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死に様データベース
《不明》 《1202年》 《某月》 《某日》 《享年不明》


建仁2年(1202)の春頃、
鎌倉では将軍家2代の源頼家の御所で、
連日のように蹴鞠会が催されていた。
3月8日にも、蹴鞠会があり、
その後の宴席は、比企能員邸の庭木の花が見頃だとのことで、
将軍家の御所から場所を移して開催された。

その宴席に、京都から下ってきたという微妙という名の舞女が候じた。
歌舞もよく、頼家もご満悦だったようだが、
亭主能員によれば、この微妙には愁訴の旨があって、山河を越えて鎌倉に来たのだという。
頼家が尋ねると、微妙は泣きながら、途切れがちにこう訴えた。

「去る建久年中(1190~99)
 父の右兵衛尉為成は、他人の讒言に遭って捕らえられ、
 右京の獄舎に入れられました。
 その後、同所の囚人は陸奥へ移送することとなり、
 鎌倉将軍家の雑色に引き渡されましたが、
 父為成もそのうちにおりました。
 母は悲嘆の余りに世を去り、7歳であった私は、頼るべき兄弟もなく、
 長く孤独の恨みに沈んでおりましたが、
 への想いを抑えきれず、その安否をたしかめたいと、
 今こうして宴曲の芸を身につけて、東路を越えてきたのです。」(『吾妻鏡』、以下同)

これを聞いて涙しない者はなく、
頼家はさっそく陸奥へ使者を遣わして、為成の行方を捜させた。

この話は、尼御台北条政子の耳にも届き、
3月15日、政子が頼家の御所を訪れた際に、微妙も召され、
その巧みな芸を披露した。
微妙のを想う志に感じ入った政子もまた、陸奥へ使者を遣って為成を捜させた。
さらに、
使者が鎌倉に戻った際には、政子のもとへ直接報告に来るよう命じている。

その後もたびたび微妙は頼家に召され、宴席に候じたが、
陸奥から使者が帰ったのは、5ヶ月後の8月5日。
その報告は、為成の死去を知らせるものであった。

これを聞いた微妙は、「涕泣、悶絶躄地」(もだえ苦しみ、転げ回ること)
10日後の15日夜、
微妙は鎌倉亀谷の栄西の禅坊に入って、出家を遂げた。
法名は持蓮。
の夢後を弔うためであったのはいうまでもない。
憐れんだ政子は、微妙改め持蓮に鎌倉西郊の深沢にに居所を用意して与え、
政子の持仏堂にも参じるよう言い含めたという。


微妙の姿は、を想うけなげな女性像として称賛されたようで、
戦前には「列女伝」の類や修身の教科書などに、多く取り上げられたようである。


ただ、この娘の孝行譚にはおまけがつく。
鎌倉滞在中の微妙は、
古郡保忠という御家人と浅からぬ仲になっていた。
ふたりは「比翼連理の契り」をしていたが、
微妙は、保忠が本国の甲斐に帰っている間、その帰りを待たずに出家したのである。
3月24日、鎌倉に戻った古郡保忠は、微妙の出家を知る。
微妙が、栄西の門弟祖達の房にいることを聞いた保忠は、そこへ押しかけ、
微妙に会わせよと迫った。
その剣幕におそれおののいた祖達は、将軍御所に駆け込み、
鬱憤休まらざる保忠は、従僧らを打擲したため、
亀谷一帯はたちまち騒動になった。
まもなく鎮静したが、政子は平賀朝光を遣わして保忠を宥めている。
結局、27日なって保忠は将軍頼家の勘気を蒙り、
政子からも「理不尽の所行、奇怪」と叱責を受けた。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 吾妻鏡 前篇』(吉川弘文館、1964年)
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《病死》 《1505年》 《11月》 《7日》 《享年40代》


三条西家の下女。
文明初年(1470前後)のころから、三条西家に仕えていたらしい。


永正2年(1505)11月6日の夜、
梅枝は中風(脳卒中の類)を発し、人事不省に陥った。
主の三条西実隆は、「不便々々(ふびんふびん)」と言いつつも、
瀕死の梅枝の身を自邸から出して、今出川辺りの民家に移した(『実隆公記』)
自身に死穢が及ぶことを避けたためであろう。

翌7日、絶命。
30余年にわたって三条西家に仕えたというから、
40代半ば~後半であったろうか。
主の実隆は、「正直者であった」とその死を悼んでいる(『実隆公記』)



〔参考〕
『実隆公記 巻4』(太洋社、1935年) →該当箇所
《自害》 《1408年》 《5月》 《25日》 《享年不明》


慧春尼は南北朝末期から室町初期のひとだが、
その生涯は、江戸時代に編まれた高僧の伝記集、「重続日域洞上諸祖伝」巻2「日本洞上聯灯録」巻4に詳しい。
多分に伝説化している面もあろうが、
以下、これによりつつその事績をたどりたい。

