死に様データベース
《誅殺》 《1469年》 《10月》 《17日》 《享年24歳》
従二位、権大納言。
前関白一条教房の子、兼良の孫。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱は、
西国の大内政弘の上洛、足利義視の西軍合流を経て、
泥沼化の様相を呈していた。
連日の合戦で、京都は焦土と化し、
公家や僧侶たちは、戦乱を避けて、
所縁のある土地や所領へ下って行った。
前関白一条教房は、
いったん奈良に避けたのち、土佐へ、
その息一条政房も、
同じくいったん奈良へ下ったのち、
応仁2年(1468)11月には、
家領の摂津福原荘(兵庫荘とも)に下った。
兵庫福厳寺を住まいと定めたという。
荘内に所在した瀬戸内水運の要衝兵庫湊は、
当時、西軍の主力大内政弘勢の兵站基地となっており、
その家臣問田弘綱が守っていた。
この問田が、政房の安全を引き受けた。
政房も、問田らを信頼していたようである。
しかし、そこは戦乱のさなか。
西軍大内勢の兵站基地を抜かんとして、
文明元年(1469)10月16日、
東軍の山名是豊や赤松政則の軍勢が、兵庫を急襲。
守将問田弘綱と激突した。
初戦は大内方が優勢であったが、
山名・赤松勢の大軍が到着するにつれ、形勢は逆転していった。
そして、
翌17日未の刻(午後2時頃)、
兵庫を焼き払い、殲滅戦を敢行する山名勢や赤松・宇野・小寺・明石勢は、
福厳寺に乱入。
そこにいた政房を弑逆した。
18日、
大内方は、奈良方面に没落し、
守将問田も、いずこへ落ちていった。
軍記物『応仁記』や『応仁別記』は、以下のように描く。
新御所様(政房)は、本領の兵庫にいる折も、
いつものとおりのご装束にて、直衣狩衣を着し、
それは優美なるお姿であった。
どんな荒夷であっても、
このような高貴なお姿を見知っておくべきだが、
一人の武士が走ってきて、
そんなことは思いもわかず、
敵とみなして、長鑓を新御所の胸元へ突き通した。
新御所は少しも姿勢を崩すことなく、
「南無四方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて、
そのまま朝の露と消えた。
孫の死を聞いた兼良はたいそう悲しみ、次の歌を詠んだ。
とても死ぬる命をいかで武士の家にむまれぬ事ぞくやしき
遺体は、東光寺において荼毘にふされた。
24歳とされている。
大納言局や御所侍新次郎等、身辺の者たちが出家した。
辞世の歌があったというが、今日には伝わらない。
奈良興福寺の大乗院尋尊(兼良の子)は、
兵庫の情報が入ってきた21日以降、甥政房の身を案じていたが、
11月6日になっても確報がつかめず、
やきもきした様子を、日記『大乗院寺社雑事記』に記している。
情報が入ってきたのは、
20日以上経った、11月11日以降のことであった。
18日には、入道した御所侍新次郎が尋尊のところへ来て、
政房最期のさまを語った。
12月初旬には、土佐にいる父教房のもとへも、
息子の横死が伝わっている。
尋尊は、
保元の乱の際に、流れ矢で命を落とした藤原頼長を引き合いに出し、
次のように述べている。
「摂家においては、保元御乱に、
宇治左府(藤原頼長)、流れ矢により薨じ給う。
これは両帝の御競いなり。
臣下の身、無力の事なり。
只今の儀、一向悪党の沙汰、
末代至極の事なり。
かつがつ当社(春日社)大明神の神慮如何。
但し、事の様を思案するのところ、
公家のありさま、皆もってかくの如し。
前後遅速の階級ばかりなり。
命を失うべきものなり。
歎くべし歎くべし。」 (『大乗院寺社雑事記』)
〔参考〕
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 4』 (臨川書店 2001年)
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 5』 (臨川書店 2001年)
『大日本史料 第8編之3』 (東京大学出版会 1969年)
石田晴男『応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)
』 (吉川弘文館 2008年)
藤井崇『大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)
』 (戎光祥出版 2014年)
東京大学史料編纂所データベース
従二位、権大納言。
前関白一条教房の子、兼良の孫。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱は、
西国の大内政弘の上洛、足利義視の西軍合流を経て、
泥沼化の様相を呈していた。
連日の合戦で、京都は焦土と化し、
