死に様データベース
《病死》 《1433年》 《閏7月》 《13日》 《享年39歳》
足利義満の娘。
母は寧福院(源春子)。
大慈院門主。
父義満の寵愛を受けた栄山聖久(幼名未詳)は、
父の正妻日野康子の猶子となったのち、
崇賢門院(広橋仲子、後光厳院室、後円融院母)の猶子となり、
その遺産を継ぐことが約束された。
北山殿の愛娘として、貴族社会でも厚く遇され、
ふたりの養母の没後は、
予定どおり、康子の邸宅南御所と、崇賢門院が建てた大慈院を継承し、
「南御所」あるいは「大慈院殿」と呼ばれた。
尼門跡となった大慈院には、
聖久とその同母妹聖紹以下、将軍家の娘が入れられ、
聖久には姪にあたる、義持の娘と義教の娘も、
それぞれ聖久の弟子として入寺した。
ただし、このうち義教の娘は、
永享3年(1431)に3歳で夭逝してしまっている。
永享5年(1433)秋、痢病に苦しんでいた聖久は、
閏7月初旬ごろから危篤に陥り、
13日朝、息を引き取った。
39歳。
当時の室町殿は、聖久の異母兄足利義教である。
本来ならば、室町殿の妹が身罷ったということで、
諸人が弔問に訪れるところだが、
入寺していた義教の娘が夭折していたことで、
兄妹の関係は微妙なものになっていたらしい。
そのため、義教はもとより、ほかの兄弟たちも弔問に赴かず、
生前の盛んなころに比べれば、実に寂しい没後であった。
義教の命令により、中陰も早々に切り上げられたという。
大慈院の所領は、3,000貫分と莫大なものであり、
その継承のゆくえも注目されたが、
義教の命を待つこととなり、
結局、聖久の妹聖紹ののち、義持の娘が継いだようである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』(宮内庁書陵部、2008年)
臼井信義『足利義満〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1960年)
湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」(『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、2001年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
足利義満の娘。
母は寧福院(源春子)。
大慈院門主。
父義満の寵愛を受けた栄山聖久(幼名未詳)は、
父の正妻日野康子の猶子となったのち、
崇賢門院(広橋仲子、後光厳院室、後円融院母)の猶子となり、
その遺産を継ぐことが約束された。
北山殿の愛娘として、貴族社会でも厚く遇され、
ふたりの養母の没後は、
予定どおり、康子の邸宅南御所と、崇賢門院が建てた大慈院を継承し、
「南御所」あるいは「大慈院殿」と呼ばれた。
尼門跡となった大慈院には、
聖久とその同母妹聖紹以下、将軍家の娘が入れられ、
聖久には姪にあたる、義持の娘と義教の娘も、
それぞれ聖久の弟子として入寺した。
ただし、このうち義教の娘は、
永享3年(1431)に3歳で夭逝してしまっている。
永享5年(1433)秋、痢病に苦しんでいた聖久は、
閏7月初旬ごろから危篤に陥り、
13日朝、息を引き取った。
39歳。
当時の室町殿は、聖久の異母兄足利義教である。
本来ならば、室町殿の妹が身罷ったということで、
諸人が弔問に訪れるところだが、
入寺していた義教の娘が夭折していたことで、
兄妹の関係は微妙なものになっていたらしい。
そのため、義教はもとより、ほかの兄弟たちも弔問に赴かず、
生前の盛んなころに比べれば、実に寂しい没後であった。
義教の命令により、中陰も早々に切り上げられたという。
大慈院の所領は、3,000貫分と莫大なものであり、
その継承のゆくえも注目されたが、
義教の命を待つこととなり、
結局、聖久の妹聖紹ののち、義持の娘が継いだようである。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』(宮内庁書陵部、2008年)
臼井信義『足利義満〈人物叢書〉』(吉川弘文館、1960年)
湯之上隆「足利氏の女性たちと比丘尼御所」(『日本中世の政治権力と仏教』思文閣出版、2001年)
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)
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《事故死》 《1405年》 《5月》 《某日》 《享年不明》
室町時代の大名大内盛見の嫡男。
父盛見は、
大内氏が世襲した周防・長門守護に加えて、
筑前・豊前守護にも任じられて、室町幕府の九州支配を担い、
中国地方と九州北部に大きな勢力を築いた。
応永12年(1405)5月、
大内氏の本拠周防山口(現・山口市)は、長雨に見舞われたらしい。
某日、
