死に様データベース
《病死》 《1383年》 《3月》 《11日》 《享年45歳》
藤原氏北家閑院流の三条家の傍流正親町三条家出身。
三条西家の祖。
従二位、権大納言。
長患いをしていた権中納言正親町三条公時の容態は、
永徳3年(1383)2月18日ごろから一層悪くなり、余命いくばくもないものとなっていた。
将軍足利義満に頼んで、3月3日、権大納言に任じられ、
11日暁、卒去。
死に臨んだ公時は、「南無阿弥陀仏」を数百遍唱え、正念に住し、
眠るように息を引き取ったという。
享年は45とも46とも。
「虚損の所労」(『後愚昧記』)と言われている。
最期を看取ったのは、すでに71歳に達していた父の実継だった。
前内大臣実継は、たいした病気もなく健在だったが、
子に先立たれて、世間の同情を集めている。
公時は、将軍義満のおぼえもよく、
所領の面でも厚遇されるなど、
一門の富裕さは他を抜きんでていたが、
働き盛りの公時の死去により「彼一流衰微」(『後愚昧記』)と噂されている。
公時の亡骸は、
弟が住持をつとめる嵯峨の浄金剛院に運ばれた。
公時の跡目については、
後小松天皇から足利義満へ、混乱なく取りはからうよう命じられ、
11歳の嫡男実清が継いだ。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
藤原氏北家閑院流の三条家の傍流正親町三条家出身。
三条西家の祖。
従二位、権大納言。
長患いをしていた権中納言正親町三条公時の容態は、
永徳3年(1383)2月18日ごろから一層悪くなり、余命いくばくもないものとなっていた。
将軍足利義満に頼んで、3月3日、権大納言に任じられ、
11日暁、卒去。
死に臨んだ公時は、「南無阿弥陀仏」を数百遍唱え、正念に住し、
眠るように息を引き取ったという。
享年は45とも46とも。
「虚損の所労」(『後愚昧記』)と言われている。
最期を看取ったのは、すでに71歳に達していた父の実継だった。
前内大臣実継は、たいした病気もなく健在だったが、
子に先立たれて、世間の同情を集めている。
公時は、将軍義満のおぼえもよく、
所領の面でも厚遇されるなど、
一門の富裕さは他を抜きんでていたが、
働き盛りの公時の死去により「彼一流衰微」(『後愚昧記』)と噂されている。
公時の亡骸は、
弟が住持をつとめる嵯峨の浄金剛院に運ばれた。
公時の跡目については、
後小松天皇から足利義満へ、混乱なく取りはからうよう命じられ、
11歳の嫡男実清が継いだ。
〔参考〕
『大日本古記録 後愚昧記 3』(岩波書店、1988年)
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《誅殺》 《1318年》 《11月》 《24日》 《享年35歳》
前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。
さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。
綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。
御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)
清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
あや無く討ちてけり。
さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
さて拍子俄に異人承る。
大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
紙屋川三位顕香と言ふ人の、
此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
かかる事をせさせけり。
道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)
内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。
不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。
その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。
捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。
〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
前参議、従三位。
綾小路家は、宇多源氏の一流で、
代々、郢曲(宮廷音楽のうちの歌いもの)を家業とした。
さて、今回の一件は、渡辺あゆみ氏の専論に詳しいので、
それに拠りつつ見てゆこう。
綾小路家の当主信有の嫡男であった有時は、
文保2年(1318)11月24日に行われる、
後醍醐天皇の清暑堂御遊の拍子役を命じられていた。
清暑堂御遊とは、天皇の代始に行われる音楽行事であり、
雅楽を家業とする家の者にとって、最重要の儀式であった。
30代半ばの有時は、
楽家の跡取りとして、これまでのキャリアもじゅうぶんであり、
満を持しての大役、ということであったようだ。
御遊当日の24日の夜、
有時が、会場となる内野(大内裏の跡地)に到着したとき、
事件はおこった。
鎌倉時代の歴史物語『増鏡』には次のように書かれている。
(仮名は適宜漢字に改めた。)
