河天皇の第一皇女として生まれて、
まもなく内親王となり、
承暦2年(1078)3月16日、3歳で准三后となって、
同年8月2日、伊勢斎王となることが決まった。
承暦4年(1080)9月、5歳で伊勢へ赴くも、
応徳元年(1084)9月、母の死去により斎宮を退いて、同年中に帰京した。
京都に戻った媞子は、
寛治元年(1087)12月16日、
12歳で同母弟堀河天皇9歳の母になぞらえられて、入内し、
寛治5年(1091)正月22日、
16歳でその中宮に立てられた。
そして、寛治7年(1093)正月19日、
18歳で女院号を与えられて、郁芳門院と号した。
擬制的ながら、実弟の妻であり母であるという女性の立場に当てられたのである。
不婚の内親王が天皇の准母となるのは、この郁芳門院媞子が初例であり、
白河上皇が、皇統のライバルであった異母弟輔仁親王を牽制して、
自身とその子らの正統性を補強するために実行した、とされている。
媞子は白河上皇最愛の娘であり、
「天下の威権、ただこの人にあり」(『中右記』)といわれるほどであった。
だが、それに驕ることはなかったようで、
「進退美麗、風容甚だ盛ん。
性もとより寛仁、接心、好施」(同前)
であったという。
立ち居振る舞いが美しく、華があり、
性格も穏やかで慈悲深かった、といったところか。
しかし、京都で暮らす媞子の身は、病魔に冒されていた。
寛治3年(1089)頃から、媞子は春になるたびに「邪気」に襲われ、
そのつど神仏への祈禱がしきりになされたが、効果はなかった。
嘉保3年(1096)の春は、比較的平安に過ごしたようだが、
7月下旬より発熱などの症状があらわれた。
これにより、朝廷は儀式の一部を停止し、
父上皇は毎日読経をした。
だが、
8月7日寅の刻(午前4時頃)、六条殿の寝殿で薨去。
21歳であった。
母娘ともども、若くして「邪気」に命を奪われたのである。
「生死無常、誠に春夢のごときか。仰天伏地、歎いて余りあり。」(『中右記』)
と、左中弁藤原宗忠は嘆いているが、
なにより悲嘆に暮れたのは、父の白河上皇であった。
「上皇こののち御神心迷乱。
東西を知らしめ給はずと云々。」(同前)
右も左もおぼつかないほどのうろたえようだったのである。
翌8日、入棺。
この日、郁芳門院の乳母子の左衛門大夫藤原知信が出家した。
9日、白河上皇も、周囲の制止を聞かずに出家。
16日戌の刻(夜8時頃)、日中の小雨が夜半に本降りとなるなか、
郁芳門院の棺は車に乗せられ、六条殿を出た。
当時、弔いの念仏は出棺後に始めるのが習わしだったが、
父の白河上皇は、それに反して出棺前から念仏を始めたという。
棺は東洞院大路、五条大路、大宮大路を通って、船岡山の北へ運ばれ、火葬された。
遺灰は、叔父で院司だった右近衛少将源顕雅が運び、
母賢子と同じ醍醐寺円光院に納められた。
9月26日の四十九日を迎えるまで、
父上皇によって多くの仏事が営まれた。
その後、郁芳門院の同母妹令子内親王が、
白河上皇の孫鳥羽天皇の准母に立てられたが、
このとき白河上皇は、
郁芳門院を強引に立后したことが、その若すぎる死を招いた、と悔い、
令子立后の主導を避けた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
栗山圭子『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)
名は媞子。内親王。
父は白河天皇。母は中宮藤原賢子。
承保3年(1076)4月5日、白河天皇の第一皇女として生まれて、
まもなく内親王となり、
承暦2年(1078)3月16日、3歳で准三后となって、
同年8月2日、伊勢斎王となることが決まった。
承暦4年(1080)9月、5歳で伊勢へ赴くも、
応徳元年(1084)9月、母の死去により斎宮を退いて、同年中に帰京した。
京都に戻った媞子は、
寛治元年(1087)12月16日、
12歳で同母弟堀河天皇9歳の母になぞらえられて、入内し、
寛治5年(1091)正月22日、
16歳でその中宮に立てられた。
そして、寛治7年(1093)正月19日、
18歳で女院号を与えられて、郁芳門院と号した。
擬制的ながら、実弟の妻であり母であるという女性の立場に当てられたのである。
不婚の内親王が天皇の准母となるのは、この郁芳門院媞子が初例であり、
白河上皇が、皇統のライバルであった異母弟輔仁親王を牽制して、
自身とその子らの正統性を補強するために実行した、とされている。
媞子は白河上皇最愛の娘であり、
「天下の威権、ただこの人にあり」(『中右記』)といわれるほどであった。
だが、それに驕ることはなかったようで、
「進退美麗、風容甚だ盛ん。
性もとより寛仁、接心、好施」(同前)
であったという。
立ち居振る舞いが美しく、華があり、
性格も穏やかで慈悲深かった、といったところか。
しかし、京都で暮らす媞子の身は、病魔に冒されていた。
寛治3年(1089)頃から、媞子は春になるたびに「邪気」に襲われ、
そのつど神仏への祈禱がしきりになされたが、効果はなかった。
嘉保3年(1096)の春は、比較的平安に過ごしたようだが、
7月下旬より発熱などの症状があらわれた。
これにより、朝廷は儀式の一部を停止し、
父上皇は毎日読経をした。
だが、
8月7日寅の刻(午前4時頃)、六条殿の寝殿で薨去。
21歳であった。
母娘ともども、若くして「邪気」に命を奪われたのである。
「生死無常、誠に春夢のごときか。仰天伏地、歎いて余りあり。」(『中右記』)
と、左中弁藤原宗忠は嘆いているが、
なにより悲嘆に暮れたのは、父の白河上皇であった。
「上皇こののち御神心迷乱。
東西を知らしめ給はずと云々。」(同前)
右も左もおぼつかないほどのうろたえようだったのである。
翌8日、入棺。
この日、郁芳門院の乳母子の左衛門大夫藤原知信が出家した。
9日、白河上皇も、周囲の制止を聞かずに出家。
16日戌の刻(夜8時頃)、日中の小雨が夜半に本降りとなるなか、
郁芳門院の棺は車に乗せられ、六条殿を出た。
当時、弔いの念仏は出棺後に始めるのが習わしだったが、
父の白河上皇は、それに反して出棺前から念仏を始めたという。
棺は東洞院大路、五条大路、大宮大路を通って、船岡山の北へ運ばれ、火葬された。
遺灰は、叔父で院司だった右近衛少将源顕雅が運び、
母賢子と同じ醍醐寺円光院に納められた。
9月26日の四十九日を迎えるまで、
父上皇によって多くの仏事が営まれた。
その後、郁芳門院の同母妹令子内親王が、
白河上皇の孫鳥羽天皇の准母に立てられたが、
このとき白河上皇は、
郁芳門院を強引に立后したことが、その若すぎる死を招いた、と悔い、
令子立后の主導を避けた。
〔参考〕
『大日本古記録 中右記 3』(岩波書店、1999年)
栗山圭子『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | 1096 | |
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1453 | ||
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 6歳 | ||
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | ||
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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