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死に様データベース
《自害》 《1439年》 《2月》 《10日》 《享年42歳》


第4代鎌倉公方。


応永16年(1409)9月、
父満兼の死をうけて、足利持氏は鎌倉公方の座についた。
このとき12歳。


応永23年(1416)10月には、
重臣上杉禅秀・叔父足利満隆の叛乱に遭い、
命からがら鎌倉を脱出した。
3ヶ月後、室町幕府の助力を得て、ようやくこれを鎮めたが、
この経験がよほど応えたのか、
以後、危険因子の徹底弾圧にのりだしていく。
岩松満純、武田信満、榛谷重氏、小栗満重、山入与義、
宇都宮持綱、桃井宣義、佐々木基清、大掾満幹等々、
持氏に滅ぼされた関東の大名・国人等は数知れない。
こうした強硬な姿勢は、室町幕府の不信を招くこととなる。

幕府は、持氏の独断専行を抑止しようと、あれこれ介入し、
持氏も、そうした幕府のやり方に対して、強い態度で臨んだため、
両者の関係は、険悪から対立へとかわっていった。
関東管領上杉憲実の奔走や、穏健派の幕閣の制止によって、
持氏と幕府の全面対決は、辛うじて回避されていたが、
応永30年(1423)頃以降、
両者は、常に一触即発の状態であった、といっても過言ではない。
特に、正長2年(1429)に将軍となった足利義教と、持氏は、
互いに反目しあい、犬猿の仲であった。

永享6年(1434)3月18日、持氏は、
墨に血を混ぜて、「呪詛の怨敵を未兆に攘う」と認めた願文を、
鎌倉鶴岡八幡宮に奉納した。
「呪詛の怨敵」とは、将軍義教のことか。
人を呪わば穴二つ。

そして、持氏にとっては、
幕府との橋渡しをし、
たびたび持氏の暴走を諫止する上杉憲実の存在が、
徐々に疎ましくなってくる。


永享10年(1438)8月、
身の危険を感じた上杉憲実は、鎌倉を退き、分国上野に籠る。
持氏はすぐさま、憲実追討の兵を差し向け、
自身も武蔵府中まで軍を進めた。
しかし、
憲実の隠退を合図にしていたかのように、
幕府軍および奥州の幕府方の勢力が、関東へ押し寄せた。
8月28日には、朝廷より持氏追討の綸旨も出されている。

9月10日、箱根・足柄で両軍の戦闘が始まり、
箱根では持氏方が優勢であったが、
幕府軍は足柄峠を突破し、
9月27日、小田原へなだれ込んだ。


以下、軍記物『鎌倉大草紙』の記述に従って、
この永享の乱を見てみたい。

10月に入ると、
戦況の不利が、持氏方を動揺させる。
鎌倉留守居役の三浦時高が、鎌倉を放棄し、
千葉胤直も、持氏の陣を離れた。

そうして、
大した戦闘もないまま、持氏方はぼろぼろと崩れ、
11月2日、 持氏は、相模葛原にて降服。
ただちに、鎌倉浄智寺、ついで永安寺、
そして金沢称名寺に幽閉され、剃髪した。
鎌倉にて、持氏の寵臣たちの処断が済んだのち、
持氏は再び永安寺に戻された。

上杉憲実は、旧主持氏の助命を幕府に訴えたが、
持氏を目の敵にしていた将軍足利義教は、
憲実に、持氏の早急な処罰を厳命する。

年明けて、永享11年(1439)2月10日、
憲実方の上杉持朝・千葉胤直は、手勢を率い、
永安寺を囲んで、持氏に自害を迫った。
寄せ手と持氏近習たちの戦闘が起こる中、
自害。
42歳。

暴走の果てに、無謀な戦をしかけて、
自業自得のような気がしなくもないが、
持氏はこののち、京都において怨霊と化す。


そして憲実は、
君臣の道に背いて、主持氏を討ったことを、
激しく悔いたという。



〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
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《病死》 《1428年》 《正月》 《18日》 《享年43歳》