清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾小路宰相有時と言ふ人、
大内(大内裏)へ参り侍るとて、車より降りられける程に、
いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る侭に、
あや無く討ちてけり。
さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。
さて拍子俄に異人承る。
大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、
紙屋川三位顕香と言ふ人の、
此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、
かかる事をせさせけり。
道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。(『増鏡』)
内野に入ったところで、牛車を下りようとしたところ、
屈強な田舎侍らしき人物が、太刀を抜いて走ってきて、
あっという間に有時をうち殺してしまった。
場所は、待賢門内とも郁芳門内とも、
有時は35歳とも36歳ともいわれている。
不慮の事件により、突如空席となってしまった拍子役に、
無慈悲な後醍醐天皇は、有時の弟で24歳になる有頼を当てようとしたが、
有頼は「悲歎」(『御遊抄』)により辞退し、
代わって参議中御門冬定がつとめることとなった。
その後、捜査が進められた結果、
従三位の紙屋川顕香という公卿が、
刺客を放った犯人である、とのことがわかった。
紙屋川顕香が有時の命を狙ったのは、拍子役を争ったため、
と、『増鏡』や『尊卑分脈』などは伝えているが、
顕香と有時とでは、雅楽界における経歴が比べものにならず、
とうていライバルにはなりえない、ともいう。
特に顕香は、公家のなかでも傍流の傍流に属する人物で、
故実に通じず、儀式での所作を間違えるなど、
公家社会では問題を起こす人物であったらしい。
有時とも、この直前に何らかのトラブルをおこしていたのではないか、
と推測されている。
捕えられた顕香は、武家に引き渡されて関東に護送され、
元亨元年(1321)8月付けで流罪となった。
〔参考文献〕
渡辺あゆみ「文保二年の綾小路有時殺害事件について」(『創価大学大学院紀要』32 2010年)
東京大学史料編纂所データベース
《事故死》 《1461年》 《5月》 《25日》 《享年19歳》
鶴岡八幡宮安楽院の若党。
寛正2年(1461)5月25日、
鎌倉鶴岡八幡宮の院家安楽院に仕える若党飯沼又太郎は、
何の用があったのか、由比ガ浜へ下りたところ、
海が荒れていたようで、波がしきりに押し寄せ、
再び岸に上がることができなかった。
溺死。19歳。
「哀しむものなり。」(『香蔵院珎祐記録』)
同僚や親類たちは、ふた時ほど小舟で捜索したが、
見つからなかったようで、
その後、法華経を書写して、安楽院で供養を行ったという。
〔参考〕
『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市 1981年)
鶴岡八幡宮安楽院の若党。
寛正2年(1461)5月25日、
鎌倉鶴岡八幡宮の院家安楽院に仕える若党飯沼又太郎は、
何の用があったのか、由比ガ浜へ下りたところ、
海が荒れていたようで、波がしきりに押し寄せ、
再び岸に上がることができなかった。
溺死。19歳。
「哀しむものなり。」(『香蔵院珎祐記録』)
同僚や親類たちは、ふた時ほど小舟で捜索したが、
見つからなかったようで、
その後、法華経を書写して、安楽院で供養を行ったという。
〔参考〕
『戸田市史 資料編1 原始・古代・中世』(戸田市 1981年)
《誅殺》 《1412年》 《5月》 《2日》 《享年不明》
大名山名時煕の中間。
応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。
右衛門三郎もその場で討たれた。
賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。
〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
大名山名時煕の中間。
応永19年(1412)5月2日、
日野資教の被官大宮某の宿所にて、
右衛門三郎が大宮氏の若党と、
「博奕銭」(『山科家礼記』)のことで口論となり、
殺害。
右衛門三郎もその場で討たれた。
賭け事は、いつの時代ももめ事を起こす。
〔参考〕
『史料纂集 山科家礼記 1』(続群書類従完成会 1967年)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 山科家礼記
《戦死》 《1441年》 《7月》 《28日》 《享年48歳》
周防・長門・豊前・筑前守護。
前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。
そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。
永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。
嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。
持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。
遺言に曰く、
その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