山口盆地の中央を流れる椹野川が、仁保川などと合流する鰐石付近で決壊。
濁流は、山口盆地の田畠や人家を押し流し、
多くの人々を飲み込んだだろう。
大内氏当主盛見の嫡男豊久丸も、
その濁流に飲まれ、命を落とした。
父盛見はこのとき29歳だったというから、
豊久丸は、長じても10歳前後だったろう。
豊久丸の遺骸は、
10㎞ほど下流の小郡下郷で発見されたとされる。
同地の妙湛寺(現・同市)には豊久丸の墓と伝わる墓石があり、
現在でも豊久丸の供養が行われている。
(山口新聞 2020年6月22日)
ところが、
この豊久丸の水死については、不思議な伝承も伝わっている。
かつて、大内氏の先代当主義弘が、幕府に叛乱を起こして滅亡したあと、
その弟たちの間で壮絶な家督争いが起こり、
それを制して実力で大内家を継承したのが、盛見だった。
自分の死後、再び一族で同じような争いが起こることを危ぶんだ盛見は、
兄義弘の子持世・持盛兄弟を、あらかじめ後継ぎに定め、
自ら息子の豊久丸を水害に乗じて葬り去ることで、
将来への禍根を断った、というのだ。
少々できすぎた話であり、信じるに足るほどのものではないが、
盛見の憂いが事実だとすれば、
盛見の没後、
持世・持盛兄弟の間で熾烈な家督争いが勃発しており、
盛見の不安は的中した、ということになる。
〔参考文献〕
藤井崇「盛見期の分国支配」(『室町期大名権力論』同成社、2013年)
室町時代の大名大内盛見の嫡男。
父盛見は、
大内氏が世襲した周防・長門守護に加えて、
筑前・豊前守護にも任じられて、室町幕府の九州支配を担い、
中国地方と九州北部に大きな勢力を築いた。
応永12年(1405)5月、
大内氏の本拠周防山口(現・山口市)は、長雨に見舞われたらしい。
某日、
山口盆地の中央を流れる椹野川が、仁保川などと合流する鰐石付近で決壊。
濁流は、山口盆地の田畠や人家を押し流し、
多くの人々を飲み込んだだろう。
大内氏当主盛見の嫡男豊久丸も、
その濁流に飲まれ、命を落とした。
父盛見はこのとき29歳だったというから、
豊久丸は、長じても10歳前後だったろう。
豊久丸の遺骸は、
10㎞ほど下流の小郡下郷で発見されたとされる。
同地の妙湛寺(現・同市)には豊久丸の墓と伝わる墓石があり、
現在でも豊久丸の供養が行われている。
(山口新聞 2020年6月22日)
ところが、
この豊久丸の水死については、不思議な伝承も伝わっている。
かつて、大内氏の先代当主義弘が、幕府に叛乱を起こして滅亡したあと、
その弟たちの間で壮絶な家督争いが起こり、
それを制して実力で大内家を継承したのが、盛見だった。
自分の死後、再び一族で同じような争いが起こることを危ぶんだ盛見は、
兄義弘の子持世・持盛兄弟を、あらかじめ後継ぎに定め、
自ら息子の豊久丸を水害に乗じて葬り去ることで、
将来への禍根を断った、というのだ。
少々できすぎた話であり、信じるに足るほどのものではないが、
盛見の憂いが事実だとすれば、
盛見の没後、
持世・持盛兄弟の間で熾烈な家督争いが勃発しており、
盛見の不安は的中した、ということになる。
〔参考文献〕
藤井崇「盛見期の分国支配」(『室町期大名権力論』同成社、2013年)
《病死》 《1383年》 《3月》 《11日》 《享年45歳》
藤原氏北家閑院流の三条家の傍流正親町三条家出身。
三条西家の祖。
従二位、権大納言。
長患いをしていた権中納言正親町三条公時の容態は、
永徳3年(1383)2月18日ごろから一層悪くなり、余命いくばくもないものとなっていた。
将軍足利義満に頼んで、3月3日、権大納言に任じられ、
11日暁、卒去。
死に臨んだ公時は、「南無阿弥陀仏」を数百遍唱え、正念に住し、
眠るように息を引き取ったという。
享年は45とも46とも。
「虚損の所労」(『後愚昧記』)と言われている。
最期を看取ったのは、すでに71歳に達していた父の実継だった。
前内大臣実継は、たいした病気もなく健在だったが、
子に先立たれて、世間の同情を集めている。
公時は、将軍義満のおぼえもよく、
所領の面でも厚遇されるなど、
一門の富裕さは他を抜きんでていたが、
働き盛りの公時の死去により「彼一流衰微」(『後愚昧記』)と噂されている。
公時の亡骸は、
弟が住持をつとめる嵯峨の浄金剛院に運ばれた。
公時の跡目については、
後小松天皇から足利義満へ、混乱なく取りはからうよう命じられ、
11歳の嫡男実清が継いだ。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
藤原氏北家閑院流の三条家の傍流正親町三条家出身。
三条西家の祖。
従二位、権大納言。
長患いをしていた権中納言正親町三条公時の容態は、
永徳3年(1383)2月18日ごろから一層悪くなり、余命いくばくもないものとなっていた。
将軍足利義満に頼んで、3月3日、権大納言に任じられ、
11日暁、卒去。
死に臨んだ公時は、「南無阿弥陀仏」を数百遍唱え、正念に住し、