第4代室町幕府将軍。

至徳3年(1386)2月12日生まれ。
父義満の嫡子として、足利義持は、
応永元年(1394)12月17日、将軍となるも、
父の権威は未だ高く、
また父の寵愛を受ける弟義嗣の存在もあって、
その地位は不安定であった。

応永15年(1408)5月の義満没後、
ようやく権力の地歩を固めた。

その治世には、
後南朝の後亀山法皇の潜幸や、
飛騨国司姉小路氏・伊勢国司北畠氏らの叛乱、
義嗣の謀叛、
鎌倉公方足利持氏との対立等、
いろいろあったが、
細川満元・畠山満家ら幕閣にも恵まれ、
よくこれを収めた。

応永30年(1423)3月18日、
将軍職を嫡子義量に譲り、出家。
義量の早世後も、その後嗣を決めぬまま、
「室町殿」として君臨した。


応永35年(1428)正月、
義持は、三が日の予定を無事にすませた。
例年どおりの正月のはずであった。

正月7日、風呂場で尻のできものを掻き破ったためか、
義持は熱を出す。
9日、医師に診せ、大事ないと判断されたが、
傷跡は大きく腫れ上がっていたらしい。
10日、臣下に謁する予定であったが、
熱がひどく、延期した。
11日、評定始めの儀式には、無理をおして出席したが、
他人に手をひかれて登場し、
ほんの一時、顔を出したのみであった。
12日以降の予定も、延期したり、
また座ることもままならず、
寝たまま、形ばかりで済ませたり、という状況であった。

15日には、傷が腐りかけていたらしい。
16日、容体が急変し、
17日、いよいよ危うくなった。
管領畠山満家以下の幕閣が、
義持の護持僧で政治顧問でもあった三宝院満済のもとに集まり、
対策を講じた。
治療や祈祷のことなども議題に上ったが、
何にもまして最重要案件とされたのは、
未定のまま放置されていた、後継者のことであった。

義持の意向を確認する役となった満済が、御所へ赴くと、
義持は近習らを集めて、酒を与えているところだった。
別れの盃、末期の酒、といったところだろうか。
人払いしたのち、満済が意向をうかがうと、
義持は次のように語った。

  もし仮に実子があったとしても、後嗣を定めることはしない。
  実際には子もいないから、
  ともかく皆で話し合って、うまく取り計らえ。
  兄弟がいるから、そのうちから適性をもって決めればよい。
  弟4人からくじ引きで決めるのもよいが、
  自分が生きているうちは、決してくじを開いてはならない。・・・

義持が後継者について、
「たとえ指名したとしても、幕閣がその人を支持しないのであれば、
 なんら意味がない」(『建内記』)
と、語ったということは、
室町幕府論の中では、つとに有名な話である。

結局、
その日のうちに満済がくじを作成し、
山名時煕が封をして、
畠山満家が深夜、石清水八幡宮の神前でそれを引き、
義持没後に開封することとなった。

そして、その日(17日)の酉半刻頃(夜6時頃)、
義持は危篤に陥る。
言葉を発することも聞き取ることもできず、
人々の顔を見ても判らないほどの重態となり、
人々は咽び泣いた。
公家・武家・僧俗みな御所の辺りに群れ集まり、
京都市中は騒然とした状況となった。

病状は一夜もち耐えたものの、
翌18日巳半刻(午前10時頃)、義持はついに息を引き取る。
禅僧が沐浴を済ませ、床上に安置して、
人々が焼香した。
23日、荼毘。


死の当日、
管領畠山満家がくじを開き、
後継者は、青蓮院門跡の義円と決まった。
のちの6代将軍足利義教である。



〔参考〕
『続群書類従 補遺一 満済准后日記(上)』 (続群書類従完成会 1928)
伊藤喜良『足利義持 (人物叢書)』 (吉川弘文館 2008)
桜井英治『日本の歴史 第12巻 室町人の精神』 (講談社 2001)
《自害》 《1417年》 《正月》 《10日》 《享年不明》


関東管領。
犬懸上杉氏。実名氏憲。

禅秀上杉氏憲は、
隠遁した父朝宗の跡を受けて、上杉氏の一流犬懸家を継ぎ、
関東管領を務めるなどして、鎌倉府の政務を支えた。
若いうちは、
南東北の叛乱鎮圧軍の大将を務めるなどしているが、
あまりぱっとしない。