公家や僧侶たちは、戦乱を避けて、
所縁のある土地や所領へ下って行った。
前関白一条教房は、
いったん奈良に避けたのち、土佐へ、
その息一条政房も、
同じくいったん奈良へ下ったのち、
応仁2年(1468)11月には、
家領の摂津福原荘(兵庫荘とも)に下った。
兵庫福厳寺を住まいと定めたという。
荘内に所在した瀬戸内水運の要衝兵庫湊は、
当時、西軍の主力大内政弘勢の兵站基地となっており、
その家臣問田弘綱が守っていた。
この問田が、政房の安全を引き受けた。
政房も、問田らを信頼していたようである。
しかし、そこは戦乱のさなか。
西軍大内勢の兵站基地を抜かんとして、
文明元年(1469)10月16日、
東軍の山名是豊や赤松政則の軍勢が、兵庫を急襲。
守将問田弘綱と激突した。
初戦は大内方が優勢であったが、
山名・赤松勢の大軍が到着するにつれ、形勢は逆転していった。
そして、
翌17日未の刻(午後2時頃)、
兵庫を焼き払い、殲滅戦を敢行する山名勢や赤松・宇野・小寺・明石勢は、
福厳寺に乱入。
そこにいた政房を弑逆した。
18日、
大内方は、奈良方面に没落し、
守将問田も、いずこへ落ちていった。
軍記物『応仁記』や『応仁別記』は、以下のように描く。
新御所様(政房)は、本領の兵庫にいる折も、
いつものとおりのご装束にて、直衣狩衣を着し、
それは優美なるお姿であった。
どんな荒夷であっても、
このような高貴なお姿を見知っておくべきだが、
一人の武士が走ってきて、
そんなことは思いもわかず、
敵とみなして、長鑓を新御所の胸元へ突き通した。
新御所は少しも姿勢を崩すことなく、
「南無四方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて、
そのまま朝の露と消えた。
孫の死を聞いた兼良はたいそう悲しみ、次の歌を詠んだ。
とても死ぬる命をいかで武士の家にむまれぬ事ぞくやしき
遺体は、東光寺において荼毘にふされた。
24歳とされている。
大納言局や御所侍新次郎等、身辺の者たちが出家した。
辞世の歌があったというが、今日には伝わらない。
奈良興福寺の大乗院尋尊(兼良の子)は、
兵庫の情報が入ってきた21日以降、甥政房の身を案じていたが、
11月6日になっても確報がつかめず、
やきもきした様子を、日記『大乗院寺社雑事記』に記している。
情報が入ってきたのは、
20日以上経った、11月11日以降のことであった。
18日には、入道した御所侍新次郎が尋尊のところへ来て、
政房最期のさまを語った。
12月初旬には、土佐にいる父教房のもとへも、
息子の横死が伝わっている。
尋尊は、
保元の乱の際に、流れ矢で命を落とした藤原頼長を引き合いに出し、
次のように述べている。
「摂家においては、保元御乱に、
宇治左府(藤原頼長)、流れ矢により薨じ給う。
これは両帝の御競いなり。
臣下の身、無力の事なり。
只今の儀、一向悪党の沙汰、
末代至極の事なり。
かつがつ当社(春日社)大明神の神慮如何。
但し、事の様を思案するのところ、
公家のありさま、皆もってかくの如し。
前後遅速の階級ばかりなり。
命を失うべきものなり。
歎くべし歎くべし。」 (『大乗院寺社雑事記』)
〔参考〕
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 4』 (臨川書店 2001年)
『増補続史料大成(普及版) 大乗院寺社雑事記 5』 (臨川書店 2001年)
『大日本史料 第8編之3』 (東京大学出版会 1969年)
石田晴男『応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)
藤井崇『大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)
東京大学史料編纂所データベース
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《誅殺》 《1448年》 《8月》 《8日》 《享年49歳》
室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。
嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。
赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。
その後のしぶとさが興味深い。
行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。
則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。
しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。
同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。
8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。
倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府奉公衆。
播磨・備前・美作守護赤松満祐の弟。
嘉吉元年(1441)6月24日、
兄満祐と甥教康が、
将軍足利義教を自邸に招いて謀殺した。
主を欠いた幕府は、
混乱の末、ようやく赤松討伐軍を派遣し、
播磨国境各所で、激しい戦闘が行われた。
赤松則繁も、
兄弟とともに幕府軍と戦い、
8月26日の播磨蟹坂合戦で、敗れて退却する折、
加古川渡河に失敗し、溺死。
とされたが、
実際には生き延び、
赤松方最後の拠点、城山城の籠城戦にも参加、
落城の際には、甥教康とともに城を脱出した。
その後のしぶとさが興味深い。
行方知れずとなっていた則繁の足取りがつかめるのは、
翌々年の嘉吉3年(1443)のこと。
九州の菊池氏を頼ったのち、
朝鮮半島に渡り、散々に暴れ回っていた。
「一ヶ国を打ち取り」(『建内記』)というほどの、
広範な暴れぶりだったらしい。
その年の6月、
朝鮮王朝が、使者を室町幕府に遣わし、
則繁の討伐を訴えたのであった。
則繁は、その後再び九州に出没する。
当時、九州北部では、
幕府の支持を得つつ勢力を伸張させていた大内氏と、
対馬より筑前の奪回を狙っていた少弐氏が争っていた。
則繁はこの争いに首をつっこみ、
文安5年(1448)正月、
少弐嘉頼に与して、大内教弘と戦い、敗退している。
傭兵の頭目のような存在だったのだろうか。
しぶとい則繁であったが、
幕切れは意外にあっさりとしている。
同じ文安5年(1448)の8月、則繁は、
河内当麻にて、甥の赤松則尚に討たれた。
赤松氏は、一族の再興を目指して共闘していたが、
阿波守護細川持常から赤松則尚へ、
則繁の討伐と赦免等を引き換えとする誘引があり、
その結果、裏切られたという。
8月8日、
則繁と郎党大西某・魚住某の首が、京都に到着し、
18日未の刻(午後2時頃)、
将軍足利義成以下、管領細川勝元・畠山持国らによる首実検が行われ、
六条河原に晒された。
倭寇の時代、
国内外での広範な活動は珍しくないが、
こと大名家の親類というのは、
稀有な例ではなかろうか。
〔参考〕
『大日本古記録 建内記 5』 (岩波書店 1972年)
『大日本古記録 建内記 6』 (岩波書店 1974年)
『増補史料大成 康富記 2』 (臨川書店 1965年)
高坂好『赤松円心・満祐(人物叢書)』 (吉川弘文館 1970年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1502年》 《3月》 《22日》 《享年38歳》
室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。
文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。
命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。
「かの一流口伝断絶か。
もってのほかの儀也。
…希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。
事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。
※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。
〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
室町幕府奉公衆。
南北朝期に、信濃の小笠原氏から分かれた家で、
在京して、室町将軍家に仕え、
武家故実の相承や弓馬師範にあたった。
礼儀作法で名高い「小笠原流」の起源であるとされる。
文亀2年(1502)3月、
小笠原尚清は、
鷹の飼育に必要な鳥の雛を取ってこい
との、将軍足利義高の命を受けた。
小笠原氏が、鷹術師範も務めていたからであろう。
命を受けた尚清は、17日頃、
管領細川政元の屋敷の庭で、
木に登って、鳥の巣から雛鳥を捕ろうとした。
ところが、
足を滑らせたか、木より落下。
このとき、枯れ木の枝で足を踏み抜き、
それがもとで、破傷風を発症。
高熱をともなう症状は、20日には重篤となり、