眠るように息を引き取ったという。
享年は45とも46とも。
「虚損の所労」(『後愚昧記』)と言われている。
最期を看取ったのは、すでに71歳に達していた父の実継だった。
前内大臣実継は、たいした病気もなく健在だったが、
子に先立たれて、世間の同情を集めている。
公時は、将軍義満のおぼえもよく、
所領の面でも厚遇されるなど、
一門の富裕さは他を抜きんでていたが、
働き盛りの公時の死去により「彼一流衰微」(『後愚昧記』)と噂されている。
公時の亡骸は、
弟が住持をつとめる嵯峨の浄金剛院に運ばれた。
公時の跡目については、
後小松天皇から足利義満へ、混乱なく取りはからうよう命じられ、
11歳の嫡男実清が継いだ。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
《誅殺》 《1318年》 《11月》 《24日》 《享年35歳》
前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。
さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。
綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。
御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)
清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
あや無く討ちてけり。
さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
さて拍子俄に異人承る。
大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
紙屋川三位顕香と言ふ人の、
此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
かかる事をせさせけり。
道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)
内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。
不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。
その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。
捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。
〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。
さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。
綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。
御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)
清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
あや無く討ちてけり。
さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
さて拍子俄に異人承る。
大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
紙屋川三位顕香と言ふ人の、
此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
かかる事をせさせけり。
道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)
内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。
不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。
その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。
捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。
〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1461年》 《5月》 《25日》 《享年19歳》
鶴岡八幡宮安楽院の若党。
寛正2年(1461)5月25日、
鎌倉鶴岡八幡宮の院家安楽院に仕える若党飯沼又太郎は、
何の用があったのか、由比ガ浜へ下りたところ、