*****以下、性的加害の描写があります。閲覧に十分ご注意ください。*****


曹洞宗の尼僧。
相模の糟谷氏出身。
兄は、相模足柄の大雄山最乗寺(現・神奈川県南足柄市)を開いた了庵慧明。


類いまれな容姿をもっていた慧春は、俗世に生きることを好まず、
30歳を過ぎるころ、兄了庵に師事して出家しようとした。
しかし、了庵は、
「出家は大丈夫(成人男性)のなすことであり、
 女子供は、自律できずに流されやすい。
 安易に女人を出家させて、法門を汚す者が多い」
の望みを却けた。
そこで慧春は、焼けた火箸を自らの顔に押し当てて容貌を変じ、再び出家を望んだ。
そのため、了庵はやむをえず出家を認めた。

慧春は大雄山で禅に励んで了庵の印可を得、やがてその力量を広く知られるようになった。


あるとき、了庵が鎌倉円覚寺に使者を派遣しようとしたところ、
弟子の男僧たちは、エリートの円覚寺僧との禅問答を嫌がって行こうとしなかった。
そこで、慧春が使者の役を買って出て、鎌倉へ赴いた。

慧春の俊英ぶりを知っていた円覚寺の僧たちは、虚を突いてその気を挫こうと企て、
ひとりの男僧が石段の途中で慧春を待ち構えた。
やってきた慧春に、その僧は衣の裾をからげて「陰を怒らせて」立ちふさがり、
「老僧の物三尺」
と言った。
そこで慧春もすかさず衣の裾をからげて、「牝戸」を開いて見せながら、
「尼の物底なし」
と応じた。
僧は恥じ入って、どこかへ退散してしまった。

山上に至り、住持に対面すると、
侍者が手洗い用の鉢に茶を点てて持ってきた。
慧春は動じず、
「これは和尚の日用の茶碗でしょう。どうぞお飲みください」
と返した。
住持は答えに窮し、応じえなかった。

これらの問答により、慧春の名望はさらにあがったという。


火箸で顔を焼いたとはいえ、慧春の容貌に心を動かすものは少なくなく、
あるとき、ひとりの男僧が慧春に「その情」を密かに告げ、「その欲」を遂げることを求めた。
慧春は「たやすいことだ」と応じ、ただ約束を違えないよう伝えたため、
その僧は「願いを聞き届けてくれるなら、湯火も辞さないどころではない」と喜んだ。
ところが、
ある日、師の了庵が堂に僧衆を集めたおり、
慧春は一糸まとわぬ「赤赤裸裸」の姿で「傲然」と現れ、
声高にその僧を呼び、
「汝と約あり。すみやかに来りて我につき汝の欲をほしいままにすべし」
と言った。
仰天したその僧は、ほどなく寺から逐電した。


慧春は晩年、大雄山の麓に摂取庵という庵をむすび、往来の人々に応対したという。


応永15年(1408)5月25日、
慧春は大雄山の三門前の盤石に、薪を積んで柴棚を作り、
自ら点火して火焔のうちに入滅した。
火と煙の勢いが増していくおり、兄で師の了庵が「熱いか」と尋ねると、
燃えさかる炎のなかで、慧春は声をあげて次のように答えたという。

 冷熱は生道人の知るところに非ず。

そうして、慧春は平然として火焔のなかで遷化し、
人々はその遺骨を拾って摂取庵に塔をつくり、弔ったとされる。
大雄山最乗寺の境内の片隅には、今も慧春尼堂が建っている。


慧春が生前、男僧から受けた仕打ちの数々は、慧春の高潔さを示す挿話として描かれているが、
その実、寺院という男性社会において女性が活動することの困難さを表している。
近世の創作だとしても、近世の寺院社会におけるジェンダー観を示すものにほかならない。
そもそも優れた容貌の持ち主だったというのも、
これら暴力の要因を慧春に転嫁し、
男僧の加害を“しかたのないもの”と見せるための方便に過ぎない。
その容貌を自ら傷つけたのも、
そこまでしなければ女性の決心が伝わらないという、コミュニケーション上の格差や、
女性は男性の宗教活動を妨げる存在であり、主体たりえないという、立場の断絶など、
性差別を克服するために取らざるをえなかった行為とされている。
慧春は、挿話に描かれるとおり強く賢かったからこそ、
男性中心の寺院社会でも生き延び、大悟しえたのかもしれないが、
彼女を取り巻いていたものの異様さにこそ、目を向けざるをえない。