22日、死亡。
38歳であった。
「かの一流口伝断絶か。
もってのほかの儀也。
…希代の事也。」(『小槻時元記』)
とは、官人大宮時元の言。
事故からわずか4、5日。
なんとも同情を禁じ得ない。
※ 本記事の内容は、K氏の情報提供による。記して謝したい。
〔参考〕
『続史料大成 大乗院寺社雑事記 11』 (臨川書店 2001年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1423年》 《正月》 《5日》 《享年不明》
赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。
応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。
しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。
一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
赤松満祐の弟。
室町殿足利義持の近習。
応永30年(1423)正月4日、
赤松則友は、
足利義持の管領畠山満家亭への渡御に供奉。
帰路のお供も、無事につとめた。
しかし、
宴の後で泥酔していた則友は、自邸に帰る途次、
大館満信亭前の辺りで、落馬。
頭を馬に踏まれ、
急所も打ったらしい。
周囲に支えられて帰亭したが、
意識を失っており、
翌5日朝、逝去。
一説によると、
則友は、
三条八幡宮の東辺りで、室町御所の裏築地を、
馬に乗ったまま、乗り越えようとしたらしい。
当日の4日に、則友は、
三条八幡宮に神馬を奉納したばかりであったにもかかわらず、
かかる厄難に遭遇したのであった。
〔参考〕
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『図書寮叢刊 看聞日記 2』 (宮内庁書陵部 2004年)
コトバンク(『朝日日本歴史人物事典』)
《誅殺》 《1424年》 《3月》 《14日》 《享年不明》
室町殿足利義持の近習。
応永31年(1424)3月14日、
前管領細川満元が、赤松一族らを招いて宴を催した。
皆したたかに酔い、
室町殿足利義持の近習安東某も、
酔っ払って、ごろりとしていたところ、
いきなり、赤松義雅によって刺し殺された。
義雅は逃走。
理由は不明。
怒った安東の傍輩たちは、
赤松邸に押し寄せようとしたが、
室町殿義持に制せられ、両者の衝突は回避された。
義持は、義雅を切腹させようとしたが、
義雅はなお雲隠れしていたため、果たせず。
おさまらない安東の傍輩たちは、
赤松家に代わりの人間の切腹を要求する。
そこで、義雅の家臣裏壁(浦上)某を切腹させることとなった。
はじめ、裏壁父子2人の切腹が検討された。
だが、
安東1人の死に対して、父子2人の切腹では釣り合わない、ということで、
1人にしぼることとなり、
散々もめたあげく、息子の方を切腹させることになった。
この息子、まだ元服前であったようだが、
切腹の様は「大強の者」(『常楽記』)のようであり、
人々の涙を誘ったという。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『群書類従 第29輯 雑部』 (続群書類従完成会 1959年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)
』 (講談社 2006年)
室町殿足利義持の近習。
応永31年(1424)3月14日、
前管領細川満元が、赤松一族らを招いて宴を催した。
皆したたかに酔い、
室町殿足利義持の近習安東某も、
酔っ払って、ごろりとしていたところ、
いきなり、赤松義雅によって刺し殺された。
義雅は逃走。
理由は不明。
怒った安東の傍輩たちは、
赤松邸に押し寄せようとしたが、
室町殿義持に制せられ、両者の衝突は回避された。
義持は、義雅を切腹させようとしたが、
義雅はなお雲隠れしていたため、果たせず。
おさまらない安東の傍輩たちは、
赤松家に代わりの人間の切腹を要求する。
そこで、義雅の家臣裏壁(浦上)某を切腹させることとなった。
はじめ、裏壁父子2人の切腹が検討された。
だが、
安東1人の死に対して、父子2人の切腹では釣り合わない、ということで、
1人にしぼることとなり、
散々もめたあげく、息子の方を切腹させることになった。
この息子、まだ元服前であったようだが、
切腹の様は「大強の者」(『常楽記』)のようであり、
人々の涙を誘ったという。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 3』 (宮内庁書陵部 2006年)