海が荒れていたようで、波がしきりに押し寄せ、
再び岸に上がることができなかった。
溺死。19歳。
「哀しむものなり。」(『香蔵院珎祐記録』)
同僚や親類たちは、ふた時ほど小舟で捜索したが、
見つからなかったようで、
その後、法華経を書写して、安楽院で供養を行ったという。
〔参考〕
『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市 1981年)
鶴岡八幡宮安楽院の若党。
寛正2年(1461)5月25日、
鎌倉鶴岡八幡宮の院家安楽院に仕える若党飯沼又太郎は、
何の用があったのか、由比ガ浜へ下りたところ、
海が荒れていたようで、波がしきりに押し寄せ、
再び岸に上がることができなかった。
溺死。19歳。
「哀しむものなり。」(『香蔵院珎祐記録』)
同僚や親類たちは、ふた時ほど小舟で捜索したが、
見つからなかったようで、
その後、法華経を書写して、安楽院で供養を行ったという。
〔参考〕
『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市 1981年)
《誅殺》 《1412年》 《5月》 《2日》 《享年不明》
大名山名時煕の中間。
応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。
右衛門三郎もその場で討たれた。
賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。
〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
大名山名時煕の中間。
応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。
右衛門三郎もその場で討たれた。
賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。
〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
《戦死》 《1441年》 《7月》 《28日》 《享年48歳》
周防・長門・豊前・筑前守護。
前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。
そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。
永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。
嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。
持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。
遺言に曰く、
その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
しかるに、存命せず。無念のことなり。
死骸においては、葬礼に及ばず。
早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)
在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。
赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。
大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。
〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
周防・長門・豊前・筑前守護。
前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。
そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。
永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。
嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。
持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。
遺言に曰く、
その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
しかるに、存命せず。無念のことなり。
死骸においては、葬礼に及ばず。
早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)
在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。
赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。
大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。
〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
《病死》 《1466年》 《閏2月》 《6日》 《享年57歳》
関東管領。
山内上杉氏当主。
応永17年(1410)、
越後守護上杉房方の三男として生まれた上杉憲実は、
若くして没した関東管領山内上杉憲基の養子となり、
応永25年(1418)、
9歳で越後から鎌倉に入った。
おりしも関東は、
上杉禅秀の乱が終息した直後であり、
鎌倉公方足利持氏による同乱の残党狩りが、
新たな戦乱の種を生みつつあった。
さらに、
そうした公方持氏の強硬姿勢が、室町幕府の不信を買い、
やがて京都・鎌倉の対立へと進んでゆく。
その難局に、幼い憲実は放り込まれたこととなる。
若き憲実は、主君持氏の命にしたがい、
反鎌倉公方派の討伐に発向するなどしたが、
長じるにつれて、
公方持氏と幕府の和睦を斡旋したり、
示威行動である将軍義教の富士下向を、延期するよう要請したりするなど、
幕府と鎌倉府の調整役という関東管領の本分を、発揮するようになる。
こうした憲実の活動は、
主君持氏の活動を抑止するものとなり、
主従の政治的関係を、微妙なものにしていった。
永享9年(1437)、
持氏と憲実の対立はついに決定的となり、
翌10年(1438)、
憲実討伐の兵を挙げた持氏に対して、
憲実は幕府と謀って、これと戦うこととなった。
幕府と上杉の軍勢を前に、ほどなく持氏は降じて、
蟄居、剃髪。
憲実は、持氏の助命を願ったが、
結局、将軍義教に押し切られ、持氏を自害させた。
主君を死に追いやった憲実は、
一時は、自害を図ったりもして、
翌永享11年(1439)、伊豆国清寺に退き、
剃髪。
時に30歳。
後事を弟清方に託し、政界から引退した。
しかし、時節はそれを許さなかった。
永享12年(1440)、
下総の結城氏朝らが持氏の遺児を担いで挙兵。
これを鎮圧することとなった幕府は、
憲実へ帰参を命令。
憲実はこれに服して、
8月、下野小山に赴き、
弟清方とともに結城城攻めにあたった。
翌嘉吉元年(1441)4月、結城城陥落。
結城氏朝以下は討死し、
持氏遺児の幼い安王丸・春王丸兄弟は、
護送途中に美濃で誅殺された。
二度までも主家を死へ至らしめた憲実は、
再び隠遁を強く望んだ。
それも束の間、
同年6月、将軍義教は嘉吉の変で斃れた。
東西の混乱期に、
東国の重鎮憲実への期待は弥増したのである。
そうしたなかで、
憲実は、隠退への準備や子供たちの行く末について、
着々とことを進めている。
関東のことは清方に任せて、
長男竜忠は、僧籍に入れて、
万一還俗した場合には、義絶するとし、
また、
次男竜春には、越後・西国の所領を譲って京都奉公させることとした。
自分の子らが、関東政界にかかわることを拒絶したのである。
しかし、
再び時節が憲実の復帰を要することとなる。
ほどなく清方が没し、
関東管領が空席となってしまい、
さらに、
持氏遺児をして鎌倉府を再建させることとなり、
東国情勢に通じた補佐役の存在が不可欠となったのである。
文安4年(1447)、幕府は、
後花園天皇の綸旨まで出して、憲実の帰参を強請。
だが、
2度目とあって、
憲実は頑なに復任を辞した。
このとき、
すでに伊豆狩野に退いている。
憲実の辞意が固いと見るや、
幕府は、
すでに家臣に担がれて還俗していた、憲実の長男竜忠(憲忠)を、
関東管領とすることとした。
憲実に、父として関東管領憲忠を補佐させることで、
関東政界にかかわらせることとしたのだが、
憲実は、憲忠はすでに義絶しているとして、これも拒否。
僧となり、政治の世界に決別を告げた憲実(号長棟)は、
主家を討った罪報の全国行脚に出る。
文安5年(1448)には京都を経て、さらに西へ西へ、
享徳元年(1452)には、
関東から遠く離れた本州の西の端、長門国に至り、
深川の大寧寺に入ったとされる。
ここで、大寧寺住持竹居正猷の弟子となり、
槎留軒に住して、儒と禅に没頭した。
長棟43歳。
この間、
幕府は東国情勢安定のため、
なおも憲実帰参のことを繰り返していた。
しかし、享徳3年(1454)末、
新たな鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠のもとでは、
安定を見なかった東国情勢は、
公方成氏による管領憲忠の謀殺という、最悪の結果を招き、
享徳の乱を勃発させた。
さらに、
憲忠の跡には、
憲実が京都奉公を命じた次男房顕(竜春)が擁せられ、
公方成氏に対抗する上杉方の大将に立てられたが、
寛正7年(1466)2月、武蔵五十子での陣中で病没。