しかるに、存命せず。無念のことなり。
死骸においては、葬礼に及ばず。
早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)
在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。
赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。
大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。
〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
周防・長門・豊前・筑前守護。
前代の叔父盛見の横死後、
弟持盛との家督争いに勝利した大内持世は、
盛見が苦戦した九州の大友・少弐氏との戦いも有利に進め、
九州北部にも勢力を拡大させた。
そうして、九州や本国周防・長門での活動をメインにし、
いっこうに上洛せず、室町幕府に出仕しなかったことで、
一時、将軍足利義教の不信を買う。
永享12年(1440)、ようやく上洛。
京都政界での立ち回りも巧みにこなし、
義教との関係も修復に成功した。
火災で焼失してしまっていた京都の宿所も、
義教のはからいで、花山院南八丁町に新たに屋敷地を得、
宿所を新造したという。
嘉吉元年(1441)6月24日、
持世は、将軍義教に供奉して、管領細川持之や正親町三条実雅らとともに、
赤松教康亭での結城合戦戦勝祝いに参席。
その酒宴のさなか、
赤松の手の者たちが一斉に飛び出し、
将軍義教を殺害した。
宴席はたちまちに血に染まり、乱闘の場と化した。
管領細川持之らが逃げ帰るなか、
持世と京極高数は、抜刀して防戦、
重傷を負った。
持世のその後の容態は詳らかでない。
ひと月あまり経た7月28日、
未完の新造宿所にて絶命。48歳。
遺言に曰く、
その(事件の)時、(義教に)御供〈自殺〉奉るべきといえども、
大敵を亡ぼさんがため、おろかにも逃げ去りおわんぬ。
しかるに、存命せず。無念のことなり。
死骸においては、葬礼に及ばず。
早く掘り埋め、髪をもって九州の寺家に送るべし。
家僕においては、一人のこらず急ぎ播州に発向し、
赤松(満祐・教康)父子を誅戮すべし。
これ第一の芳志たるべし。 (『建内記』)
在国していた養嗣子教弘は、すでに播磨赤松討伐のため、
隣国備前まで進軍していた。
赤松の目標は、おそらく義教ひとりであり、
持世は完全に巻き添えであろう。
それゆえにか、恨み節はすさまじい。
大内氏は、
応永の乱を起こして討死した先々代の父義弘といい、
九州での合戦で戦死した先代の叔父盛見といい、
3代続けてまともな死に方をしていない。
〈参考〉
『大日本古記録 建内記 3』 (岩波書店 1968年)
藤井崇「持世期の分国支配」 (『室町期大名権力論』同成社 2013年)
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死因
病死
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
:病気やその他体調の変化による死去。
戦死
:戦場での戦闘による落命。
誅殺
:処刑・暗殺等、戦場外での他殺。
自害
:切腹・入水等、戦場内外での自死全般。
事故死
:事故・災害等による不慮の死。
不詳
:謎の死。
没年 ~1299
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| 1093 | ||
| 1095 | 1096 | |
| 1097 | ||
| 1103 | ||
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| 1212 | 1213 | |
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| 1230 | ||
| 1234 | ||
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没年 1350~1399
| 1350 | ||
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没年 1400~1429
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没年 1430~1459
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没年 1460~1499
没日
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| 16日 | 17日 | 18日 |
| 19日 | 20日 | 21日 |
| 22日 | 23日 | 24日 |
| 25日 | 26日 | 27日 |
| 28日 | 29日 | 30日 |
| 某日 |
享年 ~30代
| ~9歳 | ||
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本サイトは、日本中世史を専攻する東専房が、余暇として史料めくりの副産物を蓄積しているものです。
当初一般向けを意識していたため、参考文献欄に厳密さを書く部分がありますが、適宜修正中です。
内容に関するお問い合わせは、東専房宛もしくはコメントにお願いします。
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