『続群書類従 補遺 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『群書類従 第29輯 雑部』 (続群書類従完成会 1959年)
清水克行『喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)
《誅殺》 《1419年》 《正月》 《25日》 《享年不明》
比叡山僧。
青蓮院門徒。山門使節。
山門使節であった円明坊兼承は、
応永25年(1418)冬頃から、
室町殿足利義持の不興を買っていた。
山門使節とは、
室町幕府によって設置された比叡山衆徒統制のための組織で、
複数の有力山徒よりして成り、
幕府から比叡山に対する種々の権限を付与されていて、
「比叡山の守護」とも称されるような存在である。
翌26年(1419)正月25日朝、
兼承は、鞍馬寺へ参詣の途次、市原野において、
暴漢たちの襲撃を受けた。
襲ったのは、兼承の弟の乗蓮房兼宗。
兼宗は、義持の密命を受けていたという。
襲撃を受けた兼承の護衛の者たち20数名は皆、
散り散りに逃げ去ったが、
中間1人だけは踏みとどまり、
主人兼承とともに奮戦の末、ともに討死。
襲った兼宗側も、数名の死者を出した。
翌月、
兼宗は義持より、
その手で葬った兄兼承の旧領を与えられ、
円明坊は廃絶した。
兼宗はその後、いったん失脚するが、復活を果たし、
円明坊を再興して、房主におさまった。
彼とその息子たちが、のちに幕府と対立し、
永享の山門騒乱の中心人物として、
凄絶な死に様を迎えるのは、また別の話。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
下坂守『中世寺院社会の研究』 (思文閣出版 2001年)
比叡山僧。
青蓮院門徒。山門使節。
山門使節であった円明坊兼承は、
応永25年(1418)冬頃から、
室町殿足利義持の不興を買っていた。
山門使節とは、
室町幕府によって設置された比叡山衆徒統制のための組織で、
複数の有力山徒よりして成り、
幕府から比叡山に対する種々の権限を付与されていて、
「比叡山の守護」とも称されるような存在である。
翌26年(1419)正月25日朝、
兼承は、鞍馬寺へ参詣の途次、市原野において、
暴漢たちの襲撃を受けた。
襲ったのは、兼承の弟の乗蓮房兼宗。
兼宗は、義持の密命を受けていたという。
襲撃を受けた兼承の護衛の者たち20数名は皆、
散り散りに逃げ去ったが、
中間1人だけは踏みとどまり、
主人兼承とともに奮戦の末、ともに討死。
襲った兼宗側も、数名の死者を出した。
翌月、
兼宗は義持より、
その手で葬った兄兼承の旧領を与えられ、
円明坊は廃絶した。
兼宗はその後、いったん失脚するが、復活を果たし、
円明坊を再興して、房主におさまった。
彼とその息子たちが、のちに幕府と対立し、
永享の山門騒乱の中心人物として、
凄絶な死に様を迎えるのは、また別の話。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 1』 (宮内庁書陵部 2002年)
『続群書類従 補遺 1 満済准后日記 上』 (続群書類従完成会 1958年)
『増補史料大成 37 康富記 1』 (臨川書店 1965年)
下坂守『中世寺院社会の研究』 (思文閣出版 2001年)
《誅殺》 《1434年》 《6月》 《8日》 《享年38歳》
従二位、前権中納言。
日野家の一流裏松家は、
義資の伯母康子が、3代将軍足利義満の正室、
同叔母栄子が、4代将軍義持の正室、
義資の妹宗子は、6代将軍義教の正室(のち離縁)、
もう一人の妹重子も、義教の側室というように、
足利将軍家とのつながりを強くしていたが、
義資自身は、将軍義教に嫌われ、
所領没収や蟄居の憂き目に遭っている。
永享6年(1434)2月、
義資の妹重子が、義教の子千也茶丸を生んだとき、
籠居中の義資のもとにも、多くの人々が参賀に訪れた。
だが、このことが、
義教の心証をいっそう悪くしたらしい。
義教は、参賀した人々のリストを作成させ、
摂関家から門跡に至るまで、60人以上を処罰している。
それから4ヶ月ほど経った、6月9日の雨の降りしきる暁時、
裏松義資邸に強盗が入った。
犯人は、吊っていた蚊帳ごと、
主人義資と、同衾の青侍(奉公衆畠山持清の甥)を斬り殺して、逃走。
小袖や鏡台などのほか、義資の首も持ち去った。
「希代の横死」(『満済准后日記』)。
中納言広橋兼宣曰く、
「しかしながら天罰(まったく天罰である)」(『満済准后日記』)。
奇怪な事件であったが、
その後、さらなる後味の悪さが続く。
事件から数日後、
義資殺害は、将軍義教の差し金であったとの風聞が立った。