〔参考〕
仏教刊行会編『大日本仏教全書』110(仏教刊行会、1914年)
藤谷俊雄「慧春尼伝」(『日本史研究』39、1958年)
三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』(有隣新書、有隣堂、1979年)
前田昌宏『慧春尼伝』(献書刊行会、1988年)
東隆真『禅と女性たち』(青山社、2000年)
瀬野美佐「顔を灼く女たち―慧春尼伝説に見る性のアンビバレンツ―」(『教化研修』47、2003年)
西山美香「顔を焼く女たち」(奥田勲編『日本文学 女性へのまなざし』風間書房、2004年)
竹下ルッジェリ・アンナ「ジェンダーに対する江戸時代の臨済宗―白隠禅師を中心として―」(南山宗教文化研究所『研究所報』31、2021年)
《病死》 《1227年》 《11月》 《4日》 《享年不明》


北条時政の娘、政子・義時の姉妹。

源頼朝の異母弟阿野全成の妻となり、頼朝・政子とは兄弟姉妹どうしで夫婦だった。
建久3年(1192)8月、
阿波局は生まれたばかりの甥千幡(のちの源実朝)の乳母に選ばれ、
将軍御所に伺候した。


建仁3年(1203)5月、
夫の全成は、甥の2代将軍源頼家に謀反の罪を着せられ、流罪のうえ殺害される。
このとき頼家は、その妻阿波局も尋問しようとしたが、
政子が、
「このようなことを女性に関知させるべきでない」(『吾妻鏡』)
と庇ったため、御所への奉公を続けた。

それ以前の正治元年(1199)冬に、阿波局は、
御家人結城朝光へ梶原景時の讒言を忠告して、景時失脚のきっかけをつくり、
建仁3年(1203)9月には、
新将軍実朝の近くに、父時政の後妻牧の方がいるのは不穏当だ、と姉政子に進言し、
実朝を政子邸へ引き取らせている。
将軍家の乳母として、また政子の姉妹として、
彼女が幕政に少なからず影響力をもっていたことがうかがえよう。


建保7年(1219)正月、実朝は、甥の公暁に殺害され、
翌月、阿波局の息子阿野時元は将軍の座を狙って挙兵し、
叔父の執権北条義時に討たれた。
乳母子と実子をほぼ同時に喪った阿波局は、
その後も御所へ仕えたとおぼしい。


安貞元年(1227)11月4日、卒。
60歳前後だったろうか。
執権北条泰時は、重臣尾藤景綱の家に移り、
叔母のため30日間喪に服した。



〔参考〕
『新訂増補国史大系 第33巻 吾妻鏡 後篇』(国史大系刊行会ほか、1933年)
田端泰子『乳母の力 歴史を支えた女たち』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2005年)
《病死》 《1368年》 《8月》 《2日》 《享年58歳》


史料上に「愛甲三品夫人」とのみあるが、
夫の「愛甲三品」(「三品」は三位の意)は、鎌倉公方の近習であることのほか未詳。
横山党の愛甲氏は、鎌倉時代に滅んでおり、
相模国愛甲荘(現・神奈川県厚木市)を領した足利氏の一門か譜代被官にあたろうか。
(あるいは、「三品」は「三刕(三州)」=三河守の誤写だろうか。)
夫人の出自等はなお不詳である。


愛甲三品夫人は、高僧夢窓疎石に就いて受衣するなど、生前より禅宗に傾倒し、
鎌倉でも夢窓の弟子義堂周信と親しくしていた。
応安元年(1368)8月2日、
病の篤くなった夫人は、義堂の来訪を受け落髪を求める、という夢を見た。
目覚めてから急ぎ義堂を呼んだが、落髪するには間に合わず、
臨終の際に、義堂から次のように問われた。

 汝は日ごろから、国師(夢窓疎石)が示していた即心即仏の公案に取り組んできた。
 今、それを会得し、境地を得たか。

「即心即仏」とは、
「衆生のいまの心がそのまま仏であること。心の体は仏と異なるものでない、ということ」(『仏教語大辞典』)
という。
この問いに夫人は頷いて、卒した。
享年58。


5日、愛甲氏の菩提寺、愛甲郡津久井の宝積寺(のち光明寺、現・相模原市)で葬儀が行われ、
義堂が火葬を取り仕切った。
法名は「如転禅尼(『義堂和尚語録』巻第3)とされる。



〔参考〕
蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集―中世禅僧の生活と文学―』(思文閣出版、1982年)
川本慎自「光明寺と二つの宝積寺」(『特別展 津久井光明寺 知られざる夢窓疎石ゆかりの禅院―2つの宝積寺を訪ねて』神奈川県立金沢文庫、2015年)
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