その次男の死を聞いたかどうか、
翌閏2月の6日、
長棟は大寧寺槎留軒でその生涯を閉じた。
享年57歳。
画僧小栗宗湛は、次のように評している。
人皆その風を望む。
敬せざるなし。
忽ち逝去を聞き、
感ずべき慕うべきなり。(『蔭涼軒日録』)
幕府の命とはいえ、主家を二度までも死に至らしめ、
さらには、
子息を世俗の争いの犠牲として喪った。
俗世の身分を捨て、復帰を頑なに拒み、
仏道にのめり込むには十分であろう。
大寧寺境内に、
憲実の墓と伝えられる石塔が、ひっそりと立っている。
大寧寺は、中国地方の戦国大名大内義隆自害の地としても知られている。

〔参考〕
田辺久子『上杉憲顕(人物叢書)』 (吉川弘文館 1999年)
小国浩寿『鎌倉府と室町幕府』 (吉川弘文館 2013年)
則竹雄一『古河公方と伊勢宗瑞』 (吉川弘文館 2012年)
関東管領。
山内上杉氏当主。
応永17年(1410)、
越後守護上杉房方の三男として生まれた上杉憲実は、
若くして没した関東管領山内上杉憲基の養子となり、
応永25年(1418)、
9歳で越後から鎌倉に入った。
おりしも関東は、
上杉禅秀の乱が終息した直後であり、
鎌倉公方足利持氏による同乱の残党狩りが、
新たな戦乱の種を生みつつあった。
さらに、
そうした公方持氏の強硬姿勢が、室町幕府の不信を買い、
やがて京都・鎌倉の対立へと進んでゆく。
その難局に、幼い憲実は放り込まれたこととなる。
若き憲実は、主君持氏の命にしたがい、
反鎌倉公方派の討伐に発向するなどしたが、
長じるにつれて、
公方持氏と幕府の和睦を斡旋したり、
示威行動である将軍義教の富士下向を、延期するよう要請したりするなど、
幕府と鎌倉府の調整役という関東管領の本分を、発揮するようになる。
こうした憲実の活動は、
主君持氏の活動を抑止するものとなり、
主従の政治的関係を、微妙なものにしていった。
永享9年(1437)、
持氏と憲実の対立はついに決定的となり、
翌10年(1438)、
憲実討伐の兵を挙げた持氏に対して、
憲実は幕府と謀って、これと戦うこととなった。
幕府と上杉の軍勢を前に、ほどなく持氏は降じて、
蟄居、剃髪。
憲実は、持氏の助命を願ったが、
結局、将軍義教に押し切られ、持氏を自害させた。
主君を死に追いやった憲実は、
一時は、自害を図ったりもして、
翌永享11年(1439)、伊豆国清寺に退き、
剃髪。
時に30歳。
後事を弟清方に託し、政界から引退した。
しかし、時節はそれを許さなかった。
永享12年(1440)、
下総の結城氏朝らが持氏の遺児を担いで挙兵。
これを鎮圧することとなった幕府は、
憲実へ帰参を命令。
憲実はこれに服して、
8月、下野小山に赴き、
弟清方とともに結城城攻めにあたった。
翌嘉吉元年(1441)4月、結城城陥落。
結城氏朝以下は討死し、
持氏遺児の幼い安王丸・春王丸兄弟は、
護送途中に美濃で誅殺された。
二度までも主家を死へ至らしめた憲実は、
再び隠遁を強く望んだ。
それも束の間、
同年6月、将軍義教は嘉吉の変で斃れた。
東西の混乱期に、
東国の重鎮憲実への期待は弥増したのである。
そうしたなかで、
憲実は、隠退への準備や子供たちの行く末について、
着々とことを進めている。
関東のことは清方に任せて、
長男竜忠は、僧籍に入れて、
万一還俗した場合には、義絶するとし、
また、
次男竜春には、越後・西国の所領を譲って京都奉公させることとした。
自分の子らが、関東政界にかかわることを拒絶したのである。
しかし、
再び時節が憲実の復帰を要することとなる。
ほどなく清方が没し、
関東管領が空席となってしまい、
さらに、
持氏遺児をして鎌倉府を再建させることとなり、
東国情勢に通じた補佐役の存在が不可欠となったのである。
文安4年(1447)、幕府は、
後花園天皇の綸旨まで出して、憲実の帰参を強請。
だが、
2度目とあって、
憲実は頑なに復任を辞した。
このとき、
すでに伊豆狩野に退いている。
憲実の辞意が固いと見るや、
幕府は、
すでに家臣に担がれて還俗していた、憲実の長男竜忠(憲忠)を、
関東管領とすることとした。
憲実に、父として関東管領憲忠を補佐させることで、
関東政界にかかわらせることとしたのだが、
憲実は、憲忠はすでに義絶しているとして、これも拒否。
僧となり、政治の世界に決別を告げた憲実(号長棟)は、
主家を討った罪報の全国行脚に出る。
文安5年(1448)には京都を経て、さらに西へ西へ、
享徳元年(1452)には、
関東から遠く離れた本州の西の端、長門国に至り、
深川の大寧寺に入ったとされる。
ここで、大寧寺住持竹居正猷の弟子となり、
槎留軒に住して、儒と禅に没頭した。
長棟43歳。
この間、
幕府は東国情勢安定のため、
なおも憲実帰参のことを繰り返していた。
しかし、享徳3年(1454)末、
新たな鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠のもとでは、
安定を見なかった東国情勢は、
公方成氏による管領憲忠の謀殺という、最悪の結果を招き、
享徳の乱を勃発させた。
さらに、
憲忠の跡には、
憲実が京都奉公を命じた次男房顕(竜春)が擁せられ、
公方成氏に対抗する上杉方の大将に立てられたが、
寛正7年(1466)2月、武蔵五十子での陣中で病没。
その次男の死を聞いたかどうか、
翌閏2月の6日、
長棟は大寧寺槎留軒でその生涯を閉じた。
享年57歳。
画僧小栗宗湛は、次のように評している。
人皆その風を望む。
敬せざるなし。
忽ち逝去を聞き、
感ずべき慕うべきなり。(『蔭涼軒日録』)
幕府の命とはいえ、主家を二度までも死に至らしめ、
さらには、
子息を世俗の争いの犠牲として喪った。
俗世の身分を捨て、復帰を頑なに拒み、
仏道にのめり込むには十分であろう。
大寧寺境内に、
憲実の墓と伝えられる石塔が、ひっそりと立っている。
大寧寺は、中国地方の戦国大名大内義隆自害の地としても知られている。
〔参考〕
田辺久子『上杉憲顕(人物叢書)』 (吉川弘文館 1999年)
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
| 1084 | ||
| 1093 | ||
| 1095 | 1096 | |
| 1097 | ||
| 1103 | ||
| 1105 | ||
| 1138 | ||
| 1150 | ||
| 1151 | ||
| 1177 | 1178 | |
| 1186 | ||
| 1188 | ||
| 1200 | ||
| 1202 | ||
| 1207 | ||
| 1212 | 1213 | |
| 1221 | ||
| 1225 | ||
| 1227 | ||
| 1230 | ||
| 1234 | ||
| 1242 | ||
| 1245 | ||
| 1250 | ||
| 1257 |
没年 1350~1399
| 1350 | ||
| 1351 | 1352 | 1353 |
| 1355 | ||
| 1357 | ||
| 1363 | ||
| 1364 | 1365 | 1366 |
| 1367 | 1368 | |
| 1370 | ||
| 1371 | 1372 | |
| 1374 | ||
| 1378 | 1379 | |
| 1380 | ||
| 1381 | 1382 | 1383 |
没年 1400~1429
| 1400 | ||
| 1402 | 1403 | |
| 1405 | ||
| 1408 | ||
| 1412 | ||
| 1414 | 1415 | 1416 |
| 1417 | 1418 | 1419 |
| 1420 | ||
| 1421 | 1422 | 1423 |
| 1424 | 1425 | 1426 |
| 1427 | 1428 | 1429 |
没年 1430~1459
| 1430 | ||
| 1431 | 1432 | 1433 |
| 1434 | 1435 | 1436 |
| 1437 | 1439 | |
| 1441 | 1443 | |
| 1444 | 1446 | |
| 1447 | 1448 | 1449 |
| 1450 | ||
| 1451 | 1452 | 1453 |
| 1454 | 1455 | |
| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
| 5歳 | 6歳 | |
| 9歳 | ||
| 10代 | 10歳 | |
| 11歳 | ||
| 15歳 | 16歳 | |
| 18歳 | 19歳 | |
| 20代 | 20歳 | |
| 21歳 | 22歳 | |
| 24歳 | 25歳 | 26歳 |
| 27歳 | 28歳 | 29歳 |
| 30代 | 30歳 | |
| 31歳 | 32歳 | 33歳 |
| 34歳 | 35歳 | |
| 37歳 | 38歳 | 39歳 |
享年 40代~60代
| 40代 | 40歳 | |
| 41歳 | 42歳 | 43歳 |
| 44歳 | 45歳 | 46歳 |
| 47歳 | 48歳 | 49歳 |
| 50代 | 50歳 | |
| 52歳 | 53歳 | |
| 55歳 | ||
| 57歳 | 58歳 | 59歳 |
| 60代 | 60歳 | |
| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
| 66歳 | ||
| 68歳 | 69歳 |
本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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