義教は緘口令を敷くが、
6月12日、この噂を流したとして、
前参議高倉永藤が、義教の近習大河内満政によって捕えられた。
永藤は、いったんは死罪とされたが、
伏見宮貞成親王のとりなしにより、硫黄島へ流罪。
永藤の子永豊は、所領没収。
さらに、
義資とともに殺された青侍の父(畠山持清の弟)も、所領没収。
これらの所領は、
義教の側近正親町三条実雅に与えられた。
「万事言うなかれ言うなかれ、」(『薩戒記』)
もはや、何が起きているのかわからない。
暗殺に緘口令に一斉処断、
「「政治」の死」と評される所以である。
義資の子重政や、青侍数名が出家。
義資の所領などは、従兄弟の烏丸資任が相続した。
宝徳2年(1450)6月、
17年忌に際し、正二位権大納言を贈られた。
ときの将軍義政の母重子は、義資の妹であり、
のちに迎える室日野富子は、義資の孫にあたる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会)
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
東京大学史料編纂所データベース
桜井英治『室町人の精神 (日本の歴史)
』 (講談社 2001年)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)
』 (角川学芸出版 2011年)
従二位、前権中納言。
日野家の一流裏松家は、
義資の伯母康子が、3代将軍足利義満の正室、
同叔母栄子が、4代将軍義持の正室、
義資の妹宗子は、6代将軍義教の正室(のち離縁)、
もう一人の妹重子も、義教の側室というように、
足利将軍家とのつながりを強くしていたが、
義資自身は、将軍義教に嫌われ、
所領没収や蟄居の憂き目に遭っている。
永享6年(1434)2月、
義資の妹重子が、義教の子千也茶丸を生んだとき、
籠居中の義資のもとにも、多くの人々が参賀に訪れた。
だが、このことが、
義教の心証をいっそう悪くしたらしい。
義教は、参賀した人々のリストを作成させ、
摂関家から門跡に至るまで、60人以上を処罰している。
それから4ヶ月ほど経った、6月9日の雨の降りしきる暁時、
裏松義資邸に強盗が入った。
犯人は、吊っていた蚊帳ごと、
主人義資と、同衾の青侍(奉公衆畠山持清の甥)を斬り殺して、逃走。
小袖や鏡台などのほか、義資の首も持ち去った。
「希代の横死」(『満済准后日記』)。
中納言広橋兼宣曰く、
「しかしながら天罰(まったく天罰である)」(『満済准后日記』)。
奇怪な事件であったが、
その後、さらなる後味の悪さが続く。
事件から数日後、
義資殺害は、将軍義教の差し金であったとの風聞が立った。
義教は緘口令を敷くが、
6月12日、この噂を流したとして、
前参議高倉永藤が、義教の近習大河内満政によって捕えられた。
永藤は、いったんは死罪とされたが、
伏見宮貞成親王のとりなしにより、硫黄島へ流罪。
永藤の子永豊は、所領没収。
さらに、
義資とともに殺された青侍の父(畠山持清の弟)も、所領没収。
これらの所領は、
義教の側近正親町三条実雅に与えられた。
「万事言うなかれ言うなかれ、」(『薩戒記』)
もはや、何が起きているのかわからない。
暗殺に緘口令に一斉処断、
「「政治」の死」と評される所以である。
義資の子重政や、青侍数名が出家。
義資の所領などは、従兄弟の烏丸資任が相続した。
宝徳2年(1450)6月、
17年忌に際し、正二位権大納言を贈られた。
ときの将軍義政の母重子は、義資の妹であり、
のちに迎える室日野富子は、義資の孫にあたる。
〔参考〕
『図書寮叢刊 看聞日記 4』 (宮内庁書陵部 2008年)
『続群書類従 補遺 2 満済准后日記 下』 (続群書類従完成会)
『史料纂集 師郷記 4』 (続群書類従完成会 1987年)
東京大学史料編纂所データベース
桜井英治『室町人の精神 (日本の歴史)
森茂暁『室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)
《病死》 《1418年》 《11月》 《17日》 《享年61歳》
従一位、関白。准三后。
藤原氏長者。
一条経嗣は、二条良基の三男であったが、
一条家の当主房経が早世したため、
経嗣を房経の弟、すなわち一条経通の子ということにして、
一条家を継がせたのであった。
実父二条良基にひきつづき、足利義満の信任が厚く、
その才学をもって、義満の公家社会における立場の確立に貢献した。
応永25年(1418)11月17日、没。
享年61。
「諸人仰天、哀傷是非なし。」(『康富記』)
学問に通じていたとはいえ、足利家の御用学者の感が拭えないが、
そうとうできた人物であったらしく、