応永22年(1415)4月25日、
鎌倉府評定の場において、鎌倉公方足利持氏は、
禅秀の家臣越幡六郎を、何の罪もなく罰した。
禅秀が、これに怒って関東管領を辞すると、
持氏も、
「怒って関東管領を辞職するなど、上意を軽んじる行いだ」
と立腹し、山内上杉憲基を次の関東管領とした。

以上は、
軍記物『鎌倉大草紙』に記された、上杉禅秀の乱の要因である。

しかし、どうもそればかりではなかったらしい。
京都では、乱勃発当初から、
禅秀持氏の母を犯したとして、持氏禅秀を討伐しようとした。
 のちに濡れ衣とわかったものの、両者に遺恨を残した」
との風聞があった。(『看聞日記』)
政治的なものとしては、
関東管領を交互に務めた山内上杉氏・犬懸上杉氏の権力闘争、
足利持氏・山内上杉憲基と禅秀の、東国支配の方針をめぐる対立、
なども、要因としてあったかもしれない。
時を同じくして京都で起きた、足利義嗣逐電事件との連関も噂されたが、
真偽を確かめる術はない。


とにもかくにも、上杉禅秀は、
応永23年(1416)10月2日、叛乱を起こした。

鎌倉公方持氏の叔父で、野心家の足利満隆、
持氏の弟で、満隆の養子となっていた持仲
禅秀の舅武田信満、娘婿岩松満純・那須資之・千葉兼胤、
その他関東各地の大名・国人と結び、
鎌倉に兵を起こして、主人持氏と同僚憲基を急襲したのである。
瞬く間に、鎌倉中が戦場となり、
虚を衝かれた持氏は、防戦もかなわず敗走し、
小田原・箱根を経て伊豆へ、
さらに駿河へ逃れて、守護今川氏を頼った。
憲基も、伯父が守護を務める越後へ逃げ込んだ。

持氏・憲基らを駆逐し、満隆・持仲父子を新たな当主に推戴して、
禅秀のクーデターは、成功したかに思えた。

挙兵からひと月も経たない、10月29日、
室町幕府は、持氏の支援と禅秀の討伐を決定した。
これが、禅秀の誤算であったかどうかはわからない。
ただ、これより徐々に、状況は転回していく。

12月下旬、
ついに持氏・憲基の反攻が始まる。
持氏は、駿河方面より足柄をとおって、東海道を、
憲基は、上野方面から武蔵高坂・久米河を経て、鎌倉街道上道を、
鎌倉目指して攻め上ってきた。

怒涛の反攻軍を前に、
一転して苦しい防衛側となった禅秀軍であったが、
翌応永24年(1417)正月、
鎌倉間近の相模藤沢・飯田原、武蔵瀬谷原で、
3度ほど、敵軍を押し返したらしい。
しかし、それも空しく、
正月9日、態勢を立て直した持氏方と、
武蔵瀬谷原で再びあいまみえ、
敗れた禅秀・足利満隆らは、鎌倉に撤退した。
翌10日、
余勢を駆って、鎌倉になだれ込んだ持氏方に囲まれ、
雪下の鶴岡八幡宮別当坊において、
禅秀は、子弟や足利満隆・持仲らとともに自害した。
挙兵から3ヶ月と8日。


神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)には、
この乱で落命した「敵味方」の供養碑が建てられている。
禅秀の乱供養碑

なお、
このとき生き延びた禅秀の子息の幾人かは、
京都に上って、幕府の庇護を得、
幕府と鎌倉公方の対立の際には、
幕府軍の大将などとして活躍した。
なかには、
禅秀の死から、半世紀近くを経てなお、
その活動をしている者もある。
父の仇、反鎌倉公方の執念、恐るべし。



〔参考〕
『神奈川県史 資料編3 古代中世(3上)』 (神奈川県 1975)
『新編埼玉県史 資料編8 中世4 記録2』 (埼玉県 1986)
植田真平「上杉禅秀の乱考」 (池享編『室町戦国期の社会構造』吉川弘文館 2010)
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