死後、ずいぶんなもち上げ方をされている。
「御才智世において勝れ、誉四海に及び給う。哀々。」(『康富記』)
「有職漢才等抜群、公家の鏡たり。
天下重臣、朝廷無人、尤も惜しむべし惜しむべし。」(『看聞日記』)
20日、雨中、東福寺にて葬送。
なお、藤原氏の氏寺興福寺では、翌18日、祭礼の後宴であったが、
経嗣死去の確報を得ていなかったため、猿楽等を催行しようとした。
だが、氏長者没直後の芸能について、田楽頭人たちが逡巡したため、
早めに切り上げている。
〔参考〕
『大日本史料 第7編之31』 (東京大学史料編纂所 2007年)
『国史大辞典 1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979年)
東京大学史料編纂所データベース
従一位、関白。准三后。
藤原氏長者。
一条経嗣は、二条良基の三男であったが、
一条家の当主房経が早世したため、
経嗣を房経の弟、すなわち一条経通の子ということにして、
一条家を継がせたのであった。
実父二条良基にひきつづき、足利義満の信任が厚く、
その才学をもって、義満の公家社会における立場の確立に貢献した。
応永25年(1418)11月17日、没。
享年61。
「諸人仰天、哀傷是非なし。」(『康富記』)
学問に通じていたとはいえ、足利家の御用学者の感が拭えないが、
そうとうできた人物であったらしく、
死後、ずいぶんなもち上げ方をされている。
「御才智世において勝れ、誉四海に及び給う。哀々。」(『康富記』)
「有職漢才等抜群、公家の鏡たり。
天下重臣、朝廷無人、尤も惜しむべし惜しむべし。」(『看聞日記』)
20日、雨中、東福寺にて葬送。
なお、藤原氏の氏寺興福寺では、翌18日、祭礼の後宴であったが、
経嗣死去の確報を得ていなかったため、猿楽等を催行しようとした。
だが、氏長者没直後の芸能について、田楽頭人たちが逡巡したため、
早めに切り上げている。
〔参考〕
『大日本史料 第7編之31』 (東京大学史料編纂所 2007年)
『国史大辞典 1 (あ-い)』 (吉川弘文館 1979年)
東京大学史料編纂所データベース
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人名索引
死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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没年 1350~1399
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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| 1431 | 1432 | 1433 |
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| 1450 | ||
| 1451 | 1452 | 1453 |
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| 1459 |
没年 1460~1499
没日
| 1日 | 2日 | 3日 |
| 4日 | 5日 | 6日 |
| 7日 | 8日 | 9日 |
| 10日 | 11日 | 12日 |
| 13日 | 14日 | 15日 |
| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
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| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
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| 30代 | 30歳 | |
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享年 40代~60代
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| 61歳 | 62歳 | 63歳 |
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本サイトについて
本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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